KANKE 塾 《 自己プロモート 》 思巡の活力」カテゴリーアーカイブ

KANKE 塾 《 自己プロモート 》 思巡の活力:【 Ⅳ 】「 構成力 」

 

 

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    ー ” With NIKKO ” ウイズ日光 ー

 

 

 

 

     KANKE 塾

 

 

An Old Woman Reading, Probably the Prophetess Hannah, 1631. Rembrandt Harmenszoon van Rijn, The Rijksmuseum is the national museum of the Netherlands dedicated to Dutch arts and history and is located in Amsterdam.

 

 

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   ー 地域を生きる自分を活かす ー

 

KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 地域を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
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誰もが地力
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 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

” 思巡の活力 ”【 Ⅳ 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
〜 ” 推測力 ” に伴う 「 構成力 : composition 」〜

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

『 人は地域を創り動かし 地域は人を創り動かす 』

・・・・ 個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化に伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。
実に ” 自分事 = 地域事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、課題解決の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 自己力 ” と ” 地域力 ” とに同じようなことがいえる。・・・

……… 地域に生きるのではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” 発意と創造の実現を目指す自己それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた自分自身の在り様でもある。
全ては自己自身の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、”自分への配慮”という大切な活動による自己の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 地域を生きる自分を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面している『 新局面を迎える ” 予測 ” 』といった様々な問題が、ただただ自分自身について想像を巡らさせることになる。
そうして常に絶えず完全なる客観性は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 自己潜在力 ” に伴う ” 自己力 ” を以て自主的な「 自己創出の ” 想定 ” 」というものは、自分の性格に因り成り行くのである。………

自己の自主性( 自己意識 )は、自分の現実・事実に関わり意識や行為者性と人であるのとともに視点や感情と信念や意志と欲望など意識的な経験( 主観的な側面 )と性格をもつ人それぞれが自己の主体であり、自分に対して活動する( 行動したり力を振るう )にあたって主観性( 主観的な見方や主観に依存する程度など )が伴うことを度外視することはできない。

とはいえ、自己が開けてゆく期待が伴う中で ” 地域を生きる自分を活かす ” ことは、自己主体の自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたり自己主体の思い通りを追求していくことでは決してなく、自己主体としての考えに閉じ籠っている在り方を開いていく働きとその作用が付随・関連( 又は連関 )するものといえる。

個としての ” 生活世界 ” と集団としての ” 地域世界 ” の問題や課題をも主題化し、共通の客観性は相互主観性( 共同主観性または間主観性 )に構成され得るともいえ、諸個人が互いを主体として承認しつつ単一の世界を共有しているような事態にある「 相互作用 」の成り行きにおいて客観性が基礎付けられ、自己と地域の分化に先行する基底的な構造ともいえるのである。

観念的且つ理論的に考えられた社会に対して現実の社会は、人間の意図とは関わりなく部分的にまた全体的に変化する社会変動にあり、刻々と変わる環境に対応する ” 力 ” を身につけ、それを強化していくことが重要となる。

先の『 社会課題の ” 難化 ” 』や『 取り巻く環境の ” 変化 ” 』と『 社会構造の ” 変動 ” 』といった様々な問題は ” 現実課題 ” にすぎないのである。

” 現実課題 ” は、変化する物事の状態・状況を現時点で区切って示されたその今時点でのことであり、それは過去と未来の間において、過去から将来へ移りゆく今目の前の現実に起こっている事実として紛れもなく正真正銘の現に存在する ” 最重要課題 ” である。

それが「現在課題」になると、「 遠い将来の予測( フォーキャスティング )」さもなければ「 近い将来の予測( ナウキャスティング ) 」を含めてのことになる。

遠い将来への予測( フォーキャスティング ) か、もしくは近い将来への予測( ナウキャスティング )か、神が居て賽子を振って経済・社会現象を采配し指図・指揮しているであろうとすれば、遠い将来への予測( フォーキャスティング ) はその賽子の出目を予測するのと同じ様なことにもなるであろろうし、それを誤差なく予測することは無理というものである。

” 現実課題 ” は明白な事実として、起こり得る結果には幅がある未来に ” 予測 ” される「 近い将来 」に影響実現するのが確実な ” 最重要課題 ” であると捉え、その「 新局面 」 というものをも考えるのがもっとも必然である。

” 現実課題 ” にある様々な問題の成り行きとして、新しく展開するであろう情勢が新しい様相を示す ” 新局面 ” 。

当然のことだが、「 近い将来を知る 」という意味での ” 近い将来の予測( ナウキャスティング ) ” において、『 新局面を迎える 』 という将来の出来事を完全に100%正確に『 予測 』することは不可能である。

現実であるよりも現実的である多様な経済・社会課題に対して多方面で多面的に引き続き取り組んでいる中、現実の課題や問題の程度や範囲を大きく増しつつ増幅につながる悪循環を加速度的な速さで引き起こすおそれがある。

要するに、それがまた先の事態に悪影響を及ぼす関係が繰り返されて事態を悪くするであろうと「 予測 」され、全体の経済・社会活動の著しい低下を招かざるを得ないジレンマに陥るなど不安定で不確実で複雑で曖昧な状況下で行動や判断などを迫られいるのは確かなことである。

だがしかし、少なくとも 「 近い将来の予測 ( ナウキャスティング )」されたものこそが「現実課題」であるものの、事実上は現時点で直面した ” 現実課題 ” への様々な変化対応( 適応 )でその余裕もなく、また ” 現実課題 ” を一つの契機として捉えることもできず、実際には「 近い将来の予測( ナウキャスティング ) 」を含めての「 予測生成 」というものが着実に成されてされてはいないのが実情というものではないだろうか。

前例のない課題に対して一つ一つ解を示していくことが求められている中で、「 近い将来の予測 ナウキャスティング ) 」に伴い直面している『 新局面を迎える ” 予測 ” 』のそれは「 危機 」であると同時に一つの「 契機 」であるとした ” 発想と展開 ” が必要になってくるだろう。

「 近い将来の予測 ( ナウキャスティング )」における ” 新局面問題 ” を克服してゆくためには、事前に既知の特徴量を捉え、今時代に応じた知識やスキルなどのアップデートが必要ということである。

しかしながら、問題点改善や修正と機能の追加など一つのまとまったものを作り上げ形づくる知的活動の側面から整理した新しい情報の認知や「 形成思考 」に基づく課題形成系思考や ” 考え “ 自体の ” 形成 ” の単にそれだけでは、“ 消滅可能性都市 ” と唱えられる疲弊した地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )への多様な影響を克服するがために自己自身を立て直し持続可能性へ立ち向かう ” にも足元が覚束無い。

自己は一つの固定的な実体としてではなく、連続的な「 生成変化 」の中での現れとして捉えてみることが必要となる。

つまり ” 自己創出は動的なプロセス ” であり、自己力に伴い常に変化し続けて進化・発展している「 生成変化 」ということである。

「 生成変化 」とは、現実を構成する要素が相互作用しながら現れるプロセスを意味するものであり、現実自己は ” 生成過程 ” にあって形成過程ではないと捉えることである。

現実を肯定して動的な「 生成変化 」を強調するならば、現実を不変のものではなく常に変化し続けるものとして捉えていくことが必要となる。

様々な要素が相互に作用することで現実が「 生成 」され、その ” 生成過程 ” は現実を構成する要素が相互作用しながら現れるプロセスであるとし、現実を構成する要素や力の多様性を認め、単一的で統一的な視点では捉えきれないという考えに基づき、現実を構成する要素は常に動的に変化し、異なる要素や力が ” 相互作用しながら現実を生成 ” していると捉えることである。

「 形成 」は、新しく ” 変わる・変える ” というよりも、形になっていなかったものを形に創り上げて整えることになるが、「 生成 」は何もないところから( もしくは実態のあるものから )” 生じる・生じさせる ” ことになる。

” 形成と創作 ” は、幅広い分野や多様な領域に拡大し豊かな実践・実体を創り出しているが、その一方でその方法は知らず知らずのうちに形骸化し、必要とされる変化を閉ざしてしまう可能性がある。

形成の内容や意義と機能などを失って、只々形だけが残った状態であり、一般には何らかのルール( 決まりごと )などを作った後に本来の目的が見失われ、単にその様なルールを維持することが目的になってしまうような質的低下の状態である。

” 生成と創造 ” は、既存のものを変化させ新しいものを生み出し続け、進化・発展へと継続的な働きとその作用の可能性がある。

生成過程及び形成過程においては、形成作用による生成過程というものもあるにはあるが、基本的に ” 生成は形成する回路 ” であるといえる。

予めの生成過程を通らず形成過程へと、近い将来を単にイメージするのみだけで、それに到達するために必要な計画を立てる形成思考は、様々な課題に直面しそれを克服し、地域を不断に変更していくということであり、獲得した知識やリソースを形成することによって好循環サイクルをつくり、利用できる資源や能力などを形成するという拡張・膨張的形成である。

将来的なことを考えずにその時だけをうまく切り抜けるために行うといった様なその場凌ぎ的もしくは可変的でもあり、形骸化して必要とされる変化を閉ざしてしまう可能性とともに形成の内容や意義と機能などを失いつつ只々形だけが残った状態あれば、後々の対処・対応に手を焼くことになる。

先立っては新たに生み出し育て続ける「 持続性の ” 生成 ” 」であり、その生成途上において変えることができる形づくり「 可変性の ” 形成 ” 」があるにすぎない。

一つの課題の内容の質と量は時々刻々と増加・変化するのみならず、課題は更なる課題を孕む。

可変的な形成創作から持続的な生成創造へと、形成思考や形成づくりの発想から生成思考や生成の発想への転換とその継続的展開を図り、変化のみならず持続的進化・発展を可能にする「 基幹自己力 」が求められてくるといえる。

その様に自己自身としての本当の在るべき姿を ” 問い直す ” にあたっては、形成する回路の生成を疎かにして拡張・膨張的形成の傾向に陥らないがために、皮肉にも「 近い過去 」のそれを ” 問い直す( 又は見直す ) ” ことにより学び取ると、そう単刀直入にいうのは牽強付会の誹りを受けるだろうか。

「 近い過去 」において ” 近い将来の予測 ( ナウキャスティング )= 「 現在 」があったのかどうか、拡張・膨張的な発想の延長線上に ” 形成を先走り生成し損じ ” 空白化した近い過去のその近い将来の予測が本来ならばあっての今現在であり、今現在に近い過去の近い今現在には近い将来の予測があったはずである。

「 近い将来の予測 ( ナウキャスティング )」は、「 近い過去 」にヒントが隠されおり、もう一度改めて見てみてその結果気づいた欠点を是正するなど、それまでの認識を改めることである。

過去といえどもその全てを知っているわけではないが、過去に起こったことなのだから、知ることができるであろうところの「 近い過去 」。

その「 近い過去 」が「 近い将来の予測 ( ナウキャスティング )」の出発点であり、未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点でもある。

” 新局面問題 ” への対応は従来の問題解決型ではなく、可能性の探求という「 生成思考 」のアプローチに基づき、近い将来の予測 ( ナウキャスティング ) 」とその未来社会への移行は、多角的な視点と創造的な課題解決のソリューション( 手段 )が必要とされる課題である。

自己内に留まることなく、” 修正力 ” に伴う「 変容力 」により自己自身の持続可能性やイノベーションの源泉として機能する多様性エネルギーを受容し分散しない「 意識生成の構成 」は、その張力と総合力とをどのようにするか、” 認知力 ” に伴う「 調節力 」次第であり、その意識力に伴う「 律動力 」は自己内外の全方位に脈動し共振するのである。

変動性・不確実性・複雑性・曖昧性という急激な変化と予測困難な状況にある今時代を乗り越えるためには、関係を生成する力(コミュニュケーション・デザイン)や修正を生成する力( セルフ・リカバリー )と意識を生成する力(セルフ・トランスメーション )など ” 生成変化 ” が必要であるといえる。

張力と総合力が加わる毎に生成変化する「 自己構成の生成 」こそが、形成思考だけからは捉えられない生成思考のダイナミズムであり、変化のみならず持続的な進化・発展という面で機能不全に陥っている既存の自己システムに反し、自己が生まれながらにもっている包括的理解の能力を回復させ、変化・進化・発展させることを通じて問題の解決にも繋がるのである。

近い将来という未来は当然知らないことから始まり、そして知れば知るほどに知らないことは増えてくる。

だがしかし、知らないということがより少ないことで優れた予測を生成してきている。

真の思考力は必ずしも知識量には依存しないのであり、寧ろ知らないことがアイデアを生成する場を生成する。

誰でも近い将来という未来は当然知らないという当たり前のことが、発見のための重要な知的ファクターになる。

そこで問われるのは、多くの先進国において少子高齢化と人口減少は共通課題であり、その程度や時期の差こそあれ同様の問題に多くの国や地域が直面することになる。

その様な中で、先んじて課題に直面する自己自身はその対応において、地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )が持続的に発展する自己の実現を目指す「 持続可能性 」として、 ” 現実課題 ” への変化対応( 適応 )のみならず、将来にわたって現在の生活機能を継続し進化・発展いくことができるシステムやプロセスなどの「 構造 」を再構築していけるかどうかを迫られているということなのである。

地方地域は少子化や人口移動に歯止めがかからず、人口が一気に減少して自治体経営が破綻し” 近い将来 ” に消滅する可能性がある自治体として ” 消滅可能性都市 ” という趣旨の指摘さえある。

殊更にその様な中で、地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )への多様な影響を及ぼす弊害に対応する考えや要素などを加味しつつ、地方地域として ” 地域社会の疲弊 ” の「 構造的 」な問題である ” 人口減少と地域経済縮少 ”など、前例のない課題に対して一つ一つ解を示していくことが求められる。

地方地域としては、将来にわたって活力ある地域を維持することを目的・目標とした経済・社会施策などの重要性が高まるのとともに、従来の地方地域としての「 枠組み 」 とは異なる新たな捉え方や考え方をもつことが必要になってきている。

賃金や金利とコストが上昇する経済・社会変化が到来し、状態などが悪化し活力をなくしてしまった人々の視線は、より未来の ” 近い将来 ” へと向けられている。

人口減少や少子化による労働力不足が各所で顕在化する中で、この疲弊を緩和し、持続可能な社会を維持するための「 発想力と展開力 」が求められる。

コスト増加及び人口減少の経済・社会おける新局面にあたっては、効率的で新しく懸命な選択が必要であり、その選択肢を準備することが求められ、『 新局面を迎える予測 』の重要性は高まる。

認識や評価とともに判断や意思決定の精度を高め、地域全体の効率を高めて実現する経済・社会であり、地方地域のみならず自己自身も単なるトレンド的な情報に溺れるのではなく、しっかりと大きな ” 変化 ”について考えることである。

そして、それを構造的に理解・把握し認識や認知する力を身に付けるに越したことはなく、「 知識力 = 発想力 」として経験や ” 学習 ” を通して新たな発想を知ると、物事の捉え方が変わり視座が変われば解釈も変わり、いままでの ” 思い込み ” から解放されるのである。

地域のみならず自己自身として特に重視すべき点は、現在における多様な経済・社会課題( 又は問題 )の現象・事象・関係性の流れが可視化されていても、特定の現象や結果が起こる事態の可能性が完全には「 予測 」できない ” 不確実性( 不確かさ )” におかれているということである。

現実の課題や問題は可視化され ” 顕在化 ” されているものとしてであり、その程度や範囲を大きく増しつつ増幅につながる悪循環を加速度的な速さで引き起こして前の事態に悪影響を及ぼす関係が繰り返されて事態を悪くしていくだろうとするということは、不可視的な ” 潜在性 ” としてである。

「 潜在性 = 可能性 」であり、良しにつけ悪しきつけ常に可能性はあり、顕在化された現実の課題や問題がさらに悪化する事態の可能性の高さは起こる確実性や確らしさの ” 蓋然性 ” という見込まれる確率でもある。

顕在化された現実の課題や問題の現象を精密に観察・測定してその変化や推移を調べる ” 観測技 ” とともに現実のその事態の成り行きや結果を前もって推し量る ” 予測 ” を以てして ” 不確実性( 不確かさ )” を「 追究 」することが特に重要となってくる。

現実の課題や問題の程度や範囲を大きく増しつつ増幅につながる悪循環を加速度的な速さで引き起こすおそれと、それがまた前の事態に悪影響を及ぼす関係が繰り返されて事態を悪くするものとしての様々な「 予測 」は提唱されている。

そうではあるものの、全宇宙の大きさがどれくらいなのかは現在の ” 観測技予測可能 ” を以てしても推定すら不可能で未解明となっている ” 観測可能な宇宙 ” ではあるまいし、宇宙にある星のいろいろが相互に力を及ぼす関係で宇宙の中で決まった動きをしている地球に生きる人間の関わる事態( 事体 )の課題や問題のその程度と収拾にすぎない。

現在における多様な経済・社会課題( 又は問題 )に直面している地方地域において「 地域経済・社会の疲弊といった構造的な問題を抱えている 」といった危機に瀕する差し迫った重大な「 新たな局面を迎える 」といった事態に今にも陥るのである。

その様な中で、自己力の減退の一途を辿りたくなければ、現実対応のみならず、多様な経済・社会課題( 又は問題 )の増幅要因そのもの起因変化・推移と増幅による程度や範囲を大きさ及びそれによって悪循環が影響を及ぼす全事態の大きさの変化・推移がどれくらいなのかを予測することである。

