あとがき:「未到」

 

 
Essay seventy-four  1~8  9~16  17~24
Cognigenesis  Fire Breathing

continued in the next seventy five / essay number
〜 ”生成の旅路” 〜 COGNIGENESIS JOURNEY

 

 

 

 

        あとがき:「未到」

 

 

 

 

「今」この一瞬──その時その時の”瞬間”

 

…….. 時は一向にすぐるとのみ計功して、未到と解会せず。 …….. (正法眼蔵:1231‐53 有時)──「時間は、ひたすら過ぎ去るものだとばかり考えていて、”未だ到達していない”ということを、理解しない」──”日常の大地”に動かず、ただその場に止まって、静止し存在しているように見える”木”も──「時(時間)」である。”動き回りしているものは場の移動をする”ので、「時の移り変わり」を考えることができ、「時」とはその様なものであると〈私たち〉は日常を生きていて思うが、静止している”木”そのものの存在も同じ様に「時(時間)」である。つまり──”動き、場を移り変わるものだけが「時」ではない”ということ──「〈私〉と存在〈私〉と時間が一つ」である。時間だけが止まって、この世界の全ての物事が存在しているという状態はあり得ず、もし時間が静止するなら存在もなくなり──存在がなくなれば時間もなくなる 。存在だけがある、あるいは時間だけがあるという状態はあり得ない。世界の出来事は繋がってゆくが、繋がりながらも──「その時その時」であり、その時その時 ”瞬間” ──”時々刻々”のそれ以外に「生成」はなく、その様に「生成は動き連なり持続」してゆく。

而今(じこん)=まさに今、この一瞬(瞬間)──静止したかの様に見える山も海に「時(時間)」がないとしてはいけない。山も海も「時」であり、もし”時”がなくなれば山も海も無くなり、「時」がなくならないなら山も海もなくならない。この様な理路の筋において──〈私〉がこの「世界」で生きているそこに「時(時間)の経過」があるのではなく、〈私〉と〈私〉が”生きている”ということ”時間”と”世界”が皆ひとつのことであるとした上で──〈私〉以外に世界はなく、世界以外に時間はなく、時間があるということは──〈私〉が生き、生きているということであり、その事実をどう生きたらいいのか ? … このような理路の筋で行けば、それは──これまでは「時間的往還」とその螺旋に何度も往還しながら呼吸を深めていくことで、世界の内外の境界が透け、呼吸が一本化し、”生成の場”が立ち上がることになる──すなわち「”場を生み出す”生成」だとすれば、これからは「生きることそのものを”生成”として見る」──つまり”生を成す「生の生成」=「生成は移動そのもの」に広がる形”となる。

生き、生きてゆくということは、常に一つのこと──「”生成”を生きてゆく」その連続──それ以外にないということである。時間と空間と〈私〉が一つになり、〈私〉が「生」と一つになり、”思考は現場へと降り、創造は試行錯誤の中で磨かれる”──この循環が〈私たち〉の「生」に即して具体的に展開され、「生の生成」── ”生成知”とは、教育・芸術・科学、そして「日常の実践」にまで通じている。「今」は常に「”生成”の時(時間)」──”日常の全てを大切な「生成」として生きる”ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的”実践”──すなわち、「生の生成」であるということの日常的”実地”そのものだと思われる。

日常の地層音(key-tone)=生成の大地”日常の大地”──「生成の主体」が完全に起動している証。しかし未然にて未到。日常見に現れる “差異の欠片”──生成の前成層(日常の地層)=日常の隙間に漂う日常は生成の地層であり、Cognigenesis”(自己生成の震源) の内側でしか起こらない変化で、いわば「生成主体」が静かに、しかし確実に日常を動いている「時(時間)」。日常という地層の奥で、生成の低音が鳴っているという声──日常の反復の中で”同じことをしているのに、どこか違う”という微かな日常の差異を感じた「瞬間」──そこに”生成の萌芽”が隠れている。

