努力の余力 ” 力のいろいろ ”   思巡の活力:【 Ⅰ 】「 調節力 」

 

 

「 ” With NIKKO ” 」ウイズ日光

〜 大自然からの提案 〜

ー  音楽に包まれた「 健光・観光・日光 」ー

 

 

Der Mönch am Meer / The Monk by the Sea, between 1808 and 1810. Caspar David Friedrich. The Alte Nationalgalerie( lit. Old National Gallery )is a listed building on the Museum Island in the historic centre of Berlin, Germany.

 

 

   ー 地域を生きる自分を活かす ー

 

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   Self-development

 

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

「 実現可能力性 」への ” 潜在力 ” のすすめ

  - feasibility of self strengthening –

 

” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

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” 思巡の活力 ”【 I 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
〜 ” 認知力 ” に伴う 「 調節力 : control 」〜

 

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

『 人は地域を創り動かし 地域は人を創り動かす 』

・・・・ 個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化に伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。
実に ” 自分事 = 地域事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、課題解決の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 自己力 ” と ” 地域力 ” とに同じようなことがいえる。・・・・

 

……… 地域に生きるのではなく ” 地域を生きる ” 活線上の ” 自分を活かす ” 発意と創造の実現を目指す自己それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた自分自身の在り様でもある。
全ては自己自身の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 自分への配慮 ” という大切な活動による自己の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 地域を生きる自分を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面している『 社会課題の ” 難化 ” 』といった様々な問題が、ただただ自分自身について想像を巡らさせることになる。
そうして常に絶えず ー 完全なる客観性 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 自己潜在力 ” に伴う ” 自己力 ” を以て自主的な「 自己創出の ” 想定 ” 」というものは、自分の性格に因り成り行くのである。………

自己の自主性( 自己意識 )は、自分の現実・事実に関わり意識や行為者性と人であるのとともに視点や感情と信念や意志と欲望など意識的な経験( 主観的な側面 )と性格をもつ人それぞれが自己の主体であり、自分に対して活動する( 行動したり力を振るう )にあたって主観性( 主観的な見方や主観に依存する程度など )が伴うことを度外視することはできない。

とはいえ、自己が開けてゆく期待が伴う中で ” 地域を生きる自分を活かす ” ことは、自己主体の自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたり自己主体の思い通りを追求していくことでは決してなく、自己主体としての考えに閉じ籠っている在り方を開いていく働きとその作用が付随・関連( 又は連関 )するものといえる。

個としての ” 生活世界 ” と集団としての ” 地域世界 ” の問題や課題をも主題化し、共通の客観性は相互主観性( 共同主観性または間主観性 )に構成され得るともいえ、諸個人が互いを主体として承認しつつ単一の世界を共有しているような事態にある「 相互作用 」の成り行きにおいて客観性が基礎付けられ、自己と地域の分化に先行する基底的な構造ともいえるのである。

観念的且つ理論的に考えられた社会に対して現実の社会は、人間の意図とは関わりなく部分的にまた全体的に変化する社会変動にあり、刻々と変わる環境に対応する ” 力 ” を身につけ、それを強化していくことが重要となる。

自己自身としては、” 地域社会の疲弊 ” の「 構造的 」な問題である ” 人口減少と地域経済縮少 ”などによる多面的にあらゆる側面で考えられる ” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” への多様な影響を克服し、将来にわたって活力ある自分を維持することを目的・目標とした多様なモチベーションやスキルなどの重要性が高まるのとともに、従来の自分自身としての生活の基本要素に支えられてきた生活の ” 相互活動 ” に伴う生活様式とその「 構成要素 」 とは異なる新たな捉え方や考え方をもつことが必要になってきている。

「 判断 」とは、” 知る ” ことを意味するものといえ、その「 判断力 」は ” 知る力 ” であり、これからの時代を生き抜くために自己自身は社会変化に対応(適応)して変化するのみならず、” 変化することは進化・発展することである ” とした「 判断 = 変容力 」が特に重要なものとなる。

内発的動機付けと外発的動機付けによる判断の両者は、ややもすれば絡み合いながら働き、相互に他に移行するというような相互作用はありうるが、「 判断力 」によって最終的に価値判断を決定するのがもっとも客観的なもっとも深い事実判断であるということもできる。

自己自身としての「判断力」とは、そのような ” 認識力( 自己認識 )・ 評価力( 自己評価 )” に ” 洞察力 ” を通した「 判断力 」であり、未来を信じる力と持続可能性を生み出す力を以て自分の価値ある役割で本当に実現したかったことの再発見と実行に移すための自主的な取り組み方という ” 自己創出 ” なのである。