「 予測可能な事態( 観測技予測可能 )」として物事を注意深く見て変化や成り行きを予測するといった ” 観測技予測可能 ” を以て、不確かなことや不明なことを何処までも探求し深く検討し考える「 追究力 」というものが地方地域が直面した危機に灯火( ともしび )を見出す極意として特に必要になるといえる。

そして、期待される 「 ” 予測 ” のパフォーマンス 」 と 「 ” 予測 ” の運用 」 での課題と解決策も必要となる。

近い将来に実現するであろう社会への意思決定の精度を高めるために、足元の経済・社会の動向を早期に把握する手段や地に足の着いた本格的なデータサイエンスの活用のみならず、成り行きや結果を前もって推し測る ” 予測 ” は、選び抜かれた新たな価値や視点を加えることを意味するものともいえる。

地方地域において対策・施策が計画立てられたり努力したり企てられたりしていくのみならず、現実の課題や問題の程度や範囲を大きく増しつつ増幅につながる悪循環を加速度的な速さで引き起こす可能性( 潜在性 )とそれがまた前の事態に悪影響を及ぼす関係が繰り返されて事態を悪くする可能性( 潜在性 )についての解を探すよりも問いを見つけいくことになる。

その様な地方地域のみならず自己自身においても ” 問いを発する ” ことであり、近い将来に実現するであろう条件や状況などを想定した仮説を設定し、繰り返しその検証を進めていくことが大切であるといえる。

「 追究力 = 変進力 」であるともいえ、「 推測( conjecture : サンプション )」という力は、時代の流れとともに日々あらゆるものが変化していく中においてその変化に対応( 適応 )し進化・発展できる力のみならず、” 変進性は起こり得ることへの追究性 ” として、未知のものや不確かで不明な解らないことを何処までも追求( 探求 )し深く調べ考えて明らかにするために何かを求めて努力することを意味するものでもあるといえる。

そうしてみると、自己自身やその活動と自己力の心棒は、” 地域を生きる自分を活かす ” として成し遂げたいことの状態に成りたい力の能力であり、価値観の基準であるところの自己理念の力に深く関わる。

社会に存在する自己自身それぞれが「 社会構造の ” 変動 ” 」における様々な課題を自分自体に関わる問題( 自分ごと )として ” 問い直し ” 、解決へ導く大きな力をどの様に生み出していくか、ということである。

自己と地域の同時発心に未来効果を眼界展望する ” 力 ” の発現は、自分自体をかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気の責任と謙虚さにある。

” 自己への配慮 ” という大切な活動に心の怯みや動揺のない攻め強さと心の誤りや不覚のない注意深さは、” 地域を生きる自分を活かす ” 発心が時を一変させる基調であり、自己自身と地方地域とが一体となった世界を巡らす勢いを盛り返し、” 自分を生きる地域を活かす ” においても自己自らの心を貫く勇気を維持しえる。

未来を信じる力と持続可能性を生み出す「 主体力 」によって地方地域を生き継ぐ地域こそが、いささか憂鬱な立ち往生と戦い、心のままに現実を直視し守り備え、コミュニケーションとコミュニティの未来形から遮断されることなく誇らしげに直立した先駆者ということになる。

” 自分への配慮 ” という大切な活動による自己の志向性とその可能性における創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )の広がりとともに自己発展力( 発想力と展開力 )の伸びを高めるために、客観的に捉えた「 相互作用 = ” 関係の相互性 ” 」 に伴う ” 技術と生成と実利 ” における技術性( 又は技術力 )と生産性( 又は生産力 )の効果・効率・円滑に重点を置いた配分と仕分けによって組分けられる「 構成の生成」を基盤とした自己の成長や進化・発展を促進( 助長 )させることが必要である。

そのためには、” 自己の核となる強み( 基幹自己力 : Self – regional strength )” と参画への意識を高めるジェネラティブ( ジェネレーティブ )コミュニティ( Generative Community )の「 プロモート : promot 」力を見出すことが特に重要となってくる。( 参画への意識を高める自己プロモート力と一様の尺度に依り時を同じくして起こし ” 創める( はじめる )” ことの同等の効果 )

” 地域を生きる自分を活かす ” と ” 自分を生きる地域を活かす ” という「移行物語」を読み解く相対的な行動( また能動的で上位互換のようなもの )は、一切の「 自立自信・自化自発 」の資にあるのも同じである。

人の同気相求として地域は人が集まる一味同心による同心協力にあるそれに相応しい存在の意義( その場に居合わせることにより生み出される価値 )あるものとして、自分を活かし自己の新しい意欲を引き出す「 自己プロモート( 自己発展力 : 発想力と展開力による )」活動と、地域を活かし地域の新しい価値を生み出す「 地域プロモート( 地域発展力 : 発想力と展開力による )」活動のこの二つの発想と展開を一様の尺度に依り時を同じくして起こし ” 創め( はじめ )、そして同等の効果にもっていくことになる。

併立共存を互いに認め合う ” 生成変化 ” の原基の進化・発展変化による多元的な世界の生成プロセスは、直線的から循環的な円環的生成へと相互に作用し影響し合う。

特異な集団( 地域 )の互い個( 自己 )として行動し活動する志向性とその可能性における緊密な力は、世界と関わる円環的な相互作用に影響し合い力動する。

現代性を ” 近い将来 ” に求め多様な営みを持続してゆくための共有基盤は、生活世界の展開の仕方の違いの無さにおけるその限りにおいて個( 自己 )と集団( 地域 )の可能性としての潜在性に依拠する所が大きいのである。

生は自らに対し異なる時間的地平をもつ多種多様の形式で現れ多様な行動と活動を営む共有基盤は、相互主体性の複数の主張に淵源するのであり、互いは生成の共同的担い手として集団と個の視点価値観による併立共存を認め、共同主観の開かれた志向的・可能的な地平に自ら格率と力を現すべきである。

「 主意自己力 」は、形づくりの形成という従来型の ” 可変的な形成創造 ” から、新たに生み出し生み続ける生成という ” 持続的な生成創造 ” へと、形成思考や形成行動の発想から生成思考や生成行動への発想転換とその継続的展開を図り、変化のみならず持続的進化・発展の自己力が求められる。

状況の変動があっても大きな影響を受けない ” 主意自己力創造 ” の持続的な生成変化思考に基づく課題生成系思考と生成発想が、地域事の帰趨を決する局面の切り札となる。

自分にしかない考え方や行動などを見つけ出して自己の価値創出を目指す過程において、二項対立的なテーマとして挙げられるとするならば、それは「 形成活動と生成活動 」である。

これまでは、課題形成を重視しつつ自己の過度な形成志向( 指向 )を重んじてきた形成系思考と形成発想は ” 継続性 ” としてであり、必要とされる変化を閉ざし意味を失い形骸化する可能性がある。

これからは、潜在性における課題生成を追究( 追求 )すべきであるといえる。

適度な生成思考( 指向 )の生成系思考と生成発想は ” 持続性 ” としてあり、将来に向けての変化に対応(適応)するのみならず、新しいものへと進化・発展し得る自己潜在力とその可能性をもつ。

形成的活動と生成的活動の二項対立は絶対的なものでなく、一つの活動に両方の側面が内在しているケースもある相対的な概念ということもできるし、双方が共存する考え方ということができる。

時代の変化とともに形成化は地域力が鈍化してきたときに更なる進化・発展のために継続化を図る場合や安定化を図る手段としてこれまで定着してきたが、急激な環境の急激な変化があれば安定性に欠けるのは当然のことなのである。

「 “ 形成定着 ” から ” 生成帰着 ” への脱構築 」は言わずもがな、近い過去からの形成的活動を継続して図ることによって一時的な地域の向上を図ったとしても、果たして自己の価値創出の高まりとともに近い将来に向けての持続可能性を生み出す力と成り得ることができるのだろうか、という点を考深すべきであるといえる。

主意自己力としての基本に帰するところの一つは、” 生成と生成変化 ” として何かを生み出す行為や過程である『 生産 』 あり、絶えず自分自身を産出し続けるという自己創出の ” 効力性・肯定性・可能性 ” において潜在的な価値を発見する ” 価値を繋げ生成する ” = ” 新しい価値を生み生成する ” ということである。

“ 形成定着 ” から ” 生成帰着 ” への発想と展開の一つである『 自己生産性( 自己生産力 ) 』において、自己の価値を創出する機会を切り拓き活用する能力( 行為能力 )を高めることを目的とした ”生成変化 ” の一つの主意自己力であり、” 感情・思考・判断・行動 ” の好循環と自己の価値創出の在り方と目標を示すことになり、様々な課題を包含しながら現状を超え将来自己を見据え、自己自身の主意自己力というものを再定義し刷新することが必要なのである。

自己自身としての最高基盤である『 生産創造 』は、自己の価値創出過程における生成変化の意識・意義・側面であり、強固な完成度の有能性を備えた人間の最も卓越した優位性の高い試金石でもある。

自己の在り方において、修正力に伴う変容力は、変化への対応のみならず、新しい生産性の進化・発展を志向( 指向 )し持続的に積み上げていく多様な相互作用における価値観に包括されたその交流範囲から新たな知識やスキルを習得するなどの取り組みや自己認識と自己改善とともに持続的な ” 主意自己力創造 ” など、自己に顕在・潜在する多様な課題対応への中心的且つ意図的な自己活性化対応とともに自己の主体性のもとに生成変化の一つである『 生産創造力』を「 相互作用 = ” 関係の相互性 ” 」 において捉え、単に変わることができる従来型の可変的に形づくる「 形成 」であるよりも、新しい価値を生み出し続ける蓮繋型の「 生成 」に重点を置いていくことである。

『 生産創造 』は、” 枠を超え力を繋ぐ ” 越境によって、「 価値を繋げ生成する = 新しい価値を生み生成する 」とした自己自身の ” 新たな生成 ” なのである。

自己実現価値の有効活用と効果的な修復向上・維持で守り育てる実践への主体的な取り組み方は、人間の合目的な生産活動の過程において、目的の対象に働きかけてそれを獲得しながら、人間としての豊かな自己の能力や自己の個性を実現させていこうとすることである。

自己自身の ” 効力性・肯定性・可能性 ” における潜在的な価値により、主意自己力の構造を再構築していくことになる。

併立共存を互いに認め合う ” 生成変化 ” の原基の進化・発展変化による多元的な世界の生成プロセスは、直線的から循環的な円環的生成へと相互に作用し影響し合う。

特異な集団( 地域 )における互い個( 自己 )として行動し活動する志向性とその可能性における緊密な力は、世界と関わる円環的な相互作用に影響し合い力動する。

” 潜在性と持続可能性 ” としての ” 生成変化 ” に伴う「 生成着想 」は、総じて自己の実際の活動に活用できて初めて価値があるのはないだろうかともいえ、自己自身における ” 近い過去から ” の枠組み( 常識や慣例など )を打破し、より本質的な自己活動をするために役立てるのであれば、活力を与えられ生み出される ” 方法 ” に寄せる努力や意識と孕む課題実現への展望と活路を開くことができ、自分事の帰趨を決する局面の切り札となるだろう。

「 主意自己力 」は、形づくりの形成という従来型の ” 可変的な形成創造 ” から、新たに生み出し生み続ける生成という ” 持続的な生成創造 ” へと、形成思考や形成行動の発想から生成思考や生成行動への発想転換とその継続的展開を図り、変化のみならず持続的進化・発展の自己力が求められる。

状況の変動があっても大きな影響を受けない ” 基主意自己力創造 ” の持続的な生成変化思考に基づく課題生成系思考と生成発想が、地域事の帰趨を決する局面の切り札となる。

自分にしかない考え方や行動などを見つけ出して自己の価値創出を目指す過程において、二項対立的なテーマとして挙げられるとするならば、それは「 形成活動と生成活動 」である。

これまでは、課題形成を重視しつつ自己の過度な形成志向( 指向 )を重んじてきた形成系思考と形成発想は ” 継続性 ” としてであり、必要とされる変化を閉ざし意味を失い形骸化する可能性がある。
これからは、潜在性における課題生成を追究( 追求 )すべきであるといえる。

適度な生成思考( 指向 )の生成系思考と生成発想は ” 持続性 ” としてあり、将来に向けての変化に対応(適応)するのみならず、新しいものへと進化・発展し得る自己潜在力とその可能性をもつ。

形成的活動と生成的活動の二項対立は絶対的なものでなく、一つの活動に両方の側面が内在しているケースもある相対的な概念ということもできるし、双方が共存する考え方ということができる。

時代の変化とともに形成化は地域力が鈍化してきたときに更なる進化・発展のために継続化を図る場合や安定化を図る手段としてこれまで定着してきたが、急激な環境の急激な変化があれば安定性に欠けるのは当然のことなのである。

「 “ 形成定着 ” から ” 生成帰着 ” への脱構築 」は言わずもがな、近い過去からの形成的活動を継続して図ることによって一時的な地域の向上を図ったとしても、果たして自己の価値創出の高まりとともに近い将来に向けての持続可能性を生み出す力と成り得ることができるのだろうか、という点を考深すべきであるといえる。

主意自己力としての基本に帰するところの一つは、” 生成と生成変化 ” として何かを生み出す行為や過程である『 生産 』 あり、絶えず自分自身を産出し続けるという自己創出の ” 効力性・肯定性・可能性 ” において潜在的な価値を発見する ” 価値を繋げ生成する ” = ” 新しい価値を生み生成する ” ということである。

“ 形成定着 ” から ” 生成帰着 ” への発想と展開の一つである『 自己生産性( 自己生産力 ) 』において、自己の価値を創出する機会を切り拓き活用する能力( 行為能力 )を高めることを目的とした ”生成変化 ” の一つの主意自己力であり、” 感情・思考・判断・行動 ” の好循環と自己の価値創出の在り方と目標を示すことになり、様々な課題を包含しながら現状を超え将来自己を見据え、自己自身の主意自己力というものを再定義し刷新することが必要なのである。

自己自身としての最高基盤である『 生産創造 』は、自己の価値創出過程における生成変化の意識・意義・側面であり、強固な完成度の有能性を備えた人間の最も卓越した優位性の高い試金石でもある。

自己の在り方において、修正力に伴う変容力は、変化への対応のみならず、新しい生産性の進化・発展を志向( 指向 )し持続的に積み上げていく多様な相互作用における価値観に包括されたその交流範囲から新たな知識やスキルを習得するなどの取り組みや自己認識と自己改善とともに持続的な ” 主意自己力創造 ” 。

自己に顕在・潜在する多様な課題対応への中心的且つ意図的な自己活性化対応とともに自己の主体性のもとに生成変化の一つである『 生産創造力』を「 相互作用 = ” 関係の相互性 ” 」 において捉え、単に変わることができる従来型の可変的に形づくる「 形成 」であるよりも、新しい価値を生み出し続ける蓮繋型の「 生成 」に重点を置いていくことである。

『 生産創造 』は、” 枠を超え力を繋ぐ ” 越境によって、「 価値を繋げ生成する = 新しい価値を生み生成する 」とした自己自身の ” 新たな生成 ” なのである。

自己実現価値の有効活用と効果的な修復向上・維持で守り育てる実践への主体的な取り組み方は、人間の合目的な生産活動の過程において、目的の対象に働きかけてそれを獲得しながら、人間としての豊かな自己の能力や自己の個性を実現させていこうとすることである。

自己自身の ” 効力性・肯定性・可能性 ” における潜在的な価値により、主意自己力の構造を再構築していくことになる。

併立共存を互いに認め合う ” 生成変化 ” の原基の進化・発展変化による多元的な世界の生成プロセスは、直線的から循環的な円環的生成へと相互に作用し影響し合う。

特異な集団( 地域 )における互い個( 自己 )として行動し活動する志向性とその可能性における緊密な力は、世界と関わる円環的な相互作用に影響し合い力動する。

” 潜在性と持続可能性 ” としての ” 生成変化 ” に伴う「 生成着想 」は、総じて自己の実際の活動に活用できて初めて価値があるのはないだろうかともいえ、自己自身における ” 近い過去から ” の枠組み( 常識や慣例など )を打破し、より本質的な自己活動をするために役立てるのであれば、活力を与えられ生み出される ” 方法 ” に寄せる努力や意識と孕む課題実現への展望と活路を開くことができ、自分事の帰趨を決する局面の切り札となるだろう。

適当な境界で区切られた( 枠組み )全体をも懐疑する疲弊よりも遥かに抜本的な生成的範疇の根本的刷新によって、生成変化の在り方を裏打ちするために再び発展の生成過程に目を向け、全面的に依存する暗黙の前提に対する明確な否定から始めることであるといえる。

そこに浮き上がってくるのは、円環的なインタラクション ” 相互作用 ” に伴い畝り動く勢いある自己の基礎力として主体的なジェネラティブ( ジェネレーティブ )「 生成力 : generative 」とともに未知のものを既成化する主観的確実性と客観的明証性の同一を試み、余裕を持って悠々と取り組むことができる「 新時代への ” 生成変化 ” を満たす多過程の実現 」にまつわる何か、ということかもしれない のであるが 、、、、、

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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〈 2024年1月期〜12月期 レポート掲載 〉

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KANKE 塾 《 自己プロモート 》 思巡の活力:【 Ⅲ 】「 変容力 」

 

 

      OFFICE KANKE

   KANKE GRAND 日光

    ー ” With NIKKO ” ウイズ日光 ー

 

 

 

 

     KANKE 塾

 

 

The Garden Wall, 1910. John Singer Sargent, The Museum of Fine Arts (often abbreviated as MFA Boston or MFA) is an art museum in Boston, Massachusetts.

