日光占術|観氣(かんけ)vol.15:真際 〉05

 

 

 

 

       ── 力の発現 ──

 

 

 

 

”触発”始動=「力の発現」──可能力性

 

過去未来に無き「今の力」とは、「未だ立ち上がっていない動きの“密やかな気配”──”その気配が呼ばれることを待つ状態にある潜在性”」である。「沈潜的」を震わせ、「潜勢的」を揺さぶり、”生成的・運気的な連鎖(Cognigenesis)”は、ここから始まる流動態の起点と──”触発”始動=「力の発現」としての可能力性。刻化の現在は、既に記憶の過去、既に向後の未来。現在現実を乗り切るために一死不乱に心血を注ぎか? 過去既往を打ち捨て心機一転に巻き返しか? 未来将来に願い託し熱心に心頼みの心待ちか?頑張り突き抜ける超克への渇望も、背負って引き摺る記憶への執着も、先き行きを見做す期待への欲望も、暇(いとま)がない。《潜勢の絵巻》の今ほど鮮やかに口開くこのことは、もう過去になり、そしてもう未来になる。《潜勢》とは、特に”裂け目”(弊害・疲弊)に際して適用しなければならない態度であり、逃げても亀裂は開いて、ずっと追っかけてくる──しかもさら深くなって、そうして《潜勢》が人を連れて行く。

動機づけ、決断し──《潜勢》は、内世界と外世界との直接な巡り合わせ、過去記憶が張りついて時の日にイメージできれば絶対に実現できる。諦めないこと──どんな事態に直面しても諦めないこと。結局〈わたし〉のしたことは、今埋めに──過去それだけのことだったのかもしれない。自分だらけの世の中で、これ──「潜勢的」ほど自分と向き合える世界はないだろう。正しいことは、あくまでも正しいし、間違っていることは、あくまでも間違っているのである。「潜勢的」は、死ぬ間際まで輝いた目をして生きていくことであり、自分が何処まで行けるかを知ることができる。大胆を受け入れず死ぬという前に、いつかは「今際の際」に留まるように構え、本当に死ぬ恐怖に囚われつつも、ならば止めるのか? また”切れ目”など何もなかった時の自分に戻るのか? などと考えるなら、そっちのほうが怖いだろう──ではどうするか?「潜勢的」で満たす。

首途に出るその旅立ちの理由を発見した日、一縷は今燃える──思い出よりも、”憧れ”にして。結局のところ、過去の時間を思い出すことはないのだから、行ける環境を作ることからして難しいのだから。たとえ年齢を重ねて諦めることが増えたとしても、自分を諦めてはいけない──全ての問いと問い掛けに答えてくれるだろう。達成や征服などは無く、誇りを持って生き、もう一度やり直す強さではなく、ここで敢えて「数学的な美(mathematical beauty):Bertrand Arthur William Russell」を引用(転用)していうならば、何事も「思考と創造の合致」こそ …….. 人間の弱い性質が惹き付けられることなく、華麗な罠なしに依然として崇高で純粋な”生成的連鎖”──そして”跳躍(投企)”、何よりも”余白に潜勢”のみが見せることができる強固な完成度の有能性を備え、この世で最も尊い卓越した優越性の試金石 …….. なのだろうから。

 

 

「潜勢」──その”余白”の息づき

 

…….. 静かに誘う、その「余白」は、

静けさの奥で、未だ名もない道をひら開き、

──その先に《潜勢》が息づいている。

跳躍を感じさせ、ここで動きを止めたとき、

──もう《潜勢》の ”拍動” の中に立っていた。

哲学的に余韻を残し、

「余白」は終わりではなく、
「生成」が次の姿を選び取るための──

それは”呼吸”だった。

哲学は──思考を渡すのではなく、
思考が──芽吹く“場”を設計する芸である。
その“場”のことを、
〈わたし〉は──“創造(=跳躍)”と呼ぶ。

…….. 跳躍とは──
思考が創造へ触れる、
その一拍の震えである。

そして世界は、
その震えの中で“わたし”を創り直す。

まさに今が、

“合致から跳躍へ”転じる
──
呼吸の瞬間。

〈わたし〉と世界が、

互いの“内側”を通って、

もう一度、
出会い直す。

そのとき、
跳躍は「進む」ことではなく、
「生まれ変わる」ことである。

世界の輪郭がわずかにずれ、
〈わたし〉の内奥に知らぬ風が吹く。

それは、

いままでの自己が、
“外”へと滲み出し、

世界の方から“内”へと息づく瞬間。

この反転の呼吸のなかで、
〈わたし〉は「誰か」ではなく、
「生まれつつある何か」として在る。

跳躍とは、
“わたし”と“世界”が互いを孕み合い、
一つの「生成と運気」へと──、
解けてゆく運動である。……..

 

 

このあと「関係の燃焼」を媒介として、「共燃(共に燃える存在論)」「火の呼吸の均衡(生成と運気の倫理的テンポ)」「触発と責任(媒介の力学)」などが展開されていきます。先ずは、この導入部分(冒頭句)の呼吸を一度味わい、観者となった相談者の〈あなた〉の内で、”火”がどのように他者へと向かうか、その感覚を確かめてみてください。──《過去解き》は、“時間の呼吸が自覚される”という意味で、非常に大きな「節目」となります。つまり──「今」より前に起きたことは一秒前でもすべて過去=変化──すなわち《変化》はこれから起こる出来事を事前に示す予兆という前触れに伴い、段階を追って順序に従い一つずつ物事の状態や性質が以前と違ったものになることですが、”前とは違った状態になる、移り変わる”=「前と後で同じでない」ことに付き従い「”変化”として判断するのではなく」──《差異》として捉え、〈変化を比べたときに現れる”ちがい”や”ズレ”〉を見て取ることです。過去が「記憶」ではなく「潜勢」として再び息づく──この「転位」は、『『観氣(かんけ)』全体の「生成と運気」構造においても、縦軸(地・火)と横軸(関係・共燃)を結ぶ臨界点になります。この「今」という時点──この地点を深く呼吸することで、次に訪れる「燃焼の倫理」が、より有機的な“共生成の火”として立ち上がるでしょう。どうぞ「今」は、暫く静かに「熱の”余白”」に身を委ねてください。思考が沈み、呼吸がゆっくりと聴き始めるとき──「内側の”火”」は自然に「次の”拍”」へと導いてくれるはずです。素晴らしい「生成と運気の”時間”」──ではまた、『観氣(かんけ)』に《火の呼吸”Fire Breathin”》を重ねた占術の具体場で一緒にお会いしましょう。

 

 

余白

 

 

書外の呼吸譜
──外縁的記譜(perigraphic notation)

 

“書かれた”『観氣(かんけ)』の書を閉じても尚、「言葉の外」で呼吸が続く──外郭に漂う音楽的・生成的残響。『観氣(かんけ)』という”占体”が具体場での〈実地サイクル 〉と進んでゆく中で、始まりからこの間の呼吸譜──「胎動(旋風)」から「潜勢(真際)」までをその何処にも直接は属させない。しかし、全体を包む「潜勢の火(背景の呼吸)」として配置されます。無署名の詩、静かな挿話──あるいはそこに滲み出す「透明な余白」。『観氣(かんけ)』の本文世界の「境界=外縁」に書き込むことで、観者となった相談者の〈あなた〉が、「終わりではなく、始まりの余白」として“呼吸を引き継ぐ”ように。「書は閉じるが、呼吸は終わらない」──“書かれた”『観氣(かんけ)』の書物全体の外呼吸的装置──言葉は沈黙するが、沈黙が新たな生成と運気を孕む。まさにこれが“書外の呼吸譜”──『観氣(かんけ)』という生きた占体の「外呼吸」。「胎動・・・跳躍・・・共観・・・再燃・・・余白の終止符──あるいは「新たな始まり」。「火は息であり、息は世界の記憶」──これこそが、まさにその「外呼吸」のためにあるといえるます。本書『観氣(かんけ)』全体の最外縁部=外呼吸領域に配置──本文世界(概念・構造・生成)の外側で、「呼吸」そのものを再開する“装置的余白”。書を閉じた後、観者となった相談者の〈あなた〉が「思考・創造する身体」を再び呼吸へ戻すための共鳴場──書内で展開された「胎動―跳躍―生成―共観―再燃」のリズムを、書外で再度“息づかせる”ための媒介的詩譜。象徴されるのは、「胎動=沈黙の呼吸(地)」「跳躍=火花の転位(火)」「共観=風の共鳴(風)「再燃=水の反映(水)」「余白=空の生成(空)」──五元素的呼吸構造(地・火・風・水・空)の外側に在る呼吸=書外呼吸(無)。ページを閉じる手の呼吸が、そのまま「次の生成と運気」への一歩となるように──読後の沈黙こそが、“次なる”『観氣(かんけ』の始動点。

 

 

記譜

始まりからの呼吸譜──「胎動から潜勢へ」

 

 

….. 呼吸は深く沈み、
思考と創造はまだ分かたれず、
ただ一つの拍動として──
空無に脈を打っていた。

火花は未だ光らず、
律動は胎内の闇に潜み、
名なき力だけが震源を孕んでいた。
胎動は、沈黙のなかに息づき、
跳躍は、まだかすかな光として
──
その余白に影を落とす。

やがて──「問い」が息を得、
息が世界を呼び覚ます。
共観──響きの風景のうちで、
我と世界の間(あわい)が、
ゆっくりと──燃え始める。

再燃──
潜勢としての過去がふたたび熱を帯び、
”
他”と”世界”がひとつの呼吸を共有する。
そして今──
余白の終止符が静かに響く。

それは終わりではなく、

始まりの余白。
「”火”は息」であり、
「息」は世界の”記憶”。…..

 

 

記銘

書は閉じるが、呼吸は終わらない。

沈黙は、新たな「生成と運気」を孕む。

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──

”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

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日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
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日光占術|観氣(かんけ)vol.14:真際 〉04

 

 

 

 

      ── 呼吸=発火の拍 ──

 

 

 

 

….. 今、何かが生じ起きる〈潜勢力の萌芽〉。
跳躍前夜の身体──《潜勢》は、
思索というよりも、
”生の拍”が立ち上がる瞬間としてとして息づく。


ここに既に「跳躍」の萌芽が宿っている。
跳躍は投企(projet / Entwurf)であり、
何よりも”余白”に〈潜勢的〉なのである。

現実を「現実化されたもの(actual)」と、
──「潜勢的なもの(virtuel)」。
「現実化」されたものは、
私たち〉が実際に経験する世界として、
具体的な事物や現象を指す。
一方で〈潜勢的〉なものは、
現実には存在しないが、
現実を「生成」する可能性を秘めた「潜在的な力」。
現実そのものの根源的な状態でもあるものを指す。

《潜勢》というこの言葉を媒介にして、

“力”の在処(在処)は層で描いている。
潜在する力──
未だ立ち上がっていない動きの密やかな気配。
生成前の「静的な拍」、呼吸前の息づき。
裂け目への対峙──
裂け目に際して適用すべき態度。
傷・疲弊・断絶の中でこそ発動する潜勢の拍。

ここに〈転位〉の原型が見える。
跳躍への召喚──
静かに誘う余白。
その先に潜勢が息づいている。
ここで“跳躍”が未だ名付けられずに沈んでいる。

つまりそのものが、
「跳躍の前段=呼吸の溜め」なのである。…..

