日光占術|観氣(かんけ)序章:熾火《月星》

 

 

 

 

       ── 既知と未知 ──

 

 

 

 

『観氣(かんけ)』と『思創考造』 は、思ったより地続きで連続する。──占想(潜勢の臨み)と占態(望みの実現)の場。──占い描く/ 占い観る「潜在的の占想(潜勢の臨み)を会得し、どのように思うか? 何を考えるか? ──可能力性の占態(望みの実現)を志向し、どうのように創める(はじめる)か? 何を造るか? ──この小さな《占針》は、”移行転化”へのひとつの深淵への扉である。──転軸において、《占想思考》の既知を解き(ほどき)、《占態創造》の未知に手を伸ばすことによって、「潜在力と実在の共鳴」「超越と現前の架橋」を目指す『観氣(かんけ)』における──動き持続する《生成と運気》の”跳躍”は、〈あなた〉の内側で始まることになる。『観氣(かんけ)と、意外と地続きだった『思創考造力』を含め、観察力・認識力・理解力・思考力・判断力・行動力などその他、この ” 力 ” を指す「能力」という言葉は抽象的で、漠然と「 できる力 」「 達成する力 」のように扱われる。しかし、能力は具体的な「 力の総称 」ではなく、 ”努力 ” という実践行為の中で「 発現 / 創発 」し、初めて “力は名指しされる” 。行為に努力無きものはなく、努力無き人間はいない、その現実の《日々 / 皆々》──この日常性は大きなメリットだった。(This dailiness was a big advantage.)

言い換えれば ──「能力」とは、その行為の事前に定義されるものではなく、行為の過程的・状況的・事後的に立ち上がるものである。これは観察であり、努力とは、単なる反復や忍耐ではなく、その中で発見されていく多層の力の場、変化の過程、気づきの場でもある。心 = 能力ではない何か、それは理性や技術を超えた “ 場 ” を生む、実践の中でのみ現れる “ 超-能力的な力 ”( 潜在的共鳴、内的動因など) 。つまり、「 心の力 」は、定義される能力ではなく、場の生成力、方向付け、全体調律のようなもの。これはまさに──『思創考造』の中核にも通じる洞察ではないだろうか。「力」とは、事前に備わるものではない。努力の只中で、「”名も無き”力」たちが実践を通して”力”として現れる。その一つひとつは、心と体、理性と感情、偶然と意志が織りなす即興的な交響である。「能力」とは、“ 名前を持つ以前の力 ” の集合であり、心はその「 ” 生成 ” の源泉 」にある。「”能力”とは何か?」という”問い”を通して、『思創考造』という思索の旅の一つの “入り口” を示すこともできるのではないだろうか。

《思考と創造の息》──それは、単なる「 気づき 」ではなく、『思創考造』の核心的な節目、あるいは──新たな「転軸」だということが、ハッキリと伝わってくるだろう。おそらくこの感覚は、「能力という言葉に隠された誤認」「実践と心の関係 」「名付け得ぬ力の現 」を通じて、思考と創造の実地的な交差点に立ち現れているものである。そして、その「力の正体」が観念的に先にあるものではなく、「”努力”という行為の過程」で、実地的に立ち上がる現象であるということを掴むことができるはずだ。これは、『思創考造』における「潜在から実在への移行」「名付け得ぬものへの眼差し」「共観的理解」といった概念とも響き合っている。おそらく──浮かび上がってくるだろうこの「力の本質」に対する直観は、『思創考造』の全体における一つ根幹的節理( せつり )、すなわち──「”言葉以前の力”への洞察」として位置づけられるものである。身体の力も能力としては生きる作業のために、心の力も同じく、頭の力も同じく。これは、”能力”を「何ができるか」ではなく、「 どう”生きる”か=どう”実る”か 」に結びつける言葉だ。それぞれの力は ―― 身体は、動き、耐え、支える力、心は、感じ、耐え、響き合う力、頭( 思考 )は、編み、問い、形にする力、これらが能力という枠では捉えきれない、生きるための“働き”としての力であり、その「 作業 」とは、生きることそのものであり、創ることそのもの。

