10月:平らであること

 

 

ー  音楽に包まれた「 健光・観光・日光 」ー

「 自分を整える 」自然体づくり
” リラクセーション( relaxation )” に伴う
〜 大自然からの提案 〜

 

 

 

 

” 神の月 ” 神無月。
神が居ても居なくても、願うまでもなく堪能し尽くす実りの醸成月(かみなし月)。
自らが十分に飽き足りぬことなくまで醸成として物事の状態や気運などを徐々につくり出そうとしても、自分の認識が他者(相手)と合っていなければ思いもよらぬところで支障が発生したり物事が停滞してしまうことがあるだろう。
自分の今ある状態や周囲の状況などを認識できている状態である自らの意識は、ややもするとそうであろうとして自らの心の中で見当をつけた当て推坊(あてずっぽう)の推量であったり、ともするとそれとなく自らの心あてに心頼みとした欲望の期待であったり、少なからず人は得てしてそのような傾向になりがちだ。
思い込みや見込みに惑わされて先を読まずに思考を停止してしまったかのように誰(た)そ彼(かれ)はと黄昏(たそがれ)ているよりも、物事や状態に気づくこと、はっきり知ること、また気にかけることをするべきなのだろう。

実りを心あてに折らばや折らむやと、十分に成長してこれ以上は成長しない成熟した彼方此方(あちこち)からみても紛れて惑わされ見分けがつかないことが往々にしてある。
たとえば、人間が作り出す様々な事物や関わる物事として、そのそれぞれの中に元々あったものならば適したものとしてそれで安定して正常化が保たれていたのであり、それに支障が生じたのであれば元の正常で安定した良好な状態に戻し直す対応を行なって元の様子に復させることである。
何故ならば、元々あったものでも変動により不安定となって障害が生じているのならばそれを不用なものとして疾っくの疾うに廃棄して正常化をはかっているはずであるからだ。
しかしながら、その殆どの場合はこのようなことにさえ自ら気がつかないだろうからして他者がいる。
物事の真相を知るための手掛かりや方法が全くないので知る由もないのだとしても、他者(相手)から受ける ” 意識の擦り合わせ ” による ” 気づき ” 。
これが知るべきものにとってはもっとも有効的であることにさえ気がつくべきなのだが、自分の今ある状態や周囲の状況などを認識できている状態である自らの意識はどうかというと、これがまた中々そうはいかないのである。

自分と相手との認識が合っていないのであれば、物事の途中で問題や課題が発見され、前の段階に戻ってやり直さざるを得ない手戻りが決して少なくないわけではない。
そのような時には互いに一歩立ち止まり、自分とは異なる取り組み姿勢や価値観を互いに認めた上で、これらを乗り越えてゆくことが必要なのである。
よかったことを継続するために、或いはよくなかったことを繰り返さないためにも、今後も続けるべきこと、或いは改善すべきこと、または今後取り組みたいこと、これらを互いに意識したフラット・コミュニケーションをもって取り組むことにより、相互の目的を目標により明確に落とし込むことができ、物事を効率的且つ円滑に解消できうる問題解決や課題対応に向かうことができるはずである。
自らを取り巻く状況を互いに把握することに加えて互いに不足を補ったりアドバイスや提案をしたりすることによって相互間の感覚が強くなり、物事に対して互いに取り組んでいるといった意識が向上することになる。

自らの心を説き伏せ自己了解に余ることへは慎重にして立ち入らず、自らの認識の極限に達したときには自らを立ち留まらせ検討した結果、自らの認識が到達できないとわかることには自らを穏やかに無知有りの儘でいさせるといった方法的態度は確かに身のためになる。
だがしかし、新たな出発点である自らを含めた他者とその世界をも含めた一つの態度 ” 自己への配慮 ” として人間が意識するものを認めて考えると他のものはどうなるのか?
漏れなく付いてくる本来の自己への配慮の大切さを考えるのであれば、自己完結的な閉じられた関係に留まる限界を超えて他者の存在は不可避であり、他者を如何に組み込んだのかによって決まってくる。
円環的に相互作用することによって影響し合う可能性としての力能の発現に付き従い、自らの認識を超えて本来の自己への配慮という大切な活動に向かうフラットなコミュニケーション知により開かれた自分の世界を探求すべきだろう。

 

 

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