Fire Breathing 74-5 actual-virtuel

 

 
Essay seventy-four  1~8  9~16  17~24
Cognigenesis  Fire Breathing  

continued in the next seventy five / essay number
〜 ”生成の旅路” 〜 COGNIGENESIS JOURNEY  

 

 

 

 

    生活=becoming × environment

 

 

 

 

生活──生成具体場

 

「思考と創造」における”生成の実地の瞬間”。「世界-内-存在(in-der-Welt-sein)」としての生活──「becoming × environment」の”共生成場”。「生成 × 実地」──生活=生成の場としての「倫理性」や「共生性」とは、「生きるとは共に生成すること」。生成の中動態性における“意志”の役割は、「能動でも受動でもない」「気づきからの動き」。


生成における「教育」や「実践」の構想は、「触地的経験をいかに継続的学びに変えるか」。「生活」という最も身近な“生成の現場”を──「変容する主体(becoming)」と「応答する空間(environment)」の”共鳴場”として実地的に捉え直すことを明確なテーマとすることである。特に「風景ではなくスケープ」「触れる環境」「光と音の媒質」など、イメージと思考が融合した”身体的経験の濃度”=“生活知”の哲学化を図ってみよう。

”生成思想”を「詩・論・哲・環境・身体・知性・空間時間」など多領域的に統合する節理構造として、”思想と創造”の実地的中心軸のひとつにする。これまで”思考・創造的跳躍”を構築し「実地の回路」としての生成サイクルを描出、そして今、その「生活」における《具体生成場》としての〈環境〉と〈身体〉の結節点を拓いていくことになる。

「生活の”becoming”」──生活=通過点の連鎖。生成の拍動の「呼吸・歩行・沈黙・観察」という生活内の微細な生成力として、逸脱の契機──日常の中にひそむ非日常(跳躍点)であり、自己という出来事の生活を受ける主体ではなく、生活を生成する主体としての「われ」。

「環境”environment”の共生成」──触地=出会いの地層。触覚的環境論の「視るのではなく「触れる・接する」環境として、環境=応答する空間:変化する私に応答して形を変える「場」であり、風景ではなくスケープであり。Staticな風景ではなく、共に生成される「共在の出来事=scape」。生活とは、変わりゆくもの(becoming)に触れながら、世界と共に変わることである。


生活とは、環境(environment)を単なる背景ではなく、「共に生成される触地」として生 きることである。
生活とは、〈わたし〉という内部でも、外部でもなく、「〈わたし〉と世界の間」で編まれつづけるリズムである。

 

 
 

生成の思考・創造──「生成観」

 

「思考と創造」の思考体が、その自己変容に踏み出す臨界点=自己跳躍の場。
「生成の兆し」や「問いの息づき」=「跳躍」「媒介性」「生成の呼吸」。「生成の共観性」=「問いの呼吸」「媒介的場」身体の知」。
「生成=生活」が、単なる習慣ではなく「問いの拍動」「媒介場の呼吸」として立ち現れる。
「われ」=生活を創る主体であるという視座の転換。
「媒質(光・音・風)」と交錯する身体、視るのではなく“包まれる”、聴くのではなく、“触れる”──ここに「知覚=生成的感性」が開かれている。
「認識と感性」「思考と創造」「内と外」を媒介する生成的スケープ(scape)への跳躍。

 

 


生成の往還──「生成的布置」

 

「知覚」の生成的転位=生きた視る運動=見るという出来事。
「視」の配置=視座──ライフ空間。
「星」の配置=星座──ノマド空間。「知覚の場=見ることの出来事性」「視ることが構成するライフ空間」。
「星座」と「視座」。スケープを編む構図としての〈視る〉。「知覚が生成を布置する」という、視る=構成する=動的な創造行為への転換。

 

 


生成の触地──「””Environment”の共生成」

 

「触地」するということ
「行為の線」──歩行・描線・語線としての実地
「共創する場」へ──地と跳躍と生成の未来へ
「触地=歩行」、描線、語線──身体の線が空間に結び目を編む。「環境」は背景ではなく、「共に編まれる地層」であり、主体も環境に触れられながら変容する。「跳躍と地の連環」=スケープの誕生条件。

