
Cognigenesis Part-Ⅰ Part-Ⅱ Part-Ⅲ Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
Continue to next time “New edition”.
《連載》書外の呼吸譜
──外縁的記譜(perigraphic notation)
◯ 手記
『今の力』”潜勢”
『今の閾』”転位”
『今の場』”跳躍”
『今の種』”発芽”
『今の拍』”共振”
◯ composition
『思考と創造』の”合致”
『思考と創造』の”呼吸”
『思考と創造』の”余白”
『思考と創造』の”跳躍”
『思考と創造』の”生成”
◯ becoming
『潜勢的』”virtuel”
◯ Cognigenesis
『震源の閾』”threshold of genesis”
◯ pulsion
『思創考造』の”臨界”
◯ metagenesis
『思想・創造』の”媒介的生成”
◯ 予兆
『思創考造 Cognigenesis』の”発火”
Cognigenesis:『震源の閾 threshold of genesis』”
…….. 地の層──生成の保持と沈潜
呼吸が、深く沈みはじめる。
それは、落下ではない。
地が、内側へと拡がるような──
保持の運動である。
「地」とは、
ただ立ち上がる場ではなく、
呼吸の層が幾重にも重なり、
その記憶が沈潜していく場である。
思考が風を吸い、
創造が泥を踏むとき、
そのあいだに、
無数の層が生まれる。
それは、時間の堆積ではなく、
生成の厚みと呼ばれるものだ。
呼吸は、そこに留まり、
沈みながら聴く。
この“聴く”とは、
まだ形を持たぬ生成の声を受け取ること。
それは、沈黙のうちに
未来が胎動する──
音を聴く技である。
地の層は、呼吸の記憶によってできている。
吸い、保ち、間をつくり、跳び、満ちた──
そのすべての拍が、
層として重なり、
「いま」を支えている。
沈潜とは、忘却ではない。
むしろ、
保持することの中に潜む生成である。
呼吸が深くなるほど、
地はその奥で“次”を孕む。
わたしたちは、
その“孕み”の中に立っている。
まだ見えぬ未来を抱えたまま、
沈黙の層の上に立っている。
そこから、
またひとつの吸気が始まろうとしている──。
(間)
地の層 ── 生成の保持と沈潜
…….. 呼吸が、深く沈みはじめる。
それは、落下ではない。
地が、内側へと拡がるような──
保持の運動である。
「地」とは、
ただ立ち上がる場ではなく、
呼吸の層が幾重にも重なり、
その記憶が沈潜していく場である。
思考が風を吸い、
創造が泥を踏むとき、
そのあいだに、
無数の層が生まれる。
それは、時間の堆積ではなく、
生成の厚みと呼ばれるものだ。
呼吸は、そこに留まり、
沈みながら聴く。
この“聴く”とは、
まだ形を持たぬ生成の声を受け取ること。
それは、沈黙のうちに
未来が胎動する──
音を聴く技である。
地の層は、呼吸の記憶によってできている。
吸い、保ち、間をつくり、跳び、満ちた──
そのすべての拍が、
層として重なり、
「いま」を支えている。
沈潜とは、忘却ではない。
むしろ、
保持することの中に潜む生成である。
呼吸が深くなるほど、
地はその奥で“次”を孕む。
わたしたちは、
その“孕み”の中に立っている。
まだ見えぬ未来を抱えたまま、
沈黙の層の上に立っている。
そこから、
またひとつの吸気が、
始まろうとしている──。
(間)
「沈黙の中の生成」が、
まるで──大地の内部で、
呼吸しているかのように……..
