KANKE 塾 《 自己プロモート 》 我がもの力」カテゴリーアーカイブ

KANKE 塾 《 自己プロモート 》 我がもの力  04 :「 欲望力 」

 

 

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   ー 地域を生きる自分を活かす ー

 

KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行

 

 

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 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

ー KANKE 塾《 2025年度始 : article 04 》ー

” 我がもの力 ”【 Ⅳ 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ 自己精神と自己表現に息筋張る「 欲望力 」~

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

多くの困難を避けられる自己自らの意思転換や特性と変化や変容・変革などは只々時間がかかるものの、活発化させる行動や活動の放出を促進する自己精神とその自己表現の ” 息筋張る ” 様々な努力と精一杯の力の裏には『 欲望力 』あり。

力の欲求とは、こうありたいと強く願う傾向であり、ある制約や条件のもとにおける欲望でもある。

目的・目標の対象に向かって実力や努力とその取り組みによって成し遂げたいという傾向にあり、達成したい動機のもとにそこにある問題や課題という不足を充足させ満たそうと強く望み、困難や苦渋を乗り越え打ち克つために思考や行動に繋がり影響を与える。

自らの視野や知識などのうちに対象をしっかりおさめるのは大切なことである。
対象を見るということ自体には高い価値があり、行き着くところは自らの内奥だ。

自らが明かしてはいない思いや気持ちの情意と考えや意向の内意があり、深い深い隠れ蓑の内に隠されている本当の意図や真意と本心などは実意として行動や思考になっている。

自らの心の奥深くに働く考えや意見や意向は意識されようがされまいが動機として事実上存在しており、意識的であろうが無意識的であろうが実意は心的欲求として思考や行動へ具現化され、恰も波紋のように浮かべてみたのが行動になっていたのである。

心的な欲求の調整と欲望の葛藤は意識的な意図に介入して攪乱もするのであり、その対処の過程といったものが意識的な日常の心理や特に思考や行動の基底に存在する。

自らにも対象にも敏感でいられるのであるのならば、自らの心で頭は変わらない自らの頭で心は変えられないという、自らの思考や行動は自らでしかわからず、自らの理解が及ばない他者にはわからないといったことがよくよくわかるはずだ。

人というリアリティにイメージを視ることで、或いはそのイメージによって視られることに単なる身振りではない人のイメージは最も多様に見られ語られ幾重にもリンクが張り巡らされながら、一方向にのみに方向付けられた静態的な形式だけのそのようなイメージで完結するものでなく、ー 周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )と共通の目的や興味をもつ人々が集まる広く多様なコミュニティの眼差しの下にあるのは人としての欲 ー なのである。

目にする欲( 欲望や欲求 )なのであり、自己自らの「 精神 」とその意志の「 表現 」であるその欲を自ら視ることができないという点において気紛れで無意識的である。

このように周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )と共通の目的や興味をもつ人々が集まる多様なコミュニティの眼差しによって構成される自己自らは、自己自らによっては意識されざる自己自らであり、それがどのように残酷であろうとも、しかしそれが自己自らなのである。

「 自己精神 」とその「 自己表現 」は周囲の多くの人々や広く社会が目にする自己自らの ” 知的な欲( 欲求や欲望 )” であり、” 自己自らの知識・知性豊かな『 欲望力 』として非常に優れて素晴らしく立派で堂々とした自己自らの知的な「 逞しさ 」 ” であってそれでいいのである。

自己自らのポリシーを自己自らが実践 「自己精神」とその「自己表現」において、目的意識をもった意志の表現であっても、また特定した精神の在り方の表現であっても、自己自らの心の奥深くに働く考えや意見と意向などの自発的な意志の自意と、その解釈として自己自らの新たな自己創出の想定とそれに向けた予想的解釈( 生成的解釈 )とがある中で、” 知的な欲 ” というつまりは欲の核といわれるものは現実的な状況認識にまつわるものであり、周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )と共通の目的や興味をもつ人々が集まる多様なコミュニティに進入する「 自己精神 」とその「 自己表現 」に伴いその現象のより合理的な解釈のうちにそれを探し求めなければならない。

・・・・・ 知的な欲望( 欲の核 )は、例えつくり出された幻視だとしてもその得体の識れないものが傾向性( 又は能力 )の《 刺激 》から結果として『 潜在力 = 力能( power )』が発現する必然性または可能性に近いものであり、切っ掛け又は原因( 必要条件又は因果 )による目的に知的欲求の新しい可能性への関心の強さは探究心( 又は探究心 )に富むものとして、『 潜在力 』 への ” 気づきの意識に現前する『 欲望力 』に束ねる力感の意識 ” に首肯する自らの ” 欲の核 ” にある特性とともに傾向性をよく認識し理解することである。・・・・・

「 潜在力 」とは、” 静態的 ” で固定した実体ではなく、常に ” 動態的 ” で変化し流動している過程にあるものとして捉えることにある。

いわゆる潜在的可能性( 機 : 仏語 ) は別物として、「 潜在力 」は可能力性によって顕在化する力能( 潜在 = 力 )の潜在力をわけなく潜在的な力とだけで見て取って知り認めることはできず、潜在力は単純に内在しているのではなく、可能性というよりも必然性に近いものとして傾向性( 又は能力 )の刺激から発現するといった切っ掛け又は原因( 必要条件又は因果 )をもち、ー 『 ” 外部との関係( ( 傾向性 / 原因・因果としての《 刺激 》と結果としての発現 )” によって初めて「 潜在力 = 力能( power )」として発現し円環的に力の働きとその作用をもって作動している 』ー と認識することであり、共同的や外在的と反復的などの潜在性がある中で、傾向性 = 潜在性として潜在性と活動性の対比で捉えるならば必然性ではなく可能性に近いものともなる。