 

 

     菅 家 塾

 

 

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   ー 地域を生きる自分を活かす ー

 

KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行

 

 

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 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

” 思巡の活力 ”【 Ⅲ 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
〜 ” 修正力 ” に伴う 「 変容力 : transformation 」〜

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

『 人は地域を創り動かし 地域は人を創り動かす 』

・・・・ 個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化に伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。
実に ” 自分事 = 地域事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、課題解決の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 自己力 ” と ” 地域力 ” とに同じようなことがいえる。・・・・

……… 地域に生きるのではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” 発意と創造の実現を目指す自己それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた自分自身の在り様でもある。
全ては自己自身の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 自分への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 地域を生きる自分を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面している『 社会構造の ” 変動 ” 』といった様々な問題が、ただただ地域自体について想像を巡らさせることになる。
そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 自己潜在力 ” に伴う ” 自己力 ” を以て自主的な「 自己創出の ” 想定 ” 」というものは、自分の性格に因り成り行くのである。………

自己の自主性( 自己意識 )は、自分の現実・事実に関わり意識や行為者性と人であるのとともに視点や感情と信念や意志と欲望など意識的な経験( 主観的な側面 )と性格をもつ人それぞれが自己の主体であり、自分に対して活動する( 行動したり力を振るう )にあたって主観性( 主観的な見方や主観に依存する程度など )が伴うことを度外視することはできない。

とはいえ、自己が開けてゆく期待が伴う中で ” 地域を生きる自分を活かす ” ことは、自己主体の自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたり自己主体の思い通りを追求していくことでは決してなく、自己主体としての考えに閉じ籠っている在り方を開いていく働きとその作用が付随・関連( 又は連関 )するものといえる。

個としての ” 生活世界 ” と集団としての ” 地域世界 ” の問題や課題をも主題化し、共通の客観性は相互主観性( 共同主観性または間主観性 )に構成され得るともいえ、諸個人が互いを主体として承認しつつ単一の世界を共有しているような事態にある「 相互作用 」の成り行きにおいて客観性が基礎付けられ、自己と地域の分化に先行する基底的な構造ともいえるのである。

観念的且つ理論的に考えられた社会に対して現実の社会は、人間の意図とは関わりなく部分的にまた全体的に変化する社会変動にあり、刻々と変わる環境に対応する ” 力 ” を身につけ、それを強化していくことが重要となる。

自己自身としては、” 地域社会の疲弊 ” の「 構造的 」な問題である ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる多面的にあらゆる側面で考えるられる ” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” への多様な影響を克服し、将来にわたって活力ある自分を維持することを目的・目標とした多様なモチベーションやスキルなどの重要性が高まるのとともに、従来の自分自身としての生活の基本要素に支えられてきた生活の ” 相互活動 ” に伴う生活様式や自己構成とは異なる新たな捉え方や考え方をもつことが必要になってきている。

「 判断 」とは、” 知る ” ことを意味するものといえ、その「 判断力 」は ” 知る力 ” であり、これからの時代を生き抜くために地方地域は社会変化に対応(適応)して変化するのみならず、” 変化することは進化・発展することである ” とした「 判断 = 変容力 」が特に重要なものとなる。

事実判断と価値判断の両者は、ややもすれば絡み合いながら働き、相互に他に移行するというような相互作用はありうるが、「 判断力 」によって最終的に価値判断を決定するのがもっとも客観的なもっとも深い事実判断であるということもできる。

自己自身としての「 判断力 」とは、そのような ” 認識力( 自己認識 )・ 評価力( 自己評価 )” に ” 洞察力 ” を通した「 判断力 」であり、未来を信じる力と持続可能性を生み出す力を以て自分の価値ある役割で本当に実現したかったことの再発見と実行に移すための自主的な取り組み方という ” 自己創出 ” なのである。

実情はともあれ現実に即した面を重んじる実際的な一応の判断は、自己力を開花させてあらゆる困難や多様性などへ対応し変化へ適応する力を身に付ける必要があるとし、その自由な知的探求のために幅広い知識と深い知識など新しい反応様式や新しい情報を得るのとともに自己自身に対してもつ考え( 又は観念など )を新たにする必要があるとしている。

しかしながら、力は身に付けるだけでいいのだろうか、新しいものを得るだけでいいのだろうか、或いは考え方などを新たにするだけでいいのだろうか。

自己発展の活動を起こす ” もとになる力 ” とは何なのか、社会の諸側面の変化の実態やその変化の各側面を横断する軸などを捉えるのとともに、その変化の仕組みを統一的に理解する大筋や輪郭( アウトライン ) などを探ってみる必要がある。

現代社会は高度に分化し複合的な社会であり、高度に複雑になり明確な境界を持たなくなった社会でもある。

社会が高度に発達してくると社会活動の種類も多様化し,それにともなって社会的世界がますます多元化・分割化されてくる。

現代社会は高度に分化し複合的な社会であり、高度に複雑になり明確な ” 枠組み・境界( 境域 )” をもたなくなった社会でもあるといえる。

主観と客観とのダイナミックな緊張関係は失われ,社会変動は平板で量的なものとたり,歴史が孕む変革の力は失われつつあり、さらには歴史性が失われただけでなく,対象(社会)は単に ” 環境( 取り巻かれた環境 )” という用語で一括的に表現されることになり、社会という対象がもつ ” 構造 ” を把握する途も閉ざされてしまうことになってしまってきたものともいえる。

社会とは、「 相互作用 」を交わしている諸個人から成るものである。

しかしながら、その ” 関係の相互性 ” は自明のこととして、忘れ去られているか軽んじられているか或いは見失われているか、、、。

社会とは、人びとの ” 相互行為 ” のシステムであり、社会構造とは、社会において定められている事柄でもあり。社会においての人々の相互関係や相互作用の形態でもある。

そもそも行為とは、人間による意味のある行動であり、行為者によってその意味が説明できる行動なのである。

“ 相互行為 ” において単数あるいは複数の行為者がその「 行為 」として ” 主観的 ” な意味を含ませている限りの人間行動であり、その活動が外的であろうと内的であろうと放置であろうと我慢であろうと、それは問うところではない。

「 相互作用 」というものが主観的意味を重視する傾向がある中で、社会は個々の相互作用の生起する多元的社会から構成されており,それら個々の社会を問題にしえるが、様々な相互作用を超越したところに存在する全体としての社会を客観的に問題にしえない。

それは、相互作用というものは諸個人の主観を強調するあまりに、より大きな現実の社会を問題にしえないともいえる。

たしかに相互作用も全体社会を問題にしてきた経緯も少なからずある。

だがしかし、その全体社会はあくまで諸個人の認識に反映される限りでのものであって,諸個人の認識から独立して全体社会を想定することは、相互作用を論じる上では基本的に許されないのである。

問題は、自己自身において「 相互作用 」の関わるその扱い方が現実の ” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” とその多様性などを適切に把握しているかどうかにある。

そこで、「 相互作用 」が一つの ” 社会生活の活動システムを形成するもの ” と考えられ、行為者の動機や目的など主観から独立した要素として、主観から一歩踏み出しているという意味で、社会システムの客観的な捉え方にとって必要不可欠なものとみなされる。

“ 自己創出 ” というものに関わる文脈では、相互作用は主観的な行為として捉えるのとともに、客観的に捉えた「 相互作用 = ” 関係の相互性 ” 」として、むしろ ” 社会生活のシステム ” に位置付けて捉えることも必要があるものといえる。

今環境の変化 ( 社会の変化 )の中で客観的に捉えた社会と ” 相互作用 ” のアクションはさらなる重要性を増しつつ、社会の多様性を尊重することで自己実現と自分らしく生きることができる社会実現のために必要不可欠な ” 包摂( インクルージョン )” の重要性に伴う “ 関係の相互性 ” = 多様性( ダイバーシティ ) 」の捉え方や考え方に大きな影響を及ぼすことになってきている。

” 力というのは常に一対に現れる「 相互作用( interaction / Interaktion : インタラクション )」” であり、相互作用というアクション( 行動 )として一方的ではなく、双方向( interactive : インタラクティブ )でやり取りを行う相互作用( 交互作用 / 相互交流 / 相互行為)における全ては ” 力のつり合い ” である。

「 力点 = 主眼点 」として、相互作用のつり合う ” 均衡の効力( 力の効かし方や効き目 )” は、対力と偶力・合力と分力・並進力と回転力などを捉えた「 活動 = 相互作用 」における力の転換( 力点と作用点または着力点など )であり、物事の認識や理解と発想などの仕方でもある。

インタラクションという「 相互作用 」は、” 根本にある発想が同一 ” であり、” あらゆる枠を超え( 枠組みを超え )” その根本概念は共有されている。

「 相互 = 間 」で行う(する)という二つ以上のものが互いに作用し影響を及ぼし合い、相互作用というアクション( 行動 )として一方的ではなくインタラクティブ( 双方向 : interactive )でやり取りを行う相互作用( 交互作用 / 相互交流 / 相互行為)のことである。

「 相互作用 」に対する捉え方としては、絶対的なものではなく、同一分野( 領域 )ですら時代とともに変化することがあるものの、互いに作用し影響を及ぼし合う「 繋がり合い 」は多様な状況統合として、その効果の構成は複雑であり、目的・目標やその成り行きである結果に対する解釈には注意を要するものではあるが、多かれ少なかれ意識しながら使っていることは多い。

「 アンラーニング( unlearning : 学習内容棄却 )」とは、この様な ” 相互作用 ” のアクション( 行動 )において既存の価値観や知識に囚われずに環境の変化に適応するために自己の枠組みを超えて新しい可能性を追求しながら、変化の激しい時代に対応していくにあたり古い知識や概念と価値観などを捨てて意識的に新しい知識やアイデアとスキルなどを習得することである。

時代遅れとなり有効性を失った今までの知識や規範と価値観などを認識した上で自主的に必要なものを取捨選択しつつ新しいものを取り入れながら「 学びを解し( ほぐし )」自己軌道修正やアップデートをしていくということを意味するものである。

環境変化の激しい現代社会を生き抜くため、過去の経験に囚われないように意識的に学習知識を捨て去ることであり、これまで学んできた知識や常識などを一旦意識的に捨て去り、新しく学び直すことになるのである。

互いに影響し合う「 多様性と相互作用 」は、互いの価値観の共有や新しい価値観を生み出し、相互交流の一定の範囲の中に包み込む ” 包摂 ” の関係づくりであり、価値観に包括されるその交流範囲から新たな知識やスキルを習得することによって「 学びの ” 修正 ” 」を施すことになり、変化に対応( 適応 )して進化・発展する力「 変容力 」を以て新しい自己へと発展していくための原動力となる。

時代遅れとなり有効性を失った今までの知識や規範と価値観などの自己補正処理・修正処置の ” 修正力( コレクティヴ・アクション : corrective action )” とは、これまで学習によって得られた自己自身の価値観の認識と取捨選択をはじめ新たな知識やスキルの習得であり、自分自身を柔軟に変える力でもある。

自分自身の ” 基幹自己力と枠組み ” などを自主的に見直し、自己認識を自己改善に繋げて理想と現実のギャップを埋めながら「 自己変容 」へと向かうことになる。

互いに影響し合う「 多様性と相互作用 」は、互いの価値観の共有や新しい価値観を生み出し、相互交流の一定の範囲の中に包み込む ” 包摂 ” の関係づくりであり、価値観に包括されるその交流範囲から新たな知識やスキルを習得することによって「 学びの修正 」を施すことになり、変化に対応( 適応 )し進化する力「 変容力 」を以て新しい自己発展することを意味するものである。

” アンラーニング( unlearning )” に伴う「 修正力 = 変容力 」は、多様な枠組みを超えて多様な ” 力を繋ぐ ” ものとして、時代の現状を脱するべき必要に応じて新天地に飛び込む( 又は取り込む )という意味で、自己自身の自主力に伴う「 調節力 」や「 律動力 」などによって ” 繋がりの多様性と複雑性 ” に目を向けるのとともに、弱め合うことのない強め合いの条件を探すことによってその アンラーニング( unlearning ) の力が状況統合となり、自分自身の ” 基幹自己力と枠組み ” を見直す「 修正力 」が様々な知識や経験を活用した課題の解決や新しい価値を生み出していくのである。

総体的に多種多様な価値観を許容して多様な知と知の新しい組み合わせを生み出す ” 包摂 ” の「 多様性と相互作用 」において、時代遅れとなり有効性を失った今までの知識や規範と価値観などの自己補正処理・修正処置の「 修正力( コレクティヴ・アクション : corrective action )” 」の力を見出すことである。

問題は、自己自身において「 相互作用 」の関わるその扱い方が現実の ” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” とその多様性などを適切に把握しているかどうかにある。

そこで、「 相互作用 」が一つの ” 社会生活の活動システムを形成するもの ” と考えられ、行為者の動機や目的など主観から独立した要素として、主観から一歩踏み出しているという意味で、社会システムの客観的な捉え方にとって必要不可欠なものとみなされる。

“ 自己創出 ” というものに関わる文脈では、相互作用は主観的な行為として捉えるのとともに、客観的に捉えた「 相互作用 = ” 関係の相互性 ” 」として、むしろ ” 社会生活のシステム ” に位置付けて捉えることも必要があるものといえる。

今環境の変化 ( 社会の変化 )の中で客観的に捉えた社会と ” 相互作用 ” のアクションはさらなる重要性を増しつつ、社会の多様性を尊重することで自己実現と自分らしく生きることができる社会実現のために必要不可欠な ” 包摂( インクルージョン )” の重要性に伴う “ 関係の相互性 ” = 多様性( ダイバーシティ ) 」の捉え方や考え方に大きな影響を及ぼすことになってきている。

社会システムとは、複数の個人行為者が少なくとも物的ないし環境的側面を含む状況において互いに ” 相互行為 ” をしている事態に他ならならない。

システムという相互に連関する複数の要素の集合と社会システムという複数の行為者による ” 相互行為 ” のシステムのその中で、 ” 地域社会 ” も社会システム( 複数の行為者による相互行為のシステム )の重要な一つであり、「 地域(コミュニティ)」は一定の地理的な範囲内に社会関係や ” 個と集団 ” や組織などが累積し相互に連関している社会システムとして「 地域社会のシステム構造 」が構築されていなければならないといえる。

その様な社会の構造化において、行為者それぞれが与えられた資源に従って継続的に意味ある行動としての行為をするが、相互行為はうまくいかない時には行為を制約すると同時に行為の機会を構成するので、行為者は機会を活用する能力( 行為能力 )をもっていることになる。

社会システム( 社会体系 : social system )は、コミュニケーション( “ 行為 “ )を要素とし、その要素及び要素関係の仕方の多様性という環境が複雑性の落差によって ” 境界区分 ” されているような包括的な複雑性からの限定・縮減として存在するシステムであり、社会生活や ” 地域共同体 ” など社会関係のシステムといえる。

そこで問われるのは、地方地域として ” 地域社会の疲弊 ” の「 構造的 」な問題である ” 人口減少と地域経済縮少 ”などを克服し、将来にわたって活力ある地域を維持することを目的・目標とした経済・社会施策が重要となるなど、社会が大きく転換しつつある今、従来の「 地域(コミュニティ)」としての ” 枠組み ” とは異なる新たな捉え方や考え方を以て価値観や社会構造「 地域社会システム構造 」を転換し、” 再構築 ” することが必要になってきているということなのである。

『 社会構造の変動 』は ” 社会構造の変化 ” をいう意味するものであり、社会システムは ” 相互行為 ” のシステムであるかして常に絶えず変化する可能性がある。

社会システムの変動要因としては、政治的要因、価値観や意識の変化などの文化的要因、人口の増減や年齢構成の変化などの人工的要因、その他災害・自然環境の変化なども社会システムの変動要因となる。
多くの場合、人間の行動が( 意図的に或いは意図せずに )変化の要因をつくりだすのであり、 行為の制約や機会を変化させることを通して行為そのものに影響を及ぼすことになる。

社会システム( 複数の行為者による相互行為のシステム )の重要な一つである ” 地域社会システム ” 。
一定の地理的な範囲内に社会関係や ” 個と集団 ” や組織などが累積し相互に連関している社会システムである「 地域( コミュニティ )」。

価値観や意識の変化などの文化的要因、人口の増減や年齢構成の変化などの人工的要因、その他災害・自然環境の変化などの社会システムの変動要因も加わっての「 社会構造の変動 」という ” 社会構造の変化 ”は、地域社会としての社会システムである「 地域 ( コミュニティ 」において ” 個と集団 ” の捉え方を問い直す契機でもあるといえる。

「 地域を生きる ” 自分を活かす ” 」と「 自分を生きる ” 地域を活かす ” 」。

個としての自己を生かすことで集団としての地域が生きてゆき、自己は地域の中でこそ自己を輝かせていくことができる。

地域を生かすことで自己が生きてゆき、地域は自己の輝きがあってこそ地域を輝かせていくことができるのである。

個としての自己は集団としての地域と別個のものとして存在するのではなく、個は集団を前提とし( 集団は個を前提とし )、自己は地域の一つの表れとして存立しているといえ( 地域は自己の一つの現れとして存在しているといえ )、地域は個の集まりの中で生成し発展している( 自己は地域の中で生成し発展している )ともいえるのである。

