「 ” With NIKKO ” 」ウイズ日光
〜 大自然からの提案 〜
ー 音楽に包まれた「 健光・観光・日光 」ー
Newton, circa 1804-05. William Blake, Tate Britain, known from 1897 to 1932 as the National Gallery of British Art and from 1932 to 2000 as the Tate Gallery, is an art museum on Millbank in the City of Westminster in London, England.
ー 自分を生きる地域を活かす ー
KANKE 塾:” 地域プロモート ” 開催中
Community-development
・・・・ 実践への ” 潜在力 ” のすすめ ・・・・
未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点
– feasibility of community strengthening –
地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつける
先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” ため
地域潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
地域プロモート( Community-development )
” 地域への配慮 ” という大切な活動によって地域の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう
→ KANKE GRAND 日光 : エッセンス《 趣旨 》
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” 八百万の力 ”【 Ⅱ 】
努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ ” 地域実現価値 ” に伴う「 新実力 」~
見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」
『 人は地域を創り動かし 地域は人を創り動かす 』
・・・・ 個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化に伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。
実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、課題解決の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。・・・・
……… 一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。
その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。
「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆく。
” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」として発揮する自律性の原動力となる主体性の基礎力である。
自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ” 力感 ” にねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。
人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である ー いきいきとした気力と活気( 生気 )ー の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち ー 意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。
たまには 「 真価発揮 」しないと、毎日努力努力じゃやってられないだろう。
自分に生きるのではなく ” 自分を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、「 努力の不安か安心か 」気のせいでそう思われるほど心持ち「 先駆的 ” 実利 ” の努力 」、それなら気が晴れ心ゆかし。
そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。
その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。………
・・・・・ 地方地域を取り巻く状況の変化が激しく、当たり前にパラダイムシフトが起こる現代では、地域の進める事業や地域独自の強みなども、普遍的なものではなくなった。
今日的な環境圧力ともいえるような変化のこの先には、日常の停滞と非常の阻止も有り得 る中で、さらには喚起と警笛が起こり得る中で、非常時の崩壊はすでに始まり、想定外の苦悩に迫られて ” 引き出される手段 ” の必要性や重要性とその苦渋だけならば、活気を削がれ活力を奪われる。
” 近い将来 ” へとこれから迎える新たな局面は、これまでのような ” 近い過去 ” の経験や実力などが生かされない予測不能の容易ならない事態に収拾がつかないだろう。
主体的地域( 又は主体的自己 )の主体意識( = 欲望 )として、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化 』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。
創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として主体の潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )であり、出せる力のうちのおもな力として中心となって力を発揮するだろう。
主体自らが考えたり判断したする際の思考の及ぶ範囲である地平は、主体自らの努力能力に基づく実践的可能性である「 可能力性 」によって開かれ、” 力性 ” は主体自らの ” 確らしさ ” に付き従う ” 力のいろいろ ” が付随して生み出される。
力動的解釈として『 力は力で形づくることはできず 力は力で生み出される 』、という力性のパラダイムシフトにおいて、今までの目的・目標を果たすために実際に行為や行動で示される力として近い過去から実質的に具えている能力である ” 形成的な実力 ” は、現実的な「 生成実利 」を追求する ” 先駆的『 新実力 』” へと別なものへと ” 移行 ” するならば、本来の力の価値が遺憾なく最大限に引き出され戦略的に真価を発揮できる。
形成的思考・発想によって変化を閉ざし意味を失い形骸化する形づくりに引き出される実現課題の ” 形成指向 ” により日常性を規定して活力を奪われることなく、生み出される質量に相当する力という考えを固めるならば、” 現実的生成実利 ” において活力が満ち溢れる課題実現の『 先駆的新実力 』の出現は日常を大きく変えるだろう。
” 自分を生きる地域を活かす ” において、活気があろうがなかろうが創成における消滅可能性都市との向き合い方においても常に絶えず「 地方地域は生成中!」なのであり、生成変化の地域自らの変化を閉ざし活力を奪われる形成定着を脱却して生成帰着へと物事の見方や考え方の枠組みを ” 生成着想にパラダイムシフト ” することだ。・・・・
→ 努力の余力 ” 力のいろいろ ”
思巡の活力【 Ⅳ 】 構造力「 生成着想 」
形成は生み出す生成回路に位置し、形づくる形成を先行すれば作り出す形成的思考・発想は変化を閉ざし意味を失い形骸化する可能性は決して避けられず、生み出す生成的思考・発想は変化への対応のみならず進化・発展への活力を与えられる。
結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、価値感やゴールの変更に向け運命を切り開くことは難しくはなく、能力などの真贋や良否を判断したりする目利きとして、または思惟したりする目付けとして、重要な部分を占める ” つなぐ時代の残滓 ” は大いに当たり前として 「 学び解し( ほぐし )」力に補給するべきである。
「 近い過去を知り近い将来を知るナウキャスティング 」として、 近い過去の特に具体的な事実や根拠と証拠などのそれらが近い将来への手綱を握ることに結びくのであり、結びつきのこの時代には最も重視すべきでも、先ず近い過去の守株的な時代の枠組みは破棄すること。
意図しない状態へと気力を失くす無意識のうちに生じている ” 偏りのバイアスや固定観念による先入観と枠組み ” などを取り払い ” 意図を束ねる ” ことであり、物事を多角的に見る視点やイノベーションを起こす行動力など、時代に合ったものの見方や考え方を変える転換 ” 地域の存在価値へのパラダイムシフト ” によって新たな「 地域価値創造 」をもたらすことだ。・・・・・