これらはすべて“自生的な問い”が生まれる前兆。日常の地層に沈む”差異”が、”問い”となり、問いが”自己生成として立ち上がる。反復行為は「無意識の領域」だが──ここにこそ“純粋な視線”がもっとも活性化する。反復の中で「同じことをしているのに、どこか違う」という微かな差異を感じた瞬間──そこに”生成の萌芽”が隠れている。問いや目的を脇に置いて豊かに経験が立ち上がる余白を孕む領域としての日常性。──日常には、問いを立てずとも感じられる気配、光や色、音や匂い、身体感覚、他者とのささやかな交わりなどが絶えず現れている。それらに「問いを差し挟む前の”ありのまま”を受け止める」ことで、新たな気づきや問いの芽生えが自然に生まれる場となる。「日常は事の連なりである。」──「日常の大地」を歩きながら、“問いを生む前の視線”──始動前の始動──を掴む。そこからさらに踏み込んで、日常性の具体的な在り方──そして、そこで立ち上がる視線の本質。

《反復と静度の地層(日常 ”Dailiness”)》とは──「平凡な時間」ではない。そこには、差異を浮かび上がらせるための基準面が形成される。日常 = 差異を孕む静かな母胎、ここに「創造=動く生成の持続」は根を下ろす。日常にある微細な変化の地層(差異 ”Difference”)とは、思考が発見するのではなく、身体が受け取ってしまう“微細な揺れ”であり、昨日と今日のわずかな違い/同じ道の影の角度/呼吸のわずかな重さ/眼差しの曖昧な傾き──これらが静かに“差異の層”をつくり、その層はいつか「問いへと圧縮」される。《差異の凝固地層(問い ”Question”)》とは──思考の道具ではない。問いは、身体の感受が言語へ押し上げられた“結晶”である。思考より先に身体がある/理解より先に揺れがある/解より先に沈黙がある。問いは“前史の生成物”として、沈黙の地層から生まれる。《自己生成の地層( 思創考造 ”Cognigenesis”)》とは、、”問いから生じる思考”であり、問いそのものを“創りなおす”創造である。思考と創造が別々でなく、一つの「生成線(ジェネシスライン)」として現れる現象。思考が創造を照らし/創造が思考を溶かし/双方が相互に生成し続ける。これが『思創考造』が名前として示す「自己生成」である。

──key-tone は “地層音(stratum-tone)” として響く。〈わたしたち〉の思想には、軽いメロディではなく、もっと深い音が鳴っている。それは、「日常という地層の奥で、生成の低音が鳴っている」という声だ。この低音=key-tone があるからこそ、これまでの”森/余白/共観/緊張の濃度/Cognigenesis/生成の招待状”、このすべてが一つの思想体として結びつく。反復の中で「同じことをしているのに、どこか違う」という微かな差異を感じた瞬間──そこに生成の萌芽が隠れている。これらはすべて“自生的な問い”が生まれる前兆。日常の地層に沈む”差異”が、”問い”となり、問いが”自己生成として立ち上がる。

「日常性という境域」の意味付けとして──「境域(リミナルスペース)としての日常性」:日常は「特別ではない反復」の場所と見なされがちですが、ここでは日常を「問い以前/問い以後」「無思考と熟考」「内と外」「自己と他者」の”あわい”。いわばリミナル(境域)的空間として捉える。この境域では思考は固定化されず、問いが自生する余地が維持されるため、創造的・認知生成的プロセスが自然に起こりやすくなる。──「美しさを宿す場」:境域としての日常性には、しばしば見過ごされる微細な美や潜在的な豊かさが潜んでいる。光の揺らぎ、風の微かな動き、身体感覚のひそかな変化、他者との無意識的な呼吸の同期。そうした瞬間の「美しさ」を見出し、味わう態度が「Dailiness Advantage」の本質。日常の美しさは、突然の劇的な風景ではなく、むしろ繰り返しの中で心が開かれたときに感じられる静かな輝きや余韻。この美しさが、問い以前の純粋な視線を呼び醒まし、Cognigenesisの種を蒔く。──「境域としての安全性と挑戦性」:日常の反復の中には安心感があるが、同時に慣れゆえに視野狭窄を引き起こすリスクもある。境域の美しさを見つめる態度は、この安心性に甘んじず、しかし過度に未知へ飛び込む不安とも距離を置き、ちょうどよい余白(マージン)の中にとどまる挑戦でもある。その「漂い・座礁」的な状態で美を感じ取ることが、既存の見方を揺さぶり、新たな問いや転軸的瞬間を育む基盤となる。

