
── 触知 ──
触発されうる「生成と運気が付着する”筋”」と「”息”=〈氣、勢い、気配、調子〉など目に見えないエネルギーとその呼吸」に充ちる『生成と運気』の芽吹きと呼吸の連鎖=『生成と運気の”予演”」──鐘声は途絶えるのだろうか? 『生成と運気の”拍動、波及、無限の連鎖”」は、あまねく巡る。再び、自分の中で跳ね、再び、世界へ届く──生成と運気の”全肯定”」。「生成と運気の主題旋律 」──「生成と運気の”余白”」=思考と創造の余白。──静かに誘う跳躍と哲学: “余白の静寂”──「偶然性 / 生成と運気 / 余白 」。
「生成と運気の”森”」へ──森の脈〈森の地図〉は、「生成と運気の”全肯定”」において”森”が、人間の外にあるのではなく人間が森である。 部分を超えて全体に至る”視座=軸”。「私たちは森を歩くのではない。」「森が私たちを歩ませるのだ。」渡された最後の火種──森は外にはなく、私たち自身が森である。歩くことは森を進むことではなく、森に歩まされていること。「生成と運気」とは、「すべてを抱く肯定」であり、「完成」ではなく「動き続する始まり」である。── 一気に「生成と運気の”現場”」へと〈余白〉は、静けさの奥で、未だ名もない道をひらく。足を止めたとき、もう、森の中に立っていた。それは終わりではなく、生成と運気が次の姿を選びとるための”呼吸”だった。森は、音より先に匂いで迎える。木々の間を抜ける風が、未だ見ぬ景色の輪郭をそっと撫でる。一歩ごとに、足裏が新しい地図を描きはじめる。〈余白〉──それは、ただ残された空白ではない。静けさが、ひととき、全てを包む。その沈黙の中で──足元の土が柔らかく変わるのを感じる。それは、次の森へ足を踏み入れる入口だった。『息』を一つ”吸い込む”と──見えない地平の向こうから、微かな木立の騒めきが響いてくる。〈余白〉は、静けさの奥で、密やかに旋律を抱いき、未だ名もない道を開くひらくその先に「生成と運気の”森”」が息づいており、「”余白”は終わりではなく、──「生成と運気が次の姿を選びとるための呼吸だった」。足が止まったその刹那──森の気配が、音もなく立ち上がった。その響きは、土の匂いを纏いながら、低く、深く、歩き出す。木々が和音をつくり、枝葉が微細なアルペジオを奏でる。再び歩く足音がリズムを刻み、呼吸──すなわち『息』=《氣、勢い、気配、調子》など、目に見えないエネルギーが、「生成と運気の”旋律”」を運び導く。ここから先は──「運生」そのものが楽曲だった。
《濃度(Density)──という「経験・記憶・感情の層の厚み」「長い関係の積層が生む“充実した空気」とともに「何も描かれていない部分」が、むしろ満ちてくることであり、これは、白紙の余白でも「軽い余白」と「重い余白」があるのと同じこと。《圧(Tension / Pressure)》──という「これまでの葛藤や困難が凝縮されて生まれる張力」「守るために耐えてきた圧力」として「減る身体的エネルギーの代わりに心的な圧が増す」こともあり、構図でいうと、画面の端に置かれた物体が生む“視覚的な引っ張り”に似ており、時に非常に静かでも、その静けさの奥に高い張力を秘めている。──《状態(State)》という「開かれているのか、閉じているのか」「受容しているのか、拒絶しているのか」「柔らかく拡張しているのか、凝縮しているのか」、これは「余白が空気を呼吸しているのか、それとも沈黙しているのか」に似ており、状態が変われば、同じ余白でもまったく異なる意味を帯びてくる。──「必然的生成・運気として捉えるか、出来事的生成・運気として捉えるか」「受動的生成・運気としてか」「必然ではなく関係の場に突然立ち上がる生成・運気か?」「時間を素材として彫刻していくような存在の変化か?」「余白の深度としての──濃度・圧・状態か?」──余白の哲学化は、絵画における余白論を「生き方の余白論」に拡張し、「余白=可能性の場」「時間・関係・沈黙の余白」として捉えられる。「生成と運気の”様態比較”」において、「必然的生成・運気と出来事的生成・運気の比較」「どちらも『生成』だが時間の使い方と出現の仕方が異なるもの」「その違いを通して”生成・運気”そのものの構造を見抜く」ということになる。