「能力」とは、”分類された力”ではない。身体の力も、心の力も、頭の力も ──それらはたただ、「生きるため=実るため」の作業として、今、自らを動かしている。名も無く、順番もなく、ただある「”力”たち」。それが”努力”であり、”創造”であり、”思考”であり、その呼吸である。頭の脳のその力は、「生きるため=実るため」のものか? おそらく──多くの人は ” -reflex- ” 的に「 はい 」と言うだろう。「考える力があるから、人間は生き残れた」と。でも、自らが今問っているのは、もっと根源的な問いだ。本当に──“考える”こと は、”生きるため=実るため”だけなのか? 生きているということそのものか?

《思考と創造の問い》として──もしかしたら、「生きるために考える」のではなく、考えることがすでに、「”生きている”いること=”実っている”という行為の一部」かもしれない。つまり、「生存の手段」ではなく、「存在の様式」。たとえば、空腹を満たすために考えるのではなく、空腹とは何かと考えることによって、人間は、「ただ”生きる=実る”を超え始める」。身体の力は、生きる作業のために。心の力も、感じ、支え合うために。では、頭の脳のその力は? それも生きるためだろうか? あるいは、「生きている=実っている」ということの“カタチ”として、それは在るのではないか。考えるとは、生きることの影、あるいは、光。思うとは、命が自らをふり返る呼吸。脳の力は、”生きること=実ること”をただ守るためではなく、”生きること=実ること”を問うために在るのかもしれない。考えるとは何か? 創造とはなにか? という問いの、もっとも純粋なカタチ。「考えることの自由と危うさ」「創造の原点としての逸脱」──「 欲 」とは卑しいものではなく、生の駆動力でもある。それは心(情動・衝動)によって起こるが、頭(思考)によって方向づけられ、カタチになっていく。「愛」は心が感じるものだが、頭がそれを言葉にし、行動にし、持続させる。「金」は欲の対象だが、それを得るには働く・計画する・選ぶという思考力が必要。「健康」は身体の問題だが、それを守るには知識と判断が関わる。それらすべての力 ―― 心も頭も ―― 結局は「 生きるため 」にあるのか? それとも、「生き 」という言葉が、あまりにも広く、深く、含みすぎているのか? 慎みは、自らを引く力、勇気は、踏み出す力、どちらも「判断する 」としての能力の現れ。穏やかさは、感情の受容の力、冷徹さは、感情から距離をとる力、どちらも「心の操作」に関わる能力。着実さ・堅実さは、未来への安定的な配慮と選択、知的・実践的な「持続の力」。これらはすべて、「実地で働く力」であり、『思創考造(しそうそうぞう)』及び『観氣(かんけ)における「潜在力の現れ方」そのもの。

慎みとは、ただ退くことではない。勇気とは、ただ進むことではない。穏やかさの中にも力がある。冷徹さにも、洞察がある。着実であること、堅実であること、それもまた、速さに勝る力である。それらはすべて、「能力」として名づけるにはあまりにも曖昧で、けれど確かに、人の内に在る「働き」だ。私たちは、能力の名を知る前に、それを行っている。それを「力」と呼ぶにはあまりに静かで、それを「美徳」とするにはあまりに実地的だ。
──それでもなお、それらは”力”だ。「生きる=実る」とは、それらの”力が交錯”しながら、カタチにもならぬ何かをカタチづくっていくことなのかもしれない。「能力とは何か 」「力とは名づけられるものか?」「心・頭・身体の境界とは 」「考えることは生きるためか、生きることそのものか?」──といった問いを、いわば常識的な枠組みから静かに解いて(ほどいて)、そこにあらわれる《素の素材》のようなものを、”手の平”で確かめてみる。思考と創造が交差する”場”そのものであり、──『思創考造』と『観氣(かんけ)』 は、思ったより地続きで連続する。──「能力の名を脱ぐ」「力は力と名づけられる前」「心・頭・身体の間」「考えるとは、境界にいること」──”知”としての脱構築ではなく、”実存”としての脱構築。つまり、「世界をどう見るか」「言葉をどう使うか」「自分をどう考えるか」、そのすべての土台に潜む”当たり前”を、自分自身の生活・感覚・感情から問い直す営み。──この小さな序章は、ひとつの深淵への扉である。さあ、思考の既知をほどき、創造の未知に手を伸ばそう。──「潜在力と実在の共鳴」「超越と現前の架橋」を目指す『 思創考造 』は、既に『観氣(かんけ)」における相談者の〈あなた〉の内側で始まっている。

