KANKE 塾 《 自己プロモート 》 目覚まし力」カテゴリーアーカイブ

KANKE 塾 《 自己プロモート 》 目覚まし力  04 :「 画因力 」

 

 

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   KANKE GRAND 日光

    ー ” With NIKKO ” ウイズ日光 ー

 

 

 

 

     KANKE 塾

 

 

Mondaufgang am Meer (Moonrise over the Sea,) 1822. Caspar David Friedrich, The Alte Nationalgalerie (lit. Old National Gallery) is a listed building on the Museum Island in the historic centre of Berlin, Germany.

 

 

     菅 家 塾

 

 

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   ー 地域を生きる自分を活かす ー

 

KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行

 

 

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 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

” 目覚まし力 ”【 04 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ ” 新しい可能性 ” の組み立て「 画因力 」~

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

努力とは何か? 、、、、、
努力とは、何ものでもない正しくそれ” 努力する力の行為 ” のそのものであり、取り立てていうほどのもの、何ものでもない、まさしくその事自体、それ自体、特に強調するような点はないが強いて言うならば ー『 力の掛合せ ” 用力 ” 』ー として、” 作用 ” する力、” 役に立つこと・はたらき・ききめ ” の功用、” 強い力 ” の威力、敢えて挙げるとすれば ” 成し遂げる力 ” 、” 効果を及ぼすことのできる効力 ” 。

苦労は当たり前の努力、とりわけ努力が得意であるわけでもなく、殊に努力が優れているとするわけでもなく、日々これといって特に取り立てて努力に目を向けることもない.

” 新しさ ” の変わり(代わり)映えしない日常的な行動の日々に、常に絶えず努力とこの努力の力の働くその作用があっても、日々繰り返えされる当たり前の日常性に塗れ( まみ・れ )、とりわけ「 努力は特に意識しない 」だろう

努力に関心を向けず注意を払わない努力の力の働きとその作用が意識に上らないその力の「 間( あわい )」に、素晴らしくて目も覚めほど評価すべき状態が際立ちに驚く「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますこともあれば、心外で目も覚める思いがする思わぬ不本意に驚く「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますこともある

努力の力の内には( 努力する行為の過程には )、目が覚めるほど驚き素晴らしい「 目覚ましい 」という力もあれば、目も覚めるほど驚き呆れた「 目覚ましい 」という力もあり、力の「 間( あわい )」に ” 目覚ましか、目潰しか ” 納得すれば全ては始まり、納得していなければ何も始まってはいない。

様子や状態が前と変わっても( 変化しても )、「 新しさの ” 変わり映え ” 」はしないか 、、、、、。

何か変えても目立って良くなった部分が乏しくてあまり変化がなく前のものと変わらず、「 新しさの ” 代わり映え ” 」はしないか 、、、、、。

余りにも長い間迷った末の「 迷いの後( After far too long wavering. )」とは、厳然たる納得の揺るぎなさに「 首肯 」することである。

” 新しさ ” という「 新しい可能性 」の組み立ては、” 気づきの意識に現前 ” する努力の ” 束ねる力感の意識 ” に「 首肯 」することにより、「 努力の尻尾( しっぽ )を掴む 」しかないだろう。

人は何かと取り違える不覚に陥ってしまいがちであるが、その自らの失敗を悔やんだりしたり反省したりする心を持合わせてはいるものの不覚にも失敗したのは偶然だとして、失敗するはずのない自らこそが本当の自らだと考えてしまうのである。

大きな決断を迫られたとき覚悟は出来るか出て来ないか錯覚や勘違いなどに深く関わる不覚ではあるが、危ない過信の自信に自信する自らの誤りとして覚悟の行方ではなく、そのように『 決断 』しようとした自らを見据えさせる智恵がいる。

物事の進行や達成( 成立 )などを妨げる障礙が全くないといことなどはありえず、自らが思い描く対象を自らで見ているにすぎない見方は過信でああって、自らが獲得する自信が本当に自らを開放してくれるものなのか、或いは逆に自らの執着をも助長する閉鎖的なものなのか、常にその質を問い続けてゆくことが必要となる。

自らしてみれば事実間違いのない認識判断であるかのように思えるのだとしても、『 決断 』しようとする前に、その事実の捉え方や考え方に間違いがないのだろうか、他の捉え方や考え方があるのではなかろうか、として自らを見据えることだ。

見分と相分は認識判断が自らの心を色濃く反映しているものとしてそれに無自覚なのであり、自らの認識判断の間違いや誤りは自らなかなか気づき難い。

自らの料簡が有する独断性や問題性はその気づきにしかなく、自覚を促すのは自らであり、” 目覚ましか、目潰しか ” の「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますことは、厳然たる納得の揺るぎなさに「 首肯 」することになる。

変形・変換、変化・変質、変容・変態、転換・移行などによって、すっかり変わってしまう程に大きく様変わりする ” 新しさの変わり( 代わり )映え ” という「 トランスフォーム( trans-form )」。

既に “ 組み立てられたもの ” を新しくして生まれ変わるのではありえず、端から端まで横切って隅々まで完全にすっかり渡り切った( trans- = across ) ” 先駆的な画因力 ” によって「 新しい可能性 」を組み立てていくことを意味する。

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するもので、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は自ら主体の ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 人間主体自らとして ” 可能性 ” のある何を展開するのか 」である。

『 環境 』は全い ” 可能 ” に存在し、「 人間が主体の環境の側 」に ” 可能性 ” があるわけではなく、、ー 『 ” 可能性 “ は人間が主体の側 』ー にあり、人間は自らが主体の ” 環境 ” からつくるところの者として、 特定な結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

ー『 人間は自ら主体の ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、人間が主体の環境の側の全い ” 可能 ” に対し ” 可能性 ” に立たされる人間自らというのも、人間が主体の側 ” 可能性 ” における物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )や態度の出る方法( 出方 )によって、人間が主体の環境から破壊するも環境から創造するも「 運命的なこれから先の自由の可能性 」の結果を出し続けることになる。・・・・・

想像を巡らさせる想定を描く画因とそのモチーフ。

近い将来の発展や創造を考え、新しさという「新しい可能性 」を組み立てて持続的な可能性を見定めるために、真の豊かさだけでは抽象的すぎてあまりにも依然的すぎるが、仮に持続的な ” 安定と正常 ” を真であると見做し、結論を導くための条件や状況として「 想定 」する ” 結果がどうなるか考えるために起こり得る条件・状況とその考え ” に想像を巡らさせる。

近い将来の発展や創造へと変化・進化しないのは、今日的な意味を帯びている現実の大きな問題に直結する検討中の課題実現とその可能性といった点もあろうが、現実であるよりも現実的として真にかなった安定と正常の姿ではなく、社会的な欠陥や疲弊などから生じた変貌でもあって、早く課題実現と新しい可能性の組み立てを図って持続的な理想の姿を確かなものとすることであり、本当の豊かさの安心を安定と正常の姿において認識することができるのだろう。

想定の ” 安定と正常 ” には、競合があるわけではなし、水準の標準格差があるのならばその基準というものがあるはずであり、” こうしたい、こうなりたい、なんとか得られないか ” 、充足を求めて不断に不安をも抱えながら変革しようと、不断に努力して望むところは真であろう。

だがしかし、” 動機 ” づけをもって、そう望むところの想定に想いを巡らさせることはできても、見定めるために描く『 画因 』とそのモチーフが何処にも見当たらないのは何故だろうか 、、、、、

競合もないし、水準の標準格差もなき中で、『 画因 』とそのモチーフに筆先の駆り立てようがないのだろうか 、、、、、。

近い将来という未来は想定に想像を巡らさせるのみで、描きようにも描くことができないのか 、、、、、。

常に絶えず真偽を問わず、時の通路に流れ、その様相性に溶け合い潜在する可能性の未来に写り込む様相たるものは新しさへの変化・進化であり、未来に生じ起こり得る可能性の一現象に過ぎないものを、偶然または意図しても現実に反射するものの中に映り込むこともなければ見えることもなく、形なきものを描きようがないのだろうか 、、、、、。

考察することによって具象的イメージや極端かつ強烈な事と象を描くことの価値。

可能性があるのかというようなことを捉えるのが大きな課題となるが、そうした時には ” 現実洞察と未来洞察 ” という視点をもたざるを得ない。

未来予想のように過去・現在の延長線上に未来を見ることではなく、” 未来洞察 ” は未来への変化を察知することであり、それは現在の延長線上には作れず、” 現実洞察 ” をはじめることが先決である。

価値移行が未来をつくるのであり、” 新しい可能性の組み立 ” や新しさの導入のような既成の現象を注視することで、新しい価値に移行するためのトリガーを見つけ出す( 又は創り出す )ことが未来洞察という考え方の本質でもあり、先ずは価値移行があることを理解した上で現実の動向等を観察することである。

新しい価値の移行にあたって、素となる ”リソース ” の独自の資質や特質と資源や特色を活かした特別な素材や材料などをどの様に使えるのか( 又は使うのか )、それはどのようなアプローチなのか、問題解決や課題対応にどう生かせるのか ” 、現実と理想とのギャップを計りながら理想とする未来( 未来像 )から逆算して目標や計画立て、未来像や目標に近づく「 バックキャスト( back cast )」が重要となってくる。

未来洞察は現在( 現実洞察 )を始点に置いて未来を描くのではなく、最初に未来像を描いた上で、次にその未来像を実現する筋道を未来から現在へと遡って思考することである。

最初に目標とする未来像を描き、次にその未来像を実現するための道筋を未来から現在へと遡って思考しシナリオをつくることであり、目標達成や課題実現において現在や近い過去の状況をもとに未来を仮定ではなく現実の延長線上で考える手法で近い未来の予測や目先の問題への対処など未来を探索するフォアキャスティングと比較して、変化が求められる課題実現に対して有効である。

” 現実洞察と未来洞察 ” による「画因」とそのモチーフによって、根本的な問題や課題を発見するとともにその解決や対応の方向性を見出すことと、今までにない新しさという「 新しい可能性の組み立て 」を生み出すこともできるだろう。

何かに触発されて何かしら受けるだけでの未来を写す模倣ではあり得ず、現実を観察してその本質や奥底にあるものを見抜き見通すことなしに、個々の特定の理想的な変容なしに、抽象的な考察とイメージの間に形を与えることなしに、暗示的な思い込みや想定に想像を巡らさせた想像力による単なる構想になってしまうなら、実現・発現に潜在するとした可能性によって未来を再現する必要が何処にあるのだろうか、もしもポーズをとるだけのものに取って代わってしまうなら、可能性は死を迎えて消滅可能性に取って代わるだろうし、現実に基づき現実を支えにして多様な可能性を探り試すような性質で卑屈な模倣に陥り模倣であることに還元した可能性を奪い去り元に戻したりはできない。

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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KANKE 塾 《 自己プロモート 》 目覚まし力  03 :「 実現力 」

 

 

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Neubrandenburg (Neubrandenburg in the morning mist), between 1816-1817. Caspar David Friedrich.The Pomeranian State Museum in Greifswald, Germany.

 

 

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KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行
anke.com/workblog/category/日々の力行”>日々の力行

 

 

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 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

” 目覚まし力 ”【 03 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ ” 新しい可能性 ” の組み立て「 実現力 」~

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

努力とは何か? 、、、、、
努力とは、何ものでもない正しくそれ” 努力する力の行為 ” のそのものであり、取り立てていうほどのもの、何ものでもない、まさしくその事自体、それ自体、特に強調するような点はないが強いて言うならば ー『 力の掛合せ ” 用力 ” 』ー として、” 作用 ” する力、” 役に立つこと・はたらき・ききめ ” の功用、” 強い力 ” の威力、敢えて挙げるとすれば ” 成し遂げる力 ” 、” 効果を及ぼすことのできる効力 ” 。

苦労は当たり前の努力、とりわけ努力が得意であるわけでもなく、殊に努力が優れているとするわけでもなく、日々これといって特に取り立てて努力に目を向けることもない.

