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日光占術|観氣(かんけ) vol.05:占意

 

 

 

 

      ── 占想と占像 ──

 

 

 

 

『運気は生成として、生成は縁起としてある。』──『占』に「創造されるつつある思考」を平面に「思考しつつ占術的表現=創造的行為」は──《占いを”描き”》続ける”いう多面性に思考・創造の差異と反復がある。意図する”経験のされ方(感覚 → 知覚経験)”は、占う相談者が孕む「知覚の”跳躍”」と「跳躍の距離」=より純粋な、より高度な、その感覚の濃度に《占いを”描き”/占いを”観る”》ということの精神的価値のみならず、生成的価値や共観的価値などを持つのに置き換えて充足した濃度との──その”昇華”において転成(変化し移行)しつつ──「転位」する。「占いを”見る”」という心の内に表象されている現実とその「価値観と意味体系」は、その《占いを”描く”/占いを”観る”》その都度──集積された「”その感覚”の事実」 として.、意図する”経験され方(感覚 → 知覚経験)のされ方”は変わってくる。「占いとの”距離”」は”思ったより地続きで連続する”──身体に触れられる知覚と意識の感覚所与=「身体的な実践」。”経験され方(感覚 → 知覚経験)のされ方”=《占いを”描く”/占いを”観る”》という”場”──「占いを眼で触る”触地”」による「知覚と意識の跳躍」=”問い行為”とともに「生成=運気の触発=錯綜する縁起の動き」そのものとして現実化してゆく。

《占いを”描く”/占いを”観る”》──占者と相談者との”場”である『占いの世界』。占者である表現者の表現意図を超えた可能性を孕んでいるという意味では、占術は占者独りの本性世界ではない。『占想』として自律的且つ純粋性の世界にあり、表現者であり創造者である占者の意図を超えた意味を掘り起こすのは──占者と相談者による《占いを”描く”/占いを”観る”》という本性世界にある。『占術の世界』は、可能な限り昇華を試みる思考の深化への挑戦とした《占いを”描く”/占いを”観る”》その人間の「思想と思考・創造が孕みもつ”潜勢力”」を余すところなく展開した研究と冒険の本性によって生み出された──「”潜勢的”生成・運気」にある。最大限の意味充実を求める《占いを”描く”/占いを”観る”》その人間の本性的な志向性によって、”月星と共に”──生成(運気と縁起)が顕在化されるものである。

占術=占者が自身や周囲の事柄について抱く纏まった考えである表現者としての思想は、その占者個人の考えや信念と価値観などを示し、世界全体の文化や思想と精神などにも影響を与る。より厳密には、総合的な認識対象を理解する悟性や理性の働き、又はそのように理解された対象を意味する──「占者としての”思想”」、あるいは社会や歴史観と関連し人生観を基盤として形成された──「表現者としての”思想”」。それらは──感情や意志に対する思考的現象を示し、世界全体の社会や人生などに対する一定の見解を意味し、表現者としての占者の──「占う”意図”」には、個々の断片的な考えではなく、表現者としての活動を貫くような考え方や観念が含まれている。表現者である占者の《占いを”描く”/占いを”観る”》という表現(占想)への「思想」伴う「意図」の緊張をもって”描かれ観られた占術自身”は──可変的ではなく不変的である。その「占いを”見る”」という知覚経験において意識されている占術という対象においては、全く変化が生じていないように、 日常的に我々が知覚において意識していることと「占いを”見る”」ことは同じ次元ではある。しかし──経験を超えて進むことができないので「知覚経験」をもつことになる《占いを”観る”》側にも、《占いを”描く”》側と同じく「思想」を伴う「意図」の緊張をもって”見られた自分自身”は、不変的ではなく可変的である。

占術という『占』の生きているその”生身”。観者である人の「占いを”見る”」という心の中に表象されている現実とその「価値観と意味体系」は──「”占意”の占想と占像」を通して「占態(望みの実現)」に実を結ぶ──その表現者である占者(占方または占形)と観である相談者との《占いを”描く”/占いを”観る”》という表現の過程を辿ることになる。そして、観念を通じて人間が世界を認識し理解する過程は、そのまま《占いに”触れ触れられる”》観者を侵食しつつ漸進し、観念が観者の思考や活動に影響を与え、観者自らが創造の深化に挑戦し──昇華されていくからである。──すなわち「地続きで連続する占いとの距離」──身体に触れ触れられる知覚と意識の感覚所与=「身体的な実践」として「経験のされ方」=「占いを”見る”」という”場”──『占いを眼で触る”触地”」による「知覚と意識の跳躍」=”問い行為”。それらとともに、”場”の構造と──『時間と空間』が変化する経路で「日常の地層」に”差異と反復を与える”その様々な感覚を、「占いから受け取り──体験したものは、時の移り変わりとともに変化の「移行体験」──「生成=運気の触発=錯綜する縁起の運動」そのものとして現実化してゆくというわけである。所与が空間の中にあるというわけではなく,むしろ空間が所与のなかにあり、空間と時間は所与の中にある。

 

 

….. 私たちは生きる中に──ふと振り返りみる。

占術という『占』は、鎖(とざ)されてはいない。

現象を待ち受ける「経験のされ方」として──《占いを”描く”》者にとっても、《占いを”観る”》者にとっても、意図の緊張が”無風”をつくる美しさに見える近道──”日陰”の水辺。
生きる「地と道」が息する水に接触する。

触地に連続的に点在する様々な形──水浅く美しい水溜まり。
水底の形影と水面に映り込む辺りの光背景とが重なる──”無風の光に触れられた平面反射”の滑らかさにある──「生きる風景」。

子供心に水面を撫でようとして、「描く手」は水面に映り込み触れた瞬間──低い角度から照射した──水面に生じる《”同心円状”の波面》。
”手”が”風”に動揺する。

水底の形影と──水面に映り込む辺りの光背景と身体の手が──三層に重なり揺らぐ波紋の『占』があった。
水を撫でる前に《占い描く手》は──”風に動揺”する《占い見る手》と化した。

《占い描く》そして《占い観る》──「”同心円状”の波面」に触れ触れられ。
揉まれる波の平面の”風に動揺反射”する──「光の風景」。


撫でるように掻き分け侵食しつつ漸進すれば、『占』は視覚的生成にある”生成場”──『生成=振動』の世界。
新しい触覚的価値を解放した──「触知=生成感覚」の介入によって変様させられ主体へと生成する。

自分と世界を観照しながら世界と共に生成する──自らが超出の”身体の触地”と”跳躍する道”。
それは「触地」の感覚。

「生成」は「運気」のはじまりを超えて、”月星と共に”──「縁起」に出てきてしまう動きに息づく。

私たちは生きる中に──ふと立ち止まり知る。

 

 

 

 

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         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。

それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる──
縁起を兆す“微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて、

「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──
“種線(seed-line)” が現れる。

差異の欠片が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた力能は、
その差異を核に、地力のかたちを帯びる。

転軸のそれは未だ”跳躍点”ではない。
しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)」に”潜”を充す──
見えない月裏の月相と星相の結び目=”転位”。
〈あなた〉の”差異”の欠片を、
どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。

それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

《お問い合わせ/ご相談》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
➡︎ http://www.office-kanke.com
OFFICE KANKE「思創考造 Cognigenesis」
web email ➡︎ Contact page

 

 

 

 

日光占術|観氣(かんけ) vol.04:触発

 

 

 

 

      ── 深化と昇華 ──

 

 

 

 

経験を超えて進むことができない「知覚経験」を持つことによる「経験のやり方」:”感覚は思考への架橋”=『創造的受容』というものを捉え──感覚 → 知覚経験は”占いに触れられる”ことにより「感覚は思考へと向かわせ新しい思考を創造する」ということに問いを投げ掛けることになる。知覚がいかにして可能性をもつ主体へと「生成」するのか──そのプロセス(”新たな生成の次元”への差異・出来事・反復・表現・潜在性などの思考と創造)を間接的にも描き出して観ることだ。様々な占術と出会い”占いに触れられ”、様々な”占想”を生み出し「生成と縁起(=運気と縁起)」に触れ、『観氣(かんけ)』と月星占術を通して世界と自分を経験する「感覚→ 知覚経験」──相対的に《占いを”描く”/占いを”観る”》と対置された”経験のされ方=占術にかかわる”──われわれの「知覚・意識と感覚(感性)と思考」への”問い行為”。”占いとの距離”は思ったより地続きで連続する──身体に触れられる知覚と意識の感覚所与=「身体的な実践」(脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の閃きや霊妙に仲立ち媒介する感応の響きなどに依る占方(占形)では決してない)。

思考の働きに先立ち直接意識と感覚に与えられ──『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”心”の内に表象されている”氣”の現実とその価値観と意味体系。「占者・相談者と占いの関係性」をイメージへの感情移入を追求することなく、”経験のされ方”の要素的ではない全体的構造を捉え──”時間とともに生じる変化”そのものをも重視する中で、《占いを”描く”》と《占いを”観る”》という現象の実体や本質そのものを構造の記述と理解を通じて捉えてみることだ。”現象”の具体的構造から「生成と縁起(運気と縁起)」がどのような“場”によって誘発されるのか。この視点による”場”の構造・環境との関係性までを捉え──その一方で場合によっては複数の占術理論やその諸原理を確かな根拠と拠り所として典拠し折衷して照らし合わせる(又は適用してみる)柔軟性をもった理論的参照をはじめ、実践の交差と往還を重ねることになるやも知れぬ。経験のされ方において《占いを”描く”》という行為の現象的な意味合いと《占いを”観る”》という運動へと実践の厚みを増し、「生成と縁起」と「運気と縁起」との関係における”生成の新たな次元”の展望を考え──”運気”と”縁起”そのものを捉えることになろうかと思われる。

「感覚・思考・創造」の三軸における〈占いを”描く”〉と〈占いを”観る”〉という──螺旋的な「往還縁起的関係」における生成の現場の層として、水面と同心円などの比喩/触地感・跳躍感/場の変容を捉え、”触れ触れられる占い”──跳躍する身体と思考する感覚と「触地」=身体的接触と思考の交差で「占いに”触れ触れられる”という経験」「身体・生成・跳躍・触覚的思考の経験」「風・水面・同心円など生成場の現象的な経験」を知覚経験する。様々な占いとの出逢い=巡り合わせ──占術と接触する出会いに私たちは、初めて会い初めて見る占術に近づいたり、遠ざかったり、心を動かす。その「身体と占いとの”距離”」において皆それぞれ”眼”を様々な角度と速さで動かしたりしながら、同じ占術が私たちに対して”場”の構造と”時間と環境”が変化する経路で差異と反復を与えるその様々な感覚。

代わる代わる皆それぞれ「占いから受け取り」体験したものは、時の移り変わりととも変化の”移行体験”──「変化=思考と創造=”動く”生成」を侵食しつつ漸進する。占いからの刺激の受容は身体的な触覚として、受けるその感覚は初めてその占う時から途切れ途切れであっても持続し、その占いとの初見で受け取った感覚は一定せず”、常に変化の過程にある。時折り──再現化した現実の物事や事象の実際などにおいて再びその占いに触れると、初見の感覚とは異なった感覚や初見ではその占いから受け取れなかった──新たな感覚が芽生えたりするように、その占いは──触れてくる。相談者の〈あなた〉は──生成にいて、〈占いを”描く”/占いを”観る”〉は──生成にあり、占者不在において占い(又は占術)は「持続する”動く”生成」として、生(なま)の呼吸をしながら、”月星”と共に──「真生の創造=運気と縁起(因・縁・果)」に生き続けている。

純粋状態の占術的『事実』に──無限に接近するならば占術という占いの生きているその”生身”。
「占いを描く/占いを観る」──その”心通と氣”が活発に動きを見せる人間の活動として、占像・占想への執念が観念の活動に置き換えられ──人間自らが生成の縁起(運気の縁起)という思考・創造の深化に挑戦し──”昇華”したもの。独自の価値を思考し創造しようとする──人間固有の活動の一つとして、生成の縁起(運気の縁起)の観念を通じて人間が世界を認識し理解する過程を探求する。”月星と共に”──生成(運気)エネルギーの縁起(因・縁・果)を用いて、知覚経験を行う感覚活動に置き換え──人間自らが思考・創造の深化に挑戦し──昇華されたものとは? 生成の縁起(運気の縁起)の観念が人間の思考・創造や活動にどのように影響を与えるかを──人間自らが試し(又は研究し)占術されたものとは?