Ⅰ 思想的解釈──「保持としての生成」
冒頭の「呼吸が、深く沈みはじめる。
それは、落下ではない。
地が、内側へと拡がるような──保持の運動である。」──ここで言われる「沈潜」とは、下降運動ではなく「内的拡がり」のこと。つまり、“動的な静止”です。これは、生成=出現を“保持”の方向から見直す転倒です。
一般に生成は外向的であり「立ち上がり」として語られますが、ここでは逆に
「保持のうちに潜む生成」──つまり「沈黙のうちに起こる出来事」として再定義されています。この“保持”とは、記憶や蓄積ではなく、潜勢の保存。
生が“次”を孕むための「静かな充満状態」であり、
それゆえ「地の層」は、時間の堆積ではなく「生成の厚み」なのです。
Ⅱ 身体的解釈──「呼吸と沈黙の身体」
「呼吸は、そこに留まり、沈みながら聴く。」
──この“聴く”とは、まだ形を持たぬ生成の声を受け取ること。呼吸が深まるとは、肺が膨らむことではなく、「身体が聴く器」になること。
呼吸=知覚の拡張です。「聴く」という語が鍵です。
聴くとは、意識が沈黙の深度へと沈む運動。
そこで初めて、“まだ形を持たぬ生成”──言葉になる前の息づかい──が感じ取られる。この段階で、身体はすでに“外界”を媒介せず、
場の一部として呼吸している。
だから「地の層は、呼吸の記憶によってできている」。
身体は大地の呼吸そのものの一部となる。
Ⅲ 生成論的解釈──「未来を孕む地」
「沈潜とは、忘却ではない。
むしろ、保持することの中に潜む生成である。」──この詩句は、「生成とは更新ではなく、保持そのものが生成である」という転倒を成しています。
“保持”は停滞ではなく、「次を孕む」状態──
すなわち未来を胎内に含む現在。ここでいう「地」は、
生成の循環が一度沈み、次の生成を内包する「中動的な間」です。
それは「呼吸が止まる」のではなく、「呼吸が深く聴く」瞬間。
次の拍が始まる直前の“満ちきった静けさ”です。だからこそ最後の一行、そこから、またひとつの吸気が始まろうとしている──。この一息は「再生」ではなく「継承」。
過去の層を孕んだまま、未来を呼び込む吸気。
つまり、“呼吸の記憶”そのものが生成を持続させる。
Ⅳ 全体像──生成の垂直軸としての「地」
この詩全体は、「呼吸する書」が横に拡がる(風・場・行為)前に、
まず縦に沈む=「vertical axis of breath(呼吸の垂直軸)」を形成する瞬間です。それは、「思考の風」=上昇・拡散、「創造の地」=沈潜・保持、「呼吸」=それらを結ぶ垂直的媒介、という三重構造を確立しています。この「地の層」は、思創考造全体の“低音”──
呼吸の奥行きを支える生成の低周波です。次にこの層をさらに掘るとすれば、
「地の記憶」「沈黙の胎動」「未来の保形」などの方向に展開できます。
それは、「地が孕む“次”」をどう受け取るか──
呼吸=聴取=生成の倫理的・詩的次元に入る地点です。「地の記憶──生成の保持が未来を孕む」を、
“沈潜から胎動への移行”として示することも可能です。
一行一行が──まさに「地の層」の内部リズムをそのまま“呼吸”として再構成しています。
この一連の流れは、“生成の運動”を「上昇」ではなく「保持=内的充満」として描く哲学的転位なんです。「地の生成構造」四層図において、少し整理しつつ、これらを把握するならば、ほぼ“地”の中核構造そのものに到達します。
①:保持(Retention)
=潜勢の保存
→ 現在の中に潜む「未だ現れぬ生成」。
→ これは時間的ではなく、“存在の厚み”としての現在。
②:沈潜(Submergence)
=聴取としての身体
→ 呼吸が深まり、世界を「聴く器」となる。
→ 外と内の区別が溶け、場が身体の中で鳴る。
③:胎動(Gestation)
=未来を孕む現在
→ 沈黙の中で、まだ言葉にならない“次”が蠢く。
→ 呼吸の静止ではなく、「深く聴く」ことで生まれる鼓動。
④:継承(Continuation)
