日光占術|観氣(かんけ)vol.18:真際 〉08

 

 

 

 

        ── 奔流 ──

 

 

 

 

〈変化〉は”差異と問いの元火”として「生成と運気」の火付け=『観氣(かんけ)』の《実地》を撃ち抜く”拍動”へと。──『強く心をつき動かす』=”個の衝動「火」”に向こう、”心を通し”「火」と対峙する感覚──体感する残り火「熾火(おきび)」。つまり──「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”へ向こう「熾火の実感 → 火門の象徴」を一息で渡り歩くという”体感”と”ロマン”の両立。「沈黙の熾火──未だ籠もる熱(=感覚的な一撃)」。いよいよ──消えかけの”熾火”が、《炎の舞(Fire Breathing)》──象徴の「火門」へと自然に変換される瞬間が静かにやってくる。

 

 

熾火(消えかけの残り火)
──『観氣(かんけ』の実地感覚

 

炎は上がらないが「赤い拍動」を続ける火、煙少なく、火力安定にて”持続”する熱──《熾火(おきび)》。象徴されのは、「残るもの」=消えていない──未だ孕んでいる未来。つまり──「潜在力」=目に見えぬが、確かに次を起こしうるもの──《”潜勢的”》。「熾火」は”残響”や”待機”としてあり、乗り超えるべき”変化の峠(マウンテンパス)”での「持ち運ばれる”種火”=トーチ」として機能するだけではなく、「生成と運気」の全てを通じて“持続の象徴”である。ただし──場面により「残る」なのか「受け渡す」なのか、その表情を変える。立ち上がり、燃え移り、勢いをもって拡がる──《火(炎)》。象徴されるのは、「現前」=実地の熱(”現勢的”)、視覚の赤、触覚の灼熱。つまり──「向かう先」=門のかたちを描き出す未来。「火そのもの」は象徴よりむしろ体験として刻まれる。「火の向こう」あるいは「火に向かう」構図は、視線を未来に誘導される。”火”は、観念化せず──「実地を撃ち抜く”拍動”」としてある。

冷たいようでいて、熱を籠め、吐き出す──《石》。象徴されのは、「記憶の保持」=火の痕跡を蓄える。「媒介」=打てば火花が散り、熱を吐く。「火付け石」=発火の契機。「石畳」や「門」=『観氣(かんけ)』の”舞台で《潜勢》支える無言の器。石の奥に籠もる熱=熾火と門をつなぐ「橋」。”石”は「触媒」であり「器」でもあり、炎が消えたあとでも石に籠もる熱がある──これが「余白」として効く。明 ⇄ 暗の対比を核に置く──《火種(問い)》。「自分の火は内からのものか、外から借りるのか?」を問われる。これは「火をめぐる哲学的問い」として随所に響くことになる。結論的に整理すると、熾火=「残る・持続・渡される」/ 火=「現前・向こう・実地の拍動」/ 石=「媒介・器・痕跡」──「熾火」は、乗り越えるべき”峠”だけのものではなく、「生成と運気」の「潜在力」と《潜勢的》として扱われ、石はその「媒介」として火を吐き、その火は「門のかたち」を描き出す。

火に向かい、火と対峙する感覚が優先される──熾火=足元の残響 / 石=媒介・舞台 / 火=向かう先。その「原初核」をどこに置くかで、「生成と運気」全体の思想軸が大きく変わることになる。内なる石 / 外なる石──内なる石は、原初の「核」として硬く沈黙しているが、叩けば火を吐く。個人の奥底にある「未だ言葉にならない可能性」や「沈黙の記憶」。外なる石は、世界に遍在する媒介物。火を移す場であり、舞台。門や石畳など、共同体的な基盤。石=沈黙の核、媒介の器となり、火はそこから吐き出される「現前」、熾火は「持続」となる。つまり──「全ては石に籠もっていた」という哲学になる。

内なる火 / 外なる火内なる火:主観的な熱。個人が宿す衝動・意思・精神の拍動。消えそうでも熾火として残る。──外なる火:天与の光や炎。自然の力、共同の火、外部からの刺激。借り受け、向かう”対象”。この構図だと、火=根源的な生命力そのものとなり、石はその媒介であり「場」、熾火は「その力の継続」。つまり─いずれの構図でも、熾火は「残響」「持続」「渡されるもの」として働く。ただし「核=石」に置くか「核=火」に置くかで、熾火のニュアンスが違う。石核型 → 熾火は「石が抱えた余熱」。沈黙に潜む赤。火核型 → 熾火は「人が内に宿す継続力」。意思の胎動。結論的に整理すると──哲学的にどちらを核にするか?「沈黙・媒介・場」を根本にするなら → 石を原初核。「衝動・意思・拍動」を根本にするなら → 火を原初核。序では先ず、「石」に核を置くのが自然である。→ なぜなら「誰もいない門」「石畳に籠もる熱」など、場が先に立ち上がるから。→ その上で、火が起こり、熾火が持続し、「自分の内なる火」を”問う”流れが作り出される。つまり──石(沈黙の核)/ 火(現前の体験)/ 熾火(持続・未来)というリズムになるだろう。