『生成と運気』の芽吹きと呼吸の連鎖=『生成と運気の”予演”」とは、──他者との接触から立ち上がる出来事的生成・運気である「関係から生まれる生成と運気」、──意識の中で発芽する出来事である「内面の生成と運気」、──偶発的な出会いや出来事である「余白と偶然の生成と運気」、──行為そのものが生む生成・運気の「表現・創造の生成と運気」などになる。例えば──『生成と運気という”森の内なる一本の木”』として、他の現象や体験も自在に組み込んでいくことになり、こうして──『生きること=実ること』そのものを「生成と運気」として”描き観る”という『生成の森を歩く』行為は、各々の様々な現象や体験の内に「立ち止まり、振り返り、再び歩み出す」ことに重ねられるのではないだろうか。それは──「実地サイクル」「未来への跳躍」にも、しなやかに接続していくことであり、一つの例えとして、常に豊かなこの「森の書法」は、まさに──『思創考造(しそうこうぞう)』と思ったよりも地続きの連続だった『観氣(かんけ)』が、例えば「生成と運気の”森を歩く”」ものであるならば、一本一本の”生成・運気樹(占いの出来事)”として、その幹や枝葉を通して自分自身の根系に触れてゆくということにもなる。それを、単なる──〈並列的なエッセイ(Essay)の束〉にするこなく、この「第一息」から始まるこれからの──『息』そのものが、「生成と運気の”現象”」でありつつ、「生成と運気とは”何か?”」という”根本問い”へ還流していこう。「生成と運気」から”生成”というものだけを抜き出していうならば、多くの哲学や思想では、──「生成(becoming)」は単なる変化や成長ではなく、存在そのものが常に《生まれ直している=実り直している》プロセスとして語られている。そこにはいくつかの層があると思われる。
1.-固定からの解放
生成は「完成」を否定する。完成=終わり、”生成”=続く始まり。物事を固定した像として捉えず、常に動きの中にあると見る視点。
2.-関係性の網の中での変化
”生成”は単独で起こらない。例えば「森」の中の木のように、根や風や光との関係の中でのみ変化する。”生成”の意義は、その関係を通して自分も他者も更新し続けるところにある。
3.-自己変容の契機
”生成”は「自分が変わってしまう」出来事でもある。それは意図的に起こせないことも多い。予測不可能性を含むからこそ、”生成”は生の実感を伴う。
4.-未来の含み
”生成”の意義は、未来を「未完成の余白」として開き続ける点にある。”生成”は答えを閉じるのではなく、問いを育てる。そしてその問いが、”次の生成”を呼び込む。
「生成」を知っているということは──日常の出来事を「完成や失敗の評価軸」ではなく、「流れの一部」として受け止められる。停滞や迷いすらも、──《生成の揺らぎの相》だと理解できる。自分や他者と対象を、固定された像として裁くのではなく、《未完成の存在》として受け入れられる。つまり「生成を知っている」人は、日々の経験を、“終わり”ではなく“始まりの連続”として生きられる。これが、「知らないまま生きる」のとは根本的に異なる点である。例えばの”森”で言えば──「生成を知らない」人は、木を「今の形」でしか見ない。「生成を知っている」人は、木の姿の中に「これからの枝葉の可能性」や「地下で伸びる見えない根」を感じ取れる。この視点は、安心感と創造性の両方をもたらす。だからこそ「不断の”生成”の意義」は、単に哲学的な概念ではなく、──《生きる=実る》基盤そのものといえるのだと思われる。