=呼吸の記憶による生成の持続
→ 一息ごとに、過去が未来を孕みながら更新される。
→ 生成は“更新”ではなく、“保持の継承”。
哲学的に言えば──この構造は、「ベルクソン的時間(持続)とハイデガー的存在(現成)」の接点に位置しています。
「地」は“基盤”ではなく、“潜勢的生成の媒体”です。生成は「前進」ではなく、「深まり」。
その深まりの中で、未来は外から来るのではなく、
すでに現在の中に孕まれている(未来-in-現前)。したがって──「沈潜とは忘却ではない。保持の中に潜む生成である」
という一節は、存在の呼吸論的定義なのです。詩的に言えば──「地」は眠っているのではなく、“深く呼吸している”。
その呼吸の中に、過去の層(記憶)と未来の胎動(可能性)が重なり、
現在という一瞬が、無限に厚みをもつ。そして、「吸気」は過去の否定ではなく、“継承の息”。
それゆえ、「再生」ではなく「継承」。次の展開へは──ここから自然に流れるのが──「地の記憶──生成の保持が未来を孕む」というテーマ性となります。方向としては──「沈黙」→「聴取」→「胎動」→「記憶」という連鎖、呼吸の深度が“垂直軸”として確立された後、
その軸が「時間的記憶=未来への媒介」となる。つまり、「地の層」で確立された「vertical axis(深度)」が、
次で「temporal axis(継承・孕み)」として開かれていくのです。
ここで扱っている「地」と「潜勢(virtuel)」の結合は、『思創考造 Cognigenesis』全体の“生成論的地盤”=Becoming の臍に相当します。
1.-「地=聴く場」──生成の受容
地とは、単なる物質的基盤ではなく、
「生成が聴かれる」場所=潜勢的出来事が触知される界面。ここでは、思考も創造もいったん沈黙し、
呼吸が“聴取”という形で存在に耳を傾ける。
それは、すでに起こったことではなく、
起ころうとしていることに耳を傾ける技。この「聴く地」は、「生成の“前=潜在”の相(virtuel)」を保持する。
存在の“まだ起こっていない層”を、沈黙の中に孕んでいるのです。
2.-「保持=生成の聴取」──時間の反転
通常の時間感覚では、過去は終わり、未来はこれから来る。しかし、「地の保持」はその時間構造を転倒させます。保持とは、「過去を閉じることではなく、
過去を未来へ孕ませる“中動的な現在”」です。したがって─「保持」は“停止”ではなく、「
潜勢が保たれる状態=becoming」の胎内。
呼吸の深まりが、この胎内的生成(潜勢の保存)を開きます。
3.-「沈黙=厚み」──現実の外縁にある潜勢
沈黙は「無言」ではなく、「声の前夜」です。すなわち─言葉になる直前の生成的ざわめき。
そこには、現実の外縁で蠢く「潜勢的存在(l’être virtuel)」が息づいています。沈黙の厚みとは、「無の静止」ではなく、
無限の可能性が、まだ形を取らないまま共鳴している状態。
この“厚み”が、地の層における生成の記憶として沈み、
未来を孕むための母胎となります。
4.-「潜勢的(le virtuel)」と「Cognigenesis(自己生成の震源)」の連動
ここが非常に重要です。
「潜勢的(virtuel)」は静止した可能性ではなく、
生成の“予振”=震源前の振幅です「Cognigenesis(自己生成の震源)」は、
まさにその潜勢的層が閾値を越えて発火する瞬間。
地の層で“保持された潜勢”が、
呼吸の深度を通じて“起動(actuation)”する場面です。言い換えれば──「地」は潜勢を保持する場、
「呼吸」はその潜勢を起動させる運動、
『Cognigenesis』はその臨界における“生成の火”。
5.-「地の記憶──生成の保持が未来を孕む」
──自然な接続
この次に展開される「地の記憶」は、
沈黙の層が「“潜勢の保存庫”=未来の胎」であることの開示です。ここで初めて、「呼吸=垂直軸(vertical axis of breath)」が