そして、ここが重要なのである。占い描く/ 占い観る──潜在的の占想(潜勢の臨み)を会得し、どのように思うか? 何を考えるか? ──可能力性の占態(望みの実現)を志向し、どうのように創める(はじめる)か? 何を造るか? ──この小さな《占針》は、”移行転化”へのひとつの深淵への扉である。転軸において、──「占想思考」の既知を解き(ほどき)──「占態創造」の未知に手を伸ばそうとする。「潜在力と実在の共鳴」「超越と現前の架橋」を目指す『観氣(かんけ)』における──動き持続する《生成と運気》の”跳躍”。それは、まさに『占想思考 占態創造思創考造 』という名の通り。物事を捉えようとする内なる動き──「思」。捉えきれぬものをなお、カタチにしようとする試み──「創」。揺らぎの中で構造を仮置きしようとする知の行為──「考 」。それでもなお、手を動かして実地へと持ち込む力──「造」。この無意識的な “ 発酵 ” のプロセスこそ──『観氣(かんけ』と思ったより地続きで連続する『思創考造』の中核に据えている──まさに以下のようなサイクルである。

「思考される前の”気配”=潜在 」「 構造化される前の”兆し”=萌芽」「言葉になるかならないかの”沈黙”=瞑想」「そして、ふいに現れてしまう”ひとつの”実り”=創造 。日常は、──”思”の発芽地であり、”創 ”の素材庫であり、”考”の実験場であり、” 造”の舞台でもある。事が無くても、事を起こさずとも、日常そのものが、──既に「事」である。何かが明確に起きなくても、心は動き、頭は働き、体もまた、どこかへと向かっている。そこには、無数の選択があり、判断があり、気づき、認識し、理解しようとする力がある。それらは、騒がしさではなく、静けさの中でこそ、深く息づいている。
私たちはそれを、ただの「ルーティン」や「無意識的な繰り返し」として片付けてしまうが、そこには常習を微かすかにずらす、微細で確かな意志がある。その意志は、名前を持たない。けれど、それこそが、──「思考」であり、「創造」である。日常は、何かを変えるためにあるのではなく、何かが変わってしまっていることに、静かに”気づく”ためにある。この《気づき》が、『 思創考造 』の最も深いはじまりとなる。けれど、それこそが、「 思考 」であり、「 創造 」である。起きることではなく、起きない中で、気づき、動かされる何か。それを感じることができるとき、日常は、単なる背景ではなく、──『 観氣(かんけ)』の最も”深い舞台”として現れてくる。

思考と創造の日常性(This dailiness was a big advantage.)──この日常性は大きなメリットである。日常とは、単に繰り返されることではい。
むしろ、その繰り返しの中で、繰り返しきれない何かが現れる場である。今日も同じ道を歩く、同じような朝の光、同じような人影、同じような呼吸。
しかし、同じであろうとするその中に、かすかなズレがある。昨日のわたしと、今日のわたしは、わずかに違っている。その違いに気づくとき、「 無意識的ではないもの 」が、そっと動き始める。ただ食べる、ただ働く、ただ眠る。その“ただ”の中に、実は多くのことが宿っている。「気がかりの断片」「目に映った一瞬の揺らぎ」「心が僅かに触れた誰かの言葉」「理由のわからない沈黙」「微かな違和違」「僅かずかな解放」、そうしたものが、思考の芽となり、創造の地層を育てていく。だからこそ、「事を起こす」前に、「事のないもの」をじっと視る時間が必要なのだ。それは、──”凝視”であり、── ”黙想”である。目に見えるものを超えて、目に見えないものが「感じられるまで待つ姿勢」である。