” 新しさ ” の変わり(代わり)映えしない日常的な行動の日々に、常に絶えず努力とこの努力の力の働くその作用があっても、日々繰り返えされる当たり前の日常性に塗れ( まみ・れ )、とりわけ「 努力は特に意識しない 」だろう

努力に関心を向けず注意を払わない努力の力の働きとその作用が意識に上らないその力の「 間( あわい )」に、素晴らしくて目も覚めほど評価すべき状態が際立ちに驚く「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますこともあれば、心外で目も覚める思いがする思わぬ不本意に驚く「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますこともある

努力の力の内には( 努力する行為の過程には )、目が覚めるほど驚き素晴らしい「 目覚ましい 」という力もあれば、目も覚めるほど驚き呆れた「 目覚ましい 」という力もあり、力の「 間( あわい )」に ” 目覚ましか、目潰しか ” 納得すれば全ては始まり、納得していなければ何も始まってはいない。

様子や状態が前と変わっても( 変化しても )、「 新しさの ” 変わり映え ” 」はしないか 、、、、、。

何か変えても目立って良くなった部分が乏しくてあまり変化がなく前のものと変わらず、「 新しさの ” 代わり映え ” 」はしないか 、、、、、。

余りにも長い間迷った末の「 迷いの後( After far too long wavering. )」とは、厳然たる納得の揺るぎなさに「 首肯 」することである。

” 新しさ ” という「 新しい可能性 」の組み立ては、” 気づきの意識に現前 ” する努力の ” 束ねる力感の意識 ” に「 首肯 」することにより、「 努力の尻尾( しっぽ )を掴む 」しかないだろう。

人は何かと取り違える不覚に陥ってしまいがちであるが、その自らの失敗を悔やんだりしたり反省したりする心を持合わせてはいるものの不覚にも失敗したのは偶然だとして、失敗するはずのない自らこそが本当の自らだと考えてしまうのである。

大きな決断を迫られたとき覚悟は出来るか出て来ないか錯覚や勘違いなどに深く関わる不覚ではあるが、危ない過信の自信に自信する自らの誤りとして覚悟の行方ではなく、そのように『 決断 』しようとした自らを見据えさせる智恵がいる。

物事の進行や達成( 成立 )などを妨げる障礙が全くないといことなどはありえず、自らが思い描く対象を自らで見ているにすぎない見方は過信でああって、自らが獲得する自信が本当に自らを開放してくれるものなのか、或いは逆に自らの執着をも助長する閉鎖的なものなのか、常にその質を問い続けてゆくことが必要となる。

自らしてみれば事実間違いのない認識判断であるかのように思えるのだとしても、『 決断 』しようとする前に、その事実の捉え方や考え方に間違いがないのだろうか、他の捉え方や考え方があるのではなかろうか、として自らを見据えることだ。

見分と相分は認識判断が自らの心を色濃く反映しているものとしてそれに無自覚なのであり、自らの認識判断の間違いや誤りは自らなかなか気づき難い。

自らの料簡が有する独断性や問題性はその気づきにしかなく、自覚を促すのは自らであり、” 目覚ましか、目潰しか ” の「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますことは、厳然たる納得の揺るぎなさに「 首肯 」することになる。

変形・変換、変化・変質、変容・変態、転換・移行などによって、すっかり変わってしまう程に大きく様変わりする ” 新しさの変わり( 代わり )映え ” という「 トランスフォーム( trans-form )」。

既に “ 組み立てられたもの ” を新しくして生まれ変わるのではありえず、端から端まで横切って隅々まで完全にすっかり渡り切った( trans- = across ) ” 先駆的な実現力 ” によって「 新しい可能性 」を組み立てていくことを意味する。

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するもので、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は自ら主体の ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 人間主体自らとして ” 可能性 ” のある何を展開するのか 」である。

『 環境 』は全い ” 可能 ” に存在し、「 人間が主体の環境の側 」に ” 可能性 ” があるわけではなく、、ー 『 ” 可能性 “ は人間が主体の側 』ー にあり、人間は自らが主体の ” 環境 ” からつくるところの者として、 特定な結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

ー『 人間は自ら主体の ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、人間が主体の環境の側の全い ” 可能 ” に対し ” 可能性 ” に立たされる人間自らというのも、人間が主体の側 ” 可能性 ” における物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )や態度の出る方法( 出方 )によって、人間が主体の環境から破壊するも環境から創造するも「 運命的なこれから先の自由の可能性 」の結果を出し続けることになる。・・・・・

「 実現と発現 」の ” 必然性 ” と ” 可能性 ” 。

「 新しい可能性 」を組み立てを実際に起こすこと、又は ” 新しさの変わり( 代わり )映え ” という状態に達すること、このような「 実現・発現 」は単なる結果ではなく、その過程も含めた全体像として捉えることであり、可能性という傾向や潜在的な発展性を秘める過程としてある ” 知と力 ” は ” 次の実現・発現 ” への重要な要素となる。

実際に起こして行き着き到達した ” 必然性に近い ” ものであれば、一定の諸条件が存在すれば必ず実現・発現してそうなる「必然性 」として、人や物事と事物や事象とその事柄の発展する内的本質に根差したものであり、その過程を通じて関わる全てのものに通ずる性質と全ての場合に当て嵌まる可能性という傾向として貫かれているものになる。

実際に起こして行き着き到達する ” 可能性に近い ” ものであれば、見込みや事実がそうである見込みとして実現・発現がそうなるであろうとする「 可能性 」として、判断や判断の対象となるものとその目的・目標が筋道立てて考えたことに矛盾を含んでないという側面を示す偶然的な状態であり、潜在的な発展性を秘めるものになる。

最終的な「 実現と発現 」は人の意志や意思決定と意識行動などに依存し、「 意識と意欲を支えるものと、発意と創造を支えるものとによる ” 実現・発現の発端とプロセス ” 」は、” より必然性に近いもの ” と ” より可能性に近いもの ” とがある中で、「 実現と発現 」は個人レベルの目標から社会全体を揺るがすような大きな目標まで、” 共同的や外在的と反復的などの実現・発現 ” に伴い個人レベルの小さな目標から地域レベルの目標や社会全体を揺るがすような大きな目標まで、あらゆる規模で起こり得る。

人や物事と事物や事象とその事柄の発展する内的本質に根差したもの全ては「間(あわい)」に存在し、空間的・時間的なあいだの相互作用(interaction : インタラクション )にあってその配合や取り合わせと折や機会をもち、実情や事態と局面などにある形態やシチュエーション( situation )として、「 実現と発現 」は変化する人や物事と事物や事象とその事柄などのその時その時の状態や状況の関係に存在する。

範疇を超えて全てのものに変わらず当て嵌まる性質や価値観など ”枠を超えた力の繋がり”という相互に価値観が共有される越境連繋に向け、従来的なカテゴリーミステイク( 範疇の錯誤 )に嵌ることのない相互作用を伴う「間(あわい)」というものは、能動的な能力の可能性を備えていることをいい、” 旋律 ” ともいえるのであり、律動を伴った連続的な連なりとして実際に「 緊張と ” 実現と発現 ” による問題解決 」という役割の進み具合と導き方にそれを理解でき得る。

今日的な意味を帯びている現実の大きな問題に直結する検討中の「 課題実現と力能発現( 潜在力 )」の状態に目を向け、” インタラクションの間(あわい)” に置かれたこの状態全ては個々に理性的な判断をすることを前提に適切な特徴を適切に扱って誤謬に陥ることのないようにすることだ。

実際に起こして行き着き到達する ” 可能性に近い ” ものとして見込みや事実がそうである見込みとして、実現・発現がそうなるであろうとする「 可能性 」としての判断とその判断の対象となるものやその目的・目標を筋道立てて考える。

常に別の可能性がないかを考えつつ客観性にある合理的な判断を求めることを可能にするならば、その『 実現力 』というものは実際の ” 実現と発現 は矛盾を含んでないという側面を示す偶然的な状態として潜在的な「 新しさへの変化と発展性 」を可能にする。

一方では、目的に知的欲求の新しい可能性への関心や探究心( 又は探究心 )でもっていたかのようみえても、あながちそういうわけではない。

余裕もあれば気随気儘な( 思いのままに振る舞う )方法を手中におさめ執っていればこそ、切っ掛け又は原因( 必要条件又は因果 )による目的に知的欲求の新しい可能性への関心の強さや探究心( 又は探究心 )に伴う可能性に近い結果としての「 実現と発現 」ではなく、” 条件を超えて働く力の精神力 ” に伴う『 実現力 』によって必然性にもっとも近い結果として「実現と発現」は可能ともなる。

全ては現在という可能性に立たされており、過去の物事がそうであろうとするのも可能性であり、将来的なものががそうであろうとするのも可能性なのである。

変化する人や物事と事物や事象とその事柄などの事実がそうであろうとする見込みにすぎないのが可能性としてあるだけで、常に絶えず真偽を問わず時の通路に流れその様相性に溶け合い潜在する可能性の写り込む様相たるものは ” 新しさへの変化と進行 ” としてある。

新しさへの発展性( 進化 )かもしれず、衰退性( 退行 )かもしれず、将来に生じ起こり得る ” 一現象性 ” にすぎないし、不可能であることを否定しないが、可能とつり合うように不可能があり、「 実現と発現 」というものは試みによって可能か不可能かの相違が生じるともいえるのだが 、、、、、。

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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KANKE 塾 《 自己プロモート 》 目覚まし力  02 :「 精神力 」

 

 

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    ー ” With NIKKO ” ウイズ日光 ー

 

 

 

 

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Mann und Frau in Betrachtung des Mondes(Man and Woman contemplating the moon), circa 1818/1824. Caspar David Friedrich.The Alte Nationalgalerie (lit. Old National Gallery) is a listed building on the Museum Island in the historic centre of Berlin, Germany.

 

 

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   ー 地域を生きる自分を活かす ー

 

KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行

 

 

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 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

” 目覚まし力 ”【 02 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ ” 新しい可能性 ” の組み立て「 精神力 」~

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

努力とは何か? 、、、、、
努力とは、何ものでもない正しくそれ” 努力する力の行為 ” のそのものであり、取り立てていうほどのもの、何ものでもない、まさしくその事自体、それ自体、特に強調するような点はないが強いて言うならば ー『 力の掛合せ ” 用力 ” 』ー として、” 作用 ” する力、” 役に立つこと・はたらき・ききめ ” の功用、” 強い力 ” の威力、敢えて挙げるとすれば ” 成し遂げる力 ” 、” 効果を及ぼすことのできる効力 ” 。

苦労は当たり前の努力、とりわけ努力が得意であるわけでもなく、殊に努力が優れているとするわけでもなく、日々これといって特に取り立てて努力に目を向けることもない.