知らず識らずの間に不思議な社会現象としての人間にならぬよう、自分自身として自らが自主性をもって問題・課題を解決・対応するために行動するのとともに多様性や協調性などがある活動を行い、自己潜在力を引き出し解き放ち ” 自分をコントロール( 調節 : control )” しよう。

常に絶えず発現する社会現象は必ずしも未解決の普遍的な問題・懸案事項または不定的な事象に関する社会問題とは限らない。
良きにつけ悪きにつけ社会全体に急速に浸透して影響を及ぼす社会現象は時代の変遷であり、その時代の波・時流の変化に乗ってのことである。

この様な社会現象としての自分をどの様に捉え、自分自らどの様に対応していけるか、そのためには社会現象の活線上に自分自身の現象となっているものが真に ” 自分のやりたいこと ” なのかを自主的に顧みることが必要だ。

人間ひとり一人の個を尊重する多様性の時代、複雑化するのとともに様々な価値観を共有する多様化する社会。

『 社会課題の ” 難化 ” 』という乗り越えるべき大きな課題の解決へ向けて取り組むにあたり、多様性に適応するため多様化の意識に導かれ多様性が重視される中で、自分自身の本当の在り方は、感情や行動と思考などの原点として存在する自己として時代の変遷に伴う状況や情勢に沿った変化を受け入れ適応していくために自分の一時的ともいえる可変的な価値を単に探り求めていくだけのことでよいのだろうか。

その様に自分自身としての本当の在るべき姿を ” 問い直す ” にあたっては、不思議な社会現象としての人間にならないがために、皮肉にもその不思議な社会現象のそれ自体を ” 問い直す ” ことにより学び取ると、そう単刀直入にいうのは牽強付会の誹りを受けるだろうか。

” 問い直す ” ことは、自分自身の本質に迫る行為であり、自己の発意と創造の志向性とその可能性にある新たな自己自身の姿や自己の内に眠る「 潜在力 」に気づき、次なる問題や課題を生み出す切っ掛け( 契機 )にもなり得る。

人間は何かに慣れると、どんどん安易に物事を判断する方向に流れていくのであり、普遍的に大切な ” 問い直す ” ことを今改めて強調する理由と背景にある危機感を先立って捉えることである。

自己の自主性( 自己意識 )は、自分の現実・事実に関わり意識や行為者性と人であるのとともに視点や感情と信念や意志と欲望など意識的な経験( 主観的な側面 )と性格をもつ人それぞれが自己の主体であり、自分に対して活動する( 行動したり力を振るう )にあたって主観性( 主観的な見方や主観に依存する程度 )が伴うことを度外視することはできない。

とはいえ、自己が開けてゆく期待が伴う中で ” 地域を生きる自分を活かす ” ことは、自己主体の自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたり自分の思い通りを追求していくことでは決してなく、自己主体としての考えに閉じ籠っている在り方を開いていく働きとその作用が付随・関連( 又は連関 )するものといえる。

大きな課題に直面する中で思い通りにならずに行き詰まった時、それはこれまでの自分の活かし方( 生き方 )を ” 問い直し ” することにより見方が開ける契機なのである。

自分自身の価値ある役割で本当に実現したかったことの再発見と実行に移すための自身の自主的な取り組み方として、現時点の自己レベルを始点にした ” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の発意と創造の志向性とその可能性に向い超え出る ” 力のいろいろ ” に触れてみることだ。

” 自己発展力( 発想力と展開力 )の発創 ” による「 自己プロモート 」の拠り所として、人の基礎力( 人の能力一覧 )における一つの力、自主的な ” 自己調節力( 自己コントロール )” 。

” 調節 ” は、ほどよく整えてつり合いのとれた状態にすることであり、内観的に ” 認知作用の力 ” が関わるものであるといえる。

その人が持っている本来の力「 実力 」が内面的において自分一人の力「 自己力 」によって試され、感情や思考と行動などが包括された多様なコミュニケーション機能とコミュニティ機能の多くにおいて必要になる。

人によって様々な異なる性質がある中でも人それぞれが自分を整える「 調節力 」というものを身に付け向上させることが重要となってくる。

問題・課題の解決や対応を伴う目的・目標の実現や達成のための努力をしていくうちに、その過程で自ずと身に付く ” 努力の余力( 力のいろいろ )” の効果価値とその効用の質を見直すべき一つとしてある「 調節力 」。