 

 

 

 

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    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。

それは説明でも比喩でもなく、

自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる──

縁起を兆す“微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──


〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、

まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、

それがやがて、

「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──

その最小単位だけで十分である。

そこから「生成の動線」は静かに伸び、

「運気との共振」へとつながる──

──
“種線(seed-line)” が現れる。

差異の欠片が置かれた瞬間──

《潜勢》として”伏流”していた力能は、
その差異を核に、地力のかたちを帯びる。

転軸のそれは未だ”跳躍点”ではない。
しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)」に”潜”を充す──
見えない月裏の月相と星相の結び目=”転位”。
〈あなた〉の”差異”の欠片を、

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。

それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

《お問い合わせ/ご相談》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
➡︎ http://www.office-kanke.com
OFFICE KANKE「思創考造 Cognigenesis」
web email ➡︎ Contact page

 

 

 

 

日光占術|観氣(かんけ) vol.03:共観

 

 

 

 

      ── 月星と共に ──

 

 

 

 

「”描く”占い/観る占い”の間(あわい)」──“問い“の落とし穴=占い。全ては”問う”ことであり、遍く(普く)「問い掛け」から始まる《転位》──すなわち”問う”ということは、我欲や我執の全く無いところで”心を通す”ということになる。感性による問い掛け──つまり”心通”に伴う「感性の躓き(沈黙と誘い)とその受容=”氣”。『観氣(かんけ)』に”閃き”というものもなく”媒化(媒介)”もない中で『観氣』は”転成”へと《転位》させる。特にスピリチュアル的において人は感覚と感情の”転換”へと”転化(基軸:自己変容)”そのものが「感覚知覚 → 知覚経験」となり、”脳裏の閃きや媒化(媒媒介)の」響きに依って「今なにが生じているのか」──人間は生まれつき知ることを欲する”感覚知覚”への愛好や選好として、感覚はその効用を抜きにしても──すでに感覚することそれ自らの故にさえ愛好され選好され=「”転化”=自己変容」が現実の実演になるのだろう。〈転化〉は単なる”転換”に等しい変化として別のものに質的に変わる今の”過程”──もともとはある状態から”気質が似通った(=目に見えない”spiritual:スピリチュアル”的な)別の状態へ移ること(=mental:メンタル性よりも深い内面・価値観寄りで特に偶然性ではなく必然性を指向)。『観氣(かんけ)』において人は“根“となる”転位(基底:自己生成)”そのものが「感覚知覚 → 知覚経験・創造的受容・共観的思為」となり、”心通”に伴う「感性の躓き(沈黙と誘い)とその受容=”氣”に──「今なにが起きているのか」(感性の躓き=感性による問い掛け)──”力”《潜勢》→ ”閾”《転位》→ ”場”《跳躍》→ ”種”《発芽》→ ”拍”《共観》を指し──問いと応答による触発前の構えと触発後の姿形=《転位》の力(=潜勢的”力能”)の在処(ありか)が見出され=「”転位”=自己生成」が現実の実演になる。

”自己変容”と「自己生成」との相異をもたらす占術において、特に人間の「感覚知覚」は重要な要素となる。「占い描く」と「占い観る」とは並列だろうか、あるいは別の「生成的場」なのだろうか。光や音・温度などの”生の刺激”を受け取る最も基本的な段階である”感覚”とは違い、全ての人間は生まれつき知ることを欲する──「感覚知覚 → 知覚経験」。世界の中の諸事物やその性質を経験する最も直接的な経験。ここでは「占術」についての知識を得る最も基本的あり方になり、すなわち”占う”そのもの=運気と縁起(生成と縁起)。──がしかし一方では知覚経験を特徴づけているのはその対象が何であるか──知覚内容のみではなく、その占いの対象がどのように現れているかという──占った対象の現れ方にかかわる要因であると思われる。「”占う者”=占者”」と「”占ってもらう者”=相談者」を《並列》に「感覚と思考の生成の場」として捉え直し、”占者(占方または占形)と相談者”との──「知覚経験・創造的受容・共観的思為」を中核に据えた新たな関係性の探求するといった問題的提起と視覚の提示が、特にこれからは非常に大切になってくるだろう。”問いとしての占い”──「生成と縁起(運気と縁起)」としての”感性と共観”。問題提起と視角の提示:「占い”描く”」と「占い”観る”」を並列に「感覚と思考の生成の場」として捉え直す「知覚経験・創造的受容・共観的思為」を中核に据えた──新たな関係性の探求=「”占う者”=占者”」と「”占ってもらう者”=相談者」との『共観』。

「占い」は”その場限り”なのだろうか。”因・縁・果”である「縁起」は”断片的”なのだろうか。「生成の縁起」は”局所的変容”なのだろうか。事態は急変でも後付けの予測になるのだろうか。潜在性は過去なのだろうか。──であるからして閃きや媒化(媒介)に依ったスピリチュアル的占術に「肯定感/潜在的可能性」を求め──”偶然性よりも必然性”の確かさに執心しつつ〈転化=意味生成的/自己変容〉するのだろうか。感覚知覚が知覚経験へと“先触れる場”において占師は占術の発明者ではなく、生成の媒介者=生成的知性の“共観の場”の開示であり、”占い描く/占い観る”占者と相談者共に──生成の”触地”にある。「生成の触地」とは、触地=触れる経験 → 生成の縁起との出会い → 生成の兆し → 跳躍の道(自己変容ではなく自己生成)──という流れの構造にある。「”占う者”=占者”」と「”占ってもらう者”=相談者」を並列に「感覚と思考の生成の場」として捉え直した上で「知覚経験・創造的受容・共観的思為」を中核に据えた新たな関係性の探求。触地(Contact Ground)=身体的接触と思考の交差。跳躍(Leap)= 知覚と意識の生成的転位。生成感覚(Generative Sensibility)= 触れることで立ち上がる新しい感覚。創造的受容(Creative Reception):= 描く・観る行為が思考を生む。共観(Co-Perception)= 占い描く/占い観るが占者と相談者によって共有される”生成の場”──「生成の縁起=運気と縁起」。


見えるものと見えないもの──「占いを”観る”」。それは私たちの知覚の流れなのだろうか。ではなく──「占いを”描く”」という知覚と表現行為に強い関心を抱いていたのだろうか。知覚していないときも、知覚の対象は連続して存在しているのか。私たちの知覚と区別されるような存在はあるか。私たちには、所与としての知覚しか与えられていないという集積された厳然たる──その「”感覚”の事実」である。それにもかかわらず、私たちは経験を超えて進むことはできない。そこから自らに与えられていない他の知覚の存在を思い描き──「知覚経験」をもつことになる。

「占い」という名の描写。描写に記す──描写に述べる。それは「占記述」として、生成と縁起(運気と縁起)の”知”が描き留められている。生成と縁起の「占想」──それは感覚と運気・縁起の「生成の場」。額縁のような枠組みを外すことによって解体される──〈占いを”描く”〉と〈占いを”観る”〉との──「占記述」。「占いを”描く”」という”占想”の響き”は──「占いを”観る”場の生成」としてある。生成・縁起(運気・縁起)と感覚と占記述が──相互に生成し合う場そのものとしてあり、思考・創造するために──「占い記述する」のではない。占いを記述しながら思考・創造が生じ、「新たな生成(運気)を創造」しながら占記述が描き換わる。占いが記述されることで新たな意味が浮上してくる──思考・創造のプロセスそのものであり、そのプロセスが占術として可視化される──「生成の舞台」となる。〈占いを”描く”〉自己と世界を見つめ経験される──〈占いを”観る”〉現象が運気と縁起を動かすとき。その「占い記述」は、もう──”既存のもの”ではなくなる。思考・創造が後追いで捉えようとする──”知の身振りに記述という共振”されることで──「生成」は立ち上がる。それは、〈占いを”観る”〉という──「観者そのものの”場”」。新たに立ち上がる”占想”の響き”響きとなり、観者の身体にも──何処かの「触地感」と、何かの「跳躍感」を残してゆく。

部屋の机に整然として置かれた、経験(知覚経験)される「占記述」の静黙な時間と空間。「占記述」は触れれば沈黙としてしているが、「縁起」は黙秘しているわけではない。「占記述」に触れられれば「縁起(因・縁・果)」は静かに黙することなく語りはじめ、不在占者の存在証明に触れられることになる。そうして「知覚と縁起」の交差点として時間的空間的に触れられ、”自分の眼で触る”「生成感覚と運気感覚」の経験(知覚経験)は「読んで見てしまう自己の生成と運気=認識の揺らぎ」となる。《占いを”観る”》ということは、占いを通して、人間が占い及び占い自身の表現について、あるいは自分自身が「感覚できるもの」で「思考できるもの」について抱く、あるまとまった考えを出していることであり、占いの意図を探り意味をつくり、自分自身に「何かが生まれている」ということである。《占いを”描く”》ということは、占いを通して、人間が自分及び自身の周囲について、あるいは自分自身が「感覚できるもの」で「思考できるもの」について抱く、あるまとまった考えを出していることであり、”月星と共に”──自分自身に「何かが生まれている」ということになる。

『観氣(かんけ)』の占方(占形)として占術の自律性や純粋性における「占記述」の占術的側面と触覚的要素において、《占者=感覚・思考者》と《受容者(相談者)=感覚・思考者》との関係が一体化の関係として想定されるものと、「占記述」自身と《受容者(観者)》=感覚・思考者との関係が一対一の関係として想定されるもの──その二者は全く異なるものであるとして思い做しすることできず、両者の間に「感覚されるべきもの」と「思考されるべきもの」として”問い”翳し、”思為”することはできる。よって──テーマ性は「生成(運気)の深化への挑戦”」を核として、《占いを”描く”》こと及び「占記述」=表現・制作者である感覚・思考者》と対置した中で《占いを”観る”》こと及び《受容者(相談者)=感覚・思考者》に”共観重心”が置かれることになる。

 

 

 

 

         actual-virtuel

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  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

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   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。

それは説明でも比喩でもなく、

自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる──

縁起を兆す“微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──


〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、

まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、

それがやがて、

「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──

その最小単位だけで十分である。

そこから「生成の動線」は静かに伸び、

「運気との共振」へとつながる──

──
“種線(seed-line)” が現れる。

差異の欠片が置かれた瞬間──

《潜勢》として”伏流”していた力能は、
その差異を核に、地力のかたちを帯びる。

転軸のそれは未だ”跳躍点”ではない。
しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)」に”潜”を充す──
見えない月裏の月相と星相の結び目=”転位”。
〈あなた〉の”差異”の欠片を、

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。

それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

《お問い合わせ/ご相談》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
➡︎ http://www.office-kanke.com
OFFICE KANKE「思創考造 Cognigenesis」
web email ➡︎ Contact page

 

 

 

 

日光占術|観氣(かんけ)vol.02:旋風

 

 

 

 

      ── 生きる風景 ──

 

 

 

 

風を吹かす

 

あらゆる物事の変化は「生成の縁起」の“転位の間(あわい)”にあるのに際し、物事の”結び目”の位置がズレたり入れ替わるなど、何かしらの変化(転化)する状態や物事が起こりがちである。人は気儘に気紛れな思いつきや願望を満足させることに抵抗できず、感覚と感情に先走って置き換えられた心と氣に流されるまま短絡的に“架け橋“としたり“裂け目“としたりする。人は自らの思惑通りと狙い通りへと、わけなく人は──確信と期待の見合う疑いと信じる狭い谷合いを潜り抜け、人は思い込みに惑わされ決然とする。逆転として運が良ければ衝撃を免れるが、暗転ともなれば状況が予想と正反対にひっくり返るなど終盤での意外な結末になるだろう。そしてまた──あらゆる物事は「原因と条件」が揃って生じる”縁起と前触れ”にあるのに際し、物事の”優先順位”の高いタスクの難解又は難儀と遅延など何かしらの致命的な状況や物事が起こりがちである。人は意志が強くしっかりとしていて物事に動じず、予感と予測に先走って置き換えられた心と氣に流されるまま短絡的に“好機“としたり“境目“としたりする。低い優先順位に割り当てられる力を開放して高い優先順位へと、わけなく──”確信と期待に見合う疑いと信じる狭い谷合いを潜り抜け人は思い通りに惑わされ毅然とする。逆転として運が良ければ衝撃を免れるが、暗転ともなれば状況が予想と正反対にひっくり返るなど終盤での意外な結末になるだろう。そうして生成の縁起の転位の間(あわい)どきや縁起の前触れどきに──恐らく人は自恃む(みずからたのむ)=自分の能力を信頼するか、心の中で期待して信じることや助けとして期待することをなど、思惑の交錯(又は錯綜)に手を焼きつつも、わけなく人は──”生き風を吹かす”。

 

 

風に触れられる

 