” 新しさ ” の変わり(代わり)映えしない日常的な行動の日々に、常に絶えず努力とこの努力の力の働くその作用があっても、日々繰り返えされる当たり前の日常性に塗れ( まみ・れ )、とりわけ「 努力は特に意識しない 」だろう

努力に関心を向けず注意を払わない努力の力の働きとその作用が意識に上らないその力の「 間( あわい )」に、素晴らしくて目も覚めほど評価すべき状態が際立ちに驚く「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますこともあれば、心外で目も覚める思いがする思わぬ不本意に驚く「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますこともある

努力の力の内には( 努力する行為の過程には )、目が覚めるほど驚き素晴らしい「 目覚ましい 」という力もあれば、目も覚めるほど驚き呆れた「 目覚ましい 」という力もあり、力の「 間( あわい )」に ” 目覚ましか、目潰しか ” 納得すれば全ては始まり、納得していなければ何も始まってはいない。

様子や状態が前と変わっても( 変化しても )、「 新しさの ” 変わり映え ” 」はしないか 、、、、、。

何か変えても目立って良くなった部分が乏しくてあまり変化がなく前のものと変わらず、「 新しさの ” 代わり映え ” 」はしないか 、、、、、。

余りにも長い間迷った末の「 迷いの後( After far too long wavering. )」とは、厳然たる納得の揺るぎなさに「 首肯 」することである。

” 新しさ ” という「 新しい可能性 」の組み立ては、” 気づきの意識に現前 ” する努力の ” 束ねる力感の意識 ” に「 首肯 」することにより、「 努力の尻尾( しっぽ )を掴む 」しかないだろう。

人は何かと取り違える不覚に陥ってしまいがちであるが、その自らの失敗を悔やんだりしたり反省したりする心を持合わせてはいるものの不覚にも失敗したのは偶然だとして、失敗するはずのない自らこそが本当の自らだと考えてしまうのである。

大きな決断を迫られたとき覚悟は出来るか出て来ないか錯覚や勘違いなどに深く関わる不覚ではあるが、危ない過信の自信に自信する自らの誤りとして覚悟の行方ではなく、そのように『 決断 』しようとした自らを見据えさせる智恵がいる。

物事の進行や達成( 成立 )などを妨げる障礙が全くないといことなどはありえず、自らが思い描く対象を自らで見ているにすぎない見方は過信でああって、自らが獲得する自信が本当に自らを開放してくれるものなのか、或いは逆に自らの執着をも助長する閉鎖的なものなのか、常にその質を問い続けてゆくことが必要となる。

自らしてみれば事実間違いのない認識判断であるかのように思えるのだとしても、『 決断 』しようとする前に、その事実の捉え方や考え方に間違いがないのだろうか、他の捉え方や考え方があるのではなかろうか、として自らを見据えることだ。

見分と相分は認識判断が自らの心を色濃く反映しているものとしてそれに無自覚なのであり、自らの認識判断の間違いや誤りは自らなかなか気づき難い。

自らの料簡が有する独断性や問題性はその気づきにしかなく、自覚を促すのは自らであり、” 目覚ましか、目潰しか ” の「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますことは、厳然たる納得の揺るぎなさに「 首肯 」することになる。

変形・変換、変化・変質、変容・変態、転換・移行などによって、すっかり変わってしまう程に大きく様変わりする ” 新しさの変わり( 代わり )映え ” という「 トランスフォーム( trans-form )」。

既に “ 組み立てられたもの ” を新しくして生まれ変わるのではありえず、端から端まで横切って隅々まで完全にすっかり渡り切った( trans- = across ) ” 先駆的な精神力 ” によって「 新しい可能性 」を組み立てていくことを意味する。

持続可能性というものを考え創り上げていくにあたって自己の在り方や生き方を問い直すことで問題意識は深まり、人それぞれの様々な自己の在り方に関わる総合的な探求の目的に達することになり、主体的自己それぞれによる持続的な ー 地域律動 ー の ” 新しさ ” という「 新しい可能性 」を組み立てていくことを目指し実行する上での大凡の方向性や方法等々に一通り盛り込まれ網羅されており、何もかも一様に揃った画一化に代わり映えしないということも無きにしも非ずだが、人それぞれの資質や特性と独自性や特徴などが表出されているかどうかについて別にして、同じく何もかも一様に揃った画一化に代わり映えしないということも無きにしも非ずだが、主体的自己として” 奔放な想像力をもつ逞しさも挑戦力 ” ともいえる骨太のそれなりの ” 逞しさ ” をもっているだろう。

主体的自己としての殆どは、厳しい環境の中で取り巻く現状と直面する課題を捉え、” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” おける取り組みや仕組みづくりを進めていくために、具体的な計画や対策などに伴う目標を達成する上での方向性や方法などを含めた行動の基本的な考え方と指針であるアクション ガイドライン( Action guideline )を取り纏め、「自己精神 」とその「 自己表現 」に示し、周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )と共通の目的や興味をもつ人々が集まる広く多様なコミュニティに進入しつつ、時の試練に耐えながら課題実現はもとより持続可能な自己活性化に伴う未来創造や更なる自己創出( 又は自己強化や自己拡張 )などの想像を巡らさせる想定実現に向けて骨太の方針を貫く舵取りを行ってゆく等々、ー「 ” 逞しい ” であろうか 」ー 、、、、、。

取り巻く環境の変化という環境問題への意識の高まりなどの大きな変化が生じてきており、これまで解決が困難であった課題に対する取り組みや仕組みを進める好機が到来しているとして、自己発展と自己課題の解決を図ることができる自己の実現に向けて多様化・複雑化する経済・社会の情勢変化にも対応できる強靱で実質を重んじる自己力のある生活基盤を確立するなど、自己創出などの取り組みを加速するため、新たな視点や発想による未来志向への見直しと変容を進めるのとともに自己創出の取り組みを加速するため、創意工夫により課題実現を図ることができるように不断の自己見直しや変革を進めていく等々、ー「 あまりにも ” 逞し ” すぎるであろうか 」ー 、、、、、。

人それぞれの主体的自己は持続可能な将来像( 理想自己 )の実現に向け、自己主体となってストラテジー的なスキームの確立を進めるため、人それぞれアクション ガイドラインの行動指針を実践していくあたっての具体的な計画やルールや日常的な行動基準と方法論など目標に達するためのタクティックス プラン( Tactics plan )やマネージメント ポリシー( Management policy )を取り纏め、未来創造や更なる自己創出の想定実現に向けた重点的取り組みとその具現化への取り組みを進めていく等々、ー「 あまりにも ” 逞し ” すぎる分だけ ” 逞しさ” に欠けるだろうか 」ー 、、、、、。

アクション ガイドラインの行動指針を実践していくための具体的な計画やルールや日常的な行動基準と方法論などタクティックス プラン( Tactics plan )やマネージメント ポリシーの ” 重要性 ” と ” 緊急性 ” が求められる中で、アクション ガイドラインの方向に従って正確なプランやマネージメントを行うべきものであるが、プランとマネージメントが目的とするところは、自己の現状内容として明らかにした「 現実自己 」と持続可能な将来像とする「 理想自己 」との ” ギャップ ” という二つの点に関する主体的自己自らの判断を誤らせないようにすることにあるから、主体自らの目標の成果を上げるために自己の知識やスキルとツールや経験とネットワークなど自分がもっているあらゆる人や物事と事物や事象など含む自己のリソース( 自己資源 )を効率・効果的に活用しつつリスク管理なども行いながら、予め設定された主体自らの目標やミッション達成を目指すことになるが 、、、、、。

これらの ” 緊急性 ” においては意気や勢いが満ち溢れているものの、” 重要性 ” においては「 新しい可能性 」の組み立てという存在とその重要度を知り得て認識されているのかどうか、その意味や背景と意義として相応しい価値をより深く把握し本質を捉えることに重点を置いて理解されているのかどうか 、、、、、。

暗中模索の中で手掛かりはないと思い込みのまま手探りをして彼や此れやとやってみて求め続けたにもかかわらず、迷いに迷った末のあまりに長い迷いの後には必ず、” 気づきの意識に現前する努力の ” 束ねる力感の意識 ” を首肯 することにより、もっともらしく ” 新しさ ” という「 新しい可能性 」の組み立ては浮かび上がってくるものの、” 可能性 ” は係って( 掛かって )『 潜在力 』の認識にあることを知り得てはいない 、、、、、

主体的自己自らの ” 近い過去から現実 ” の内にも、「 現実自己 」と「 理想自己 」とのギャップの内にも、” 必然性 ” に近いか ” 可能性 ” に近いか『 自己潜在力 』というものが人それぞれの様々な自己にあり、その実情や想定とギャップと関わる傾向性が必要条件または原因・因果としての《 刺激 》となり結果として発現する実現可能性力の『 潜在力 』として力能( power )」によって ” 新 しい可能性 ” の組み立てが開かれてくることさえも知らず識らずのうちに、主体的自己自らの予め設定された目標やミッション達成を目指すことになる。

「 潜在力 」とは、” 静態的 ” で固定した実体ではなく、常に ” 動態的 ” で変化し流動している過程にあるものとして捉えることにある。

いわゆる潜在的可能性( 機 : 仏語 ) は別物として、「 潜在力 」は可能力性によって顕在化する実現可能力性の力能( 潜在 = 力 )であることを、わけなく潜在的な力とだけで見て取り知って認めることはできず、「 潜在力 」は単純に内在しているのではなく、可能性というよりも必然性に近いものとして傾向性( 又は能力 )の《 刺激 》から発現するといった切っ掛け又は原因( 必要条件又は因果 )をもち、” 新しい可能性 ” の組み立て目的・目標の ” 実践 ” において ー『 ” 実質的な外的要素との関係( 傾向性 / 原因・必要条件又は因果としての《 刺激 》と結果としての発現 )” によって初めて「 実現可能性力の潜在力として発現する力能( power )」の円環的な働きとその作用をもって作動している 』ー として認識することであり、共同的や外在的と反復的などの潜在力がある中で、” 傾向性 = 潜在力 ” として潜在性と活動性の対比で捉えるならば必然性ではなく可能性に近いものともなる。

「 潜在力 」の切っ掛け又は原因( 必要条件又は因果 )とその《 刺激 》によって結果的に発現する必然性に近いもの又は可能性に近いものとしての「 潜在力 = 力能( power )」のそのものは、人・物事・事物・事象の諸々にあり、自己自身としてのその内なる精神や心と能力にあるのみならず、” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” に集約される自らの実情や現状況と活動内容をはじめとした現実自己と理想自己とのギャップ等の内なるものにもあれば、現状経済・社会システム等と文化・教育体系等に自ら関わるものにもあって、ひいては仕事を含めたライフ ワークの現状機能面にまで関わり、” 自分を生きる地域を活かす ” と ” 地域を生きる自分を活かす ” ことにおいて地域のあらゆる物事・事物・事象の諸々に自らが関わるもの全てに及び、自己の知識やスキルとツールや経験とネットワークなど自己自らがもっているあらゆる人や物事と事物や事象など含む自己のリソース( 自己資源 )に潜在し、人や知識と技術や生産物(特産品・名産品等)と自然や気候と風土や歴史と伝統や文化など地域自らがもっているあらゆる人や物事と事物や事象など含む地域のリソース( 地域資源 )にも潜在する。

必然性に近いか可能性に近いかといえば必然性によるところも多々ある『 潜在力 』でもあり、漫然として知的な欲望( 欲の核 )の赴くままに、例えつくり出された幻視だとしてもその得体の識れないものが傾向性( 又は能力 )の《 刺激 》から結果として『 潜在力 = 力能( power )』が発現する必然性または可能性に近いものであり、切っ掛け又は原因( 必要条件又は因果 )による目的に知的欲求の新しい可能性への関心の強さは探究心( 又は探究心 )に富むものとして、『 潜在力 』 への ” 気づきの意識に現前する『 欲望力 』に束ねる力感の意識 ” に首肯する自らの ” 欲の核 ” にある特性とともに傾向性をよく認識し理解することである。