「 調節力 : control 」とは、程よく自分を整えて、つり合いのとれた自己統制の状態にすることである。

自らの感情や思考と行動などを「 認知能力 」によって ” 調節 ” し統制する自己管理能力や実行機能「 自分をコントロールする能力 / self-control )」として、目的・目標の実現や達成のための行動に無理なく移し継続することができる力の働きかけとその作用を高めることを意味するものであるといえる。

気づきであろうがなかろうが多く人は、自らをより前向きに進んで行こうと自分を動かすことを強く意識するのである。

自ずと継続して行動できるようにするようになるが、その一方では何事にも揺るない自分自身を以って動くべき時まで決して軽々しく動かないといったような思いや考えも無きにしも非ずや。

様々なネットワークへの繋がりや知的コミュニケーションと知的コミュニティによって自ずと自分自身を学ぶしかないのであり、いつしか内観( 自己知 )や自己認知から高度なメタ認知( 自己の認知のあり方に対してそれをさらに客観的に認知すること )へと向かい、自分を自分で知る向きになっていく。

自己の認知や思考などを恰も第三者かのように自分を客観視したり理解したり振り返ったり、ときには ” 自分をコントロール ” したりするのである。

そうこうしている間に、「 自分への配慮という重要な活動によって自己の発意と創造の志向性とその可能性 」に向かい超え出でる時がやって来て、そうして自分自身をより正しく知るようになる。

自らのこの認知や思考は自らの信念か欲求か想像かもわからないとしても、畢竟ずるに着実でより実り豊かな ” 前進効力 ” に自らが富んでくる。

その様な中で、自分を自分で知ろうとして、自分の考えについて考えることへと向かう知覚とは異なり、特有の現象性が存在しない中で内観又は内観の結果である自己知は、自らがどのような動機で動いているのかを全存在と全感覚を使ってのみ理解できることになる。

言語でのみ自らを捉えて知ったつもりでも、無意識領域が大きく自己知は浅くなり、その認識的な強さに関わる信念も欲求も想像も生起的か傾向的かによって異なる。

自己自身を正しく知ることは意外に難しくても、先ずは自己認知として自己自身の認知や思考とともに自分の価値観や長所短所と強みや弱さを的確に把握認識した上で、全ては何故そうなのかを理解することである。

その上で、どのように行動すべきかを考える高度なメタ認知を用いることで自分の感情や思考と行動などを自律的・合理的にコントロールできるといった期待を持つことだ。

その期待の中で、感情知性が高ければ感情に関するメタ認知に優れ、より創造的な問題解決や課題対応において既存の知識を新たな分野に適応したり、既存の知識同士を組み合わせて新たな解決・対応方法を開発することなどが求められる。

これもメタ認知によって客観的に自己を捉え( もう一人の自分から捉え )、自分の感情や思考と行動そのものをも対象化した認識によって、物事や経験に対するより正しい理解や自らの認知行動をより正しく知る上での思考能力をもつことである。

自己自身の状態を明晰に判断するためのメタ認知的知識をもとにして、自分の考えの矛盾に自ら気づき、自らがもつ問題や課題の特性を把握した上で、その解決や対応などの方略を自ら修正して活動を行っていく。

自分自身の感情や思考と行動に加えて能力を把握した上で、現状を確認しさらに行動を変えていくなど、その複雑な過程に求められる自分の能力をもって変化に適応してゆくことになる。

自己分析が上手になれば、自分の知識や考え方などを見直すことができるのであり、それらに囚われずに常に自らを変化させ、外の変化に対し柔軟に対応できるようになる。

認知特性や課題と方略に関する知識を経験から蓄積し、それぞれを必要に応じ活用する中で、自分が何かを行う際にどのようなプロセスを踏んでいるのかを知ることや自らの思考や行動そのものを対象化し客観的に把握・認識する。

それらを実行する自らの内的アクセスは、自己の思考について特殊で特権的でもある。

他者への思考へのアクセスに対する相対的に高い信頼性が伴っており、探知といったような点で知覚との類似点がある一方においては現象性がないといった点での相違点もある。

信念や欲求と想像が生起的か傾向的かによって明らかに異なる中で、信念一般や欲求一般の大雑把に捉えべきではないところの自己に向かう志向性と現象性との二つの性質をもった想念一般を踏まえておかなければならない。