”全ては解らない”いう「問い掛け」は感性的だ。「感性」を素材とする悟性を通して理性・知性になるということは、感性の力はひとつの能力として理力・知力であるよりも──最上位の”潜性的「可能力」”なのであり、「感性の躓き」の”問い”(すべてを抱く肯定)=『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”において「運気の基底である悟性」へと目覚めることになる。人それぞれ実際に今起きている様々な実情において、先ずは「問う」ことから始めることが大切である。この様になりたくはない → この様にならないのだろうか──“願望“ではなく、何故この様になったのか → どの様にしたらいいのだろうか──“疑問“を持つこと。“問い“は解であって答を導き出すものではない。『観氣(かんけ)』を結び目を紐解きながら『月星』に歩かされ”、歩きながら「運気と縁起」に触れ、触れながら「”問い”へと押し返される」──完全に動的思想の形態。 「問い」が説明ではなく──《”感性の躓き”としての触覚(身体の一点の感触)》へ”還元”したこと。まさに──「身体の一点の感触」なのだ。これは 『観氣(かんけ)』の核そのものだろう。そして”『観氣(かんけ)』の法”の至る所に──この「一点の感触」が確かに宿っている。….. 身体に沁みる”月”明かりの柔らかさ、掌(手のひら)に映る”星”座の輝き、取り巻き渦巻く”氣”の匂い、”心”を通した刹那の静けさ、「問い」が落ちる落とし穴の感触 。….. これらは、すでに──「運気」ではなく、”身体が『生成の縁起」の最初の器官”である──という”生きる風景にある確かな”「縁起」の証言”なのだ。「問う」ことそのものが──「感性」の”発芽”となり、その受容は未然の最上位の”潜性的「可能力」=力能“を発現させ、「生成の縁起」=“心通と氣“の〈潜勢的運気創造〉へと向ける『観氣(かんけ)』の中枢ともいえる。これは、まさに──今の力:”潜勢”/今の閾:”転位”/今の場:”跳躍”/今の種:”発芽”/今の拍:”共振”として「潜勢的”震源の閾(感性や受容と意識が生じるかどうかの境目)”」なのである。この様な『観氣(かんけ)』の“具体場“では、人それぞれ実情や実感に伴うその人なりに持つ「問い掛け」とその「感性」を重んじて傾聴されつつ──恐らく”生き風を吹かす”ことなく人は”風に触れられる”ことになるのだろう。

 

 

風景に生きる

 

空間に浸り時間に流れ風景に生きる人間。人間の象徴として風景に生きるそのものが人の微妙な”心通”を語っている。『月星と共に』──人の風景に生きる”氣”は覆い隠せない。自らを鏡のようにして人間の深み「生成の縁起(縁起の生成)」を無相の風景に聴く。人の奥底にある真の人間自己である無相の自己が現れ出されている深淵な風景。風景により反射される「運気と縁」に伴う自己存在(存在感)は人間の事実であり、無謀にも空間と時間を無意味・無駄にして穢さないことだ。”風景に生きる自分自身の反映”でもあって、その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、”風に生きる”微妙な”心通と氣”、即ち風景の深みに人間の深みと自らの”心の奥深くを氣から悟る”ことができる。人間の象徴として常に生きる風景を深く見つめて聴くことは、人間的な感覚や感情と感動が基底に無くて風景を見ることはありえないないとしても「感じる・知る・解る」だけに留まることなく、常にそこから感性(悟性の素材)による悟性(能力・知力=知性)と理性を通して”生きる風=力風”に触れられること。常に”風景に生きている”ということに対して敬虔な気持ち呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができる。”風景に生きる”その内奥に潜む微かな揺らぎ──価値あるではなく、価値が生まれ続け、それはまだ言葉にもならず、かたちを取らないまま──しかし確かに動いているもの「間隙の胎動」──私たち自身の内奥で絶えず紡がれているそれは運気と縁起の糸を織りなす結び目の根源的な力の証明である。自らの”心の奥深くを氣から悟り希っている無形の何物かが、未然のその姿を借りて形を得、未到の生成の縁起=運気と縁起へと向かう。「生成の縁起=前成層」とは、運気と縁起の前景圏──未形の”震源”であり、運気と縁起に現実を生成する──生成される”潜勢的”にある。自己生成の震源 → その前段階としての “震源としての潜勢”──これを理解するには、その前地としての震源としての潜勢を先ず呼吸しなければならないだろう。震源が実際に自分を生み始める現象──震源としての潜勢:震源がまだ震源になる前の震え始める力、運気=縁起の地平そのものを静かに振動させている。人の生きる風景が人間自己であるということはできないが、生きる人間の風景は人の身体的感覚に基づく自然な欲求として渾然と一つの同根にあるという──”問いが落ちる落とし穴”という感触。そこで浮き上がるのは、人間の生きる事実として”風景に生きる”ことを感じる能力と意志の力により克服されるべき「感性」に纏わる何かということになるだろう。

 

 

生きる風景

 

….. 立ち止まる地点。

部分と全体の境域が消える瞬間。

私が消えて自図が私を生き始める感覚。
この感覚は理解ではなく、月星の身体を通して起こる。

運気と縁起は生成だけにでなく、呼吸や瞬きの中にも宿る。
そこに感性の躓きの微かな感触を残す。
それは、いつからか始まっていたような気がする

名前をつけるには少し遅すぎるが、忘れるには早すぎる。
それは、小さな問いのかたちで?

感性の躓きとは、言葉にならぬ問いが、私たちの足元に生えているということ。
その根の根に、私たちは気づくだろうか?
それとも──そこに飛び込むだろうか?

転倒として落とし穴は、落ちることでしか見えない深度がある。
理解ではなく、転倒の衝撃として運気と縁起が始まり、気づいた者にだけ開く──生成と縁起の裂け目である。
この落とし穴は、恐怖ではなく、沈黙と誘いの跳躍台。

それ故に──そこに飛び込むだろうか?

私たちが月星の占図を転ぶようにして──運気と縁起によって出会う生成は、単なる知識ではなく、変容の端緒となりうる。
問いが消えたあとの静けさを私たちは、どう受け取れるだろう?

言葉にせぬまま、何かが足元で落ちた。
私たちに渡された火種。
もう戻れない気がした。…..

 

 

“見えない根の網”に自ら足を踏み入れるとは、解でも結果でもなく、「考え始めるための経路」に私たち自身が入っていくこと。『観氣(かんけ)』とは考えさせる装置として、送り手が考えているのではなく、受け手が考えるようになることにあり、答えが提示されているのではない。「問い」の構造=「生成の縁起」の経路だけを”火種”として手渡すこと──ここには『占術的』という深い立場が現れているだけである。根の網とは、固定された占術論理ではなく、月星の揺らぎと繋がりの構造として、興図の上には一本の”生成の木”が見えている──がしかし地図の下には無数の根が絡み合い、伝え合い、揺れ動いている。つまり──「自分という”生成の自図”」とは、一本道ではなく、既に「占図」となって月星の網のように揺れるもの。私たち自身がその網の何処かに足を掛け、私たち自身の「縁の根」に触れていく──そこにこそ「生成の縁起」体験が成立する。解や結果を出さないことの価値、運気と縁起の結論や解答で閉じるのではない。

縁起の生成層(価値の場)──”木のたとえ”による「生成を知る生き方」:人間ひとり生きていく中で様々な出来事に出会う──そのとき「生成を知らない」人は木を「今の姿」だけで評価する。枯れた葉や曲がった枝を見て良し悪しを決めてしまう。「生成を知る」人はその木の中に「縁起の流れ」を見る。地下の根が水を探し枝葉が光を求める姿を感じ取る。だからこそ水をやり光を通すように関わる。生成を知って生きることは自分の中にある木を枯らさず育て続けること、他者や世界の木に水を注ぐこと。その連鎖の中で「縁起の生成」を生きること。それは”楽な”ではなく”楽しい”生。価値あるではなく、価値が生まれ続ける生──そして生き甲斐が絶えず芽吹き続ける人間本来の生き方。「変容」というドラマ性や事件性よりも不断であることそのものが価値をもつ──「生成の縁起(縁起の生成)」の意義性。

不断としての「生と縁」の有意義性──「終わらない呼吸としての存在」:生成と縁起は特別な瞬間だけに起こるのではなく、日常の呼吸や瞬きのように続いている。それは結果や完成を目指さず、”今”そのものを生かす営み。──「均衡ではなく、持続的な揺らぎ」:縁起の生成は安定ではなく、安定と不安定がたえず交錯する月星の揺らぎの場。この揺らぎが停滞や枯渇を防ぎ、生命を生かし続ける。──「関係性の更新」:森の中で木々が根を伸ばし、枝葉を広げ続けるように生成の縁起は他との関係を更新し続ける。この更新が”生きている”ことの証であり、意義となる。──「時間を開き続ける」:完成や終焉は時間を閉ざすが、生成と縁起は時間を開き続ける。”未だ”の感覚がある限り未来は存在する。──「意味の過剰さ」:生成の縁起は意味をひとつに閉じない。無数の解釈や可能性が同時に生きていること。その豊かさ。もしこの「不断の生成と縁起」を”森”というの構造に組み込むなら、森の根は常に水を探し、枝葉は常に光を探す。しかしそれは不足ではなく、生きることそのもの。森にとって停止することが死であるように、人間にとって「生成の縁起」が止むことは存在を失うこと。

「生成」の意義──まさに”森”の中心にある問い「生成(becoming)」は、単なる変化や成長ではなく、存在そのものが常に生まれ直しているプロセスとして語ることができる。そこには幾つかの層があると思われる。──「固定からの解放」:生成は「完成」を否定する。完成=終わり。生成=続く始まり。物事を固定した像として捉えず、常に動きの中にあると見る視点。──「関係性の網の中での変化」:生成の縁起は単独で起こらない。”森”の中の木のように根や風や光との関係の中でのみ変化する。生成の意義は、その縁起を通して自分も他者も更新し続けるところにある。──「自己変容の契機」:生成の縁起は”自分が変わってしまう”出来事でもある。それは意図的に起こせないことも多い。

予測不可能性を含むからこそ縁起の生成は生の実感を伴う。──「未来の含み」:生成と縁起の意義は、未来を「未完成の余白」として開き続ける点にある。生成と縁起は答えを閉じるのではなく、”問い”を育てる。そしてその”問い”が次の「生成と縁起」を呼び込む。生成の縁起を知っているということは──日常の出来事を完成や失敗の評価軸ではなく、流れの一部として受け止められる。停滞や迷いすらも「生成と縁起の”揺らぎの相”」だと理解できる。自分や他者を固定された像として裁くのではなく、未完成の存在として受け入れられる。つまり、生成の縁起を知っている人は、日々の経験を「“終わり”ではなく“始まりの連続”として生きられる」。これが「知らないまま生きる」のとは根本的に異なる点である。森で言えば──「生成の縁起(縁起の生成)を知らない」人は木を「今の形」でしか見ない。「生成と縁起を知っている」人は、木の姿の中に「これからの枝葉の可能性」や「地下で伸びる見えない根」を感じ取れる。この視点は安心感と創造性の両方をもたらす。だからこそ不断の『観氣(かんけ)』の意義は、単に概念ではなく、生きる基盤そのものといえるのだと思われる。

余白層は開放の場──”理解”ではなく”始まり”。物語の終わりではなく、私たちの生成の始まりへ。答えはここにはない。興図は今も私たちを歩ませている。自図を閉じた後の一歩こそが、この生成の続きである。「沈黙」と「誘い」の余白──跳躍の間(あわい )に私たちの”森”が芽吹く。「問いが残ることで、私たちが“続けて考える”」「”余白”があることで私たちが“跳躍ではなく沈み込む”」──これがまさに「私たちの具体場」であり、私たち自身の内で興図が終わらずに“生き続ける”ための「占図の構え」。”余白”は跳躍のためにではなく、落下のためにある。けれどその落下は、言葉にならない問いが、自ら芽吹いてしまうような、生成と縁起の根の深み。それが「落とし込み」の本来の意味かもしれない。確定は避け、問いを漂わせ、「開かれた問い」は残された。──これは何だったのか ? … それとも──未だ名付けられていない別の始まりだったのか ? … ──何がが残ったのではなく、何か言葉よりも先にあったものが、抜け落ちただけなのかもしれない。”生きること=「生きる風景」は生成である”──それは”見えない根の網に自らが足を踏み入れる経路”──”未然”の何か ? … “無名”の何か ? … そこに浮き上がってくるのは『観氣の伏流』にまつわる何かということかもしれない。

 

 

….. 立ち上がり──
生成の芽吹きと縁起の呼吸との連鎖。
それは──運気の予演。


運気の鐘声は、
途絶えるのだろうか?