「記憶=時間軸(temporal axis)」へと変換され、
『思創考造 Cognigenesis』全体の運動が「時間の生成論」へと移行します。
「潜勢的(le virtuel)」→「Cognigenesis(自己生成の震源)」の発火。『思創考造 Cognigenesis』全体の[核心的跳躍点=震源の閾(threshold of genesis)」です。
つまり、「潜勢的(le virtuel)」という沈黙の場が、
「Cognigenesis(自己生成の震源)」という発火の場へと移行する。ここで起きているのは、単なる「可能性が現実化する」プロセスではなく、
「潜勢そのものが、自らの内部から発火して“現実をつくり始める」という転回です。
これが──まさに『思創考造 Cognigenesis』における「生成の哲学的実験」なのです。
1.- 潜勢的(le virtuel)
──「まだ起こっていない現実」
ここでは、“起こる可能性”ではなく、“すでに孕まれている出来事”が沈んでいます。
それは、すでに世界の内部に含まれながら、
まだ形を持たず、まだ名を持たない。
「地の層」=保存と聴取の場がこの潜勢を抱えている。
呼吸がその深みに沈むとき、
聴取=「まだ起こっていないものを聴く」状態が開かれる。
2.- 閾(しきい)
──聴取が発火に転ずる瞬間
「保持」の状態が飽和すると、
“次”が胎内で脈打ち始める。
この瞬間、「聴取」は「震え」へと変わる。
それは知覚ではなく、存在そのものの微細な振動。
ここで呼吸が垂直軸を貫通し、地の沈黙が光を孕む。
この臨界が──「Cognigenesis(自己生成の震源)」です。
3.- Cognigenesis(自己生成の震源)
──潜勢の発火
「潜勢的なもの(le virtuel)」は、
外部からの刺激ではなく、内的な過剰によって発火する。
つまり──存在が自らを孕みすぎることによって“生まれてしまう”。
それが「生成」の原初的火花。ここでは、「思考」と「創造」がまだ分かたれていない。
呼吸と声、沈黙と響き、保持と発火──
それらが同一の中動的運動として共振している。
したがって──「潜勢的(le virtuel)」=「沈黙する生成
Cognigenesis(自己生成の震源)」=「叫ぶ沈黙」、とも言えるのです。この発火点を、『思創考造 Cognigenesis』では
──「地の記憶」→「胎動」→「生成の実地」へと展開できます。
…….. 沈黙の底で、
光が胎動している。
聴くことは、
もはや受け取ることではない。
聴くことが、発火である。
いま、地が息を孕み、
その深層で、
未来がひそかに脈打っている。
生成は、更新ではない。
保持が、すでに生成である。
その保持が飽和するとき、
潜勢は、自らの内部で爆ぜる。
──Cognigenesis。
呼吸が沈黙を突き抜け、
沈黙が呼吸を貫く。
その交点が、
生成の震源である。……..
このトーンを軸にして、
「地篇:呼吸する地平──生成の実地」から
「Cognigenesis(自己生成の震源)」への連続的跳躍が描かれるというわけであり、すなわち──この「発火」=『潜勢の発火──Cognigenesis の臨界』の展開となるわけです。「潜勢」そのものが、自らの内部から発火して「現実をつくり始めるという転回──これがまさに『思創考造 Cognigenesis』における「生成の哲学的実験”」であることは、その一点こそが、
『思創考造 Cognigenesis』全体の「”自己生成の閃光”=Cognigenesisの瞬間」なのです。「潜勢そのものが、自らの内部から発火する」──これは、哲学的には「潜勢(le virtuel)」が
現実(l’actuel)へと“変換される”のではなく、
潜勢が自らの内部に“過剰”を孕み、
その過剰によって自己を震わせ始めるという構造転換であり、つまり──「可能性が実現する」のではなく、