その全ては「潜在力」の結果的発現の切っ掛けっ掛けまたは原因( 必要条件又は因果 )による ” 目的に知的欲求の新しい可能性 ” への関心の強さや探究心( 又は探究心 )に富むものとして現実評価認識とともに理想評価認識を高め、この様な人・物事・事物・事象の諸々の客観的な事実から合理的に「 潜在力 」を解釈するためにこの全ての核にある特性とともに傾向性をよく認識して理解し、” 静態的 ” で固定した実体ではなく常に ” 動態的 ” で変化し流動している過程にあるものとして捉えてその全てを客観的な事実から合理的に解釈すべきである。

「 潜在力 」が種々の要素の連環性に入り混じる交差( 混淆性 )の中にあることを認識しつつも不完全であることをも認識し、その潜在力を発現することによって従来とは異なる思考や価値に対し寛容で開放的な態度をとるということが「 潜在力 」本来の意味を成すのである。

多方面に自己強化や自己拡張でき得る力として有効性や優位性のある「 自己潜在力 」を検討して探り引き出し試みるその成果は、” 自分を活かす「 発創 」” による知的な実現可能性や自己創出のための継続可能なワークスタイルの構築をはじめ、多様な領域自己という部分が基域の集合体である全域の未来を信じて展望し切り開く主体的な未来創造や自己創出の持続可能性を生み出す力の出発点でもある。

認識力や思考力と想像力や計画力などによる柔軟性・適応力のあるダイナミックな対処能力と変容・変革能力を「 自己潜在力 」として抽出・概念化し活用することで、多くの問題実現やあらゆる課題実現を展望するといった意義をもつことになる。

それは、主体的自己自らの「 自己潜在力 」を活用することで問題解決や課題対応を展望し、時代の変遷に伴う状況や情勢に沿ったニーズに応えるために地方地域の基盤や特性と作用や効果と限界などを問題や課題ごとに検証し、その効果や有効性を明確に提示していくことにある。

主体的自己自らの問題実現や課題実現の実践的スキルとして「 自己潜在力 」を捉えるのではなく、この実践そのものを支える思考や価値観と知的様式が従来型( = 普遍的 )モデルとは異なる視点や生成される思考をつくり出す ” 発創 ” を生み出すものとして捉えるべきである。

一時的ともいえる可変的な価値を単に探り求めることなく、普遍性( = 従来型 )を包み込む別の認識( 認識力 )をはじめ普遍性に包摂されない視点や思考と価値とともに、この普遍性を包み込む別の認識( 認識力 )と普遍性を変容しつつ運用する実行( 実行力 )とそれを支える知が必要となる。

そのためには、これらを調整力や回復力を伴う主体的自己の「 自己潜在力 」として着実に変わることなく定常に保たれるようにするとともに、従来の未来創造や自己創出の知的な様式とは別の見方や在り方を自己自身の未来への知的資産として展望した効果創造・創出するための源泉となる ” 目的及び指標となる目標 ” をより明確にした上でこれを目指す意図した実現( 実現力 )が重要になってくる。

→ 努力の余力 ” 力のいろいろ ”
思巡の活力【 Ⅳ 】 構成力「 生成着想 」

 

精神の振る舞いに対し、衝撃の《 刺激 》を加えていく ” 挑戦的姿勢 ”( =「 精神力 」)。

逞しいコンセプトを示し人の頭の中と心を捉え、厳しい環境の時の試練に耐えつつ舵取りを行ってゆくのだとするのは、あまりにも逞しい分だけ ” 逞しさ ” に欠ける。

逞しいコンセプトを示し人の頭と心を惹きつけ、未来の将来像に繋がるのならばどのような労苦でも骨身を惜しむことはないとするのもやはり、あまりにも逞しい分だけ ” 逞しさ ” に欠ける。

この二つとも決まればトリッキーな技だが、その如才ないタクティクスのアイデアが失敗したときのダメージも大きい。

物事に取り組むことにおいて何事も考える難しさというものが伴うものであるが、秘訣として ” 例えば考え ” で、このように考えてみたらどうだろうか 、、、、、。

「 何事もまったく知らず、いわば無知の状態から物事を始めていくには、なかなかハードルが高いものであり、では何故にハードルが高いのかというと、それはすなわち ” 考えなければいけない要素が多すぎる ” からである。」ということだ。

何事も物事に取り組むことにおいては、その物事について知り慣れていたとしても、考えることにおいては何事も難しさが伴うのは ” 考えなければいけない要素が多すぎる ” といったたった只それだけでのことなのである。

頭で考えるということは、” 考えなければいけない要素が多い ” だけでなく ” 深く掘り下げ考えなければならい要素 ” もあって間口は広く奥行きは深い。

考える力をどのように鍛えていくかなのであるが、その一つの実践的手法として ” 学門 ” ではなく ” 学問的側面 ” に注目した見方や捉え方と考え方を働かせて考える力を培う方法がある。

例えるならば ” 繊細の精神 ” に対する ” 幾何学的精神 ” が創造的成果につながるように、或いはこの中間にあってその双方を発見的価値と創造に向けて行き交うかのように、合理的な認識の精神に基づく ” 合理的思考能力 ” による多彩なモードの有能性を備えることであり、これらによる考え方の解法・手法と結論に発見的価値と創造を生み出していくのである。

” 幾何学的 ” な見方や捉え方と考え方による多彩なモードとその深層は別にして実践的に、側面としての ” 数学的・造形学的・構成学的・建築学的 ” などの見方や捉え方と考え方などその他は、そのそれぞれ強固な完成度の有能性に多様さをもち、” 例えば考え ” で考えることに有意な安定性を与え、様々な物事を捉え考える際の ” 読み解く際のカギ ” として確実に見つかるものだ。

これらはあくまでも合理的な認識の精神に基づく合理的思考能力によって、証明に適合させる見苦しい逞しからざる理論よりも、もっと逞しさの理論としてのより明晰な確かさをもつ。

何故ならば、発想というよりも発見に近く、解法・手法と結論は発明には依存することがないからだ。

だがしかし、現実であるよりも現実的である ” 考える ” ことのそれが解法・手法の結論づく頃、いつも常に発想でもなく想像でもないこんな頭の単純な ” 考える ” ことの繰り返しに飽き辟易して嫌気が差すわけでもなく、” 発想と創造 ” なきテンション劣化の反動か、さてまた心は不合理なのか、” 合理性の綻び ” なのか 、、、、、

魔が差して ” 考える ” ことの日常性から離脱し、間違いつづきに考えつづきの喜劇として ” 考える ” ための直接必要性を超え、しなやかな繊細の精神など何処吹く風、合理的な認識の精神などもハチキレてしまい、困ったことにイキナリにして様々なものへ興味や関心を抱きはじめる。

” 考える ” ことを捨て去り、いわば ” 知と合理的な言説 ” へと ” 考える ” ための間接必要性へと向うことになる。

そうであろう、” 考える ” こと自体は発想というよりも発見で、解法・手法と結論も発明になく、ただ ” 考える ” だけのことによって物事への注意を向ける効き目が散漫ともなれば、” 発想と創造 ” モードの深まりに戻りたくなるも当然だ。

物事を考えるよりも、物事を見分けて知り、その本質的なものをどうにか理解するなど、主体としてまた主観として対象を明確に把握し認識することによって得られる成果( = 知識 )へと、意欲・情緒とともに発想と創造の創意による推理・判断において、常に絶えず知ることあるいは知られる内容の深まりにその心の働きと思いは馳せるのであり、感覚・知覚・直観・思考など様式による知識の深まりといういわば ” 知と合理的な認識と合理的な言説としての「 認識の精神 」” に至る。

考える礎に人の力の創意というものがなかれば一体何が何処に深まりがあるのだろうか 、、、、、。

認識の自由性において、認識の対象として注意を向ける矛先を求め、その対象に働きかけてその結果を更に観察しながら対象の変化の仕方やその因果関係を調べてみようとしたりする。

人の力の創意に向う過程には、意欲・情緒とともに発想と創造の創意、推理と判断による知、これらがある。

ありとあらゆる物事を見通し明らかにするということの圧倒的な大いなる力による精神として、認識の精神の深まりの人間的マッスが強調された勇壮への心的イメージは逞しさ的範疇にあり、” 新しさ ” という「 新しい可能性 」を組み立てていく精神の振る舞いに対し衝撃の《 刺激 》を加えていく挑戦的姿勢のうちに見る。

” 新しさ ” という「 新しい可能性 」を組み立てていく精神の振る舞いに対し衝撃の《 刺激 》を加えていく挑戦的姿勢に、物事をどこまでも明らかにしていく極め付け。
物事をこれ以上はないという状態にまでもって行き着く極めに、ハッキリした評価や定評の極札など付けられない人間の極め付け。

人は無能でなくても無芸にはなりたくなければ、徹見して窮め芸しかない。

心を極め、脳を極め、何事も見通して明らかにしたいのが人間というものであり、人は先ず根本的に自らを徹見するという基本問題の対象や人間の最適化はさて置き、見通し明らかにする極め、人の最も深き心と脳の基本問題と最適化の人。

ありとあらゆる物事に心も脳も惹かれ、” 新しさ ” という「 新しい可能性 」を組み立てていく精神の振る舞いに対し衝撃の《 刺激 》を加えていく挑戦的姿勢を感得する窮め芸、『 潜在力 』への興味と関心。

人の ” 考える ” ことなど、わかりきったことでしかなく、本能に無駄が存在する余裕も余地も無い。

人はどのようにして物事を正しく知ることができるのだろうか、人はどのようにして物事について誤った考え方を抱くのだろうか、或る考え方が正しいかどうかを確かめる方法があるのだろうか、人間にとって不可知の領域はるのだろうか、あるとしたらどのような形で存在するのだろうか 、、、、、

人が理解できる限界としての『 潜在力 』へと、人が理解できる限界について考察する『 潜在力 』へと向う。

人間は ” 潜在性 ” という幻視なものは理想ではないのだと割り切ったところにあり、人間とその人を考慮した場合を主に扱う『 潜在力 』は、” 知と合理的な認識と合理的な言説として「 認識の精神 」” でしかない。

到達不可能な理想を支えに、考え得る最も完全な状態にある実現可能の相対的な理想の想定に想像を巡らす方法の模索でもあった ” 理想の予想の奇矯 ” であるのに比して、従来のこの像を刷新する形容としての ” 潜在性 ” という幻視なものに効き目をもち、人間の力の創意の起源としてのその特異性の本質を明らかにすることであり、時代という力の性格にある知と認識の精神の在り方を炙り出す。

むしろ想像界の感覚的興味や関心に対しての抵抗心を起こさせたり精神を高揚させたり、来るべき新しい時代のための創造様式として、現実から一歩進んだところに位置した ” 潜在性 ” という幻視なものにある『 潜在力 』。

大きくいえば、現実の創造のための意識という命題に精神はどのように対峙し、現実を超えたこの仮想の創造様式に表現はどのように可能なのか、穏当の見解として揚げにくかった完成されたかに見せるビジョンをこの様式によって完全に刷新できるのか 、、、、、

このような 過去の視点に立って普遍的なものを肯定する目線でその所望ビジョンのビュー生成に表れたイメージを眺めれば、それは ” 理想が予想の奇矯 ” が誇大妄想を膨らました結果なのか、或いは普遍的なものが重く伸し掛かる固い呪縛を振り切ろうとする行為なのか、何れにせよ理想が予想の奇矯なものか、普遍的なものの突然変異のように見えるかもしれない。

