束ねる力感」カテゴリーアーカイブ

努力の余力 ” 力のいろいろ ”   束ねる力感 :【 Ⅳ 】「 否定力 」

 

 

「 ” With NIKKO ” 」ウイズ日光

      〜 大自然からの提案 〜

ー  音楽に包まれた「 健光・観光・日光 」ー

 

 

 

 

   ー 自分を生きる地域を活かす ー

 

KANKE 塾:” 地域プロモート ” 開催中

  Community-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

– feasibility of community strengthening –

 

地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつける
先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” ために
地域潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
地域プロモート( Community-development )
” 地域への配慮 ” という大切な活動によって地域の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

→ KANKE 塾 : 地域プロモート《 概説 》

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ー KANKE 塾《 2024年度末 : article 04 》ー

” 束ねる力感 ”【 Ⅳ 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ ” 地域潜在力 ” の可能性を広げる「 否定力 」~

 

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

『 人は地域を創り動かし 地域は人を創り動かす 』

・・・・ 個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化に伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。
実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。・・・・

……… 一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。
その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。
「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。………

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! まさに今、ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するため「 貴ぶ日々に戦いづく目を開く」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、「 肯定か 否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち「 先駆的 ” 忍耐の努力 ” 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。
その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

・・・・・これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしている。
このような点を重視し、それをよく自覚し認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に問題実現や課題実現を図ろうとする視点がある。

人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と実現問題や実現課題として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題解決や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。・・・・・

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為 ( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた 「 地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」だが、「 貴ぶ日々に戦いづくピンチ( pinch )にやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らのうちに雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に「 人間が直面する貴ぶ日々に戦いづくピンチを超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸する 」のだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。
全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面している取り巻く環境の変化とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について ” 想像を巡らさせる ” ことになる。
そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

「 ” 肯定 ” か、” 否定 ” か。」

” 地域を生きる ” ために何が良くて何が悪いのか、長く生きようにも生み出せないものもあり、現実地域と理想地域ともに「 肯定や否定 」などありながらも、生きるを飾るに相応しい地域の「 畢生の傑作( 力作 ) 」だとしてバラエティーを外面的には満ち足りた生き生きとした活気をと、そのように主体自らの人生をおくっているように見えながらも、余りにも活気な地域としてのその逸楽と静寂をもつ主体的地域自らの心の内なるものは常に絶えず満たされず、実は苦悩で一杯なのかもしれない。

理想地域を描いてみるとすれば、力強くてドラマティックな地域の楽園としてアラモードではあるものの、何故だかシャッフルビートしたいような怒りに震えているみたいな激しさもあるのだろか 、、、、、

活気を求めて生気を得るのではなく、もっとも必要で優位なのは意気を得ることであり、何か事をしようとする意気と、事をやり遂げようとする張りの強い意気をもたらすことであり、活気な力と静かな力とを活かし、刺激を感じる「感覚」と外界からの刺激を受け止める感覚的能力として物事を心に深く感じ取る働きの「感性」を鋭く研ぎ澄ましておくことだ。

理想が実現したとして地域が盛り上がった後、一瞬の間をおいて安定し自足したイメージに一抹の陰りを投じ、「 肯定と否定 」に叫び出すという遣る瀬無い善悪の倦怠感が溢れてくるのかも 、、、、、

何かと不安を誘って止まない理想肯定と理想否定に地域活動も夢想しながら、漠とした恐れが招来する今日的な問題として、主体的地域自らの忍耐たるものが心の底で戦いをもしているからこそ、良きにつけ悪しきにつけて諸々の現実地域と理想地域ともに「肯定・否定」の対立を超えようとする。

実世界の様々な現実との狭間で彷徨う主体的地域自ら曖昧なシグナルを読み取り直すことによって、現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している地域自らの内に、雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始する。

「 肯定に反し否定 」とは、主体的地域自らの鍛練を実行する特性なのであり、それは 地域否定または地域犠牲などとは異なるこの地域否定の実行性の特性を通して地域活動をより満足させるために、地域自らの興味や目的・目標をも犠牲にはしないものとして、地域否定の肯定性により地域自らを崩し地域否定性が主体的地域自ら嫌悪に繋がる可能性も全くないのである。

様々に地域否定について異なる見方をしているが、地域鍛練を実行する特性として肯定的な特徴であり、主体的地域自らを手放す行為でもなく、主体的な喜びを忘れたりするものでもなく、より良いものを地域自ら追求するがために主体的な試練を受けたりはしない。

地域否定は時として抑制的制御と感情的地域調節に関連してもいるのだけれども、地域自らの効力を脅かすことなく、主体的な目的目標などをも脅かすこともなく、有益である地域鍛練のという可能性をもつものとして、それら陽性は順応( = 回復 )を経験し、地域自らの主体性をより深く内探し厳探しうることに対し可能性を閉ざすことなく、水準に留まらずして多様な見解に絶えず目を開いて主体的地域自らに集中できるようになるのだが 、、、、、