「 潜在力 」の切っ掛け又は原因( 必要条件又は因果 )とその《 刺激 》によって結果的に発現する必然性に近いもの又は可能性に近いものとしての「 潜在力 = 力能( power )」のそのものは、人・物事・事物・事象の諸々にあり、自己自身としてのその内なる精神や心と能力にあるのみならず、” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” に集約される自らの実情や現状況と活動内容をはじめとした現実自己と理想自己とのギャップ等の内なるものにもあれば、現状経済・社会システム等と文化・教育体系等に自ら関わるものにもあって、ひいては仕事を含めたライフ ワークの現状機能面にまで関わり、” 自分を生きる地域を活かす ” と ” 地域を生きる自分を活かす ” ことにおいて地域のあらゆる物事・事物・事象の諸々に自らが関わるもの全てに及び、自己の知識やスキルとツールや経験とネットワークなど自己自らがもっているあらゆる人や物事と事物や事象など含む自己のリソース( 自己資源 )に潜在し、人や知識と技術や生産物(特産品・名産品等)と自然や気候と風土や歴史と伝統や文化など地域自らがもっているあらゆる人や物事と事物や事象など含む地域のリソース( 地域資源 )に潜在する。

その全ては「潜在力」の結果的発現の切っ掛けっ掛けまたは原因( 必要条件又は因果 )による ” 目的に知的欲求の新しい可能性 ” への関心の強さや探究心( 又は探究心 )に富むものとして現実評価認識とともに理想評価認識を高め、この様な人・物事・事物・事象の諸々の客観的な事実から合理的に「 潜在力 」を解釈するためにこの全ての核にある特性とともに傾向性をよく認識して理解し、” 静態的 ” で固定した実体ではなく常に ” 動態的 ” で変化し流動している過程にあるものとして捉えてその全てを客観的な事実から合理的に解釈すべきである。

実際に事に重点が置かれた様々な事柄や目的の物事と人などに関わって、その活動することによって初めて事柄や物事と人などにある「潜在力」は発現するのであり、 ” 新しさ ” という「 新しい可能性 」の組み立ての内容に実質的に関わって、その原因の刺激と結果としての発現に見込まれる「潜在力」が初めて認識し得ることになる。

「 潜在力 」が種々の要素の連環性に入り混じる交差( 混淆性 )の中にあることを認識しつつも不完全であることをも認識し、その潜在力を発現することによって従来とは異なる思考や価値に対し寛容で開放的な態度をとるということが「 潜在力 」本来の意味を成すのである。

多方面に自己強化や自己拡張でき得る力として有効性や優位性のある「 自己潜在力 」を検討して探り引き出し試みるその成果は、” 自分を活かす「 発創 」” による知的な実現可能性や自己創出のための継続可能なライフ スタイルの構築をはじめ、多様な領域自己という部分が基域の集合体である自己全域の未来を信じて展望し切り開く主体的な未来創造や自己創出の持続可能性を生み出す力の出発点でもある。

認識力や思考力と想像力や計画力などによる柔軟性・適応力のあるダイナミックな対処能力と変容・変革能力を「 自己潜在力 」として抽出・概念化し活用することで、多くの問題実現やあらゆる課題実現を展望するといった意義をもつことになる。

主体的自己自らの「 自己潜在力 」を活用することで問題解決や課題対応を展望し、時代の変遷に伴う状況や情勢に沿った ” 地域的広がりに共通してみられる生活様式 ” における自己自身の基盤や特性と作用や効果と限界などを問題や課題ごとに検証し、その効果や有効性を明確に提示していくことにある。

主体的自己自らの問題実現や課題実現の実践的スキルとして「 自己潜在力 」を捉えるのではなく、この実践そのものを支える思考や価値観と知的様式が従来型( = 普遍的 )モデルとは異なる視点や生成される思考をつくり出す ” 発創 ” を生み出すものとして捉えるべきである。

一時的ともいえる可変的な価値を単に探り求めることなく、普遍性( = 従来型 )を包み込む別の認識( 認識力 )をはじめ普遍性に包摂されない視点や思考と価値とともに、この普遍性を包み込む別の認識( 認識力 )と普遍性を変容しつつ運用する実行( 実行力 )とそれを支える知が必要となる

そのためには、これらを調整力や回復力を伴う自己自身の「 自己潜在力 」として着実に変わることなく定常に保たれるようにするとともに、従来の未来創造や自己創出の知的な様式とは別の見方や在り方を自分自身の未来への知的資産として展望した効果創造・創出するための源泉となる ” 目的及び指標となる目標 ” をより明確にした上でこれを目指す意図した ー 自己律動 ー の ” 新しさ ” という「 新しい可能性 」を組み立てていく実践( 実践力 )が重要になってくる。

→ カテゴリー ” 誰もが地力 ” 「 潜在力をさぐる 」

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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KANKE 塾 《 自己プロモート 》 我がもの力  03 :「 幅広力 」

