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KANKE GRAND 日光
ー ” With NIKKO ” ウイズ日光 ー
KANKE 塾
The life stages (beach picture, beach scene in Wiek), circa 1834. Caspar David Friedrich, The Museum der bildenden Künste (German: “Museum of Fine Arts”) is a museum in Leipzig, Saxony, Germany.
菅 家 塾
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ー 自分を生きる地域を活かす ー
KANKE 塾:” 地域プロモート ” 開催中
Community-development
” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ
未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点
– feasibility of community strengthening –
地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつける
先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” ために
地域潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
地域プロモート( Community-development )
” 地域への配慮 ” という大切な活動によって地域の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう
カテゴリー
織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行
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KANKE 塾 : 地域プロモート
” 目覚まし力 ”【 04 】
努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ ” 新しい可能性 ” の組み立て「 画因力 」~
見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」
努力とは何か? 、、、、、
努力とは、何ものでもない正しくそれ” 努力する力の行為 ” のそのものであり、取り立てていうほどのもの、何ものでもない、まさしくその事自体、それ自体、特に強調するような点はないが強いて言うならば ー『 力の掛合せ ” 用力 ” 』ー として、” 作用 ” する力、” 役に立つこと・はたらき・ききめ ” の功用、” 強い力 ” の威力、敢えて挙げるとすれば ” 成し遂げる力 ” 、” 効果を及ぼすことのできる効力 ” 。
苦労は当たり前の努力、とりわけ努力が得意であるわけでもなく、殊に努力が優れているとするわけでもなく、日々これといって特に取り立てて努力に目を向けることもない。
” 新しさ ” の変わり(代わり)映えしない日常的な行動の日々に、常に絶えず努力とこの努力の力の働くその作用があっても、日々繰り返えされる当たり前の日常性に塗れ( まみ・れ )、とりわけ「 努力は特に意識しない 」だろう。
努力に関心を向けず注意を払わない努力の力の働きとその作用が意識に上らないその力の「 間( あわい )」に、素晴らしくて目も覚めほど評価すべき状態が際立ちに驚く「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますこともあれば、心外で目も覚める思いがする思わぬ不本意に驚く「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますこともある。
努力の力の内には( 努力する行為の過程には )、目が覚めるほど驚き素晴らしい「 目覚ましい 」という力もあれば、目も覚めるほど驚き呆れた「 目覚ましい 」という力もあり、力の「 間( あわい )」に ” 目覚ましか、目潰しか ” 納得すれば全ては始まり、納得していなければ何も始まってはいない。
様子や状態が前と変わっても( 変化しても )、「 新しさの ” 変わり映え ” 」はしないか 、、、、、。
何か変えても目立って良くなった部分が乏しくてあまり変化がなく前のものと変わらず、「 新しさの ” 代わり映え ” 」はしないか 、、、、、。
余りにも長い間迷った末の「 迷いの後( After far too long wavering. )」とは、厳然たる納得の揺るぎなさに「 首肯 」することである。
” 新しさ ” という「 新しい可能性 」の組み立ては、” 気づきの意識に現前 ” する努力の ” 束ねる力感の意識 ” に「 首肯 」することにより、「 努力の尻尾( しっぽ )を掴む 」しかないだろう。
人は何かと取り違える不覚に陥ってしまいがちであるが、その自らの失敗を悔やんだりしたり反省したりする心を持合わせてはいるものの不覚にも失敗したのは偶然だとして、失敗するはずのない自らこそが本当の自らだと考えてしまうのである。
大きな決断を迫られたとき覚悟は出来るか出て来ないか錯覚や勘違いなどに深く関わる不覚ではあるが、危ない過信の自信に自信する自らの誤りとして覚悟の行方ではなく、そのように『 決断 』しようとした自らを見据えさせる智恵がいる。
物事の進行や達成( 成立 )などを妨げる障礙が全くないといことなどはありえず、自らが思い描く対象を自らで見ているにすぎない見方は過信でああって、自らが獲得する自信が本当に自らを開放してくれるものなのか、或いは逆に自らの執着をも助長する閉鎖的なものなのか、常にその質を問い続けてゆくことが必要となる。
自らしてみれば事実間違いのない認識判断であるかのように思えるのだとしても、『 決断 』しようとする前に、その事実の捉え方や考え方に間違いがないのだろうか、他の捉え方や考え方があるのではなかろうか、として自らを見据えることだ。
見分と相分は認識判断が自らの心を色濃く反映しているものとしてそれに無自覚なのであり、自らの認識判断の間違いや誤りは自らなかなか気づき難い。
自らの料簡が有する独断性や問題性はその気づきにしかなく、自覚を促すのは自らであり、” 目覚ましか、目潰しか ” の「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますことは、厳然たる納得の揺るぎなさに「 首肯 」することになる。
変形・変換、変化・変質、変容・変態、転換・移行などによって、すっかり変わってしまう程に大きく様変わりする ” 新しさの変わり( 代わり )映え ” という「 トランスフォーム( trans-form )」。
既に “ 組み立てられたもの ” を新しくして生まれ変わるのではありえず、端から端まで横切って隅々まで完全にすっかり渡り切った( trans- = across ) ” 先駆的な画因力 ” によって「 新しい可能性 」を組み立てていくことを意味する。
想像を巡らさせる想定を描く画因とそのモチーフ。
近い将来の発展や創造を考え、新しさという「 新しい可能性 」を組み立てて持続的な可能性を見定めるために、真の豊かさだけでは抽象的すぎてあまりにも依然的すぎるが、持続的な ” 安定と正常 ” を真であると見做し、結論を導くための条件や状況として「 想定 」する ” 結果がどうなるか考えるために起こり得る条件・状況とその考え ” に想像を巡らさせる。
近い将来の発展や創造へと変化・進化しないのは、今日的な意味を帯びている現実の大きな問題に直結する検討中の課題実現とその可能性といった点もあろうが、現実であるよりも現実的として真にかなった安定と正常の姿ではなく、社会的な欠陥や疲弊などから生じた変貌でもあって、早く課題実現と新しい可能性の組み立てを図って持続的な理想の姿を確かなものとすることであり、本当の豊かさの安心を安定と正常の姿において認識することができるのだろう。
想定の ” 安定と正常 ” には、競合があるわけではなし、水準の標準格差があるのならばその基準というものがあるはずであり、” こうしたい、こうなりたい、なんとか得られないか ” 、充足を求めて不断に不安をも抱えながら変革しようと、不断に努力して望むところは真であろう。
だがしかし、” 動機 ” づけをもって、そう望むところの想定に想いを巡らさせることはできても、見定めるために描く『 画因 』とそのモチーフが何処にも見当たらないのは何故だろうか 、、、、、
競合もないし、水準の標準格差もなき中で、『 画因 』とそのモチーフに筆先の駆り立てようがないのだろうか 、、、、、。
近い将来という未来は想定に想像を巡らさせるのみで、描きようにも描くことができないのか 、、、、、。
常に絶えず真偽を問わず、時の通路に流れ、その様相性に溶け合い潜在する可能性の未来に写り込む様相たるものは新しさへの変化・進化であり、未来に生じ起こり得る可能性の一現象に過ぎないものを、偶然または意図しても現実に反射するものの中に映り込むこともなければ見えることもなく、形なきものを描きようがないのだろうか 、、、、、。
考察することによって具象的イメージや極端かつ強烈な事と象を描くことの価値。
可能性があるのかというようなことを捉えるのが大きな課題となるが、そうした時には ” 現実洞察と未来洞察 ” という視点をもたざるを得ない。
未来予想のように過去・現在の延長線上に未来を見ることではなく、” 未来洞察 ” は未来への変化を察知することであり、それは現在の延長線上には作れず、” 現実洞察 ” をはじめることが先決である。
価値移行が未来をつくるのであり、” 新しい可能性の組み立 ” や新しさの導入のような既成の現象を注視することで、新しい価値に移行するためのトリガーを見つけ出す( 又は創り出す )ことが未来洞察という考え方の本質でもあり、先ずは価値移行があることを理解した上で現実の動向等を観察することである。