現在における多様な経済・社会課題に対して多方面で多面的に引き続き取り組んでいる中、現実の課題や問題の程度や範囲を大きく増しつつ増幅につながる悪循環を加速度的な速さで引き起こすおそれがあり、” それがまた前の事態に悪影響を及ぼす関係が繰り返されて事態を悪くするもの ” と「 予測 」され、全体の経済・社会活動の著しい低下を招かざるを得ないジレンマに陥るなど不安定で不確実で複雑で曖昧な状況にある。

” 地域社会の疲弊 ” の「 構造的 」な問題である ” 人口減少と地域経済縮少 ” など地域社会システムを覆うような現象の重なる地方社会の様相として、地方社会の様相として、地方の企業活動が一層停滞しつつ人材の東京圏への流出などが進む中で地域経済を支える企業消滅による地域経済の縮小などに伴う地方経済・社会の持続可能性の低下、さらには地方都市地域のスポンジ化現象( 集落機能の維持 / 古い空き家空き地等の無秩序な大量発生 / 生活・行政サービスや社会インフラの維持困難 / 生活利便性・サービス産業の生産性低下 / 行政サービスの非効率化の進行 / 治安・居住環境の悪化 / コミュニティの存続危機 / 切迫する災害危険性増大のおそれ( 巨大災害への備え不足 )/ 防災・防犯 対策 ( 安全・安心対策 )等々に加え、地域活性化の課題 / 文化振興の課題 / 都市基盤整備 ( コンパクトシティなど )の課題等々その他。

この様な地域社会の変動の中で、地方地域として ” 地域社会の疲弊という「 構造的 」な問題 ” を抱えており、持続的な成長と地域社会の自律的な発展を目指し、エネルギー・資源・食料の安定的な確保 / 超高齢化・人口減少社会等に対応する持続可能な社会の実現 / 産業競争力 / 地域活力の向上 / 地球規模の問題への対応と世界の発展への貢献等々、 持続的な成長と地域社会の自律的な発展を目指している。

自己自身としては、この様な悪化しつつ活力をなくしてしまう状態ともいえる地域社会の疲弊の様相と多様な課題の中で、多面的にあらゆる側面で考えるられる ” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” への多様な影響を克服する必要性に迫られているといっても、決して過言ではないだろう。

新たな時代に対応できる ” 知 ” の資産を基に、産業・生産性の向上や地域の国際産業競争力の引き上げなど地方地域として持続的な成長と地域社会の自律的な発展を実現していくとともに、安全や安心と豊かで質の高い生活を実感できること、さらには地球規模の課題解決にも貢献し国際社会と協調しながら対応していくことをも目指し、地方地域を取り巻く目下の様々な課題や問題に的確に対応していく必要がある。

「 追究力 = 変革力 」であるともいえ、トゥランスフォーメイション「 変容力 : transformation 」は、時代の流れとともに日々あらゆるものが変化していく中においてその変化に適応して進化・発展できる力のみならず、” 変革性は起こり得ることへの追究性 ” として、未知のものや不確かで不明な解らないことを何処までも探求し深く調べ考えて明らかにするために何かを求めて努力することを意味するものでもあるといえる。

自己自身としては先ず、「 相互作用 」の自主力に伴う不可欠なトゥランスフォーメイション「 変革力 : transformation 」を高めることであり、” コレクティヴ・アクション( 修正力 : corrective action )” を以て ” 相互 = 間 ” という境界( 境域 )における「 ” 枠 ” を超え ” 力 ” を繋げる 」ことにより、先立って必要な知識や経験と能力などの多軸な多様性を先ずは知ることである。

現代社会はもとより人間には他との「関係の相互性」が社会活動システムとして不可欠であることは言うまでもなく、 自己自身にとっても ” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” に伴う自己活動には地域内・外部に限らず異種・多種との「 関係の相互性 」が不可欠である。

「 関係の相互性 」は不具合または不都合などで不全状況などに陥りがちであり、そのことによってより多くの苦渋や困難を抱えることになっているとも考えられるが、その問題や課題に立ち向かうための基盤もまた、多様な相互作用を見失うことなく「 関係の相互性 」の基本的な諸相を再度捉えて変化や進化・発展に活かすことができるのかなのである。

自己自身が行為・行動( 活動 )を起こす時に発生する地域内・外部に限らない様々な異種・多種との「 ” 枠 ” を超え ” 力 ” を繋げる 」において、” 活動的・波動的な相互作用を発現するパフォーマンス ( performance )”。

すなわち ” 修正力 ” に伴う「 変容力 」とは、” 関係の相互性 ” という表層における現実の背後に隠されているであろうところの多義的意味を浮き彫りにして考える方法であり、相互共同での包摂と吟味・収拾を必須とする ” 相互 = 間 ” という境界( 境域 )で生まれる相互変化のみならず、相互進化・相互発展へのシステムを捉え、相互に考えることにより最終的には相互的に互いの新しい可能性を選び取ることで、新たな相互価値を生み出すことである。

「 相互作用 = 関係の相互性 」に基づく「 自分自身の ” 基幹自己力と枠組み ” を見直す 」という ” 修正 ” の営みは、自己自身の持続可能性やイノベーションの源泉として機能する多様性であるといえる。

異なる技術・文化や価値観の相互交流から変化のみならず新たな進化・発展の可能性が生まれ、様々な知識や経験を活用して既存の問題や課題の解決や新しい価値を生み出すとともに、地域内・外部の交流範囲から異種・多種を受け入れ取り込んで互いに自己修正の営みを学ぶことで変化に適応し、新しいものに進化・発展させることである。

地域社会のあらゆる層での平等な機会の提供を意味する包摂は、地域内・外部に限らず異種・多種それぞれがもつその才能や能力を相互において最大限に発揮できる環境を促進することになる。

” 相互 = 間 ” という境界( 境域 )における間で「関係の相互性」を培う可能性とその諸相を吟味しつつ「 繋がり 」を織り成しながら、相互に考えることにより最終的には相互的に互いの新しい可能性を選び取ることで新たな相互価値を生み出すことである。

互いに自分を活かす目的・目標を見出し、自己自身として ” 地域社会の疲弊 ” の「 構造的 」な問題である ” 人口減少と地域経済縮少 ”などの影響を克服し、将来にわたって活力ある自分を維持することを目的・目標としたその道行を支える取り組みに繋がると考えられる。

『 社会構造の ” 変動 ” 』に対応( 適応 )していくために ” 自分を変革していく必要性を強く自覚する ” ことが特に重要となる中で、従来の自己自身としての ” 枠組み ” とは異なる新たな捉え方や考え方をもって客観性へと発想を転換することが必要になってきているということなのである。

相互作用は創造性と密接な関わりをもっており、” 修正力 ” に伴う「 変革力 = 創造力」といえるのである。
創造力とは、世界を新しい見方で受け止めパターンを見出し、相互における外見上は全く異なっていても知識や価値観など共通点を見出し、革新的な解決策を編み出す力を意味するものであるといえる。

地域内・外部であろうが異種・多種であろうが、想像力に満ちた新しい価値やアイデアと考え方などを生み出す力は、極めて役立つ貴重なスキルでなのである。

” 枠 ” を超え ” 力 ” を繋げる」ことによって地域内・外部に限らず異種・多種がもつアイデアや視点に触れる機会がまったくなければ、「 変容力 = 創造力 」に向けた相互作用は起きない。
相互作用が起きやすい環境を整えるためには、積極的に様々な情報源に触れ、知識基盤を拡大していかなくてはならないのである。

意識して物事や情報などに目を向けるようにすると、相互作用のインスピレーションが至るところに転がっていることに気がつくはずである。

「 変容力 = 創造力」における相互作用は、感覚をフルに発揮し鋭く観察し、新しい価値やアイデアと考え方などを、点と点を結ぶように繋ぎ合わせて自己独自の視点に立って可能性を思い描くことから始まるのである。

「 地域を生きる ” 自分を活かす ” 」ということは総じて ” 物事と人に関わること ”であり、自分を活かしながら地域を生きるその生き方を補正・修正することでもある。

大事なのは、自己肯定感があろうが自己効力感( 可能感 )があろうがなかろうが、問題や課題を見落とさないことだ。

あらゆる状況変化に巻き込まれている自分へのその様な自己の正しい道理( 道義 )という正義への責任を求め、自体が繋がり合いのとれる自己の志向性とその可能性を問うがために ” 自分への配慮 ” というものを知り続け、未来に向かって進むべきでなのである。

それには、自己自身のトゥランスフォーメイション「 変容力 : transformation 」によって自分を変化させ進化・発展への矛先を求めることが必要であり、” 自己発展力( 発想力と展開力 )の発創 ” による「 自己プロモート 」によって、未来の原義そのものに地域自らを投げかけていくということが重要となってくる。

「 アンラーニング( unlearning )」に伴う ” コレクティヴ・アクション( 修正力 : corrective action )” によって、互いに「 自分自身の ” 基幹自己力と枠組み ” を見直す 」ことは、「 関係の相互性 」 においての価値観の共有や多様な状況統合としてその効果の構成は複雑ではあるものの、 ” 互いの価値観の共有や新しい価値観を生み出すことができ、変化のみならず進化・発展していく「 変進力 = 変革力( 又は変容力 )」を高めることを意味するものである。

互いに作用し影響を及ぼし合う ” 連繋 ” または「 連繋思考 」によって ” 枠を超えて力を繋ぐ ” ことは、価値観の共有や多様な状況統合として、その効果の構成は複雑ではあるものの、自分の枠を超えた ” 越境 ” において互いの価値観の共有や新しい価値観を生み出すことができ、変化し進化していく「 変容力 」が見込まれる。

「 相互交流 」の一定の範囲の中に包み込む ” 包摂 ” という ” 相互の関係 ” づくりであり、価値観に包括される従属関係はその交流範囲から異種・多種を受け入れ取り込んで「 ” 知識 ” の ” 生成 ” 」を行っていくことによって、変化に対応( 適応 )するのみならず新しいものへと進化・発展する持続的な ” 変進力 ” である「 変容力 」を身に付けるこが必要になるといえる。

それは、信じる未来の自分を発見し持続可能性を創造し続けてゆくそれ自体が目的・目標の実現や達成に向けた ” 人となりの前向きな追求 ( 自分への配慮という大切な活動によって自己の志向性とその可能性に勇往邁進すること )” としてある。

自己と地域の同時発心に未来効果を眼界展望する ” 力 ” の発現は、自分自身をかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気の責任と謙虚さにある。
” 自分への配慮 ” という大切な活動に心の怯みや動揺のない攻め強さと心の誤りや不覚のない注意深さは、” 地域を生きる自分を活かす ” 発心が時を一変させる基調であり、自己自身と地方地域とが一体となった世界を巡らす勢いを盛り返し、” 自分を生きる地域を活かす ” においても自らの心を貫く勇気を維持しえる。

未来を信じる力と持続可能性を生み出す「 自主力 」によって自己自身を生き継ぐ自分こそが、いささか憂鬱な立ち往生と戦い、心のままに現実を直視し守り備え、コミュニケーションとコミュニティの未来形から遮断されることなく誇らしげに直立した先駆者ということになる。

その様な中で、主体おいて互いに働きかけ影響を及ぼしながら作用する感情状態や思考状態と行動状態を変えつつ実践していく ” 相互作用 ” に伴い、付随して ” 力のつり合い ” をとる自己としての「 自主力 = 相互作用 」というものが持つ重心と力が働き作用する着力点( 作用点 )による ” コレクティヴ・アクション( 修正力 : corrective action )により、地域内・外部に限らず ” 枠を超え力を繋ぐ ” 様々な知識や経験を活用して既存の問題や課題の解決や新しい価値を生み出すとともに、地域内・外部の交流範囲から異種・多種を受け入れ取り込んで複合を生成しつつ変化に対応( 適応 )して新しいものに進化・発展させることなどが期待される。

” 枠を超え力を繋ぐ ” 越境によって、「 価値を繋げ生成する = 新しい価値を生み生成する 」とした自己自身の ” 新たな生成 ” 。

自分の価値ある役割で本当に実現したかったことの再発見と実行に移すための自主的な取り組み方 は、” 人材・物材・事材 ” の ” 技術と生成と実利 ” における技術性( 又は技術力 )と生産性( 又は生産力 )の効果・効率・円滑に重点を置いた配分と仕分けによって組分けられる「 構成を再編成 」していくことである。

課題や事象間の ” 繋がりの複雑性 ” に目を向けるのとともに、総体的に弱め合うことのない強め合いの条件とその「 潜在力 」を探すことにある。

ここで期待されるのが先の ” 意識力 ” に伴う「 律動力 」であり、「 変容力( ransformation : トゥランスフォーメイション )」は ” 複合力 ” の捉え方や考え方を以て「 律動力 」により ” 修正力 ” の活動量を高め、地域内・外部に限らず総体的に多種多様な価値観を許容し、多様な知と知の新しい組み合わせを生み出す「 包摂力 」のある ” コレクティヴ・アクション( 修正力 : corrective action )” の力に「 変革力」を見出すということである。

大きな変化について広い視点で深く構造的に捉え考え抜く力を高め、更に前へ進める力( 前へ踏み出す力 )の ” 自主性を高める ” ことである。

” 自主力 ” は、幅広さと深さを伴う変化への対応策( 解決策 )を導く着力点として「 自主力 = 変容力 」となる。

求められる ” 自主力 ” を活かして行動へと一歩踏み出した「 創造力 」とともに可能性を広げる ”「 変容力 」は、自主性を必要な能力の一つとして進んで物事に取り組む力であるといえる。

理想とする自分自身の在り方を欲し自己へと向い ” 生成変化 ” してゆくために必要な人間が、自己自身に対し自己自ら実行する「 変容 」とその実践において、目的や目標などにアクセスするために自己自ら支払うべき代価は「 構成 」されるが、それは単に問題や課題の解決ではないのである。

また、問題の発見へと結びつく修練や努力と肯定感・可能感などの働きや作用でも決してなく、知識や情報の恩恵と偶然性への依存でもないのである。

それは、その人間自らの不安や葛藤と危険性や冒険性などのもっとも価値ある代価に他ならず、その価次第によっては現実的に重要な問題や課題の発見へと繋がるものといえる。

自己創出の目的や目標を成し遂げるために生じたそれらの守勢的なものは逆寄(さかよせ)に転じ、人間自ら可能性に向かって自己の在り方を発見し創造することであり、理想自己に向けて現実を脱出のための冴えたる契機となり、逆襲への前進に勢いづくのである。

自らの投企と脱出のための冴えたる契機となり、そうして逆襲への前進に勢いづく。

人間自らを助けて救う自己として傾注警戒の状況や抵抗の状態にその代価を掛けた結果、人間自らの身に跳ね返ってくる報いとは、未だ知られていなかった自分がその自己自ら知らなかったかというような発見により有り得るところの探求や実践と経験の総体として、それらへの挑戦の可能性としての ” 自己力 ” の発現とその能作を意味するものといえる。

そうしてみると、自己自身やその活動と自己力の心棒は、「 地域を生きる ” 自分を活かす ” 」として成し遂げたいことの状態に成りたい力の能力であり、価値観の基準となる地域理念の力に深く関わる。

社会に存在する自己自身それぞれが『 社会構造の ” 変動 ” 』における様々な課題を自分自身に関わる問題( 自分ごと )として ” 問い直し ” 、解決へ導く大きな力をどの様に生み出していくか、ということである。

その問いを煮詰めるならば、自己としては先ず包摂性の ” コレクティヴ・アクション( 修正力 : corrective action )” に伴う不可欠なトゥランスフォーメイション「 変容力 : ransformation 」を高めることであり、必要な知識や経験と能力などの多軸な多様性を知るということである。

『 社会構造の ” 変動 ” 』といった様々な問題の解決や課題に対応していくにあたり、自己の志向性とその可能性における「 創造力 = 変革力 」と可能力( ケイパビリティ : capability )の広がりとともに自己発展力( 発想力と展開力 )の伸びを高めていくことになる。

そのためには、変革( 又は変容 )だけを意味するものではない自己の” 構成 ” への取り組みは、自己自身の生活や人生に関わる場は ” 多領域化 ” しているといえる中で、それぞれの自己が一同に乗れる様な社会の大きなプレートの消失により結果として自己自身は自分だけの或いは自分を含む ” 小さなコミュニティのプレート ” を生活様式( way of life )に幾つも作り出して維持しながら、自分を生きるという発想も必要になってくるであろう。

そして、社会的役割に即しつつ決して単一で統合されていない多くの経験的自己からなっているその自己自身の ” 行動 ” や「 相互作用 」をもとにして作られる ” 自己の認知構成 ” にあたっては、変化する社会や情報化社会に自己を適合させることで自己の多面的な可能性の高まりに伴い可変性はあっても自己を安定させる働きに意味を見出すことになる。

「 主意自己力 」は、形づくりの形成という従来型の ” 可変的な形成創造 ” から、新たに生み出し生み続ける生成という ” 持続的な生成創造 ” へと、形成思考や形成行動の発想から生成思考や生成行動への発想転換とその継続的展開を図り、変化のみならず持続的進化・発展の自己力が求められる。

状況の変動があっても大きな影響を受けない ” 主意自己力創造 ” の持続的な生成変化思考に基づく課題生成系思考と生成発想が、地域事の帰趨を決する局面の切り札となる。

自分にしかない考え方や行動などを見つけ出して自己の価値創出を目指す過程において、二項対立的なテーマとして挙げられるとするならば、それは「 形成活動と生成活動 」である。

