2月:あヽのよろし

 

 

 

 

待ち望んで漸く1年経った何事もするにとっても良い月 ” 麗月 ” 。
この世は何事も「 お互い様 です 」とした方がいいんじゃないかな。
50/50 の fifty-fifty に甘い罠があるわけじゃぁなく、賞賛に値する価値がある。
選択肢はあるにしても人の欲求は変わらず互いに同じ事を望んでいる。
何につけても余程の半分半分という五分五分は ” 精神的によろし、とても素晴らし ” 。
二つのものの間に差や開きもなければ優劣や多寡もない丁度よい程度の「 お互い様 です 」をもってすれば、何よりも潜在的な発展の可能性を秘めた良きにつけ悪しきにつけ ” 機(潜在的可能性)” による力能の発現へと向かうことができるというものさ。
余裕こそが酸いも甘いも嚙み分けることのできる人だけが持つことのできる力であり、できるだけ力の入れ加減は100%ではなく、お互いに50%づつにして余地を残すことだ。

 

 

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1月:生む月

 

 

 

 

一新、開けてゆくことへの期待。
思い通りを追求してゆけば閉じられゆくことになり、その先に本当の安心はないはずだ。
自分に生きる思い通りを追求する生き方を破りさえすれば、自分を生きる生き方によりものの見方や考え方が開けるはずだ。
自らの思いや考えに閉じ籠っている在り方を開いてゆく働き ” 開化(かいけ)” 。
改め、思い込みの解き放し方や執着の手放し方を見出してゆけば未来を予感させ、全てが開いてゆくように見える。
それは自らの心をコントロール(制御)することでもあり、これまでの生き方を問い直す契機かもしれない。
開けるとは、決して自らの思い通りを追求してゆくことではないはずであり、自分軸を持って思い通りに行動できればできるほど高まる自己肯定感(効力感)や自信は果して本当のものなのだろうかと問われると、単純に肯定も否定もできないないだろう。
ものの見方や考え方の視点は自分軸と他人軸との相違が得てしてあるからには、思い通りを追求するのではなく、思う通りにならない心(意地)を生じさせることなく、関連がある他人軸をも見て取り擦り合わせ、自分軸にあるであろう思い込みや執着に気づき学ぶことが重要だ。
全ては「 学ぶ意欲」によってはじめて、ものの見方や考え方の全ては開けてゆくはずであり、未知の世界に対処する知恵が未来にとって必要だ。

 

 

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12月:目の当たりにして祝う

 

 

 

 

すべき事を成し終え、生む月(初月)前のその結果、歳極(としきわ)” 極月(きわまりづき)” 。
物事を積極的にやろうとする気持が溢れた意欲的なる萬事為果の仕果(しは)つ月。
四季の果てる四極(しはつ)月を意する事なく、気随気儘な振る舞いによって度を越えた物事をすることもないし、程度が甚だしく散散なことして持っていたものをすっかりなくして使い果たしたということもない。
生む月(初月)を目の当たりにして仕終えることで新春を迎えるムード漂う歳極(としはつ)に ” 予祝(よしゅく)” もいいだろう。
本来は半年前に種を蒔く芒種の時節で大仕事を仕終えた皆仕月(みなしつき)の予祝だが、縦しんば並外れている余程の事情があって止むを得ずではなくてもこの予祝 、うむ月(初月)前の善く善く能く能く念を入れずとも、楽しみや面白みというものに十分に気が乗れば、専ら意欲的に毎年の年末年始でも毎月の月末月初めでも毎日の毎晩毎朝であってもいいかもしれない。

物事を積極的にやろうとする気持が溢れているのであれば、奇瑞(きずい)を求めることもなく、未来の姿を先に喜び祝ってしまうことで現実(未来)を引き寄せるこの予祝。

予め(あらかじめ)期待する結果を模擬的に表現すると、その通りの結果が得られるという。

夢が叶う前に先に喜んでしまう無敵な楽しさ、困ったときでなくても予祝。

今の気持ちが未来をつくる真っ盛り、挑戦は続く野望は道半ば、夢が叶う前に先に喜んでしまう無敵な楽しさだ。
眠る目の夢見は刺激で覚醒するが、覚醒時に刺激がなければ現実(未来)は夢に等しい。
奇跡を起こすなら、何事も惚れ惚れとして自分の楽しく面白いを掘り下げて自らを刺激することだ。
覚醒時に積極的に自らを刺激さえすれば行動又は直感(直観)は、いつしか自ずと促進するだろう。