 

 

生成の律動──「”becoming”としての生活」

 

「生成のリズムにおける生活の動態性」──生成とは誰にとって何のために?「環境」光と音の間で生きる ──存在としての我々。
「形成(枠組み)」のなかにある──世界(world-in-formation)の生成的な流れ。
「光と音」「視と聴」「像と場」──視ることそのもの。
「生活」とは「生成のリズム」そのもの。
「光と音」のなかにある私たちの存在=媒質的環境の中で触れ合いながら形成される。
「world-in-formation」としての世界──私たちは既に生成世界のうちにある。

 

 

存在の広がり──「生成的”場”としての環境」

 

「触地の場としての環境」──外部ではなく生成する身体=時間・空間とは?
「生成実地」の風景と景観──『ランドスケープ (Landscape)』。
実地具体化」の生成世界を構成する諸要素:感受と能動の間(あわい)に生じるもの
。「実地具現化」の生成構造の諸要素。これから身体の知に”生まれる”もの。
「ランドスケープ=実地の生成空間」。「感受と能動の間」=生成的な裂け目の中で私たちは何かを生む。「環境」とは、実は「生成する私たち」そのものである。

 

 

生成の思考・創造──「生成観」」

 
 
生成=生活が、単なる習慣ではなく「問いの拍動」「媒介場の呼吸」として立ち現れる。
「われ」=生活を創る主体であるという──”視座”の転換。媒質(光・音・風)と交錯する身体、視るのではなく“包まれる”、聴くのではなく“触 れる”──ここに「知覚=生成的感性」が開かれている。
認識と感性、思考と創造、内と外を媒介する「生成的スケープ(scape)」への”跳躍”。
 
 

 

事象の外(原因や理由)

──”身近な内在”と”身近な外在”

 

「人にとって
──
”身近”とは何なんだろうか?」

 

…….. もっとも『身近』──
五感、視・聴・臭・味・触

自己の運動に関する情報

外界の時間的空間的な深い認識の過程

外界のものに──”打つかる(ぶ・つかる)”
外界から──”飛んできた何か”

その時点で判断はできない──

小さなのや少ないものと
、
──”離れて遠く”にあるものは同じように
、
自分自身の近くに深い関係──
”寄って遠く”
、
「身近の地平線(見かけの地平面)」。

媒質の”光”などでも到達できなくなる──
領域(距離)
。
ここより先の情報をわたしたちは
、
知ることができないという”境界”──
”離れて遠く”
「事象の地平面(見かけの地平面)」。

”離れて遠く”を、
”寄って遠く”を
──『身近』に 。
自分自身から放出する「射線」が、

外界の何かと”一体化”する
──

外界のものに”打つかる(ぶ・つかる)”
。
外界から飛んできた何かを、
受容し応答する

「風」に開かれた”生成の世界”を通って、

”地と空を割くことのできない”
──
《射手の獲物》のなかで
、
解けないように結びついている──

”地と空にかかわる肉体的”なもの。

光と音という媒質の流れに、
揉み込まれまいとして、

内扉きに引き込む──
「五感と精神」
外開きに連れ出し──
『生成を”移動”』。……..

 

「人にとって
──
”内と外”とは何なんだろうか?」

 

…….. 既に形づくられた面を、
「横断」している
──
時刻と場所は知っていても、

「時間と空間」は
、
わたしたちに”触れ”ることはなかった。


──生成世界を通って、
どんな時でもどんな所でも
、
「風」のなかにいる《射手の獲物》に、

時間と空間は”触れ”る。

「風」に閉じられ
──
”地と空を割いて”上がった、
凧
風を感じたが風は、
”触れ”ず
──
「時間と空間の”刺激”」
。

”光のなか”で糸を手に握った、
発光情報の”光媒質”。

刺激は電気信号が脳に伝える──
眼が司る視覚。

天気という大気の流動性に、
風が起こる──
匂いを消す風に筋つけられる。

雨足の音
雨は、
片目を閉じらせ、

”立体”感や”遠近感”を、
感じにくく、

うまく”距離”がつかめなく。

”音という媒質”を籠らせ──

ベールがかかった”音のなか”。


光と音という媒質の流れ
、
上がった凧を引攫い──
「生成を引き剥がす」……..