” 考える肉体の目 ” で俯瞰すれば来るべき新しい時代へと表面的であっても変化が起きており、” 考える精神の眼 ” で捉えれば水面下では普遍的なものとそれに付随した理想が予想の奇矯な ” 新しさ ” という「 新しい可能性 」を組み立てていく精神の振る舞いに対し衝撃の《 刺激 》を加えていく挑戦的姿勢は進行しており、もはや現実は過去の様式の単なる形見分けでしかないとさえいえ、「 潜在力 」というのそのものは ” 過去のその様式が消えゆく断末魔の叫び ” としてさえ解釈できるのである。

だがしかし、逆に来たるべき新しい時代の視点に立ち、過去を通過して来た効き目をそこにもてば、来るべき新しい時代の様式というものが見通せる『 潜在力 』の効き目としてのその ” 力能 ” は、より革新的な発想と創造として人の力の創意の過程にあるということになり、肉体的な眼と精神的な眼による『 潜在力 』のアイポイントによって ” 新しさ ” という「 新しい可能性 」を組み立てていくことができるというわけだ。

そこで問いを煮詰めるならば、逞しさはその意識の対象についてもつ観念( 又は印象 )からは掛け離れたものとして感じ、むしろ知謀や術策に優れている恐ろしいものであるのだが、しかし安全なとことから見ている限り感じるその恐怖は、むしろ逞しさに対して抵抗心を起こしたり精神を高揚させたりするものであり、より力が満ち溢れた圧倒的な勢いのものやその力に対する精神の抵抗が ” 逞しさ ” には必要である。

精神にとって ” 逞しさ ” が抵抗しているのは感覚的興味に対してのみであり、逞しさの多様性を限定していく精神の振る舞いに対し衝撃の《 刺激 》を加えていく挑戦的姿勢( =「 精神力 」)の内に一様に同じ度合いを保つ斉一性か、一様に揃っていて個性や特徴のない画一性か、よくあるありふれた ” 一様の逞しさ ” を見るのである。

それと同時に、挑戦的姿勢にあるその《 刺激 》は傾向性( 又は能力 )の《 刺激 》ともなり、切っ掛け又は原因( 必要条件又は因果 )として《 刺激 》と結果としての発現による『 潜在力 』にある逞しさに対して対峙することになるのだが 、、、、、。

・・・・・ 『 目的に知的欲求の新しい可能性への関心や探究心( 又は探究心 )でもっていたかのようみえても、あながちそういうわけではなく、余裕もあれば気随気儘な( 思いのままに振る舞う )方法を手中におさめ執っていればこそ、切っ掛け又は原因( 必要条件又は因果 )による目的に知的欲求の新しい可能性への関心の強さや探究心( 又は探究心 )に伴う可能性に近い結果としての潜在力ではなく、” 条件を超えて働く力の「 精神力 」” によって必然性にもっとも近い結果として『 潜在力 』は発現する。』

『 潜在力 』のそれを正しく考察された認識にあるものは可能性にあるのみではないのであり、知的欲望という可能性欲の核に惹きつけられることなく、可能態として可能的から現実的へと発展する目的なしに、限りのある活動から区別される完全な実現活動(現実態)と可能的存在に対応する実体として「潜在力」のみが見せることができる強固な完成度の有能性を備えており、力の精神は自ら動き他を動かす働きの力強さが全てを圧倒するという感覚と「潜在力」が確かな存在であるという感覚、最も卓越した力の価値や力量などを計る試金石( Gold of Rock:ゴールド オブ ロック )であり、喚起的で根源的な創造活動がそうであるように確実に『 潜在力 』において見つかるものだ。・・・・・

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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KANKE 塾 《 自己プロモート 》 目覚まし力  01 :「 決断力 」

 

 

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KANKE 塾:” 自己プロモート ” 開催中

   Self-development

 

” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

未来を信じる力と持続可能性を生み出す力の出発点

  - feasibility of self strengthening –

 

自分の実情に合った取り組みと自分に自信をつける
先進的自己アドバンス( advanced self-intoro )
” 自分を生きる ” 活線上に ” 自分を活かす ” ため
自己潜在力の可能性に向け最初の第一歩を踏み出す
自己プロモート( Self-development )
” 自分への配慮 ” という大切な活動によって自己の
発意と創造の志向性とその可能性に勇往邁進しよう

 

 

カテゴリー

織り成す力
深刻の力作
覚悟の力性
掛合せ用力
本音の筋力
目覚まし力
我がもの力
束ねる力感
八百万の力
思巡の活力
誰もが地力
日々の力行

 

 

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 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》

 

 

” 目覚まし力 ”【 01 】

努力の余力 ” 力のいろいろ ”
~ ” 新しい可能性 ” の組み立て「 決断力 」~

見込んだ想定外の「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」
努力の余力 = 努力の内にある ” 余( ほか )” の力
努力することによって産み出される ” 複利の活力 ”
努力行為の本来目指す当面の成果とは異なる価値
努力過程の副産物である ” 潜在的 ” な「 可能力性 」

 

 

努力とは何か? 、、、、、
努力とは、何ものでもない正しくそれ” 努力する力の行為 ” のそのものであり、取り立てていうほどのもの、何ものでもない、まさしくその事自体、それ自体、特に強調するような点はないが強いて言うならば ー『 力の掛合せ ” 用力 ” 』ー として、” 作用 ” する力、” 役に立つこと・はたらき・ききめ ” の功用、” 強い力 ” の威力、敢えて挙げるとすれば ” 成し遂げる力 ” 、” 効果を及ぼすことのできる効力 ” 。

苦労は当たり前の努力、とりわけ努力が得意であるわけでもなく、殊に努力が優れているとするわけでもなく、日々これといって特に取り立てて努力に目を向けることもない.

” 新しさ ” の変わり(代わり)映えしない日常的な行動の日々に、常に絶えず努力とこの努力の力の働くその作用があっても、日々繰り返えされる当たり前の日常性に塗れ( まみ・れ )、とりわけ「 努力は特に意識しない 」だろう

努力に関心を向けず注意を払わない努力の力の働きとその作用が意識に上らないその力の「 間( あわい )」に、素晴らしくて目も覚めほど評価すべき状態が際立ちに驚く「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますこともあれば、心外で目も覚める思いがする思わぬ不本意に驚く「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますこともある

努力の力の内には( 努力する行為の過程には )、目が覚めるほど驚き素晴らしい「 目覚ましい 」という力もあれば、目も覚めるほど驚き呆れた「 目覚ましい 」という力もあり、力の「 間( あわい )」に ” 目覚ましか、目潰しか ” 納得すれば全ては始まり、納得していなければ何も始まってはいない。

様子や状態が前と変わっても( 変化しても )、「 新しさの ” 変わり映え ” 」はしないか 、、、、、。

何か変えても目立って良くなった部分が乏しくてあまり変化がなく前のものと変わらず、「 新しさの ” 代わり映え ” 」はしないか 、、、、、。

余りにも長い間迷った末の「 迷いの後( After far too long wavering. )」とは、厳然たる納得の揺るぎなさに「 首肯 」することである。

” 新しさ ” という「 新しい可能性 」の組み立ては、” 気づきの意識に現前 ” する努力の ” 束ねる力感の意識 ” に「 首肯 」することにより、「 努力の尻尾( しっぽ )を掴む 」しかないだろう。

人は何かと取り違える不覚に陥ってしまいがちであるが、その自らの失敗を悔やんだりしたり反省したりする心を持合わせてはいるものの不覚にも失敗したのは偶然だとして、失敗するはずのない自らこそが本当の自らだと考えてしまうのである。

大きな決断を迫られたとき覚悟は出来るか出て来ないか錯覚や勘違いなどに深く関わる不覚ではあるが、危ない過信の自信に自信する自らの誤りとして覚悟の行方ではなく、そのように『 決断 』しようとした自らを見据えさせる智恵がいる。

物事の進行や達成( 成立 )などを妨げる障礙が全くないといことなどはありえず、自らが思い描く対象を自らで見ているにすぎない見方は過信でああって、自らが獲得する自信が本当に自らを開放してくれるものなのか、或いは逆に自らの執着をも助長する閉鎖的なものなのか、常にその質を問い続けてゆくことが必要となる。

自らしてみれば事実間違いのない認識判断であるかのように思えるのだとしても、『 決断 』しようとする前に、その事実の捉え方や考え方に間違いがないのだろうか、他の捉え方や考え方があるのではなかろうか、として自らを見据えることだ。

見分と相分は認識判断が自らの心を色濃く反映しているものとしてそれに無自覚なのであり、自らの認識判断の間違いや誤りは自らなかなか気づき難い。

自らの料簡が有する独断性や問題性はその気づきにしかなく、自覚を促すのは自らであり、” 目覚ましか、目潰しか ” の「 目覚( め-ざまし・い 」に目を覚ますことは、厳然たる納得の揺るぎなさに「 首肯 」することになる。

変形・変換、変化・変質、変容・変態、転換・移行などによって、すっかり変わってしまう程に大きく様変わりする ” 新しさの変わり( 代わり )映え ” という「 トランスフォーム( trans-form )」。

既に “ 組み立てられたもの ” を新しくして生まれ変わるのではありえず、端から端まで横切って隅々まで完全にすっかり渡り切った( trans- = across ) ” 先駆的な決断力 ” によって「 新しい可能性 」を組み立てていくことを意味する。

・・・・・ 取り巻く環境の変化に伴う今日的な環境圧力の困難の多い荊棘 ( けいきょく )を切り開き、持続性のある ー 自己律動 ー を起こすために大きな問題として多様な ” 課題実現 ” そのものが、主体的自己自らの「 自己精神 」とその「 自己表現 」となって、周囲の多くの人々や広く対人関係( 人間関係 )と共通の目的や興味を持つ人々が集まる広く多様なコミュニティに進入している。

一つの課題の内容の質と量は時々刻々と増加・変化するのみならず課題は更なる課題を孕む新局面を迎えるであろうと先を読む主体的自己自らの行動指針( Action guideline : アクション ガイドライン)は更に総仕上げという ” 新実力 ” として置き換えられることにより、近い将来創造や自己創出の想定に一段と想像を巡らさせ続けることになる。

主体的自己自らの ” 自己強化 ” や ” 自己拡張 ” の持続的な活動の活発と活性の活力に伴う「 目覚ましい力 」によってだけでは、ー 自己律動 ー を起こして新しく生まれ変わろうにも生まれ変われないということが、自己自ら” 気づきの意識に現前する ” のであろうか、気づきができるスキル( 気づき力 )によって納得し首肯するのであろうか 、、、、、

今までの努力の力の内( 努力する行為の過程 )にある「 目覚ましの力 」によって主体的自己自らが ” 目覚める ” ことができ得るかどうか 、、、、、

手掛かりのないまま暗中模索の中で手探りをして彼や此れやとやってみて求め続けたにもかかわらず、迷いに迷った末のあまりに長い迷いの後に、気づきができるスキル( 気づき力 )によって、もっともらしく ” 新しさ ” という「 新しい可能性 」の組み立てを気づき考え実行するにしても、ー「 ” 可能性 ” は係って( 掛かって )『 潜在力 』の認識にある 」ー ということを自ら知り得ているのであろか 、、、、、

