KANKE 塾 《 自己プロモート 》 本音の筋力  02 :「 挑戦力 」

 

 

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   KANKE GRAND 日光

    ー ” With NIKKO ” ウイズ日光 ー

 

 

 

 

     KANKE 塾

 

 

Libyan Sibyl, circa 1511, Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni, Sistine Chapel ceiling, Michelangelo, The Libyan Sibyl, post restoration. The Vatican Museums (Italian: Musei Vaticani; Latin: Musea Vaticana) are the public museums of the Vatican City.

 

 

     菅 家 塾

 

 

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   ー 地域を生きる自分を活かす ー

 

KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行

 

 

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 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

” 本音の筋力 ”【 02 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ 追い込まれた時代 「 挑戦力 」~

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

” 素質や拠り所 ” の能力であろうが努力であろうが、「 筋力 」としてその力は ” 収縮 ” もすれば ” 弛緩 ” もするだろう。

” 筋( 素質や拠り所の力 )” が収縮するときに生まれる力がその「 筋力 」であり、「 筋力 」は力の中でも特に ” 行動力 ” を構成する重要な要素の一つとして、動かすときに必ず筋( 素質や拠り所の力 )の収縮を伴い、「 筋力 」とはその筋たるものが収縮するときの強さ示し、活動形式は収縮の仕方によって異なるが、筋力は状況に合わせて様々な方法で発揮され、閉ざされた力ではなく開かれた力の繋がりと力が続く力の本来の効果として、秘かにはできない力の奥義のコツ( ” 骨 ” )である。

筋( 素質や拠り所の力 )はホネ( ” 骨 ” )に付着し ” 骨太( 基本や根幹がしっかりがっしり )” として、骨太を連結する可動性機能の高い関節の曲げ伸ばしでその筋も収縮・弛緩を繰り返し、屈む( 曲げる )ときにも伸ばすときにも「 筋力 」を発揮するので、バランスよく「 筋力としてその力を発揮する 」ことで思い通りに動かすことができる ” 行動力 ” を構成するが、片や「 筋力としてその力の ” 屈伸( ノビカガミ )」は ” 物事が盛んになったり衰えたりする浮き沈み ” をも意味する。

事の成り行きや動向など時間の経過などと共に頻繁に起こる社会的な移り変わりによって、人や物事と事物や事象の事柄などの「 間( あわい )」を ” 取り巻く ” とされた環境は目紛しく変化している中で、ギブアップして諦めずに持続的に進化・発展へと成長するとことは、変化を恐れず常に ” 弛まず ” チャレンジし続けていくことなのだろうか 、持続可能な環境もまた ” 弛まぬ ” チャレンジの中で生成変化する経路に形成されていくのであろうか 、、、、、。

そうはいっても、何かと手段の必要性や重要性とその苦渋だらけで活気を削がれ活力を奪われつつチャレンジとギブアップなど「 紛らわしい空騒ぎに埋もれて巻き込まれている間( あわい )」に「 筋力としてその力の ” 屈伸( ノビカガミ )」は浮き沈み ー ” 本値 ” を下げもし、 ” 本根 ” を出しもし、 ” 本音 ”を 吐きもする ー 。

” 素質や拠り所 ” の能力であろうが努力であろうが、” 筋( 素質や拠り所の力 )” が収縮するときに生まれる「 筋力 」としてその力は、” 収縮 ” もすれば ” 弛緩 ” もする中で、バランスよく「 筋力としてその力を発揮する 」ことで思い通りに動かすことができる ” 行動力 ” を構成する分には良いが、片や「 物事が盛んになったり衰えたり浮き沈みの筋力としてその力の屈伸( ノビカガミ )」が一旦生じ起これば、” 本値 ” が下がれば4本値のローソク足は短くなり価値も薄れ燃え尽き、燭台は溶け砕けて ” 本根 ” を剥き出し ” 本音 ” も吐けば骨太は骨抜きになる。