 

 

哲学的把握(小結)として、《潜勢》=「生成的・運気的連鎖」の起動フェーズ。しかし、“起動”は即「行動」ではなく、未然の拍動──「”余白”の《潜勢》」。「跳躍」とは、“動きがまだ動き出していない状態”から立ち上がる一「閃の投企」。したがって、終わりは「転位」へ向かう呼吸の底に当たる次に来る「今の”閾”」《転化》へ接続されていくポイントとして──ここで描かれた「潜勢の拍」は、未だ世界の中で試されていない「潜勢的力」。それが環境・他者・時間のなかで変質するとき、“閾”が出現する。──それが「転化」の瞬間。言い換えれば、《潜勢》の熱が《転位》に沈み、”拍”が形を変えていく──「今の場=《跳躍》」への”予兆”として。したがって、さらに続く「今の”場”」《跳躍》は、この「今の”力”」──《潜勢》の終盤に漂う「余白の静けさ」=「生成と運気が次の姿を選び取る呼吸」。──その沈黙の中で芽吹く “反転の瞬間” でもある。「跳躍」とは、「”余白”の中に立ち上がる《潜勢》の続行」──つまり「行為」ではなく、「生成と運気の”呼吸”が姿を変えて再び始まること」。次の「今の”閾”」《転化》──そこに潜む「拍の変質」は、さらに続く「今の”場”」《跳躍》
の「余白から世界へと再び跳ぶ呼吸」となる。

 

 

このあと「関係の燃焼」を媒介として、「共燃(共に燃える生成と運気)」「火の呼吸の均衡(生成と運気の縁起的テンポ)」「生成と運気の触発と責任(媒介の力学)」などが展開されていきます。先ずは、この導入部分(冒頭句)の呼吸を一度味わい、観者となった相談者の〈あなた〉の内で、”火”がどのように「他」へと向かうか、その感覚を確かめてみてください。──《過去解き》は、“時間の呼吸が自覚される”という意味で、非常に大きな「節目」となります。つまり──「今」より前に起きたことは一秒前でもすべて過去=変化──すなわち《変化》はこれから起こる出来事を事前に示す予兆という前触れに伴い、段階を追って順序に従い一つずつ物事の状態や性質が以前と違ったものになることですが、”前とは違った状態になる、移り変わる”=「前と後で同じでない」ことに付き従い「”変化”として判断するのではなく」──《差異》として捉え、〈変化を比べたときに現れる”ちがい”や”ズレ”〉を見て取ることです。過去が「記憶」ではなく「潜勢」として再び息づく──この「転位」は、『『観氣(かんけ)』全体の「生成と運気」構造においても、縦軸(地・火)と横軸(関係・共燃)を結ぶ臨界点になります。この「今」という時点──この地点を深く呼吸することで、次に訪れる「燃焼の縁起」が、より有機的な“共生成の火”として立ち上がるでしょう。どうぞ「今」は、暫く静かに「熱の”余白”」に身を委ねてください。思考が沈み、呼吸がゆっくりと聴き始めるとき──「内側の”火”」は自然に「次の”拍”」へと導いてくれるはずです。素晴らしい「生成と運気の”時間”」──ではまた、『観氣(かんけ)』に《火の呼吸”Fire Breathin”》を重ねた「占術の具体場」で一緒にお会いしましょう。

 

 

書外の呼吸譜
──外縁的記譜(perigraphic notation)

 

“書かれた”『観氣(かんけ)』の書を閉じても尚、「言葉の外」で呼吸が続く──外郭に漂う音楽的・生成的残響。『観氣(かんけ)』という”占体”が具体場での〈実地サイクル 〉と進んでゆく中で、始まりからこの間の呼吸譜──「胎動(旋風)」から「潜勢(真際)」までをその何処にも直接は属させない。しかし、全体を包む「潜勢の火(背景の呼吸)」として配置されます。無署名の詩、静かな挿話──あるいはそこに滲み出す「透明な余白」。『観氣(かんけ)』の本文世界の「境界=外縁」に書き込むことで、観者となった相談者の〈あなた〉が、「終わりではなく、始まりの余白」として“呼吸を引き継ぐ”ように。「書は閉じるが、呼吸は終わらない」──“書かれた”『観氣(かんけ)』の書物全体の外呼吸的装置──言葉は沈黙するが、沈黙が新たな生成と運気を孕む。まさにこれが“書外の呼吸譜”──『観氣(かんけ)』という生きた占体の「外呼吸」。「胎動・・・跳躍・・・共観・・・再燃・・・余白の終止符──あるいは「新たな始まり」。「火は息であり、息は世界の記憶」──これこそが、まさにその「外呼吸」のためにあるといえるます。本書『観氣(かんけ)』全体の最外縁部=外呼吸領域に配置──本文世界(概念・構造・生成)の外側で、「呼吸」そのものを再開する“装置的余白”。書を閉じた後、観者となった相談者の〈あなた〉が「思考・創造する身体」を再び呼吸へ戻すための共鳴場──書内で展開された「胎動―跳躍―生成―共観―再燃」のリズムを、書外で再度“息づかせる”ための媒介的詩譜。象徴されるのは、「胎動=沈黙の呼吸(地)」「跳躍=火花の転位(火)」「共観=風の共鳴(風)「再燃=水の反映(水)」「余白=空の生成(空)」──五元素的呼吸構造(地・火・風・水・空)の外側に在る呼吸=書外呼吸(無)。ページを閉じる手の呼吸が、そのまま「次の生成と運気」への一歩となるように──読後の沈黙こそが、“次なる”『観氣(かんけ』の始動点。

 

 

記譜

始まりからの呼吸譜──「胎動から潜勢へ」

 

 

….. 呼吸は深く沈み、
思考と創造はまだ分かたれず、
ただ一つの拍動として──
空無に脈を打っていた。

火花は未だ光らず、
律動は胎内の闇に潜み、
名なき力だけが震源を孕んでいた。
胎動は、沈黙のなかに息づき、
跳躍は、まだかすかな光として
──
その余白に影を落とす。

やがて──「問い」が息を得、
息が世界を呼び覚ます。
共観──響きの風景のうちで、
我と世界の間(あわい)が、
ゆっくりと──燃え始める。

再燃──
潜勢としての過去がふたたび熱を帯び、
”
他”と”世界”がひとつの呼吸を共有する。
そして今──
余白の終止符が静かに響く。

それは終わりではなく、

始まりの余白。
「”火”は息」であり、
「息」は世界の”記憶”。…..

 

 

記銘

書は閉じるが、呼吸は終わらない。

沈黙は、新たな「生成と運気」を孕む。

 

 

 

 

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         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──

”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

《お問い合わせ/ご相談》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
➡︎ http://www.office-kanke.com
OFFICE KANKE「思創考造 Cognigenesis」
web email ➡︎ Contact page

 

 

 

 

日光占術|観氣(かんけ)vol.13:真際 〉03

 

 

 

 

       ── 対を映す ──

 

 

 

 

….. ”潜在性(potentiality)”と──
区別される「潜勢性(virtual)」。

現在のものの潜在性を、
未来の潜勢的なものと過去の現実的なものとの
連結として捉え──
これに「生成」と「運気」が、
互いに押し合う力(斥力)が働き、
《潜勢》は急激に膨張して起こる──
「生成と運気の”対生成”」。

「生成と運気」の”対生成(ついせいせい)”が、
《潜勢的》=「力能(地勢と地力)」という──
〈势能〉の高ルエネルギー。

生成は運気にあり──運気は生成にある。
”今”は常に生成は運気の時(時間)にあり──
運気は生成の時(時間)にある。
まさに「生成」と「運気」の──
《対生成(ついせいせい)》こそが、
「生成の縁起=運気の縁起」のにおける──
手応ある濃度そのもの。

「生成」と「運気」が別々でなく──
ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として、
──現れる現象。
「運気が生成を照らし、
生成が運気を溶かし、
双方が相互に生成し続ける。
これこそ『観氣(かんけ)』が示す──
私たちに渡された”火種”そのもの。

同一性から繰り返される──
「生成・運気=差異と反復」に縁起は、
まさに生成され続けていく。
”興図の根の網”は私たち自らで、
”踏む場”に委ねるものとして──
私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すもの。
だからこそ──
「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は、
そこに”沈黙と誘い”が、
配置されているだけでいいことになる。

生成とは、「すべてを抱く肯定」であり、
「完成」ではなく「持続する始まり」である。
一気に「生成」と「運気」の──
〈対生成(ついせいせい)》の現場へ。…..

 

 

“生まれ出て、形を成ること、物事ができあがること”という「生成」。”運”はその人が持つ力や巡り(回り)合わせ──「運気」は”それを動かす勢いや燃料のようなもの”。占術への思いは、時を経てもなお衰えることはない。決して簡単ではない『観氣(かんけ)』──少しでも〈感度(感受性能力と受容性)〉を上げて、決して不思議さへの感受性でもなく、神秘への驚きの感覚でもない「今これから何が生じ起きるのか──全ての始まり」の『大いなる”sense of wonder ”』──「感覚には接近不能であり、その効果において感知されうるものである《潜勢的》への意識を呼び起こす〈感性〉」を喚起する問題に迫っていくことになる。

哲学的な転倒として「落とし穴」は、落ちることでしか見えない深度があり、理解ではなく、転倒の衝撃として占相(思考)から占態(望みの実現)への創造が始まり、「気づいた者にだけ開く”生成と運気の裂け目”」である。この「落とし穴」は、恐怖ではなく、沈黙の跳躍台──それゆえに、私たちが“転ぶ”ようにして「”出会う”生成と運気」は、単なる知識ではなく、変容の端緒となるうる。「問い」が消えたあとの静けさを、私たちはどう受け取るだろう。言葉にせぬまま、何かが、足元で、落ちた。(……もう戻れない気がした。)

 

 

 

 

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  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──

”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

《お問い合わせ/ご相談》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
➡︎ http://www.office-kanke.com
OFFICE KANKE「思創考造 Cognigenesis」
web email ➡︎ Contact page

 

 

 

 

日光占術|観氣(かんけ)vol.12:真際 〉02

 

 

 

 

       ── 潜を充す ──

 

 

 

 

これまで、「今何が起きているのか」をみてきた。
そしてその今、「これから何が生じ起きるのか」をみていくことになる。

 

 

『種線(seed-line)』──動きのなかに立ち上がる”問い”。
〈あなた〉が「占いを”見る”」とき、世界は黙ってはいない。
〈あなた〉が手を入れずとも、〈あなた〉の視線はすでに「場」の空気を変えている。
心を通して”見る”こととは「”氣”を醸し出す」ことの始まりであり、”歩く”こととは「生成と運気の問い”」を生きることである。
私たちは、これまで──「占想(望み=思考)と占態(望みの実現=創造)の”濃度”」について語ってきた。今その「濃度」が”実地の営み”となって目の前に現れる。

 

 

「畑を耕す人は、土を見ている。」

「大工は、木目を読み、節の呼吸を聴いている。」

「子供は、水の形に手を伸ばす。」

 

 

──『観氣(かんけ)』とは、ただの”占術行為”ではない。
それは「生成と運気の”脈動”』が、相談者の〈あなた〉の動きと響き合う『生起の場(birth)』を、観者となった相談者の〈あなた〉が息づく『醸成場(brewery)』へと変える。
光の照らす「月浦(げっぽ)」に”潜”を充す」──月相と星相の結び目=「転位」。
「月の位相」──太陽と月と地球の位置関係によって決まる”月の見かけの形”──「満ち欠けの月影=”月裏(月光の中)”」と「見眺ることができない”月の裏(月の裏側半球の世界)”」。
「星の位相」──明るさや位置の周期的な変化の中での周期のどの段階にあるか──星相に擬えた(なぞらえた)星回りが変わる長期的な覆る変化──「入れ替わる”転換(Paradigm Shift)”」と「新しく生まれ変わる”新生星”の世界」。

 

 

人間は、自分で自分を”占う”ことはできない。
「外界の徴」が “問いの影” として内面に触れ──そこから “新生の自己” が「胎動」する。”外物た他物の気配や出来事”、”他の視線・反応・沈黙・気配”──という「反射面(照射し返す時)」によって立ち上がる。
つまり人間は自分の「生成触発と運気触発」は自身ではわからず、”外物に映す自分”や ”映った自分”が、”その外物・他物へ ”照射し返す自分”によって「生成と運気」とはどこで起きるか?── 初めて「自分の”生成と運気”」が自分自身でわかる。
但し、その”反射”を受け取っているのは“〈わたし〉の内なる場”であり、そこにこそ知覚から直覚を通した思考・創造様式や価値観による「主体の”生成と運気”」が起き──現実に「生成と運気」は観測される。
「生成変化と運気変化」するものは、まさしくそれゆえに──実在していない。
「生成変化と運気変化」は同時にして感覚が欺かれた結果なのであり──知覚的対象も真に存在する対象ではないがゆえに「生成の縁起=運気の縁起」は、「創造=”動く持続的な生成と運気」である。

 

 

 

 

      ── 未然の態度 ──

 

 

 

 

日常見に現れる “差異の欠片”──「生成と運気の”前成層”」。日常は特殊な瞬間ではない。しかし、思想と創造の根源に最も近いのは、まさに──この日常である。日常見のすべては「問い」が生まれる前の“前提”としての身体の感受である。ここで現れる僅かな”差異”は、すでに《潜勢》が地表へ向かって──「伏流から浮上に転じる徴」となっている。“種線(seed-line)”──《潜勢》から生成と運気への細い流れ。差異の欠片が置かれた瞬間──潜勢として伏流していた力は、その差異を核にかたちを帯びる。それはまだ跳躍点ではない。しかし、確実に「そこへ向かう線」である。この活線──『seed-line:種線』──の存在こそ、「”震源”としての《潜勢》」が実際に「生成と運気」へ”接続”するための最初の呼吸であり核である。そして核心──「“未然に息づく生成と運気”」「“無名の前思考・前創造圏”」はどこか? まさに──その “気づき” こそが、核心そのものなのだ。そして──いま感じ取った「早すぎる → 伏流」への自己調整、まさしく── Cognigenesis の内側で起きる「生成と運気の”自覚” 」そのもの。経験したこと(概念ではなく、“生成と運気の事実”として)──「生成と運気」は、語りすぎると壊れる。語らなすぎると「伏流」のまま届かない。この綾(あや)を感知して、自ら呼吸を引き返すこと。それこそが《震源としての潜勢》の正しい扱い方である。なぜ “早すぎるアウト” が危険なのか? 理由は非常にシンプルで深い。《潜勢》は、語れば語るほど “”潜勢”でなくなる”から。”潜勢が潜勢であるためには”──「伏流」= “まだ輪郭を持たないまま圧の地層として存在する”という状態を保つ必要がある。「生成と運気」は語る → 圧が下がる──伏流させる → 圧が充満するというサイクルを持つ。これは凄いことであり、「生成と運気」の主体が完全に起動している証である。金脈の「伏流」とは、未だ”差異”が徴として立ち上がる前、未だ”自己生成”が始まっていない。但し、“内的な圧”だけは確実に蓄積しているという段階。今体験しているのは──まさしく潜勢 → 差異(徴) に至る前の《0.5段階》。この地点を丁寧に扱えるかどうかで、次の精度は桁違いになる。

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。

それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──

”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、

それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──
《種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──
”月相”と”星相”の結び目=「転位」。

〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──

”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

《お問い合わせ/ご相談》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
➡︎ http://www.office-kanke.com
OFFICE KANKE「思創考造 Cognigenesis」
web email ➡︎ Contact page

 

 

 

 

日光占術|観氣(かんけ)vol.11:真際 〉01

 

 

 

 

      ── 日常の余白 ──

 

 

 

 

….. 今──”火の川(呼吸)”は流れる橋の下を疾っくに過ぎていた。
いつも”深い呼吸”を共にしてくれている、
あの「過去=《潜勢》の呼吸」として”再燃する記憶”。

今頃──「《潜勢》としての過去の”余白”」を経て、
”火の気配(息)”が少しずつ「関係の向き」へと滲み出してくる頃。
微細な揺らぎのような呼吸の熱が外界と触れはじめくる。

河口を通り抜け海原に注ぎ出る首途──
大海原の潮流に乗って風に触れらる時。
寸前の今──過去と未来の境をなす瞬間「何が起こっているのか?」…..