これまで気にも留めてはいなかったところに注意が向いて、自らや物事と事象などの存在や状態を知るといった自ら何かへの気づきとその気づきの数を増やすことは、状況や状態に変化を察知したり発想の幅を拡げたりするのみならず、傾向性( 又は能力 )の《 刺激 》から結果としての発現の『 潜在力 』の切っ掛けや原因( 必要条件または因果 )に繋がり、意識コントロールの有無に関わらず( 必然性に近いか / 可能性に近いか )その” 潜在性 ” は気づきの意識に現前する。・・・・・

「 潜在力 」とは、” 静態的 ” で固定した実体ではなく、常に ” 動態的 ” で変化し流動している過程にあるものとして捉えることにある。

いわゆる潜在的可能性( 機 : 仏語 ) は別物として、「 潜在力 」は可能力性によって顕在化する実現可能力性の力能( 潜在 = 力 )であることを、わけなく潜在的な力とだけで見て取り知って認めることはできず、「 潜在力 」は単純に内在しているのではなく、可能性というよりも必然性に近いものとして傾向性( 又は能力 )の《 刺激 》から発現するといった切っ掛け又は原因( 必要条件又は因果 )をもち、” 新しい可能性 ” の組み立て目的・目標の ” 実践 ” において ー『 ” 実質的な外的要素との関係( 傾向性 / 原因・必要条件又は因果としての《 刺激 》と結果としての発現 )” によって初めて「 実現可能性力の潜在力として発現する力能( power )」の円環的な働きとその作用をもって作動している 』ー として認識することであり、共同的や外在的と反復的などの潜在力がある中で、” 傾向性 = 潜在力 ” として潜在性と活動性の対比で捉えるならば必然性ではなく可能性に近いものともなる。

「 潜在力 」の切っ掛け又は原因( 必要条件又は因果 )とその《 刺激 》によって結果的に発現する必然性に近いもの又は可能性に近いものとしての「 潜在力 = 力能( power )」のそのものは、人・物事・事物・事象の諸々にあり、自己自身としてのその内なる精神や心と能力にあるのみならず、” 地域的広がりに共通してみられる生活様式( way of life )” に集約される自らの実情や現状況と活動内容をはじめとした現実自己と理想自己とのギャップ等の内なるものにもあれば、現状経済・社会システム等と文化・教育体系等に自ら関わるものにもあって、ひいては仕事を含めたライフ ワークの現状機能面にまで関わり、” 自分を生きる地域を活かす ” と ” 地域を生きる自分を活かす ” ことにおいて地域のあらゆる物事・事物・事象の諸々に自らが関わるもの全てに及び、自己の知識やスキルとツールや経験とネットワークなど自己自らがもっているあらゆる人や物事と事物や事象など含む自己のリソース( 自己資源 )に潜在し、人や知識と技術や生産物(特産品・名産品等)と自然や気候と風土や歴史と伝統や文化など地域自らがもっているあらゆる人や物事と事物や事象など含む地域のリソース( 地域資源 )に潜在する。

その全ては「潜在力」の結果的発現の切っ掛けっ掛けまたは原因( 必要条件又は因果 )による ” 目的に知的欲求の新しい可能性 ” への関心の強さや探究心( 又は探究心 )に富むものとして現実評価認識とともに理想評価認識を高め、この様な人・物事・事物・事象の諸々の客観的な事実から合理的に「 潜在力 」を解釈するためにこの全ての核にある特性とともに傾向性をよく認識して理解し、” 静態的 ” で固定した実体ではなく常に ” 動態的 ” で変化し流動している過程にあるものとして捉えてその全てを客観的な事実から合理的に解釈すべきである。

実際に事に重点が置かれた様々な事柄や目的の物事と人などに関わって、その活動することによって初めて事柄や物事と人などにある「潜在力」は発現するのであり、 ” 新しさ ” という「 新しい可能性 」の組み立てなど目的のある内容に実質的に関わって、その原因の刺激と結果としての発現に見込まれる「潜在力」が初めて認識し得ることになる

「 潜在力 」が種々の要素の連環性に入り混じる交差( 混淆性 )の中にあることを認識しつつも不完全であることをも認識し、その潜在性を発現することによって従来とは異なる思考や価値に対し寛容で開放的な態度をとるということが「 潜在力 」本来の意味を成すのである。

多方面に強化や拡張でき得る力として有効性や優位性のある「 潜在力 」を検討して探り引き出し試みるその成果は、” 自分を活かす「 発創 」” による知的な実現可能性や自己創出のための継続可能なライフスタイルの構築をはじめ、地域的広がりに共通してみられる多様な生活様式( way of life )をもつ自らの未来を信じて展望し切り開く自己創出の持続可能性を生み出す力の出発点でもある。

認識力や思考力と想像力や計画力などによる柔軟性・適応力のあるダイナミックな対処能力と変容・変革能力を「 潜在力 」として抽出・概念化し活用することで、多くの問題実現やあらゆる課題対応を展望するといった意義を持つことになる。

それは、自己自らの「 潜在力 」を活用することで問題実現や課題実現を展望し、時代の変遷に伴う状況や情勢に沿った生活様式全般に応えるために自己自身の基盤や特性と作用や効果と限界などを問題や課題ごとに検証し、その効果や有効性を明確に提示していくことにある。

自己自身の問題実現や課題実現の実践的スキルとして「 潜在力 」を捉えるのではなく、この実践そのものを支える思考や価値観と知的様式が従来型( = 普遍的 )モデルとは異なる視点や生成される思考をつくり出す ” 発創 ” を生み出すものとして捉えるべきである。

一時的ともいえる可変的な価値を単に探り求めることなく、普遍性( = 従来型 )を包み込む別の認識をはじめ普遍性に包摂されない視点や思考と価値とともに、この普遍性を包み込む別の認識と普遍性を変容しつつ運用する実践とそれを支える知が必要となる。

そのためには、これらを調整力や回復力を伴う自己自身の「 潜在力 」として着実に変わることなく定常に保たれるようにするとともに、従来の自己創出の知的な様式とは別の見方や在り方を自己自身の未来への知的資産として展望したその効果を創出するための源泉となる ” 目的及び指標となる目標 ” をより明確にした上でこれを目指す意図した実践と実践力が重要になってくる。

・・・・・ 到達不可能な理想を支えに考え得る最も完全な状態にある実現可能の相対的な理想の想定に想像を巡らす方法の模索でもあった理想の予想の奇矯であるのに比して、従来のこの像を刷新する形容としての ” 潜在性 ” という幻視なものに効き目をもち、人間の力の創意の起源としてのその特異性の本質を明らかにすることであり、時代という力の性格にある知と認識の精神の在り方を炙り出すのである。

むしろ想像界の感覚的興味や関心に対しての抵抗心を起こさせたり精神を高揚させたり、来るべき新しい時代のための創造様式として、現実から一歩進んだところに位置した” 潜在性 ” という幻視なものにある「潜在力」。

大きくいえば、現実の創造のための意識という命題に精神はどのように対峙し、現実を超えたこの仮想の創造様式に表現はどのように可能なのか、穏当の見解として揚げにくかった完成されたかに見せるビジョンをこの様式によって完全に刷新できるのか 、、、、、

このような 過去の視点に立って普遍的なものを肯定する目線でその所望ビジョンのビュー生成に表れたイメージを眺めれば、それは理想が予想の奇矯が誇大妄想を膨らました結果なのか、或いは普遍的なものが重く伸し掛かる固い呪縛を振り切ろうとする行為なのか、何れにせよ理想が予想の奇矯なものか、普遍的なものの突然変異のように見えるかもしれない。

” 考える肉体の眼 ” で俯瞰すれば来るべき新しい時代へと表面的であっても変化が起きており、” 考える精神の眼 ” で捉えれば水面下では普遍的なものとそれに付随した理想が予想の奇矯な ” 新しさ ” という「 新しい可能性 」を組み立てていく精神の振る舞いに対し衝撃の《 刺激 》を加えていく挑戦的姿勢は進行しており、もはや現実は過去の様式の単なる形見分けでしかないとさえいえ、「 潜在力 」というのそのものは過去のその様式が消えゆく断末魔の叫びとしてさえ解釈できるのである。

だがしかし、逆に来たるべき新しい時代の視点に立ち、過去を通過して来た効き目をそこにもてば、来るべき新しい時代の様式というものが見通せる「 潜在力 」の効き目としてのその  ” 力能 ” は、より革新的な発想と創造として人の力の創意の過程にあるということになり、” 考える肉体の眼 ” で俯瞰し ” 考える精神の眼 ” で捉えた「 潜在力 」のアイポイントによって ー 自己律動 ー の  ” 新しさ ” という「 新しい可能性 」を組み立てていくことができるというわけだ。・・・・・

→ 努力の余力 ” 力のいろいろ ”
誰もが地力【 Vol.02 】 潜在力をさぐる「 自己潜在力 」

「 学びを解し( ほぐし )」とその「 修正 」を含み置き、現前する気づき意識の明晰性に自己の真正を見出すセルフ・トランスメーションによる ” 産出的創造と成果的創出 ” 基幹自己力としての「 活動実践アクティビティ 」によって自己潜在力を知り得ることができるのならば 、、、、、

更に ” 活動変化力 ” は自己自らの変化( 成長・向上 )のみならず主体的自己としての持続的な進化・発展への「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ )」をもたらすことができ、自己自身の最高基盤である ” 産出的創造と成果的創出 ” は、問題実現や課題実現への展望と活路を開く自分事の帰趨を決する局面の切り札となり、自分に関する活動変化の意識・意義・側面として強固な完成度の有能性を備えた主体的自己自らの最も卓越した優位性の高い試金石でもあるのだが 、、、、、

→ 努力の余力 ” 力のいろいろ ”
思巡の活力【 Ⅳ 】 構成力「 生成着想 」

 

「 先駆的な決断力 ( 決意の努力 )」とは、組み立てて辿り着き或るものの処へ対い( むかい )近づいてゆくことであり、先々へ通じ時間性を見極めるために組み立てられた揺らぐことのない現にあるものを明確にさせた自己の在り方によって明らかになる時間的な在り方でもある。

先駆的な決意とその決意の努力に ” 目覚める ” のならば、そもそも論理や一定の共通目標は溜まらないはずだ。

新しく生まれ変わるのではなく、新しい可能性が生まれるとした先駆的な決断力によって到来の近い将来という時間的な在り方が決まり、先立つ既在的来歴の近い過去という時間的な在り方が明らかになる。

” 状況への「 決断 」” という在り方により、現在という時間的な在り方が明らかとなる「 時間 」というものが、自己自らの在り方に則し捉えられる。

今と今の論理や共通目標に関係ない未だ来ない先のことである近い将来と、未だ無いものでありながら現在と関係づけられている近い将来と、その二つの時間的な在り方が現在の在り方に影響を与えており、自己自らが状況への決意をすることによって、状況が人事( ひとごと / 他人事 )ではなく自分事( 地域事 )として自己自らの現実となり、自己自らにとって現にそこにあるものになる。

一定の共通目標だけの承継や地域外部の力に委ねるなどすれば人事( ひとごと / 他人事 )となって軸足を失い人手(ひとで)に没落しうるのであり、実に活力の最も「 目覚ましい力 」に正解な主体的行動・能力の切り口( 観点 )となる ” 自分事 = 地域事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる自己潜在力と地域潜在力とを引き出し持続的な ” 新しい可能性 ” を組み立てていく最もよいやり方を探す力法 は、実に ” 自己力 ” と ” 地域力 ” とに同じようなことがいえる。

組み立てられたものを新しくして生まれ変わるのではありえず、「 新しさの変わり( 代わり )映え 」という ” トランスフォーム( transform )” は「 先駆的な決意 ( 決意の努力 )」により ” 新しい可能性 ” を組み立ててゆくべきだろう。