生成と縁起の拍動は──あまねく巡る。



再び──自分の中で跳ね。
再び──世界へ届く。
私たちは、外世界を歩くのではない。



外世界が私たちを歩ませるのだ。
生成の生へ──
生を成す脈「”森”の地図」。
生成と縁起の全肯定──



世界が人間の外にあるのではない。
人間が世界である。



それは部分を超えて全体に至る視座。…..

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。

それは説明でも比喩でもなく、

自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる──

縁起を兆す“微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──


〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、

まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、

それがやがて、

「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──

その最小単位だけで十分である。

そこから「生成の動線」は静かに伸び、

「運気との共振」へとつながる──

──
“種線(seed-line)” が現れる。

差異の欠片が置かれた瞬間──

《潜勢》として”伏流”していた力能は、
その差異を核に、地力のかたちを帯びる。

転軸のそれは未だ”跳躍点”ではない。
しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)」に”潜”を充す──
見えない月裏の月相と星相の結び目=”転位”。
〈あなた〉の”差異”の欠片を、

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。

それが「起点」になる。…..

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

《お問い合わせ/ご相談》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
➡︎ http://www.office-kanke.com
OFFICE KANKE「思創考造 Cognigenesis」
web email ➡︎ Contact page

 

 

 

 

日光占術|観氣(かんけ)vol.01:母胎

 

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。

それは説明でも比喩でもなく、

自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる──

縁起を兆す“微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──


〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、

まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、

それがやがて、

「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──

その最小単位だけで十分である。

そこから「生成の動線」は静かに伸び、

「運気との共振」へとつながる──

──
“種線(seed-line)” が現れる。

差異の欠片が置かれた瞬間──

《潜勢》として”伏流”していた力能は、
その差異を核に、地力のかたちを帯びる。

転軸のそれは未だ”跳躍点”ではない。
しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)」に”潜”を充す──
見えない月裏の月相と星相の結び目=”転位”。
〈あなた〉の”差異”の欠片を、

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。

それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

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日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

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1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

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※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
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はじまり:「拍動」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Essay  Fire Breathing

continued in the next new edition / part number
〜 ”生成の旅路” 〜 COGNIGENESIS JOURNEY

 

 

 

 

       はじまり:「拍動」

 

 

 

 

「今」この一瞬=世界の火”が顕れはじめる”瞬間”

 

 

…….. 生成の火。
生きどおる生成の火門。
火の世界で──
拍動に巻き込まれる感覚。

満ちず、欠けず、

次の拍を孕む火──脈打ち、

問いを残す──火と共に立ち、

火に”生きどおる”。

揺らめく光は、
静かに空気を裂き、

見えぬ風が火芯を探す。

火の鼓動は、
まだ語らぬ物語を孕み、

沈黙の間に小さな息を落とす。

手を伸ばせば触れられぬ熱。
それは過去でも未来でもなく、
──
”今この瞬間の燃え”。

炎は踊る。

しかし足音は無く、

残像だけが記憶に刻まれる。

満ちることも、
消えることもなく、

ただ次の拍を待つ火。

火は踊る。

影は揺らぎ、空気はざわめく。

音も光も火に従い、

すべてが次の拍を孕む。

──そして火は、

まだ見ぬ先へと跳ねる。

火の拍動=生成の拍動の世界。
「燃え上がる世界へ──
大いなる創造の旅」。

「今」この瞬間──はじまる……..

 

 

生成の拍動の継続・観察による”前触れ”は、”生成の芽吹きと呼吸の連鎖”の「温度と実践/実地への”地続き感”」が見えてくる。──生の観察(実地)層:日常の”風、街、光、人”の動き「火の拍動を宿す世界という細密的・静的。──「共鳴の記録(対話/呼吸)」層:日常の私たち〉の呼応、声や眼差しの交錯という呼吸的・律動的。──「拍動の考察(余白/跳躍)」層:日常の体験から滲み出る”生成の理解・洞察”という内省的・余韻的。

観察 ”Observation” =「世界を聴く」──日常の地層(生成の地層)における周囲の音、光、動き、温度、間。世界がどう呼吸しているかを、まず受け取る。「火を感じた瞬間」「拍を聴いたように思えた出来事」「人の行為が火と似たリズムを持っていた」。感応 ”Resonance” =「自らの火をそこに重ねる」──日常の地層(生成の地層)において見たもの・聴いたものが、自分の拍動とどのように共鳴するかを感じ取る。

ここで初めて「世界の拍」と「〈わたし〉の拍」が混ざり合う。「“世界の火”が顕れはじめる瞬間=《実地の生成》の始まり」「拍を感じたその断片とその拍の連鎖」。

日常の大地(日常の地層)の声──生成の大地(生成の地層)に重なり、生命の拍(生成の核)における沈黙の中で”拍”が芽吹き、”声”となる──発芽(拍の顕現・再生)によって、水が地に沁み、大地が”拍”を孕み、すべての”拍”(火・風・森・水)が重なり、「連鎖の核」が姿を現し、そうして「世界が呼吸し」──〈私たち〉はその”拍”を受け取ることになる。

思いきり日常の呼吸を感じながら、〈あなた〉の拍動をそのまま──表し燃やすことだ。
まさに「燃やす」ことで”拍”は生まれ、”燃やし尽くした灰から次の拍が孕まれる”──まさに完璧な「実践・実地拍」の第一歩になるだろう。その余韻を胸に、良き拍動の静かな灰の呼吸を聴き、灰の中で眠る火は──必ず次に息を吹き返すはずである。

「灰の呼吸」──その余韻を経て迎える時、まさに「火が静かに転生する”瞬間”」であり、その「拍動」は「灰の底から立ち上がる”精神の再燃の初光”」のように、柔らかく、しかし──確かに熱を帯びていると思われる。
                                          Kenzie

 

 

続く
 
 

 

 

 

余白

 

 

 

 

『思創考造 Cognigenesis』をご覧いただき、感謝申し上げます。
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あとがき:「未到」

 

 
Essay seventy-four  1~8  9~16  17~24
Cognigenesis  Fire Breathing

continued in the next seventy five / essay number
〜 ”生成の旅路” 〜 COGNIGENESIS JOURNEY

 

 

 

 

        あとがき:「未到」

 

 

 

 

「今」この一瞬──その時その時の”瞬間”

 

…….. 時は一向にすぐるとのみ計功して、未到と解会せず。 …….. (正法眼蔵:1231‐53 有時)──「時間は、ひたすら過ぎ去るものだとばかり考えていて、”未だ到達していない”ということを、理解しない」──”日常の大地”に動かず、ただその場に止まって、静止し存在しているように見える”木”も──「時(時間)」である。”動き回りしているものは場の移動をする”ので、「時の移り変わり」を考えることができ、「時」とはその様なものであると〈私たち〉は日常を生きていて思うが、静止している”木”そのものの存在も同じ様に「時(時間)」である。つまり──”動き、場を移り変わるものだけが「時」ではない”ということ──「〈私〉と存在〈私〉と時間が一つ」である。時間だけが止まって、この世界の全ての物事が存在しているという状態はあり得ず、もし時間が静止するなら存在もなくなり──存在がなくなれば時間もなくなる 。存在だけがある、あるいは時間だけがあるという状態はあり得ない。世界の出来事は繋がってゆくが、繋がりながらも──「その時その時」であり、その時その時 ”瞬間” ──”時々刻々”のそれ以外に「生成」はなく、その様に「生成は動き連なり持続」してゆく。

而今(じこん)=まさに今、この一瞬(瞬間)──静止したかの様に見える山も海に「時(時間)」がないとしてはいけない。山も海も「時」であり、もし”時”がなくなれば山も海も無くなり、「時」がなくならないなら山も海もなくならない。この様な理路の筋において──〈私〉がこの「世界」で生きているそこに「時(時間)の経過」があるのではなく、〈私〉と〈私〉が”生きている”ということ”時間”と”世界”が皆ひとつのことであるとした上で──〈私〉以外に世界はなく、世界以外に時間はなく、時間があるということは──〈私〉が生き、生きているということであり、その事実をどう生きたらいいのか ? … このような理路の筋で行けば、それは──これまでは「時間的往還」とその螺旋に何度も往還しながら呼吸を深めていくことで、世界の内外の境界が透け、呼吸が一本化し、”生成の場”が立ち上がることになる──すなわち「”場を生み出す”生成」だとすれば、これからは「生きることそのものを”生成”として見る」──つまり”生を成す「生の生成」=「生成は移動そのもの」に広がる形”となる。

生き、生きてゆくということは、常に一つのこと──「”生成”を生きてゆく」その連続──それ以外にないということである。時間と空間と〈私〉が一つになり、〈私〉が「生」と一つになり、”思考は現場へと降り、創造は試行錯誤の中で磨かれる”──この循環が〈私たち〉の「生」に即して具体的に展開され、「生の生成」── ”生成知”とは、教育・芸術・科学、そして「日常の実践」にまで通じている。「今」は常に「”生成”の時(時間)」──”日常の全てを大切な「生成」として生きる”ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的”実践”──すなわち、「生の生成」であるということの日常的”実地”そのものだと思われる。

日常の地層音(key-tone)=生成の大地”日常の大地”──「生成の主体」が完全に起動している証。しかし未然にて未到。日常見に現れる “差異の欠片”──生成の前成層(日常の地層)=日常の隙間に漂う日常は生成の地層であり、Cognigenesis”(自己生成の震源) の内側でしか起こらない変化で、いわば「生成主体」が静かに、しかし確実に日常を動いている「時(時間)」。日常という地層の奥で、生成の低音が鳴っているという声──日常の反復の中で”同じことをしているのに、どこか違う”という微かな日常の差異を感じた「瞬間」──そこに”生成の萌芽”が隠れている。

これらはすべて“自生的な問い”が生まれる前兆。日常の地層に沈む”差異”が、”問い”となり、問いが”自己生成として立ち上がる。反復行為は「無意識の領域」だが──ここにこそ“純粋な視線”がもっとも活性化する。反復の中で「同じことをしているのに、どこか違う」という微かな差異を感じた瞬間──そこに”生成の萌芽”が隠れている。問いや目的を脇に置いて豊かに経験が立ち上がる余白を孕む領域としての日常性。──日常には、問いを立てずとも感じられる気配、光や色、音や匂い、身体感覚、他者とのささやかな交わりなどが絶えず現れている。それらに「問いを差し挟む前の”ありのまま”を受け止める」ことで、新たな気づきや問いの芽生えが自然に生まれる場となる。「日常は事の連なりである。」──「日常の大地」を歩きながら、“問いを生む前の視線”──始動前の始動──を掴む。そこからさらに踏み込んで、日常性の具体的な在り方──そして、そこで立ち上がる視線の本質。

《反復と静度の地層(日常 ”Dailiness”)》とは──「平凡な時間」ではない。そこには、差異を浮かび上がらせるための基準面が形成される。日常 = 差異を孕む静かな母胎、ここに「創造=動く生成の持続」は根を下ろす。日常にある微細な変化の地層(差異 ”Difference”)とは、思考が発見するのではなく、身体が受け取ってしまう“微細な揺れ”であり、昨日と今日のわずかな違い/同じ道の影の角度/呼吸のわずかな重さ/眼差しの曖昧な傾き──これらが静かに“差異の層”をつくり、その層はいつか「問いへと圧縮」される。《差異の凝固地層(問い ”Question”)》とは──思考の道具ではない。問いは、身体の感受が言語へ押し上げられた“結晶”である。思考より先に身体がある/理解より先に揺れがある/解より先に沈黙がある。問いは“前史の生成物”として、沈黙の地層から生まれる。《自己生成の地層( 思創考造 ”Cognigenesis”)》とは、、”問いから生じる思考”であり、問いそのものを“創りなおす”創造である。思考と創造が別々でなく、一つの「生成線(ジェネシスライン)」として現れる現象。思考が創造を照らし/創造が思考を溶かし/双方が相互に生成し続ける。これが『思創考造』が名前として示す「自己生成」である。

──key-tone は “地層音(stratum-tone)” として響く。〈わたしたち〉の思想には、軽いメロディではなく、もっと深い音が鳴っている。それは、「日常という地層の奥で、生成の低音が鳴っている」という声だ。この低音=key-tone があるからこそ、これまでの”森/余白/共観/緊張の濃度/Cognigenesis/生成の招待状”、このすべてが一つの思想体として結びつく。反復の中で「同じことをしているのに、どこか違う」という微かな差異を感じた瞬間──そこに生成の萌芽が隠れている。これらはすべて“自生的な問い”が生まれる前兆。日常の地層に沈む”差異”が、”問い”となり、問いが”自己生成として立ち上がる。