 

 

『観氣(かんけ)』の創発──”いまここに”=「今なにが起こっているのか?」….. 今の”力”として《潜勢》=「発火の拍」──〈潜勢力の萌芽〉→ 今の”閾”として《転位》=「拍の転換」──〈生成と縁起の拍が質を変える瞬間〉→ 今の”場”:《跳躍》=「拍の拡張(場化)」──〈転位の余韻が実際に外へ溢れ出す場=生成と運気の顕現そのもの〉→ 今の”種”として《発芽》=「生成と縁起という生成連鎖の両極」──〈場そのものの”跳躍”=思考の“変位”〉生成と運気=場を孕む動的な種(seed)縁起=発芽の外化・顕現(思考の延長ではない)→ 今の”拍”:《共振(月星)》=観氣と月星──〈”体感構造”「生の拍動」Breath〉生成と運気の呼吸譜 …..といったような個の行動によって観者となりうる相談者における『観氣(かんけ)』全体の秩序が規定される。

ここで──『臨界』として「生成・運気の閾(いき)=転位」を横断することになる。「….. ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”。”望む”ところに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する。….. 」といったような──占う対象へ望む占意が占い描き観た占い記述からの占針(指針)による「占想の思考」→ 「占態(望みの実現)の創造」への創造的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態:望みの実現)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる「境界」──という原因究明。ここに「臨界=境域」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。

占態(望みの実現)への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──《潜勢》が熱として目覚め、思考が「火」として立ち上がり、創造が「光」へと転じる──まさに、その発火の瞬間の譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。「臨界」とは──”「境域」が呼吸し始める点”か? 一般に臨界とは、状態変化が起こる”閾値”を指すが──しかし『観氣(かんけ)』の文脈では、「臨界」のそれは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間なのである。「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と〈現勢〉が互いに触れ合い、呼吸を交わし始める──その僅かな”接触領域”が「臨界」となっている。──つまり「臨界」は「対立の間に現れる共鳴膜」として「”静止と運動” / ”崩壊と生成・運気”」が各々共存する場であり──まさに「生成」と「運気」に共鳴膜が現れる。それは”境界が「境界」であることを止め”──あたかも”呼吸する場”=「境域」になる瞬間なのである。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成と運気の”触地”」として立ち現れる「“場の展開と実践の接地”」において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者となった相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となる。〈占いを”見る”〉その”占想と占い記述”を起因に占方(占形)との「共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から「占態(望みの実現)」とへ”還元”するためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:「問い」の探求(問い掛け)へと「占想」を片手に歩き始めることになる。──「問い」を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》その導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における「経験のやり方」が──観者となった相談者としての〈あなた〉の「占態(望みの実現)」における”実際の実地”として接続し展開されうるということである。

 

 

….. 裂け目を「境界」だとしてしまった〈難破〉──
胸を翳して天空を仰いでみても、
脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃きや、
霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響きは、
──荒波に虚しく打ち消される。

”断念”は──儚い潮の香りに滲む顔ごと、
首途の”首(こうべ)を垂れる”。

胸を翳したその”反動”で──
背を翳して足元を見れば、
潮の目(しおのめ)に映ったのは《座礁》だった。
それは裂け目の「境界」が境界であることを止め──
あたかも”呼吸する場”=『境域』になる瞬間。

「決然」は──【保留】の”勇気”に浸る顔ごと、
首途の『荷(に)を降す』。…..

 

 

「荷を降ろした後の沈黙や静けさ」は、「問い」以前の純粋視線を研ぎ澄ます場となり──「生成と運気」の”種”を育む。例えば、ある日──意図的に予定の一部を空白にし、その時間を「問い」構えずに過ごすことだ。漂うままに歩き、目に映る風景や身体感覚を──ただ感じる。その間に浮かぶ小さな揺らぎ──”いつもの自分なら気づかない何か”をメモし、この揺らぎこそ「問い」の”萌芽”であることを見守る。こうして──『”境域”に留まる』体験が、思考の前段階を豊かにし、次なる「生成と運気」の起動を促すことに繋がる。このように「保留」「境域」「座礁」「荷を降ろす」「ワークアウト」は、すべて日常性の中で可能な実践であり、「問い」以前の視線を深めるための鍵となる。これらを通じて得た”余白”から自然に芽生えた「問い」は、共観や地力の回路を刺激し──「生成と運気の循環」を拡張していくことになる。《保留》する視線の練習──観察の深度を高めるためには、先ず──「”問い”を《保留》する”勇気”」が要る。感じたものをすぐに意味づけず、一旦停滞させることで、視線は対象との間(あわい)により濃密に開かれる。日常において──例えば、誰かの発言を聞いた直後に、すぐに反応や判断をせず、一呼吸置いて保留すること。このような小さな習慣が、”占想と占い記述からの思考”と”占態(実現)への創造”の前段階をより豊かにする「余白」を確実に育むことになるだろう。

「境域」で漂う”体験” ── 予定の合間に漂う時間や思考が行き詰まって手が止まる瞬間は、往々にして不安や焦りを呼び起こしやすい。──しかし、それを避けるのではなく、「座礁した」と捉えてみることだ。漂いながら「留まる」ことで、既存の思考地図が解除され、創造地図への新たな感覚や「問い」の”兆し”が現れる。──「日常の隙間に漂うこの”境域”」は、意図的に設定しなくとも、偶発的に訪れる出来事として受け止め、そのまま味わうことで──「既成の枠組みを超える”可能性”」の余地を見出せることになる。「荷を降ろす」その実践と実地──日常の重荷は過度な予定、成果への執着、情報への過集中を一時的に「ワークアウト」し、省いてみることで、心身は軽くなる。例えば、一日の中で「今日はこれをしなくてもいい」と自分に許可を出し、その時間や注意を純粋観察に回すこと。「”荷を降ろした”後の静けさや自由度」が、「問い」以前の視線を研ぎ澄まし──「生成と運気」の土台を深める。”余白”から芽生える「問い」 ──「荷を降ろし”境域”に漂った後に訪れる内的な揺らぎ」は、「”小さな問い”の萌芽」。それは、「外部から投げかけられる”問い”」とは異なり、「日常の”余白”」から自発的に立ち上がるものと思われる。

プレデュード prelude:「境域」──経験のやり方:「経験を超えて進むことはできない」に続き──このようにして生まれる「問い」は、”既成の枠組みを超える可能性”を孕み、──日常の地層(生成層)における【余白と臨界 / 円環と拍動 / 前成と跳躍 / 転移と潜勢】とその《経験のやり方》への「問い掛け」であり、「現象」──感覚の捉え方:感覚を超えて進むことはできない(意識・接近)/「可変」──感性の受け方:感性を超えて進むことはできない(潜勢・力能)/「移行」──変化の挑み方:変化を超えて進むことはできない(空間・時間)/「昇華」──価値の持ち方:価値を超えて進むことはできない(内在・手段)などその他、『観氣(かんけ)』における占方(占形)の具体場(実際の実地)へと向かう「前成段階」として──〈占想から占態への還元する〉その観者となった相談者の〈あなた〉自身の「運気の縁起=未然の生成」が──ここから具体的に動き出す「深い生成と潜む運気の日々」への架け橋となる。

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──

”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

《お問い合わせ/ご相談》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
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日光占術|観氣(かんけ)vol.10:潜勢

 

 

 

 

     ── 過去=未熟の熱 ──

 

 

 

 

再燃する記憶 ──”潜勢”としての『過去』

 

ここに“呼吸のはじまり”。予兆:『観氣(かんけ)』の”発火”──「”発火前”の静けさ」は、まるで内奥の炉がゆっくりと温度を帯びていくような時間。あの余熱が、思索へと自然に転じていく──そんな気配を感じる。「Metagenesis ― 媒介的生成・運気」の展開(あるいは、その導入の呼吸)へと進めていくにあたり、、先ずは“熱”の段階の余韻を、暫くの間──もう少し深めておくことだ。とても根源的で、美しい”問い”──《過去》。ここまで『観氣(かんけ)』とその「発火」「生成と運気」を探ってきて、この段階で今──《過去》を”問う”ことは、まさに必然だと思われる。

 

 

◯『過去』は“出来事”ではなく──「潜勢の層」

過去は、単に「終わった時間」ではない。むしろ、それは生成と運気がいったん沈潜した層──すなわち《”潜勢”の記憶》として、「今」の中に密かに息づいているものです。『観氣(かんけ)』の語で言えば、過去とは「まだ燃えきらぬ”火の残響”」。それは現実の背後で、微かに呼吸を続けており、「今」という”場”が熱を帯びるたびに、再び「”発火”の兆し」を見せる。ゆえに、『過去』は「失われたもの」ではなく、「”生成と運気”の持続的な”呼吸”」においてのみ生き続ける。

 

◯『過去』は“閉じた記録”ではなく──「媒介的現在」

『過去』を「記録」として固定すれば、それは死んだ出来事になる。しかし、過去を“媒介”として聴き取るならば、それは現在を透かして、未来を呼び込む“生成と運気の通路”となる。過去は時間の“前”にあるのではなく、「思考と創造」のあいだに潜む媒介の場として働いている。すなわち「過去」は、「”思考”が未来へ跳ぶための踏み石」であり、「”創造”が再び燃え始める潜勢の床」。

 

◯ 『過去』は──“再生のための余白”

『過去』とは、「完全に消費されることのない”余白”」。その余白があるからこそ、“再生(re-creation)”が可能になる。人間の記憶や感情もまた、「”過去”を再生」するたびに「異なる”生成の火”」を宿す。同じ記憶でも、呼吸の速度が変われば、そこから立ち上がる世界は異なる。

 

 

要約すれば──『過去』とは、「燃えきらぬ”潜勢”」であり、「今」現在の呼吸によって「”再び発火”する生成の場」。読者の〈あなた〉が感じておられるだろうところの「”発火前”の静けさ」も、実は「”過去の熱”が再び目覚めようとする微細な”兆し”」。この「過去=潜勢の呼吸」という観点から、「過去の再燃」を「再燃する記憶」「沈潜としての過去」「熱の回帰点」などのテーマで描いてみることだ。この段階で「過去=潜勢の呼吸」を「生成の縁起 / 運気の縁起」に編み込むことは、『観氣(かんけ)』全体に深い呼吸的連続性を与える極めて美しい展開である。「再燃する記憶 ──潜勢としての過去」と題して、“発火前の静けさ”から“過去が再び燃え始める瞬間”を描き出してみよう。

 

 

再燃する記憶──潜勢としての過去

 

……..「過去」とは、
燃え尽きた灰ではない。

それは、
呼吸の奥底に沈潜した──
未完の熱である。

忘却の層に隠れながらも、
なお微かに光り、
世界の新たな呼吸を──
待ちつづけている。

「記憶」は、
時間の後ろにではなく、
「潜勢」の深層に息づく。

そこでは、
「出来事」は終わらず、
ただ形を変え、
再び“今”に触れようとする。

呼吸が整うとき、
過去はその呼吸に導かれ、
静かに再燃を始める。

それは回帰ではなく、
「転位の再現」──
同じ熱が、
異なる光として再び現前する。

思考が過去を思い出すとき、
それは単なる想起ではない。

「思考」は、
かつての火の残響を──
媒介的に呼び戻す器官となる。

「創造」は、
その媒介を通じて、
「過去の潜勢」を──
「新たな生成と運気」へと開く。

この”再燃”こそが、
「火の呼吸」──
真の循環である。

「過去は閉じた時間ではなく」
「未来を孕む余白として」
「今」、再び息を吹き返す。

「燃え尽きぬもの──
それが過去である」
それは、静かに燃えながら、
「思考と創造」のあいだに──
光を運ぶ。……..