 

「人にとって
──
”時間と空間”とは何なんだろうか?」

 

…….. 長さと量の隔たり──
”距離”に触れる
特定できない──
複数の異なる感覚器官
特定の感覚には、
結びついていない多感覚
。

歩き・動き・立ち止まり・休み、
待ち
見ることも・聴くことも。
嗅ぐことも
味わうことも、
触れることも
。

身体も心も現れない「裂け目」
──
風と光に攫われ。

イメージで見たり聴いたり、
動いたりすることの──
力
内在するのと同じく。

外在する──
「land-scape:ランドスケープ」

風景という生成
媒質の畝り──
天気・光・音・流れ
地と空──
風と身体=身体性
──
分割不可能な
──
フィールドとしての存在=
環境の共生成
──
飲み込まれる私=
共観者。

空間ではなく、
“変容しながら見られつづける世界”。

”肉体に考える人間”。

「見ること形づくること」

見ることの力
──
見かけ見た目の類似性に惑わされ。

skopein=to look──
「見ること」
scape:スケープ=
to shape──「形づくること」

抜け出す脱出者──
scapeman:スケープマン
──
the target of the bowman──
《射手の獲物》
。

「見る」ではなく、
「光に包まれる」
「聴く」ではなく、
「音に触れる」。


自らが生成の中に、
包まれた出来事──スケープ。

生成の余白=機会──
Scope:スコープ。


有効な範囲・視野・領域
──viewpoint。
「視座」をもつ
、
時間的に近いもの遠いもの、

空間的に近いもの遠いもの
。

”時間と空間の生成現象”
──
「風に触れられ風に触れる」

”身近な内在と身近な外在”

──「自分を空ける」。……..

 

 

生成の世界(reality)──生成の運動(流転)

 

「生成」は、”観察可能な存在(実在)/ 実存(現実存在)/ 存在”と対になり、存在世界は生成世界と同一視され、全てのものを──「時間的空間的な”自相と共相”」の二相”のもとにある。つまり──未完の実在と絡む「創造=”動く”生成」は、ただ単に”持続”するのみならず、それ自体だけがもつ自相と、他とも共通する共相(ぐうそう)との──”二相(にそう)”による生成運動(流転)するものとしてある。

「生成の世界(reality)」を捉えるのに適した思考・創造方法と「生成の論理(logic)」を観想する思考・創造様式──『思創考造 Cognigenesis thinking』を指している。この思考・創造様式は、──「思考と創造の”深化への挑戦”」であり、つまり、『思創考造の”生成” Cognigenesis=生きる生成』は──”二相(にそう)”による「生成の運動(流転)」という考えのもつイメージそのもの。

我々人間が《”動く”生成者という人間を創る(つく・る)》という共観が描く世界のアプローチによって、この本書『思創考造』の読者である〈あなた〉を含めた〈わたし-あなた〉は、「共観生成」に生きている総べての人それぞれの生成条件や要望に応えて「”生成者”の後押し手助け=”生成救済”」をする。いわば、生成の核たる自己意識に孤高の深さと共観の広さを携える──《ソムリエ-”Cognigenesis”》。我々人間全体の共観と「 創造=”動く”Cognigenesis=生きる生成」を解き明かし、それが大乗的且つ小乗的から転義した意味で《生成創造》の真の大道=自己本道であり人間本道であるとする。

”生成 Cognigenesis”=生きる生成は、「生成観」においては有用志向と原則志向として、生きているそのものを大切に、生きていることを大事にすることであるが、「生成の世界(reality)」においては共観志向とし、──「生きられる”時間と空間”」という《環境(environment)》にあり、”閉じたもの”から”生きる生成(reality)=開いたもの”へと解消される──「跳躍と転位」の内に見出され、”生成者”を開いた生の内へと導いてゆく過程でもある。