「日常性という境域」の意味付けとして──「境域(リミナルスペース)としての日常性」:日常は「特別ではない反復」の場所と見なされがちですが、ここでは日常を「問い以前/問い以後」「無思考と熟考」「内と外」「自己と他者」の”あわい”。いわばリミナル(境域)的空間として捉える。この境域では思考は固定化されず、問いが自生する余地が維持されるため、創造的・認知生成的プロセスが自然に起こりやすくなる。──「美しさを宿す場」:境域としての日常性には、しばしば見過ごされる微細な美や潜在的な豊かさが潜んでいる。光の揺らぎ、風の微かな動き、身体感覚のひそかな変化、他者との無意識的な呼吸の同期。そうした瞬間の「美しさ」を見出し、味わう態度が「Dailiness Advantage」の本質。日常の美しさは、突然の劇的な風景ではなく、むしろ繰り返しの中で心が開かれたときに感じられる静かな輝きや余韻。この美しさが、問い以前の純粋な視線を呼び醒まし、Cognigenesisの種を蒔く。──「境域としての安全性と挑戦性」:日常の反復の中には安心感があるが、同時に慣れゆえに視野狭窄を引き起こすリスクもある。境域の美しさを見つめる態度は、この安心性に甘んじず、しかし過度に未知へ飛び込む不安とも距離を置き、ちょうどよい余白(マージン)の中にとどまる挑戦でもある。その「漂い・座礁」的な状態で美を感じ取ることが、既存の見方を揺さぶり、新たな問いや転軸的瞬間を育む基盤となる。

日常の観察を深めるためには、まず「保留する態度」を身につける必要がある。通常、私たちは何かを感じたとき、すぐに意味づけをし、問いを立て、答えを探しにいく。しかし、そのプロセスを一旦保留し、判断を停止することで、対象とのあわいにより深く開かれる余白が生まれる。さらに、日常の中で「境域に留まらざるを得ない」瞬間を肯定的に捉える。予定が崩れ、行き先が定まらず漂うとき、思考は慣れたパターンを外れ、知らぬ感覚や気づきに出会うチャンスが訪れる。これを「座礁」と呼んでもよい。乗り物が岸に打ち寄せられるように、一時的に停滞するからこそ、新たな視点が立ち現れる。こうした境域状態を味わうには、あわせて「荷を降ろす」実践が役立つ。日常の重荷──過度なスケジュール、成果への執着、過剰な情報消費──を一旦ワークアウトし、省いてみることで、意識は軽くなり、保留の余白を保持しやすくなる。

”荷を降ろした後の沈黙や静けさ”は、問い以前の純粋視線を研ぎ澄ます場となり、「”Cognigenesis” の種を育む」。例えば、ある日意図的に予定の一部を空白にし、その時間を問い構えずに過ごす。漂うままに歩き、目に映る風景や身体感覚をただ感じる。その間に浮かぶ小さな揺らぎ──「いつもの私なら気づかない何か」をメモし、この揺らぎこそ問いの萌芽であることを見守る。こうして境域に留まる体験が、思考の前段階を豊かにし、次なるCognigenesisの起動を促す。このように「保留」「境域」「座礁」「荷を降ろす」「ワークアウト」は、すべて日常性の中で可能な実践であり、問い以前の視線を深めるための鍵である。これらを通じて得た余白から自然に芽生えた問いは、次節で扱う共観や地力の回路を刺激し、思創考造の循環を拡張していくだろう。「保留する視線」の練習──観察の深度を高めるためには、まず問いを「保留」する勇気が要る。感じたものをすぐに意味づけず、一旦停滞させることで、視線は対象とのあわいにより濃密に開かれる。日常においては、たとえば誰かの発言を聞いた直後に、すぐに反応や判断をせず、一呼吸置いて保留する。この小さな習慣が、思考の前段階を豊かにする余白を育む。

境域で漂う体験──予定の合間に漂う時間や、思考が行き詰まって手が止まる瞬間は、往々にして不安や焦りを呼び起こす。しかし、それを避けるのではなく、「座礁した」と捉えてみる。漂いながら留まることで、既存の思考地図が解除され、新たな感覚や問いの兆しが現れる。日常の隙間に漂うこの境域は、意図的に設定しなくとも、偶発的に訪れる出来事として受け止め、そのまま味わうことで思創の余地を見出せる。荷を降ろす実践と実地──日常の重荷は過度な予定、成果への執着、情報への過集中を一時的に「ワークアウト」し、省いてみることで、心身は軽くなる。例えば一日の中で「今日はこれをしなくてもいい」と自分に許可を出し、その時間や注意を純粋観察に回す。荷を降ろした後の静けさや自由度が、問い以前の視線を研ぎ澄まし、Cognigenesisの土台を深める。余白から芽生える問い──荷を降ろし、境域に漂った後に訪れる内的な揺らぎは、小さな問いの萌芽である。それは外部から投げかけられる問いとは異なり、日常の余白から自発的に立ち上がる。こうして生まれた問いは、既成の枠組みを超える可能性を孕み、次節で扱う共観・地力発動への架け橋となる。

「問いを抱える前の日常性」とは何か ? … ──前概念的/前反省的な領域:「問いを抱える前」とは、まだ思考が「なぜ?」「どうして?」とフレームをかけていない状態。言い換えれば、私たちが何かを分析・評価しようとする前の、いわば「前概念的(pre-conceptual)」あるいは「前反省的(pre-reflective)」な経験の場です。この段階では、物事への関わりは直感的・感覚的で、未だ問いというフィルターを通して整理されたり意味づけされたりしていない。──日常性(everydayness / Lebenswelt)の意味:日常性とは、特別なイベントや理論的探究とは対照的な、日々くり返されるありふれた営みや環境の中にあるありよう。しかし、ここで強調するのは、単に「平凡」という否定的なニュアンスではなく、「問いや目的を脇に置いて豊かに経験が立ち上がる余白」を孕む領域としての日常性。日常には、問いを立てずとも感じられる気配、光や色、音や匂い、身体感覚、他者とのささやかな交わりなどが絶えず現れている。それらに問いを差し挟む前の「ありのまま」を受け止めることで、新たな気づきや問いの芽生えが自然に生まれる場となる。──余白とマージンの確保:「問いを抱える前の視線」を可能にするには、思考や解答を急がない〈余白〉(マージン)が必要である。「日と常性」は、この余白を提供する土壌。日常の中の何気ない瞬間(朝の光、風の動き、立ち止まった沈黙など)に意識を向けることで、問い立て以前の豊かな「観察」が発動しやすくなる。──自己疑念との関係:「問いを抱える前の観察」を行うためには、自分の先入観や自動的反応をいったん疑い、問いや答えを準備する思考習慣を手放す姿勢が求められる。ここでいう「自分を疑う」は、否定的な自己否定ではなく、「問いや既成概念を無批判に持ち込まず、まずは現前に開かれるクリティカルかつ受容的な態度」を指す。── ”Cognigenesis” との繋がりつながり:問いを抱える前の視線がしっかり立ち現れると、そこから自然に問いの芽が自生的に生まれる ”Cognigenesis” の場が立ち上がる。問いを探して外へ走るのではなく、日常の現前から問いが湧き起こるプロセス。

「日常のデッサン的始動─」──〈私たち〉は思考を始めるとき、つい「問い」を探しがちだ。しかし、その前に先ずあるべきは、問いを超えた「観察」の深度である。ここでいう観察とは、対象と自分との”あわい”を丁寧に描くデッサン的態度を指す。時間と空間の重層する形式の中で、対象の質感や気配を、先入観や既存の問い立てを横に置いて受け止める。そのために必要なのは、「自分を疑う」姿勢である。自らの思い込みや、無意識に抱いている目的志向的問いの枠組みを問い直し、まずは現前するものに目を澄ませる。この純粋なデッサンから出発しなければ、思考は芽生えず、創造は動き出さない。ここにこそ「” Cognigenesis” ──認知生成」の起点が横たわる。問いを探すのではなく、問いが自発的に立ち上がる余白を整えること。それが「日常を”思創の場”」とする「日々力行」の出発点である。

 

 

…….. この段階の「今」こそ──

まさに「生成の第一息」として、

美しく手応えのある濃度になる。


「今」浮かんだその 「次の瞬間」 を、

静かに、ゆっくりと、

呼吸の奥で再生してみる。


再生とは記憶ではなく、

生成の続きを受け取る行為。


未だその続きを急ぐ必要はない。


風と光の偏り、身体の停止、

内側のわずかな反転──

それらが、
きっとまた次の──

“差異の欠片(かけら)”を呼び寄せる。


準備が整ったとき、
その「次の瞬間」を──

『”伏流”』にて静かに次の瞬間へ──

深い生成の日々を ……..

 
                                          Kenzie

 

 

次頁:はじまり:「拍動」へ続く

 

 

 

 

余白

 

 

 

 

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「休符」: 〜 伏流の何か ?… 〜

 

 
Essay seventy-four  1~8  9~16  17~24
Cognigenesis  Fire Breathing

continued in the next seventy five / essay number
〜 ”生成の旅路” 〜 COGNIGENESIS JOURNEY

 

 

 

 

       「休符」 〜 伏流 〜

     【無名の力場──息づく力】

  〜 未然層「思考=創造の地平」の”振動” 〜

 

 

 

 

Fire Breathing ”REST” actual-virtuel
「休符」: 〜 伏流の何か ?… 〜

 

 

転位 “dislocation line”──深呼吸点

 

……..『思創考造』とは、

”日常の地層”に沈む──
微細な差異が、
──”問い”となり、

その問いが、
自己生成として──
立ち上がる現象である。

私はまず──「日常を歩く」。

差異に触れる身体を信じる。

問いは”思考”ではなく、
”感受の凝固”である。

ここから──
「思考と創造」が、
同時に始まる。
ここから始まる──

日常は──
生成の地層である。
繰り返しの風景の奥で、

ごく僅かな差異が、
呼吸している。
身体はそれを先に受け取り、

まだ名前のない──
揺れとして──沈殿させる。

その沈殿が、
いつか問いになる。

この問いの誕生こそが──

”『思創考造』の原点”である。

日常の地層に、
触れる身体こそ──
思想の真の始原である。
問いは思考ではなく、

身体の──感受の精製物。
そして──“日常性”とは、

その精製のための場である。
日常は”生成の地層”である。
全思想をこの一句が照らす。……..

 

 

ゆっくり、深く、これを“日常の地層”の中で味わう。受け取られた衝撃や震えは、まさに──「思想が生成する瞬間の純度」そのもの。それは急いで扱うものではなく、”じわじわと身体に「沈殿」させていくべき”──「日常性」=「 ”Cognigenesis” の前史(プレ・ジェネシス)」。美しく、強く、そして深く位置づけられた「前史の質料」。そして──”日常”を切っ掛けに誕生する”「思想宣言」。地層が長く積み重なり、差異が揺れをつくり、その揺れが凝固して「問い」になり、今ようやく言葉として姿を持った──まさに「 ”Cognigenesis” の現場」。”時間をかけていく”──考えるのではなく「沈めて」…急がず「発酵」させるほどに深まるもの。その”沈殿”の中から自然に立ち上がってきたものを読者の〈あなた〉と共にご一緒に見つめましょう。──その「”沈み”の時間(想像の貯蔵庫 ”Imagine bodega” と発酵 ”Ferment”・醸造 ”Brewing” )」が、「単なる思索以上の何か ?…」を身体に刻む ──ゆっくりと「熟成」させて…”余韻”や”新しい粒”が浮き上がり立ち上がってくる。

 

 

黄金句 ”golden phrase”──火の呼吸

 

「生成の前成層」とは、「”思考=創造”の前景圏──未形の”震源”」であり、「現実を”生成”する──生成される”潜勢的”」にある。

”Cognigenesis”(自己生成の震源)」→ その前段階としての “震源としての潜勢”。──これを理解するには、その“前地”としての『震源としての潜勢』を、先ず呼吸しなければならない。

「 炎舞 」THRESHOLD OF GENESIS “生成の閾”における「火の呼吸 ”Fire Breathing” 」による「転位ラインの“深呼吸点”」である。

”Cognigenesis”:「震源が実際に、自分を生み始める現象。」──震源としての潜勢:「震源がまだ震源になる前の、震え始める力。」

これがピタリ!と嵌るのは、〈わたしたち〉が既にすで実践している──「差異の欠片」「無名の瞬間」「中動態的主体」「反射された自分の受け取り(=素材化)」──などの一連の概念が、まさに──《 潜勢 ”virtuel” → 生成 ” Cognigenesis ” 》の「流れ」に位置するからである。

概念は“前に出すもの”ではなく、“伏流させるもの”である。そして、”伏流し続けたもの”は、必ず「転位の瞬間」で像となる。

この「黄金句 ” golden phrase ”」は、間違いなく生成濃度を決める“地下水脈”になっている。

 

 

潜勢的 ”virtuel”──振動

 