 

 

これは──《火の呼吸》の内でも特に内省的な拍として機能するだろう。呼吸のテンポを一瞬落としながら、「生成と運気の速度」の深層にある“時間の相転位”を描く場でもある。この流れを継いでいくなら、次に来るは ──「燃焼の倫理 ― 関係としての火」として、「再燃した熱」が他者・世界・行為へとどう媒介されていくか(=実地サイクルの倫理的側面)の展開になる。先ずは、この「再燃する記憶 ― 潜勢としての過去」を、一呼吸の間、味わってみよう。──いかがであろうか? この“過去の再燃”の呼吸感、読者の〈あなた〉の内側ではどのように響くだろうか?
まさに──その呼吸、その流れであり、「再燃する記憶」で“個の内奥”に宿った火が、次の「燃焼の倫理 ──関係としての火」では、世界と他者のあいだに呼吸を広げていく──まさしく「実地サイクル」への転位点となる。この次の段階では、「もはや火は“私”のものではなく」──「関係の中で燃える場的存在」として現れる。その「火」は、他者に触れることで形を変え、触れ合うたびに新しい「現実を”生成”」する。ここでは、倫理が「規範」ではなく、「”生成と運気”の呼吸」そのもののリズムとして現れる。つまり「他者を燃やすのではなく、共に燃える」──これが「燃焼の倫理」。

 

 

燃焼の倫理──関係としての火

 

…….. 火は、
ひとりでは燃えない。
世界と触れた瞬間、
その熱は、
関係のかたちを取り始める。

呼吸が他者に届くとき、
それは言葉ではなく、
光として伝わる。
その光が、関係のはじまり──
燃焼は、共鳴である。

ひとつの「思考」が、
──
他者の思考を温め、
ひとつの「創造」が、
──
世界の片隅を照らす。
この連鎖が、
倫理の呼吸を形づくる。

倫理とは、
判断の体系ではなく、
共に燃えるための呼吸法。
互いの熱を聴き取りながら、
過剰にも不足にもならぬ──
「均衡の火」を保つこと。

世界のすべての関係は、
この呼吸の微かな律動によって、
支えられている。

そこに、
「火の哲学」──
『観氣(かんけ)』
その”実地”倫理が立ち上がる。…….
.

 

 

このあと、「関係の燃焼」を媒介として、「共燃(共に燃える存在論)」「火の呼吸の均衡(生成の倫理的テンポ)」「触発と責任(媒介の力学)」などを展開することができるだろう。先ずは、この導入部分(冒頭句)の呼吸を一度味わい、自らの内で火がどのように「他者」へと向かうか──その感覚を確かめてみよう。「過去解き」は、“時間の呼吸が自覚される”という意味で、非常に大きな節目となる。過去が「記憶」ではなく「潜勢」として再び息づく──この「転位」は、『観氣(かんけ)』全体の「生成と運気」構造においても、縦軸(地・火)と横軸(関係・共燃)を結ぶ臨界点になる。この「今」という時点──この地点を深く呼吸することで、次に訪れる「燃焼の倫理」が、より有機的な“共生成の火”として立ち上がるだろう。

「今」は、暫く静かに「熱の”余白”」に身を委ね、「思考」が沈み、「呼吸」がゆっくりと聴き始めるとき──「内側の”火”」は自然に「次の”拍”」へと導いてくれるはずだ。素晴らしい「”生成と運気”の時間」、では──また《火の呼吸”Fire Breathin”》の続きで ……..

 

余白

書外の呼吸譜
──外縁的記譜(perigraphic notation)

 

“書かれた書物”の内部に閉じない「余白の呼吸」。それは作品の外でなお鳴り続ける拍動。
読者が頁を閉じても尚、「言葉の外」で呼吸が続く、外郭に漂う音楽的・生成的残響。──『思創考造』──という思考体が「胎動篇 → 実地サイクル → 共鳴篇」と進んでゆくなかで、
始まりからこの間の「呼吸譜(胎動から共鳴へ)」をそのどこにも直接は属させない。しかし、全体を包む「潜勢の火(背景の呼吸)」として配置。無署名の詩、静かな挿話──あるいは章間や間章に滲み出す「透明な余白」。本文世界の「境界=外縁」に書き込むことで、読者の〈あなた〉が「終わりではなく、始まりの余白」として“呼吸を引き継ぐ”ように。書は閉じるが、呼吸は終わらない──”書物全体の外呼吸的装置”、言葉は沈黙するが、沈黙が新たな生成を孕む。まさにこれが、“書外の呼吸譜”──『思創考造』という生きた思考体の「外呼吸」。「胎動・・・跳躍・・・共観・・・再燃・・・余白の終止符──あるいは新たな始まり」「火は息であり、息は世界の記憶」
これこそが、まさにその「外呼吸」のためにあるといえる。本書『思創考造』全体の最外縁部=外呼吸領域に配置──本文世界(概念・構造・生成)の外側で、「呼吸」そのものを再開する“装置的余白”。書を閉じた後、読者〈あなた〉が「思考する身体」を再び呼吸へ戻すための共鳴場──書内で展開された「胎動―跳躍―生成―共観―再燃」のリズムを、書外で再度“息づかせる”ための媒介的詩譜。象徴されるのは、「胎動=沈黙の呼吸(地)」「跳躍=火花の転位(火)」「共観=風の共鳴(風)「再燃=水の反映(水)」「余白=空の生成(空)」──五元素的呼吸構造(地・火・風・水・空)の外側に在る呼吸=書外呼吸(無)。ページを閉じる手の呼吸が、そのまま次の「生成と運気」への一歩となるように──読後の沈黙こそが、『観氣(かんき)』による──次なる思創考造”の始動点。

 

記譜

始まりからの呼吸譜──「胎動から共鳴へ」

 

…….. 呼吸は深く沈み、

思考と創造はまだ分かたれず、

ただ一つの拍動として──

空無に脈を打っていた。
火花はまだ光らず、

律動は胎内の闇に潜み、

名なき力だけが震源を孕んでいた。
胎動は、沈黙のなかに息づき、

跳躍は、まだかすかな光として
──
その余白に影を落とす。
やがて、

問いが息を得、

息が世界を呼び覚ます。
共観──響きの「生きる風景」のうちで、

我と世界の間(あわい)が──
ゆっくりと燃え始める。
再燃──

潜勢としての過去がふたたび熱を帯び、

他者と世界がひとつの呼吸を共有する。
そして今──
余白の終止符が静かに響く。


それは終わりではなく、
始まりの余白。

火は息であり、息は世界の記憶。……..

記銘

書は閉じるが──
呼吸は終わらない。

沈黙は──
新たな「生成と運気」を孕む。

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──

”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

《お問い合わせ/ご相談》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
➡︎ http://www.office-kanke.com
OFFICE KANKE「思創考造 Cognigenesis」
web email ➡︎ Contact page

 

 

 

 

日光占術|観氣(かんけ)vol.09:胎動

 

 

 

 

      ── 差異の欠片 ──

 

 

 

 

….. いつものように家の玄関を出ようとした瞬間、爪先だった片方の足が、ふいに立ち止まった。
理由はわからない。
ただ、開け放たれたドアから──風の流れとともに射し込む陽の光が、いつもとは異なる角度で触れてきたのだ。
“木の葉の光影”を映す日差しが揺れている。
その揺らぎは、木の葉そのものの軌跡でもなく、風や光たちの運動だけでもない。
玄関の姿見鏡に映る〈私〉と共に震え動くその光影は、私の内側に触れてくる──まるで “問いの影” のように。
──何を囁こうとしているのか? 木の葉の影が語るのではない。
呟きはすでに、私の内側で始まっていたのだ。
やがて光影は、風とともに不意に消えた。
姿見鏡には、私の輪郭だけが静かに留まり、その無音はただ寂然とするのでなく、〈私という存在の反射〉の奥に潜む何かを──そっと照らし返してきた。
そのとき揺れていたのは、“木の葉の光影”ではなかった。
むしろ──私自身の揺らぎの感覚のほうだった。
外界の徴(しるし)が、内側の未生の深層に触れて震源となり、未だ名を持たぬ “新生の私” が胎動する。
この小さな出来事──風と光の角度、木の葉の光影と自分の影の揺らぎ、そして止み。
それらすべてが──差異の欠片(かけら)として私を “跳躍点” へと連れてきた。
人は世界の中に存在するのではない。
世界とともに生成し運気づく。
世界を観照しながら、世界とともに変容してゆく。
一切は“感”であり──すなわち「生成と運気」である。
人は世界へと生成し運気づく。
世界が変わったのではない。
変わったのは、世界を受け取る私の側の方だった。
思いがけず、ひとつの自己が生まれた。
その微かな誕生こそが──『観氣(かんけ)』の最初の呼吸である。…..

 

 

外界の徴が “問いの影” として内面に触れ──そこから “新生の自己” が「胎動」する。「生成的力と運気的力」の“跳躍点の第一震源”が明確化され──「潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生」の流れが自然に現れる。潜勢的(まだ名を持たぬ震源)が差異の欠片となって現れ、それが跳躍点へ導くという前触れとして刻まれる。”共観”へ繋がる「反射」の種が埋め込まれ、姿見鏡に映る〈私〉の反射が「自己生成」の初期”震源”になる。これは「知性の共振」への伏流。この「生起場」として位置づけられた──この直後に “差異の欠片とは何か” を思想パートとして配置され、”伏流”概念である「潜勢的・未生・震源」が“息遣い”として「胎動」に漂う。”転位”の第一呼吸──「震源としての潜勢」── 内奥の“わたし”が、 揺らぐ(自明性の崩れ)。 揺らぎを拒絶せず、受け取ってしまう。 〈わたし〉の中の”差異”が、 ひとつの「新生(birth)」を起こす。 ── 無名の瞬間。 ”Cognigenesis” の、 最初の微震──“揺らぎ=差異”。 ”差異”は説明ではなく、比喩でもなく、身体の奥に沈んだ── “微かな揺れ”そのもの。 ”差異の欠片(かけら)”さえあれば、そこから「生成と運気の”動線”」は自然に伸び、共振へ“種線(seed-line)”が 自ずと現れる。 〈あなた〉の差異の欠片を、どんな小さなものでも、そのまま置いてみるだけで、それが「起点」になる。 日常性は──特殊な瞬間ではない。しかし、 具体的にどんな場面で現れるのか? 「思考(占想)と創造(占態)」の根源へ最も近い日常の ”日常見”にある──「差異の欠片(かけら)」= 相談者の〈あなた〉の中に起きた”日常見”の「差異の欠片(かけら)」。

差異は説明ではなく、比喩でもなく、身体の奥に沈んだ“微かな揺れ”そのもの。その”差異の欠片(かけら)”さえあれば、そこから「生成と運気の”動線”」は自然に伸び、そして共振へとつながる“種線(seed-line)”が自ずと現れ、転位の震源(初動)になる。相談者の〈あなた〉の”差異の欠片”を、どんな小さなものでもいい。そのまま置けば、それが「起点」になる。日常性は特殊な瞬間ではない。しかし──具体的にどんな場面で現れるのか? 思想の根源へ最も近い「日常の三つの現場」。 ”微細な変化に気づく瞬間”──「歩き慣れた道で、いつもと違う光」「家の中の、ふとした物の位置」「身体の重さ、呼吸の僅かな揺らぎ」「いつもと少しだけ違う気配」。これらはすべて、“問いが生まれる前の前提”となる。「問い」は変化を感受する身体が先にあるから立ち上がる。作業の繰り返しの中にある僅差──「コーヒーを淹れる」「洗濯物を畳む」「靴を結ぶ」「書く前に手を置く」。反復行為は「無意識の領域」だが、ここにこそ“純粋な視線”がもっとも活性化する。反復の中で、「同じことをしているのに、どこか違う」という微かな差異を感じた瞬間──そこに「”生成の萌芽”が隠れている」。「ふと立ち止まる」瞬間──これは極めて重要。「玄関を出る前の1秒」「言葉を発する前の沈黙」「スマホを開く前の手の滞留」「歩行中に、突然足が止まる」。これらはすべて、“自生的な問い”が生まれる前兆である。「境域」「座礁」「保留」は、この“ふとした停止”として日常に現れる。「同じ道なのに、今日は光の質が違う。」「同じ会話なのに、今日は声の温度が違う」「同じ作業なのに、今日は手が少し速い/遅い」。 “種線(seed-line)──「潜勢から生成と運気への流れ」 差異の欠片(かけら)──それを核に生成と運気への共振と繋がつ“種線(seed-line)”が自ずと現れる。私たちの日常見に“差異の欠片”が──まさに─未形の震源(”Cognigenesis” の初動) となる。