出来事の中心的な詳細情報( ” エピソード的 ” 記憶情報など )と、出来事の周辺的な詳細情報( ” 意味的 ” 記憶情報など )とに分けて、ー 遠い過去 ー 近い過去 ー 近い将来 ー 遠い将来 ー の出来事を想起またはイメージしてみるならば、遠い過去よりも記憶が活性化する過程があるものと推測され、「 近い過去の記憶が近い将来( 未来の概念や予測など )に対して影響を与える可能性( 潜在性 )」は大きい。
地域に価値を見出し意識する地域意識( 主体的地域意識 )という自覚と自覚の達成は、自らが地域の主であると認識し、主体的に地域を自分事として捉え、自立心や責任感と当事者意識( 又は地元意識 )などその意識した内容に基づき行動する。
目的・目標を実現する 「 主体的地域能力 ( ” 実力 ” 当事者意識 )」とともに ” 近い過去 ” に主体的地域として自らの可能性の確信を自らに与え実現した自らの考えや意志をもち、主体的地域意識( = 欲望 )の内に自覚と信念と情熱が十分にあって物怪の幸いに、近い将来に予測される ” 実現課題 ” 今控えて ー『 ” 近い過去 ” の刺激的な「 ミステリー・パズル( 謎 ): Mystery- puzzle 」を鏤めたイメージによって ” 近い将来 ” へ今を紡ぐ( つむぐ )のは大いに有り難いこと 』ー だろう。
選択( 適応 )に寄せる主体的地域能力 ( ” 実力 ” 意識 )の確信と期待と今抱える ” 実現課題 ” への選択( 適応 )に進むべき道の方途を図っても、要は自ら主体的地域としての自発的な頭と心の発火で自らの好きなように ” 思うがまま ” 心に思う通りで望む通りに他ならない。
時が過ぎ去っても人と同じく主体的地域は自主的に遅らせることなく瞬く間に、いつも次の事をまた今始めからやり直してゆくのだが、そのような歩みのうちに、いつしか人は 地域有用感や地域効力感( 可能感 )が高まり、地方地域に対する肯定的な意識や評価が高まりつつ地域自体への満足感( 自信 )が増し、地域肯定感を覚えるようになるのだろう。
全き忘却は人と同じく主体的地域として不可避なのであり、決して挫折の兆候でなければ、たとえ ” 昔取った杵柄の実力 ” であったとしてもそれはそれでいい。
問題定義や目標の想定を最適化したとしても、完全性への半作は絶えず劇的なりと思い込んで、人と同じく主体的地域自らが何をやらかしてもおかしくない不滅性の行動をとる可能性は十分あり、「 描いたシナリオの価値ある劇的な脚色 」を離れて、やりかねない行動や起こりうる出来事に対し、更なる問題解決や解決策の設計に活路を拓からずを得ない ” 地域付け ” を主体的地域としては強調するからだ。
” 近い過去 ” に成し遂げた経験と記憶ほど、もっとも緊張や感動を覚える変化に富んだものはない。
際涯もなく広がる可能性があっても時間は限られ、近い将来その全てを一望際涯することはできず、もうこれより先へは出れないギリギリのところまで至ってから果たして ” 実力の限界 ” を知ることができるだろうか 、、、、、
それ以上先に進んだり向上や発達ができなくなる限界は期間限定として考えや意志と行為が及ばず、” 実力の寿命目標 ” を想定してその達成のために行為を促す自発的な思考によって劇的に変化してゆく。
主体的地域自ら思いや思惑をなくした ” あるがまま ” などと体のいいことを言ってないで、思い込みに惑わされずに ” 思うがまま ” 主自ら意を体してゆきさえすればいい。
多かれ少なかれ思い通りにはならず、判断や思惟してみても思惑であることに変わりはない。
「 地域の価値 」をもつ一定の ” 現代性 ” が認められた地方地域の主体的な姿勢は、常に革新を目指し続け引き継ぐ ” 再帰的近代化 = 現代性( 近代 = 現代 )” の探求を通して何を目指すのか明らかにしていく中で、新しい地域としの在り方の一つの方向を示すことにあたって近い過去は事の成り行きの原因ではなく背景として現実世界に対峙し、地域自体と現実との間に意味を挟み ” 自分を生きる地域を活かす ” 勝義の意味を発見していくのであり、ー『 ” 近い過去 ” の錯視的な「 カラクリ・メカニクス( 機序 ): Karakuri-mechanics 」を解き解し( ときほぐし )再認識によって ” 近い将来 ” へ今を決め込むのは大いに当たり前のこと 』ー だろう。
近代化や都市化に伴って「 地域社会 」の伝統的な共同体が崩壊( “ 地域の崩壊” )し、個人や家族の孤立化( 家族の崩壊 )などが進んでいる中で、新しいコミュニティの創造によっても歯止めがかからず、地域社会の疲弊の構造的な問題である ” 人口減少と地域経済縮少 ” など、地域の疲弊はますます深刻化している。
