「 ” With NIKKO ” 」ウイズ日光
〜 大自然からの提案 〜
ー 音楽に包まれた「 健光・観光・日光 」ー
ー 地域を生きる自分を活かす ー
KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中
Self-development
” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ
未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点
- feasibility of self strengthening –
自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう
→ OFFICE KANKE : お問い合わせ《 メール 》
ー KANKE 塾《 2024年度末 : article 02 》ー
” 束ねる力感 ”【 Ⅱ 】
努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ ” 自己潜在力 ” の可能性を広げる「 理解力 」~
見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」
・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。
我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。
人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。
「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。
人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・
『 人は地域を創り動かし 地域は人を創り動かす 』
・・・・ 個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化に伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな問題や課題を招いている。
実に ” 自分事 = 地域事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 自己力 ” と ” 地域力 ” とに同じようなことがいえる。・・・・
……… 一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。
その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。
「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆく。………
” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として、状況や事態に対処できる能動的な力として物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。
” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 自己強化( 自己拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。
自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ” 力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。
人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である ー いきいきとした気力と活気( 生気 )ー の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。 そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち ー 意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。
遂にこの日が来てしまった! まさに今、ある限り力尽く( ちからず・く )で自己自らが変化するのみならず、進化・発展への自己強化と自己拡張に向けて前進・進出するために「 気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。
自分に生きるのではなく ” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” 主体的自己の発意と創造の価値実現を目指す自己それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、「 動くか 動かざるか 」気のせいでそう思われるほど心持ち「 先駆的 ” 瞬間の努力 ” 」、それなら気が晴れ心ゆかし。
そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。
その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。
・・・・・これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしている。
このような点を重視し、それをよく自覚し認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。
人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と実現問題や実現課題として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。
頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題解決のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより強化・最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつけるための ” 先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Self-development )』。・・・・・
ある限り力尽く( ちからず・く )で自己自ら「 自己強化・自己拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、主体的自己自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自己自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその自己自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。
「 己 ( おの )が為 ( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。
まさに今となっては、” 自分を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 自分に生きる ” として導かれた 「 自己疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で興奮・動揺し戦々恐々として右往左往に動こうとする 」が、今の瞬間ピンチ( pinch )にやるべき「 常に落ち着き慌てて騒いだり焦ったりしない従容( しょうよう )として余裕綽々( しゃくしゃく )たるべき 」であるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に「 人間が直面する様々なピンチを超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸する 」のだろう。