強い比喩的意味と生成的運気的象徴性を帯びる占像は、《占想と思想の跳躍の連鎖》──空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『観氣(かんけ)』と呼応し、「占像と思想が共鳴して生起する場=潜在的共鳴核の”共振の場”*」を形成。深く共鳴する占像により、”占想と思想の交差点”がいっそう鮮明になり、『観氣(かんけ)』という生成し運気づく「占想思考体」が、占像の跳躍軸を得て「生成と運気の”余白”」と共に呼吸し始める。生成と運気の“前兆”としての『観氣(かんけ)』──”響き”による「生成と運気」の兆し。感覚の深層からの「生成と運気の”招待図”」への最初の応答。『占』と響き、共振、深層知性の覚醒。占想と占態の純化、内的必然性。見えるものの背後にある「響き・共振」に通じる内的必然性/占言葉と響き/線と点の霊性といった感受の深層に潜り、これから新たな次元として捉えていく『観氣(かんけ)』における《生成と運気へ向かう”分岐線”》、「共振」「響き合う知性」「潜在力の振動」の主題に到達するもの。
『息』──《氣、勢い、気配、調子》など、目に見えないエネルギーの呼吸をイメージするこの出だし──『第一息』における“最初の共鳴”の起点として、きわめて本質的。知覚経験から象徴を通り越して「生成と運気」へ至るための《最初の変調点(modulation point)》。「内的必然性(innere Notwendigkeit)」「色彩の響き」「形態の霊性」は、まさに──「思考以前の生成と運気の”徴”」と重なる感受の深層に直接的に触れるための“媒体”としての占いのそれは、単なる占い記述ではなく、“先触れ”としての兆し。「生成と運気の”招待図に最初に応答する”」とは、極めて優れた「占の比喩」であると思われる。『観氣(かんけ)』という「生成と運気の”触地”」において、「感覚(知覚)」が「思考」へと“先触れる”場においての占方(占形)は象徴の発案者ではなく──「生成と運気」の媒介者。占方(占形)の登場=生成的知性の“共振の場”の開示。「生成と運気」の”新たな次元”。まさに──〈わたし〉というものに触れる「生成と運気の”触知”」──思想的基盤と偶発的跳躍である。
「占想思考される前のカタチ」──「生成と運気」の初動に宿るもの。ここでの潜在的共鳴核は、いわば「まだ思考されていない、けれどすでに動いてしまったもの」。それは、占い記述の最初の言葉かもしれず、『線』かもしれない、占いに出会った瞬間の《手》の迷い、「偶発的」な”ズレ”や”崩れ”から立ち現れる輪郭、あるいは言葉にならぬ──フィードバック現象かもしれない。──『線』を引き流した。けれど、「描こう」と思ったわけではない。ただ、そこに「線が”起こった”」。そして、〈わたし〉というものは、その「線」を見て、自分が「何かを始めていた」ことに──気づいた。逸脱としての最初の”線”──描かれてしまったものは、どこから来たのか? 素材の「占い語り」への耳を澄ますその《手》が止まった瞬間に素材の「占い語り」が言ったこと。フィードバック現象と「遅れてやってくる思考」。出すことで、かえって見えてくる「考え」。占い記述の中で立ち上がる「生成と運気の”出来事”」。どう言えば、出来事が「生成し運気づいている」ことを記述できるのか? メタ記述:記述そのものの解体と再組織──記述という行為自体を生成の一部と見做す試み。