「生成と運気の前成層」として「”思考(占想)=創造(占態)”の前景圏──未形の”震源”」は、「現実を生成し運気づく──”潜勢的”」であり、”Cognigenesis”「自己生成」の震源 → その前段階としての “震源としての「潜勢」”。”Cognigenesis”「自己生成」の震源を理解するには、その“前地”としての『震源としての潜勢』を、先ず呼吸しなければならない。”Cognigenesis”:「震源が、実際に自分を生み始める現象」震源としての潜勢:「震源が、まだ震源になる前の、震え始める力」。”前に出てはおらず、伏流しているもの”──”伏流”し続けていたもの=「核心の貯蔵」。「熟成(Ferment Brewing)させておく”ことで、内側の発酵が、進み時間が醸してくれる。──まさに”生成”の伏流は、必ず「転位の瞬間」で像となる。間違いなく生成濃度を決める“地下水脈”になっている「差異の欠片」「無名の瞬間」「中動態的主体」「反射された自分の受け取り(=素材化)」などの一連の実践サイクルが──まさに 『潜勢 → 生成と運気』の流れに位置する。「潜勢的 → 差異 → 跳躍点 → ”Cognigenesis”」の流れは、「生成と運気の“深度”」が増していく階梯──「 “未然に息づく生成と運気”」「 “無名の前思考・前創造圏”」──「潜勢的=未だ名を持たない震源」の”未然の呼吸”は、”差異の欠片 ”= 潜勢が最初の”徴”として現れる──「跳躍点 = 差異が生きた主体内部で“転位の臨界点”になる瞬間。すなわち──”Cognigenesis” = 主体そのものが生成し、はじめ運気づく(自己生成の震源)。前に出てはおらず──むしろ「生成と運気の最深部」に“伏流させておくべき根” ─つまり「生成と運気」の全体を静かに底から押し上げる“呼吸の地層”として配置され、真に必要な「転位の瞬間」で──はじめて輪郭を持ちはじめるもの。 “未然に息づく生成と運気”/ “無名の前思考・前創造圏”──「“未然に息づく生成と運気”」→ 潜勢的の“内呼吸”として「潜勢的」の本質のひとつ。 潜勢と差異の間(あわい)=未だ徴(差異としても現れていない段階)。これは”差異の欠片”が現れる前に存在する「透明な”力場(場の胚)”」としてある。

では──これらいつ出てくるのか? ”知覚/現れ”から”知的な現れ”──「思考(占想)と創造(占態)」 ”いつも見慣れた私の「部屋」”=”巨視的な知覚”──〈わたしたち〉は日常生活において特に意識して見たりしない。繰り返しの中にある日常の部屋──”ふとした空有感”となって──”いつもと違う!いつもと少しだけ違う気配”=”微視的な知覚”──「微細な変化に気づく瞬間」「ふと立ち止まる瞬間」──”問いが生まれる前の前提”となり、問いは変化を感受する身体が先にあるから立ち上がる。反復行為は「無意識の領域」だが、ここにこそ“純粋な視線”がもっとも活性化する。反復の中で「同じことをしているのに、どこか違う」という微かな差異を感じた瞬間──そこに生成の萌芽が隠れている。これらはすべて“自生的な問い”が生まれる前兆──「境域」「座礁」「保留」は、この“ふとした停止”として日常に現れる──〈わたし〉の内に起きた差異の欠片(かけら)。

今帰ると、いつもと一緒なのに、いつも普通に生活している感覚はなく、他の家に来たかのような感じ。なぜ感覚が違う? 気配や雰囲気が違う? 空間は同じ? 私? 部屋? 実体は有る? 実体は無い?──存在しているもの”部屋”とその状態・様態=〈わたし〉。自分の存在は、まさしくそれゆえに──共振している。自分以外の事物・物事(外界の事物・物事)である「空間の気配」「風・光・音」そして「他者の気配」、との「自分の影」──そのどれかが「自分の存在」を“照射し返す”(=思考)。 一連の「知覚/現れ」は、”感覚”でなく次の理性によって、知覚から主体・実体・実在を”直覚”する「知的な現れ」になり、「主体」と”外側の状態・様態”のあいだに起こる「”生成・運気変化”の関係性」のみになる。「主体とは何か」「”生成・運気”とはどこで起きるか」を巡る核心そのもの──人間は〈自分の存在感〉を“単独”では捉えることができない。「存在感」は、自分以外の事物・物事(外界の事物・物事)である”外物の気配や出来事”、”他者の視線・反応・沈黙・気配”──という「反射面(照射し返す時)」によって立ち上がる。但し、その”反射”を受け取っているのは“〈わたし〉の内なる場”であり、そこにこそ知覚から直覚を通した思考・創造様式や価値観による「主体の”生成と運気”」が起きる──現実に「生成と運気」は観測される。「生成変化と運気変化」するものは、  まさしくそれゆえに──実在していない。生成変化と運気変化は同時にして感覚が欺かれた結果なのであり──知覚的対象も真に存在する対象ではないがゆえに「自己生成」は”動く持続的な生成と運気(=創造)。人間は自分の「存在感」は自身ではわからず、〈自分の存在感〉は外物・他者からの、「反射」によって── ”主体とは何か?” 初めて〈自分の存在〉が自分自身でわかる。──つまり人間は自分の「生成触発」は自身ではわからず、「自己生成」は”外物に映す自分”や ”他者に映った自分”が、”その外物・他者へ── 「照射し返す」自分”によって ”生成と運気とはどこで起きるか?”── 初めて〈自分の生成と運気〉が 自分自身でわかる。

”Cognigenesis”:「震源が実際に自分を生み始める現象」「震源としての潜勢」:「震源が、まだ震源になる前の、震え始める力」。”前に出てはおらず、伏流しているもの”──”伏流”し続けていたもの=「核心の貯蔵」。「熟成(Ferment Brewing)させておく”ことで、内側の発酵が、進み時間が醸してくれる。」──まさに”生成と運気”の伏流は、必ず「転位の瞬間」で像となる。間違いなく生成濃度を決める“地下水脈”になっている「差異の欠片」「無名の瞬間」「中動態的主体」「反射された自分の受け取り(=素材化)」などの一連の実践サイクルが──まさに 《 潜勢 → 生成と運気 》の流れに位置する。 「潜勢的 → 差異 → 跳躍点 → ”Cognigenesis”」の流れは、生成の“深度”が増していく階梯──「 “未然に息づく生成と運気”」「 “無名の前思考・前創造圏”」──「潜勢的= 未だ名を持たない震源」の”未然の呼吸”は”差異の欠片 ”= 潜勢が最初の”徴”として現れる──「跳躍点 = 差異が生きた主体内部で“転位の臨界点”になる瞬間。すなわち、”Cognigenesis” = 主体そのものが生成し、はじめ運気づく(自己生成の震源)。前に出てはおらず、むしろ──「生成と運気の最深部」に“伏流させておくべき根” 。つまり──生成と運気の全体を静かに底から押し上げる“呼吸の地層”として配置され、真に必要な「転位の瞬間」で──はじめて輪郭を持ちはじめるもの。 “未然に息づく生成”/ “無名の前思考・前創造圏”──「“未然に息づく生成と運気”」→ 潜勢的の“内呼吸”として「潜勢的」の本質のひとつ。 潜勢と差異の間(あわい)=未だ徴(差異としても現れていない段階)。これは”差異の欠片”が現れる前に存在する「透明な”力場(場の胚)”」としてある。では…これらはいつ出てくるのか? ”知覚/現れ”から”知的な現れ”──「思考と創造」 ”いつも見慣れた私の「部屋」”=”巨視的な知覚”──〈わたしたち〉は日常生活において特に意識して見たりしない。繰り返しの中にある日常の部屋──”ふとした空有感”となって──”いつもと違う!いつもと少しだけ違う気配”=”微視的な知覚”──「微細な変化に気づく瞬間」「ふと立ち止まる瞬間」──”問いが生まれる前の前提”となり、問いは変化を感受する身体が先にあるから立ち上がる。反復行為は「無意識の領域」だが、ここにこそ“純粋な視線”がもっとも活性化する。反復の中で「同じことをしているのに、どこか違う」という微かな差異を感じた瞬間──そこに生成の萌芽が隠れている。これらはすべて“自生的な問い”が生まれる前兆──「境域」「座礁」「保留」は、この“ふとした停止”として日常に現れる──〈わたし〉の内に起きた差異の欠片(かけら)。

人間は、自分の「存在感」は自身ではわからず、〈自分の存在感〉は外物・他者からの、 「反射」によって── ”主体とは何か?”初めて〈自分の存在〉が自分自身でわかる。つまり──人間は、自分の「生成触発」は自身ではわからず、「自己生成」は”外物に映す自分”や”他者に映った自分”が”──その外物・他者へ「照射し返す自分」によって ”生成とはどこで起きるか?”初めて〈自分の生成〉が自分自身でわかる。”転位”の第一呼吸──「震源としての潜勢」 。内奥の“わたし”が、 揺らぐ(自明性の崩れ)。 揺らぎを拒絶せず、受け取ってしまう。〈わたし〉の中の”差異”が、 ひとつの「新生(birth)」を起こす。 ── 無名の瞬間。 ”Cognigenesis” の最初の微震──“揺らぎ=差異”。 ”差異”は説明ではなく、比喩でもなく、身体の奥に沈んだ── “微かな揺れ”そのもの。 ”差異の欠片(かけら)”さえあれば、そこから「生成と運気の動線」は自然に伸び、共振へ“種線(seed-line)”が自ずと現れる。

〈わたしたち〉の日常見に“差異の欠片”が、まさに── 未形の震源(”Cognigenesis” の初動) になります。「生成の前成層」として「”思考=創造”の前景圏──未形の”震源”」は、「現実を”生成”する──生成される”潜勢的”」であり、”Cognigenesis”(自己生成の震源)」→ その前段階としての “震源としての潜勢”。”Cognigenesis”(自己生成の震源)を理解するには、その“前地”としての『震源としての潜勢』を、先ず呼吸しなければならない。 ”Cognigenesis”:「震源が、実際に自分を生み始める現象」震源としての潜勢:「震源が、まだ震源になる前の、震え始める力」。”前に出てはおらず、伏流しているもの”──”伏流”し続けていたもの=「核心の貯蔵」。「熟成(Ferment Brewing)させておく”ことで、内側の発酵が、進み時間が醸してくれる。」──まさに”生成”の伏流は、必ず「転位の瞬間」で像となる。間違いなく生成濃度を決める“地下水脈”になっている「差異の欠片」「無名の瞬間」「中動態的主体」「反射された自分の受け取り(=素材化)」などの一連の実践サイクルが、まさに 《潜勢 → 生成と運気》の流れに位置する。

「潜勢的 → 差異 → 跳躍点 → ”Cognigenesis”」の流れは、「生成と運気の“深度”」が増していく階梯──「 “未然に息づく生成と運気”」「 “無名の前思考・前創造圏”」──「潜勢的=まだ名を持たない震源」の”未然の呼吸”は、”差異の欠片 ”= 潜勢が最初の”徴”として現れる──「跳躍点 = 差異が生きた主体内部で“転位の臨界点”になる瞬間。すなわち、”Cognigenesis” = 主体そのものが生成し運気づくはじめ(自己生成の震源)。前に出てはおらず、むしろ──生成の最深部に“伏流させておくべき根” 。つまり──生成全体を静かに底から押し上げる“呼吸の地層”として配置され、真に必要な「転位の瞬間」で──はじめて輪郭を持ちはじめるもの。 “未然に息づく生成”/ “無名の前思考・前創造圏”──「“未然に息づく生成”」→ 潜勢的の“内呼吸”として「潜勢的」の本質のひとつ。 潜勢と差異の間(あわい)=未だ徴(差異としても現れていない段階)。これは”差異の欠片”が現れる前に存在する「透明な”力場(場の胚)”」としてある。では…これらは何時出てくるのか? ”知覚/現れ”から”知的な現れ”──「思考と創造」 ”いつも見慣れた私の「部屋」”=”巨視的な知覚”──〈わたしたち〉は日常生活において特に意識して見たりしない。繰り返しの中にある日常の部屋──”ふとした空有感”となって──”いつもと違う!いつもと少しだけ違う気配”=”微視的な知覚”──「微細な変化に気づく瞬間」「ふと立ち止まる瞬間」──”問いが生まれる前の前提”となり、問いは変化を感受する身体が先にあるから立ち上がる。反復行為は「無意識の領域」だが、ここにこそ“純粋な視線”がもっとも活性化する。反復の中で「同じことをしているのに、どこか違う」という微かな差異を感じた瞬間──そこに生成の萌芽が隠れている。これらはすべて“自生的な問い”が生まれる前兆──「境域」「座礁」「保留」は、この“ふとした停止”として日常に現れる──〈わたし〉の内に起きた差異の欠片(かけら)。