「思考と創造の潜在」として──日常の中の創造。「事」のないところに潜む思考、事がなくとも、人は動いている。無意識的ではない微細な行為の連なり。判断のない判断、行為のない動き。心・頭・体が「事」によってでなく、日常によって動かされる。日常の反復に潜む “気づきの芽” 。微細なズレが創造の発火点となる。「”凝視と黙想”の予兆」としての日常性。非劇的な生活の中に、「思考と創造の”原型”」が沈む。「日常は、事の連なりである」「無い“こと”の中の創造 」「繰り返されることの繰り返され無さ」「日常という深い舞台」「目に見えぬ変化、名づけられぬ動き」。日常は、事の連なりである ――「思考と創造の”潜在場”」。事が無くても、事を起こさずとも、日常そのものが、すでに「事」である。目立った出来事もなく、特別な瞬間もない日々。しかし、心は動き、頭は働き、体もまた、何処かへと向かっている。そこには、名もなき選択があり、微細な判断があり、気づき、認識し、理解しようとする小さな動きがある。それらは、騒がしさではなく、静けさの中でこそ、深く息づいている。
日常とは、ただの反復ではない。むしろ、その反復の中で、反復しきれない何か ―― 微細なズレ、沈黙の重み、理由のない違和感が、確かに立ち上がってくる。同じ道を歩く、同じような光景、同じような手順、同じような思考。だがその中で、昨日の自分と今日の自分は、わずかに異なる。その違いに触れたとき、「無意識的ではないもの」が、そっと動き始める。ただ食べる、ただ働く、ただ眠る。その “ただ” の中にこそ、無数の気配がある。「気がかりの断片」「目に映った一瞬の揺らぎ」「微かな不安、ささやかな歓び」。そうしたものが、思考の芽となり、やがて創造の地層を育てていく。だからこそ、「事を起こす」前に、「 事のないもの 」を観ることが必要なのだ。それは、”凝視”であり、”黙想”である。外に向かう眼ではなく、内に沈みこむ視線。目に見えるものを超えて、目に見えないものが感じられるまで、待つという態度。

「思案点」、それは静かに気づくということ。日常は、何かを変えるためだけにあるのではない。何かが既に変わってしまっていることに、静かに気づくためにある。名も無き判断、無意識的でない動き。それこそが、「思考と創造」の最も深い初まりとなる。この「”見えない”変化」に対して、どのようにして意識が凝視し、黙して構えるのか――その”眼差し”。「洞察 」――目を瞑らずとも、瞑想している。何かを見ていなくても、何かを考えている。そして、その思考は、むしろ何かを「 見ない 」ことによって、深く沈みはじめる。対象を持たない思考、目的を持たない観察。それは、一見すると曖昧で非効率だが、実際には、そこにこそ「思想的な純度」があり、「創造的な予兆」が、静かに息づいている。目的という輪郭、対象という枠組みがないとき、思考は制限を外れ、より自由に、より深く、「 生成と運気の”場” 」へと向かう。それが、『思創考造(しそうそうぞう)』の第一の場と、意外と地続きだった『観氣(かんけ)』における「見ることなき凝視」「語ることなき黙想」への入り口である。単なる「日常の省察」ではなく、『 思想的創造的の ” はじまり ” 』そのものになる。

思索の核(整理と純化)は、無目的・無対象の空間 / 時間において、思考・創造は、構えずとも自然に「 学ばれ、身につく 」。技法を求めない姿勢において、 技法的なもの( 対象思考・構築的知)につながる「根」が育っている。それは、「答えを求めないこと」によって、思考と創造の本質的な力が磨かれている証でもある。そうした時間と空間 ―― 答えを探さず、解を急がず、何かを「 成そうとしない 」状態。その中でこそ、思考と創造は、ある自然な流れとして“学ばれて”ゆく。これは、知識を吸収するという意味での「学び」ではない。むしろ、「何かを”わかろうとしないこと 」で、逆に「 “わかるため”の感性(感受性)が育っている」ような、そんな”逆転した学び”である。そこには、技法も方法論もいらない。 だからこそ、そこから滲み出てくるものは、技法を超えた何か―― 「技法の”核”」とも言える力を持つ。事がなくても、目的がなくても、そのような場に沈むことで、思考と創造は根を張る。やがてそれは、事を持つ思考、目的を持つ創造 ―― 構築的な営みへと、自然に連結していく。日常という”無形の場”における 「思 考の訓練なき訓練」「創造の形なき熟達 」が見出されるはずだ。