思考が深みに達すると、〈占い見る=占ってみる〉というその『手』=”経験のやり方(知覚経験)は、ふいに──「思考」よりも先に──立ち上がってしまう。 思想から出来事への跳躍──培った思想の厚みが沈み切ったその底で、「手」がふいに先へ動き出し──まだ何も”描こう”としていない。けれど──『線』はすでに頭の中に在った。それは意志や計画ではなく、「思考の奥」で──膨らみ続けた”圧”が、触れた占い記述を、押し返すようにして生まれたものだった。《占いを”描く”》行為は、《占いを観る》行為は、私のものではなく、微かな呼吸のように──世界の方から送り込まれてくる。そして〈わたし〉というものは、頭の中に在る『線』を見て初めて、何かが始まってしまったことを知る。思想がカタチになるのではなく、カタチが思想を呼び寄せる──その「”反転”の出来事」のただ中に。それはまさに──《反転》だった。《占い”描く”》と《占い観る》その行為は、「占方(占形)」による行為そのもの。がしかし──〈占い見る=占ってみる〉というその『手』=手筈は、占いに触れた瞬間に押し返すかように《反転》し、《占い”描く”》と《占い観る》その行為は、まさに──〈わたし〉というものの行為そのものとなった。頭の中に起点が打たれた『線』の始りとは、まさに──『種線 ”seed line”』そのものだったのだ。
内面の思想的に掘り下げから──突如として「出来事が外へ出てしまう」跳躍。思いがけない跳躍=その場から外に飛び出す「生成と運気(実践)」。生成と運気の実地と出来事──「知覚」と「現象」。まだ、「思考」されていないが──もう、動いてしまったもの? 〈占い見る=占ってみる〉というその『手』=手筈で「”未知”を描こう」とする思考前に、描き始めていた──「実際的現象」?「思想」の厚みは、出来事の生地に染み込ませる”初動の橋”。「思考」は、なおも内に留まり、沈殿を続けている──けれど、その沈黙の底で、『手』がふいに、先へと勝手に動き出す。まだ何も描こうとしていないにもかかわらず、『線』は既に頭の中にある。それは、意志や計画の産物ではなく、内奥にたまり続けた”圧”が、起点となって──『種線 ”seed line”』を押し返すようにして立ち上がらせたものだ。《占い”描く”》と《占い観る》その行為は、〈わたし〉というものの所有物ではなく、むしろ、世界の側から押し寄せる呼吸=『息』のように《わたし》というものへに差し向けられる。その『線』を見て、〈わたし〉というものは初めて気づく──何かが、もう始まってしまった─ということに。「思想がカタチ」を生むのではなく、「カタチが思想」を呼び寄せ、その反転の出来事のただ中に、《わたし》というものは今──立っている。そこから、触知が始まる──白い余白は、空白ではなく、《風》が、微かに触れてくる《光》の密度が呼吸を、『息』を緩やかにに押し返す。触れることによって、「知覚」される──この世界は、「思考を超え」て、既に〈わたし〉というものを『自ら占い』──「”描きはじめ観始め”ている」のだ。
《わたし》というものは先ず、その与えられた経験の仕方を、受け取って、そこに自らの経験を重ね、揺さぶり、響かせて、やがて描くとき《わたし》というものは、未来の何か──未だ出会わぬ「”動き持続する”生成と運気」=”未到の縁起”そのものを、”予期”しながら──伸びる『種線 ”seed line”』の起点を無限遠点に置き続けてゆく。”占いを描く”後にも先にもない──緊張と成り行き。何も描かれていない「占い白」は、「”占い描かれた”余白(残された余白)」よりも重く、あたかも、待ち構えているように──のし掛かり、見抜かれているような、そんな気さえするが、描くことを拒絶されているような──。この先も『手』=手筈でしか──占いに触れられることはなく、占い描いた描線の『種線 ”seed line”』を──押さえ、擦り、叩き、触れる。「未決定の”占い白”」との緊張は、やがて──逆に負けじとばかりに〈わたし〉というものを”発火”させ、「生成と運気」の間(あわい)の柔らかさにある──占想のコンテ(conté)」を軽く支える”手(手筈)”は──導火線となる「生成と運気の”アタリ線”」を勝手に流す。勝手に、荒くて速い”往還運動(螺旋運導)”をしながら──その差異と”反復に『種線 ”seed line”」の「線を膨らませ」ては「線を切り」、”線の濃さ”を一定にして抑えた「手(手筈)の”コンテ”」は、次第に──「”描く占い”のコンテ」を描写させ、「未決定の”占い白”」に──「突飛な”図無し”」を催すことになる。