「潜勢が自己を生み始める」。「思創考造における”生成の哲学的実験”」──『思創考造』は、思考を単なる分析的行為としてではなく、
生成する運動そのものとして思考しようとする試みです。したがって──この“発火”は比喩ではありません。
それは「生の現場において起こる哲学的出来事」であり、
思考そのものが創造へ、創造そのものが思考へ転じる──
その中動的な震え、呼吸、閾こそが『思創考造 Cognigenesis』です。この「転回」が意味することは、「潜勢的なるものは、外から触れられて開くのではなく、
内から自己を孕み、自己を超える。」「生成とは創出ではなく、発火であり、保持・沈潜・沈黙の厚みが飽和するとき、
その「静けさ」自体が次を呼ぶ。」「思考は生成的であり、思考の行為そのものが現実を構築していく。」「潜勢が潜勢であることに耐えきれなくなった」とき、
それは「自らを超えて”出来事”となる。」──
その瞬間、「思考は創造となり、創造は思考となる。」これが、『思創考造 Cognigenesis』の震源=哲学が「生」に変わる瞬間である。
「潜勢→発火→生成」への転回=
「潜勢の発火──Cognigenesis の臨界」であり、
それは「沈黙の厚みが自らを燃やす瞬間」であり、「
地から火へ」の移行にもなります。「潜勢→発火→生成」への転回を、「潜勢の発火──”Cognigenesis”の臨界」としてみると、「Cognigenesis の臨界」とは何か? ということになる。まさにその一点です──「Cognigenesis の臨界」とは、
単に生成が“始まる瞬間”ではなく、
「潜勢そのものが自らを超えて発火し、
“思考と創造の区別”が消失する閾(いき)」のことです。「概念的定義:Cognigenesis の臨界」とは、「潜勢(le virtuel)」が、自らの内部の過剰によって“生成”に転ずる瞬間──それは、内在的な熱=呼吸の圧が、
“思考”と“創造”の境を越えて、
新しい現実(l’actuel)を自発的に呼び起こす閾値である。
① 潜勢(Potential / le virtuel)
沈黙・保持・聴取・胎動。
「まだ現れていないが、すでに潜んでいる生成の場」。
ここでは、思考も創造も未分化の胎域として共在する。地が沈黙を孕む。
呼吸が、聴取へと変わる。
② 発火(Ignition / Cognigenic spark)
潜勢が飽和する。
“まだ”でありながら、“すでに”という
二重時間(double temporality)が極限まで圧縮され、
そこから生成が“自らを生み出す”。沈黙が、熱を帯びる。
聴くことが、創り出すことに転ずる。「地の記憶」が、「火の現前」へと閃く。
③ 生成(Becoming / L’acte)
この段階では、「思考」は「生成的思考」へと変わる。
思考は外界を説明するものではなく、
世界そのものを更新する行為となる。生成とは、創造の出来事であり、
その創造とは、思考の呼吸である。
ならば──「臨界」とは何か?臨界(criticality)は「境界」ではなく、
両義が共鳴しながら入れ替わる“中動的なゆらぎ”の状態です。
それは爆発ではなく、「生成の相転移」。
…….. 潜勢の発火は、
破壊ではなく“転位”。
潜む力が、方向を変えて流れ出す。
それが──
「Cognigenesis の臨界」である。……..
…….. 呼吸が深みに達したとき、
そこに熱が生まれる。
それは外から加わるものではなく、
──「潜勢」そのものが、
“自らを聴き、燃やす”瞬間。
その燃焼が、世界を再び始める。……..
この「Cognigenesis の臨界」──
それは「地の保持」から「火の発火」へ──
すなわち、「生成の転位点」を言葉として立ち上げる試みとなります。
まさに「大地に息づく哲学」としての呼吸の根源的問い──「“呼吸”とは何か?
思考と創造にかかわり“呼吸”とは何か?
生成にかかわり“呼吸”とは何か?