日常の観察を深めるためには、まず「保留する態度」を身につける必要がある。通常、私たちは何かを感じたとき、すぐに意味づけをし、問いを立て、答えを探しにいく。しかし、そのプロセスを一旦保留し、判断を停止することで、対象とのあわいにより深く開かれる余白が生まれる。さらに、日常の中で「境域に留まらざるを得ない」瞬間を肯定的に捉える。予定が崩れ、行き先が定まらず漂うとき、思考は慣れたパターンを外れ、知らぬ感覚や気づきに出会うチャンスが訪れる。これを「座礁」と呼んでもよい。乗り物が岸に打ち寄せられるように、一時的に停滞するからこそ、新たな視点が立ち現れる。こうした境域状態を味わうには、あわせて「荷を降ろす」実践が役立つ。日常の重荷──過度なスケジュール、成果への執着、過剰な情報消費──を一旦ワークアウトし、省いてみることで、意識は軽くなり、保留の余白を保持しやすくなる。

”荷を降ろした後の沈黙や静けさ”は、問い以前の純粋視線を研ぎ澄ます場となり、「”Cognigenesis” の種を育む」。例えば、ある日意図的に予定の一部を空白にし、その時間を問い構えずに過ごす。漂うままに歩き、目に映る風景や身体感覚をただ感じる。その間に浮かぶ小さな揺らぎ──「いつもの私なら気づかない何か」をメモし、この揺らぎこそ問いの萌芽であることを見守る。こうして境域に留まる体験が、思考の前段階を豊かにし、次なるCognigenesisの起動を促す。このように「保留」「境域」「座礁」「荷を降ろす」「ワークアウト」は、すべて日常性の中で可能な実践であり、問い以前の視線を深めるための鍵である。これらを通じて得た余白から自然に芽生えた問いは、次節で扱う共観や地力の回路を刺激し、思創考造の循環を拡張していくだろう。「保留する視線」の練習──観察の深度を高めるためには、まず問いを「保留」する勇気が要る。感じたものをすぐに意味づけず、一旦停滞させることで、視線は対象とのあわいにより濃密に開かれる。日常においては、たとえば誰かの発言を聞いた直後に、すぐに反応や判断をせず、一呼吸置いて保留する。この小さな習慣が、思考の前段階を豊かにする余白を育む。

境域で漂う体験──予定の合間に漂う時間や、思考が行き詰まって手が止まる瞬間は、往々にして不安や焦りを呼び起こす。しかし、それを避けるのではなく、「座礁した」と捉えてみる。漂いながら留まることで、既存の思考地図が解除され、新たな感覚や問いの兆しが現れる。日常の隙間に漂うこの境域は、意図的に設定しなくとも、偶発的に訪れる出来事として受け止め、そのまま味わうことで思創の余地を見出せる。荷を降ろす実践と実地──日常の重荷は過度な予定、成果への執着、情報への過集中を一時的に「ワークアウト」し、省いてみることで、心身は軽くなる。例えば一日の中で「今日はこれをしなくてもいい」と自分に許可を出し、その時間や注意を純粋観察に回す。荷を降ろした後の静けさや自由度が、問い以前の視線を研ぎ澄まし、Cognigenesisの土台を深める。余白から芽生える問い──荷を降ろし、境域に漂った後に訪れる内的な揺らぎは、小さな問いの萌芽である。それは外部から投げかけられる問いとは異なり、日常の余白から自発的に立ち上がる。こうして生まれた問いは、既成の枠組みを超える可能性を孕み、次節で扱う共観・地力発動への架け橋となる。