” 自分に生きる ” のではなく ” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” 主体的自己としての発意と創造の実現を目指す自己それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた自己自身の在り様でもある。 全ては自己自身の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 自分への配慮 ” という大切な活動による自己の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 地域を生きる自分を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面している取り巻く環境の変化とされている大きな課題といった様々な問題が、ただただ自分自身について想像を巡らさせることになる。 そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 自己潜在力 ” に伴う ” 自己力 ” による「 自己創出の ” 想定 ” 」というものは、自らの性格に因り成り行くのである。
「 ” 周章狼狽 ” として少なからず動くか、” 泰然自若 ” として少しも物事に動じないか。」
実際には経験のない自らが直面する出来事や現象など、脳の能力である「 頭の中 」に想い描きながら ” 想像 ” を巡らすことで自らの有り得る条件や状況を仮に設定するなど、根拠のある推測から現実離れした空想をまでをも ” 想定 ” する。
心も能力の一つであり、「 心の中 」に浮かぶ考えの ” 想念 ” に涵りながら理性と感覚の間の想像力と交換可能な想念は感情知性をもコントロールするといった ” 変化にも柔軟に対応できる心の能力 ” は、実際には経験のない自分が直面する出来事や現象などを客観視してモニタリングし続け、将来起こりそうなことを ” 予想して計画立て ” ようとする。
素早く動いたり、静かに構えたり、激しい勢いで動いたり、どっしりと重みをもって構えて動かなかったり、物事の対処の仕方にも時機や情勢などに応じた動き方があり、同じだけの合理性・妥当性をもつ( 二律背反 )として二つの相反するその反対の意味を捉えて「 理解を深める 」ことである。
今の瞬間ピンチ( pinch )に「 頭と心の冷静さを保つ 」ことを基本に据えた『 理解の努力 』は、単にその瞬間を乗り越えるためだけではなく、長期的な成功への道を切り開く鍵となるのであり、「 失意泰然得意淡然 」として物事が思い通りにならないときも上手く進むときも、落ち着いていて動じないことが成功を収める契機となる。
活気を求めて生気を得るのではなく、もっとも必要で優位なのは意気を得ることであり、何か事をしようとする意気と、事をやり遂げようとする張りの強い意気をもたらすことであり、活気な力と静かな力とを活かし、刺激を感じる「 感覚 」と外界からの刺激を受け止める感覚的能力として物事を心に深く感じ取る働きの「 感性 」を鋭く研ぎ澄ましておくことだ。
気づきであろうがなかろうが多く人は、自らをより前向きにもっと進んでゆこうと自らを動かすことを強く意識するのであり、継続し自ずと行動できるようにしようとする。
その一方では、何事にも揺るがされない心をもって動くべき時まで決して軽々しく動かないといったような思いや考えも無きにしも非ず。
いつしか内観( 自己知 )よる自己認知から高度なメタ認知へと、主体的自己自らを自らで知る向きへなってゆきながら、自らの認知や思考などを恰も第三者のように自らが客観視して理解したり振り返ったり、時には自己自らコントロールしたりすることなど、自己自身自らに向かう時がやってきて、そうして自らをより正しく知り、その認知や思考は信念か欲求か想像か想念か分からないが、より着実で実り豊かな前進効力に富んでおり、その様な中で自らを自らで知ろうと自らの考えについて考えることへと向かう。
知覚と異なり特有の現象性が存在しない中で,内観又は内観の結果である自己知は自らがどのような動機で動いているのかを全存在と全感覚を使ってのみ理解でき、言語でのみ自己自らを捉えて知ったつもりでも無意識領域が大きく自己知は浅くなる。
認識的な強さに関わる信念も欲求も想像も生起的か傾向的かによって異なる中で、自己自らを正しく知ることは意外に難しくても、先ずは自己認知として自らの認知や思考とともに自己自らの価値観や長所短所と強みや弱さを的確に把握認識し、全ては何故そうなのかを深く理解した上で、高度なメタ認知によって、主体的自己自らで把握して知識として理解できることであり、自己自らを分析して得た自らについて知っている知識を得て、自己自らがどのように行動すべきかを考えることである。
メタ認知を用いることで自らの思考や行動などを自律的・合理的にコントロールできるといったその期待の中で、感情知性が高ければ感情に関するメタ認知に優れ、より創造的な問題解決において既存の知識を新たな分野に適応したり既存の知識同士を組み合わせて新たな解決方法を開発することなどが求められのもメタ認知なのだ。
客観的自己やもう一人の自らから捉え、自己自らの思考や行動そのものをも対象化した認識によって物事や経験に対するより正しい理解や自らの認知行動をより正しく知る上での思考能力をもつことであり、自己自らの状態を明晰に判断するためのメタ認知的知識をもとにして自己自らの考えの矛盾に気づき、自己自らがもつ課題や問題の特性を把握した上でその対応や解決などの方略を自己自ら修正して活動を行っていく。
自己として自らの思考や能力を把握した上で現状を確認しさらに行動を変えてゆくなど、その複雑な過程に求められる自己自らの能力をもって変化に適応していくことになる。
自己分析が上手になれば、主体的自己自らの知識や考え方などを見直すことができるのであり、それらに囚われずに常に自分自らを変化させて外の変化に対し柔軟に対応できる。
認知特性や課題と方略に関する知識を経験から蓄積し、そのそれぞれを必要に応じ活用する中で、自らが何かを行う際どのようなプロセスを踏んでいるのかを知ることや自己自らの思考や行動そのものを対象化し客観的に把握・認識してそれらを実行する。
自己自らの内的アクセスは自己自らの思考について特殊で特権的でもあって他への思考へのアクセスに対する相対的に高い信頼性が伴っており、探知といったような点で知覚との類似点がある一方においては現象性がないといった点での相違点もある。
信念や欲求と想像や想念などが生起的又は傾向的かによって明らかに異なる中で、信念一般や欲求一般と想像一般など大雑把に捉えべきではないところの自己自らに向かう志向性とその可能性の現象性との三つの性質をもった想念一般を踏まえておかなければならず、「 理性と感覚との間の想像力と交換可能な想念 」は感情の端緒の結晶ではないものとして。想念一般は外部の対象など契機として生じ行為を生起させ自らを行動へと駆り立てる。
根源性という人間に備わった心の内なるものに気ままな熱心さと不毛な好奇心をもてば、感情の端緒の結晶ではない想念一般の現象性と大いなる志向性における最も小さくはあれど理性と感覚の間の想像力と交換可能な最も素晴らしい快さを伴う思考の方向と考えざるを得ず、その想念はもっとも素晴らしい快さを伴う主体的自己自ら自らの思考の方向と自己自らの観念につながるものとして心の只中で自己の自らに対する反省の営みが有している自己自ら限界の存在が暗示されはじめることによりおそらく何度も掻き消されながらそういった形での心の領域が深く積み重なってくるのだ。
特に変化するこのような今だからこそ、特にこのようにメタ認知能力を高めるべきであり、主体的自己自らの知識や考え方は陳腐で従来的に縛られていないか確認し、常に自己自らを変化させることである。
感情知性をもコントロールしながら変化にも柔軟に対応できるその能力は、自己分析能力にも優れ、自己自らを客観視してモニタリングし続けていくならば、それは自ずと主体的自己自らの弱点や不足などといったものが見えてくる。
客観的な自己分析さえできれば、自らの思考行動などを前向きにコントロールすることで、それだけ自己自らをより前へと進め成長させる機会は確実に増えてくる。
「 至らぬ準備などをして機会が訪れるのを待ち受けるようなそのような満を持することなく 」、あらゆる変化に適応すること以上に自己自らを知り自らを進化・発展させて『 自己強化( 自己拡張 )』をしていくことなのだ。
このような今に至る前は、多種多様な要素が合理的にも複雑に絡み合っている中で、ある特定の一要素を変えても大きな変化には至り難かったのだがしかし代替可能ということによって、この変化自体の中に全き淘汰があって変化できないだろうとしていたはずのこと自体が、「 実は変化できるということに ” 気づき ”」があるはずだ。
以前に戻そうと時期を逸して立ちゆかなくなる前に、枠に囚われた価値観を超えて自らが新しい価値づくりに向う新たな自らの生成に向け変化してゆくべき契機だろう。