 

 

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   ー 地域を生きる自分を活かす ー

 

KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行

 

 

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 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

ー KANKE 塾《 2025年度始 : article 03 》ー

” 我がもの力 ”【 Ⅲ 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ 自己精神と自己表現に息筋張る「 幅広力 」~

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

多くの困難を避けられる自己自らの意思転換や特性と変化や変容・変革などは只々時間がかかるものの、活発化させる行動や活動の放出を促進する自己精神とその自己表現の ” 息筋張る ” 様々な努力と精一杯の力の裏には『 幅広力 』あり。

経験の中で既に自ら確認されている事実、または現実に可動されている実証からの認識や判断、それらをもとにして推量される思考や想像によって引き出されたテリトリー「 だろうとした縄張り 」というものが人それぞれにある。

確保し守られ居着いた専有ではない暗黙の了解を得られた曖昧なる意識と範疇は、人それぞれの特定の範囲や専門とする領域として、また人自らが主張する領有の領分として、専ら自らのものであると、自らの意思どおりに専門的な言動にまで及び、往々にしてコミニュケーションに支障を来たし、目の当たりに見る様は頼もしい反面その言動は得てして傲慢さにもなりがちだ

自己視点たるものを身近に捉えてみるならば、人には勢力範囲や専門領域が存在するのではなく、その人なりに自らが境界を決めたその境域( 自意識の境界 )に自ら留まりざるを得ないのであり、人は長い目で見たときには成長してゆく「 ” 伸びしろ ” = 幅広力 」その人それぞれの自己視点というものによって全然違ってくる。

人は意思決定した自らの意図する自己自身の特定のその境域に自らが取り囲まれているのであり、自らが領有する専門性などをもつ範囲・範疇を領域的自己として捉えてみるならば、そのように大切な自らのその領分域及び領域的自己そのものを拡張自己として自らが認識把握しており自己と外世界とが繋がる環境のある部分に自ら惹きつけられるのは、それが固有の拡張自己としての一部となっているからでもある。

領域的自己にある対象への ” 精神的エネルギー ” とそれが特定の活動や観念と物事や人などに向け続けられる好悪感情の”  カセクシス( cathexis )” などや欲求を満たす動機や衝動を含んだ心的エネルギーなど、思考や行動に貯留されたものは、その特定の専門的対象に向け続けられる限りはそこに蓄えられ、特定されたものに対する自らの好悪感情やその固着がいつまでも続くことになる。

そのような自己の統制下にある自らの大切なものの集合体ともいえるものこそがこの拡張自己であり、人なりに自らにとって自己自身の一部と思われものとして、拡張自己のその対象は自らの一部であると認知し同定しているものの、好悪感情で特定された専門領域の全ての集合がその人なりの拡張自己として存在している。

自己評価と領域的自己にある特定の活動や考え方と物事や人などの対象への精神的エネルギーがいつまでも続く好悪感情といったカセクシス( cathexis )などがある中で、特にカセクシスと自己評価との間には高い正の相関があり、自己の価値と能力に自信をもつ人は自らの勢力範囲や専門的領域に満足するというわけである

自己強化に伴う自己拡張として自己自らの可能性を広げてゆくには、自らの自己世界においては「 自己能力 」の拡張もあれば「 自己精神 」とその「 自己表現 」に伴う拡張もあり、これらに準じて伴い特に外世界との連繋においては「 自己領域( ” 領域的自己・連繋的自己領域 ” )」としての拡張もある。

自己発展の活動を起こす ” もとになる力 ” とは何なのか、社会の諸側面の変化の実態やその変化の各側面を横断する軸などを捉えるのとともに、” 他地方地域・海外地域 ” などをはじめ異種・多種などその枠を超えて、この変化の仕組みを統一的に理解する大筋や輪郭( アウトライン ) などを探ってみる必要がある。

現代社会は高度に分化し複合的な社会であり、高度に複雑になり明確な境界を持たなくなった社会でもあり、社会が高度に発達してくると社会活動の種類も多様化し,それにともなって社会的世界がますます多元化・分割化された現代社会は高度に分化し複合的な社会として、高度に複雑になり明確な ” 枠組み・境界( 境域 )” をもたなくなった相互作用の社会は共同的潜在性に伴う 価値観の共有 」や多様な「 状況統合 」としてその効果の構成は複雑ではあるものの、互いに作用し影響を及ぼし合う連繋( 又は連繋思考 )の円環的なインタラクション ” 相互作用 ” が総体的に関わる重複な複合 ” 重ね合わせの力”  が共同的潜在性において成り立つということでもある。

→ アクティビティ
努力の余力 ” 力のいろいろ ”   思巡の活力:【 Ⅲ 】「 変容力 」

 

” 連繋 ” または連繋思考とは、この様な ” 相互作用 ” のアクション( 行動 )を「 “ 枠 ” を超え ” 力 ” を繋ぐ 」という越境 」において、互いの価値観の共有や新しい価値観を生み出し、相互交流の一定の範囲の中に包み込む ” 包摂 ” の関係づくりであり、価値観に包括される従属関係はその交流範囲から異種・多種を受け入れ取り込んで進化したものの形成である ” 複合 ” を形成することにより ” 変化に対応(適応)し進化する力「 変進力 」” をもって新しいものに発展させることを意味するものである。