「 それも時間があってのことであり、もう今となっては遅すぎる。」

遂にこの日が来てしまった! まさに今、ある限り力尽く( ちからず・く )で「 貴ぶ日々に戦いづく目を開く 」のだろうが、もはやピンチ( pinch )!
「 肯定か否定かの努力 」も気が塞ぎ、今日的な環境圧力ともいえるような変化だけを取ってみても時こそ今は ” ひとたび真価を発揮 ” し、地域を活かす悩みから、必死に役立つ違う答えの 「 傑作( 力作 )を求める努力 」を探すことが地域を生きる一つの道なのではなかろうか。
探し続けることなくその意味を満たそうとするならば、積み上げてきた努力や苦労とその成果で得たものなどを無駄なものにするだろう。

「 瞑想の努力 」ならば、” 過敏の努力 ” であり、” 究極の努力 ” を学ぶことだ。
「 鍛練の努力 」ならば、” 訂正服従の努力 ” であり、” 抵抗の努力” でしかないだろう。
「 傑作( 力作 )を求める 」のであれば、” 実践的課題へ取り組む努力 ” だと思うことだ。
「 正解の努力 」を探究( 探求 )したいのならば、”  努力の尻尾( しっぽ )” を掴むことだ。

『 努力の放恣中 』には、活力を奪われ喜びを見出す己が者の境地を楽しむ “ 思い通りに欲するままに勝手気儘の振る舞う放逸 ” によって、自らの可能性を広げる自らの強化・拡張を今に控えた最大の渋滞( 停滞 )を学べばいいだけだ。

『 努力の自制中 』には、活力を与えられ喜びを生み出す己が者の注意深く油断なき心を集中する ” 知恵に達する今今の瞬間に常に気づきを得る不放逸 ” によって、自らの可能性を広げる自らの強化・拡張を今に控えた最強の活気( 生気 )を学ばなくてはならないというわけだ。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生産潜在力 / 潜在的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生産要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生産要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
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未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

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” 自分を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” ため
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” 束ねる力感 ”【 Ⅲ 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ ” 地域潜在力 ” の可能性を広げる「 順応力 」~

 

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

『 人は地域を創り動かし 地域は人を創り動かす 』

・・・・ 個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化に伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな問題や課題を招いている。
実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。・・・・

……… 一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。
その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。
「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。………

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! まさに今、ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 更なる追い討ちに対する駆け引き 」だろう。

” 自分を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体自らの発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、” 連続体 ” の「 外向性か 内向性か 」気のせいでそう思われるほど心持ち「 先駆的 ” 順応( 回復 )の努力 ” 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。
その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

・・・・・これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしている。
このような点を重視し、それをよく自覚し認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に問題実現や課題実現を図ろうとする視点がある。

人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と実現問題や実現課題として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題解決や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。・・・・・

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為 ( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた 「 地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む ” 我がもの食うて主体の力持ち ” 」だが、「 更なる追い討ちのピンチ( pinch )にやるべき連続体としての外向性と内向性とを駆け引きする要素といったものを意識すべき 」であるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に「 人間が直面する更なる追い討ちのピンチを超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸する 」のだろう。

” 地域に生きる ” のではなく” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。
全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面している取り巻く環境の変化とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について ” 想像を巡らさせる ” ことになる。
そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

「 ” 外向的な側 ” が優位か、” 内向的な側 ” が優位か。」

実際には経験のない地域が直面する出来事や現象など、外的な傾向として外的な対象に興味や関心を集中させる姿勢によって ” 想像 ” を巡らすことで、外界との相互作用を試み、地域自らを主張しつつ精力的な活動から地域の有り得る条件や状況を仮に設定するなど、外界との中でエネルギーが増加し外界に活気づけられ、状況に対して強く反応したりポジティブ傾向の頻度やレベルも高くなって根拠のある推測から現実離れした空想をまでをも ” 想定 ” しようとする

対照的に内的な傾向として、内省的で控えめな行動に現れる傾向として主観的な心的内容を通じて対象に向き合う姿勢によって” 想像 ” を巡らすことで、理性と感覚の間の想像力と交換可能な内的に浮かぶ考えなど、反省を通じてエネルギーが増加し、感情知性をもコントロールするといった ” 変化にも柔軟に対応できる心の能力は主体に向けられ想像力がより増加し、実際には経験のない地域が直面する出来事や現象などを客観視してモニタリングし続け、将来起こりそうなことを ” 予想して計画立て ” しようとする。

多様性の中で、外向的はどんな傾向が刺激されても解放されたエネルギーが外向的な行動や表現に自由に流れ出ることでもあり、内向的は反省的な思考が行動や表現を抑制し延期してゆくこともあるが、中間点の前後にある両向性は別として全ての主体として自らに、地域を変える” 活発な力 ” をもつ外向的な側と、地域を変える” 静かな力 ” をもつ内向的な側があり、そのどちらか一方がもう一方よりも優位であるとしたとしても、外向性と内向性は一般的には一つの ” 連続体 ” として見て取ることができ、一方が高ければもう一方が低くなる必要がある。