理性と感覚との間の想像力と交換可能なこの想念は、感情の端緒の結晶ではないものとして、想念一般は外部の対象など契機として生じ行為を生起させ人を行動へと駆り立てる。

根源性という人間に備わった心のうちなるものに気ままな熱心さと不毛な好奇心をもてば、感情の端緒の結晶ではない想念一般の現象性と大いなる志向性における最も小さくはあれど、理性と感覚の間の想像力と交換可能な最も素晴らしい快さを伴う思考の方向と考えざるを得ない。

その想念は、もっとも素晴らしい快さを伴う自分の思考の方向と自己の観念につながるものとして、心の只中で自己の自己に対する反省の営みが有している自ら限界の存在が暗示されはじめ、これによっておそらく何度も掻き消されながらそういった形での心の領域が深く積み重なってくる。

特に変化するこのような今だからこそ、特にこのようにメタ認知能力を高めるべきであり、自らの知識や考え方は陳腐で守株的に縛られていないかを確認し、常に自らを変化させることだ。

感情知性をもコントロールしながら変化にも柔軟に対応できるその能力は自己分析能力にも優れ、自らを客観視してモニタリングし続けていくならば、それは自ずと自分の弱点や不足などといったものが見えてくるはずである。

客観的な自己分析さえできれば、” 自分の感情や思考と行動などを前向きにコントロールする ” ことで、それだけ自らをより前へと進め成長させる機会は確実に増えてくる。

至らぬ準備などをして機会が訪れるのを待ち受けそのような満を持することなく、あらゆる変化に適応すること以上に自分を知り自分を進化させていく。

このような今に至る前は、多種多様な要素が合理的にも複雑に絡み合っている中で、ある特定の一要素を変えても大きな変化には至り難かった。

しかしながら、代替可能ということによってこの変化自体の中に全き淘汰があって変化できないだろうとしていたはずのそれ自体が実は変化できるということに気づきがあるはずである。

以前に戻そうと時期を逸して立ちゆかなくなる前に、枠に囚われた価値観を超え、自分の新しい価値づくりに向う新たな自らの生成に向け変化していくべき契機でもあるといえる。

この変化に従い、自分の感情や思考や行動がそれに合うように変えて順応するのではなく、この今だからこそ自らを学び自らを知り自らを判断して自らを進化させることだ。

自分を知るといったことは謎を謎で置き換えるだけではなく、一生続くであろう最も価値ある学びなのである。

自分を学ぶということは学ぶ可能性にあるよりも自らへの正義として自ずと学ぶことによって、実現されるべき究極的な価値として最も曖昧な最も正しい意義または解釈として自らを学ぶということになる。

時と場合によっては、収拾せんがため暗礁に居残り、吟味する留まざるを得ない境域もある。

今厳し過ぎる現実、理想にあるがまんまの目的・目標の動機や動因に確信と願望の時と人であるともいえる。
何もかも分からず先が読めず、深刻な脅威の警告に最悪シナリオの猛威の見極めができるか。

日常の停滞と非常の阻止も有り得る中、さらには喚起と警笛が起こり得る中、これまでにない規模に対して緊急の即効性がない。
非常時の崩壊はすでに始まりつつ、想定外の苦悩に迫られるのは必要性や重要性とその苦渋だけかもしれない。

多様な力の働きかけ作用する相互作用を意図的に一つに纏めて収拾のために束ね、吟味的なものはコントロールする力であり、左右する力のバランス力が必要となる。

自己実現や目的・目標の達成に向けての自発的な行動を促すコミュニケーションやコミュニティは、気づきや切っ掛け( 契機 )や踏み台( 土台 )として、その足掛かりや手掛かりのバネとなる。
手順のみでは決まりきった一定のパターン&タイプは対応できても、状況が少しても変わってしまうと対応できなくなる。

状況の想定や条件よりも状況に応じ具た体的な対応であり、状況に変わらず丁寧に具現化の質を高めることだ。
柔軟性を主軸にした客観性のある思考力に加えて ” 発想力と展開力 ” で捉え、冷静な判断で ” つり合う知識 ” を取り入れる。

「 地域を生きる ” 自分を活かす ” 」ということは物事と人に関わることであり、自分を活かしながら地域を生きるその生き方を補正・修正する。
大事なのは自己肯定感があろうが自己効力感( 可能感 )があろうが問題を見落とさないことだ。

選択可能性と期待可能性において自分の ” 自己責任と自己肯定 ” の前提を欠くこともある中で、一方では具体的に自己内での衝突の場合もあり、他方では具体的に他者との衝突の場合もある。