” 気づきの意識に現前 ” する努力の ” 束ねる力感の意識 ” に「 首肯 」することにより、端から端まで横切って隅々まで完全にすっかり渡り切って「 努力の尻尾( しっぽ )」をしっかりと掴んだ ” 先駆的な決断力 ” を忘れずに 、、、、、

今日的な環境圧力ともいえるような変化に伴う困難の多い荊棘 ( けいきょく )を切り開くために、想像を巡らす ” 自己創出の想定 ” の行動において自己自らの変化( 成長・向上 )を構えるのみならず、自己自らの実質的な「 自己潜在力 」の認識をはじめ潜在的な資産( 資源 )による多様性ある現実的な「 活動実践アクティビティ 」の持続的な活動の活発と自己強化・拡張的な活性や活力なくして、 ” 思い込み ” にすぎない努力の「 目覚ましい力 」によって新しく生まれ変わろうにも生まれ変われないということに自己自らが ” 気づき ” を得ることであり、今までの努力の力の内( 努力する行為の過程 )にある「 目覚ましの力 」によって主体的自己自らが目覚めることだ。

 

 

 

 

 KANKE 塾 : 自己プロモート

  ➡︎  基調となる目的の考え :《 概説 》
 

 

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prologue

 

非常に限りなく多い大雑把な無数の力がある内のその僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいるその中で「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてゆくのだが 、、、、、


結び付き移りゆく時代の繋がりというものを欺くことなく、全ては時代の間( あわい )という現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた変化の流れの内に、新機軸打ち出しに複数の問題や課題が難題として混ざり合い移行転機として交流するところの変化が「 思考の過程 」を単に複雑にしているのではなく、「 記憶された能力 」といった様々な問題が、只々解決または改善の想定について想像を巡らせることになり、「 時代や環境の変化よりも ” 思考センス ” の方が先んじて変化し進んでいる 」ことも知らず、” 思考能力の記憶 ” と ” 努力 ” だけが甘んじて時代や環境の変化を不本意ながら仕方なく不十分であるが受け入れ、不十分であるが仕方なく積み上げた記憶の能力と努力を認め、時代や環境の変化に漂っているということなども到底知らないまま、そうして常に絶えず問題や課題の解決または改善の想定というものは、経験・知識をもとに考える ” 記憶された思考力による思考の過程 ” で作る分析・統一した概念と判断などに因り成り行くのである。

・・・・・ 基礎力それぞれの ” 力 ” に内属する普遍の『 力性質 』そのものの何であるか、” 力 ” 各々の基底にある本性を成すものの構成要素を見極め、一つ一つの ” 力 ” そのものが持っている「 潜在力性 」を見出し出力することと、一方では ” 力 ” それぞれの標準用法マスタの基礎要素である内容や性質などの本質的なもの( 本質的属性 )ではなく、” 現実化した実行力において偶有的に備わっているとみられる力の性質( 偶有的属性 )” を新たな力の特質・傾向として加味( 付加 )させる ー《 力の用法 ( 力の働きとその作用 )の ” 変改 ” 》ー を行い拡張する新しい「 可能力性 」の属性を定義し入力することで、変化を伴う新しい時代や環境の条件や事情( 問題・課題 )に ” 適合 ” する《 新・実力 》の要素を一つの纏まりのあるものに組み立てられ、新構成された ” 力 ” それぞれの「 潜在力と可能力 」による発展的なポテンシャル( Potential )の適応性( 能力 )を高めて発揮し、変化を伴う新しい時代や環境に適するように行動や意識を変えていく。・・・・・

・・・・・『 環境 ( Environment : エンバイロメント )』とは、主体を取り巻く周囲の状況・事物や事柄・事状と現象など全てをその主体に対するエンバイロメント( 環境 )され、ー「 ”人間が主体 ” である場合は《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」ー として主体である人間を成立させている要素や要因の総体として把握するものであり、生物であれ人間であれその主体そのものが環境に影響を与えるとともに環境に与える影響に適応する能力も備わり、問題となるのは主体の適応能力を破壊するほど環境の変化や変質や環境そのものが破壊されるならば環境問題が発生し、特に環境問題が社会問題に転化する事態が頻繁化している。

我々人間が主体の『 環境 』に対し我々人間自らによって今強調されし” 取り巻く ” 環境の変化とされているものは、” 時代の間( あわい ) にある紛らわしい空騒ぎ ” に埋もれて人間主体自らが人間に ” 巻き込まれる ” 結果が出ない実りのなき有り様( 事状や現象 )となってもいるが、人間は ” 環境によって形づくられているわけではなく ”、ー『 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 』ー として、環境変化であろうがなかろうが如何なる場合でも、 ”人間は環境の影響に対して態度を決める運命的な自由と『 可能性 』を保持 ” しており、「 追い込まれた時代 」において ” 人間が主体である『 環境 』” に対し「 ” 可能性 ” を持つ我々人間が主体として自ら何を展開するのか 」である。

人間が主体である場合の「 環境《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」には人間の意のままにならず人間の前に立ちはだかる自然的・社会的制約などが多く、 ー『 人間が主体である場合の環境の側には ” 独自法則性・自然的必然性 ” 』ー があって ” 可能性 ” があるわけではなく、ー 『 ” 可能性 “ は主体の人間の側 』ー にあり、「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、 特定の結果が得られる可能な状態( 結果が確定していない又は複数の結果が考えられる状況 )に立つ人間主体側の可能性の出方次第で見込まれるか得られるか ” 可能性の特定の結果( 又は複数の結果 ) ” が決まる。

「 人間は ” 環境 ” からつくるところの者 」として、人間が主体である環境の側にある ” 独自法則性・自然的必然性 ” に対する主体の人間の側にある” 可能性 “ というものは、物事に対する見方や捉え方と考え方や処理の仕方( 取り組み方 )と態度などの出方( 特定の目的のための問題解決と課題実現などに出る方法 )によって、人間が主体である環境から創造するにしても破壊するにしても人間の「 運命的な自由の可能性 」の結果を常に絶えず求め続けることになる。

人間の ” 運命的な自由の可能性 ” とは、人間が主体である環境がもつ独自法則・必然性から独立する点にあるのではなく、これらの独自法則・自然的必然性を洞察し認識することであり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることにある。・・・・・

 

 

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” 実現可能力性 ” への「 潜在力 」のすすめ

 

・・・・・『 潜在力 』とは、” 人間自身 ” とその人間が主体である ” 環境自体 ”《 自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》とにおける多くは有限で不足すれば深刻な「 多様なリソース《 人的資源・経済資源・社会資源・自然資源 》の相関性 」として互いに影響を及ぼし合っている相互関係・相互作用に潜在するのであり、『 潜在力 』の目に見えづらい気づきにくいものへの ” 洞察と認識 ” は、取りも直さず “ 潜在性の独自的法則と自然的必然性 ” そのものになり、そしてこれによってこれらの独自法則・自然的必然性を特定の目的のために計画的に作用させる「 可能性のある能力 = ” 力能 ”( potential ability )」を得ることにある。

『 実利潜在力( 潜在的実利要素 ) 』とは、効用( 使い道・効き目・効能 )となったり実際の利益となったり、力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果の潜在的要素として、他なる互いの物事への複数の外在的な関係の布置それ自体の関係束に互いが新たに組み変わることで引き連れ合う ” 使用と実益を伴う用益力 ” における生成変化とその過程・経路にある形成の創作に付随して別の物事が新たに生じ起こったり物事が同時に別の物事を伴せもつ「 転化 」に潜在する ” 生産的力性( 生成潜在力 / 生成的生産要素 )” である。

目的の成立とそれに付随する問題の解決と課題の実現にあたっての、それまでなかったものと新たに考え出し初めて作り出すという「 発意と創造 」の実質の伴わない題目は、” 実利潜在力 ” とそれに伴う ” 生産的潜在力 ” による『 発現と生産 』として置き換えることができる。

深く思い煩う深刻はリソースの不足という容易ならない事態と受けとめてのことではなく、リソースの多様性にある力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 力を稼ぐ )実益効果をもたらす ”実利的潜在力 ” と、人間自らの格率に従って新しい物事を生み出したり発展をもたらす ” 生産的潜在力 ” とが、人間自身と人間が主体である環境自体を人間自らの肉体の眼と精神の眼で感じ取ることができない( 目に入らない 気がつかない )ということからして潜在的に払底または欠落した不測の事態の容易ならないところまできている深刻なのである。

『 地域ポテンシャル( Potential )』とは、未だ表に出てきていないが将来的には発揮されるであろうとする「 地域力 」として蓄えられる持続的な地域律動の核である「 環境エネルギー《 人間が主体である自然的・物理的環境と社会的・文化的環境 》」の ” 潜在性 ” にあり、実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) の力性としての ” 確かさ ” を確保するのとともに、それ以外に問題を引き起こす( 又は現に課題となっている )潜在的変化のファクターとしての ” 曖昧さ ” もある中で、目的を達成するためにどうしたらよいのか考察でき得る問題点と達成するために障害とななり得る課題点という両立の容易ではない二つの力点を兼ね備えもつ力能の可能性という独自的法則・自然的必然性の射程に目的の完全なる統一を拒むこれらの潜在的な影響力はいくら認識・評価してもしすぎることはない。

『 地域潜在力 」とは、” 地域主体自らならできる ” といったことに動機づけられた可能力性により顕在化する可能性としての力能であり、意のままに動かせる主体の支配力に影響を及ぼすものとして、地域が主体である自らに課し自らを守る原理の格率に従って真剣に取り扱うべきものである。

『 潜在力 』の ” 発現 ” へと向かった可能性としての潜在的な力能は独自的法則と自然的必然性をもつ中で、潜在性に対してもつ考えが置かれた自らに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” の対象とされるが、目に見えづらく気づきにくいというような決して沈黙し無力な存在にあらず力能という雄弁な性質を具しており、意識を切り離されたならば ” 潜在性に対してもつ考え ” のそれを顧みられることのない影の如く、ときどき意識の現前しつつままに任せれば自ずと ” 潜在的な影響力 ”のこれに注意はしない。

自らのうちに目的統一の容易ならぬ ” 状況を受け入れる覚悟 ” を生み出し、そして力を獲得するに到る始動的存在として潜在的な力能の『 潜在力』を発現を可能にさせる感覚認識は可感的であり、可能的知性がそれに従って認識するところのものとして可知的である。

多くの困難や問題に直面して今、問題解決や課題実現の思考や取り組み方は標準化しつつも異なる立場や見方と触れ合ったり軋轢を生じさせたりしながら融合・接合して日々再創造されている中で、『 地域潜在力 』というものは取り分け問題解決と課題実現のための視角であり、実践的な打開策に繋がるものとして力点を置くことである。

『 地域潜在力 』とは、地域社会がこれまで創造・実践・運用・生成してきた動態的で流動している過程に潜在し、地方の地域社会が直面している種々の困難を乗り越え状況を変革するための有効で実践的な方策として、潜在力は単一的なものではなく入り混じった混淆性の力として様々な要素が存在する力の多元性にあり、不完全であることを認識した上で広く汎用性を吟味性と収拾によって取捨選択し、何処まで拡張できるのかその有効性と限界の考求を試みることだ。

独創的な意義をもつ地域潜在力という新たな視点で地域の困難・問題を実践的に解決・改善していく可能性を具体的な問題と課題の中から明らかにするダイナミックな対処能力として、地域潜在力を抽出・概念化した地域潜在力としての知の様式のそれを活用することで、問題解決と課題実現を展望する試みを通して主体的地域発の新たな地域精神とその地域表示は周囲の多くの人々と広く社会に進入することになる。