「 領域的自己 」において様々な経済・社会問題が顕在化・深刻化する中で、自己自らが地域内・外部に限らず ” 枠を超え ” 異種・多種との ” 連繋 ” のもとに自らの価値や課題を認識・共有し、それらを主体的に解決する「 全域的自己共生力 ( 領域的自己・連繋的自己領域 )」の醸成や向上を図っていくことだ。

自己としての経済・社会循環に現実的な「 自己領域( ” 領域的自己・連繋的自己領域 ” )」 だけを取ってみても、空間的な捉え方に関する視点は「 領域的視点とネットワーク的視点 ( 比喩的にscram : スクラム )」に大きく分けることができる。

独自性( 又は独創性 )や社会のバランスとそれによる ” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” を集約した ” 全域的自己 ” に網羅される自己自らの ” 領域的自己又は連繋的自己領域 )” として、空間的な捉え方に関する視点の分類と、独自性( 又は独創性 )や社会のバランスと、その両面から捉えてみるべきである。

空間的な捉え方に関する視点は「 領域的視点とネットワーク的視点 ( 比喩的にscram : スクラム )」に分けることができるので、領域的視点は主体的自己自らの領域に焦点を当ててその内部のライフスタイルや活動などを考察することができ、ネットワーク的視点はその領域を超えて広がる生活的主軸や情報的主軸と文化的主軸のネットワークや周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )と共通の目的や興味をもつ人々が集まる広く多様なコミュニティのネットワークなど、その繋がり方( ”  枠を超えた力の繋がり ” である越境の連繋 )に焦点が当てられる。

一方でそれらは、独自性( 又は独創性 )や社会のバランスとそれによる ” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” の進化・発展を重視するものと、独自性の負の側面を考慮し社会的要素を重視するものと、その間のバランスによっても分けることができる。

自己意識の境界が自己という認識の世界を越えて具体的な対象まで広がっている中で、今まで主体的自己自らが意識していなかった部分への評価によって自己発展とそのための自己精神とその自己表現の深化を進め、主体的自己自らをより自己強化し自己拡張してゆくことになる。

独自性( 又は独創性 )や社会のバランスとそれによる ” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” に集約される全域的自己というものに集め入れた自己自らの ” 領域的自己 ” を網羅した中で、それぞれ個々の自己世界のみならず外部世界との ” 枠を超えた力の繋がり ” である越境の連繋をも知り尽くした上で、自己拡張の意味を解釈し直し、「 自己精神 」とその「 自己表現 」に準じて伴なう主体的自己自らの ” 領域的自己 ” とそれに絡み連繋する ” 全域的自己 ” として残らず詳細に捉え直すべきだ

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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KANKE 塾 《 自己プロモート 》 我がもの力  02 :「 独自力 」

 

 

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   ー 地域を生きる自分を活かす ー

 

KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行

 

 

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 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

ー KANKE 塾《 2025年度始 : article 02 》ー

” 我がもの力 ”【 02 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ 自己精神と自己表現に息筋張る「 独自力 」~

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

多くの困難を避けられる自己自らの意思転換や特性と変化や変容・変革などは只々時間がかかるものの、活発化させる行動や活動の放出を促進する自己精神とその自己表現の ” 息筋張る ” 様々な努力と精一杯の力の裏には『 独自力 』あり。

自己自らに示す ” 自分に生きる ” 在り方に対置した理想の ” 自分を生きる ” 在り方であったとしても、 自分と関わり外世界が必要だという意志をもった関係性の再発見や活力( 意欲 )をもたらし続けることの「 内容の意味や重要性の意義と他との関連において固有にもつ価値 」を自己自らのものにする摂取( しょうしゅ )は認められるような能力をもってはいない。

” 自分に生きる ” のではなく” 自分を生きる ” というその意味や意義と価値を知っていて筋道を立て判断する能力もつ知的な働きとその作用にある” 自分を活かす ” ことを成し遂げようとする本来的な心の働き( 意欲 )と基本的な意味や意義と価値は、外世界という共同体を特徴づける自己としての「 意識形態 = 自己精神 」へと変容し、自己強化・自己拡張を持続し延長させて ” 自分を生きる ” という次元での発意と創意の根源的な意味を表面にもつ「 自己精神 」とその「 自己表現 」となる。

自己自らの「 自己表現 」は良きにつけ悪しきにつけ ” 表現効果 ” を伴うものとして、表現を出す前と出した後で周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )にどの程度影響を与えたのか。

自分の安定さや正常さとともに自分の性格やパーソナリティーとスタイル特性や評価度などを自己分析や自分の可視化をしてチェックしなくてもその変化を見て取ることができるので、長期的な視点で適切な目標設定をしないで場当たり的に自分の目の前のイメージ訴求やコミュニケーションスキルと行動改善や活性化などのために自己表現を利用したり問題意識の喚起や自己評価できる指標の定期的な評価・改善による有効利用をしないならば、逆に主体的自己の性格( 行動・活動の仕方や固有の感覚・意志の傾向など )に基づく自己度全体の低下や偏り固着など悪影響を及ぼすことになる。