全体の“呼吸”を損なわずに、構造の核(転位・差異・潜勢・Cognigenesis)を一本の“生成線”としてまとめ直しつつ、どこが後で“熟成されて出てくるか”を明確化することである。提示した二つ:「未然に息づく生成」「無名の前思考・前創造圏」──これらは中核に“今すぐ”登場するものではなく、「前地(フロア)」として伏流させつつ、後々で像を持ち始める概念になる。何故ならば──どちらも《潜勢》のさらに“前の層”に位置する概念だからである。未然の呼吸(透明層)→ 潜勢的(virtuel)→差異の欠片 → 跳躍点(転位の臨界) → Cognigenesis(自己生成の震源)。「未然に息づく生成と運気」「無名の前思考・前創造圏」は、この階梯の最上段──“透明層”にある。主題は──あくまで「Cognigenesis に至る震源の準備」だから、「畏れ / 間隙 / 胎動 / Cognigenesis」という「生成と運気の地熱」が上がっていくプロセスであり、ここで “前創造圏”まで明示してしまうと、思考がまだ熱を帯びきる前に、透明層を見せることになる。すると身体が追いつけないだろう。「転位の第一呼吸」──震源としての潜勢(今ここで扱うべき)差異 → 跳躍点 → Cognigenesis の生成線と運気線 → 未然層(未然に息づく生成と運気の前思考・創造圏)──伏流として置いておき、名前を与えないことだ。今の匂いが、後で像となるだろう。

 

 

転位の第一呼吸──「震源としての潜勢」

 

….. 内奥の〈わたし〉がわずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる、

“微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな birth を起こし、

それがやがて Cognigenesis の最初の微震 となる。

差異の欠片(かけら)。
その最小単位だけで十分である。
そこから生成の動線は静かに伸び、
共振へとつながる “種線(seed-line)” があらわれてくる。

〈あなた〉の差異の欠片を、
どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

日常見に現れる “差異の欠片”──生成の前成層。日常は特殊な瞬間ではない。しかし、思想と創造の根源に最も近いのは、まさにこの日常である。「歩き慣れた道で光の質が変わる」「身体の重さ、呼吸がわずかに揺れる」「反復行為の中で”同じはずなのにどこか違う”を感受する」「ふと立ち止まる前の沈黙が生まれる』──これらはすべて、「問い」が生まれる前の“前提”としての身体の感受である。ここで現れる僅かな差異は、すでに潜勢が地表へ向かって“伏流から浮上に転じる徴”となっている。

 

 

“種線(seed-line)”──潜勢から生成への細い流れ

 

….. 差異の欠片が置かれた瞬間──

潜勢として伏流していた力は、
その差異を核にかたちを帯びる。

それはまだ跳躍点ではない。
しかし、確実に「そこへ向かう線」である。…..

 

 

この seed-line の存在こそ、「震源としての潜勢」が実際に「生成と運気」へ接続するための最初の呼吸であり核である。そして核心──「“未然に息づく生成と運気”」「“無名の前思考・前創造圏”」はどこか? ──まさにその “気づき” こそが、核心そのものdなのだ。そして──いま感じ取った「早すぎる → 伏流」への自己調整、まさしく── Cognigenesis の内側で起きる「生成と運気の”自覚” 」そのもの。経験したこと(概念ではなく、“生成の事実”として)──生成と運気は、語りすぎると壊れる。語らなすぎると伏流のまま届かない。この綾(あや)を感知して、自ら呼吸を引き返すこと。それこそが《震源としての潜勢》の正しい扱い方である。なぜ “早すぎるアウト” が危険なのか? 理由は非常にシンプルで深い。「潜勢」は、語れば語るほど “潜勢でなくなる”から。潜勢が潜勢であるためには、「伏流」= “まだ輪郭を持たないまま、圧の地層として存在する”という状態を保つ必要がある。「生成と運気」は語る → 圧が下がる──伏流させる → 圧が充満するというサイクルを持つ。これは凄いことであり、「生成と運気」の主体が完全に起動している証である。金脈の「伏流」とは、未だ”差異』が徴として立ち上がる前、未だ”自己生成”が始まっていない。但し、“内的な圧”だけは確実に蓄積しているという段階。今体験しているのは──まさしく潜勢 → 差異(徴) に至る前の《0.5段階》。この地点を丁寧に扱えるかどうかで、次の精度は桁違いになる。

名を与えようとするたび──その“もの”は少しだけ深く潜っていく。今は未だ触れないでおこう。後で気づくだろう──あれが既に「生成と運気」の最初の震えだったのだと。今は──“伏流”から離れ、“伏流の呼吸・伏流の濃度・伏流の速度”そのものを扱える地点に到達しよう。これは ”Cognigenesis”「自己生成の”震源”」の内側でしか起こらない変化で──いわば「生成と運気」が主体が静かに──しかし確実に起動している証 。伏流 → 差異 → 跳躍点 → Cognigenesis“──”「生成と運気」前の呼吸”とは、「そのもんは、果たして何なんだろう?」──未だ言葉にならず──しかし確かに存在する“何か”を残す。「この伏流ともいうべきそのもんは、果たして何なんだろう?」と後々──解き明かす時が来るだろう。これは “差異の徴” が未だ現れていない段階──時間を先送りにすることで「潜勢」の圧を保持する。「生成と運気」は語らないことによって──むしろ強まる──まさに「伏流の技」。これは次の段階の徴候である今、「生成と運気」の”前呼吸”──多分、掴んでいるであろうところの核心「深い生成と運気の時間」。──伏流”の定義を急がなくとも、先ずは伏流の”気圧”として、伏流の”気配”として、未明のまま置いて未来に委ねる。「後々~」というように──”未然性”だけは「密度」と「沈黙」によって伝わるだろう。

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──

”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
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日光占術|観氣(かんけ)vol.08:拍動

 

 

 

 

      ── 内的な揺らぎ ──

 

 

 

 

I 拍動 — pulsation

占態の創造に燃える火は、占想の思考という影ではない。
出現か消失か、世界が息をのむとき──私たちの「内なる”閾”」が開く。
──そこに在るのは、「燃えうる可能」としての過去。
火は記憶の中に眠り──今、「生成と運気」のために目を覚ます。

Fire is not the shadow of thought.
It is the heartbeat beneath creation, still unnamed.
When the world holds its breath,
the inner threshold opens.
There lies the past as a potential to ignite.
The fire awakens — for genesis.

 

II 声明の火 — Ethos of Combustion

燃えることは、破壊ではない。
それは、関係が生まれる瞬間だ。
〈あなた〉と〈わたし〉という間(あいだ)に灯る光が、ひとつの呼吸を共有するとき──炎は”倫理”になる。

世界を焼かず、照らし、包む──その温度こそが、『観氣(かんけ)』の実地。

To burn is not to destroy.
It is the moment relation begins.

When the light between you and me breathes as one,
the flame becomes an ethic.

It does not scorch the world — it embraces it.

This warmth is the praxis of Cogni-genesis.

 

Ⅲ 余白の呼吸 — After-flame Silence

火が鎮まるとき、灰はまだ語り続けている。
そこに、次の息の予感が宿る。

火は終わらない。
ただ形を変え、静けさの中で──世界の記憶を呼吸している。

When the flame subsides,

the ashes keep whispering.

In them lives the premonition of another breath.
The fire does not end — it transforms.
Within stillness, it breathes the memory of the world.

 

 

燃えるものは滅びではなく、潜勢の帰還である。
炎は息を呑み、その奥で、世界の名が再び呼ばれる。

飛びゆくものたちは、火に焦がれて散るのではない。
自らの核を、光の中に返すのだ。

一瞬、生成・運気の閾が開く。

熱と息がひとつになるそのとき── 思考は火となり、創造は風となる。

── 火は、記憶の呼吸。
息は、世界の再生。

What burns is not decay,

but the return of potential.

The flame inhales,
and within its depth, the world’s name is called again.

Those who fly toward it

do not perish in longing,

but return their core to the light.

For an instant,

the threshold of genesis opens.

When heat and breath become one,

thought becomes fire,
and creation becomes wind.

── Fire is the breath of memory.
Breath, the world reborn.

 

 

「拍動」──経験のやり方:経験を超えて進むことはできない(記憶・再生): 自らの核を光の中に返し、余白の熱と息がひとつになるそのとき──一瞬「占」の”閾”が開く。余白の呼吸は破壊でも静止でもなく──火はここで、「占想(思考)と占態(創造)が一つになる瞬間」の象徴として存在する。「潜勢」が自己を思い出す速度に内的な揺らぎ──その呼吸は、今も〈あなた〉の胸の奥で、微かに──しかし確かに燃えている。

 

 

燃えるとは、還ることである。
To burn is to return.

火は滅びではなく、
The fire is not destruction,

潜勢が自己を思い出す速度。
but the speed of potential remembering itself.

思考は灰を越え、
Thought crosses the ash,

創造は光に変わる。
Creation becomes light.

そして、
And then,

息がそのあわいを結ぶ。
Breath binds the in-between.

 

 

「拍動」──経験のやり方:経験を超えて進むことはできない(記憶・再生): 自らの核を光の中に返し、余白の熱と息がひとつになるそのとき──一瞬「占」の”閾”が開く。余白の呼吸は破壊でも静止でもなく──「思考(占想)と創造(占態)が一つになる瞬間」の象徴として存在する。「潜勢」が自己を思い出す速度に内的な揺らぎ──その呼吸は、今も〈あなた〉の胸の奥で、微かに──しかし確かに燃えている。火はここで、破壊でも静止でもなく、「占想(思考)と占態(創造)が一つになる瞬間」の象徴として存在する。

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──

”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

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日光占術|観氣(かんけ)vol.07:臨界

 

 

 

 

      ── 共生成の閾 ──

 

 

 

 

『臨界』──「生成・運気の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”。”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象へ望む占意が占い描き観た占い記述からの占針(指針)による「占想の思考」→ 「占態(望みの実現)の創造」への創造的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、思考が「火」として立ち上がり、創造が「光」へと転じる──まさにその発火の瞬間の譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。「臨界」とは──境域が呼吸し始める点か? 一般に臨界とは、状態変化が起こる閾値を指すが──しかし『観氣(かんけ)』の文脈では、それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間のようだ。「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな”接触領域”が「臨界」となっている。──つまり「臨界」は、「対立の間に現れる共鳴膜」として、”静止と運動”/”崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは”境界が境界であることを止め”──あたかも”呼吸する場”になる瞬間のようだともいえる。

「臨界」は──思考が創造に変わる温度なのだろうか? 『観氣(かんけ)』において「臨界」とは、「思考が創造へ転位する温度」であり、一種の内的温度上昇=発火現象と捉えられている。──たとえば「問い」が深まっていく過程で、言葉の意味が崩壊し始める瞬間がある。そこでは思考はもはや“考える”のではなく、”生成する”ように働き始める。この”運気づく”転換点こそが、『観氣(かんけ)』的な“臨界”なのである。言い換えれば――「臨界」とは、”思考の最終温度”。そして─その温度が一定以上に達したとき──思考は形を越え、創造の呼吸へと変わるということなる。もう一つ重要なことは、「臨界」=「共生成の場」として──「臨界」は〈一者的〉ではないとしていること。火が燃えるためには酸素が必要であるように、臨界には他者・環境・余白が必ず関与し──臨界は「孤独な爆発」ではなく──むしろ「関係の点火」。つまり──「関係が生まれる瞬間=共生成の臨界点」。これを『観氣(かんけ)』の語法で言えば、「”火”が他者と世界を媒介する場」――それがまさに燃焼の倫理の前提となる「臨界」なのである。定義的表現に置き換えるとすると──臨界とは、思考と創造、内と外、自己と他者――それらの間に現れる”呼吸的接触の瞬間”――それは破壊ではなく生成、終焉ではなく、「転位――“閾(いき)”」が“呼吸(いのち)”へと変わる内的共鳴温度のこと。