「 外向力か、内向力か。 」

素早く動いたり、静かに構えたり、激しい勢いで動いたり、どっしりと重みをもって構えて動かなかったり、物事の対処の仕方にも時機や情勢などに応じた動き方がある。
連続体である外向性と内向性という同じだけの合理性・妥当性をもつ( 二律背反 )として二つの相反するその反対の意味を捉えて「 理解を深める 」ことであり、環境・状況の変化にすぐ対処できる性質 の”順応性”を理解し、環境や状況の変化に対して労力・時間をかけず慣れる「順応力」を身につけることだ。

更なる追い討ちのピンチ( pinch )に「 外向的な側と内向的な側の中間点を保つ 」ことを基本に据えた『 回復( 順応 )の努力 』は、単に変化に従って課題を乗り越えるためだけではなく、長期的な成功への道を切り開く鍵となるのであり、物事が思い通りにならないときも上手く進むときも、状況に応じて( 合わせて )適切な行動をとる活発な力と静かな力と両向性が成功を収める契機となる。

活気を求めて生気を得るのではなく、もっとも必要で優位なのは意気を得ることであり、何か事をしようとする意気と、事をやり遂げようとする張りの強い意気をもたらすことであり、活気な力と静かな力とを活かし、刺激を感じる「感覚」と外界からの刺激を受け止める感覚的能力として物事を心に深く感じ取る働きの「感性」を鋭く研ぎ澄ましておくことだ。

地方地域のどれをもが、やり方は違えど同じような事柄を考え繰り返しているのであり、地域としては先ず最初に ” あらゆる地域が共通にもっているもののことを考える ” べきだろう。

主体的地域は、必ず正常というものを確保しようとして動き残り戻りつつも前へと進むのであり、現に今これがダメならこの次があってその次がダメならそのまた次があるのだと、主体として自ら考え動くということだけは絶対止められない常に絶えず当り前のこととしてある。

内向性の増幅と外向性の低下といった点においての主体的地域自らの特性に対する悪影響の可能性が予測されたとしても、「 地域の ” 順応力( = 回復力 )” 」というものは予想を遥かに超えるものであり、その殆ど場合は主体的地域自らが外向性に合わせることにより ” 地域を活かし地域を生きる ” ことのできる環境や手段を見つけることが実に上手いのが地域本来の資質なのだろう。

主体的地域自らの特性の変化や変容には自ずと前向きでなければならず、地域自らには「 地域の ” 順応力 ” 」といったものが備わっている中で、地域は比較的一つの連続体と見做され、地域の外向性と内向性とが自ずと駆け引きする要素といったものを主体的地域として自らが意識すべき。

環境・状況の変化にすぐ対処できる性質 の”順応性”を理解し、環境や状況の変化に対して労力・時間をかけず慣れる「順応力」にある「 地域の ” 順応と回復 ” 」といったものは、地域自らの厳しい現実の実際の活線上のその働きと作用が地域内とともに外界への枠を超えた力の繋がり( 越境連繋 )において発揮されつつ役割を担いはじめるならば、主体的地域としての自らに平常時の安定した精神力や判断力などが自ずと高まる傾向にある。

全ての主体としては自らに外向的な側と内向的な側があり、どちらか一方がもう一方よりも優位であるとするが、外向性と内向性は一般的には一つの ” 連続体 ” として見て取ることができ、一方が高ければもう一方が低くなる必要がある。

主体的地域自らの「外向性と内向性とが駆け引きする要素を自ら調整する」ことにより、地域と外世界との繋がりの間には心理的なエネルギーの減少や増加もなくなり、相互作用の環境的な圧迫に対し、内向的なものは回避することができ、外向的なものは冷静になれるのだ。

今日的な環境圧力ともいえるような変化だけをとってみても、主体的地域自らの特性の変化や変革などは、徐々に自ずと生じ起こるものの、ただ時間がかかるだけにすぎないのだが 、、、、、

「 それも時間があってのことであり、もう今となっては遅すぎる。」

遂にこの日が来てしまった! まさに今、ある限り力尽く( ちからず・く )で「 更なる追い討ちに対する駆け引き 」だろうが、もはやピンチ( pinch )!
「 外向性や内向性の努力 」も気が塞ぎ、今日的な環境圧力ともいえるような変化だけを取ってみても時こそ今は ” ひとたび真価を発揮 ” し、” 地域を活かす ” 悩みから、必死に役立つ違う答えの「 順応力や回復力を高める努力 」を探すことが ” 地域を生きる ” 一つの道なのではなかろうか。
探し続けることなくその意味を満たそうとするならば、積み上げてきた努力や苦労とその成果で得たものなどを無駄なものにするだろう。

「 活発な努力 」ならば、” 感覚の努力 ” であり、” 無遠慮の努力 ” を学ぶことだ。
「 静かな努力 」ならば、” 感性の努力 ” であり、” 心の努力” でしかないだろう。
「 順応力や回復力を高める 」のであれば、” 実践的課題へ取り組む努力 ” だと思うことだ。
「 正解の努力 」を探究( 探求 )したいのならば、” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むことだ。