自己自らの意志の力で立て直しに ” 息筋張る ” 精一杯と努力という「 我がもの力 」とその内の一つである「 独自力 」に身を熟したものは、自分の隅から隅まで感じる周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )に侵入するのであり、他者や社会から得た感覚によって成り立つ主体的地域自らの安定さと正常さにおいて最強たらしめているのは、自己自らが ” 主体 ” として自覚や意志に基づいて中心となり行動したり作用を他に及ぼしたり、そうした主体的自己自らが他者や社会から認められているという感覚にある「 自己アイデンティティ 」の自覚なのだ。

常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、特に一際目立つ主体的自己の ” 独自性 ” は自分自らの総体の振る舞いとして特に一際目立ち顕著に現れ、自分自らの自己創出の想定というものは感じ方や考え方と行動・活動の仕方などに顕れるその自己特有の性向という ” 自己の性格 ” に因り成り行くのである。

大抵は自己自らの意識形態である「自己精神」とその「 自己表現 」の表面に顕れ出した ” 自分の性格 ” というものは、周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )から見抜かれたり勘違いもされるように、何事をも求めて止まない人それぞれの願わしき ” 息筋張る精一杯と努力 ” の自己本道中の道程において自己自身は欲求( 自己意識 = 欲望 )を満たすため行動・活動するのであるが、共同性というものに順接し得ない余剰を抱え込んでいるといった意味において、感じ方や考え方と行動・活動の仕方などに顕れるその自己特有の性向という ” 自分の性格 ”とその自己の行動・活動は、しばしば共同性において対立が発生する。

” 安定さと正常さ ” を保つ「 真の自分」という状態でありたいと思うほど、そうであって欲しいという願望の ” 自己精神 ” とその ” 自己表現 ” として思念的に常に深く思い考え、自己というものは 「 真の自分に肖る( あやか・る )」ための様々な努力と精一杯の ” 息筋張る ” のだろう。

依然として曖昧なゴールは存在するわけがなく、肖えもの( あえもの )は砂漠における蜃気楼のようなものでも、いつしかそれが真の自分だと思い込みの強くなりすぎることは自己を欺くに似る。

” 真の自分 ” といったものを変化させないものこそ本来の自己であって自己自ら価値であるとしつつも、「 現実自己と理想自己とのギャップ 」から生じ起こる渇望や願望の欲求と動機付けなど内向的なものや根底にあるものなどの完成度を追求するだけで、自己創出を想定する根拠もなく想像を巡らすことになり、自己自らの自己創出の想定というものは感じ方や考え方と行動・活動の仕方などに顕れるその自己特有の性向という ” 自分の性格 ” に因り成り行くというわけだ。

自己自らとしての ” 自己精神 ” とその ” 自己表現 ” の表面のもつ根源的な意味をも捉え損ねたまま、わけもなく自己自らの自由の可能性を自分自らで規定していく自由において自己概念を掘り下げるものの、新たな自分としての「 表現変化 」を繰り返し、理想とする ” 自分を生きる ” のではなく ” 自分に生きる ” ことをしている。

本当に自己を与えるためには「 自分はどのような色にもなれるのだから、自分はどのような芳りもだせるのだから 」として、” 自己表現 ” というものがどの人も似たり寄ったりの表面をもちながらも、 ” 息筋張る ” 精一杯と努力という「 我がもの力 」とその一つである「 独自力 」に身を熟したものは、自分の隅から隅まで感じる周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )に侵入するというわけだ。

「 我がもの力 」であるからこそ、自己を強化持続し延長させ ” 自分を生きる ” という次元での自己自らの発意と創意をもって自己精神とその自己表現の豊穣をも、「 我がもの力 」とその一つである「 独自力 」で試みることだ。

自己を強化・拡張しつつ持続し延長させ ” 自分を生きる ” という次元での発意と創意の根源的な意味の「 問題実現や課題実現 」は、自己アイデンティティの自覚を含め、自己自らが置かれている位置や状態と自己自らの価値や能力などをハッキリと知るかどうかという ” 自覚的な努力 ” 次第なのであり、他者より秀でた能力と自分の強みを活かした自己自ら( ” 意識 ” = 欲望 ) による『 独自力 』をもつ ” 独自化 ” を計れるか否か、ー「 自己自身としての意味や意義と価値を変える変更課題群の本当の自己価値を、自分の隅から隅まで感じる周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )に ” 売る ” ゴールにも当てはまる。」 ー のだが 、、、、、

専ら自己自らの自己世界と外世界とが開かれているとしても、自己意識( =欲望 )がないというわけではなく、無制限な自己強化や自己拡張の自分本道中の道程を突っ走ることなく、自己保存に確かな自己自らを取り守ってゆくのでもなく、自らを欲して増やすために自己自らを進歩的なものとして、自ら考え掘り下げ、欲望たる自己強化や自己拡張の向上し得る極致へと、更に自己創出の到達する極点へと、自らを向かわせる内実の矛盾などを自己自らが意識することだ。

” 自分に生きる ” のではなく ” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” 自己としての発意と創造の実現を目指す人それぞれの ” 息筋張る自分の精一杯と努力 ” の道程において自分は欲求( 自己意識 = 欲望 )を満たすため行動するというものは、性格を備えた自己自身の在り様でもある。

全ては自分自身の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 自分への配慮 ” という大切な活動による自己の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、自分に生きる ” のではなく ” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ自分自身について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