 

 

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11月:こころ組み

 

 

 

 

秋と冬の境目 ” 辜月(こげつ)” 。
食物月として収穫を感謝するのもいいが、雪待月の霜降る先々凍りつく前に叫ぶ辜月。

暢月に暢気として守株的なものに弛んで駄目になった古いものへの思い込みに惑わされず有吐故納新(欲革故取新)、思いっ切り古きを吐き出し新しきを積極的に取り入れる意思を持ってもいいだろう。
不易流行などと格好付けずに陰を知れば陰に生むものが有り、古き盛りに衰えたるを気づき、陽としていかにも浮々と、やがて革め新しきを欲して心花めくことだ。

竜潜月に自分の才能や個性または業績などに自信を持ち、他の人によって自分の優越性や能力が正当に評価されることを求める気持をもとうが積極的に打って出ることをせずに隠れていようが、自らが独り占めだとしても自らが世界にどう映っているかわからない 。
品位ある態度を崩すまいとして遍く可能性を顧慮しないと偏り歪み解釈を見誤る。
人間は何でも” ちょっかい ” を出したがるのだが、特に思い込みのバイアスにまみれた人は環境や運によって得られたにすぎないプライドというものを、生かすか、生かせないか、余計な手出してチョット掻いては貪る。

人は実力によって自らが選んで得られるのが合理的なプライドなのだが、人間はプライドに取り組む前になると、かねてから積極的な心の用意はし難い。
プライドをいうものを、天正にして思い込みで持つか、暢気にして忘れるか、風寒にして傷つけ傷つけられるか、陽復にして無駄な邪魔で捨てるか、竜潜にして隠し表へ出さないか、いずれにせよ過剰に合理へ寄ってしまうと本質から掛け離れてしまう。
人間はプライドがどのように傾いたとしても向上心を持てるわけではないので、人はプライドに適度な向上心を備えるべきかもしれない。

 

 

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10月:平らであること

 

 

 

 

” 神の月 ” 神無月。
神が居ても居なくても、願うまでもなく堪能し尽くす実りの醸成月(かみなし月)。
自らが十分に飽き足りぬことなくまで醸成として物事の状態や気運などを徐々につくり出そうとしても、自分の認識が他者(相手)と合っていなければ思いもよらぬところで支障が発生したり物事が停滞してしまうことがあるだろう。
自分の今ある状態や周囲の状況などを認識できている状態である自らの意識は、ややもするとそうであろうとして自らの心の中で見当をつけた当て推坊(あてずっぽう)の推量であったり、ともするとそれとなく自らの心あてに心頼みとした欲望の期待であったり、少なからず人は得てしてそのような傾向になりがちだ。
思い込みや見込みに惑わされて先を読まずに思考を停止してしまったかのように誰(た)そ彼(かれ)はと黄昏(たそがれ)ているよりも、物事や状態に気づくこと、はっきり知ること、また気にかけることをするべきなのだろう。

実りを心あてに折らばや折らむやと、十分に成長してこれ以上は成長しない成熟した彼方此方(あちこち)からみても紛れて惑わされ見分けがつかないことが往々にしてある。
たとえば、人間が作り出す様々な事物や関わる物事として、そのそれぞれの中に元々あったものならば適したものとしてそれで安定して正常化が保たれていたのであり、それに支障が生じたのであれば元の正常で安定した良好な状態に戻し直す対応を行なって元の様子に復させることである。
何故ならば、元々あったものでも変動により不安定となって障害が生じているのならばそれを不用なものとして疾っくの疾うに廃棄して正常化をはかっているはずであるからだ。
しかしながら、その殆どの場合はこのようなことにさえ自ら気がつかないだろうからして他者がいる。
物事の真相を知るための手掛かりや方法が全くないので知る由もないのだとしても、他者(相手)から受ける ” 意識の擦り合わせ ” による ” 気づき ” 。
これが知るべきものにとってはもっとも有効的であることにさえ気がつくべきなのだが、自分の今ある状態や周囲の状況などを認識できている状態である自らの意識はどうかというと、これがまた中々そうはいかないのである。