 

『 努力の夢中 』には、活力を奪われ満足感を見出す精力的な外的活動を通じて解放的なエネルギーが増加して自由に流れ出し想像を巡らすポジティブ主張の特性が強い興奮性と溌剌性によって、自らの可能性を広げる自らの強化・拡張を今に控えた最大の渋滞( 停滞 )を学べばいいだけだ。

『 努力の意中 』には、活力を与えられ満足感を見出す外的事柄を認知するのみならず経験・知覚・観念の関係に注意しつつ問題の解決を求め想像を巡らすポジティブ思考の特性が強い冷静と憂鬱によって、自らの可能性を広げる自らの強化・拡張を今に控えた最強の活気( 生気 )を学ばなくてはならないというわけだ。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )



短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生産潜在力 / 潜在的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生産要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生産要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

→ アクティビティ

ー KANKE 塾《 2024年度末 : article 03 》ー

努力の余力 ” 力のいろいろ ” 束ねる力感【 Ⅲ 】
~ ” 自己潜在力 ” の可能性を広げる「 順応力 」~

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

→ カテゴリー : 束ねる力感

→ カテゴリー : 八百万の力

→ カテゴリー : 思巡の活力

→ カテゴリー : 誰もが地力

→ カテゴリー : 日々の力行

 

 

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努力の余力 ” 力のいろいろ ”   束ねる力感 :【 Ⅱ 】「 理解力 」

 

 

「 ” With NIKKO ” 」ウイズ日光

      〜 大自然からの提案 〜

ー  音楽に包まれた「 健光・観光・日光 」ー

 

 

 

 

   ー 自分を生きる地域を活かす ー

 

KANKE 塾:” 地域プロモート ” 開催中

  Community-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

– feasibility of community strengthening –

 

地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつける
先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” ため
地域潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
地域プロモート( Community-development )
” 地域への配慮 ” という大切な活動によって地域の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

→ KANKE 塾 : 地域プロモート《 概説 》

→ KANKE GRAND 日光 : エッセンス《 趣旨 》

→ OFFICE KANKE : お問い合わせ《 メール 》

 

 

ー KANKE 塾《 2024年度末 : article 02 》ー

” 束ねる力感 ”【 Ⅱ 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ ” 地域潜在力 ” の可能性を広げる「 理解力 」~

 

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

『 人は地域を創り動かし 地域は人を創り動かす 』

・・・・ 個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化に伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな問題や課題を招いている。
実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。・・・・

……… 一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。
その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。
「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。………

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! まさに今、ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するために「 気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

地域に生きるのではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、「 動くか 動かざるか 」気のせいでそう思われるほど心持ち「 先駆的 ” 瞬間の努力 ” 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。
その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

・・・・・これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしている。
このような点を重視し、それをよく自覚し認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に問題実現や課題実現を図ろうとする視点がある。

人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と実現問題や実現課題として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題解決や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。・・・・・

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為 ( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた 「 地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で興奮・動揺し戦々恐々として右往左往に動こうとする 」が、今の瞬間ピンチ( pinch )にやるべき「 常に落ち着き慌てて騒いだり焦ったりしない従容( しょうよう )として余裕綽々( しゃくしゃく )たるべき 」であるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に「 人間が直面する様々なピンチを超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸する 」のだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。
全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面している取り巻く環境の変化とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について ” 想像を巡らさせる ” ことになる。
そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

「 ” 周章狼狽 ” として少なからず動くか、” 泰然自若 ” として少しも物事に動じないか。」

実際には経験のない地域が直面する出来事や現象など、脳の能力である「 頭の中 」に想い描きながら ” 想像 ” を巡らすことで地域の有り得る条件や状況を仮に設定するなど、根拠のある推測から現実離れした空想をまでをも ” 想定 ” する。
心も能力の一つであり、「 心の中 」に浮かぶ考えの ” 想念 ” に涵りながら理性と感覚の間の想像力と交換可能な想念は感情知性をもコントロールするといった ” 変化にも柔軟に対応できる心の能力 ” は、実際には経験のない地域が直面する出来事や現象などを客観視してモニタリングし続け、将来起こりそうなことを ” 予想して計画立て ” ようとする。

素早く動いたり、静かに構えたり、激しい勢いで動いたり、どっしりと重みをもって構えて動かなかったり、物事の対処の仕方にも時機や情勢などに応じた動き方があり、同じだけの合理性・妥当性をもつ( 二律背反 )として二つの相反するその反対の意味を捉えて「 理解を深める 」ことである。

今の瞬間ピンチ( pinch )に「 頭と心の冷静さを保つ 」ことを基本に据えた『 理解の努力 』は、単にその瞬間を乗り越えるためだけではなく、長期的な成功への道を切り開く鍵となるのであり、「 失意泰然得意淡然 」として物事が思い通りにならないときも上手く進むときも、落ち着いていて動じないことが成功を収める契機となる。