現実的に自己自らが取り巻く環境の変化とされるものに囲まれているのではもはやなく、自己自らが取り巻かれているものの絶えざる連続に付き従うだけであるならば、” 自分を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために ” 自分に生きる ” として導かれた自己疲弊の苦難の末に思い通りにならない失意のドン底で ” 自分を生きる ” ことができなく、” 自分に生きる” において自己自らして自分の本来的な存在の仕方から社会的な存在の仕方へと頽落し、自分自ら身の回りに気を取られているその状態を認識し状況への決意がない限り、自己自らの行動の在り方はとても望むべくもない。

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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KANKE 塾 《 自己プロモート 》 我がもの力  01 :「 冷徹力 」

 

 

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   ー 地域を生きる自分を活かす ー

 

KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行

 

 

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 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

ー KANKE 塾《 2025年度始 : article 01 》ー

” 我がもの力 ”【 01 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ 自己精神と自己表現に息筋張る「 冷徹力 」~

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

多くの困難を避けられる自己自らの意思転換や特性と変化や変容・変革などは只々時間がかかるものの、活発化させる行動や活動の放出を促進する自己精神とその自己表現の ” 息筋張る ” 様々な努力と精一杯の力の裏には『 冷徹力 』あり。

自分の ” 実情 ” に合った取り組み ・・・・・。

自己自身の実際の事情や状況は、自己自らのどれをもがやり方は違えど同じような事柄に対する見方や考え方と取り組み方や行動などを繰り返しているのであって、個々の自己としては先ず第一に ” あらゆる人間の誰をもが共通にもっている事柄とその『 実情 』” を考えるべきだ。

その様な中で、個々の自己自らは始めにその『 実情 』の ” 事実を捉える ” ことであり、自己自らの特性を含み置きながらも自己自らの内においての標準格差という「 偏り具合や散らばり具合やバラツキ具合 」などからその ” 事情 ” を自己自らが感じ取り、そこから現状の問題や課題などの困難とピンチを突破し障害や逆境を乗り越えるやめに「冷徹さ」をもって感情に左右されることなく冷静に自らや物事を見て取り、「見方や考え方と取り組み方や行動などを立てるクール ブレイクスルー( cool breakthrough )」を理解することからスタートすることだ。

“ 感情に左右されることなく冷静になり ”「 洞察力による冷徹な目 」で自らや物事を観察してその本質や奥底にあるものを ” 見抜くこと ” と、冷徹さによって自らや物事を ” 認識し判断したりすること ” であり、自己自らと自分事に対する「 見方や考え方と取り組み方や行動 」を ” 見定め見極めること ” とともに、表面に現れない真相や真意などを ” 察知すること ” と、将来のことや成り行きなどを ” 予想・予測すること ” によって ” 見通すこと ” だ。

イノベーションという既存の考えや現在の状況に対して新しい捉え方や技術などで大きな変化を生む新しいものを生み出すことが目的である変革( 変容 )や革新( 刷新 )とは異なり、また現状の把握からスタートして起こっていることの原因分析と対策の検討という流れで現状の改善をゴールとする従来型の実現問題や実現課題としての思考法とも異なり、そもそも主体的自己自らが 「 安定・正常 」を確保するがために、自己自らの目的・目標やそれを実現するためのシステムや方法の実現から思考を始め、より現状の問題実現や課題実現としての困難とピンチや障害と逆境などの打破( 打開 )に繋げることにある。

自己自らとして極めて重要な役割を演じるのが現状の” 事実を捉えること( 測定 )” であり、そこから ” 理想の姿( 本来在るべき姿 )” を捉え( 定義 )、” 現在と理想とのギャップと問題を捉えること( 分析 )” と、” 特定されたギャップとその問題や課題に改善を加え継続的に実現し続けること ” をして、” 更にその結果を継続的にコントロールし続けること ” であり、この重要な「 持続性 」において最も大切なことは『 実情 』の現実に存在する ー「 事実しっかりと捉えること 」ー からスタートするだけで自己自らの ” 持続的な安定・正常化 ” への差がつくということを、「 自己精神 」とその「 自己表現 」に伴ってよく理解しなければならないということになる。

・・・・・ 自らの実情を引き摺り自らの事実を紐解かないでいるならば、自らが実情に固執し先入観をもって実情だけに留まるだけであり、自らが事実を捉えることにより真因を導き出し評価し悟り知って気づき覚知をしえないのであるならば、自らは固まり自らを変えることもできずに自らは対処のしようもなく、変革( 変容 )や改善などは抽象的な言い回しにすぎす、問題実現や課題実現などは実現問題や実現課題に擦り変わるような単線的な語りにすぎず、全ては前に進まなくなる。

全てか無か、妥協を許さない立場や決意のオールオアナッシング( all-or-nothing )で考えてはならず、「 実情は実情として大切なこと 」だが、その内容項目や活動のそれぞれの相対的な重要度や優先度( Priority : プライオリティ )とか優先順位付け( Prioritization : プライオラタゼイション )などの原則的なこの一つだけを見て取っても、意思決定や計画に繋がるつながるその過程は刻一刻と変化するものであることも事実だ。

ひとつに冷静な認識力や判断力と洞察力を取り挙げるならば、自らや物事が置かれた絶望的な状況の中でも決して冷静さを失わない的確な見方や考え方と取り組み方や行動などを立てることで、数多くの大きな逆境に直面しても切り抜け成し遂げることは可能であり、困難やピンチで冷静さを保つことができる者はそれらを乗り越えられて達成に最も近く、焦ることなく淡々と『 冷徹さ( 冷徹力 ) 』をもって対処することで結果的に大きな成果を上げ、泰然自若の心構えを体現していることになる。