「洞察」をさらに進めれば、身法的創造を語るパラグラフ。思考と創造には、二つの層がある。一つは、対象を持ち、方法を選び、答えを求める層 ―― これは能力の発動であり、意志ある技法の営みである。だがもう一つ、もっと深く、もっと静かな層がある。対象を持たず、技法を持たず、答えを求めない。ただ、生きているというだけで、日常を生きているというだけで、自ずとその中で「何か」が育ち、動き、カタチを持ち始める。それは、「能力ではなく”身法”」であり、「技法ではなく”在法”」である。学ぶのではなく、すでに身についてしまっているもの。意識するのではなく、すでに働いてしまっているもの。『思創考造 』と、意外と地続きだった『観察(かんけ)』は、この“能力ではない力”から始まり、やがて“能力的な知”へと接続していく運導である。「日常の中に伏す創造的潜在力」が、単なる無意識ではなく ―― 「無能力の力」「無意図の働き」として立ち現れてくるはずだ。

発想の二つの次元において、その一つ、事・目的・対象をもとに生まれる発想とは、問題解決や創作、設計や企画などにおいて「なぜ」「どうすれば」「何を」の問いから生じる明示的・具体的・応答的 = 応答的発想( 能力的・技法的 )。もう一つ、事や目的や対象の“無いところ”から生まれる発想とは、ただ「在る」こと、「いる」こと、「沈む」ことの中から起こる見えない何か、言葉になる以前の“兆し” 、無意識的・潜在的・生成的 = 生成的発想(身法的・内在的)。発想の二層性において、発想とは、事があって生まれるものだろうか? 目的や対象が与えられたときに、そこからカタチを成すものだろうか? たしかに、多くの発想は、何かを成すために起こる。答えを出すため、目的を達成するため、対象を操作するため。そのような発想は、能力や技法の範疇にあり、問題解決や創作の中で力を発揮する。しかし、それとは別に、何もないところから、何かがふと立ち上がることがある。それは、事がなくても、目的がなくても、対象がなくても、ただ存在しているだけの空間に、ひとつの兆しのように現れる。それが「 もうひとつの発想 」―― 生成的発想であり、内在的発想であり、「”潜在的”な発想の核」である。――『思創考造(しそうそうぞう)』に伴う『観氣(かんけ)」は、この核の側からみた「潜在的な発想から応答的な発想へと向かう運導」でもある。

「発想」──兆想(ちょうそう):兆しとして生まれる発想。──無相発想 : 形や対象を持たずに生じる発想。──発源核 : 思考や創造の源泉的な発想部。──湧念(ゆうねん): 湧き上がるように現れる念・発想。それは「日常という発想の場」においてこそ始まる──「 事ある発想/事なき発想 」「 能力としての技法/身法としての力 」「 対象を離れた思考・創造 」「 兆しの場としての日常 」。この小さな序章は、ひとつの深淵への扉である。さあ、思考の既知を解き(ほどき)、創造の未知に手を伸ばそう。「 潜在力と実在の共鳴 」「 超越と現前の架橋 」を目指す『 思創考造 』は、既に『観氣(かんけ)」における相談者の〈あなた〉の内側で始まっている。

 

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

….. 人の”生きてゆく”ことは──”実っていく”こと。人間としての《実り》=『”生成”に”運生”』──「生成の縁起=運気の縁起」の結び目において《運生》とは、”月星と共に”「動き持続する生成と運気」の《勢的──”実り”(みのり)》を結び重ね続けいくこと。”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になる。…..