これまでは、課題形成を重視しつつ自己の過度な形成志向( 指向 )を重んじてきた形成系思考と形成発想は ” 継続性 ” としてであり、必要とされる変化を閉ざし意味を失い形骸化する可能性がある。

これからは、潜在性における課題生成を追究( 追求 )すべきであるといえる。

適度な生成思考( 指向 )の生成系思考と生成発想は ” 持続性 ” としてあり、将来に向けての変化に対応(適応)するのみならず、新しいものへと進化・発展し得る自己潜在力とその可能性をもつ。

形成的活動と生成的活動の二項対立は絶対的なものでなく、一つの活動に両方の側面が内在しているケースもある相対的な概念ということもできるし、双方が共存する考え方ということができる。

時代の変化とともに形成化は地域力が鈍化してきたときに更なる進化・発展のために継続化を図る場合や安定化を図る手段としてこれまで定着してきたが、急激な環境の急激な変化があれば安定性に欠けるのは当然のことなのである。

「 “ 形成定着 ” から ” 生成帰着 ” への脱構築 」は言わずもがな、近い過去からの形成的活動を継続して図ることによって一時的な地域の向上を図ったとしても、果たして自己の価値創出の高まりとともに近い将来に向けての持続可能性を生み出す力と成り得ることができるのだろうか、という点を考深すべきであるといえる。

主意自己力としての基本に帰するところの一つは、” 生成と生成変化 ” として何かを生み出す行為や過程である『 生産 』 あり、絶えず自分自身を産出し続けるという自己創出の ” 効力性・肯定性・可能性 ” において潜在的な価値を発見する ” 価値を繋げ生成する ” = ” 新しい価値を生み生成する ” ということである。

“ 形成定着 ” から ” 生成帰着 ” への発想と展開の一つである『 自己生産性( 自己生産力 ) 』において、自己の価値を創出する機会を切り拓き活用する能力( 行為能力 )を高めることを目的とした ”生成変化 ” の一つの主意自己力であり、” 感情・思考・判断・行動 ” の好循環と自己の価値創出の在り方と目標を示すことになり、様々な課題を包含しながら現状を超え将来自己を見据え、自己自身の主意自己力というものを再定義し刷新することが必要なのである。

自己自身としての最高基盤である『 生産創造 』は、自己の価値創出過程における生成変化の意識・意義・側面であり、強固な完成度の有能性を備えた人間の最も卓越した優位性の高い試金石でもある。

自己の在り方において、修正力に伴う変容力は、変化への対応のみならず、新しい生産性の進化・発展を志向( 指向 )し持続的に積み上げていく多様な相互作用における価値観に包括されたその交流範囲から新たな知識やスキルを習得するなどの取り組みや自己認識と自己改善とともに持続的な ” 主意自己力創造 ” など、自己に顕在・潜在する多様な課題対応への中心的且つ意図的な自己活性化対応とともに自己の主体性のもとに生成変化の一つである『 生産創造力』を「 相互作用 = ” 関係の相互性 ” 」 において捉え、単に変わることができる従来型の可変的に形づくる「 形成 」であるよりも、新しい価値を生み出し続ける蓮繋型の「 生成 」に重点を置いていくことである。

『 生産創造 』は、” 枠を超え力を繋ぐ ” 越境によって、「 価値を繋げ生成する = 新しい価値を生み生成する 」とした自己自身の ” 新たな生成 ” なのである。

自己実現価値の有効活用と効果的な修復向上・維持で守り育てる実践への主体的な取り組み方は、人間の合目的な生産活動の過程において、目的の対象に働きかけてそれを獲得しながら、人間としての豊かな自己の能力や自己の個性を実現させていこうとすることである。

自己自身の ” 効力性・肯定性・可能性 ” における潜在的な価値により、主意自己力の構造を再構築していくことになる。

併立共存を互いに認め合う ” 生成変化 ” の原基の進化・発展変化による多元的な世界の生成プロセスは、直線的から循環的な円環的生成へと相互に作用し影響し合う。

特異な集団( 地域 )における互い個( 自己 )として行動し活動する志向性とその可能性における緊密な力は、世界と関わる円環的な相互作用に影響し合い力動する。

” 潜在性と持続可能性 ” としての ” 生成変化 ” に伴う「 生成着想 」は、総じて自己の実際の活動に活用できて初めて価値があるのはないだろうかともいえ、自己自身における ” 近い過去から ” の枠組み( 常識や慣例など )を打破し、より本質的な自己活動をするために役立てるのであれば、活力を与えられ生み出される ” 方法 ” に寄せる努力や意識と孕む課題実現への展望と活路を開くことができ、自分事の帰趨を決する局面の切り札となるだろう。

要するに、全ての ” トランジション(移行転機:transition ) ” として自己構成の観点からその意味に焦点を当てた縦断的な捉え方や考え方に既存の自己概念に新たな価値や視点を加えようとする ” コンジェクチャー( 推測 : conjecture )” の力によって ” 自己構成の再編成 ” を行うことである。

そこに浮き上がってくるのは、” 推測力 ” に伴い進み動く勢いある人の基礎力として自主的なコンポジション「 構成力 : composition 」にまつわる何か、ということかもしれない。

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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KANKE 塾 《 自己プロモート 》 思巡の活力:【 II 】「 律動力 」

 

 

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   KANKE GRAND 日光

    ー ” With NIKKO ” ウイズ日光 ー

 

 

 

 

     KANKE 塾

 

 

Jäger im Schnee (Winter)  / monthly cycle, scene: The Hunters in the Snow (January), 1565. Pieter Bruegel (also Brueghel or Breughel) the Elder. Kunsthistorisches Museum Wien, Austria. Housed in its festive palatial building on the Vienna Ring Road, it is crowned with an octagonal dome.

 

 

     菅 家 塾

 

 

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   ー 地域を生きる自分を活かす ー

 

KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行

 

 

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 KANKE 塾 : 自己プロモート

➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

” 思巡の活力 ”【 II 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
〜 ” 意識力 ” に伴う 「 律動力 : control 」〜

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

『 人は地域を創り動かし 地域は人を創り動かす 』

・・・・ 個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化に伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。
実に ” 自分事 = 地域事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、課題解決の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 自己力 ” と ” 地域力 ” とに同じようなことがいえる。・・・・

……… 地域に生きるのではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” 発意と創造の実現を目指す自己それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた自分自身の在り様でもある。
全ては自己自身の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、”自分への配慮”という大切な活動による自己の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 地域を生きる自分を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面している『 取り巻く環境の ” 変化 ” 』といった様々な問題が、ただただ自分自身について想像を巡らさせることになる。
そうして常に絶えず完全なる客観性は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 自己潜在力 ” に伴う ” 自己力 ” を以て自主的な「 自己創出の ” 想定 ” 」というものは、自分の性格に因り成り行くのである。………

自己の自主性( 自己意識 )は、自分の現実・事実に関わり意識や行為者性と人であるのとともに視点や感情と信念や意志と欲望など意識的な経験( 主観的な側面 )と性格をもつ人それぞれが自己の主体であり、自分に対して活動する( 行動したり力を振るう )にあたって主観性( 主観的な見方や主観に依存する程度など )が伴うことを度外視することはできない。

とはいえ、自己が開けてゆく期待が伴う中で ” 地域を生きる自分を活かす ” ことは、自己主体の自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたり自己主体の思い通りを追求していくことでは決してなく、自己主体としての考えに閉じ籠っている在り方を開いていく働きとその作用が付随・関連( 又は連関 )するものといえる。

個としての ” 生活世界 ” と集団としての ” 地域世界 ” の問題や課題をも主題化し、共通の客観性は相互主観性( 共同主観性または間主観性 )に構成され得るともいえ、諸個人が互いを主体として承認しつつ単一の世界を共有しているような事態にある「 相互作用 」の成り行きにおいて客観性が基礎付けられ、自己と地域の分化に先行する基底的な構造ともいえるのである。

観念的且つ理論的に考えられた社会に対して現実の社会は、人間の意図とは関わりなく部分的にまた全体的に変化する社会変動にあり、刻々と変わる環境に対応する ” 力 ” を身につけ、それを強化していくことが重要となる。

自己自身としては、” 地域社会の疲弊 ” の「 構造的 」な問題である ” 人口減少と地域経済縮少 ”などによる多面的にあらゆる側面で考えられる ” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” への多様な影響を克服し、将来にわたって活力ある自分を維持することを目的・目標とした多様なモチベーションやスキルなどの重要性が高まるのとともに、従来の自分自身としての生活の基本要素に支えられてきた生活の ” 相互活動 ” に伴う生活様式とその「 構成的要素 」 とは異なる新たな捉え方や考え方をもつことが必要になってきている。

「 判断 」とは、” 知る ” ことを意味するものといえ、その「 判断力 」は ” 知る力 ” であり、これからの時代を生き抜くために自己自身は社会変化に対応(適応)して変化するのみならず、” 変化することは進化・発展することである ” とした「 判断力 = 変容力 」が特に重要なものとなる。

内発的動機付けと外発的動機付けによる判断の両者は、ややもすれば絡み合いながら働き、相互に他に移行するというような相互作用はありうるが、「 判断力 」によって最終的に価値判断を決定するのがもっとも客観的なもっとも深い事実判断であるということもできる。

自己自身としての「判断力」とは、そのような ” 認識力( 自己認識 )・ 評価力( 自己評価 )” に ” 洞察力 ” を通した「 判断力 」であり、未来を信じる力と持続可能性を生み出す力を以て自分の価値ある役割で本当に実現したかったことの再発見と実行に移すための自主的な取り組み方という ” 自己創出 ” なのである。

取り巻く実社会の環境変化という乗り越えるべき大きな課題の解決へ向けて取り組むにあたり、未来を信じる力と持続可能性を生み出す力( 又は変化対応力・適応 )の一つとして、 要するに自分の感情や思考と行動をはじめ信念や価値観とニーズや強み弱みなどを意識的に捉えることである。

” 理解する自己認識力によって気づきで終わらせず継続的な行動に移し、自己信頼や自己効力感などの在り方である自己変容へと確実に繋げていく「 意志力( 意力 )」” というものが特に必要であるものといえる。

人間ひとり一人の個を尊重する多様性の時代、様々な価値観を共有する多様化する社会。

多様性に対応するため多様化の意識に導かれ多様性が重視される中で、自分自身の本当の在り方は、一般社会に存在する個性を活かし自立した自己として、時代の変遷に伴う状況や情勢とその環境に合わせて行動や考え方を上手に切り替える ” 適応力( 対応力 ) ” が必要である。

だがしかし、たとえ状況が変化しても適切な行動や考えができるようにするなど、自分の一時的ともいえる可変的な新しい価値などを単に探り求めていくだけのことでよいのだろうか。

自己自身を取り巻くこの様な環境の変化に対応していくにあたり、不思議な思い込みによって知らず識らずの間に間違った ” 判断 ” や思考のエラーなどに陥ったり傾いたりする自己にならぬようにすることが大切である。

固定的謬見や先入的謬見( 偏見、先入観、誤り、思い込み )などに照らし合わせ、情報を如何に正しく認識し答え出せるか、先ずは ” 思い込み ” によって間違った「 判断 」になっていないかどうか ” 問い直し ” をしてみよう。

そのためにも、自己自身としての自主性をもって ” 意識的 ” に( 又は ” 意識力 ” により )問題・課題を解決・対応するために行動することである。

自己の ” 外部 ” との関係によって円環的に働き作用( 作動 )する結果として発現する潜在性( 又は共同的潜在性 )と活動性の志向的且つ潜在的な力である「 力能 ( 力量や実力と能力や才能 )」の ” 可能力 ” というものを重視した大きな視点をもつことである。

そしてさらには、固定的・先入的謬見を解きほぐし、活動の高まりや広がりを生じさせる変化への ” 変進力( 又は変革・変容力 ) ” ともなる 「 自分のリズム( 律動 : rhythm )」を自主的にもたらすことである。

知は力なり( 力は知なり )” として、この「 努力の ” 余力( 力のいろいろ )” 」の効果価値がもたらす点を捉えて認識し、その効用の質を見直すべきである。

” 問い直す ” ことは、自分自身の本質に迫る行為であり、” 自分への配慮 ” という大切な活動による自己の発意と創造の志向性とその可能性にある新たな自分自身の在り方としての姿や自己の内に眠る「 潜在力 」に気づき、次なる問題や課題を生み出す切っ掛け( 契機 )にもなり得るものといえる。

人間は何かに慣れると、容易く( たやすく )飛躍したり勢いの余って安易に物事を ” 判断 ” する方向に流れていくのであり、普遍的に大切な ” 問い直す ” ことが自己において今改めて強調される理由とその背景にある危機感などを捉えることである。

「 判断 」とは、” 知る ” ことを意味するものといえ、その「 判断力 」は決める( 決断 )力ではなく ” 知る力 ” であり、” 変化することは進化・発展することである ” とした「 判断 = 変容力 」なのである。

枯渇することのない基礎力や努力はもとより、努力過程にある副産物の価値「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」も鈍く衰えてくるのではない。

固定観念に囚われ主観のイメージに陥る傾向や先入観に囚われバイアスが掛かる偏見などによって、全ての力は総じて相応しい力としての働きとその作用は凝り固まったり偏ったりするなど、” 思い込み ” によって本来の力の効能( 又は能力性 )は劣りやすい。

また、固定観念( 主観的 )は ” 個人の思い込み ” であり、対する既成概念は ” 社会の思い込み( 客観的 )” でもある。

そもそも力とは、変化する原因となるものであり、総じて力は ” 捉え方や考え方などの道因や素因となる「 判断 」” を指すそのものであるともいえる。

多様性の尊重から相互に成り合うための多様化への転換の必要性や持続的発展可能な対応などが求められている中で、多様化は多様な領域で使用されるが、その指し示す内容は領域により差異がある。

元々あった本来の多様化( 多様性 )は、これまで進展こそしなかったともいえるが、今これを敢えて取り沙汰するのも先の不思議な社会現象の一つであり、特に ” 思い込み ” に惑わされやすいキーワードである。

多様化の促進・支援( 進め方と効果目的・目標など )には、多様な人や価値観などを包摂する社会を形成することが非常に大事な重要度としてある。

多様な人が不自由なく暮らせる社会であることは人々の豊かさや社会の活力の向上につながり、さらに多様なt特性や価値観と人材やキャリアなどの形成が促進されることはイノベーションの創出や社会の活力向上につながり、多様化を促進し支援することは重要だということである。

個々の人がその特性を活かし生く働くことに複合的な ” 発想と展開 ” が生まれ、総じて” 発展性 ” が見込まれて、変化への真の「 推進力 」となり得る。

多様な生き方を可能にすれば総じて人々の豊かさや社会の活力の向上につながり、多様な働き方を可能にすることは総じて生産性向上につながり、多様なニーズに対応することは満足度を向上させることはもちろん付加価値の向上にもつながるということなのである。

常に絶えず人間の社会生活ないし社会関係に基づいて発生する社会現象は、社会全体或いは特定の社会や集団において見て取れる思考や行動と行為や状況など広く話題を席巻するような大きなブーム( ” 変化への推進力 = 変進力 ” というムーブメント )といえる。

その様な中で、多様性に適応するため多様化の意識に導かれ多様性が重視され、その多様を寛容に受け入れよう尊重しようという社会の動きそれ自体は素晴らしいことでなのである。

しかしながら、その多様性といった捉え方や考え方が全て間違っているとは言い難いものの、本質的に備わっている ” 多様さ ” の根本( 基礎 )の認識・理解をはじめ加速化した変化や顕在化した問題・課題( 多様化の促進・支援の進め方と効果目的・目標ゴールなど )について整理もせずに、それらを半ば度外視したゴールの不明確な多様性( 又は多様化 )という捉え方や考え方には特に注意を要する

この様に、人間ひとり一人の個を尊重する多様性の時代と様々な価値観を共有する複雑化・多様化する社会の根本を成す基本的なことの大凡を知ることから始めるべきであり、これに限らず何事も表面化された上辺( うわべ )を見るだけでは済まされないのである。

固定的謬見や先入的謬見( 偏見、先入観、誤り、思い込み )などに照らし合わせ、” 自分への配慮 ” という大切な活動による自己の発意と創造の志向性とその可能性に関わり、” 思い込み ” によって間違った「 判断 」にならないようにすることである。

時代の変遷に伴う環境の変化において直面する問題や課題の捉え方や考え方について ” 問い直し ” をすることが大切であるといえる。

移り変わりの素早いトレンドに対応する変化対応力が求められる中で、現在の差し当たり直面する問題や課題に対応するだけではない。

今後も特定の現象や結果が起こる可能性が完全に予測できない状況であるとした不可確実性の時代の移り変わりに挑んでいくにあたり、「 判断 」は ” 知る ” ことを意味し「 判断力 」は ” 知る力 ” としてあり、「 思考力 = 実現力 」に伴い対応( 適応 )への変化のみならず進化・発展していくための力 ” 変容力 ” でもあるということを意識的に受け入れ大切に考える姿勢をもつことである。

すなわち、自分自身の「 判断 」が自主的に自己を変化させる原因となる捉え方や考え方などの道因や素因に大きな影響力を与える( 大きな影響力を生み出す )といった重要性認識をもって取り組む姿勢が必要であるということになる。