実情の困難さやピンチの瞬間をはじめ直面する逆境や絶望的な状況などに際し、動かざるして力を溜めるのも前向きだが、上昇志向が強く単線的なハングリー精神もミスマッチであり、 動かざるして力を溜めるのも前向きではあるが、” 感情に左右されることなく ”「 洞察力による冷徹な目 」で冷静さを保つことは、単にその瞬間を乗り越えるためだけではなく、長期的な成功への道を切り開く鍵となる。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる自己の ” 主体性 ” においては感情に左右されることなく冷静になることであり、人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化にだけをとってみても、多くの困難を避けられる自己自らの意思転換や特性と変化や変容・変革は只々時間がかかるものの、活発化させる行動や活動の放出を「 自己精神 」とその「 自己表現 」の力に伴い促進するためにも、自己自らや自分事を問い直し見直し判断する ” 冷徹 ” な目や知性で現実を見据えなければならない「 冷徹さ 」を必要とする今。

“ 感情に左右されることなく冷静になり ”「 洞察力による冷徹な目 」で自らや物事を観察してその本質や奥底にあるものを ” 見抜くこと ” と、冷徹さによって自らや物事を ” 認識し判断したりすること ” であり、自らと物事に対する「 見方や考え方と取り組み方や行動 」を ” 見定め見極めること ” とともに、表面に現れない真相や真意などを ” 察知すること ” と、将来のことや成り行きなどを ” 予想・予測すること ” によって ” 見通すこと ” だ。・・・・・

自己自らや自分事を良くしようとしたり良い考えを出そうとして努力したりしても行き詰まり、加えて準備不足もあって物事が先に進まずどうにもならない切羽詰まった時。

人は尻に火がつき追い込まれることに慣れると、尚のこと ” 自信 というものが曖昧でハッキリしないものとなり、どんどん安易に物事を判断する方向に流れていく。

自己自らの意志や判断において目的・目標や問題・課題などを自己自ら設定した上で、その解決や実現のために自己自ら考え自ら責任をもって行動するのとともにその結果にも責任をもって取り組む力を担うという ” 主体性 ” に関わり、その表面のもつ根源的な意味を捉え損なうような意識的に行う日々誰でも当たり前の忙しさに取り紛れ、自己自らの意思転換や自己自らの変化と変容が進まない営為の話などは、なにはさておき風呂敷を畳むべきだろう。

必ず「 安定・正常 」というものを確保しようと動き残り戻りつつも前へと進むのであり、現に今これがダメならこの次があってその次がダメならそのまた次があるのだと考え動くということだけは絶対止められないということは常に絶えず当り前のこととしてある。

内向性の増幅と外向性の低下といった連続体の点における自己自らの特性に対する悪影響の可能性が予測されたとしても、「 自己の順応力(= 回復力) 」というものは予想を遥かに超えるものであり、その殆ど場合は自己自らが外向性に合わせることにより自己自らを活かして生きることのできる環境や手段を見つけることが実に上手いのが地域というものなのである。

創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として自己自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )があり、出せる力の内の主なる力として中心となって力を発揮できるものの、その様に前向きになりたくても、自己自ら問題実現や課題実現の達成を心の中で自らに思い込ませ自己説得するような自己自ら潜在意識にポジティブな暗示をかけ ” 自信 ” をもつ方法の自己暗示などは認められるような能力を自己自らがもっていないことから、安易に物事を判断する方向に流れ、自己自ら結果に対する深い考えのない無茶・無鉄砲などを繰り返し、また安易に物事を判断する方向に流れていけばモチベーション欠如は生じ起こり易くハイリスクに晒されやすい。

肯定感や効力感( 可能感 )などは、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程の意識( = 認知 )ことであり、見方や考え方と取り組み方などについて努力が行われているといった意識が高いか低いかということになる。

自らの在り方を積極的に評価できる感情や自らの価値や意義を肯定できる感情とともに、自らがある状況において必要な行動をうまく遂行できるものと、自らの可能性を判断したり解釈したりする過程のことであり、自らにある目的・目標を達成する能力があるという判断をしたり解釈をしたりする単なる過程にすぎず、肯定感や効力感( 可能感 )などは自らの見方や考え方と感情や行動をコントロールしているだけのことになる。

目的・目標への困難な問題・課題があってもそれに取り組もうとして結果的に成功をもたらすこともあるが、肯定感や効力感( 可能感 )などの意識や感情などをもっていればとするだけで、それらの意識や感情などが強いほど実際にその行動を遂行でき得る傾向にあるというだけにしかすぎない。

自分に ” 自信 ” をつける ・・・・・ 。

先ず最初に「 自信の力( 自信力 ) 」は ” 冷徹さ ” の力から生まれることを知ることであり、自信をつけるには始めに ” 冷徹さの裏 ” に ” 認識の把握 ” や ”「 問題・課題の確認 」と「 判断の見極め 」と「 潜在力の気づき 」があることを捉え、” 自信力( = 冷徹力 )” の働きとその作用において選択肢と効果を見出す自らや物事の見方や考え方と取り組み方や行動を定めることを考えるべきだ。