『息』の意図に緊張の「本息(=本番)」は、「”思わぬ”偶然」にして──”ひっよんな”「線形」を『種線 ”seed line”」に生み出し、退屈・窮屈さと余計なものを排除して──「手(手筈)の”コンテ”」と差異に、”思いもよらない、思いがけない”、予想も予期もしていない「生成と運気の”運生”」をマッス(mass)する。〈余白〉は──待っている。この生成的運気的過程にあるのは、「生成と運気に向かって、空白を明け渡すこと」「開くという出来事」「意味の予兆に沈黙する」「生成と運気のための“解放態”」「空所としての〈わたし〉というもの」「生成と運気が訪れる場所を、自己に設ける」「呼びかけに応答する、感性の余白」。《占いの滴(しずく)》が溢れこ落ちるのを──”種線の呼吸=『息』”が逸れるのを。偶然は──ふと現れる。それは、計らずして”触れた占い”──「”予期せぬ”生成と運気」の交わり。二つは──ゆっくりと重なり、《”運生”のカタチの中心》が「同心円」としてそっと移り変わる。そこに、「新しい”重心”」が──静かに生まれる。この生成的運気的過程にあるのは、「生成と運気に向かって、空白を明け渡すこと」「開くという出来事」「意味の予兆に沈黙する」「生成と運気のための“解放態”」「空所としての〈わたし〉というもの」「生成と運気が訪れる場所を、自己に設ける」──呼びかけに応答する『感性の余白』。
未成のかたち(forme inachevée)、予期せぬ構え(unintended posture)、生成と運気の瞬間像(image of emergence)、遅れて届く意味(delayed cognition)、占い素材の反語性(resistance as speech)、占い記述という共振(resonant description)、手=筈と思考の捩れ眼のねじれ(twist of hand and gaze)。『占い”見えること”』は既に世界との関係の「生成と運気」。占いは「観るために描かれる」のではなく、「描かれることで観え始る」。「身体は世界に向かって投げ出された意味」であり、起点を置く『種線 ”seed line”」を引く身体の運動(運導)が既に思考の布置となる。世界は「与えられた物体」ではなく、「動きながら持続し形成されるライン(line)の束」。占いとは、物事を予期模写することではなく、感覚と思考が共に“歩く”ことそのもの。占いの”カタチ”は結果ではなく、「生成と運気の”軌跡”」。
“わたし”というものの時間。その時? ある瞬間?『占』の「未完」と「完結」は、幅広く奥深い”境域”に在り、深淵(abyss)に触れられる──”内面”の意識と意図の「緊張」は、界隈一帯に縁取る境目(edge)を溶かす。〈占いみ見る(占ってみる)〉自らの「手=手筈」を”占いに聞き”、実感し、《占いを”描く”》ことによって得られた──法悦(ほうえつ)のエクスタシー(ecstasy)は、ポジティブなエネルギーの過剰さを表印し、──憑依(Besessenheit)する。何かを純粋に見ようとするなら、身体的・肉体的から離れて、──”外に立ち”、立ち尽くす。脱魂なく、『占』そのものによって、”自己”そのものを見なければならない。滂沱(ぼうだ)の如く──勢いよく降り頻る(しき・る)感慨無量は、『描き切った占い』に触れられるの同時に、描く必要があると感じた──『次なる占い』を誘う。また、その時? また、ある瞬間?