「 発展力( 発想力と展開力 )」や「 変革力( 又は変容力 )」とその力強さは、この様な ” 多様性 ” の中に存在し、類似性の中には存在しないともいえよう。

多様性に対するゴールを明確にすることは、特に重要なファースト ステップである一方、反復性と ” 意識性 ” という存在は変化への真の「 推進力 」として機能させることが特に必要となる。

” 多様性と意識性 ” が同時に存在し互いに補完し合えることが重要であるといえる。

反復性と ” 意識性 ” を構築し無意識の偏見を生むようなリスクを減らし、その反復性と ” 意識性 ” を存在させれば変化への真の基礎力である 「 発展力( 発想力と展開力 )」や「 変容力 」として機能する。

多様性に適応するため多様化の意識に導かれ多様性を短絡的に重視するのではない。

多様性または多様化の効果目的 ” 力の働きとその作用 ” を的確に導き出し、その多様性に ” 反復性と意識性 ” を伴わせ両立するものに向けて取り組む一方、他者との一致協力( 協調や協働など )が大切であるともいえる。

我々は他者の言動に敏感に影響を受ける中で、賛成であれ反対であれ、それに敏感に反応し自分の態度を示す人たちが社会の中には一定程度存在する。

しかしながら、よくわからないという人たちもいるし、そんなこと関心がないし考えたこともないという人たちもいる。

その様な段階( レベル )で 自分自身が ” 思い込み ” によって自己の態度を固定させてしまうのであれば、自己自身に活動の高まりや広がりもたらす ” 自分のリズム( 律動 : rhythm )” とその幅広く行き渡る現象は発生しないまま、自分の事態は現状のまま収束していくことになり、決して複合的な ” 発想と展開 ” が生まれこともなく、総じて” 発展性 ” が見込まれることはない。

” 思い込み ” に囚われ惑わされているときほど、なかなかそのことに気づきをもたらすことがないものである。

その ” 思い込み ” というものを極力排して考えられるようになるために有効な方法は、自分の考えを客観的に見ることができるよう ” 自己の考えを構造化する ” ことだ。
その具体的なやり方は、自分が考えたことや自分が出した結論とその考えや結論に至った根拠を洗い出すというものである。

自己において何か考えが浮かんだり自分なりに結論に至ったりしたとき、先ずはその考えや結論に至った根拠が重要になってくる。
そして、その根拠ひとつ一つを人間の固定的・先入的謬見( 偏見、先入観、誤り、思い込み )などに照らし合わせ、偏った考えになっていないかどうか見直すことである。

ひとり一人の人それぞれが ” このもの( この自分 )” であるとする存在の仕方( 在り方 )として、” 可能性・現実的・必然的 ” とそれらに対応する判断の有り様を含めた潜在的な力である ” 自己の力能( 自己力 )” というものなのである。

それは、” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の発意と創造の志向性とその可能性に向かい超え出でる中で、自己の ” 外部 ” との関係により円環的に働き作用( 作動 )する結果として発現する潜在性( 又は共同的潜在性 )と活動性の志向的且つ潜在的な力量や実力と能力や才能など、自己創出を成し遂げることができる潜在的な発展性と可能力性であるともいえる。

この様な自己潜在力にある自己可能力とともに自己発展力( 発想力と展開力 )に関わる「 認知能力に伴う調節力 」をはじめ、調節力に不可欠な「 意識力に伴う律動力 」や律動力に不可欠な「 軌道力に伴う可変力 」と可変力に不可欠な「 想像力に伴う構成力 」等々その他、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」は限りなく多面的に幅広い。

自分をコントロールする ” 調節力 : control ” が自分自身に不可欠なのは何故だろうか、、、、、。
何故ならば、それは自分自身のリズム「 律動力 : rhythm 」というものを崩さないためにだ。
このリズムの進み動く勢いある ” 律動性 ” がなければ、人は躓きやすいし物事は進みにくい。

自分の ” 変進力 = 進化・発展力 ” ともいえる「変容力」で進み動く勢いある基礎力である自主的なリズム「 律動力 : rhythm 」が弱いか乱れるか落ちるかは、 ” 意識力( アウェアネス : awareness )” というものが不足しがちだからなのである。

思料・思惟・思索は、いろいろと思いを巡らし考え思いはかることや論理的に筋道を立てて考えることであり、結論を導き出すなど何かしら一定の状態に達しようとする過程において筋道や方法など模索する精神の活動にすぎず、広く主観的・感情的な心の働き又は一つの筋道を追って判断するという客観性の思いや多く抽象的な事柄について順序立て深く考えを進めているにすぎないのである。

脳裏に閃いたり脳髄を絞ってみたところでも、頭を熱くして頭を捻り必死で考えを巡らすに等しく、イメージを膨らめ思い浮かぶアイデアを沸かし知恵を絞る思案に苦慮するだけのことであり、” 意識力 ” というものは実現力の好循環と向上が期待されるものなのである。

” 意識力( awareness アウェアネス )” とは、気づきや認識などによってハッキリ知ることであり、” 関心や態度と自覚や直観( 精神的・感性的な知覚 )などによって全ての志向的な体験を意識し新しいものに発展させる ” ことを意味するものであるといえる。

” 自分への配慮 ” という大切な活動による自分の ” 外部 ” との関係によって円環的に働き作用( 作動 )する結果として発現する潜在性( 又は共同的潜在性 )と活動性の志向的且つ潜在的な力量や実力と能力や才能というものがある。

自己創出を成し遂げることができる潜在的な発展性と可能力性ともいえる自分の力能( 自己力 )は ” 意識力 ” にあるといえ、” 自分の外部や異種・他種との多様なコミュニケーションや多種のコミュニティと交わることよって ” 意識を変え ” 進化し新しいものに発展させる ” といった進み動く勢いある 「 律動性 」といえるものなのである。

自分以外の部外者を排斥して退けたり自分の外部を尊重せずに退けて受け入れなかったり自己主張を一方的に差し述べたりするなどは、自分本来の「 律動力 」や ” 意識力 ” そのものを遮る排他的なものとして以っての外( もってのほか )である。

いたずらにアグレッシブ( 攻撃的 )であったり、ノンアサーティブ( 受け身的 )であった、パッシブアグレッシブ( 作為的 )であったりするのは、自己中心で独断的な考えや意志を押し通そうとする捻出した我意として、自分一人の考えや自分の思うままにしようとする心持ちの酷さにある。

排他的とともに ” 自己への配慮 ” というものをを弁えない愚鈍な心に柔軟で適性な判断力と理解力が鈍く愚かで知識が足りないのに加え、” 知力( 知的な能力または知恵の働きとその作用 )” が伴わないので目的・目標に対する計画を具体的に設定した上で実行する能力である「 思考力 = 実現力 」が乏しいのである。

固定的で狭い思考に陥りがちなのは、物事の根源を追求する思考力が養われて( 鍛えられて )いないということであり、常識を疑い固定観念の壁を崩して知識に普段の生活にはない特有の概念を知るなど ” 知的思考力 ” の真髄を導くことである。

” 地域を生きる自分を活かす ” ことにおいて、コミュニケーション知やコミュニティ知は ” 自分を活かす ” 力となるのであり、コミュニケーション力やコミュニティ力を身に付けるための方法は、豊かに ” 自分を生きる ” ための知的技法としての ” 地域を活かすコミュニケーション & コミュニティ ” であるともいえる。

目的・目標に対する計画を具体的に設定した上で実行するために必要なのは、潜在力 / 認識力 / 評価力 / 洞察力 / 判断力を通した「思考力」を基礎力として、発見力………  発想力………  展開力………  推進力……… 、そして実現に向けて実行する行動力、さらには国際力によって地域課題のプロセスを国際的な現場を活用し実行する力、、、、、。

多かれ少なかれこの過程を踏んで( 努力を通じて )人は常に絶えず行動しているが、普段知らず知らず自然な流れで無意識のうちに通り過ぎ無意識の行動から生まれるもの少なくない。

しかしながら、この一つひとつの力とこの全ての力が ” 知力( 知的な能力または知恵の働きとその作用 )” としてあり、特に「 思考力は実現力である 」といっても過言ではなく、論理的思考力に伴い ” 知的思考力 ” を身に付けるべきことである。

「 思考力 = 実現力 」であり、 判断力によって思考を変えるとき( 知的思考力 )、意志や意思をハッキリと決定して( 意思決定力 )、自分を変えること( 実現力 )を忘れないことだ。

目的や目標に向う一連の行為や活動に決断という正当理由で偶さか( 適さか )誤ったことをしてしまうのが人間というものであり、決断というものは場合によっては「 判断 」で対応する能力の無さで引き起こす脅威ともいえる。

「 地域を生きる ” 自分を活かす ” 」ということは物事と人に関わることであり、自分を活かしながら自分を生きるその生き方を補正・修正していくことでもある。

再度繰り返し、自己肯定感があろうが自己効力感( 可能感 )があろうが問題や課題を見落とさないようにすることを必ず忘れずに。

あらゆる状況変化に巻き込まれている自己へのその様な自分の正しい道理( 道義 )という正義への責任を求め、自身が繋がり合いのとれる自己の志向性とその可能性を問うがために ” 自分への配慮 ” というものを知り続け、未来に向かって進むべきなのである。

それには、自己責任の自覚を持った上で真意が伝わる率直や対等に向き合い押し付けることなく、受け止めつつも伝えることによって互いが理解・納得できうるとした誠実さが必要だといえる。

多様性が重視されている今、自分の外部や異種・他種にある様々な価値観やバックグラウンドを持つ人と協力する場面を増やすことである。

相手を尊重しながら自分を伝えコミュニケーションやコミュニティの幅を広げるスキルとして、自分の主張を一方的に述べることなく相手の意見も尊重しながら自分の意見や要望を伝えるといった自分の気持ちも相手の気持ちも大切にすることで円滑且つ効果・効率性の高いアサーティブ コミュニケーション&コミュニティを身につけることである。

インタラクション( 相互作用 : interaction / Interaktion )は、” 根本にある発想が同一 ” であり、あらゆる「枠を超え( 枠組みを超え )」その根本概念は共有されている。

“ 相互 = 間 ” で行う(する)という二つ以上のものが互いに作用し影響を及ぼし合い、相互作用というアクション( 行動 )として一方的ではなく、インタラクティブ( 双方向 : interactive )でやり取りを行う相互作用( 交互作用 / 相互交流 / 相互行為)のことである。

互いに作用し影響を及ぼし合う ” 連繋 ” または「 連繋思考 」によって ” 枠を超えて力を繋ぐ ” ことは、価値観の共有や多様な状況統合として、その効果の構成は複雑ではあるものの、自分の枠を超えた ” 越境 ” において互いの価値観の共有や新しい価値観を生み出すことができ、変化し進化していく「 変容力 」が見込まれる。

「 相互交流 」の一定の範囲の中に包み込む ” 包摂 ” という ” 相互の関係 ” づくりであり、価値観に包括される従属関係はその交流範囲から異種・多種を受け入れ取り込んで「 ” 知識 ” の ” 生成 ” 」を行っていくことによって、変化に対応( 適応 )するのみならず新しいものへと進化・発展する持続的な ” 変進力 ” ともいえる「 変容力( ransformation : トゥランスフォーメイション )」を身に付けることである。

目的や目標に向う一連の行為や活動に決断という正当理由で偶さか( 適さか )誤ったことをしてしまうのが人間というものであり、決断というものは場合によっては対応する能力の無さで引き起こす脅威ともいえる。

「 地域を生きる ” 自分を活かす ” 」ということは総じて ” 物事と人に関わること ” であり、自分を活かしながら地域を生きるその生き方を補正・修正することでもある。

大事なのは自己肯定感があろうが自己効力感( 可能感 )があろうが問題や課題を見落とさないことだ。

あらゆる状況変化に巻き込まれている自分へのその様な自分の正しい道理( 道義 )という正義への責任を求めて、自身が繋がり合いのとれる自分の志向性とその可能性を問うがために ” 自分への配慮 ” というものを知り続け、未来に向かって進むべきである。

それには、自分自身のリズム「 律動力 : rhythm 」によって自分を変化させることが必要であり、” 自己発展力( 発想力と展開力 )の発創 ” による「 自己プロモート 」によって未来の原義そのものに地域自ら投げかけていくということが重要となってくるのである。

そこで問われるのは、決して重くはならず ” 軽妙に生きれる自分 ” として、物事の流れに沿って常に軽妙洒脱に一部に生じた状態の変化が次々に周囲に伝わっていく「 律動力 」とその現象をもたらすことができるかということである。

今時代と社会現象の全てを通して可能性に存在する地方地域としてそれを手立として人や物事が流れに乗り滞りなく良い条件を引き出し展開する必要にきているということなのである。

” 回転が速く柔らか頭の「 自己力 」” は、どんな時でもその場に応じて状況の把握と判断ができるのであり、観察力や理解力があるからこそ ” 自分に自信がある ” ということになり、自分に ” 思い込み ” がなく、全てに無理なく素早く反応し行動することができる。

何故ならば、その様な自己は論理的な意思決定や判断の論理的な根拠とそれらの構造をしっかりと持つことができるからである。

理想とする ” 活かされた自分 ” は、自分の考えを構造化することによって自分の考えを客観的に見ることができるようになり、その考えに至った根拠一つ一つを持っている錯覚や偏見に照らし合わせ ” 問い直し ” 、偏った考えや誤った考えや ” 思い込み ” になっていないかなどを検証することができる。

効果的且つ効率的にスムーズな円滑さを以て人や物事を展開性に富んで進み動かすには、現状維持バイアスを外すことができなければそのように全て行動を変えることはできない。

変化や未知のものを避けメリットやデメリットを判断し非合理な選択をする傾向として、思考や判断に特定の偏りをもたらす ” 思い込み ” 要因や得られる情報が偏っていることによる認識の歪みになどについての論理的且つ心的な思考や論証の組み立てと法則的な連関性など、論理の根や心の根は奥底に秘めらているからこそ論理や心であってその根拠たる所以なのである。

認知力に伴い付随してつり合いをとる ” 意識力 ” によって強め合う ” 律動 ” の「 律動力 」。
ー 随処に主となれば立処皆な真なり ー として、認知作用と意識作用のそれぞれの置かれた立場や環境で、それぞれの成すべき務めを精一杯果たせば、必ず真価を発揮することができる。

問題解決や課題対応の随所と立処に整然と根の走りと引きが表立つ「 律動力 」と周期的に繰り返される自分のリズム現象は合理的且つ理性的に気が利いたものになるのであり、” 軽妙に自分を活かす ” のその軽妙洒脱さは、自分への配慮によって自己の志向性とその可能性が明晰なればなるほど見事なもんであるといえる。

それは、信じる未来の自己を発見し持続可能性を創造し続けてゆくそれ自体が目的・目標の実現や達成に向けた ” 人となりの前向きな追求 ( 自分への配慮という大切な活動によって自己の志向性とその可能性に勇往邁進すること )” としてある。

自己と地域の同時発心に未来効果を眼界展望する ” 力 ” の発現は、自分自身をかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気の責任と謙虚さにある。

” 自分への配慮 ” という大切な活動に心の怯みや動揺のない攻め強さと心の誤りや不覚のない注意深さは、” 地域を生きる自分を活かす ” 発心が時を一変させる基調であり、自己自身と地域自体とが一体となった世界を巡らす勢いを盛り返し、” 自分を生きる地域を活かす ” においても自らの心を貫く勇気を維持しえる。

未来を信じる力と持続可能性を生み出す「 自主力 」によって自己自身を生き継ぐ自分こそが、いささか憂鬱な立ち往生と戦い、心のままに現実を直視し守り備え、コミュニケーションとコミュニティの未来形から遮断されることなく誇らしげに直立した先駆者ということになる。

その様な中で、自主的に互い働きかけ影響を及ぼしながら作用する感情状態や思考状態と行動状態を変えつつ実行していく ” 認知作用と意識作用 ” に伴い、付随してつり合いをとる自分としての ” 自主力 ” というものが持つ重心と力が働き作用する着力点( 作用点 )においての ” 意識力 ” なのである。

” 力というのは常に一対に現れる「 相互作用( interaction / Interaktion : インタラクション )」” であり、相互作用というアクション( 行動 )として一方的ではなく、双方向( interactive : インタラクティブ )でやり取りを行う相互作用( 交互作用 / 相互交流 / 相互行為)における全ては ” 力のつり合い ” である。

「 力点 = 主眼点 」として、相互作用のつり合う ” 均衡の効力( 力の効かし方や効き目 )” は、対力と偶力・合力と分力・並進力と回転力などを捉えた「 活動 = 相互作用 」における力の転換( 力点と作用点または着力点など )であり、物事の認識や理解と発想などの仕方でもある。

” 意識力( アウェアネス : awareness )” による気づきや認識などによってハッキリ知る自分自身の感情や思考パターンと価値観や行動の傾向やパターンを深く理解した上での関心や態度と自覚や直観( 精神的・感性的な知覚 )など全ての志向的な体験を意識した新しいものの発展などが期待される。

律動的な振る舞いがあってこそ自主性及び創造 ・可能性力が発揮され総体的に関わる周期的な反復 ” 繰り返しの力「 律動の干渉( 強弱・明暗・遅速・消滅など )」” は、自らの感情や思考と行動の波に飲まれて自己を客観的に見られない状態にある緊張と昂揚と心の調子の高さを示すものとは異なるものなのである。

自分自身の感情や思考パターンと価値観や行動の傾向を深く理解し自分の改善点に目を向けるのとともに、他を頼らずとも( 自らの力だけで )自己を変革する上での原動力となる 「 潜在力 」を探すことにある。