『 地域潜在力 』として定式化することによって、これまでの知の様式とは別の地域律動の在り方や見方の可能性を、地域未来の持続的な知的資産として展望することであり、地域の潜在力を活用することで ー「 ” 実益 ” と ” 地域のニーズ ” に応えようとするもの 」ー として、主体的地域の潜在力の基盤や特性とその作用や効果と限界まで、問題や課題ごとに検証し、その効用と有効性を探り求めていくことになる。

地方地域の「 潜在力 」というものは、問題解決や課題実現への間接的な実践スキルに値するものではなく、直接的に実際の利益となる効用( 使い道・効き目・効能 )をもつ ー「 実利効果の実質的な ” 潜在的実利要素 ” 」ー として、直接的に実際の力を増加させる働きとその作用によって実際に役立つ( = 稼ぐ )ー「 実益効果の実質的な ” 潜在的生成要素 ” 」ー として 、” 使用と実益を伴う用益力 ” による実質的な実利性と生産性を図ることにあり、「 地域リソースの用益と生成変化に伴う転化に潜在する 」実質的な生産とその生産力の強化・拡張を推進することにある。

これらを支える知の思考・様式が、これまでの知の様式とは異なる視点と思考をつくりだしている点に注目し、” 潜在的実利要素と潜在的生成要素 ” の持続性と将来性を抽出する点にあり、地方における新たな地域認識を可能にする ” 主体的地域発の新たな知の地域思考と地域様式 ” をもつ『 地域ポテンシャル( Potential )』として周囲の多くの人々と広く社会に提示することを目指す。・・・・・

 

 

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後記

 

人は地域を創り動かし、地域は人を創り動かす。

個の集団である地域は、幾多もの人間( 要素・成分的 )及びその量の割合による ” 組成 ” 構造によって一つの地域として組み立てられており、それぞれ地域としての経済・社会と文化がある。
取り巻く環境の変化とされているものに伴う ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題は、人間と地域の疲弊と大きな課題を招いている。

実に ” 地域事 = 自分事 ” として感じ、考え、動き、状態をよりよくする為に努めて力を尽くすにあたり、問題実現や課題実現の糸口として考えられる潜在力を引き出し持続的可能性を ” 生成 ” していく最もよいやり方を探す「 力法 」は、実に ” 地域力 ” と ” 自己力 ” とに同じようなことがいえる。

一切のあらゆる時と物事と人間に力が宿る ー『 八百万力( やおよろずのちから )』ー は、非常に限りなく多い大雑把な無数の力であり、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備える。

その僅か一力の数の裏に、僅かその力相応の結果の背景に殆ど ” 努力の報い ” ありのままには繰返しがたき多くの時と物事と人間と、努力と悲喜と成敗とが潜んでいる。

「 努力する行為 」は、悲観の中に生まれ、懐疑の中に育ち、楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていくか、報われることのなかった数奇な中で消えてく。

” 努力 ” とは、種々の動機の中から選択した目的・目標に積極的に働く任意と気随の主観的な意志活動を積極的に進んでしようとする思いとその心の働きである「 意欲 」の術( わざ )として状況や事態に対処できる能動的な力であり、物事を成し遂げることのできる「 努力 = 技能力 」の ” つかい方 ” にあり、『 努力技術 ( techno:テクノ )』である。

” 自律性 ” を発揮する原動力となる ” 主体性 ” としての主体力と自律力を具え保つ主体自らの意識( = 欲望 )は、主体自らの ” 確らしさ ” によって動機づけられた実践的な可能性( 確実性・実現性 )を自らが確信( = 努力 )して実現する力強い ” 力動 ” である「 可能力性 」という『 地域強化( 地域拡張 )』に向けた「 実現可能性( feasibility : フィジビリティ ) 」の ” 力性 ” をもっている。

自らの状況や事態に対処できる能動的な力によって自ら目的を成し遂げるための必要な行動を上手く遂行するために、自らの ” 確らしさ ” によって自らの可能性を自ら確信し自ら実現する「 実現可能力性( feasibility )」の ” 力力し( ちからぢから・し )” 『 努力の ”力感 ” に束ねる意識 』という大事なコントロールこそ、” 努努( ゆめゆめ )” 忘れるべからず。

人は、人間をして人間たらしめている独特の多くの力である  ー  いきいきとした気力と活気( 生気 )ー  の活力に生み出す「 ” 平々凡々 ” な努力 」の天を仰ぐ見え心地に疲れる。
そして人は、力量を目覚ましに意気込み奮い立ち  ー  意地張る骨張で骨頂走る烈々とした気魄と気負い( 手並 ) ー  の得手勝手に振る舞う「 ” 奇想天外 ” な骨力 」の天にも昇る心地に憑かれる。

遂にこの日が来てしまった! 「 更なる追い討ちに駆け引きのピンチ、貴ぶ日々に戦いづく目を開くピンチ 」、まさに今ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自らが変化するのみならず、進化・発展への地域強化と地域拡張に向けて前進・進出するための「 機転を効かせる手腕の見せ所、気づきによって変化してゆくべき契機 」だろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域の発意と創造の価値実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程に彼是と想像を巡らさせ、放逸か不放逸か扨又は周章狼狽としてか泰然自若としてか「 十八番か隠し芸か、動くか動かざるか、外向性か内向性か、肯定か否定か 」気のせいでそう思われるほど心持ち先駆的な「 巧みな知恵の努力か、瞬間の努力か、順応( 回復 )の努力か、忍耐の努力か 」、それなら気が晴れ心ゆかし。

そうはいっても、救い難い窮境に陥り、思い巡らされる羽目になり、天地が開けず不分明な混沌を小難しく抱いて癇癪が起きそうになったら、これは現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に一人のピエロが道化を演じる喜劇の一場面だと思えばよい。

その効き目は折り紙付きかどうかわからないが、裏付けが欲しいなら ” 想像を巡らす ” 通りにやってみることだ。

これから ” 中核的な都市への社会資源の集約 ” が本格的に始まろうとしており、このような点を重視し、それをよく自覚し、認識しておく中で、先駆的な主体として持続可能な目的・目標の達成に向けた取り組みの進めていくにあたっての捉え方や考え方に通底するのは、主体自らに好循環を生み出そうとする包括的な視点から総合的に解決問題や実現課題を図ろうとする視点がある。

人間最大の失敗問題に直面して予測される近い将来に新局面を迎える問題実現や課題実現を今に控え、今日的な環境圧力ともされているような変化の中で、人と地域の疲弊と大きな課題を招いている ” 人口減少と地域経済縮少 ” などによる構造的な問題や課題において、人口減少や地域経済縮少の何が問題なのか、その様な現象や状況がどうして生じ起こるか、その問い掛ける中で、” 近い過去 ” の経験や知識と実績や現状と問題実現や課題実現として ” 近い将来 ” を捉え考えるのではなく、バックキャスティング( backcasting )思考によって在るべき姿( 在りたい姿 )から逆算して問い直し、問題実現や課題実現として今何をすべきかを考えることになる。

頼みとなる資源 / 財源 / 人材 / 物資など ” リソース( resource )” が不足している問題実現や課題実現のための機転( 手腕 )と、まさに今いざという時にある人の底力や資質とを兼ね備えたコミュニティをより最適化して前進・進出させる「 持続可能性( Sustainability : サステナビリティ )」の手立て、地域の実情に合った取り組みと地域に自信をつけるための ” 先進的地域アドバンス( advanced region-intoro )” の第一歩に向けた『 地域プロモート( Community-development )』。

ある限り力尽く( ちからず・く )で主体的地域自ら「 地域強化・地域拡張」するために機転を効かせる手腕の手立ては、創造力と可能力( ケイパビリティ : capability )として、地域自らの潜在性( 潜在力 / 潜在能力 )を出せる力のうちの主な力として中心となって力を発揮し、今ある状態から他の状態へ移っていく『 移行物語 』 の実質的中心として、” 転換 ” ではない自らの ” 生成変化 ” の事実を「 己が者 ( 主体自身 )」というその主体的地域自らの前進・進出のために主張して援用される ” 力性 ” 。

「 己 ( おの )が為( じ )為 ( し )」、己を知り得る者として己達せんと欲する者として自らをかけた慎みと潔さの妥協せぬ勇気を携え、人それぞれ ” 考え方と努力と能力 ” を掛け合わせもつ主体の「 己が者 」。

まさに今となっては、” 地域を生きる ” ことができないと想像を巡らさざるを得ない状況や事態に対処できる能動的な力によって物事を成し遂げるために、” 地域に生きる ” として導かれた地域疲弊の苦難の末、思い通りにならない失意のドン底で「 手弁当で主体自らのために力を尽くし外向性に興味や関心が向いて内部の課題に局外者を巻き込む我が物食うて主体の力持ち 」。

” ピンチ ” だからこそやるべき現代性の大きな枠組みをもリセットして指標するために狂った羅針盤の初期化を目指し、現代性といった固執し困惑する思索に瞑想している自らの内に雲り無き自らの目へ冷やかに物事を映し出して一息入れるや忽ち戦いを開始べきであるものの、皮肉にもこの今だからこそ逆に ” ピンチ ” を超越するための知恵に達すことなく、 ” 急いて( せ・いて )は努力を仕損じ逸するのだろう。

” 地域に生きる ” のではなく ” 地域を生きる ” 活線上に ” 地域を活かす ” 主体的地域としての発意と創造の実現を目指す地域それぞれの生き筋の道程というものは、性格を備えた地域自体の在り様でもある。

全ては地方地域の現実世界における偉大と苦悩との矛盾に満ちた流れの内に、” 地域への配慮 ” という大切な活動による地域の志向性とその可能性に向かう新機軸の打ち出しに複数の課題が難題として混ざり合い交流するところの変化が、” 自分を生きる地域を活かす ” ことを単に複雑にしているのではなく、直面する「 取り巻く環境の変化 」とされているその大きな課題といった様々な問題が、ただただ地域自体について「 想像を巡らさせる 」ことになる。

そうして常に絶えず ー 完全なる客観 ー は実際に全て不可能であるということなども到底知らないままに、” 地域潜在力 ” に伴う ” 地域力 ” をもって主体的な「 地域創生の ” 想定 ” 」というものは、地域の性格に因り成り行くのである。

努力する行為は一つの ” 技術 ” であると捉えることができ、「 努力の余力 ” 力のいろいろ ” 」を兼ね備えた『 八百万力( やおよろずのちから )』は、努力の対応を巧みに行うために役立てさせる方法としての「 力法 」なのである。

人生は短く、努力は確かに長い。( ” vita brevis, conatus vero longa ” )

短い一生で努力を極めるのは難しく、努力は人生よりも長く、努力は時代を超えて永遠と持続にあると解される。

常に絶えずの努力も結果である成り行きならば感嘆符と疑問符だが、堪えず( 耐えず )に消滅ならば最終符であり、最後に ” 努力の尻尾( しっぽ )” を掴むにしても、努力の永遠性と持続性を知り得ることができるかどうか、ということだ。

人間が ” 平々凡々 ” な「 努力 」というものを求め続けるにつけ、夢元の努力技術( technology )は人間の力を拡張していく。

「 努力という技術の力 」は、常に一対に現れる 相互作用( 相互関係 )の中で発展・進化していくが、方向を選択したり決定を下したりするのは、常に主体的地域の側にあるということを決して忘れてはならない。

 

 

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