活気を求めて生気を得るのではなく、もっとも必要で優位なのは意気を得ることであり、何か事をしようとする意気と、事をやり遂げようとする張りの強い意気をもたらすことであり、活気な力と静かな力とを活かし、刺激を感じる「感覚」と外界からの刺激を受け止める感覚的能力として物事を心に深く感じ取る働きの「感性」を鋭く研ぎ澄ましておくことだ。

気づきであろうがなかろうが多く人は、自らをより前向きにもっと進んでゆこうと自らを動かすことを強く意識するのであり、継続し自ずと行動できるようにしようとする。
その一方では、何事にも揺るがされない心をもって動くべき時まで決して軽々しく動かないといったような思いや考えも無きにしも非ず。

いつしか内観( 地域知 )よる地域認知から高度なメタ認知へと、主体的地域自らを自らで知る向きへなってゆきながら、自らの認知や思考などを恰も第三者のように自らが客観視して理解したり振り返ったり、時には主体的地域自らコントロールしたりすることなど、地域自体自らに向かう時がやってきて、そうして自らをより正しく知り、その認知や思考は信念か欲求か想像か想念か分からないが、より着実で実り豊かな前進効力に富んでおり、その様な中で主体的地域自らを自らで知ろうと自らの考えについて考えることへと向かう。

知覚と異なり特有の現象性が存在しない中で,内観又は内観の結果である地域知は自らがどのような動機で動いているのかを全存在と全感覚を使ってのみ理解でき、言語でのみ地域自らを捉えて知ったつもりでも無意識領域が大きく地域知は浅くなる。

認識的な強さに関わる信念も欲求も想像も生起的か傾向的かによって異なる中で、主体的地域自らを正しく知ることは意外に難しくても、先ずは地域認知として自らの認知や思考とともに主体的地域自らの価値観や長所短所と強みや弱さを的確に把握認識し、全ては何故そうなのかを深く理解した上で、高度なメタ認知によって、主体的地域自らで把握して知識として理解できることであり、地域自らを分析して得た自らについて知っている知識を得て、主体的地域自らどのように行動すべきかを考えることである。

メタ認知を用いることで自らの思考や行動などを自律的・合理的にコントロールできるといったその期待の中で、感情知性が高ければ感情に関するメタ認知に優れ、より創造的な問題解決において既存の知識を新たな分野に適応したり既存の知識同士を組み合わせて新たな解決方法を開発することなどが求められのもメタ認知なのだ。

客観的自己やもう一人の自らから捉え、主体的地域自らの思考や行動そのものをも対象化した認識によって物事や経験に対するより正しい理解や自らの認知行動をより正しく知る上での思考能力をもつことであり、地域自らの状態を明晰に判断するためのメタ認知的知識をもとにして主体的地域自らの考えの矛盾に気づき、地域自らがもつ課題や問題の特性を把握した上でその対応や解決などの方略を主体的地域自ら修正して活動を行っていく。

主体的地域として自らの思考や能力を把握した上で現状を確認しさらに行動を変えてゆくなど、その複雑な過程に求められる地域自らの能力をもって変化に適応していくことになる。

地域分析が上手になれば、主体的地域自らの知識や考え方などを見直すことができるのであり、それらに囚われずに常に地域自らを変化させて外の変化に対し柔軟に対応できる。

認知特性や課題と方略に関する知識を経験から蓄積し、そのそれぞれを必要に応じ活用する中で、自らが何かを行う際どのようなプロセスを踏んでいるのかを知ることや自己自身自らの思考や行動そのものを対象化し客観的に把握・認識してそれらを実行する。

主対的地域自らの内的アクセスは地域自らの思考について特殊で特権的でもあって他への思考へのアクセスに対する相対的に高い信頼性が伴っており、探知といったような点で知覚との類似点がある一方においては現象性がないといった点での相違点もある。

信念や欲求と想像や想念などが生起的又は傾向的かによって明らかに異なる中で、信念一般や欲求一般と想像一般など大雑把に捉えべきではないところの主体的地域自らに向かう志向性とその可能性の現象性との三つの性質をもった想念一般を踏まえておかなければならず、「 理性と感覚との間の想像力と交換可能な想念 」は感情の端緒の結晶ではないものとして、想念一般は外部の対象など契機として生じ行為を生起させ地域を行動へと駆り立てる。

根源性という人間に備わった心の内なるものに気ままな熱心さと不毛な好奇心をもてば、感情の端緒の結晶ではない想念一般の現象性と大いなる志向性における最も小さくはあれど理性と感覚の間の想像力と交換可能な最も素晴らしい快さを伴う思考の方向と考えざるを得ず、その想念はもっとも素晴らしい快さを伴う主体的地域自らの思考の方向と地域自らの観念につながるものとして心の只中で地域の地域に対する反省の営みが有している地域自ら限界の存在が暗示されはじめることによりおそらく何度も掻き消されながらそういった形での心の領域が深く積み重なってくるのだ。