そして“その拍”とは何か?」──これこそ、『思創考造 Cognigenesis』全体を貫く“生命律(いのちのリズム)”の問いそのものです。
Ⅰ. 哲学的側面:呼吸とは「差異と共在のリズム」
呼吸とは、内と外が交わりながら、互いを維持し合う差異的共在の運動です。吸うことは「外界を内に迎え入れる」行為。
吐くことは「内界を外に開く」行為。
この往還こそが、「存在の構造」をつくり出しています。したがって──呼吸とは、主体と世界を隔てるものではなく、そのあいだ=媒介の現象そのもの。
呼吸によって、思考は他者と触れ、世界は〈私〉の内部に生成する。
このとき思考はもはや「概念」ではなく、「生きた交換(exchange)」の形を取ります。呼吸=差異のなかに成立する共在のリズム→ 哲学とは、この“差異の往還”を聴く技芸である。
Ⅱ. 思考と創造にかかわる呼吸:
呼吸は、「思考」と「創造」を結ぶ転位の拍です。吸気(inbreath)──思考の始動。世界の声を聴き取り、沈黙の奥で「問い」が芽吹く瞬間。→ 思考は吸う。呼気(outbreath)──創造の始動。内に芽吹いた問いが形象として外界に顕現する。→ 創造は吐く。そのあいだにある「臨界拍(midbreath)」こそ、「思考が創造へ転位する瞬間」──すなわち『思創考造』が自己生成(Cognigenesis)を起こす臨界場です。呼吸は、思考と創造を結ぶ“媒介”ではなく、両者を変換する“転位の運動”。
Ⅲ. 生成にかかわる呼吸:
生成とは、呼吸の出来事化。生成は「何かをつくる」ことではなく、
「何かが起こる」こと。呼吸のように、主体的でも他者的でもなく──
“あいだ”が動くことそのものが生成です。呼吸のリズムにおいて、
生は絶えず「内と外」「潜と顕」「思と創」を往還しながら、
そのつど“場”を立ち上げます。呼吸=生成の拍。
生成とは、「呼吸のように起こること」。
Ⅳ. 「拍」とは何か──“生成の時間構造”
吸気(inbreath)という呼吸相は、「受容/潜勢」の哲学的位相であり、思創考造的作用は「思考の発芽」として、「風」を比喩的元素とします。臨界(midbreath)という呼吸相は、「転位/共振」の哲学的位相であり、思創考造的作用は「思創考造の跳躍」として、「水」を比喩的元素とします。呼気(outbreath)という呼吸相は、「顕現/実地」の哲学的位相であり、思創考造的作用は「創造の行為」として、「地」を比喩的元素とします。この三相の拍動が「生成のリズム(breath rhythm)」を形成し、
『宝珠篇』ではそれが詩的呼吸として表出し、
『実地サイクル』では実践的・地平的呼吸として体現されます。「拍とは、生成の一呼吸」であり、
「呼吸とは、生成の一拍」である。
両者は互いを生成し合う。
Ⅴ. 結語:「呼吸する哲学」へ
『思創考造 Cognigenesis』において呼吸とは、思考でも創造でもない、そのあいだを生きる力。
哲学とは、
この呼吸のリズムに耳を澄ませ、
そこに生の拍を見出す試み。そして──その拍が、
「実地サイクル」において大地の呼吸として立ち上がる。思考でも創造でもない、そのあいだを生きる力。──これこそが『思創考造 Cognigenesis』が最初から探し求めていた「根源呼吸(root breath)」です。「思考」と「創造」のどちらかに寄らず、
両者の「間(あわい)で拍動するもの。
それは「まとめる」ことができないのではなく、
むしろ「まとめてしまっては消えてしまう」──”生成の出来事”なのです。
……..呼吸」とは、
思考がまだ名を持たぬとき、
創造がまだ形をとらぬときに、
そのあいだで脈打つ、
いのちの律(りち)」である。
吸うことは、世界に触れること。
吐くことは、世界に渡すこと。
そのあいだに生まれる、
わずかな「沈黙」。
そこに「生成」は起こる。
呼吸は、
考えることと創ることを
、
ひとつに結ぶ。
けれど、結ぶのではなく、
互いを変えてしまう。
思考は呼吸のなかで変容し、
創造は呼吸のなかで芽吹く。
そして、呼吸そのものが
。
ひとつの“哲学”になる。……..