「 結び付き移りゆく時代の繋がり 」というものを、決して欺くことはできない。
時代の移り変わりは、前近代から近代へと、脱近代へと、単線的に変わるのではなく、近代化を乗り超えるために近代化に依存していくといった近代の「 再帰性 」というものがある。
以前の単純な近代化の段階においては近代は近代以前のものを目的・対照としたオブジェクトをもって近代化してゆき、市民社会や家族と国民国家などを生み出していったが、近代はそのオブジェクトも ” 近代化し尽くし ” 、更には近代化自体が生み出したそのものである市民社会や家族と国民国家などを近代化してゆき、近代は自らを近代化していくことになった。
自然も近代化し尽くされエコロジーの危機が叫ばれるような中で、家族の崩壊とかグローバル化などとともに「 地域社会の崩壊 」も先んじて唱えられるなど、” 近代化し尽くされる正に近代化による現象 ” なのだ。
以降、” 地域などの領域 ” での近代的な共同社会( Gemeinschaft : ゲマインシャフト )自体が利益社会( Gesellschaft : ゲゼルシャフト)化されることによって、アイデンティティと存在的な意味の創出が地域課題( または自己課題 )となっていく中で、他方では ” 地域などの領域で共同社会が新たに探求 ” されだし、新しい活動などが展開されていったこの様な近代化の段階が、以前の近代と区別するために現代とされた再帰的近代化なのであり、現在においては現象や目的・対照のオブジェクトの変化や多様化などによって組み替えられているところもある。
この様な時代の移り変わりにおける新しい知識や技術などは、経済・社会発展のための原動力であるし、複雑化し多様化する変化への対応のみならず知識も同時に増大し、社会を安定的に進化・発展させるという目的に寄与してきた。
知識が累積的に蓄積されるとはいえ、現実の経済・社会発展は日々において完全性を指向して進むのではなく、不確実性を孕みながら新たな変化や事態に対してその都度に問題や課題へ対応( 適応 )するかように進んでいる ” 生成変化 ” に伴う進化・発展段階にある。
生成段階の時代を吐くかのように欲望は、分化・複雑化し多様化して更に新たな欲望を生じさせ、地域課題 となるアイデンティティと存在的な意味の創出とともに新しい「 可能性 」の刺激に意味付け知覚させる。
主体的地域自らの可能性の確信を自らに与え自らが実現させようとする ” 主体的地域意識とは欲望なのであり、” 地域などの領域 ” においては地域の経済・社会的な「 地域事 」を考えたり判断したりする際の思考の及ぶ範囲の地平を拡大( 拡張 )させるが、このようなプロセスにある新しい欲望は、近い過去の欲望の繋がりから自然に生じるのは ー『 意外( 大いに有難い ) 』だろうし、” 近い未来 ” への経済・社会発展に引っ張られて初めて覚醒されるのが『 当然 ( 大いに当たり前 )』ー だろう。
「 地域の崩壊 」と呼ばれる今日の状況を一つだけ取ってみても、主体的地域としてが自らの依拠する「 ローカリティ 」或いは「 地域社会の ” 伝統的 ” な共同体 」との関係の中で、これを分析するために有効な概念でもある『 再帰性 』であり、「 再帰的近代化 」とは、近代のもつ ” 崩壊( 破壊力 )と再生( 創造力) ” を一つのものとして捉える概括的な意味内容の概念でもあるともいえる。
「 地域社会の ” 伝統的 ” な共同体 」という意味において、近代以前の社会における伝統の再帰性は近代以降のそれとは異なり、前近代では再帰性は伝統の再解釈と明確化にほぼ限定され過去により多くの比重が置かれていたが、近代の到来によりこの状況は変化する。
伝承されてきたものであるというだけの理由では伝統を正当化することはできないが、それは伝統の終焉を意味するわけではなく、近代再帰性のもつ ” 崩壊力( 破壊力 )と再生力( 創造力 ) ” とを一つのものとして捉えるならば、伝統はその存在価値を近代再帰性から得ているともいえる。
再帰的近代化を遂げていく過程で、各々の伝統は近代文明の影響下へと位置付けられていき、文明が文化であることを止め、自らの衰退の原因を作り出し、「 地域の崩壊( ローカリティと地域社会の ” 伝統的 ” な共同体 )」と呼ばれる今日の状況を一つだけ取ってみても、こうして地域の発意と創造の ー「 移行物語 」ー が揺らぐのと同時に各々の物語が再生成されていくことは、 社会の再帰化の一側面なのだろう。