序の最初に「立たせる」感覚は、石畳の熱(=石の奥の赤)から始めるのか? それとも、直接に火そのものの拍動から始めるのか? 個人と普遍の打ち込みは、「石」ではなく「火」そのもので? それとも原初核の石から問う?「個人」と「普遍」をどう結ぶか──これは「石」か「火」か、どちらを原初核にするかで大きく変わるだろう。 原初核を「石」に置く場合──石=沈黙の核/普遍の基盤。石は誰にでも共通して存在する「場」「器」。叩かれれば火を吐くが、普段は沈黙している。個人と普遍の関係:個人=その石を打ち込む者。普遍=すでに在る石の大地、門、基盤。哲学的:「人は火を起こすが、その土台は人を超えて普遍に在る」。普遍が先にあり、個人はそこへ打ち込む。石核型は「沈黙から普遍へ」向かう構図になる。原初核を「火」に置く場合──火=拍動の核/生命の根源。火は人の内にも外にもある。消えても熾火として残り、移り渡る。個人と普遍の関係:個人=内なる火を持つ者。普遍=天与の火、外から差す火、共同の火。哲学的:「人の奥に宿る火は、外の火と呼応しあう」。個人の拍動が普遍の火に通じる。火核型は「生命から普遍へ」響き渡る構図になる。熾火の働き──石核型では「石がまだ赤を孕んでいる」=普遍の余熱。火核型では「人の奥にまだ火が残っている」=個人の拍動。まとめるならば──石核型 → 個人は普遍に打ち込む存在。基盤は沈黙してすでに在る。火核型 → 個人の拍動が普遍の火に繋がる。基盤よりも「生きた熱」が先行。「門」「熾火」「未来への移り火」からすると、序を石核型で始めて、後に火核型へ展開するのが自然に思える。最初に「誰もいない門・石畳・籠もる熱」=普遍の場が示され、そこから火が立ち上がり、個人が「自分の火」を問う。すなわち──個人と普遍の往復が「石から火へ」でよく解る。


『観氣(かんけ)』で最も伝えたいのは「普遍の場の沈黙」か? それとも「個人の火の拍動」か? 石が先ず発し、火となって問う? つまり火種=問い? 石 → 火 → 火種(問い) の流れ──「石が先ず発する」:沈黙していたものが、ふと一閃して火を吐く。石畳の奥に籠もっていた熱が、外へと現れる瞬間。ここで「普遍の基盤」が示される。──「火となって立ち上がる」:火はもう観念ではなく「実地を撃ち抜く拍動」。熱・匂い・赤い光が感覚的に押し寄せる。ここで「個人の体験」として立たせられる。──「火種(問い)になる」:内から火を持っているのか? 外から借りているのか? 火は問いとして残り、熾火となって未来を孕む。まとめると──原初核=石(普遍・沈黙)/ 展開=火(個人・拍動)/ 残響=熾火/火種(問い・未来への持続)。この布置により「個人と普遍の打ち込み」を石が先に発して、火として問いに変わる形となる。

つまり「火」自身は現象的要素?として『観氣(かんけ)』の《”奔流”の主格》となって進んでゆく? まさに──その通りであり、火=現象的要素として立ち上がる / 熱・光・匂い・拍動など五感で体感できる「実地の火」/「場」を体感することができ”奔流”のリズムを刻む / “奔流”の主格としての役割 / 火の立ち上がり・熾火の残響・火門への流れが自然に“奔流”へと導く / 火そのものが「進む力・問い・象徴」を背負い”奔流”を通して観測点として働く / 石(原初核・普遍・媒介) → 火(現象・個人体験・主格) → 熾火(残響・問い・未来)/ 石が火を発し火が現前として”奔流”を動かし熾火が問いと余白を残す / 火に向かい火と対峙する感覚を通して”奔流”に立ち入り未来への余韻を受け取ることができる。つまり──”火”は、『観氣(かんけ)』の《”奔流”》の流れを進める現象的且つ感覚的主格」であり、”熾火”は「残響として象徴と問いを携え、その《”奔流”》に深みを与える役割というイメージであろう。