” 素質や拠り所 ” の能力であろうが努力であろうが、” 筋( 素質や拠り所の力 )” が収縮するときに生まれる「 筋力 」としてその力は ” 収縮 ” もすれば ” 弛緩 ” もする中で、先を見通す明るい兆しも明々暗々に至って、燭(ともしび)は時々刻々として念々に消滅するといえども、しかし光明ありて暗冥( あんみょう )を照らし破るのだろうか 、、、、、。

人自らによって強調されし” 取り巻く ” された環境の変化とされているものは、” 時代の間(あわい)の紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて「 巻き込まれ 」ているとし、人は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人は ” 環境からつくるところの者 ” 』ー として、人は変化であろうがなかろうが如何なる場合でも人は ” 環境の影響に対して態度を決める自由と可能性を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において人は、環境に対し「 何を展開するのか 」である。

環境からつくるところの者として自らというのも、運命的なこれから先の自由を計画し自らが主体となる。

未来に向かって ” 自己自らを創り、自己自ら斯くあろうする ” ことであり、自ら選択( 適応 )した自由の意思により主体的自己は、” 何を展開して環境からつくれるか ” ということだ。

ー 自己律動 ー という ” 新しさ ” という「 新しい可能性 」を組み立てていくことと、存在的な態度( 変更 )である適応( 選択 )への自由との、その両々を可能ならしめ、運命的から存在的への自由の転回に責任や不安と孤独を伴う自由の計画と選択が中心を成すのであり、自らは決定し、決心し、決断し、自由を選択( 適応 )することができるということになる。

本質的なものを蔑ろにして見失うことなく、現在の課題実現をどのように対応してゆくべきなのか 、、、、、。

本質と現実との差異を認め、理想と現実との差異を認め、現実問題としてある現在の課題実現をもってそれをどのように解決してゆくべきなのか 、、、、、。

肯定・否定などの一見して対立に相容れないものが、見方を変えると同じものであることを知り、
現実的且つ可能的に如何に立ち続けるか、自由へ向かった本来性を探求してゆくことになる。

何にせよ人間は、環境からつくるところのものと、自らを創りところのものと、その二つ以外の何ものでもないのだが ・・・ 。

それより、自分というのもこの先の自由を選択し、主体的自己自ら決意して生きる。

ということは、主体独りで選び決めることに責任や不安と孤独が伴うことであり、主体的自己自らの自由の適応(選択)によって ー 自己律動 ー を起こした結果的に地域は如何に創れたかということになる。

変化し得ないものと運命的なものに対し課せられている環境から何をつくり出すのか、これでもって何を始めるのか 、、、、、。

この問いの前に立たされ、対決を主体的自己自らが引き受けることを知り、自己が素質や形質によって制限されるのと同時に恩恵をも受けている素質や形質という素材の展開の内容と価値に向かって如何に展開し形成するか、価値選択の自由に関わっていくことになる。

何にせよ自己自身は自由に運命づけられているところのもの以外の何ものでもないのだが 、、、、、。

ときに、環境に嵐は今以って吹き荒れ続けており、一時も嵐は終るはずがないにもかかわらず、恰も嵐が起ころうとしている矢先のように明々暗々とした先行き不確な限界状況において、結局のところ当面の運命と自由という現実の問題と課題に立ち戻らざるを得ない。

運命は重力の如くそれなくしては立ち続けることは出来ないように人間に属しており、自由は運命的なものの内でのみ自由として、運命なき自由は不可能であり、自由は只々運命に対する自由でのみ在り、全き自由として全き運命と対立する。

運命からの自由である自己の自由と決断において形づくられた運命の与える枠は、むしろ自らを可能ならしめる素材であり、条件と基礎でもあるということになる。

これから先の自由を計画し、この先の自由を選択( 適応 )する今たった独りであったとしても、自らが外的な運命よりも内的により一層自由であるということを証すためにも、主体的地域の内なる精神的自由がその内的且つ外的な運命と苦闘してこそ、真の ー 自己律動 ー の ” 新しさ ” という「 新しい可能性 」を組み立ては生成変化する経路に形成する。

主体的自己自ら内にある運命なものと、自分が ” 巻き込まれる ” 運命的なものと、その二つの運命が形づくる中で、環境は運命的なものとして、またその限りにおいて主体的自己の自由と対立するものとして、自己自らは決して事物ではなく、実現することのできる価値に対して即ち「 決断 」がそこにあり、畢竟ずるに主体的自己は自己自について決断し、主体的自己自らが異なって在り得る常に別ものに成り得ることになる。