地域と社会の再帰化が進行する時代の新しい意思決定と再構築が不可欠となる中で、地域の崩壊という今日の状況を一つだけ取ってみても、仮に手放しに放置しておけば、各地域同士が同質化して個別性を失う過程に進むか、むしろ逆に個別主義を選択することによりローカリティな多様性を推進していくか、個別の社会と地域の独立性を確立を必要とするか、感じ方と認識次第なのであるが、” 枠を超えて力を繋ぐ連繋的思考・発想の越境 ” には、一体化だけではなく分裂という契機もあり得るし、ローカリティは越境化の過程とは無関係ではいられない。
再帰性が徹底化していることが今日の社会の一つの特徴であり、これまで秩序の安定性を維持する機能を果たしてきた地方地域のローカリティという共通基盤を人々が想定することは、一層困難になってきているだろう。
以前と変わらない生活世界だと想定することは不可能であるという中で、主体的地域の ” 想像を巡らす想像的なものである ” 想定 ” の安定性が失われている状態にある。
その安定性は、主体的地域が自らの依拠するローカリティもしくは「 地域社会 」の伝統的な共同体との関係の中で、現実の恒常性の想定が可能であることにおいて実現し、主体的地域意識( = 欲望 )において自らの可能性の確信を自らに与え実現するその可能性の維持を欲望する主体的地域自らの ” 近い将来 ” への構想力も機能するだろう。
主体の安定性の維持や喪失に関する再帰性が徹底化していることが今日の社会の一つの特徴である中で、可能性を想定しているというこの状態における欲望のあり方は再帰的であり、欲望を満たすことの不可能性が、欲望が満たされないままに維持され続けることへの欲望へと転回を遂げるという主体と社会との同時変容が生じることも有り得る。
リスク社会と呼ばれる今日の状況では、リスクに対する認識が広く浸透していった結果、知識の限界に人々が気づく可能性がある一方、人々が諸々のリスクを認知するようになったからといって、直ちに極度なまでに不安定化するとは考えられず、物事は定められた経路しか辿らないといった運命という感情と、自らの統制の及ばない遠方の出来事に対する漠然とした認識は人々を絶え間ない不安から解放する効果をもっている。
主体的地域が自らの依拠する「 ローカリティ 」或いは「 地域社会の ” 伝統的 ” な共同体 」との関係の中で、地元意識は出生地や居住地と勢力範囲などである地域が自分には特別の関わり合いをもつとみなされ、” 近い過去 ” から決まり切ったことをする慣わしや連帯感・帰属感と伝統保存・継承意識など、常に心情的な郷土意識と異なる ” 地元意識 ” 。
自らに直接関係ある地元地域に価値を見出し意識する主体的地元( 地元意識 )という自覚と自覚の達成は、自らが地元地域の主であると認識した地域主体感を抱き、主体的に地元地域を自分事として捉え、自らがその地域の一部としての自覚をもつ地元地域一辺倒の帰属意識でもあるが、自立心や責任感と地元意識( 又は当事者意識 )など意識した内容に基づき行動する。
機能的な主体的地域意識や当事者能力 ( ” 実力 ” 意識 )となり得る可能性を有する ” 地元意識 ” は、対極的な市民意識に伴い少なくとも薄れてきてはいるものの ” 変質 ” はしてきているとされる。
地域社会の疲弊の構造的な問題である ” 人口減少と地域経済縮少 ” など、社会とともに地域の疲弊はますます深刻化しているといったリスクに対する認識が少なくとも広く浸透していったのだとしても、地域が自分には特別の関わり合いをもつとみなされる感覚と認識の地元意識は、当事者意識や当事者能力 ( ” 実力 ” 意識 )へと少なくとも「 変容 」してきているのだろうか。
主体的地域意識( = 欲望 )において自らに可能性の確信を与え実現するその可能性の維持を欲望する主体自らの ” 近い将来 ” への構想力も地元意識の ” 変容 ” によって果たして機能するのだろうか。
「 結び付き移りゆく時代の繋がり 」というものを欺くことなく、価値感やゴールの変更に向け運命を切り開くことは難しくはなく、能力などの真贋や良否を判断したりする目利きとして、または思惟したりする目付けとして、重要な部分を占める ” つなぐ時代の残滓 ” は大いに当たり前として ” 学び解し( ほぐし )” 力に補給するべきである。
学び解し( ほぐし )という「 アンラーニング( unlearning : 学習内容棄却 )」によって、相互作用のアクション( 行動 )において既存の価値観や知識に囚われずに環境の変化に適応するために、地域の枠組みを超えて新しい可能性を追求しながら、変化の激しい時代に対応していくにあたり古い知識や概念と価値観などを捨て、意識的に新しい知識やアイデアとスキルなどを習得することだ。