「 ならば、自己自らを学ぶしかないだろう。」
この変化に従い自己自らの思考や行動がそれに合うように変えて順応するのではなく、この今だからこそ、自らを学び自らを知り自己自らを判断して自らを進化させることだ。
自己自らを知るといったことは、謎を謎で置き換えるだけではなくて、一生続くであろう最も価値ある学びなのであり、「 自己自らを学ぶ 」ということは、学ぶ可能性にあるよりも、自己自らへの正義として自ずと学ぶことによって実現されるべき究極的な価値として最も曖昧な最も正しい意義又は解釈として自らを学ぶということになる。
あらゆる状況変化に巻き込まれている自己自らへのそのような自己自らの正義として、そのために自己自身というものを知り続け未来に向かって進むということであり、自己自身を変化させ未来の原義そのものに自ら投げかけていくということになるのだが 、、、、、
「 それも時間があってのことであり、もう今となっては遅すぎる。」
遂にこの日が来てしまった! まさに今、ある限り力尽く( ちからず・く )で「 気づきによって変化してゆくべき契機 」だろうが、もはやピンチ( pinch )!
「 動くか 動かざるかの努力 」も気が塞ぎ、今日的な環境圧力ともいえるような変化だけを取ってみても時こそ今は ” ひとたび真価を発揮 ” し、” 自分を活かす ” 悩みから、必死に役立つ違う答えの 「 自らを学ぶ努力 」を探すことが ” 自分を生きる ” 一つの道なのではなかろうか。
探し続けることなくその意味を満たそうとするならば、積み上げてきた努力や苦労とその成果で得たものなどを無駄なものにするだろう。
「 冷静さを保つ努力 」ならば、” 冷徹な努力 ” であり、” 虚無的な努力 ” を学ぶことだ。
「 失意泰然得意淡然の努力 」 ならば、” 沈まない努力 ” であり、” 浮かない努力 ” でしかないだろう。
「 自らを学ぶ 」のであれば、、” 実践的課題へ取り組む努力 ” だと思うことだ。
「 正解の努力 」を探究( 探求 )したいのならば、” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むことだ。
『 努力の放恣中 』には、活力を奪われ喜びを見出す己が者の境地を楽しむ “ 思い通りに欲するままに勝手気儘の振る舞う放逸 ” によって、自らの可能性を広げる自らの強化・拡張を今に控えた最大の渋滞( 停滞 )を学べばいいだけだ。
『 努力の自制中 』には、活力を与えられ喜びを生み出す己が者の注意深く油断なき心を集中する ” 知恵に達する今今の瞬間に常に気づきを得る不放逸 ” によって、自らの可能性を広げる自らの強化・拡張を今に控えた最強の活気( 生気 )を学ばなくてはならないというわけだ。
努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。
人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )
短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。
常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。
人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。
「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。
・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。
『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生産潜在力 / 潜在的生産要素 )” である。
目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。
深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。
『 自己ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 自己力 」として蓄えられる持続的な自己律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。
『 自己潜在力 』とは、” 自己主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、自己が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。
『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。
自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。
多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 自己潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。
『 自己潜在力 』とは、自己世界がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、自己自身が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。
独創的な意義をもつ自己潜在力という新たな視点で自自己自身の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、自己潜在力を抽出・概念化した自己潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的自己発の新たな自己精神とその自己表示は周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )と共通の目的や興味をもつ人々が集まる多様なコミュニティに進入することになる。
『 自己潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の自己律動の在り方や見方の可能性を、自己未来の持続的な知的資産として展望することであり、自己の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 自分が求めている理想的な在り方や状態 ” に応えようとするもの 」ー として、主体的自己の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。
自己自身の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生産要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 環境リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。
これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生産要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、新たな自己認識を可能にする ” 主体的自己発の新たな知の自己思考と自己様式 ” をもつ『 自己ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )と共通の目的や興味をもつ人々が集まる多様なコミュニティに提示することを目指す。・・・・・
努力の余力 ” 力のいろいろ ”
束ねる力感【 Ⅱ 】
~ ” 地域潜在力 ” の可能性を広げる「 理解力 」~
地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつける
先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” ために
地域潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
地域プロモート( Community-development )
” 地域への配慮 ” という大切な活動によって地域の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう
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