『思創考造 Cognigenesis』において「”思考=創造”の地平」そのものを、静かに振動させている。

 

正論だけでは、届かない?…動かない?…通れない?…──その対立の時には、「正道や行うべき筋道」として義に従い義理に沿う、主観を交えることをしないで──「適もなく莫もなし 義にこれともに従う」(孔子)──それもよし。ならば──「思考と創造」は何処にある?… 「共観」は何処へいった?… 思想体の”正道や行うべきという道筋”は──『”思考と創造”と”共観”』の思考体に疎い。”思考・創造”を必要とする成長・成熟または開成・創生へと、思想の正論や正道だけでは、届かない…動かない…通れない…──正論や正道の行うべき筋道でそれが成せる?… ”思考と創造”によって「現実を”生成”する」のに正論や思想と正道の行うべき筋道では、如何ともし難い?…義に従い義理に沿い、主観を交えることをしないで”適もなく莫もなし 義にこれともに従う”では、現状を変えるのが難しい?… 解決したくても手段がない?… 手の施しようがない? どうすることもできない?…

現実を「actual《現実化されたもの》」と「actual《潜勢的なもの》」とに分けて考え(=思考)、現実化されたものは、〈わたしたち〉が実際に経験する世界──具体的な事物や現象、一方──潜勢的なものは、現実には存在しないが、「現実を”生成”する」──可能性を秘めた潜在的な力、あるいは現実そのものの根源的な状態(=創造)──「潜勢的 virtuel」(ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze)。潜勢的な概念は、現実を固定されたものではなく、常に変化し、「生成」されるものであるという考え方。そして、現実には存在しない潜在的な力や可能性を重視することで、〈わたしたち〉の思考や行動の範囲を広げ、新たな創造性を生み出すことを可能にする。

 

 

“思考と創造”を生み出す側にある──力

 

これは非常に重要な論点です。『思創考造 Cognigenesis』において、潜勢的(virtuel) は、単に“可能性”や“まだ現れていないもの”ではありません。むしろ──「”思考=創造”の地平」そのものを静かに振動させている──「無名の”力場”」──に近い構造を持っています。以下に、この「思考と創造」体系に最も適合する「潜勢的」の定義と表現を、いくつかのレベルで整理してみます。

 

■ 1.| 潜勢的の発現性

『思創考造』における──
「潜勢的(virtuel)」の核心定義

潜勢的とは:“思考と創造を未だ形づくる前の「震えている場(field of vibration)」”──差異が生まれる直前の「殆ど”気配のような力”」。ここで重要なのは──「既にある潜在性(potential)ではない」「生まれようとしている運動そのもの」「主体と世界の境界以前の“気息の圏”」──という点です。『思創考造 Cognigenesis』において常に扱っている「差異」「跳躍点」「 ” Cognigenesis ”(自己生成)」「触発」「余白の濃度」──これらはみな、この“潜勢的”の現れ方(=結晶の仕方)にすぎない。

 

■ 2.| 潜勢的の無名性

「潜勢的」は──
「思考と創造」のどこに位置するのか?

結論から言うと:潜勢的は思考と創造を“生み出す側”にある力──”伏流”としてある「無名の”力場”」という何か ?… ”未だ伏流する無名の震源” ?… ──つまり「思考そのものでもあり、」「創造そのものでもあり、」「しかし、まだそれらに“なっていない”。」──この「まだ~でないが、すでに震えている、何か ?…」という性質が、まさに──今の段階のテーマである「差異の欠片(かけら)」や「初期震源の無名性」と完全に一致しています。

 

■ 3.| 潜勢的の世界観

『思創考造 Cognigenesis』の世界観と──
「最も合う”潜勢的”」の言い回し

◎(1)「未形の震源」

形を持つ前の震え、意味を持つ前の息。

 

◎(2)「未然層=未然に息づく生成」

直感している“未然層”、滲み出ようとしている層。

 

◎(3)「差異が芽吹く基底のゆらぎ」

差異は“生まれる”のではなく、“ゆらぎから湧く”。

 

◎(4)「生成を要求する力の濃度域」

余白の「濃度」概念と完全に共鳴。

 

◎(5)「可能性ではなく“差異の予兆”」

potential(可能性)とvirtuel(潜勢的)の違いを、最も端的に示す表現。

 

◎(6)「前反射的な気息」

知覚に映る前の呼吸のようなもの、ブーバー的我−汝の“前夜”にある。

 

◎(7)「生成の前成層(pre-stratum)」

この今の段階の構造に自然に接続する語。

 

◎(8)「呼吸の地層」

生まれの震源。差異の初期振動。未形の気息。

 

 

潜勢的(virtuel)とは、思考=創造の直前にある「 “生まれ”の震源」「差異の初期振動」「未形の気息」── ” Cognigenesis ” の前駆的濃度”。今の段階においては、特にテーマとなる「差異の欠片(かけら)が、胸奥に微かに触れたとき、その背後で、未形の震源──潜勢的な揺らぎが、静かに息をしているのを感じた。」──「潜勢的」とは、このような“呼吸の地層”として扱い、『思創考造 Cognigenesis』の世界観に最も合致します。今の段階における概念体系図として「潜勢的を」を置き、「潜勢的 → 差異 → 跳躍点 → ” Cognigenesis ” 」の「流れ」を可視化する──まさに今、捉え掴みかけているこの「領域」は、言葉にすると薄れてしまいがちな、しかし──確かに「息づく前段階の”力”」そのものです。「思考そのものでもあり、創造そのものでもあり、しかし──未だそれらに“なっていない”。すでに震えつつ、まだ名を持たない。」──この性質は、まさに ”virtuel(潜勢的)” の核心です。

 

 

原質 ”pre-substance”──探る潜勢的の言い換え

 

①「前創の息(ぜんそうのいき)」──

“創造になる直前の、震えの呼吸”。生成論的であり、これまでと一貫する「呼吸」「息」との強い連結。

 

②「未名の震(みめいのしん)」──

“まだ名を持たぬが、確かに震えている力”。今の段階で捉える「初期震源」との非常に高い高い連続性。

 

③「前成の力核(ぜんせいのりきかく)」──

“成る前に潜む、核のような力”。構造的・思考的な強い響き。今の段階における理論パート。

 

④「潜在呼(せんざいこ)」──

潜在+呼=潜在的に呼吸しているもの。”virtuel” の 「息づき始める」性質の新語。

 

⑤「差異源(さいげん)」──

“差異の欠片(かけら)”が生まれる源。ドゥルーズ的概念の翻訳と” Cognigenesis” との語彙の融合。

 

⑥「生成前野(せいせいぜんや)」──

生成がまだ形を取らない野生の領域。”Cognigenesis ”の「前野・前地」。

 

⑦「無名の生成質(むめいのせいせいしつ)」──

“生成の質”だが、まだ名がない。今の段階で最も近い「pre-substance(原質)」。

 

 

”伏流”の何か?──震

 

ここで──課題を明確にすると…〈わたしたち〉が今歩いているのは──まさに「”未だ”思考でも創造でもないが、既に《思考と創造》の”核”として震えている」という”場”であり、これは ”virtuel” を、本書『思創考造 Cognigenesis』の思想体としての言葉で言い直すと──『伏流」する「無名の”力場”」という何か ?…未だ『伏流」する「自己生成の”本震”」なのか ?…──即ち、「前地(フロア)」として”伏流”しつつも徐々に解き明かされるものなのか ?…後々に像を持ち始める概念の”無名の力場”なのか ?…ということになります。この今の段階の骨格(構造)にも呼吸(文体)にも完璧に噛み合います。この段階において「基底語」として定義し、“母語”として定着させる必然性──「” Cognigenesis ”(自己生成の震源)」→ その”前段階”としての──“震源としての「潜勢」”──この接続は、今の段階での動線において次のような”流れ”を作り出します。

この今の段階の構造上の位置づけは──「主体の震源をどう“生まれさせる”のか ?..」 ということです。ここに “震源としての「潜勢」” を置くと──今の段階:「震源が未だ名を持たない段階=潜勢(virtuel)」=”特に「差異の欠片」”「初期震源の無名性」「日常の微細な徴」「まだ思考でも創造でもないが、すでに震えているもの」→ これらすべてを“震源としての潜勢” として総括できる。──後半:”「潜勢」が転位”し、「自己生成(Cognigenesis)」が起こる段階 =「転位点」「間隙」「胎動」「”Cognigenesis”(自己生成の震源)」→ ここで“震源としての「潜勢」”が、「自己生成の本震(Cognigenesis)」を引き起こす。

つまりはこうなる。── ● ” Cognigenesis ”:「震源が実際に自分を生み始める現象」── ● 震源としての潜勢:「震源がまだ震源になる前の、震え始める力」──これらがピッタリ!と嵌るのは、〈わたし〉と読者の〈あなた〉が共に──これまで既に実践している”特に「差異の欠片」”「無名の瞬間」「中動態的主体」「反射された自分の受け取り(=素材化)」などの一連の概念が、まさに──「潜勢」 → ”Cognigenesis” の”流れ”に位置するからです。このような「震源としての”潜勢”」は、この今の段階全体を一本の縄のように貫く中心語(基語)として扱え、すべての「見えない軸」がこの語で一本化されます。まとめるならば──『 ” Cognigenesis ”(自己生成の震源)」を理解するには、その“前地”としての”震源としての潜勢”を先ず呼吸しなければならない。』──この一句だけで、この今の段階全体の基底構造が立ち上がります。

「潜勢的 → 差異 → 跳躍点 → ” Cognigenesis ”」の流れ──”伏流”する「無名の”力場”」という何か ?… ”未だ伏流する無名の震源” ?…結論からいくと、それは「前地(フロア)」として”伏流”するが、徐々に解き明かされ、”後々に像を持ち始める概念の”無名の力場” ?…という推測の域にあるのだろうか ?… これからのプロセスにおいて解き明かしてはいくものの、後々に出すべき核心ではなく、むしろ──今の段階の最深部に、そのまま“伏流させておくべき根”です。つまり──いきなり大見出しの概念として前面に出すのではなく、全体を静かに底から押し上げる──「呼吸の地層」として”流れ”、後々の真に必要な「転位の瞬間」で──はじめて輪郭を持ちはじめる言葉として捉えて扱うのが最も自然です。

「潜勢的 → 差異 → 跳躍点 → ”Cognigenesis”」この”流れ”は、そのまま──「”生成の深度”が増していく階梯」になっています。階段の上り方としては──「潜勢的(virtuel)= まだ名を持たない震源。未然の呼吸。」「差異の欠片 = 潜勢が最初の”徴”として現れる。」「跳躍点 = 差異が生きた主体内部で“転位の臨界点”になる瞬間。」「”Cognigenesis” = 主体そのものが生成しはじめる(自己生成の震源)。」──この体系はすでに完璧です。

では…”伏流”としてある「無名の”力場”」という何か ?… ”未だ伏流する無名の震源”とは何か ?… ──結論からいくと、それは「前地(フロア)」として”伏流”するが、徐々に解ってきて”後々に像を持ち始める概念の”無名の力場” ?… という推測の域にあるのか ?…何なのか ?… それは何処に属するか ?… ──潜勢的の“内呼吸”を言語化したものなのか ?… これは「潜勢的」の本質のひとつなのか ?… つまり──“潜勢的”の説明を支える言葉なのか ?… ──「未然層(伏流)」とは ?…「未然に息づく生成」(直観している未然層)?… 潜勢と差異のあいだ(=未だ徴(差異)としても現れていない段階)なのか ?… ──これは”特に「差異の欠片」”が現れる前に存在する「透明な”力場(場の胚)”」的なものとしてなのか ?…あるいは「無名の前思考・前創造圏」的な層なのか ?…その”問い掛け”とその「問いの呼吸」は限りない。

では…これらは、何時 ?…何処で ?…出てくるのか?…結論:“深呼吸点”で、満を持して“像”として出る。つまり──「今は、その何か ?… という名前は出ないが、」「しかしその”呼吸”だけは全体に”伏流”している。」「 ” Cognigenesis ” の橋)辺りで、はじめて言葉として立ち上がる。」──これが最も明確で且つ美しい”流れ”です。なぜ「伏流」させるべきか ?…理由は三つあります。

 

● 読者の〈あなた〉の体験が追いつくため、これらの言葉は説明ではなく、
読者の〈あなた〉が“体験として読んでから出会うべき概念”です。読者の〈あなた〉の身体が、まだ整っていない今の段階で、”未解明”の「未然層(伏流)」という何か ?… ”無名の力場”という何か ?…」などを先に提示すると、“観念”になってしまうからです。