時代遅れとなり有効性を失った今までの知識や規範と価値観などを認識した上で、主体的に必要なものを取捨選択しつつ、新しいものを取り入れながら ” 学びを解し( ほぐし )” 、主体的地域の軌道修正やアップデートをしていくということであり、主体自らが具備している ” 実力 ” を、 実際に意味あり役立つ正味実力の ー『 新実力 』ー へと、自ら変容( 質向上・改善 )させて実装し、実際に活用でき得る実質的性能に伴う「 実利の努力 」の働きとその作用の ” 真価発揮 ” を見定めることだ。
すでに時代遅れとなり有効性を失った今までの知識や規範と価値観などの ” 形成 ” が自らの変化を閉ざし意味を失い形骸化している中で、補正処理・修正処置の ” 修正力( コレクティヴ・アクション : corrective action )” によって、これまで学習によって得られた主体としての価値観の認識と取捨選択をはじめ新たな知識やスキルを習得し、” 生成的 ” に主体自らを柔軟に変える力を身に付けていくことだ。
主体的地域においては、全ての ” トランジション( 移行転機 : transition ) ” として地域構造の観点からその意味に焦点を当てた縦断的な捉え方や考え方に既存の地域概念に新たな価値や視点を加えようとする ” コンジェクチャー( 推測 : conjecture )” の力によって ”「 地域構造の再構築 」を行うことであり、自らの「 主幹地域力( 地域主幹力 )」と ” 枠組み ” などをそれぞれ主体的に見直し、地域認識を地域改善に繋げて理想と現実のギャップを埋めながら地域変革へと向かうことは、地域事の帰趨を決する局面の切り札となる。
「 消耗の努力 」ならば、” 神経の努力 ” であり、” 享受の努力 ” を試みることだ。
「 蓄積の努力 」ならば、” 知識の努力 ” であり、” 疲労の努力 ” でしかないだろう。
「 雄大な考えや意図と大志や大望の大意 」であれば、” 希望の努力 ” にすぎず、しなくてもいい ” 苦労の努力 ” だと思うことだ。
” 正解の努力 ” を探究( 探求 )したいのならば、「 努力の尻尾( しっぽ ) 」を掴むことだ。
『 努力の不安中 』には、活力を奪われ練り出される ” 近い過去のエピソード的記憶 ” を想起しイメージした主体的地域の ” 実力 ” 意識によって、近い将来に予測される ” 実現課題 ” を今に控えた最大の渋滞( 停滞 )を学べばいいだけだ。
『 努力の安心中 』には、活力を与えられ生み出される ” 近い過去の意味的記憶” を想起し再認識した主体的地域の『 新実力 』によって、近い将来に予測される ” 課題実現 ” を今に控えた最強の活気( 生気 )を学ばなくてはならないというわけだ。
努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。
人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )
短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。
常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。
人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。
「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に地域主体の側にあるということを決して忘れてはならない。
今日的な環境圧力ともいえるような変化だけを取ってみても、時こそ今は ” ひとたび真価を発揮し ” 地域を活かす「 違う答えを探し続けること 」が、地域を生きる一つの道なのではなかろうか。
探し続けることなくその意味を満たそうとするならば、積み上げてきた努力や苦労とその成果で得たものなどを無駄なものにするだろう。
努力の余力 ” 力のいろいろ ”
八百万の力【 II 】
〜 ” 自己実現価値 ” に伴う「 実馬力 」〜
未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点
・・・・・ 実行への ” 潜在力 ” のすすめ ・・・・・
ー 地域を生きる ” 自分を活かす ” ー
自己発展力( 発想力と展開力 )の「 発創!! 」
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” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の志向性とその可能性に勇往邁進しよう
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