“わたし”というものの問い。〈占いみ見る(占ってみる)〉──しかもそこで、占方(占形)が占い描き占い観た占い記述のそれを、さらに占い描き占い観た〈わたし〉というものは──何故それを自らが占い描き占い観なければいけなかったのか? 自分の中の美意識の扉が突然開き、そこへの関心と興味が、一気に噴き出してくる。内面が磨かれているという実感を、得ることはできないのかもしれないないが、いずれにしても──『占』の中で自分を眺めていても、そういう”解”は得ることができない。心によって何かを見極めようとするが、心に裏切られることが多いその心は、永遠を反映させる上で、なんとも心許ない存在なのか? そのことに強く自覚的である。心の強さに誤魔化されずに、何かを表現する? そして──「手筈の《手》」というのは、身体的・肉体的のなかで、何とも呪術的な部位なんだろうか?〈わたし〉というも自らが占いを”描く”必要があると感じる部分──囚われて揺れ動く〈わたし〉というものが自分と世界が、心に作用してしまうという無自覚に自ら占い描くことは? 純粋に生き切る、その純粋によって占いを描き切り、自分と生き様のアリバイ(alibi)を表現化する?「内的生命」と「内的必然性」のある──『占』そのものを主張する? 内面世界と外的世界の関係を、より明確で精錬された形態で知覚化し思考できるのか? 内面は常に流動的、そう固定されたものではない。
変化は、内面では何時もあったのであり、自分を突き放し、自分を否定し──内部の臨界点に達し、「線」を選び出し、自ずと──「縁(ふち)が縁(えん)として」が浮かび上がり、そのものを通して何かを示す? 何かに触発され? 感性を刺激しているのだろうか? 感覚を呼び起こしているのだろうか? 感動の共振──醸し出すその「手筈の《手》」を伸ばせば触れられそうな気配。自分の内的な現実に触れられる? 内なる自己から生まれた自分で自分を占う表現──覚醒のためのもの? 『占』は「意識のメタファー」として、 〈わたし〉というものの思考に先立つとして、点が浮き、線が動き、生成が溶け、運気が変わり「~”し出す”時」=”緊張”──直面するのは、空虚ではなく意識の充足感なのか? 観念に基づいた『種線 ”seed line”」=内面の響き、宿しているもの──共振・共観に〈わたし〉というものの自分自身を見出すための思考に先立つもの──「思想的」に掘り下げた”潜行”、「思想的基盤」=着地のための”場”(準備)、「生成と運気」の”触発”と”気配”、「内的生命」と「内的必然性」、「内面と外面」の交錯、「触知」の感覚、「内的圧」が外へ噴き出す瞬間の導火線。
存在神秘・内的存在における──存在理由(raison d’être:レゾンデートル)、内面の調和と統合を通じて深めてゆく──統合(integration:インテグレーション)。自分の思考する時、内面の異なる側面が調和し、占いを生み出すことによって──思考は遅れてやってくるのであり、自己と世界の認識が深まり、内面世界を、さらに築き上げてゆくことができる。私たちは、生まれ落ちたときから、既に形作られた文化的世界のただ中にいる。──その世界は、無数の先人たちの営みによって編まれた──様式・技法・題材・物語を含み、に生きており、それらは私たちが、〈占いを”見る”(占ってみいる)〉やり方に深く染み込んでいるそこから《占いを“見る”(占ってみる)》方法を受け取り、そこに自らの経験を重ね、揺さぶり、響かせて、そして、自分で自分を占うときには、未来の自分が、それをどう見るかという──“予期”を抱えながら占う。こうして占いは既知と未知の間(あわい)に架けられた「生成と運気の”橋”」として成立する。
『日光占術|観氣(かんけ)32相〓占』
──キーワード(ヒント):
◾️Cognigenesis :
日光占術|観氣(かんけ)step.1 ~ 32
◾️Essay:
日光占術|観氣(かんけ)vol.1 ~ 32
actual-virtuel
Cognigenesis
THRESHOLD OF GENESIS
GK.kenzie
日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..
── 生成の縁起=運気の縁起 ──
『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。
….. 人の”生きてゆく”ことは──”実っていく”こと。人間としての《実り》=『”生成”に”運生”』──「生成の縁起=運気の縁起」の結び目において《運生》とは、”月星と共に”「動き持続する生成と運気」の《勢的──”実り”(みのり)》を結び重ね続けいくこと。”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になる。…..