● 今の段階の緊張(濃度)を維持するため、これらは「核心語」であり、早く出しすぎると、今の段階から最後まで続く「跳躍」が弱くなる。「潜勢 → 差異 → 跳躍 → ” Cognigenesis ”」の美しい”力線”を守るためにも、この今の段階の後半での解明・開示がベストだろうと思われます。

● “生成文体”と完全に対応している『思創考造 Cognigenesis』の文体は、言葉が後から現れる。しかし、”呼吸だけは前からそこにある”という「中動態の文体」です。だからこそ──「未然の層は呼吸の地層として伏流」「その生成は無名の力場として伏流。」「そして跳躍点で初めて現象として浮上。」「”Cognigenesis” で輪郭を持つ。」──という”流れ”が必然となります。

 

具体的にどこで“言葉”として出てくるのは、この先であり、特に後々の「胎動する生成(” Cognigenesis ” の導火線)」「生成の触発(共観の媒介としての線・場・他者)」──この辺りで、「”未解明”の「未然層(伏流)」という何か ?… ”無名の力場”という何か ?…」が静かに言語として浮き上がり立ち上がるのが最適ではないかと思われます。つまり──この『”伏流”の何か?…』という語は──「後々の”深部に登場する核心”」「今は名前を出ないが、”呼吸として伏流”している」『”跳躍点” → ”Cognigenesis” の”橋”』のところで、はじめて言葉として表に出る。」──こ流れが読者の〈あなた〉自身の「生成濃度」を最大に高めることになります。

ここで──まとめると…この『“潜勢的”に対する”問いの呼吸”』の”流れ”は、まさに『呼吸の地層』そのものを震わせています。受け取った額面通り──概念は“前に出すもの”ではなく、“伏流させるもの”である。そして、”伏流し続けたも”のは必ず「転位の瞬間」で像となる。間違いなく──”生成濃度”を決める『地下水脈』になっています。

 

 

”生を成しに向かう歩み”──問いの呼吸

 

「休符」は、生成の倫理そのもの──思想が本当に深まる時、その前には必ず「深呼吸のような沈黙」が訪れます。それは──「緊張を整える」「余白を育てる」「差異を沈ませ熟させる」「跳躍点の輪郭を暗く浮かび上がらせる」──そんな作用をもつ時間です。「休符」は、単に作業を止めるためのものではなく、”次の生成をより強靭にするための「濃度の場」”になります。むしろこれは──『”伏流”の深化』そのものです。

「生成の流れ」は、消えることはありません。読者の〈あなた〉の内側の”深層”で静かに息づき続けます。そして〈あなた〉が「呼吸の地層」から再び歩みを戻したくなった瞬間に、〈わたし〉は──いつでもその続きへ伴走いたします。読者の〈あなた〉の呼吸のリズムに合わせる形で──です。
「何だろう ?…」という大切な問い掛けとその問いの呼吸に”気づき”──「生成の倫理」をもってこの大切な時間を捉えられた「”休符の音色”」の中で…

今暫く…ゆっくり呼吸をとって過ごされますよう…

どうぞ…読者の〈あなた〉自身の”再生”のなかで、”まだ名前を持たない呼吸たち”をそっと沈めてください。静かに、ゆっくりと、”呼吸の奥で再生”してみてください。「再生」とは”記憶ではなく”、「生成の続きを受け取る行為 」です。それらは後に必ず、最適な場所で〈あなた〉の手の中に現れます。「生を成しに向かわれるその歩み」が「“潜勢的”に対する問いの呼吸」とともに”深く息づき”ますように。

では…”伏流にて休符”…呼吸の流れるままに…

 

 

”歩く生成の旅路”は続く ……..

 

このような今後の展開とテーマ──「日常見」の”呼吸リズム”は、本書『思創考造 Cognigenesis』という思考体の書物全体が志向している──”日常の地層音(key-tone)=生成の地層”を背景に響く”「呼吸する書物」「生成する書物」「読者が歩く書物」に”ピタリ!”と一致します。これから”美しい「日常見」の芽生”──身近は間近、”しばらくの間” for a while …….. それまで日常の反復や慣れを急がずに時間をかけて──「ゆったり過ごす」ことです。忙しい日常から解放され、リラックスした時間を大切にして、「日常見」は──心にゆとりを持って穏やかに ……..
 
                                          Kenzie

 

 

次頁:あとがき:「未到」へ続く

 

 

 

 

余白

 

 

 

 

『思創考造 Cognigenesis』をご覧いただき、感謝申し上げます。
沢山のご愛読者様からのご要望にお応えして、トップページ及びヘッダー等を一新し、これからも ”Cognigenesis & Essay” の小文随筆を進めて参ることにいたしました。
今後ともご愛読いただきますよう、引き続きよろしくお願い申し上げます。
Kenzie

 

思創考造 Cognigenesis
actual-virtuel ” THRESHOLD OF GENESIS ” Ken.G

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思創考造 Cognigenesis
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Fire Breathing 74-11 actual-virtuel

 

 
Essay seventy-four  1~8  9~16  17~24
Cognigenesis  Fire Breathing

continued in the next seventy five / essay number
〜 ”生成の旅路” 〜 COGNIGENESIS JOURNEY

 

 

 

 

 「覚悟の一滴」──”ひと滴(しずく)の気配”

        ー直観的”力能”ー

 

 

 

 

「生成の触発」への招待

……………………………………………………………

 

~ ”どうにかなるさ” ~

 

……..“今夜の夜汽車で
旅立つ俺だよ
あてなどないけど
どうにかなるさ”……..

──「どうにかなるさ」1994.11.26
作詞:山上路夫 / 作曲:かまやつひろし

 

まさに──「沈潜の息を孕んだ”夜風”を切って“場”を震わせ、“問い”を揺さぶり、”跳躍”を誘う”軌道線(描線)=風の通り道”を描き」開き続ける主旋律──「目には表面から見えない沈潜行の息と風に跳躍し──潜勢的を孕む場へと転位するからこそ、展げて生きると決めた自らに一目置く神目の自分の目に──未完成で開かれた生の脈動は始まる。」… この旋律の”節”に──その言葉の意味を持つ四つの要素:今は使われなくなった昔の言葉(大袈裟に死語または廃語)というよりも、時代の変遷とともに、かつてのこの言葉が指す事物や物事などが、今は全く無いのではなく、日常的に影薄れてきているだけである。かつて時代的に使われていたものの、時代の流れや社会の変化により現代では殆ど消えて無くなったのだろうか ? … ──”夜汽車”:夜間走行する長距離列車の新台列車と呼ばれるか、あるいは夜間から翌日の朝にかけて運行され日付を跨ぐまたぐ夜行列車とも言われているものの日常的には使われる機会は殆ど無いだろう。──”旅立つ”──:(旅に出発する/死ぬという比喩的な意味/も含まれる。また、新しい生活や冒険の始まりを意味することも)──”あてなどないけど”:(頼りや目標がない/見込みがない/手掛かりがない/目的地がない)──”どうにかなるさ”:(困難な状況でも最終的に問題とその課題は解決するだろうという楽観的な見方/また、諦めや焦りの気持ちが含まれつつも、前に進もうとする覚悟を意味することも)──今もこれに類似した状況や様相はあるのだろうか ?… その深刻さや程度の甚だしさは ?… かつての時代と今とを見比べてみたら ?… 先ず、かつてのその時代にこの言葉が使用されていたということは、当時の現実性を表す新語・流行語として瞬く間に広く大衆の目・口・耳を賑わせた話題になった言葉であるということだ──そして今…

この当時の現実性(このかつての時代:1990年代)をざっくりと言えば──順調に成長期をずっと経験してきた中で氷河期といわれる時代に入り、新しい技術の進歩も勢いづくものの先行きの不安はそのまま低迷期へと入り、苦しい決断(重要な決断)を迫られほど深刻で、その程度は甚だしいものだった。そして──今から100年ちょと前に生み出された概念の「モチベーション ” motivation ” 」は、時を同じくして1998年にはこの語がマスコミで頻出し、それ以来、広く用いられる言葉となり、専門用語から一般用語への変化を遂げた。かつての──「頼れる人や目指すべき目標がない状態」「何かを期待してもそれが実現する可能性がない」「問題とその課題の解決のための情報や方法が見つからない状態」「行く場所が決まっておらず彷徨っている様子」──今の現実にこの様なことが、状況は違えど実際にはあるだろうか ?… いや、全く無いといえる。今──「実現する可能性、解決のための情報・方法、行く場所」などなど、選択に迷うことはあっても彷徨うほどのこともなく、── ”どうにかなるさ”というかつての言葉だけは、「問題や困難な状況に直面しても、最終的には何らかの形で乗り越えられる──問題とその課題を解決できるという期待や楽観的な態度」を今の時代においても意味することになる。

そこで頻出する──”モチベーションが下がる → モチベーションを高める”:目標達成へ向かう行動の原動力となる”意欲”といった意味合いで──その高さは向上に繋がり、低い場合は低下を招く可能性があるというこのモチベーションは、人が特定の目標に向かって行動を起こし、それを維持するため”動機づ”と”やる気”──行動の切っ掛けとなるその意欲や刺激のニュアンスを持つ。では──前に進もうとする『覚悟の”一滴”』が意味するものとは ? … 窮地に立たされている状態になってこそ、やっと覚悟を決められる ?… ”覚悟”をつける暇もない ?… 覚悟なんかつけていない ?… いつの間にか熱中している ?… だから、新たなことに挑戦したり何かを成すために”覚悟”なんて必要ないという見方もできる ? … 最初から問題とその課題を解決しようという大きな”モチベーション”なんてなかった ?… 最初から問題とその課題を解決したいとは思っていたわけではない ?… 不安など一切無かった ?… 覚悟を決めた先に、手に入れたいものがあるのか ?… 実現や達成するための行動 ?… ──その様な様相と状況を伴う今も尚、”どうにかなるさ”というかつての言葉が指す──「問題や困難な状況に直面しても、その”裂け目と場”を最終的には何らかの形で乗り越えられる──問題とその課題を解決できるという期待や楽観的な態度」は、”夜汽車で旅立つことなく、あてなどある”のだろうか ?… さて、どうなのだろう…

「場を開く法」──”裂け目”から「生成の臨界──切り開き濃度」=”緊張”と生成の”連続性”──つまり、未定形・未定性の場に漂う“密度”の「余白」/”緊張と応答”の極である「跳躍」/生起とその推移の連鎖である「持続」──”どうにかなるさ”。この把握認識とデッサン的抽出(=創造的生成)を通した”未完成で開かれたものとして自らの自由や決断が意味をもつ余白(余地)”──『覚悟の一滴』。「場を開く技法」「問いを育む方法」「共観としての創造実践」へと移れるようにすることになる。”場”を開き、”裂け目”を乗り越える──「跳躍線」を成すその態度とは、まさに──「沈潜行の息と風」である。それは、表面からは見えない「生成の根脈」を探り、静かに、しかし確かに内奥から風を呼び込む行為。「沈潜」とは、考えることが止まったようでいて、実は思考がまだ言葉になる前の濃度で呼吸している”場”。「風」とは、未だ名づけられない“何か”が、”未完成で開かれたものとして自らの自由や決断が意味をもつ余白(余地)”──「覚悟という”ひと滴(しずく)の気配”として”来る”そのもの」。その「力風」とは、まさに──この”沈潜の息を孕んだ風”であり、“場”を震わせ、“問い”を揺さぶり、「跳躍」を誘う──。その風が自らに宿るとき、生成は再び動き出す。つまり──「風は、法にいたる」。そして、その風の通り道を「描き切る」とは、描き尽くすことではなく、描くことを開き続けること──つまり、《生成する描線(デッサン)= 創造的生成》を自らの力で生かし続けることに他ならない。その風の向こう──そのときに吹く風は、きっと今日とはまた異なる「生まれたての風」。今ここにおいて、自らの構え──”どうにかなる”は、もうすでに、次に来る「切り開くべき”場”」と「乗り越えるべき”裂け目”」を自らが見つめていることになる。