「 自信( 自信力 )」とは、自らがある状況において必要な行動をうまく遂行できるという自らの結果的な可能性の成り行きを指すのではなく、自らや物事にある目的・目標を達成する能力があるという判断をしたり解釈をしたりするものでもなく、自らの能力や価値などを信じたりするものではなく、と自らや物事の見方や考え方と取り組み方や行動などが正しいと信じて疑わないとかでもなく、ー ” 自信 ” は自らや物事にある目的・目標を単線的に達成するためのものではない。ー

本来の ” 自信 ”とは、ー「 そこから見える自らや物事を見たり考えたりする立場や見地などの観点をもつことができるのともに、人自らや物事の可能性に迫っていくことができること 」ー であり、『 冷徹さ = 自信 』だといっても決して過言ではない。

” 自信 ” の力がもつ本来の働きとその作用は、 ー「自らを問い直したり物事を見直したり、自らや物事の本質に迫る行為となり、次なる課題を生み出す契機となって、いろいろと見方や考え方と取り組み方や行動の仕方を判断して見出すのともに、新たな自らや物事の内に眠る潜在的な力に気づく切っ掛けにもなり得る 」ー ことであり、それらを通して結果的に自らや物事にある目的・目標を達成することに繋がるということだ。

否が応でも( いやがおう・でも )自分を活かし生きなければならない生存競争に全く負荷無きにしも非ず、人間も活動要素の捨象に対し生身の生存そのものの次元から反撃することは同調のノリではなく、自己自らの自己制御が自ら意志の力で望ましいそしてしばしば辛い行動へと自己自らを向け、望ましさを生む行動や統制の過程に必要な主体的自己自らに認められた ” 自由意志と決断の存在 ” を「 自己精神 」とその「 自己表現 」に伴って肯定しよう。

集注と承認の欲求でもある自らの自己顕示は、表面に見えなくてもそれ自体がなくなるということはなく、これが満たされないとバランスを大きく崩す人の皆誰しもが実現したいこの自己顕示欲をどのようにコントロールするかといったそのプロセスの内に、常に絶えず自己自らの自己( = 我が者 )が自己意識の内なるものにいることを人皆誰をもが認めるべきなのである。

人は発見する天才と同時に隠蔽する天才でもあり、自らの方法で把握できる世界こそが真の世界であるといった放漫で倒錯した思考が終わっていると判断がなされても、それはそもそも勝手な独断偏見による決めつけに他ならない。

『 我がもの力( わがものぢから )』によって、主体的自己自らの自己理解・了解の解釈に衝突があり、” 自由 ” と ” 規整の束縛 ” とを対立軸に設定していると、そのように決めつけるほどことはそう単純なものではないが。

「 冷徹さ 」をもって、 ” 見方や考え方と取り組み方や行動 ” を変えれば、自らの立場と主張は噛み合わず倒錯を引き起こしていることがわかり、倒錯が明らかになったならば検知や見解の明らかな歪みをも解き明かすべき必要があり、自己自らの存在の「 独自性( identity: アイデンティティ )」の自覚を乱さずに、「 自己精神 」とその「 自己表現 」に伴い自己統制もまた見方を変えなければならないだろう。

・・・・・ 人は尻に火がつき追い込まれることに慣れると、尚のこと ” 実情 ” や ” 自信” というものが曖昧でハッキリしないものとなり、どんどん安易に物事を判断する方向に流れてゆく。

のみならず、” 外向的な側”に寄れば連続体がもつ意味を捉えて理解する事なく対する ” 内向的な側 ” は低くなって自ずと「冷徹さ」を見失い、イメージに一抹の陰りを投じれば ” 肯定 ” と ” 否定 ” に叫び出しもし、周章狼狽として動くか泰然自若として動かざるか失意泰然得意淡然に悩みもし、同じだけの合理性・妥当性をもつ( 二律背反 )として二つの相反するその反対の意味を捉えて理解を深めることもなく自ずと「冷徹さ」を見落とす。

ひとたび真価を発揮しようと必死に役立つ違う答えのを求めるものの直面する様々なピンチを超越するための「 知恵 」に達すことなく、能力の差という放逸な十八番か、努力の差という不放逸な隠し芸か 、全ては ” 束ねる力感 ” の意識という大事なコントロールを忘れ、想定される活線上の問題実現や課題実現の正解の裏付け欲しさに ” 想像を巡らせ ” 乱れ咲く。

そうして、実世界の様々な現実との狭間で彷徨う自ら曖昧なシグナルを読み取り直すことによって、現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に、雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始する。

探し続けることなくその意味を満たそうとするならば、積み上げてきた努力や苦労とその成果で得たものなどを無駄なものにするだろう。

自らの「 実情 」に合わせるだろうが、自らに「 自信 」をつけるだろうが、活気を求めて生気を得るのではなく、もっとも必要で優位なのは「 冷徹さ 」をもって意気を得ることだ

何か事をしようとする意気とともに事をやり遂げようとする張り強い意気をもたらす ” 活気な力と静かな力 ” を活かし、解決問題や実現課題の正解と正解の努力を探究( 探求 )したいのならば、刺激を感じる「 感覚 」と外界からの刺激を受け止める感覚的能力として物事を心に深く感じ取る働きの「 感性 」を鋭く研ぎ澄ましておくことだ。・・・・・

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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