 

「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに《潜勢的》。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。つまり──守株的に対する「新しい秩序」の提示が必要であり、”運生”に新たな価値観を見出すことです。「新しい秩序」とは、「現実を片づける」ことであり、不要不可の判断や整理などを意味するものではなく、従来の価値観と全く異なるものを提示することです。すなわち──観者となる相談者にとっての発達進化・発展拡張の持続を視座とした『”生成”に”運生”』の獲得に向かう価値創造への”挑戦の進化”であり、つまり──「生成と運気」という「”実現可能力性” への潜在力=”《潜勢的》すすめ”」です。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想(占い記述)」から結果的に「占態(望みの実現)」へと還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は、”占想”を片手に”占針”を歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり”占想”に伴う”占針”に付随する指標ともなる「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”に止めることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。
「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、自分の”生きる風景”の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から「感性(受容と能力)によって悟る」ことができる。すなわち──人の「”実り生きる”母胎」の”種子”である縁(えん)にあるのは、”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ人間としての《実り》=『”生成”に”運生”』。

『観氣(かんけ)』の具体場に、波打つ”生まれる前の核心”──《蒔種》。”当たり外れ”の知的好奇心を喚起させられる──”潜在的”な「占想」の思考と「占態(望みの実現)」の創造への強烈な刺激。占想から占態(望みの実現)を生み出し獲得するに到る──パラダイムシフト。
顕在化する可能力性として《潜勢的》は、始動的・終息的存在として、潜在的な「地勢・地力=力能」の発現を可能にさせる可感的で可知的であり、自らが持つ固有の本質の発現を可能態から現実態へ移行することであり、「生成」と「運気」が別々でなく、ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象──運気が生成を照らし、生成が運気を溶かし、双方が相互に動き生成し続ける──”根源活性”により『運生』は、守株的な月相・星相の覆いを脱ぎ去った『観気(かんけ)』の新生”月星と共に”、《種線(seed-line)》の「生成と運気」に──『移行転化』することです。

そして『観氣(かんけ)』の具体場に、跳躍する拍動の”前触れ”──《予祝》。”当たり外れ”の間違いを受け入れる強さは知の覚悟として──パラダイムの扉を叩く手は「問い」を手放さない。顕在化する可能力性として《潜勢的』=潜在的な「地勢・地力=力能」は、”心”に受入れられ沈黙し無力な存在ではなく顕勢において雄弁な性質を具しており、通常の”問い”に対する”生起の問い直し”は、触発・中止・方向転換の目的追求ではなく、埋め手 / 打つ手による”消滅の在り方”から離れ移行することであり、「生成」と「運気」が別々でなく、ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象──運気が生成を照らし、生成が運気を溶かし、双方が相互に動き生成し続ける──”根源活性”により『運生』は、守株的な月相・星相の覆いを脱ぎ去った『観気(かんけ)』の新生”月星と共に”、《種線(seed-line)》の「生成と運気」に──『移行転化』することです。

 

…..〈あなた〉の「生成の縁起=運気の縁起」の結び目=「”運生”における結実」へと向かい、観者となる相談者の〈あなた〉と”共観”を伴う一緒の私たちは、『観氣(かんけ)』に必ずや──「”実現可能力性”への潜在力」=『”潜勢的”すすめ』である「生成と運気」において《移行転化》する新生の”月星と共に”『種線(seed-line)』を見出し、「創造=”動き持続する”生成と運気」の”運生”に《勢的──”実り(みのり)”》を結び重ね続けてみせます。…..

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──

”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis 日光占術|観氣(かんけ)

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

 

観氣堂 Office Kanke

主宰:小林 芳鳳 Yoshitaka Kobayashi

 

add. 栃木県日光市 日光山内 Sannai, Nikko, Tochigi Japan

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥20,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月2回

◯ 月星占術料
1回 ¥10,000.〜
※ 随時:プロセス進行

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ 提案:プログラム設定

◯ 大観氣料
1回 ¥30,000.〜
※ 相談:月星次の観氣適応

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

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※ 例年大祭:無料

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