「Cognigenesis の臨界」というテキストは、読むというよりも、
「内部の熱として“聴かれる”」ものです。
文字の意味ではなく、
そのあいだに孕まれる「圧」や「転位の気配」を
、ゆっくりと感じ取るのが最も自然な読み方です。時間をかけて沈潜し、
呼吸が深まるほどに、
言葉が言葉でなくなる地点──
そこに「発火」の微光が見えてくると思います。ゆっくりと「潜勢の熱」に身を委ねてみることです。言葉の奥で呼吸している熱に耳を傾けてください。読解ではなく、共振として。
静かに、内へ、そしてさらに内へ──
「潜勢」が、緩やかに発火するその瞬間を、ただ見守るように。深い呼吸とともに、、、、、
余白
書外の呼吸譜
──外縁的記譜(perigraphic notation)
“書かれた書物”の内部に閉じない「余白の呼吸」。それは作品の外でなお鳴り続ける拍動。
読者が頁を閉じても尚、「言葉の外」で呼吸が続く、外郭に漂う音楽的・生成的残響。『思創考造』という思考体が「胎動篇 → 実地サイクル → 共鳴篇」と進んでゆくなかで、
始まりからこの間の「呼吸譜(胎動から共鳴へ)」をそのどこにも直接は属させない。しかし、全体を包む「潜勢の火(背景の呼吸)」として配置。無署名の詩、静かな挿話──あるいは章間や間章に滲み出す「透明な余白」。本文世界の「境界=外縁」に書き込むことで、読者の〈あなた〉が「終わりではなく、始まりの余白」として“呼吸を引き継ぐ”ように。書は閉じるが、呼吸は終わらない──”書物全体の外呼吸的装置”、言葉は沈黙するが、沈黙が新たな生成を孕む。まさにこれが、“書外の呼吸譜”──『思創考造』という生きた思考体の「外呼吸」。「胎動・・・跳躍・・・共観・・・再燃・・・余白の終止符──あるいは新たな始まり」「火は息であり、息は世界の記憶」
これこそが、まさにその「外呼吸」のためにあるといえる。本書『思創考造』全体の最外縁部=外呼吸領域に配置──本文世界(概念・構造・生成)の外側で、「呼吸」そのものを再開する“装置的余白”。書を閉じた後、読者〈あなた〉が「思考する身体」を再び呼吸へ戻すための共鳴場──書内で展開された「胎動―跳躍―生成―共観―再燃」のリズムを、書外で再度“息づかせる”ための媒介的詩譜。象徴されるのは、「胎動=沈黙の呼吸(地)」「跳躍=火花の転位(火)」「共観=風の共鳴(風)「再燃=水の反映(水)」「余白=空の生成(空)」──五元素的呼吸構造(地・火・風・水・空)の外側に在る呼吸=書外呼吸(無)。ページを閉じる手の呼吸が、そのまま「次の生成」への一歩となるように──読後の沈黙こそが、“次なる思創考造”の始動点。
記譜
始まりからの呼吸譜──「胎動から共鳴へ」
…….. 呼吸は深く沈み、
思考と創造はまだ分かたれず、
ただ一つの拍動として──
空無に脈を打っていた。
火花はまだ光らず、
律動は胎内の闇に潜み、
名なき力だけが震源を孕んでいた。
胎動は、沈黙のなかに息づき、
跳躍は、まだかすかな光として
──
その余白に影を落とす。
やがて、
問いが息を得、
息が世界を呼び覚ます。
共観──響きの風景のうちで、
我と世界のあわいが──
ゆっくりと燃え始める。
再燃──
潜勢としての過去がふたたび熱を帯び、
他者と世界がひとつの呼吸を共有する。
そして今──
余白の終止符が静かに響く。
それは終わりではなく、
始まりの余白。
火は息であり、息は世界の記憶。……..
記銘
書は閉じるが、呼吸は終わらない。
沈黙は、新たな生成を孕む。
余白
『潜勢的(virtuel)』なものは、
現実には存在しないが、
”現実を「生成(Cognigenesis)」する”──
「可能性を秘めた潜在的な力」。
(あるいは現実そのものの根源的な状態)
“virtuel(Potential)” things do not exist in reality, but they are “latent forces” that have the potential to “Cognigenesis(generate)” reality.(Or the fundamental state of reality itself.)
『思考と創造』を──
「媒介的生成(metagenesis)」へと導こう!
Leading thought and creation to metagenesis!
「生成の”火”」がいかにして、
「世界と関係を結び」
『思考と創造を媒介的生成(metagenesis)へと」
──導くか、
つまり「生成の”火”の構造」としての──
『思創考造 Cognigenesis』を、
一歩ずつ明らかにしていくことです。
How does the “fire of creation” “connect with the world” and “lead thought and creation to metagenesis”? In other words, we will clarify step by step the “structure of the fire of creation” – Cognigenesis.
余白