7月:問答無用 ” ゼロモード ”「創作工房」

 

 

神代の時代から世の中にはゼロもなくイチにするものもない。
対象に対してイチが関係する他のものに及んだ新味としてその変化はもともとあったものの価値が擦り付けられて作り出されるにすぎない。
変化を求めゼロからイチにする能力を高めて新しい物や価値など何かを生み出すゼロイチを通じた再開の裏には転嫁(二度の嫁入り)バツイチがある。

広い範囲で望ましくない非適応的な出来事に関係し、人は自らの調整能力が損なわれるものの、枯渇や消耗がゼロになって生じるこれを打ち消す力は様々な状況において有益となる。
すなわちゼロ経験は有効であり、その経験によって得られるパワーは有益であるということだ。
ゼロになるということは転機が訪れるということであり、そこには本質的なパワーが存在する。
ゼロを分岐点にして根本的な機転(気転)が利くという本来的な才知を得ることができ、その才知の力は自らのコントロールの克己や自制の力によってもたされる知恵の働き才覚でもあり、より前向きな気分は自らの枯渇や消耗の影響を和らげ回復させ、さらに自らの調整能力を向上させ、状況に応じて適切に判断することができるその潜在能力は、より建設的で機敏な心の働きとなる力能である。

”自分はできる”ということに動機づけられた可能力性によって顕在化する可能性としての力能は対他的に主体の支配力であり、心の決定を心に生み出すものとして自らの心に与えられている。
発現へと向かった可能性としての潜在的な力能は必然性をもち、自らの観念が置かれた心に受入れられる対象とされるが決して沈黙した無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具している。
力能を切離されたならば観念を顧みられることのない影の如く、ときどき心へ現れるままに任せれば自ずとこれに注意はしない。
変化や再開を複雑に考えたがる人が逃げているのでなく、逃げたがる人が変化や再開を複雑に考えているだけなのであり、スタンドポイントから自分の楽しく面白くを導き臨むことだ。
自分なりの変化や再開のスタンスによるポイントオブビューは固執した当たり前を見直すべき見所であり、実はやりたい事をこんなにも沢山持っているということに気づきさえすればいい。
神様も知らない意想なんかあるわけもなく、創意工夫してこそ自分の楽しく面白くを覚える意想だとして、刻意をもって深く気を配り、心を砕き苦心することだ。

増すのが変化、変化は未知。
常識や前提知識の思い込に惑わされて直面するのは、解決にあたっての問題が難解、対応にあたっての課題が複雑。
既存する枠組みでの捉え方や考え方に縛られ、柔軟な発想や奇抜な着想ができなくなり、糸口を見つけようにも見つからない行き詰まり感。
マイナスなどを負っていたならば、プラスなどへ勝れるわけがない。
過去を引き摺り半ば現実に溺れているよりも、物事の是非を判断できず半ば愚鈍の愚連になるよりも、どのみちスルーする頭の働きは ” 才・運・力 ” 、ならば、創意工夫の意想による刻意求自の望刻としてやってみるといい。
たんにスランプなどでなくても、あるいはプラトー現象(高原・高台現象)で伸び悩み停滞するなどのようなとき以外でも、もっとも不断にして慣れ状態にある通過点としても、やってみるべきは、全てを白紙に戻し、軌道を変えるべくゼロから出発してみることだ。
新しいアイデアを生み出し、素晴らしいインスピレーションを浮かばせるために、代わり映えしない定常や行き詰まりの延長線上で捉えたり考えたりはしない「 限界の一望 ” ゼロ・ワールド ” 」。

発想着想は変化にあり、価値観は大いに変化する。
変化や再開は縛られるルールが一切無い感覚的思考、有るのは広がるスケールの感覚的思考だけであり、前進を止めれば問答無用のノンストップルールと枠組み外しのスキームアウトによるスケールアップでしかない。
人は迷う能力に加えて試す能力がとても大切だが、意識していない遊ぶ能力がもっと大切であり、革新的なブレークスルーというものは異なる視点にもまして異なる暗黙知が交差して生まれる。
主観や先入観にとらわれずに画一的な視点から幅広い視野へ向かい分析・判断し、隠れたものが見つかるだろう。
深く心を配り、心を砕き苦心し、気づきに却って予想とは反対になる逆さまの感じを刻意に添えつつ素直に新しい捉え方や考え方を受け入れられるかどうかは自分次第。

 

 

 

 

→ 音楽教室 | 森の茶屋・菅家亭 | 創作工房

→ KANKE GRAND 日光

→ NATSUKO KANKE

→ OFFICE KANKE HISTORY

 

 

Photo / Copyright(C)OFFICE KANKE. All Rights Reserved.
Image Credit With Copyright.