人間個々が関わるその全てに接触する個人の境界線と他者との境界線がある。

その合理的且つ安全で許容可能なパーソナルバウンダリーは、適切な境界面(境域)の相互作用において合理的・安全・許容可能な手法であるかを判別するためのものとして、対他的に主体の支配力ではなく、「 相互作用 」において双方向それぞれに影響するのである。

健全な「 相互作用 」は、適切なこの境界面が基盤となっいる感情や思考と行動において成り立っている。

なので、時には保護として働くこともあれば封じ込めとして働くこともあり、何を受け入れ何を受け入れないのか、個々が関わる全てに自分自身の「 自己コントロール能力 」が不可欠なのである。

知は力なり( 力は知なり )” として、この「 努力の ” 余力( 力のいろいろ )” 」の効果価値がもたらす点を捉えて認識し、その効用の質を見直すべきである。

インタラクション( 相互作用 : interaction / Interaktion )は、” 根本にある発想が同一 ” であり、あらゆる「枠を超え( 枠組みを超え )」その根本概念は共有されている。

“ 相互 = 間 ” で行う(する)という二つ以上のものが互いに作用し影響を及ぼし合い、相互作用というアクション( 行動 )として一方的ではなく、インタラクティブ( 双方向 : interactive )でやり取りを行う相互作用( 交互作用 / 相互交流 / 相互行為)のことである。

互いに作用し影響を及ぼし合う ” 連繋 ” または「 連繋思考 」によって ” 枠を超えて力を繋ぐ ” ことは、価値観の共有や多様な状況統合として、その効果の構成は複雑ではあるものの、 ” 越境 ” において互いの価値観の共有や新しい価値観を生み出すことができ、変化し進化していく「 変進力 」が見込まれる。

「 相互交流 」の一定の範囲の中に包み込む ” 包摂 ” という ” 相互の関係 ” づくりであり、価値観に包括される従属関係はその交流範囲から異種・多種を受け入れ取り込んで「 ” 知識 ” の ” 生成 ” 」を行っていくことによって、変化に対応( 適応 )するのみならず、新しいものへと進化・発展する持続的な力である「 変容力 」を身に付けることである。

不可能であることを否定しないが、可能とつり合うように不可能があり、持続というものは試みによって可能か不可能かの相違が生じる。

社会的現象の水準と自己的意識の水準とが密接に関わり、自主的な ” 転換力 ” による決断と転回の時ではあるものの、もはや現状を維持し得なくなって、何か新しい状態が模索される移行過程に起きる矛盾もある。

目的や目標に向う一連の行為に決断という正当理由で偶さか( 適さか )誤ったことをしてしまうのが人間というものであり、決断というものは、場合によっては対応する能力の無さで引き起こす脅威ともいえる。

この様な全てを通して、自分自身としての未来と持続可能性の実際は少なからず時代や社会が反映( 影響 )する。
多様性の時代や多様性社会を含めた社会現象に着目しこれに流されないようにして、現時点の自己レベルを始点にした ” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自分の志向性とその可能性に向い超え出ることだ。

果たして自分の本当の在り方は本物の自身なのか、自分自身にハッキリと未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の基準ができるようにすることだ。
この基準が自分に育ち始めるということは、自身が開化( かいけ )して首途するプロセスにあり、それ自体が未来へ持続可能な自分自身としての社会現象( 社会現象としての自己ではないもの )を生み出すことにも繋がる。

それは、自分自身の閉じられた生き方に創生という開け( ひらけ )がもたらされることであり、思い通りを追求する生き方が破られ、ものの見方が開けることである。
思い通りにならずに行き詰まった時、それはこれまでの生き方を問い直す契機であるといえる。

そこで問われるのは、自分自身の成長その全て現象として存在する現実と未来において、我々は今の今時代と社会現象の全てを通して可能性に存在する自分自身というものを再確認する必要性にきているということなのである。

現時点の自己レベルを始点にした ” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の発意と創造の志向性とその可能性に向かい超え出でる傑作を生み出し続けることの意義は、「 地域を生きる ” 自分を活かす ” 」ことがいいと思うところを自他にもわかるようにする意味にあり、自分と地域を了解できることにある。

” 自己創出 ” に関わる出来事を生み出すということは、失うことを味わわないがための基準を鍛えることができるようなものである。
工夫や苦労を感じてこそ、「 地域を生きる ” 自分を活かす ” 」ことの意味( 意義 )が見えてくるといった現象があるはずだ。

あらゆる状況変化に巻き込まれている自分へのその様な自身の正しい道理( 道義 )という正義への責任を求め、自己が釣り合いのとれる可能性を問うがために、自分自身というものを知り続け、未来に向かって進む。