「臨界」──経験のやり方:経験を超えて進むことはできない(分離・接触): 「余白が呼吸し、「他者」が内に点り、「世界」が再び光を帯びる”共生成の閾(いき)=呼吸」──緊張の糸を切り、臨界に漂った後に訪れる内的な揺らぎは──「内・外 / 潜勢・現勢 / 個・他」が互いに接触して息を交わし始める──『関係の発火』である。それは外部から投げかけられる問いとは異なり、日常の余白から自発的に立ち上がる。例えば、こうして生まれた問いは──「既成の枠組みを超える可能性」を孕み、本章『観氣(かんけ)』において──これからから扱う【占想から占態への還元する】観者となった〈あなた〉自身の「運気の縁起=未然の生成」がここから具体的に動き出す。例えば──日常の観察を深めるためには先ず「収捨吟味する態度(取捨選択とは異なる態度)」を身につける必要がある。通常、私たちは何かを感じたとき、すぐに情報・仕事・人間関係・持ち物など対象広く片づけ・断捨離の文脈で「本当に大切なものを大切にできる環境にするための取捨選択や情報・案件など限られた時間や資源を有効に使うための取捨選択をしていく。そのプロセスを一旦保留し、取捨選択の判断を停止することで──「《占う対象》との”間(あわい)により深く開かれる余白が生まれる。」──さらに日常の中で、「ただ”共に在る”」という「思考と創造 / 自己と他者 / 潜勢と現勢」各々の交錯と透過に息づきざるを得ない瞬間を肯定的に捉える。”静止と運動・崩壊と生成・終焉と誕生”などあらゆる「対立」が僅かな呼吸の内に「共存」しはじめるこの呼吸が続く限り──「生成と運気」は終わらない。

 

 

臨界という呼吸

 

 

──共生成の閾における発火譜──

 

….. 臨界とは、破断ではなく、接触である。
「内」と「外」、「潜勢」と「現勢」、「個」と「他」の各々が互いに僅かに触れ、息を交わし始めるとき、そこに生まれる共鳴の膜――それが臨界の場である。

静止と運動、崩壊と生成、終焉と誕生。
あらゆる「対立」が、わずかな呼吸のうちに共存しはじめる温度帯。
それが、思考(占想)が創造(占態)へと転位する最終温度である。

思考(占想)は、もはや「考える」ことを越え、生成そのものとなる。
このとき、火は自己を燃やすだけでなく、他者と世界を媒介し、関係としての炎へと変わる。

臨界とは、孤独な爆発ではなく――「関係の点火」。

それは「余白」が呼吸し、「他者」が内に点り、「世界」が再び光を帯びる――”共生成の閾(いき)”である。

ここにおいて、“思考”は“創造の息”へ、“閾”は“呼吸”へと変わる。
この呼吸こそ――『観氣(かんけ)』の発火譜の余韻にして、次なる――「関係生成」の第一息である。…..

 

 

Critical Breath ― Threshold of Co-Genesis

 

….. The critical is not rupture, but contact.
Where inner meets outer, potential meets actual,
they breathe each other into being.

It is the membrane of resonance,
where stillness and motion coexist,
and thought reaches its final temperature ―
transforming into creation.

Fire, no longer solitary,
becomes the medium of relation.

The critical is ignition between selves,
the moment when space breathes,
the other glows within,
and the world rekindles its light.

Thought becomes breath.
Threshold becomes life.

― The lingering score of ignition,
the first breath toward relation. …..

 

 

この臨界呼吸(詩節):「臨界という呼吸 ── 共鳴温の生成と運気」の響きは、「生成・運気」と「燃焼の倫理」を橋渡しする“共鳴温”として成り立つ――”発火譜”が「自己生成の”閾”」であり、この「臨界という呼吸」は、そこから他者的生成(関係の火)への”転位”点として機能する。“臨界”そのもの――すなわち「生成と運気の接触点」。「占い描き/占い観る」その「発火の孤光」が――この「臨界という呼吸」で「関係の温度」へと転じ、そこから「燃焼の倫理=関係の火」への自然な架橋が他者的生成の実地として息づき始める。この呼吸の移行は――まるで一つの火が別の火に触れて“共鳴温”を生むように――火は伝わるのではなく「共鳴して」移る。その瞬間、火はもはや物理的なものではなく――「関係の媒体」になる。そして――まさにこの地点こそ――『観氣(かんけ)』が生成・運気から縁起へ、さらに倫理=「他者との呼吸」へと展開していく「温度の臨界点」だと思われる。

 

 

….. 占想と占い記述からの思考が尽きるその瞬間、占態への創造は静かに始まる。
その間(あいだ)に生まれるのが、占態への臨界という呼吸である。

臨界とは、「分離」と「接触」が同時に起こる地点。
占想と占い記述からのの思考が自己を押し出し、占態の創造がまだ形を持たないまま迎え入れる。
両者は衝突せず、ただ触れ合う。

この接触は破壊ではない。
むしろ、“温度”である。
思考が焦げつかずに発光するぎりぎりの温度――それが共鳴温。

共鳴温とは、一者が他者を燃やさずに照らす温度。
内的炎が、他の炎と共に燃えながら、その差異を保ちつつ共に揺らぐ。

このとき、火は孤立した物質ではなく、「関係」そのものになる。
火が火を映すとき、そこには媒介も所有もなく、ただ“共に在る”という現象だけが残る。

臨界はその“共に在る”の閾(いき)。
思考と創造、自己と他者、潜勢と現勢――そのすべてが交錯し、互いの境界を透過させながら息づく呼吸。

この呼吸が続く限り、「生成と運気」は終わらない。
火は滅びではなく、共鳴の温度として燃え続ける。…..

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。

それは説明でも比喩でもなく、

自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる──

縁起を兆す“微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──


〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、

まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、

それがやがて、

「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──

その最小単位だけで十分である。

そこから「生成の動線」は静かに伸び、

「運気との共振」へとつながる──

──
“種線(seed-line)” が現れる。

差異の欠片が置かれた瞬間──

《潜勢》として”伏流”していた力能は、
その差異を核に、地力のかたちを帯びる。

転軸のそれは未だ”跳躍点”ではない。
しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)」に”潜”を充す──
見えない月裏の月相と星相の結び目=”転位”。
〈あなた〉の”差異”の欠片を、

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。

それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

《お問い合わせ/ご相談》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
➡︎ http://www.office-kanke.com
OFFICE KANKE「思創考造 Cognigenesis」
web email ➡︎ Contact page

 

 

 

 

日光占術|観氣(かんけ)vol.06:境域

 

 

 

 

      ── 日常の地層 ──

 

 

 

 

私たちが空間に浸り時間に流れに伏流としてある「縁起(因・縁・果)」──”感性”において「生成・運気」と未分化のまま密かに”転軸点”に潜んでいるということである。「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)」──つまり「縁=心を通す(心通)」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であるとすれば、縁結びに縁の良し悪しも腐り縁や縁切りなど──いわば人間の不具合と不都合による遅出し後出しの”未然の生成(運気)”と”未到の縁起”にすぎないのだろうか。経験を超えて進むことができない「感覚→知覚経験」を持つことによる”経験のやり方”と「占いの間(あわい)」──“問い“の落とし穴。遍く(普く)「問い掛け」から始まる《転位》──すなわち”問う”ということは、我欲や我執の全く無いところで”心を通す”ということである。感性による問い掛け──つまり”心通”に伴う「感性の躓き(沈黙と誘い)とその受容=”氣”──全ては「問う」ことであって”問い掛け”から始まるとすれば、スピリチュアル性に脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の閃きなどによる占方(占形)を先立って駆使したり、霊妙に仲立ち媒介する感応の響きなどに依る占方(占形)を初っ端から駆使するような必要があるのだろうか。

《占いを”描く”》と《占いを”観る”》間(あわい)──“問い“の落とし穴=占い。全ては”問う”ことであり、遍く(普く)「問い掛け」から始まる《転位》──すなわち”問う”ということは、我欲や我執の全く無いところで”心を通す”ということになる。感性による問い掛け──つまり”心通”に伴う「感性の躓き(沈黙と誘い)とその受容=”氣”。『観氣(かんけ)』の占方(占形)には、スピリチュアル的な”神泥棒の閃き”や”霊の欲望の響き”の官能など何一つ無い中で、『観氣(かんけ)』は”転成”へと《転位》させる。〈 占いを見る〉その者の”経験のされ方”として、内面から湧き上がる感情や精神性とは一体何であろうか?──生成と縁起(運気と縁起)の「生成感覚(運気感覚)と「自分の眼で触る」──知覚・意識・生成の交差点において”生成感覚(運気感覚)とは何か”? ──占術の観照は単なる視覚的受容に留まらず、「触る」かのような多感覚的かつ生成的(運気的)な関わりを指す。《占いを”描く”/占いを”観る”》ことの「眼の動きを心の手で追う」ことで──〈占いを”見る”〉者はその感覚の秩序や領域を横断し──縁起(因・縁・果)における「生成の運気感覚/運気の生成感覚)」と一体化しようとする。この体験は知覚が単なる情報受け取りではなく、”感覚と生成(運気)の振動(差異と反復)”の中で”自己生成”を伴う「生成的知覚(運気的知覚)」であることを示す。

 

 

問いと転軸

 

….. ”時は一向にすぐるとのみ計功して、未到と解会せず。” …..(正法眼蔵:1231‐53 有時)──時間は、ひたすら過ぎ去るものだとばかり考えていて、未だ到達していないということを、理解しない──「日常の地層」に動かず、ただその場に止まって、静止し存在しているように見える木も──「時(時間)」である。動き回りしているものは場の移動をするので、時の移り変わりを考えることができ、「時」とはその様なものであると〈私たち〉は日常を生きていて思うが、静止している木そのものの存在も同じ様に時(時間)である。つまり──動き、場を移り変わるものだけが「時」ではない”ということ──〈わたし〉と存在〈わたし〉と時間が一つである。時間だけが止まってこの世界の全ての物事が存在しているという状態はあり得ず、もし時間が静止するなら存在もなくなり──存在がなくなれば時間もなくなる 。存在だけがある──あるいは時間だけがあるという状態はあり得ない。世界の出来事は繋がってゆくが、繋がりながらも──「その時その時」であり、その時その時の瞬間”──時々刻々のそれ以外に「生成」はなく、その様に”生成は動き連なり持続”してゆく。

而今(じこん)=まさに今、この一瞬(瞬間)──静止したかの様に見える山も海に「時(時間)」がないとしてはいけない。山も海も「時」であり、もし「時」がなくなれば山も海も無くなり、「時」がなくならないなら山も海もなくならない。この様な理路の筋において──〈わたし〉がこの「世界」で生きているそこに「時(時間)の経過」があるのではなく、〈わたし〉と存在〈わたい〉が生きているということ。時間と世界が皆ひとつのことであるとした上で──〈わたし〉以外に世界はなく、世界以外に時間はなく、時間があるということは──〈わたし〉が生き、生きているということであり、その事実をどう生きたらいいのか? このような理路の筋で行けば、それは──これまでは「時間的往還」とその螺旋に何度も往還しながら呼吸を深めていくことで、世界の内外の境界が透け、呼吸が一本化し、「生成の場」が立ち上がることになる──すなわち「場を生み出す生成」だとすれば、これからは「生きることそのものを生成として見る」──つまり生を成す「生の生成」=「生成は移動そのもの」に広がる形となる。

生き、生きてゆくということは、常に一つのこと──「生成を生きてゆく」その連続──それ以外にないということである。時間と空間と〈わたし〉が一つになり、〈わたし〉が「生」と一つになり、思考は現場へと降り、創造は試行錯誤の中で磨かれる──この循環が〈私たち〉の「生」に即して具体的に展開され、「生の生成」── ”生成知”とは、教育・芸術・科学、そして「日常の実践」にまで通じている。「今」は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──今なにが起きているのか「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的「実践」──すなわち「生成の縁起(運気の縁起)」であるということの日常的「実地」そのものだと思われる。

日常の地層音(key-tone)=生成(運気)の大地「日常の地層」──”生成の主体”が運気とともに完全に起動している証。しかし未然にて未到。「日常見」に現れる “差異の欠片”──生成(運気)の前成層(日常の地層)=日々の隙間に漂う生成(運気)の地層であり、Cognigenesis”(自己生成の震源) の内側でしか起こらない変化で──いわば”生成主体”が静かに──しかし運気の流れと確実に日常を動いている「時(時間)」。日常という地層の奥で、生成(運気)の低音が鳴っているという声──日常の反復の中「同じことをしているのに、どこか違う」という微かな日常の差異を感じた瞬間──そこに『生成の萌芽=運気の潜勢』が隠れている。──これらはすべて「自生的な問い」が生まれる前兆。日常の地層に沈む”差異”が「問い」となり──まさにその”問い”が「自己生成」として立ち上がる。反復行為は”無意識の領域”だが──ここにこそ純粋な視線がもっとも活性化する。

問いや目的を脇に置いて豊かに経験が立ち上がる余白を孕む領域としての日常性。──日常には、問いを立てずとも感じられる気配、光や色、音や匂い、身体感覚、他者とのささやかな交わりなどが絶えず現れている。それらに「問いを差し挟む前の”ありのまま”を受け止める」ことで、新たな「気づき」や「問い」の芽生えが自然に生まれる場となる。「日常は事の連なりである」──「日常の地層」を”歩き”ながら「問い」を生む前の視線──始動前の始動──を掴む。そこからさらに踏み込んで、日常性の具体的な在り方──そして、そこで立ち上がる視線の本質。