自分と相手との認識が合っていないのであれば、物事の途中で問題や課題が発見され、前の段階に戻ってやり直さざるを得ない手戻りが決して少なくないわけではない。
そのような時には互いに一歩立ち止まり、自分とは異なる取り組み姿勢や価値観を互いに認めた上で、これらを乗り越えてゆくことが必要なのである。
よかったことを継続するために、或いはよくなかったことを繰り返さないためにも、今後も続けるべきこと、或いは改善すべきこと、または今後取り組みたいこと、これらを互いに意識したフラット・コミュニケーションをもって取り組むことにより、相互の目的を目標により明確に落とし込むことができ、物事を効率的且つ円滑に解消できうる問題解決や課題対応に向かうことができるはずである。
自らを取り巻く状況を互いに把握することに加えて互いに不足を補ったりアドバイスや提案をしたりすることによって相互間の感覚が強くなり、物事に対して互いに取り組んでいるといった意識が向上することになる。

自らの心を説き伏せ自己了解に余ることへは慎重にして立ち入らず、自らの認識の極限に達したときには自らを立ち留まらせ検討した結果、自らの認識が到達できないとわかることには自らを穏やかに無知有りの儘でいさせるといった方法的態度は確かに身のためになる。
だがしかし、新たな出発点である自らを含めた他者とその世界をも含めた一つの態度 ” 自己への配慮 ” として人間が意識するものを認めて考えると他のものはどうなるのか?
漏れなく付いてくる本来の自己への配慮の大切さを考えるのであれば、自己完結的な閉じられた関係に留まる限界を超えて他者の存在は不可避であり、他者を如何に組み込んだのかによって決まってくる。
円環的に相互作用することによって影響し合う可能性としての力能の発現に付き従い、自らの認識を超えて本来の自己への配慮という大切な活動に向かうフラットなコミュニケーション知により開かれた自分の世界を探求すべきだろう。

 

 

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9月:セットバック

 

 

 

 

……………… まったくもって、どういうわけか心は晴れないし頭は冴えない。
気が滅入るし脳が乱れるのだ、まったく。
そうさ! おかげで皆誰だって嫌になるだろう。
だがどうして、こんなものに関わって背負い込んでしまったのだろうか?  
こいつが何でできているのか、どこから生まれたのか、皆目見当もつかない、まったく。
とにもかくにも、この ” 未知 ” というものがために、まったく亡霊同然となった頭の憶測だが、今日は人の上明日は我が身、誰もが何者であるかさえわかりかねる始末だとしても、気づきにあるなら、まったくもって、もはや何も珍しくない、もはや何も虚しくない。………………

色取り月、樹間透き通り夏と秋の境目に昼と夜の長さが逆転しつつ気が和らぎはじめる。
長月を愛でながら夜が長くなることで途中で目が覚めてしまう ” 寝覚月 ” 。
目を洗おうとしても心定まらず、瞬く間に何気ないところへ移行する。
引き込もうと打って出ようとしても表向きの素通り、作りすぎた自らの覚知の危うさ。
これじゃない気がするだろう。
自らを作り過ぎ、遅ればせながら自らの秋の在庫処分セールなどできまい。

しかしながら、なかなか物事を一歩引いて見ようとしないしできない。
相手の目に映り他者の心に映る表に自らを打ち出した構えをセットバックすることだ。
表に自らを打ち出すことなく臆することなしに周辺環境に同化してゆく。
周囲を吹く風が自らにも流れ込んでいて、風の流れが変化して移行する境界線 ” シアーライン ” 周辺で何かが発達しているはずだ。
手前ばかり追って見ようとせずに、後ろへさがって手前を透いて見てみよう。