新しい価値の移行にあたって、素となる ”リソース ” の独自の資質や特質と資源や特色を活かした特別な素材や材料などをどの様に使えるのか( 又は使うのか )、それはどのようなアプローチなのか、問題解決や課題対応にどう生かせるのか ” 、現実と理想とのギャップを計りながら理想とする未来( 未来像 )から逆算して目標や計画立て、未来像や目標に近づく「 バックキャスト( back cast )」が重要となってくる。
未来洞察は現在( 現実洞察 )を始点に置いて未来を描くのではなく、最初に未来像を描いた上で、次にその未来像を実現する筋道を未来から現在へと遡って思考することである。
最初に目標とする未来像を描き、次にその未来像を実現するための道筋を未来から現在へと遡って思考しシナリオをつくることであり、目標達成や課題実現において現在や近い過去の状況をもとに未来を仮定ではなく現実の延長線上で考える手法で近い未来の予測や目先の問題への対処など未来を探索するフォアキャスティングと比較して、変化が求められる課題実現に対して有効である。
” 現実洞察と未来洞察 ” による「画因」とそのモチーフによって、根本的な問題や課題を発見するとともにその解決や対応の方向性を見出すことと、今までにない新しさという「 新しい可能性の組み立て 」を生み出すこともできるだろう。
何かに触発されて何かしら受けるだけでの未来を写す模倣ではあり得ず、現実を観察してその本質や奥底にあるものを見抜き見通すことなしに、個々の特定の理想的な変容なしに、抽象的な考察とイメージの間に形を与えることなしに、暗示的な思い込みや想定に想像を巡らさせた想像力による単なる構想になってしまうなら、実現・発現に潜在するとした可能性によって未来を再現する必要が何処にあるのだろうか、もしもポーズをとるだけのものに取って代わってしまうなら、可能性は死を迎えて消滅可能性に取って代わるだろうし、現実に基づき現実を支えにして多様な可能性を探り試すような性質で卑屈な模倣に陥り模倣であることに還元した可能性を奪い去り元に戻したりはできない。
KANKE 塾
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prologue
非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、
結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。
・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・
・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。
我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。
人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。
「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。
人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・
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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ
・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。
『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。
目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。
深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。
『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。
『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。
『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。
自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。
多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。
『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。
独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。
『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。
地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。
これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・
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後記
人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。
個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。 取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。
実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。
一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。
その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。
「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。
” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。
” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。
自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。
人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である ー いきいきとした気力と活気( 生気 )ー の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。 そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち ー 意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。
遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。
” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。
そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。
その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。
これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。
人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。
頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。
ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。
「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。
まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。
” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。
” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。
全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。
そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。
努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。
人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )
短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。
常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。
人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。
「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。
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