「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。 過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに《潜勢的》。 ”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。 自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。
感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。
心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。
類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。つまり──守株的に対する「新しい秩序」の提示が必要であり、”運生”に新たな価値観を見出すことです。「新しい秩序」とは、「現実を片づける」ことであり、不要不可の判断や整理などを意味するものではなく、従来の価値観と全く異なるものを提示することです。すなわち──観者となる相談者にとっての発達進化・発展拡張の持続を視座とした『”生成”に”運生”』の獲得に向かう価値創造への”挑戦の進化”であり、つまり──「生成と運気」という「”実現可能力性” への潜在力=”《潜勢的》すすめ”」です。
「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。
日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。
これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。 ”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)
「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。
『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想(占い記述)」から結果的に「占態(望みの実現)」へと還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は、”占想”を片手に”占針”を歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。
”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり”占想”に伴う”占針”に付随する指標ともなる「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”に止めることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。
「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。
「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、自分の”生きる風景”の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から「感性(受容と能力)によって悟る」ことができる。すなわち──人の「”実り生きる”母胎」の”種子”である縁(えん)にあるのは、”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ人間としての《実り》=『”生成”に”運生”』。
『観氣(かんけ)』の具体場に、波打つ”生まれる前の核心”──《蒔種》。”当たり外れ”の知的好奇心を喚起させられる──”潜在的”な「占想」の思考と「占態(望みの実現)」の創造への強烈な刺激。占想から占態(望みの実現)を生み出し獲得するに到る──パラダイムシフト。
顕在化する可能力性として《潜勢的》は、始動的・終息的存在として、潜在的な「地勢・地力=力能」の発現を可能にさせる可感的で可知的であり、自らが持つ固有の本質の発現を可能態から現実態へ移行することであり、「生成」と「運気」が別々でなく、ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象──運気が生成を照らし、生成が運気を溶かし、双方が相互に動き生成し続ける──”根源活性”により『運生』は、守株的な月相・星相の覆いを脱ぎ去った『観気(かんけ)』の新生”月星と共に”、《種線(seed-line)》の「生成と運気」に──『移行転化』することです。
そして『観氣(かんけ)』の具体場に、跳躍する拍動の”前触れ”──《予祝》。”当たり外れ”の間違いを受け入れる強さは知の覚悟として──パラダイムの扉を叩く手は「問い」を手放さない。顕在化する可能力性として《潜勢的』=潜在的な「地勢・地力=力能」は、”心”に受入れられ沈黙し無力な存在ではなく顕勢において雄弁な性質を具しており、通常の”問い”に対する”生起の問い直し”は、触発・中止・方向転換の目的追求ではなく、埋め手 / 打つ手による”消滅の在り方”から離れ移行することであり、「生成」と「運気」が別々でなく、ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象──運気が生成を照らし、生成が運気を溶かし、双方が相互に動き生成し続ける──”根源活性”により『運生』は、守株的な月相・星相の覆いを脱ぎ去った『観気(かんけ)』の新生”月星と共に”、《種線(seed-line)》の「生成と運気」に──『移行転化』することです。
…..〈あなた〉の「生成の縁起=運気の縁起」の結び目=「”運生”における結実」へと向かい、観者となる相談者の〈あなた〉と”共観”を伴う一緒の私たちは、『観氣(かんけ)』に必ずや──「”実現可能力性”への潜在力」=『”潜勢的”すすめ』である「生成と運気」において《移行転化》する新生の”月星と共に”『種線(seed-line)』を見出し、「創造=”動き持続する”生成と運気」の”運生”に《勢的──”実り(みのり)”》を結び重ね続けてみせます。…..

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。
この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。
”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。
”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、
その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。
しかし、確実にそこへ向かう線である。
光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──
”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。
〈あなた〉の”差異の欠片”を──
どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..
思創考造 Cognigenesis 日光占術|観氣(かんけ)
観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)
観氣堂 Office Kanke
主宰:小林 芳鳳 Yoshitaka Kobayashi
add. 栃木県日光市 日光山内 Sannai, Nikko, Tochigi Japan
tel. 080-1998-6082
《ご案内》
日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
◯ 観氣料
1ヶ月 ¥20,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月2回
◯ 月星占術料
1回 ¥10,000.〜
※ 随時:プロセス進行
◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ 提案:プログラム設定
◯ 大観氣料
1回 ¥30,000.〜
※ 相談:月星次の観氣適応
ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー
《お知らせ》
◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:無料
◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー
《お問い合わせ/ご相談》
思創考造 Cognigenesis 日光占術|観氣(かんけ)
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