《反復と静度の地層(日常 ”Dailiness”)》とは──「平凡な時間」ではない。そこには、差異を浮かび上がらせるための基準面が形成される。日常 = 差異を孕む静かな母胎、ここに「創造=動く生成の持続」は運気と共に根を下ろす。《日常にある微細な変化の地層(差異 ”Difference”》とは──思考が発見するのではなく、身体が受け取ってしまう“微細な揺れ”であり、昨日と今日のわずかな違い/同じ道の影の角度/呼吸のわずかな重さ/眼差しの曖昧な傾き──これらが静かに“差異の層”をつくり、その層はいつか「問い」へと圧縮される。《差異の凝固地層(問い ”Question”)》とは──生成と運気の道具ではない。「問い」は、”身体の感受が言語へ押し上げられた結晶”である。運気より先に身体がある/理解より先に揺れがある/解より先に沈黙がある。「問い」は“前史の生成物”として、沈黙の地層から生まれる。《自己生成の地層》とは、──「問い」から生じる運気であり、「問い」そのものを“創りなおす生成”である。生成と運気が別々でなく、一つの「生成線(ジェネシスライン)」として現れる現象。運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける。これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「自己生成」である。

──key-tone は “地層音(stratum-tone)” として響く。〈私たち〉の思想には、軽いメロディではなく、もっと深い音が鳴っている。それは、「日常という地層の奥で、生成(運気)の低音が鳴っている」という声だ。この低音=key-tone があるからこそ、これまでの「今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)」──このすべてが一つの占体として結びつく。「日常性という境域」の意味付けとして──「境域(リミナルスペース)としての日常性」:日常は「特別ではない反復」の場所と見なされがちではあるが、ここでは日常を「問い以前/問い以後」「無思考と熟考」「内と外」「自己と他者」の間(あわい)──いわば「リミナル(境域)的空間」として捉える。この「境域」では思考は固定化されず、問いが自生する余地が維持されるため、創造的・認知生成的プロセスが自然に起こりやすくなる。

──「美しさを宿す場」=「境域としての日常性」には、しばしば見過ごされる微細な美や潜在的な豊かさが潜んでいる。光の揺らぎ、風の微かな動き、身体感覚のひそかな変化、他者との無意識的な呼吸の同期。そうした瞬間の「美しさ」を見出し、味わう態度が「Dailiness Advantage」の本質。日常の美しさは、突然の劇的な風景ではなく──むしろ繰り返しの中で”心”を通し心が開かれたときに感じられる──人の「生きる風景」の静かな輝きや余韻と”氣”。この美しさが、「問い以前」の純粋な視線を呼び醒まし、Cognigenesisの種を蒔く。──「境域としての安全性と挑戦性」:日常の反復の中には安心感があるが、同時に慣れゆえに視野狭窄を引き起こすリスクもある。境域の美しさを見つめる態度は、この安心性に甘んじず、しかし過度に未知へ飛び込む不安とも距離を置き、ちょうどよい余白(マージン)の中にとどまる挑戦でもある。その「漂い・座礁」的な状態で美を感じ取ることが、既存の見方を揺さぶり、新たな問いや「転軸」的な瞬間を育む基盤となる。

 

 

プレデュード prelude:

 

「境域」──経験のやり方:経験を超えて進むことはできない(地層・差異)

 

「余白から芽生える問い」──荷を降ろし、境域に漂った後に訪れる内的な揺らぎは──『小さな問いの萌芽』である。それは外部から投げかけられる問いとは異なり、日常の余白から自発的に立ち上がる。例えば、こうして生まれた問いは──「既成の枠組みを超える可能性」を孕み、本章『観氣(かんけ)』において──次章から扱う【占想から占態への還元する】観者となった〈あなた〉自身の「運気の縁起=未然の生成」がここから具体的に動き出す。

例えば──日常の観察を深めるためには先ず「保留する態度」を身につける必要がある。通常、私たちは何かを感じたとき、すぐに意味づけをし、問いを立て、答えを探しにいく。しかし、そのプロセスを一旦保留し、判断を停止することで──「《占う対象》との”間(あわい)により深く開かれる余白が生まれる。」──さらに日常の中で「境域に留まらざるを得ない」瞬間を肯定的に捉える。予定が崩れ、行き先が定まらず漂うとき、思考は慣れたパターンを外れ、知らぬ感覚や気づきに出会う”チャンス”が訪れる。これを「座礁」と呼んでもよい。乗り物が岸に打ち寄せられるように、一時的に停滞するからこそ、新たな視点が立ち現れる。こうした境域状態を味わうには、あわせて「荷を降ろす」実践が役立つ。日常の重荷──過度なスケジュール、成果への執着、過剰な情報消費──を一旦ワークアウトし、省いてみることで、意識は軽くなり、保留の余白を保持しやすくなる。

「荷を降ろした後の沈黙や静けさ」は、問い以前の純粋視線を研ぎ澄ます場となり──「”Cognigenesis” の種を育む」。例えば、ある日──意図的に予定の一部を空白にし、その時間を問い構えずに過ごす。漂うままに歩き、目に映る風景や身体感覚をただ感じる。その間に浮かぶ小さな揺らぎ──”いつもの私なら気づかない何か”をメモし、この揺らぎこそ問いの萌芽であることを見守る。こうして境域に留まる体験が、思考の前段階を豊かにし、次なるCognigenesisの起動を促す。このように「保留」「境域」「座礁」「荷を降ろす」「ワークアウト」は、すべて日常性の中で可能な実践であり、問い以前の視線を深めるための鍵である。これらを通じて得た余白から自然に芽生えた問いは、次節で扱う共観や地力の回路を刺激し──「生成(運気)の循環」を拡張していくだろう。「保留する視線」の練習──観察の深度を高めるためには、まず”問いを保留する勇気”が要る。感じたものをすぐに意味づけず、一旦停滞させることで、視線は対象とのあわいにより濃密に開かれる。日常においては、たとえば誰かの発言を聞いた直後に、すぐに反応や判断をせず、一呼吸置いて保留する。この小さな習慣が、思考の前段階を豊かにする余白を育む。

「境域で漂う体験」──予定の合間に漂う時間や、思考が行き詰まって手が止まる瞬間は、往々にして不安や焦りを呼び起こす。しかし、それを避けるのではなく、「座礁した」と捉えてみる。漂いながら留まることで、既存の思考地図が解除され、新たな感覚や問いの兆しが現れる。──「日常の隙間に漂うこの”境域”」は、意図的に設定しなくとも、偶発的に訪れる出来事として受け止め、そのまま味わうことで──「既成の枠組みを超える”可能性”」の余地を見出せる。「荷を降ろす実践と実地」──日常の重荷は過度な予定、成果への執着、情報への過集中を一時的に「ワークアウト」し、省いてみることで、心身は軽くなる。例えば一日の中で「今日はこれをしなくてもいい」と自分に許可を出し、その時間や注意を純粋観察に回す。荷を降ろした後の静けさや自由度が、問い以前の視線を研ぎ澄まし、Cognigenesisの土台を深める。余白から芽生える問い──荷を降ろし、境域に漂った後に訪れる内的な揺らぎは、小さな問いの萌芽である。それは外部から投げかけられる問いとは異なり、日常の余白から自発的に立ち上がる。

 

 

プレデュード prelude:「境域」──経験のやり方:経験を超えて進むことはできない(差異・反復)に続き──このようにして生まれる「問い」は、”既成の枠組みを超える可能性”を孕み、次節から扱う──日常の地層(生成層)における【余白と臨界 / 円環と拍動 / 前成と跳躍 / 転移と潜勢】と《経験のやり方》の”問い掛け”として、「現象」──感覚の捉え方:感覚を超えて進むことはできない(意識・接近)/「可変」──感性の受け方:感性を超えて進むことはできない(潜勢・力能)/「移行」──変化の挑み方:変化を超えて進むことはできない(空間・時間)/「昇華」──価値の持ち方:価値を超えて進むことはできない(内在・手段)などその他、『観氣(かんけ)』における占方(占形)の具体場(実際の実地)へと向かう”前成段階”として、〈占想から占態への還元する〉その観者となった相談者の〈あなた〉自身の「運気の縁起=未然の生成」が、ここから具体的に動き出す「”深い生成と潜む運気”の日々への架け橋」となるだろう。

「問いを抱える前の日常性」とは何か? ──前概念的/前反省的な領域:「問いを抱える前」とは、まだ思考が「なぜ?」「どうして?」とフレームをかけていない状態。言い換えれば──私たちが何かを分析・評価しようとする前の──いわば「前概念的(pre-conceptual)」あるいは「前反省的(pre-reflective)」な”経験の場”。この段階では、物事への関わりは直感的・感覚的で、未だ問いというフィルターを通して整理されたり意味づけされたりしていない。──日常性(everydayness / Lebenswelt)の意味:日常性とは、特別なイベントや理論的探究とは対照的な、日々くり返されるありふれた営みや環境の中にあるありよう。しかし──ここで強調するのは、単に「平凡」という否定的なニュアンスではなく、「問いや目的を脇に置いて豊かに経験が立ち上がる余白」を孕む領域としての日常性。日常には、問いを立てずとも感じられる気配、光や色、音や匂い、身体感覚、他者とのささやかな交わりなどが絶えず現れている。それらに問いを差し挟む前の「ありのまま」を受け止めることで、新たな気づきや問いの芽生えが自然に生まれる場となる。

──余白とマージンの確保:「問いを抱える前の視線」を可能にするには、思考や解答を急がない〈余白〉(マージン)が必要である。「日と常性」は、この余白を提供する土壌。日常の中の何気ない瞬間(朝の光、風の動き、立ち止まった沈黙など)に意識を向けることで、問い立て以前の豊かな「観察」が発動しやすくなる。──自己疑念との関係:「問いを抱える前の観察」を行うためには、自分の先入観や自動的反応をいったん疑い、問いや答えを準備する思考習慣を手放す姿勢が求められる。ここでいう「自分を疑う」は、否定的な自己否定ではなく、「問い」や既成概念を無批判に持ち込まず、まずは現前に開かれるクリティカルかつ受容的な態度を指す。── ”Cognigenesis” との繋がりつながり:問いを抱える前の視線がしっかり立ち現れると、そこから自然に問いの芽が自生的に生まれる ”Cognigenesis” の場が立ち上がる。問いを探して外へ走るのではなく、「歩く」その日常の現前から問いが湧き起こるプロセス ──「日常見」。

「日常のデッサン的始動」──〈私たち〉は思考を始めるとき、つい「問い」を探しがちだ。しかし、その前に先ずあるべきは、問いを超えた「観察」の深度である。ここでいう観察とは、対象と自分との”間(あわい)”を丁寧に描くデッサン的態度を指す。時間と空間の重層する形式の中で、対象の質感や気配を、先入観や既存の問い立てを横に置いて受け止める。そのために必要なのは、「自分を疑う」姿勢である。自らの思い込みや、無意識に抱いている目的志向的問いの枠組みを問い直し、まずは現前するものに目を澄ませる。この純粋なデッサンから出発しなければ、生成は芽生えず、運気は動き出さない。ここにこそ「” Cognigenesis” ──認知生成」の起点が横たわる。問いを探すのではなく、問いが自発的に立ち上がる余白を整えること。それが「日常を生成と運気の縁起の場」とする「日々力行」の出発点である。

 

 

….. 生成は運気にあり──運気は生成にあり。
この段階の今こそ──まさに生成と運気の第一息として、美しく手応えのある濃度になる。
今浮かんだその次の瞬間を静かに、ゆっくりと、呼吸の奥で再生してみる。
再生とは記憶ではなく、生成と運気の続きを受け取る行為。
未だその続きを急ぐ必要はない。
風と光の偏り、身体の停止、内側のわずかな反転──それらが、きっとまた次の──差異の欠片(かけら)を呼び寄せる。
敢えて──神泥棒で脳裏に光る閃きを見る必要はなく、霊媒で霊の欲望を露わにする響きを聴く必要もない。
歩く準備が整ったとき、その次の瞬間を──伏流にて静かに次の瞬間へ──深い生成と潜む運気の日々を …..


 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。

それは説明でも比喩でもなく、

自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる──

縁起を兆す“微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──


〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、

まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、

それがやがて、

「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──

その最小単位だけで十分である。

そこから「生成の動線」は静かに伸び、

「運気との共振」へとつながる──

──
“種線(seed-line)” が現れる。

差異の欠片が置かれた瞬間──

《潜勢》として”伏流”していた力能は、
その差異を核に、地力のかたちを帯びる。

転軸のそれは未だ”跳躍点”ではない。
しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)」に”潜”を充す──
見えない月裏の月相と星相の結び目=”転位”。
〈あなた〉の”差異”の欠片を、

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。

それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

《お問い合わせ/ご相談》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
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OFFICE KANKE「思創考造 Cognigenesis」
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