主体的自己自らの生り(なり)からみて、運命的なものが自己自らの自由と如何に関わっているのか、一見して抵抗し難い法則性にも従わないで立ち続けることであり、運命的な内でのみ、且つ運命的によって、初めて発展しうる自由の自己に向かう志向性とその可能性をもち、主体的自己自ら出て自己に向かい主体的自己自らを生成変化の経路に形成し、主体的自己自らに生る(なる)ことだ。

“ 諦めない現実 ” と ” 膨らませる理想 ” いうものがある。

「 現実 」は欲望の成就を求めて行動へと、現在の意識が確証と裏付けにより現実が理想的に成し遂げられること欲するのであれば、疑わずに信じることについてどのように約束されたものとして認識し理解されているのだろうか 、、、、、。

直接的な未来に対する態度はハッキリしていない先々を考え見通し予知して読み解くものであり、明らかにする幾つかの条件から問題を推理し割り出すことなく精度を要して判断をつける

成り行きや結果を推し量り固く信じて疑わないその拠り所や支えなど頼みの綱や手がかりと、” 実際に在ると現実において欲する理想 ” を今求めはじめた動機、いわば ” 自信 ” の源があるのだろう。

「 理想 」は希望の実現を求めて理想への行動へと、現在の意識が確信と期待により理想が現実的なのものになることを望むのであれば、立ち向かい挑むことについてどのように約束されたものとして認識し理解されているのだろうか、立ち向かい挑むことについて、どのように約束されたものとして認識し理解されているのだろうか 、、、、、。

直接的な未来に対する態度はハッキリしていない先行きの予想を立て見込み頼りにするものであり、当てにする当てずっぽう(当て推量)に困った推坊ではないが、精度は要ざす見当をつける

成り行きや結果を推し量り固く信じて疑わないその拠り所や支えなど頼みの綱や手がかりと、“ 理想のために望まれる在るべき現実 ” を今求めはじめた端緒、いわば ” 挑戦 ” とその「 挑戦力 」の源があるのだろう。

時間や物理法則が存在する限り未来の到来は避けられないために、これから来る時を過去と現在を通じて存在を捉える全ての出発点となる。

実在の性質と未来の不可避性による永続的と一時的に注意を向けた存在になったそのときから、未来に起こりそうなことを想定する。

それだけではなく、それを見通し予知予測するというその努力に依存している限り存在する予想や可能性の強調される限界の画一的な未来創造とそれでは成り得ない未来創造の好ましい未来に定まり得ない未来創造を手に入れようとする。

望むあまりに繰り広げられてきた未来に対する見方や未来創造の意味の理解の仕方など、直感的な判断や推測と確率的推測などを結合させるシミュレーション現象。

現実に実現すること不可能な未来事の現象について、現実に想定される条件を取り入れ、実際に近い状況場面を想定して現実につくり出し再現する模擬的な現出。

様々な変容を遂げてきている実験的な未来に関する審判なき予想ゲームから抜け出たとき、常に行動へと向かっている現在を生きる意識は行動の必要性に応じて潜在的な可能性を通し、直接的な未来に対する態度は現在を生きる意識を差し迫った未来へと絶えず押し出していく。

そうして、過去の経験などによって無意識のうちに蓄積された価値観や習慣と思い込みなど、閃きや直感と思考や緊急事態の対応の決定に影響している自覚されていない潜在意識の刺激を受け、心奮い立つ感発により行動として実現する現実性に力の限り懸命になる。

理想であろうが完全であろうが、” 成就と実現 ” のあまりにもかけ離れているところの” 懸隔 ” に見て取れる ” 結実の現実性( 時間性 )” をよく考えないと、その意味や挑戦や自信の ” 懸命さ ” の面白みがわからない、つまりは 「 夢老い人の考えオチ 」だ。