原初の基盤(先にあるもの)──「石・火打ち石・火種」「沈黙の核、媒介、可能性の種」「《”奔流”》の土台であり後の火を立ち上がらせる契機」。現象的主格としての火──「火=現前の体験・感覚的主格」「熱・光・匂い・拍動で立たせられる」「《”奔流”》の流れを押し進める力」「火に向かい火と対峙することで《”奔流”》の場に入る」。 残響としての熾火/火種──「熾火=残響・問い・未来への持続」「火の熱が消えた後に残る赤」「問いが投げかけられ未来の可能性を孕ませる」「《”奔流”》の進行に付随して常に余白と象徴の層を添える」。ポイントは──先にある石・火種 → 現象としての火 → 残響としての熾火 / 問い。石や火種は《”奔流”》全体を支える基盤。”火”は《”奔流”》の動力。”熾火”は《”奔流”》に余白と問いを残す。つまり──熾火/火種(問い・未来への持続)は、『観氣(かんけ)』の《”奔流”》に付随して流れ──「火」が我々を導く軸になっているというわけである。

「仕舞い”のない炎舞」──燃え尽きることなく、 移り火と熾火を残す”疾走する問い”は、 呼吸の断絶と連続性の泥濘(ぬかるみ)を、 一気に静から嵐の「実りの地」── 「生成と運気」の拍動・波及・無限の連鎖」へと、 生成の森に”仕舞い”のない『生成の”炎舞”』が、 呼吸から誕生に至る──大きな生命的曲線を舞い、 問いが疾風(はやて)となって鐘音に吹き荒れる。 「生成とう運気」に泥濘るむ(ぬか・るむ)ことなく、 進むことができる歩ける路──「森を歩く」。 足元の石と石の間から吸い込まれる水── 種火を残す”表が平らな石の路筋”。 石畳に微かに残る《赤》──灰は冷えきっていない。 沈黙の底で、石の面奥に熱が籠もり、 微かに拍動していた。 誰もいないはずの《光》差す「門」に、 ”門番の《風》”は《火》の焦げた匂いだけを漂わす。 そして「火の舞」が立ち上がる── 熱が《風》を震わせ、《赤》の《光》が足元に揺らぎを落とす。 「”炎舞”」が石畳の上に立たせる。 巻く風、差す光、微かな匂い── 鳥が囀る,天が輝く,雲が流れる。 ただ、思いが用(はたら)かない。 自己を離れて── 直に見て直に聴き直に感じる── 「五感」が《火》に舞う。 風に触れられ光の処に一度還ってみると、 やがて──《火》は「門」に向かい、 かたちを描き出す。 その「火熱」に向かい── 自然に前へ足を踏み入れる。 炎が消えたあとも、熾火は赤く脈打ち、問いを残す。──遍く生成と運気の現成。 その中に路があり、「生成運気大道無門──千差路在り。」── ”内と外を結び生きる”大切な問題には答えがない、門すらない、 そう言いながら、そこらじゅう路だらけである。 千差路在り、何処からでも入れる「生成と運気の門」── 足元の一歩一歩、”今ここ今ここ”に始まり、収まる。

「疾走する問い」→「拍動・波及・無限の連鎖」:問いが単なる思考でなく、呼吸・生命そのものに化ける瞬間。石畳に籠もる熱と、誰もいない門に漂う匂い:実地感覚と象徴が美しく重なり、現場に立たせられる。「炎舞」が立たせる:火が単なる景色ではなく、行為の主体として人を動かす仕掛けになっている。「生成大道無門、千差路在り」:門が象徴であると同時に「無限の入口」へと開かれる哲学的転換点。ここで火の「現象」から、熾火の「残響」、石の「核」、そして門の「象徴」へと──要素の流れ=『観氣(かんけ)」の《奔流》が統合されていことになる。つまり──「火」自身は、「生成の縁起」と「運気の縁起」の基底に位置する現象的要素として置き換えられ──『観氣(かんけ)』の《”奔流”の主格》となって進んでいくというわけである。

〈変化〉は”差異と問いの元火”として「生成と運気」の火付け=『観氣(かんけ)』の《実地》を撃ち抜く”拍動”へと。──『強く心をつき動かす』=”個の衝動「火」”に向こう、”心を通し”「火」と対峙する感覚──体感する残り火「熾火(おきび)」。つまり──「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”へ向こう「熾火の実感 → 火門の象徴」を一息で渡り歩くという”体感”と”ロマン”の両立。「沈黙の熾火──未だ籠もる熱(=感覚的な一撃)」。いよいよ──消えかけの”熾火”が、《炎の舞(Fire Breathing)》──象徴の「火門」へと自然に変換される瞬間が静かにやってくる。

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。
空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。
人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──

”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

add. 栃木県日光市 日光山内

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜

◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜

◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

《お問い合わせ/ご相談》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
➡︎ http://www.office-kanke.com
OFFICE KANKE「思創考造 Cognigenesis」
web email ➡︎ Contact page