特に変化するこのような今だからこそ、特にこのようにメタ認知能力を高めるべきであり、主体的地域自らの知識や考え方は陳腐で従来的に縛られていないか確認し、常に地域自らを変化させることである。

感情知性をもコントロールしながら変化にも柔軟に対応できるその能力は、地域分析能力にも優れ、地域自らを客観視してモニタリングし続けていくならば、それは自ずと主体的地域自らの弱点や不足などといったものが見えてくる。

客観的な地域分析さえできれば、地域自らの思考行動などを前向きにコントロールすることで、それだけ主体的地域自らをより前へと進め成長させる機会は確実に増えてくる

「 至らぬ準備などをして機会が訪れるのを待ち受けるようなそのような満を持することなく 」、あらゆる変化に適応すること以上に主体的地域自らを知り地域自らを進化・発展させて『 地域強化( 地域拡張 )』 をしていくことなのだ。

このような今に至る前は、多種多様な要素が合理的にも複雑に絡み合っている中で、ある特定の一要素を変えても大きな変化には至り難かったのだがしかし代替可能ということによって、この変化自体の中に全き淘汰があって変化できないだろうとしていたはずのこと自体が、「 実は変化できるということに ” 気づき ” 」があるはずだ。

以前に戻そうと時期を逸して立ちゆかなくなる前に、枠に囚われた価値観を超えて自らが新しい価値づくりに向う新たな自らの生成に向け変化してゆくべき契機だろう。

「 ならば、主体的地域自らを学ぶしかないだろう。」

この変化に従い主体的地域自らの思考や行動がそれに合うように変えて順応するのではなく、この今だからこそ、地域自らを学び地域自らを知り主体的地域自らを判断して自らを進化させることだ。

主体的地域自らを知るといったことは、謎を謎で置き換えるだけではなくて、一生続くであろう最も価値ある学びなのであり、「 地域自らを学ぶ 」ということは、学ぶ可能性にあるよりも、地域自らへの正義として自ずと学ぶことによって実現されるべき究極的な価値として最も曖昧な最も正しい意義又は解釈として主体的地域自らを学ぶということになる。

あらゆる状況変化に巻き込まれている地域自らへのそのような主体的地域の正義として、そのために地域自体というものを知り続け未来に向かって進むということであり、地域自体を変化させ未来の原義そのものに地域自ら投げかけていくということになのだが 、、、、、

「 それも時間があってのことであり、もう今となっては遅すぎる。」

遂にこの日が来てしまった! まさに今、ある限り力尽く( ちからず・く )で「 気づきによって変化してゆくべき契機 」だろうが、もはやピンチ( pinch )!
「 動くか動かざるかの努力 」も気が塞ぎ、今日的な環境圧力ともいえるような変化だけを取ってみても時こそ今は ” ひとたび真価を発揮 ” し、” 地域を活かす ” 悩みから、必死に役立つ違う答えの 「 自らを学ぶ努力 」を探すことが ” 地域を生きる ” 一つの道なのではなかろうか。
探し続けることなくその意味を満たそうとするならば、積み上げてきた努力や苦労とその成果で得たものなどを無駄なものにするだろう。

「 冷静さを保つ努力 」ならば、” 冷徹な努力 ” であり、” 虚無的な努力 ” を学ぶことだ。
「 失意泰然得意淡然の努力 」ならば、” 沈まない努力 ” であり、” 浮かない努力” でしかないだろう。
「 自らを学ぶ 」のであれば、” 実践的課題へ取り組む努力 ” だと思うことだ。
「 正解の努力 」を探究( 探求 )したいのならば、” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むことだ。

『 努力の放恣中 』には、活力を奪われ喜びを見出す己が者の境地を楽しむ “ 思い通りに欲するままに勝手気儘の振る舞う放逸 ” によって、自らの可能性を広げる自らの強化・拡張を今に控えた最大の渋滞( 停滞 )を学べばいいだけだ。

『 努力の自制中 』には、活力を与えられ喜びを生み出す己が者の注意深く油断なき心を集中する ” 知恵に達する今今の瞬間に常に気づきを得る不放逸 ” によって、自らの可能性を広げる自らの強化・拡張を今に控えた最強の活気( 生気 )を学ばなくてはならないというわけだ。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )



短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生産潜在力 / 潜在的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生産要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生産要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

→ アクティビティ

ー KANKE 塾《 2024年度末 : article 02 》ー

努力の余力 ” 力のいろいろ ” 束ねる力感【 Ⅱ 】
~ ” 自己潜在力 ” の可能性を広げる「 理解力 」~

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

→ カテゴリー : 束ねる力感

→ カテゴリー : 八百万の力

→ カテゴリー : 思巡の活力

→ カテゴリー : 誰もが地力

→ カテゴリー : 日々の力行

 

 

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努力の余力 ” 力のいろいろ ”   束ねる力感 :【 I 】「 実現力 」

 

 

「 ” With NIKKO ” 」ウイズ日光

      〜 大自然からの提案 〜

ー  音楽に包まれた「 健光・観光・日光 」ー

 