” 自己調節力( 自己コントロール )” によって自分自身を変化させることが必要であり、” 自己発展力( 発想力と展開力 )の発創 ” による「 自己プロモート 」によって未来の原義そのものに自身自ら投げかけていくということが重要となってくる。

それは、信じる未来の自分を発見し持続可能性を創造し続けてゆくそれ自体が目的・目標の実現や達成に向けた ” 人となりの前向きな追求( 自分への配慮という重要な活動によって自己の志向性とその可能性に勇往邁進すること )” としてある。

自己と地域の同時発心に未来効果を眼界展望する ” 力 ” の発現は、自分自身をかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気の責任と謙虚さにある。

” 自分への配慮 ” という大切な活動に心の怯みや動揺のない攻め強さと心の誤りや不覚のない注意深さは、” 地域を生きる自分を活かす ” 発心が時を一変させる基調であり、自己自身と地域自体が一体となった世界を巡らす勢いを盛り返し、” 自分を生きる地域を活かす ” 自らの心を貫く勇気を維持しえる。

未来を信じる力と持続可能性を生み出す「 自主力 」によって自分自身を生き継ぐ自己こそが、いささか憂鬱な立ち往生と戦い、心のままに現実を直視し守り備え、コミュニケーションとコミュニティの未来形から遮断されることなく誇らしげに直立した先駆者ということになる。

その様な中で、自己について知っている自らの知識を正しく理解・判断し適切に実行していく ” 認知作用 ”( 感情や思考と判断などの自分の認知活動を客観的に捉えて自らの認知を認知する )に伴い付随して、つり合いをとる「 自主力 」の重心と力が働きかけ作用する着力点( 作用点 )による ” 調節 ” なのである。

” 力というのは常に一対に現れる「 相互作用( interaction / Interaktion : インタラクション )」” であり、相互作用というアクション( 行動 )として一方的ではなく、双方向( interactive : インタラクティブ )でやり取りを行う相互作用( 交互作用 / 相互交流 / 相互行為)における全ては ” 力のつり合い ” である。

「 力点 = 主眼点 」として、相互作用のつり合う ” 均衡の効力( 力の効かし方や効き目 )” は、対力と偶力・合力と分力・並進力と回転力などを捉えた「 活動 = 相互作用 」における力の転換( 力点と作用点または着力点など )であり、物事の認識や理解と発想などの仕方でもある。

大きな変化について広い視点で深く構造的に捉え考え抜く力を高め、更に前へ進める力( 前へ踏み出す力 )の自主性を高めることであり、” 自主力 ” は幅広さと深さを伴う変化への対応策( 解決策 )を導く着力点として「 自主力 = 律動力 」となる。

求められる ” 自主力 ”を活かして行動へと一歩踏み出した「 創造力 」とともに可能性を広げる ” 波動力 ” は、自主性を必要な能力の一つとして進んで物事に取り組む力であるといえる。

そうしてみると、自分自身やその活動と自己力の心棒は、” 地域を生きる自分を活かす ” として成し遂げたいことの状態に成りたい力の能力であり、価値観の基準となる自己理念の力に深く関わる。

社会に存在する自己自身それぞれが「 社会課題の ” 難化 ” 」における様々な課題を自分自身に関わる問題( 自分ごと )として ” 問い直し ” 、解決へ導く大きな力をどの様に生み出していくか、ということである。

その問いを煮詰めるならば、自己としては先ず認知作用の自主力に伴う不可欠な「 調節力 : coordination 」を高めることであり、必要な知識や経験と能力などの多軸な多様性を知るということである。

『 社会課題の ” 難化 ” 』といった様々な問題の解決や課題に対応していくにあたり、自己の志向性とその可能性における創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )の広がりとともに自己発展力( 発想力と展開力 )の伸びを高めていくことである。

そのためには、自分の感情や思考と行動をはじめ信念や価値観とニーズや強み弱みなどを意識的に捉え、自分自身の価値観や長所・短所を把握し理解する自己認識力によって気づきで終わらせず、継続的な行動に移して自己信頼や自己効力感などの在り方である自己変容へと確実に繋げていく「 意志力( 意力 )」のある ” アウェアネス( 意識 : awareness )” の力を見出すということになる。

そこに浮き上がってくるのは、” 意識力 ” に伴い進み動く勢いある人の基礎力として自主的なリズム「 律動力 rhythm 」にまつわる何か、ということかもしれない。

 

 

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