パッと見 ” 実現と成就 ” の違いはよくわからないが、よく考えてみると笑えてくるものがある。

直接的な未来に対する態度と差し迫った行動として、欲望の現実事は展開に収拾つかないまま、希望の理想事は展開が波乱に満ちたまま、未来への侵食は持続のリズムを有する現実性に進展し、生きられつつある具体的な現在のリアリティとなって現在の意識にあり、持続という時間性( 現実性 )のもつリアリティの内実とその内実を占める感覚に懸隔がある。

現在の意識が “ 確証と裏付け ” により現実が理想的に成し遂げられること欲し、成就を求めた欲望の現実事は展開に収拾つかないが、自信はこれからだとしても、本来であれば時間をかけて問題を解決するはずの計画を消化しきれず、行為の動向に含みをもたせたままの形で、自信とともに一気にフェードアウトする。

現在の意識が “ 確信と期待 ” により理想が現実的なのものになることを望み、実現を求めた希望の理想事は展開が波乱に満ちるが、挑戦はこれからだとして、 本来であれば時間をかけて課題を対応するはずの計画を消化できなくても、行為の動向に含みをもたせたままの形で、『 挑戦 』とともに徐々にフェードイン続ける。

事前的観点をもった成り行きは、「 ” 未来への侵食 ” として進展した現実性 」であり、結果の事後的観点は至らずに生きられつつある具体的な現在のリアリティと内実の現在の意識は、潜在的な可能性や潜在意識など潜在的な感覚の厚みとしての過去を有する。

他方では直接的な未来に対する態度と差し迫った行動が向かう先として、現実に流れつつある持続のなかに、具体的事実に基づかず頭の中で組み立てられただけの、現実に即していない想定されうる観念的なものに先取りされている未来への傾きを有する。

それら自体が未来を侵食する過去から現在までの捉え難い進展なのであり、生きられつつある具体的な現在のリアリティの内実を占めているのは感覚に過ぎない。

生きてゆく上で最も苦痛なことは、夢から覚めて行くべき道のないことだ。

常に行動へと向かっている現在を生きる意識は、意識によって現に生きられている現在と、流れつつある持続のなかに具体的事実に基づかずに頭の中で組み立てられただけの現実に即していない想定されうる観念的な先取りされた未来の現在とが、分かれ眺る事になる。

意識によって現に生きられている現在についての規定を通して、現在の意識がそれとして把促している現在の時間性について意識されている。

現在と見做すところの時間、いわば意識に現れている現在という時間は、現に生きられつつある具体的な現在のリアリティだ。

現在が成り立つのは、行動への発現としてであれ、行動へ展開されていく場面において、すなわち過去と現在に結びつけ未来へと向かう契機であるところの、行動する直接的な未来に対する態度においてである。

行動へと促すものである現在に現実性を与えるのは、現在という状況に差し込まれた意識である。

現在の意識が常に行動へと向かっているこということは、現在の意識は都度の状況や対象に制約を受けているということである。

行動の必要性に応じ、潜在的な可能性を通し、現在を生きる意識を差し迫った未来へと常に絶えず押し出していく。

潜在的な可能性から実現可能な選択( 適応 )において実現された可能性に未来を見出す。

つまりは、過去が現実に価値を与えた未来もまた現実に価値を与え、過去の潜在的な可能性はそうなりうる現実として既に実現している現実であり、既にそうなっている現実の潜在的な可能性は、そうなりうる現実として ” やがて実現しうる現実 ”であり、可能性の事後的観点に見出された現実性を現実に事後的転化すると見て取れる。

様々な状況や事情を加味して総合的に考える論理的思考や推論によって、直感や感覚ではなくて筋道を立てて矛盾なく考え結論を導き出すために、物事を体系的に整理して論理的に問題や課題を分析することで的確な解決策を見出す方向へいくとともに、既知の事柄に基づいて未知の事柄を予想して推論を出す方向へ進め、前提となる情報から結論を導きだす思考プロセスに入り、前提が結論の根拠となるものがその繋がりに無理や飛躍が生じないようにしていくことだ。

要するに未来の事前的観点に投影し、” やがて実現しうる現実 ” を狙おうとするのであり、獲るなら獲物にドッと襲いかかるか、もしくは獲物にソーッと忍び寄るか、そのどちらかだ。

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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