機という潜在的可能性は何れ見つかる噂禁止の保護区 ” セットバック ” 。
そこでは、人のさまざまな語りに登場する今更ながら刺激情報が絶えない未知のコミュニケーションを知ることができる。
だがしかし噂となると、知っているが本当は分からない単なる集団的妄想の証拠でしかなく、信じるか信じないかにかかわらず噂を追い掛けることは、人から離れた場所を模索する(欲求不満を解消する)絶好の機会にすぎない。
対してコミュニケーション人というものは、即ち傾聴する人にとっては、未知なるものを理解したいという大凡の普遍的な欲求の表れであり、話を受け取ることは話を受け入れることではないことをも知っている。

コミュニケーション人は素晴らしいきかな ” 人との繋がりの中 ” に暮らしているということであり、コミュニケーションは人を未開の未知なる場所へと導くガイドの役割を果たしていることになる。
話を受け取ることは話を受け入れることではなく多様性と幅広さを象徴しており、人と繋がるコミュニケーションのそういう場所に未開の未知なる自分がいないとは言い切れないのだ。
それは、人と繋がることが未開(未知なるもの)を探す何よりも具体的で前向きな成果だといえるかもしれない。
遭遇する可能性が高いということは機という潜在的可能性があるということであり、コミュニケーションは体験する切っ掛けになるだけなく、気づきが自らの役割を果たす動機にもなる。
我々の役割が上手く機能するためには ” 人との繋がりの中 ” にある幾つものの機というものが必要なのだが、そのために頑張ろうなどと奮い立つ人はいないだろう。
気づいていない自分らしさが絶滅してしまう可能性すらあるのだが、人の多くは遅まきながらも自らを不始末で不都合な人間だとも信じはしまい。

混乱や苦悩の果てに素直でなく折れ曲がっても善だとして天使も助けてくれるのか天国泥棒、危難や困窮の果てに苦しんでいるときでも地獄に仏で思いがけず助けてくれるのか地獄詐欺。
そんな果てしなく世知辛い喧騒と孤独を躱し時交わさず生き抜くために人との繋がりを守ってゆく戦いでもある。
時を巡る水脈の一滴として思い馳せ未知にまで流れ下り、不活発な人間はより一層受身的になり、逆に活発な人間はより向こう見ずになってしまうと、そのように思い致すのだが、そう辛辣に言うのは牽強付会の誹りを受けるだろうか。
しかし、自己への配慮はコミュニケーションを探すことで人は冒険者となり探求者となり挑戦者となり、自分より大きな何かと繋がり、我々には魅力的な未開(未知なるもの)の存在が今もあると信じることができる。
” 人との繋がりの中 ” で過ごすと、忘れていた自分を思い出すことができ、自己と他者とのバランスを取りつつ可能性を守るための意思表示ができ、そうすることで偶然にも自分だけではなく他者を助けることにもなるだろう。

 

 

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8月:果敢と破邪

 

 

 

 

夏真っ盛りに秋の気配を感じ、葉が落ちる葉月に小さな秋を見つけだす。
燃え滾るような炎夏に、正気を保つ力の涼しさを感じることもできる。
悉く身の回りの条件の変化に遍く耐えうる耐性が付いている気づき。
普段は見えない自然な自分にチラッと見える自らの裏地は魅せるものであり、その知恵と分別によって自らを深めることができうるはずだ。
見間違い見間違われる過去をもったままの ” まがいもの ” とはならずに、困難に立ち向かう時や新たな挑戦をはじめる時。
湿っぽく冷たい感触の霧がかかり大気は白く霞んで見える。
視界が遮られ見通すことのできる視程は狭くなり混濁は決まった目標を認め得難くなるが、濃霧の中にいる自分の場所だけは霧がかかっていないように見えもする。
問題点が自分以外にあるとして考えるのなら、そうする自分自身やその考えこそ問題だ。
問いを持てば生き残るが、答えを持てば滅び、危険とはいわないまでも役に立たない。
自分の殻を破り間違いに気がついた衝撃の背景から本質的価値と自分らしさが再評価され、今では存在感を放つことができる。
何事も行動を起こさなければ、前には進めない。
日光の人は ” 日光の良さ ” を果してわかっているのだろうか。
知られていない未だ皆誰もが知らない ” 知られざる日光 ” の潜在的な可能性とその存在価値こそ、遥かに未来を豊かに孕み展望に富んでいるといえる。
知っておきたい個性豊かな自分らしさ日光らしさへの最大の魅力といえる好奇心や探究心と自信。
自分らしさの中に日光らしさとの折り合いを築き上げることだ。
もっとも大切なコミュニケーション効果を図りつつ、ほぼ全ての日光の良さとは言わず譬えその一つでも身に付けることで、その人なりの確かな彩りと感覚を与えてくれ、内面が充実し、自信と前進する輝かしい力を得られるだろう。