 

 

 

   ー 自分を生きる地域を活かす ー

 

KANKE 塾:” 地域プロモート ” 開催中

  Community-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

– feasibility of community strengthening –

 

地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつける
先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” ため
地域潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
地域プロモート( Community-development )
” 地域への配慮 ” という大切な活動によって地域の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

→ KANKE 塾 : 地域プロモート《 概説 》

→ KANKE GRAND 日光 : エッセンス《 趣旨 》

→ OFFICE KANKE : お問い合わせ《 メール 》

 

 

ー KANKE 塾《 2024年度末 : article 01 》ー

” 束ねる力感 ”【 I 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ ” 地域潜在力 ” の可能性を広げる「 実現力 」~

 

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

『 人は地域を創り動かし 地域は人を創り動かす 』

・・・・ 個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化に伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな問題や課題を招いている。
実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。・・・・

……… 一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。
その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。
「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。………

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! まさに今、ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するために「 機転を効かせる手腕の見せ所 」だろう。

地域に生きるのではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、「 十八番か隠し芸か 」気のせいでそう思われるほど心持ち「 先駆的 ” 巧みな知恵と努力技術 ” 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。
その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

・・・・・これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしている。
このような点を重視し、それをよく自覚し認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と実現問題や実現課題として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題解決や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。・・・・・

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為 ( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた 「 思い通りの ” 欲しいままに( 放逸 ) ” 考え力や能力に達する 」が、今の瞬間ピンチ( pinch )にやるべき ” 常に気づきがある( 不放逸 )” べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に「 役立つべき ” 知恵に達すことなく ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸する 」のだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。
全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面している取り巻く環境の変化とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について ” 想像を巡らさせる ” ことになる。
そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

「 考える力や能力の差より努力の差は大きく、実現力の差は努力の差。」
「 考える力や能力の差は小さいが、努力の差は大きい。」
「 考える力や能力を達するが努力を逸するのは、考える力や能力を得意に増長し、努力を疎かに忽略する( ゆるがせにする )。」

知恵に達することができない「 放逸 」という思い通りに欲するままの『 考え方や能力 』ではなく、今だからこそ知恵に達する常に ” 気づき ” ある「 不放逸 」という簡単な『 努力する行為 』を本質に迫るべきであり、今ある自らを獲得されたきた根拠を問い直すことは次なる実現課題を生み出す契機でもある。

活気を求めて生気を得るのではなく、もっとも必要で優位なのは意気を得ることであり、何か事をしようとする意気と、事をやり遂げようとする張りの強い意気をもたらすことであり、活気な力と静かな力とを活かし、刺激を感じる「感覚」と外界からの刺激を受け止める感覚的能力として物事を心に深く感じ取る働きの「感性」を鋭く研ぎ澄ましておくことだ。

自らの意識( =欲望 )における『 束ねる力感 』として、主体的地域がもつ ” 考える力と努力と能力 ” のその三つの要素の掛け算を捉えてみることだ。

『 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 』にあるのが「 努力 」。
『 実践効力性( performance : パフォーマンス )』にあるのが「 考える力と能力 」。

パフォーマンスの実践効力性( 考える力や能力 )の差よりも、「 可能力性 」という『 地域強化 』に向けたフィジビリティの実現可能性( 努力 )の差は大きく、「持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て ” 地域アドバンス ” のために主張して援用される『 知恵力 』として、筋道を立て判断し計画して正しく処理していく「 知恵に達する ” 気づき ” 」を主体的地域自らにもたらすことだ。

物事に取り組む際の対応の仕方としての取り組み方やその姿勢・態度とスタンスである「 考える力( thinking : シンキング)」や「 能力( ability : アビリティ )」は、数々の思考法や発想法などの一覧から能力のプロセスを辿る数々の方法( 学習・発達の能力開発など )によって高める ” 力のつけ方 ” 次第でどうにでもなり、考える力や能力としての程度( = 力量 )は ” 力のつかい方 ” 次第なのだ。

考える力や能力は安定性をもっており、全体を同じ様子・状態に揃える文脈に依存し、基本的にはいつでも同じように働き作用するというイメージをもちつつ文脈に応じて上手く働いたり働かなかったりする能力としての程度であるその力量( 力の大きさ )が問われる。

「 努力 ( techno:テクノ )」は、状況や事態に対処できる能動的な力として物事を成し遂げることのできる基礎力としてもともと身につけ身にもっていて、” 力のつけ方 ” や ” 力のつかい方 ” ではなく、「 力 」の文脈は ” 力のもっていき方( 力の進め方 )” をどうするかということになる。

文脈を超えた「 力 」は状況や事態を対処した力や物事を成し遂げた力を十分に理解し納得することでしかなく、その得心のあり方次第では考える力や能力としての程度である力量の ” 力のつけ方 ” が決まるにすぎない。