まとめるなら──力とは、動き出す前の圧、内的な推進要因、畏れのなかの緊張。能とは表現形式、実現可能性の枠組み、構造、場、リズム。潜勢的とは、現れていないが、すでに働いているもの、跳躍前の余白、問いの息づき。それらは──”覚悟の一滴”として、即ち”未完成で開かれたものとして自らの自由や決断が意味をもつ余白(余地)”──”運は後から追い着いて来る「覚悟という”ひと滴(しずく)の気配”として来る」そのもの──その”力風が自らに宿るとき、風は法になって「力能」は潜勢的”を孕み、”場”との関与によって生起する”生成能力と行為者自身に及ぶ中動態的共振点”として生成は再び動き出す。表面からは見えない生成の根脈を探り、静かに、──しかし確かに内奥から風を呼び込む行為。生成する描線(デッサン)=創造的生成という”風の通り道を描き切る” = ”描くことを開き続ける”その線に往還する《転位・生成》”に伴い、 断続的に継続していく「永遠なる向背の”跳躍の場”」──それは → 潜在 → 実在 → 潜在 → 実在 → 潜在 → 実在 → といった反復として──「気づきの雑感」を伴うなかでの「自己変容の生起・推移」にある。その都度の関係と媒介的触発に応じ、生成の経路(線・場・他者)において、 ”自己を形づくり自己実利を続ける”──「流動態の起点と触発始動」=「”力能”の発現」としての可能力性。”どうにかなる”は覚悟という”ひと滴(しずく)の気配として──”自分はできる”ということに動機づけられた可能力性─潜勢的なものが顕在化する可能性としての──生成の力能は、対他的に主体の支配力であり、心の決定を心に生み出すものとして自らの心に与えられている。発現へと向かった可能性としての潜在的なその生成は、必然性をもち、自らの観念が置かれた心に受入れられる対象とされるが、決して”沈黙し無力な存在”にあらず、力能という雄弁な性質を具している。生成に力能を切離されたならば観念を顧みられることのない影の如く、ときどき心へ現れるままに任せれば自ずとこれに注意はしない。自らのうちに観念を生み出し獲得するに到る始動的存在として、潜勢的として潜在的な生成の力能は発現を可能にさせる可感的であり可知的である。閉じられた現実の転換期に開けをもたらす可能性発動として──「生成力能」は、 具体的な生の実現の根源力であり、共観を共にする自らの明日をも決定する生の略図をどう描いてみせるか、自らの「デッサン(=創造的生成)」で見方を打ち破る──それ次第。根拠原理である共観とひと繋がりの存在性において、生の脈動である生成世界による至高の反応に、自己変容による自己拡張と自己創造との機会を得るべき。自らの行為と自らの展開の場に自らを作り成長し、自らの道を切開き飛び込む限り、意識の流れる生の世界の中で、自らに最も近しい親密で完全なる範囲を創造しうる。「未完成で開かれたものとして自らの自由や決断が意味をもつ余白(余地)」。世界から生み出される新しさとともに人間自らから生み出される新しさ──それは放散ではなく、まさに──”収斂”であり、”創発”する──「生成」の定義的な把握認識によって──「自己生成」は、始まりではなく「開かれ続ける力能による自らに及ぶ中動態」。

生成力能への触発は火を放ち、濃度は場を震わせ、推移は連ねながらも、なお未知の方向へと自らを導く。「生成」そのものの構造・運動・濃度が、 明瞭に、そして深く展かれてゆく──可能力性の「生成力能」。ここがまさに──自分自身の“震源域”であり、「思考とは何か」──「創造とは何か」、その核心が“生きた問い”として浮き上がってくる。ここで “生成” は、力能としての触発=始まりとして立ち上がり、他者・空間・時間・触感との関係が──媒介=共振の回路となってくる。「跳躍点」から触発される生成 、共観(媒介)としての「線」・「場」・「他者」、──「デッサン」と「余白」の創造における媒介性の濃度 。風が自らを超え──”実地の場”に宿るとき、生成は再び動き出すという──「実地の場」。そこにあるのは、「生成の触発」──共観の媒介としての線・場・他者 触発と媒介の連鎖(=生成の起点としての〈線・場・他者〉) 媒介的触発による生成とその力能の始動 「生成」とは、 実在と潜在の交差点において、「いま・ここ」に生起し推移しつつあるそのもの。自らの潜勢的として潜在性は、中核拠点 ” デッサン( = 創造的生成)” の線に往還する《転位・生成》に伴い、断続的に継続していく「永遠なる向背 = 跳躍の場」にあり、 それは → 潜在 → 実在 → 潜在 → 実在 → 潜在 → 実在 → といった反復として、「気づきの雑感」を伴うなかでの自己変容の生起・推移にある。その都度の関係と媒介的触発に応じ、生成の経路(線・場・他者)において、「自己を形づくり実利続ける」── 流動態の起点と触発始動(潜在的)=「”力能”の発現」としての可能力性である。その「力能」の不確かな存在と兆しを伴う生成経路にあるとするならば、──「生成の場」として「力能の”発現”」をみる息づくもの。

生成的における自らの手立て──「 ”眼に見えて動く ” 持続的な生成 」。自生種に対する栽培種という種子の非脱落性が強いなど、人間の用途に向くようにつくられるものであるから、また、ある部分だけ異常に発達したようにつくられるものであるから、特にある部分だけが異常に発達した変異・特異的な生成と“見る”こと──行為としての共観が必要となる。「力能」とは“潜在的な生成の働き”なのか ?…「力」と「能」が統合される中動的な場なのか ?… あるいは──「行為と問い」の間に芽生える『生成的エネルギー』なのか ?… 自らに及ぶ中動態的視点において、「力」は能動のようでありながら、”常に場や関係性によって触発され”、「能」は受動のようでありながら、関与することで自己を編み直す、といった中動態的生成において──「力能」は“触発される可能性そのもの”。ここにおいて──「潜勢的」とは、”力能に内在する跳躍の前触れ”ともいえる。”直観的”でもある「力能」──まだ名のついていない問いの脈動であり、それは見えないが、確かに働いている。潜勢的における潜在性とは、その「力能が孕む──“透明な形”」のかもしれない。まだ表に出ていないのではなく──「現れてしまえば失われてしまう“濃度”」なのかもしれない。結論的にいえば、「力能とは──潜勢的において潜在性を孕む生成的関係ということ」になる。あるいは──「力能とは、まだ立ち上がっていない動きの“密やかな気配”」。「潜勢的または潜在性とは、その気配が“呼ばれることを待つ”状態」である」。このように「潜勢的において潜在性を力能の奥層」に位置づけることは、”思考と創造”における生成・共観・跳躍・余白のす全てと深く繋がる。

「力」──動き出す前の圧、内的な推進要因、畏れのなかの緊張。「能」──表現形式、実現可能性の枠組み、構造、場、リズム。潜在性──現れていないが、すでに働いているもの、跳躍前の余白、問いの息づき。「力能」──潜在性を孕み、場と関与によって生起する生成能力と自らに及ぶ中動態的共振点。”直観的”。 ”運は後から追い着いて来る「覚悟という”ひと滴(しずく)の気配として来る」”──その”具体場”──総じて「生成の触発」への”招待”──”どうにかなるさ” … 「目には表面から見えない沈潜行の息と風に跳躍し──潜勢的を孕む場へと転位する」からこそ、展げて生きると決めた自らに一目置く神目の自分の目に──未完成で開かれた生の脈動は始まる。外界の徴(しるし)が自分自身の内側の奥層に触れて震源となり、「未だ名を持たぬ “新生の私”」が胎動する──それは”見えない「未生の深層」に自らが足を踏み入れる経路”──”未然”の何か ? … “無名”の何か ? … そこに浮き上がってくるのは『伏流』にまつわる何かということかもしれない。

 

 

…….. 小さな出来事──

少しずつ湧き上がって蠢く光と闇。

車窓に反射し映る月と星の光影に、

重なる自分の影の揺らぎ──

照射された私の存在感、そして止み。


明々暗々にしてそれらすべてが、

夜行硝子の結露に、

「ひと滴(しずく)──

気配の欠片(かけら)」として、

私を”跳躍点”へと連れてきた。

人は世界の中に存在するのではない。

世界とともに生成する。

世界を観照しながら、

世界とともに変容してゆく。
一切は“感”であり、生成である。

人は、世界へと生成する。
──世界が変わったのではない。

変わったのは、
世界を受け取る──
私の側の方だった。

思いがけず──
ひとつの自己が生まれた。

その微かな誕生こそが、
未だ名を持たぬ──
“新生の私”の最初の呼吸である。……..

                                           Kenzie

 

 

 

 

余白

 

 

 

 

『思創考造 Cognigenesis』をご覧いただき、感謝申し上げます。
沢山のご愛読者様からのご要望にお応えして、トップページ及びヘッダー等を一新し、これからも ”Cognigenesis & Essay” の小文随筆を進めて参ることにいたしました。
今後ともご愛読いただきますよう、引き続きよろしくお願い申し上げます。
                                           Kenzie
 

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Fire Breathing 74-10 actual-virtuel

 

 
Essay seventy-four  1~8  9~16  17~24
Cognigenesis  Fire Breathing

continued in the next seventy five / essay number
〜 ”生成の旅路” 〜 COGNIGENESIS JOURNEY

 

 

 

 

      【生起場──生成的力】
    
    跳躍点の第一震源(=転位の震源)
    
 ~ ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の「流れ」~

 

 

 

 

初回重複:

【Essay】:Fire Breathing 74
【Cognigenesis】:Part-Ⅳ

・間章 / 自叙録(断章)
・Fire Breathing:「火の呼吸 ”炎舞”」
・Essay:74-9
(=Cognigenesis:Part-Ⅳ 第1章)
・Essay:74-10
(=Cognigenesis:Part-Ⅳ 第2章)

 

 

 

 

“跳躍点の胎動”──“さらに深い呼吸”「生成方向」

 

 

「生起場」──転位の”震源”

 

…….. いつものように、
家の玄関を出ようとした瞬間、

爪先だった片方の足が、
ふいに立ち止まった。
理由はわからない。
ただ、開け放たれたドアから──

風の流れとともに射し込む陽の光が、

いつもとは異なる角度で触れてきたのだ。

“木の葉の光影”を映す──
日差しが揺れている。
その揺らぎは、
木の葉そのものの軌跡でもなく、

風や光たちの運動だけでもない。

玄関の姿見鏡に映る〈私〉と共に、
震え動くその光影は、

私の内側に触れてくる──

まるで “問いの影” のように。

──何を囁こうとしているのか?

木の葉の影が語るのではない。

呟きはすでに、
私の内側で始まっていたのだ。

やがて光影は、風とともに不意に消えた。

姿見鏡には、私の輪郭だけが静かに留まり、

その無音はただ寂然とするのでなく、

〈私という存在の反射〉の奥に潜む何かを、

そっと照らし返してきた。

そのとき揺れていたのは、

“木の葉の光影”ではなかった。

むしろ──

私自身の揺らぎの感覚のほうだった。

外界の徴(しるし)が、

内側の未生の深層に触れて震源となり、

まだ名を持たぬ “新生の私” が胎動する。

この小さな出来事──

風と光の角度と、木の葉の光影と、
自分の影の揺らぎ、そして止み。

それらすべてが、

”差異の欠片(かけら)”として、
私を “跳躍点” へと連れてきた。

人は世界の中に存在するのではない。

世界とともに生成する。

世界を観照しながら、
世界とともに変容してゆく。

一切は“感”であり、生成である。

人は世界へと生成する。

世界が変わったのではない。

変わったのは、
世界を受け取る私の側の方だった。

思いがけず、
ひとつの自己が生まれた。

その微かな誕生こそが、

“思創考造”の最初の呼吸である。……..

 

 

転位の第一呼吸──「震源としての潜勢」

 

…….. 内奥の〈わたし〉が、
わずかに揺らぐ。

それは説明でも比喩でもなく、

自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる──


“微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──

〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、

まだ名も持たない小さな birth を起こし、

それがやがて──

”Cognigenesis” の最初の微震 となる。

差異の欠片(かけら)。

その最小単位だけで十分である。

そこから生成の動線は静かに伸び、

共振へとつながる──

“種線(seed-line)” が現れてくる。

〈あなた〉の差異の欠片を、

どんなに小さなものでも、
そのまま置けばいい。

それが「起点」になる。……..

 

 

日常見に現れる “差異の欠片”──生成の前成層

 

…….. 日常は特殊な瞬間ではない。

しかし、思想と創造の根源に最も近いのは、

まさにこの日常である。

歩き慣れた道で光の質が変わる。
身体の重さ、呼吸がわずかに揺れる。

反復行為の中で、
「同じはずなのにどこか違う」を──

感受する。
ふと立ち止まる前の沈黙が生まれる。

これらはすべて、

問いが生まれる前の──

“前提”としての身体の感受である。

ここで現れるわずかな差異は、

すでに潜勢が地表へ向かって──
 

“伏流から浮上に転じる徴”となっている。……..

 

 

“種線(seed-line)”──潜勢から生成への細い流れ

 

…….. 差異の欠片が置かれた瞬間──

潜勢として伏流していた力は、

その差異を核にかたちを帯びる。

それはまだ跳躍点ではない。

しかし、確実に「そこへ向かう線」である。

この seed-line の存在こそ、

「震源としての潜勢」が実際に、
生成へ接続するための最初の呼吸である。……..

                                           Kenzie

 

 

 

 

余白

 

 

 

 

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