 

 

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7月:めっける

 

 

 

 

文月( ふみづき )、 一点の偽りもない青田があって稲穂の「 含む月 」。
梅雨から夏へと移り変わるという季節らしさと自分らしさ。
躍込の踊り月、ぼん( 盆:七月)やりなどして ” あとの祭 ” の馬鹿者にはなりたくない。
七月に何も落とさず、それなりの覚悟を決めて七月を歩き出す。
梅雨が明け、雨は降らない。
空は雲もなく晴れ、風はなく、花も散らない、木の葉も落ちない。
繁らす濃い緑に動くもののない時間の静止。
時の経過を知ろうとしても、変わる自分を知ろうとしても、何も落ちてくるものがなく、何かを知ろうとして願望や欲望をもつだろう。
知ろうとする欲求から離れるかのような弱々しい身振りや緩い握り締めが気づき、隠れたものを知ろうとして探り歩くことができる。

 

 

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6月:真っ只中

 

 

 

 

” 水の月 ” 水無月。
種を蒔く芒種の時節、大仕事を仕終える皆仕月(みなしつき)。
冬が明けて花が咲きはじめ、開放的で明るいムードが漂う時季に色豊かな前祝い。
未来の姿を先に喜び祝ってしまうことで、現実(未来)を引き寄せる「予祝」(よしゅく)。
あらかじめ期待する結果を模擬的に表現すると,その通りの結果が得られるという。
夢が叶う前に先に喜んでしまう無敵な楽しさ、困ったときであっても予祝。
今の気持ちが未来をつくる真っ盛り、挑戦は続く野望は道半ば、夢が叶う前に先に喜んでしまう無敵な楽しさだ。

確信と期待は虚偽であり、信じることは疑うことよりも愚かである。
然る(さる)間、立願の子細ありて、
然も(しかも)回りくどい。
欲しいのか、試しているのか、最後までやり遂げるかといえば、そうではなく詰が甘い。
願望に向こう見ずの無謀はいけない。
奇跡を起こすなら、何事も惚れ惚れとして、面白がって楽しむことであり、日常性の中に ” 自分の楽しく面白く ” を自らを刺激し、 さらに自らを掘り下げることだ。

眠る目の夢見は刺激で覚醒するが、覚醒時に刺激がなければ現実は夢に等しい。
覚醒時には積極的に自らを刺激して、行動または直感(直観)は自動的に促進する。
常識の寝台から起き上がって自ら焦点や背景を変えさえすれば、より多くの刺激とともに明々(あかあか)とインスピレーションやアイデアが自ずと充実してゆく。
刺激がないと日常の記憶のネタが減少したり制限されたりするので、刺激があれば潜在意識がより深いところに届くことになる。
自らを刺激する冒険の試みは自分らしさを確かめなおすことであり、その刺激の作用は日常性において自覚していないものを知らせる信号であるのかもしれない。

 

 

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5月:晴れ間

 

 

 

 

煌びやかな光彩 大いなる五色月(いろいろづき)
広大な空に沢山の調和 強さと弱さ
健気に打ち仰ぎ見れば
真の空晴れねど 希求の霞さす

 

 

目をつぶりゐても
吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹

寺山修司

 

結社誌 「 暖鳥 」

 

 

頬つけて玻璃戸にさむき空ばかり
一羽の鷹をもし見失わば

寺山修司

 

第一歌集 『 空には本 』

 

 

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