ここで期待されるのが先の「 調節力 : control 」であり、「 律動力 : rhythm 」は ” 調節力 ” によって ” 意識力( アウェアネス : awareness )” さえコントロールできれば、その ” 意識力 ” に伴う「 律動力 : rhythm 」は単に ” 発展力 ” にとどまらず ” 総合力” として常習化( 又は習慣化 )するものであり、” 意識コントロール ” の手順や法則をある決まった方式に落とし込み、定式に当てはめることができるはずである。

大きな変化について広い視点で深く構造的に捉え考え抜く力を高め、更に前へ進める力( 前へ踏み出す力 )の ” 自主性を高める ” ことである。

潜在性の ” 意識力 ” に伴う不可欠な「 律動力 」 によってコミュニケーション能力や熱意・意欲と行動力・実行力を生かしながら具体的な目標を設定していく自分の成りたい姿に向け自分を変えていくことができる自己形成能力や自己理解と自己管理能力や課題対応能力とキャリアプランニング能力などを含めた自己効力感を捉えることが特に重要であるといえる。

” 自主力 ” は、幅広さと深さを伴う変化への対応策( 解決策 )を導く着力点として「 自主力 = 変容力 」となる。
求められる ” 自主力 ” を活かして行動へと一歩踏み出した ” 創造 ” とともに可能性を広げる「 変容力 = 創造力」は、自主性を必要な能力の一つとして進んで物事に取り組む力であるといえる。

そうしてみると、自分自身やその活動と自己力の心棒は、” 地域を生きる自分を活かす ” として成し遂げたいことの状態に成りたい力の能力であり、価値観の基準となる自己理念の力に深く関わる。

社会に存在する自己自身それぞれが「 取り巻く環境の ” 変化 ” 」における様々な課題を自分自身に関わる問題( 自分ごと )として ” 問い直し ” 、解決へ導く大きな力をどの様に生み出していくか、ということである。

その問いを煮詰めるならば、自己としては先ず認知作用の自主力に伴う不可欠な「 調節力 : coordination 」を高めることであり、必要な知識や経験と能力などの多軸な多様性を知るということである。

『 取り巻く環境の ” 変化 ” 』といった様々な問題の解決や課題に対応していくにあたり、自己の志向性とその可能性における創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )の広がりとともに自己発展力( 発想力と展開力 )の伸びを高めていくことである。

そのためには、変化の激しい時代に対応していくにあたり、既存の価値観や知識に囚われず環境の変化に適応するアンラーニング( unlearning )によって古い知識や概念と価値観を捨てて意識的に新しい知識やアイデアとスキルなどを習得することであり、時代遅れとなり有効性を失った今までの知識や規範と価値観などを認識した上で自主的に必要なものを取捨選択しつつ新しいものを取り入れながら学びを解し( ほぐし )て軌道修正やアップデートをしていくということになる。

そこに浮き上がってくるのは、” 修正力 ” に伴い進み動く勢いある人の基礎力として自主的なトゥランスフォーメイション「 変容力 : transformation 」にまつわる何か、ということかもしれない。

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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KANKE 塾 《 自己プロモート 》 思巡の活力:【 Ⅰ 】「 調節力 」

 

 

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   KANKE GRAND 日光

    ー ” With NIKKO ” ウイズ日光 ー

 

 

 

 

     KANKE 塾

 

 

Der Mönch am Meer / The Monk by the Sea, between 1808 and 1810. Caspar David Friedrich. The Alte Nationalgalerie( lit. Old National Gallery )is a listed building on the Museum Island in the historic centre of Berlin, Germany.

 

 

     菅 家 塾

 

 

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   ー 地域を生きる自分を活かす ー

 

KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行

 

 

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 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

” 思巡の活力 ”【 I 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
〜 ” 認知力 ” に伴う 「 調節力 : control 」〜

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

『 人は地域を創り動かし 地域は人を創り動かす 』

・・・・ 個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化に伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。
実に ” 自分事 = 地域事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、課題解決の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 自己力 ” と ” 地域力 ” とに同じようなことがいえる。・・・・

……… 地域に生きるのではなく ” 地域を生きる ” 活線上の ” 自分を活かす ” 発意と創造の実現を目指す自己それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた自分自身の在り様でもある。
全ては自己自身の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 自分への配慮 ” という大切な活動による自己の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 地域を生きる自分を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面している『 社会課題の ” 難化 ” 』といった様々な問題が、ただただ自分自身について想像を巡らさせることになる。
そうして常に絶えず ー 完全なる客観性 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 自己潜在力 ” に伴う ” 自己力 ” を以て自主的な「 自己創出の ” 想定 ” 」というものは、自分の性格に因り成り行くのである。………

自己の自主性( 自己意識 )は、自分の現実・事実に関わり意識や行為者性と人であるのとともに視点や感情と信念や意志と欲望など意識的な経験( 主観的な側面 )と性格をもつ人それぞれが自己の主体であり、自分に対して活動する( 行動したり力を振るう )にあたって主観性( 主観的な見方や主観に依存する程度など )が伴うことを度外視することはできない。

とはいえ、自己が開けてゆく期待が伴う中で ” 地域を生きる自分を活かす ” ことは、自己主体の自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたり自己主体の思い通りを追求していくことでは決してなく、自己主体としての考えに閉じ籠っている在り方を開いていく働きとその作用が付随・関連( 又は連関 )するものといえる。

個としての ” 生活世界 ” と集団としての ” 地域世界 ” の問題や課題をも主題化し、共通の客観性は相互主観性( 共同主観性または間主観性 )に構成され得るともいえ、諸個人が互いを主体として承認しつつ単一の世界を共有しているような事態にある「 相互作用 」の成り行きにおいて客観性が基礎付けられ、自己と地域の分化に先行する基底的な構造ともいえるのである。

観念的且つ理論的に考えられた社会に対して現実の社会は、人間の意図とは関わりなく部分的にまた全体的に変化する社会変動にあり、刻々と変わる環境に対応する ” 力 ” を身につけ、それを強化していくことが重要となる。

自己自身としては、” 地域社会の疲弊 ” の「 構造的 」な問題である ” 人口減少と地域経済縮少 ”などによる多面的にあらゆる側面で考えられる ” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” への多様な影響を克服し、将来にわたって活力ある自分を維持することを目的・目標とした多様なモチベーションやスキルなどの重要性が高まるのとともに、従来の自分自身としての生活の基本要素に支えられてきた生活の ” 相互活動 ” に伴う生活様式とその「 構成要素 」 とは異なる新たな捉え方や考え方をもつことが必要になってきている。

「 判断 」とは、” 知る ” ことを意味するものといえ、その「 判断力 」は ” 知る力 ” であり、これからの時代を生き抜くために自己自身は社会変化に対応(適応)して変化するのみならず、” 変化することは進化・発展することである ” とした「 判断 = 変容力 」が特に重要なものとなる。

内発的動機付けと外発的動機付けによる判断の両者は、ややもすれば絡み合いながら働き、相互に他に移行するというような相互作用はありうるが、「 判断力 」によって最終的に価値判断を決定するのがもっとも客観的なもっとも深い事実判断であるということもできる。

自己自身としての「判断力」とは、そのような ” 認識力( 自己認識 )・ 評価力( 自己評価 )” に ” 洞察力 ” を通した「 判断力 」であり、未来を信じる力と持続可能性を生み出す力を以て自分の価値ある役割で本当に実現したかったことの再発見と実行に移すための自主的な取り組み方という ” 自己創出 ” なのである。

知らず識らずの間に不思議な社会現象としての人間にならぬよう、自分自身として自らが自主性をもって問題・課題を解決・対応するために行動するのとともに多様性や協調性などがある活動を行い、自己潜在力を引き出し解き放ち ” 自分をコントロール( 調節 : control )” しよう。

常に絶えず発現する社会現象は必ずしも未解決の普遍的な問題・懸案事項または不定的な事象に関する社会問題とは限らない。
良きにつけ悪きにつけ社会全体に急速に浸透して影響を及ぼす社会現象は時代の変遷であり、その時代の波・時流の変化に乗ってのことである。

この様な社会現象としての自分をどの様に捉え、自分自らどの様に対応していけるか、そのためには社会現象の活線上に自分自身の現象となっているものが真に ” 自分のやりたいこと ” なのかを自主的に顧みることが必要だ。

人間ひとり一人の個を尊重する多様性の時代、複雑化するのとともに様々な価値観を共有する多様化する社会。

『 社会課題の ” 難化 ” 』という乗り越えるべき大きな課題の解決へ向けて取り組むにあたり、多様性に適応するため多様化の意識に導かれ多様性が重視される中で、自分自身の本当の在り方は、感情や行動と思考などの原点として存在する自己として時代の変遷に伴う状況や情勢に沿った変化を受け入れ適応していくために自分の一時的ともいえる可変的な価値を単に探り求めていくだけのことでよいのだろうか。

その様に自分自身としての本当の在るべき姿を ” 問い直す ” にあたっては、不思議な社会現象としての人間にならないがために、皮肉にもその不思議な社会現象のそれ自体を ” 問い直す ” ことにより学び取ると、そう単刀直入にいうのは牽強付会の誹りを受けるだろうか。

” 問い直す ” ことは、自分自身の本質に迫る行為であり、自己の発意と創造の志向性とその可能性にある新たな自己自身の姿や自己の内に眠る「 潜在力 」に気づき、次なる問題や課題を生み出す切っ掛け( 契機 )にもなり得る。

人間は何かに慣れると、どんどん安易に物事を判断する方向に流れていくのであり、普遍的に大切な ” 問い直す ” ことを今改めて強調する理由と背景にある危機感を先立って捉えることである。

自己の自主性( 自己意識 )は、自分の現実・事実に関わり意識や行為者性と人であるのとともに視点や感情と信念や意志と欲望など意識的な経験( 主観的な側面 )と性格をもつ人それぞれが自己の主体であり、自分に対して活動する( 行動したり力を振るう )にあたって主観性( 主観的な見方や主観に依存する程度 )が伴うことを度外視することはできない。

とはいえ、自己が開けてゆく期待が伴う中で ” 地域を生きる自分を活かす ” ことは、自己主体の自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたり自分の思い通りを追求していくことでは決してなく、自己主体としての考えに閉じ籠っている在り方を開いていく働きとその作用が付随・関連( 又は連関 )するものといえる。

大きな課題に直面する中で思い通りにならずに行き詰まった時、それはこれまでの自分の活かし方( 生き方 )を ” 問い直し ” することにより見方が開ける契機なのである。

自分自身の価値ある役割で本当に実現したかったことの再発見と実行に移すための自身の自主的な取り組み方として、現時点の自己レベルを始点にした ” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の発意と創造の志向性とその可能性に向い超え出る ” 力のいろいろ ” に触れてみることだ。

” 自己発展力( 発想力と展開力 )の発創 ” による「 自己プロモート 」の拠り所として、人の基礎力( 人の能力一覧 )における一つの力、自主的な ” 自己調節力( 自己コントロール )” 。

” 調節 ” は、ほどよく整えてつり合いのとれた状態にすることであり、内観的に ” 認知作用の力 ” が関わるものであるといえる。

その人が持っている本来の力「 実力 」が内面的において自分一人の力「 自己力 」によって試され、感情や思考と行動などが包括された多様なコミュニケーション機能とコミュニティ機能の多くにおいて必要になる。

人によって様々な異なる性質がある中でも人それぞれが自分を整える「 調節力 」というものを身に付け向上させることが重要となってくる。

問題・課題の解決や対応を伴う目的・目標の実現や達成のための努力をしていくうちに、その過程で自ずと身に付く ” 努力の余力( 力のいろいろ )” の効果価値とその効用の質を見直すべき一つとしてある「 調節力 」。

「 調節力 : control 」とは、程よく自分を整えて、つり合いのとれた自己統制の状態にすることである。

自らの感情や思考と行動などを「 認知能力 」によって ” 調節 ” し統制する自己管理能力や実行機能「 自分をコントロールする能力 / self-control )」として、目的・目標の実現や達成のための行動に無理なく移し継続することができる力の働きかけとその作用を高めることを意味するものであるといえる。

気づきであろうがなかろうが多く人は、自らをより前向きに進んで行こうと自分を動かすことを強く意識するのである。

自ずと継続して行動できるようにするようになるが、その一方では何事にも揺るない自分自身を以って動くべき時まで決して軽々しく動かないといったような思いや考えも無きにしも非ずや。

様々なネットワークへの繋がりや知的コミュニケーションと知的コミュニティによって自ずと自分自身を学ぶしかないのであり、いつしか内観( 自己知 )や自己認知から高度なメタ認知( 自己の認知のあり方に対してそれをさらに客観的に認知すること )へと向かい、自分を自分で知る向きになっていく。

自己の認知や思考などを恰も第三者かのように自分を客観視したり理解したり振り返ったり、ときには ” 自分をコントロール ” したりするのである。

そうこうしている間に、「 自分への配慮という重要な活動によって自己の発意と創造の志向性とその可能性 」に向かい超え出でる時がやって来て、そうして自分自身をより正しく知るようになる。

自らのこの認知や思考は自らの信念か欲求か想像かもわからないとしても、畢竟ずるに着実でより実り豊かな ” 前進効力 ” に自らが富んでくる。

その様な中で、自分を自分で知ろうとして、自分の考えについて考えることへと向かう知覚とは異なり、特有の現象性が存在しない中で内観又は内観の結果である自己知は、自らがどのような動機で動いているのかを全存在と全感覚を使ってのみ理解できることになる。

言語でのみ自らを捉えて知ったつもりでも、無意識領域が大きく自己知は浅くなり、その認識的な強さに関わる信念も欲求も想像も生起的か傾向的かによって異なる。

自己自身を正しく知ることは意外に難しくても、先ずは自己認知として自己自身の認知や思考とともに自分の価値観や長所短所と強みや弱さを的確に把握認識した上で、全ては何故そうなのかを理解することである。

その上で、どのように行動すべきかを考える高度なメタ認知を用いることで自分の感情や思考と行動などを自律的・合理的にコントロールできるといった期待を持つことだ。

その期待の中で、感情知性が高ければ感情に関するメタ認知に優れ、より創造的な問題解決や課題対応において既存の知識を新たな分野に適応したり、既存の知識同士を組み合わせて新たな解決・対応方法を開発することなどが求められる。

これもメタ認知によって客観的に自己を捉え( もう一人の自分から捉え )、自分の感情や思考と行動そのものをも対象化した認識によって、物事や経験に対するより正しい理解や自らの認知行動をより正しく知る上での思考能力をもつことである。

自己自身の状態を明晰に判断するためのメタ認知的知識をもとにして、自分の考えの矛盾に自ら気づき、自らがもつ問題や課題の特性を把握した上で、その解決や対応などの方略を自ら修正して活動を行っていく。

自分自身の感情や思考と行動に加えて能力を把握した上で、現状を確認しさらに行動を変えていくなど、その複雑な過程に求められる自分の能力をもって変化に適応してゆくことになる。

自己分析が上手になれば、自分の知識や考え方などを見直すことができるのであり、それらに囚われずに常に自らを変化させ、外の変化に対し柔軟に対応できるようになる。

認知特性や課題と方略に関する知識を経験から蓄積し、それぞれを必要に応じ活用する中で、自分が何かを行う際にどのようなプロセスを踏んでいるのかを知ることや自らの思考や行動そのものを対象化し客観的に把握・認識する。

それらを実行する自らの内的アクセスは、自己の思考について特殊で特権的でもある。

他者への思考へのアクセスに対する相対的に高い信頼性が伴っており、探知といったような点で知覚との類似点がある一方においては現象性がないといった点での相違点もある。

信念や欲求と想像が生起的か傾向的かによって明らかに異なる中で、信念一般や欲求一般の大雑把に捉えべきではないところの自己に向かう志向性と現象性との二つの性質をもった想念一般を踏まえておかなければならない。

理性と感覚との間の想像力と交換可能なこの想念は、感情の端緒の結晶ではないものとして、想念一般は外部の対象など契機として生じ行為を生起させ人を行動へと駆り立てる。

根源性という人間に備わった心のうちなるものに気ままな熱心さと不毛な好奇心をもてば、感情の端緒の結晶ではない想念一般の現象性と大いなる志向性における最も小さくはあれど、理性と感覚の間の想像力と交換可能な最も素晴らしい快さを伴う思考の方向と考えざるを得ない。

その想念は、もっとも素晴らしい快さを伴う自分の思考の方向と自己の観念につながるものとして、心の只中で自己の自己に対する反省の営みが有している自ら限界の存在が暗示されはじめ、これによっておそらく何度も掻き消されながらそういった形での心の領域が深く積み重なってくる。

特に変化するこのような今だからこそ、特にこのようにメタ認知能力を高めるべきであり、自らの知識や考え方は陳腐で守株的に縛られていないかを確認し、常に自らを変化させることだ。

感情知性をもコントロールしながら変化にも柔軟に対応できるその能力は自己分析能力にも優れ、自らを客観視してモニタリングし続けていくならば、それは自ずと自分の弱点や不足などといったものが見えてくるはずである。

客観的な自己分析さえできれば、” 自分の感情や思考と行動などを前向きにコントロールする ” ことで、それだけ自らをより前へと進め成長させる機会は確実に増えてくる。