「問いを抱える前の日常性」とは何か ? … ──前概念的/前反省的な領域:「問いを抱える前」とは、まだ思考が「なぜ?」「どうして?」とフレームをかけていない状態。言い換えれば、私たちが何かを分析・評価しようとする前の、いわば「前概念的(pre-conceptual)」あるいは「前反省的(pre-reflective)」な経験の場です。この段階では、物事への関わりは直感的・感覚的で、未だ問いというフィルターを通して整理されたり意味づけされたりしていない。──日常性(everydayness / Lebenswelt)の意味:日常性とは、特別なイベントや理論的探究とは対照的な、日々くり返されるありふれた営みや環境の中にあるありよう。しかし、ここで強調するのは、単に「平凡」という否定的なニュアンスではなく、「問いや目的を脇に置いて豊かに経験が立ち上がる余白」を孕む領域としての日常性。日常には、問いを立てずとも感じられる気配、光や色、音や匂い、身体感覚、他者とのささやかな交わりなどが絶えず現れている。それらに問いを差し挟む前の「ありのまま」を受け止めることで、新たな気づきや問いの芽生えが自然に生まれる場となる。──余白とマージンの確保:「問いを抱える前の視線」を可能にするには、思考や解答を急がない〈余白〉(マージン)が必要である。「日と常性」は、この余白を提供する土壌。日常の中の何気ない瞬間(朝の光、風の動き、立ち止まった沈黙など)に意識を向けることで、問い立て以前の豊かな「観察」が発動しやすくなる。──自己疑念との関係:「問いを抱える前の観察」を行うためには、自分の先入観や自動的反応をいったん疑い、問いや答えを準備する思考習慣を手放す姿勢が求められる。ここでいう「自分を疑う」は、否定的な自己否定ではなく、「問いや既成概念を無批判に持ち込まず、まずは現前に開かれるクリティカルかつ受容的な態度」を指す。── ”Cognigenesis” との繋がりつながり:問いを抱える前の視線がしっかり立ち現れると、そこから自然に問いの芽が自生的に生まれる ”Cognigenesis” の場が立ち上がる。問いを探して外へ走るのではなく、日常の現前から問いが湧き起こるプロセス。

「日常のデッサン的始動─」──〈私たち〉は思考を始めるとき、つい「問い」を探しがちだ。しかし、その前に先ずあるべきは、問いを超えた「観察」の深度である。ここでいう観察とは、対象と自分との”あわい”を丁寧に描くデッサン的態度を指す。時間と空間の重層する形式の中で、対象の質感や気配を、先入観や既存の問い立てを横に置いて受け止める。そのために必要なのは、「自分を疑う」姿勢である。自らの思い込みや、無意識に抱いている目的志向的問いの枠組みを問い直し、まずは現前するものに目を澄ませる。この純粋なデッサンから出発しなければ、思考は芽生えず、創造は動き出さない。ここにこそ「” Cognigenesis” ──認知生成」の起点が横たわる。問いを探すのではなく、問いが自発的に立ち上がる余白を整えること。それが「日常を”思創の場”」とする「日々力行」の出発点である。

 

 

…….. この段階の「今」こそ──

まさに「生成の第一息」として、

美しく手応えのある濃度になる。


「今」浮かんだその 「次の瞬間」 を、

静かに、ゆっくりと、

呼吸の奥で再生してみる。


再生とは記憶ではなく、

生成の続きを受け取る行為。


未だその続きを急ぐ必要はない。


風と光の偏り、身体の停止、

内側のわずかな反転──

それらが、
きっとまた次の──

“差異の欠片(かけら)”を呼び寄せる。


準備が整ったとき、
その「次の瞬間」を──

『”伏流”』にて静かに次の瞬間へ──

深い生成の日々を ……..

 
                                          Kenzie

 

 

次頁:はじまり:「拍動」へ続く

 

 

 

 

余白

 

 

 

 

『思創考造 Cognigenesis』をご覧いただき、感謝申し上げます。
沢山のご愛読者様からのご要望にお応えして、トップページ及びヘッダー等を一新し、これからも ”Cognigenesis & Essay” の小文随筆を進めて参ることにいたしました。
今後ともご愛読いただきますよう、引き続きよろしくお願い申し上げます。
Kenzie

 

思創考造 Cognigenesis
actual-virtuel ” THRESHOLD OF GENESIS ” Ken.G

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