力を ” 考える力や能力の範疇 ” で捉えれば 、成果・成績を改善し向上できるように高める ” 才能 ” として、 成果や成績と実力を高める ” 向上改善 ” の「 実践効力性( performance : パフォーマンス )」だと見て取ることができる。

力を ” 努力の範疇 ” で捉えれば、物事を上手く処理できるように進める ” 才幹力( 才腕力 )” として、状況や事態に対処できる能動的な力や物事を成し遂げる ” 創意工夫 ” の「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」だと見て取ることができる。

そもそも主体的地域というものは自らの地域強化や地域拡張に向けて日々進化していくからであって、いずれにしても地域自らを可能な限り使いこなした上で、地域自らの優位性をも発揮してゆく主体的地域の保有している考える力や能力を発見・整理し、その力をより一層高める活動のことが人それぞれに求められているのだろう。

力は一つの文脈で、力のいろいろな解き方で、できるだけ多くの問題や課題に正解しようとする。
大して文脈を重視したわけでもない力を指し示す文章、その流れの中にある意味内容の繋がり具合である文脈に合わせて、実際に力の働きとその作用を調整するということは、思っていた以上になななかどうして難しい。

” 力の文脈を超えて ” 、自らの力で実際に、状況や事態に対処することや物事を成し遂げることのそれができるならば、大して立派なもんだ。

『 力は力で形づくることはできず、力は力で生み出される 』

力は力で力が醸成されるので、力というものは剥き出し単一の力ではなく、多様な力が互いに密接な関連をもって連繋・付随している。

状況や事態に対処したり物事を成し遂げるために打ち出す力として、力に大きなムラがあるそのような無理力性にあっても、特に無駄といった力より得られた力には大きく不定性があるように、力は目に見えて顕在的なものではなく、実現可能性として具える力は潜在的に発揮されているであり、力を導き出す文脈は無いのも当然だ

人皆誰も全能は無理承知として、自らの意志( 意思 )による自らの意図するものに際限なく飽く迄でも忠実に止まることを知らず、” 思い通りの考え方や能力による欲しいがままに ” 自らの筋立てが一体どのように成り行くのかさえも自ら決して知らないのだとしても、自主的に遅らせることなく瞬く間に人は、いつも次の事をまた始めからやり直してゆくのだが、そのような歩みのうちにいつしか自の有用感は高まってきて、肯定感も覚えるようになってくるのだろう。

「 全き忘却は人間として不可避避なのであって、またそれはそれでもいい。」

現実世界のうちに置かれた自らの状況からくる慣れた狭い見方の癖があることや、如何に自らがその状況に殆ど半ば巻き込まれているかということなども含め、常に絶えず完全なる客観性は実際にすべて不可能であるといったことを、いつしかこれらの問わず語りに自ら視点をその人なりにもつようになるだろうし、自らを強化・拡張して自らの可能性を広げ、これを認識し切り抜け乗り越える実現力を自らに身につけるようにもなるからなのだが 、、、、、

「 それも時間があってのことであり、もう今となっては遅すぎる。」

遂にこの日が来てしまった! まさに今、ある限り力尽く( ちからず・く )で「 機転を効かせる手腕の見せ所 」だろうが、もはやピンチ( pinch )!
「 十八番の考え方や能力も隠し芸の努力 」も気が塞ぎ、今日的な環境圧力ともいえるような変化だけを取ってみても時こそ今は ” ひとたび真価を発揮 ” し、” 地域を活かす ” 悩みから、必死に役立つ違う答えの 「 知恵を磨く努力 」を探すことが ” 地域を生きる ” 一つの道なのではなかろうか。
探し続けることなくその意味を満たそうとするならば、積み上げてきた努力や苦労とその成果で得たものなどを無駄なものにするだろう。

「 腕前の努力 」ならば、” 発揮の努力 ” であり、” 披露の努力 ” を学ぶことだ。
「 文脈の努力 」ならば、” 超える努力 ” であり、” 努力の努力” でしかないだろう。
「 知恵を磨く 」のであれば、” 実践的課題へ取り組む努力 ” だと思うことだ。
「 正解の努力 」を探究( 探求 )したいのならば、” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むことだ。

『 努力の放恣中 』には、活力を奪われ喜びを見出す己が者の境地を楽しむ “ 思い通りに欲するままに勝手気儘の振る舞う放逸 ” によって、自らの可能性を広げる自らの強化・拡張を今に控えた最大の渋滞( 停滞 )を学べばいいだけだ。

『 努力の自制中 』には、活力を与えられ喜びを生み出す己が者の注意深く油断なき心を集中する ” 知恵に達する今今の瞬間に常に気づきを得る不放逸 ” によって、自らの可能性を広げる自らの強化・拡張を今に控えた最強の活気( 生気 )を学ばなくてはならないというわけだ。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )



短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生産潜在力 / 潜在的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生産要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生産要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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ー KANKE 塾《 2024年度末 : article 01 》ー

努力の余力 ” 力のいろいろ ” 束ねる力感【 I 】
~ ” 自己潜在力 ” の可能性を広げる「 実現力 」~

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

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