至らぬ準備などをして機会が訪れるのを待ち受けそのような満を持することなく、あらゆる変化に適応すること以上に自分を知り自分を進化させていく。

このような今に至る前は、多種多様な要素が合理的にも複雑に絡み合っている中で、ある特定の一要素を変えても大きな変化には至り難かった。

しかしながら、代替可能ということによってこの変化自体の中に全き淘汰があって変化できないだろうとしていたはずのそれ自体が実は変化できるということに気づきがあるはずである。

以前に戻そうと時期を逸して立ちゆかなくなる前に、枠に囚われた価値観を超え、自分の新しい価値づくりに向う新たな自らの生成に向け変化していくべき契機でもあるといえる。

この変化に従い、自分の感情や思考や行動がそれに合うように変えて順応するのではなく、この今だからこそ自らを学び自らを知り自らを判断して自らを進化させることだ。

自分を知るといったことは謎を謎で置き換えるだけではなく、一生続くであろう最も価値ある学びなのである。

自分を学ぶということは学ぶ可能性にあるよりも自らへの正義として自ずと学ぶことによって、実現されるべき究極的な価値として最も曖昧な最も正しい意義または解釈として自らを学ぶということになる。

時と場合によっては、収拾せんがため暗礁に居残り、吟味する留まざるを得ない境域もある。

今厳し過ぎる現実、理想にあるがまんまの目的・目標の動機や動因に確信と願望の時と人であるともいえる。
何もかも分からず先が読めず、深刻な脅威の警告に最悪シナリオの猛威の見極めができるか。

日常の停滞と非常の阻止も有り得る中、さらには喚起と警笛が起こり得る中、これまでにない規模に対して緊急の即効性がない。
非常時の崩壊はすでに始まりつつ、想定外の苦悩に迫られるのは必要性や重要性とその苦渋だけかもしれない。

多様な力の働きかけ作用する相互作用を意図的に一つに纏めて収拾のために束ね、吟味的なものはコントロールする力であり、左右する力のバランス力が必要となる。

自己実現や目的・目標の達成に向けての自発的な行動を促すコミュニケーションやコミュニティは、気づきや切っ掛け( 契機 )や踏み台( 土台 )として、その足掛かりや手掛かりのバネとなる。
手順のみでは決まりきった一定のパターン&タイプは対応できても、状況が少しても変わってしまうと対応できなくなる。

状況の想定や条件よりも状況に応じ具た体的な対応であり、状況に変わらず丁寧に具現化の質を高めることだ。
柔軟性を主軸にした客観性のある思考力に加えて ” 発想力と展開力 ” で捉え、冷静な判断で ” つり合う知識 ” を取り入れる。

「 地域を生きる ” 自分を活かす ” 」ということは物事と人に関わることであり、自分を活かしながら地域を生きるその生き方を補正・修正する。
大事なのは自己肯定感があろうが自己効力感( 可能感 )があろうが問題を見落とさないことだ。

選択可能性と期待可能性において自分の ” 自己責任と自己肯定 ” の前提を欠くこともある中で、一方では具体的に自己内での衝突の場合もあり、他方では具体的に他者との衝突の場合もある。

人間個々が関わるその全てに接触する個人の境界線と他者との境界線がある。

その合理的且つ安全で許容可能なパーソナルバウンダリーは、適切な境界面(境域)の相互作用において合理的・安全・許容可能な手法であるかを判別するためのものとして、対他的に主体の支配力ではなく、「 相互作用 」において双方向それぞれに影響するのである。

健全な「 相互作用 」は、適切なこの境界面が基盤となっいる感情や思考と行動において成り立っている。

なので、時には保護として働くこともあれば封じ込めとして働くこともあり、何を受け入れ何を受け入れないのか、個々が関わる全てに自分自身の「 自己コントロール能力 」が不可欠なのである。

知は力なり( 力は知なり )” として、この「 努力の ” 余力( 力のいろいろ )” 」の効果価値がもたらす点を捉えて認識し、その効用の質を見直すべきである。

インタラクション( 相互作用 : interaction / Interaktion )は、” 根本にある発想が同一 ” であり、あらゆる「枠を超え( 枠組みを超え )」その根本概念は共有されている。

“ 相互 = 間 ” で行う(する)という二つ以上のものが互いに作用し影響を及ぼし合い、相互作用というアクション( 行動 )として一方的ではなく、インタラクティブ( 双方向 : interactive )でやり取りを行う相互作用( 交互作用 / 相互交流 / 相互行為)のことである。

互いに作用し影響を及ぼし合う ” 連繋 ” または「 連繋思考 」によって ” 枠を超えて力を繋ぐ ” ことは、価値観の共有や多様な状況統合として、その効果の構成は複雑ではあるものの、 ” 越境 ” において互いの価値観の共有や新しい価値観を生み出すことができ、変化し進化していく「 変進力 」が見込まれる。

「 相互交流 」の一定の範囲の中に包み込む ” 包摂 ” という ” 相互の関係 ” づくりであり、価値観に包括される従属関係はその交流範囲から異種・多種を受け入れ取り込んで「 ” 知識 ” の ” 生成 ” 」を行っていくことによって、変化に対応( 適応 )するのみならず、新しいものへと進化・発展する持続的な力である「 変容力 」を身に付けることである。

不可能であることを否定しないが、可能とつり合うように不可能があり、持続というものは試みによって可能か不可能かの相違が生じる。

社会的現象の水準と自己的意識の水準とが密接に関わり、自主的な ” 転換力 ” による決断と転回の時ではあるものの、もはや現状を維持し得なくなって、何か新しい状態が模索される移行過程に起きる矛盾もある。

目的や目標に向う一連の行為に決断という正当理由で偶さか( 適さか )誤ったことをしてしまうのが人間というものであり、決断というものは、場合によっては対応する能力の無さで引き起こす脅威ともいえる。

この様な全てを通して、自分自身としての未来と持続可能性の実際は少なからず時代や社会が反映( 影響 )する。
多様性の時代や多様性社会を含めた社会現象に着目しこれに流されないようにして、現時点の自己レベルを始点にした ” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自分の志向性とその可能性に向い超え出ることだ。

果たして自分の本当の在り方は本物の自身なのか、自分自身にハッキリと未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の基準ができるようにすることだ。
この基準が自分に育ち始めるということは、自身が開化( かいけ )して首途するプロセスにあり、それ自体が未来へ持続可能な自分自身としての社会現象( 社会現象としての自己ではないもの )を生み出すことにも繋がる。

それは、自分自身の閉じられた生き方に創生という開け( ひらけ )がもたらされることであり、思い通りを追求する生き方が破られ、ものの見方が開けることである。
思い通りにならずに行き詰まった時、それはこれまでの生き方を問い直す契機であるといえる。

そこで問われるのは、自分自身の成長その全て現象として存在する現実と未来において、我々は今の今時代と社会現象の全てを通して可能性に存在する自分自身というものを再確認する必要性にきているということなのである。

現時点の自己レベルを始点にした ” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の発意と創造の志向性とその可能性に向かい超え出でる傑作を生み出し続けることの意義は、「 地域を生きる ” 自分を活かす ” 」ことがいいと思うところを自他にもわかるようにする意味にあり、自分と地域を了解できることにある。

” 自己創出 ” に関わる出来事を生み出すということは、失うことを味わわないがための基準を鍛えることができるようなものである。
工夫や苦労を感じてこそ、「 地域を生きる ” 自分を活かす ” 」ことの意味( 意義 )が見えてくるといった現象があるはずだ。

あらゆる状況変化に巻き込まれている自分へのその様な自身の正しい道理( 道義 )という正義への責任を求め、自己が釣り合いのとれる可能性を問うがために、自分自身というものを知り続け、未来に向かって進む。

” 自己調節力( 自己コントロール )” によって自分自身を変化させることが必要であり、” 自己発展力( 発想力と展開力 )の発創 ” による「 自己プロモート 」によって未来の原義そのものに自身自ら投げかけていくということが重要となってくる。

それは、信じる未来の自分を発見し持続可能性を創造し続けてゆくそれ自体が目的・目標の実現や達成に向けた ” 人となりの前向きな追求( 自分への配慮という重要な活動によって自己の志向性とその可能性に勇往邁進すること )” としてある。

自己と地域の同時発心に未来効果を眼界展望する ” 力 ” の発現は、自分自身をかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気の責任と謙虚さにある。

” 自分への配慮 ” という大切な活動に心の怯みや動揺のない攻め強さと心の誤りや不覚のない注意深さは、” 地域を生きる自分を活かす ” 発心が時を一変させる基調であり、自己自身と地域自体が一体となった世界を巡らす勢いを盛り返し、” 自分を生きる地域を活かす ” 自らの心を貫く勇気を維持しえる。

未来を信じる力と持続可能性を生み出す「 自主力 」によって自分自身を生き継ぐ自己こそが、いささか憂鬱な立ち往生と戦い、心のままに現実を直視し守り備え、コミュニケーションとコミュニティの未来形から遮断されることなく誇らしげに直立した先駆者ということになる。

その様な中で、自己について知っている自らの知識を正しく理解・判断し適切に実行していく ” 認知作用 ”( 感情や思考と判断などの自分の認知活動を客観的に捉えて自らの認知を認知する )に伴い付随して、つり合いをとる「 自主力 」の重心と力が働きかけ作用する着力点( 作用点 )による ” 調節 ” なのである。

” 力というのは常に一対に現れる「 相互作用( interaction / Interaktion : インタラクション )」” であり、相互作用というアクション( 行動 )として一方的ではなく、双方向( interactive : インタラクティブ )でやり取りを行う相互作用( 交互作用 / 相互交流 / 相互行為)における全ては ” 力のつり合い ” である。

「 力点 = 主眼点 」として、相互作用のつり合う ” 均衡の効力( 力の効かし方や効き目 )” は、対力と偶力・合力と分力・並進力と回転力などを捉えた「 活動 = 相互作用 」における力の転換( 力点と作用点または着力点など )であり、物事の認識や理解と発想などの仕方でもある。

大きな変化について広い視点で深く構造的に捉え考え抜く力を高め、更に前へ進める力( 前へ踏み出す力 )の自主性を高めることであり、” 自主力 ” は幅広さと深さを伴う変化への対応策( 解決策 )を導く着力点として「 自主力 = 律動力 」となる。

求められる ” 自主力 ”を活かして行動へと一歩踏み出した「 創造力 」とともに可能性を広げる ” 波動力 ” は、自主性を必要な能力の一つとして進んで物事に取り組む力であるといえる。

そうしてみると、自分自身やその活動と自己力の心棒は、” 地域を生きる自分を活かす ” として成し遂げたいことの状態に成りたい力の能力であり、価値観の基準となる自己理念の力に深く関わる。

社会に存在する自己自身それぞれが「 社会課題の ” 難化 ” 」における様々な課題を自分自身に関わる問題( 自分ごと )として ” 問い直し ” 、解決へ導く大きな力をどの様に生み出していくか、ということである。

その問いを煮詰めるならば、自己としては先ず認知作用の自主力に伴う不可欠な「 調節力 : coordination 」を高めることであり、必要な知識や経験と能力などの多軸な多様性を知るということである。

『 社会課題の ” 難化 ” 』といった様々な問題の解決や課題に対応していくにあたり、自己の志向性とその可能性における創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )の広がりとともに自己発展力( 発想力と展開力 )の伸びを高めていくことである。

そのためには、自分の感情や思考と行動をはじめ信念や価値観とニーズや強み弱みなどを意識的に捉え、自分自身の価値観や長所・短所を把握し理解する自己認識力によって気づきで終わらせず、継続的な行動に移して自己信頼や自己効力感などの在り方である自己変容へと確実に繋げていく「 意志力( 意力 )」のある ” アウェアネス( 意識 : awareness )” の力を見出すということになる。

そこに浮き上がってくるのは、” 意識力 ” に伴い進み動く勢いある人の基礎力として自主的なリズム「 律動力 rhythm 」にまつわる何か、ということかもしれない。

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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ウイズ日光 With NIKKO 11月収穫時「 アクティビティ 」Vol.03

 

 

「 With NIKKO 」ウイズ日光

 

ー  音楽に包まれた「 健光・観光・日光 」ー

「 自分を整える 」自然体づくり
” リラクセーション( relaxation )” に伴う
〜 大自然からの提案 〜

 

 

 

 

” 大自然の風を聴き ”


~ 心を歌い音楽を奏でよう ~

 

 

” 日々の力行 ”

11月収穫時《 PART – II 》
「 秋の思いに心を込めて・・・・・ 」
~ 秋上げの祝い ” 望みの歌 ” ~

 

経霜楓葉紅にて紅葉山川満、目一杯の錦秋にいっそう鮮やに映えるのは、骨に徹するほどの様々な労苦を経験し耐え凌ぎ初めて成し遂げる強さ。

実を結ぶ稔りの秋、穫り入れ時( どき )。
皆誰もが密かにそうなってほしいと思って期待する ” 望み ” やそのように ” 望むことができる ” ということも自らの収穫のひとつであり、ー 自分を生きる自由の可能性の機会( チャンス )として巡り合ったもの( 収穫 )を価値ある自らの成果( 実り )に変えられる ー かどうかは、人それぞれの「 思惑 」にあって自分次第なのである。
体や心が張り詰めた状態よりも身体や精神の緊張が緩んで心身ともにゆったりとリラックスしていなければ、人は意識や考え方と取り組み方などに冷静さを欠くことにもなる。

人は一生懸命になればなるぼど興奮状態に近づき、強い願望を超えた望みは烈しく昂まった息を吸い込むだけの情熱( 熱情 )で野心的な志望や大望( aspiration:アッスパレイシャン )のような帯気になってしまうだろう。
それは逆に気疲れや気苦労である心労や心痛のタネ( ストレス )となり、人の安定した状態にある落ち着きを取り乱したり、人は自分を生きる自由の可能性の機会を見逃したり、人の思惑( しわく:思い迷う修惑 )の煩悩を断ち切らせず、人の思惑( おもわく:あらかじめの考えや意図と見込み )の望みを失わせることにもなりかねない。

歌を唄えば、上手くやろうと欲を持ちすぎ、ああしよう・・・こうしよう・・・と息をつめ力を込めて気持ちが力み、張り詰める力が入りすぎて力が抜けないで過剰に息み息ばる。
逆に欲を持ってはいけないと考えるから自らを追い詰めることにもなるだろうし、淡白にやり過ごせば本来の力を入れるべきを素通りしてしまう。
「 息をする志( 熱望 )」である帯気、その息を流す強さ( 気の流れ )が多いか少ないか。
声に振動があって息の流れが強い( 強い息を流していう音 )有気音から激音まで、強い息を流していう( 息の流れが強い )有気からの激しさである切実に望む切望とは異なり、ー ” 心を集中 ” して熱心に望む熱望の「 熱唱 」は、人が ” 心を込めて ” という意味なのである。ー

収穫のひとつである ” 望み ” やそのように ” 望むことができる ” かは自らの意識の持ち方次第であり、人は意識を変えれば考え方は変わって取り組み方も変わり、ー 自分を生きる自由の可能性の機会( チャンス )として巡り合ったもの( 収穫 )を価値ある自らの成果( 実り )に変えられる ー 。
自分を生きる自由の可能性の機会に何事も如何に力まないで意識をコントロールするか、陥りがちの感情の昂りに対し、決して淡白でもない冷静さのマネージメントが必要であり、~ 情熱と冷静の間 ~ において自分の情熱( ” 自分である ” こと )を大事にしつつも冷静( スキル )を自ら身につけることでしかない。
歌を唄えば心が晴れる程度に、気張らずに望みを持てば、自分の ” 楽しく面白い ” がきっと見えてくるだろう。

半ば周囲の環境や周りの人に流されつつ思い込みに惑わされる回り道で封じ込められた自分の「 息をする志( 熱望 ) 」に活発さと躍動をもたらす。
自らの光を外に照らし向けて自分と向き合い、自分を生きる生き方( 人生 )を知って楽しむ自分らしくあること。

自分を生きる可能性はこんなものではないと、きっと自分らしさは想うはず。

自分らしさが想って、自分を生きる自由の可能性を ” 自分で規定 ” していく自由を自ら目がける。
「 ” 自分のため ” の手立てや洞察力と自らの新たな経験と感覚を通して得られるスキルの付与 」を重視した自分( 人生 )の楽しく面白い( 味わい )。
自らの ” 心を集中 心を込めて ” を知る新しい自分の心延え( こころばえ )「 自分である 」ことの自分らしさへの近道。
自分の楽しい面白いは自分次第であり、お楽しみはこれからだ。

 

 

「 KANKE GRAND 日光 」
→ ウイズ日光 With NIKKO 11月収穫時《PART-II》
「 心の組み換え 」
” チャンス ” とは・・・・・

 

 

趣意 : プロジェクト ” With NIKKO ” ウイズ日光

「 KANKE GRAND 日光 」
→ 基本的考え方 : With NIKKO ウイズ日光

 

編首 : プロジェクト ” With NIKKO ” ウイズ日光

「 KANKE GRAND 日光 」
→ ウイズ日光 With NIKKO 2023年9月創設号
「 KANKE GRAND 日光 」
” 大自然の命は待っている ”
〜 従来はそうでなかった日光での物事を始める 〜

 

 

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8月:南風月「創作工房」

 

 

ー  音楽に包まれた「 健光・観光・日光 」ー

「 自分を整える 」自然体づくり
” リラクセーション( relaxation )” に伴う
〜 大自然からの提案 〜

 

 

 

 

” 日々の力行 ”

 

「 南風月 」 ” 夏休み!”

 

 

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