 

 
 
生成の”ありよう”

 

自然・宇宙の階層の存在」に
──”生成の階層”

 

空間や時間は空っぽの入れ物=「余白」ではなく、──「生成の運動(流転)」が先にあって、その──「生成変化」の枠組みが”時間と空間”このことを理解しようと思うと、今まで「時間」とか「空間」と呼んできたものが、一体何なのかを考えてみる必要がある。「時間や空間を創っている」のは──「環境(environment:エンバイロメント)」だから、「生成」のことを学んで、「生成」についての知識を身につけてから、もう一度考えることになる。《環境》を”静止系の時間空間”とした考え違いである=「生成を意味する」から、わたしたちは──「生成を対応する」という、《環境》を”運動(流転)系の時間空間”とした考え=「生成的な移動」へと、自らの意識を解き解され(ときほぐされ)ねばならい。

 

環境における共観の共通重心に
──”生成の移動”

 

絶対的な・真の・生成的な時間と空間とは、《環境》という外界(外部)と関わりにおいて、自ずとその生成的本質に基づいて一律に流れ動いていく「生成的”移動”」に対する共観の感応度=デュレーション(duration)にあり、──「生成の”日常生活的”な時間と空間」とは、持続的な「生成運動(流転)」の実地と観察を継続的に通じて実際に得られ、デュレーションの役立つ実用的且つ外的な物差しによって得られるもの。一般に用いられている相対的な・見かけ上の変化──「形成の”日常生活的”な時間と空間=形成経路(形成的”反復”)」ではなく、「日常生活的な時間と空間=生成経路(生成的”移動”)」=「持続的な生成運動(流転)」のこちらになる。“時間の流動”は、剛性体であり、どこまでも生成的に「直線的」──”線硬性”ですが、“人間の生動”は、塑性体であり、あくまでも生成的に「曲線的」──”線弾性”。しかし、我々人間は、今までは一般に用いられている相対的な・見かけ上の変化──「形成の”日常生活的”な時間と空間」における”時間と空間”の枠組みが「形成変化」であるとして捉えてきており、──これまで「“人間の生動”は、できる限り“時間の流動”にそぐった「可能的剛性体」に近づけようと、できる限り”直線的”に沿った「可能的線硬性」に近づけようとしてきている。

 

宇宙の等方性と一様性の認識」に
──”生成の法則”

 

形成運動量保存や形成エネルギー保存は、《裂け目》となる外力が働いて、いずれは形骸化する形成をし続け、さらには繰り返し再生し続け、運動量やエネルギーの保存も無きまま、その法則的なことの守りの必然的関係において、“人間の生動”は“時間の流動”のポイント的に「可能的線硬性の上下波打ち=《裂け目》」つつ、今にきている。そのような「力 → 加速度 → 速度 → 位置変化」といった素直な見方とは違って、──「生成変化」の枠組みが”時間と空間”であるとして捉えるならば、抽象化された原点が幾つもある生成極座標や生成運動(流転)量が入り乱れて現れてきている。

このような視野の拡大の結果、「宇宙の等方性」「宇宙の一様性」──空間の一様性や等方性と時間の一様性といった性質を認めると、空間の一様性が生成運動量保存:──《裂け目》となる外力が働かない限り閉鎖的且つ生成運動量の総和は不変、空間の等方性が生成角(回転)運動量保存:──《裂け目》となる外力が働かない限り、時間の一様性が生成エネルギー保存:──《裂け目》となる外力が働かない限り、といったような「生成の法則的」なことに関係しているのがわかるはず。

「生成の”日常生活的”な時間と空間=生成的”移動”」の持つ運動(流転)量は、動いている生成運動(流転)の止めに難くさとして実感され、つまり大きく速い生成運動(流転)ほど運動量が大きく、静止させるのに大きな力積(生成に作用する力と、その力の作用する時間とを掛け合せたベクトル量)として、その作用の前後の生成運動(流転)量の変化を捉えることができる。

 

日常生活的”な時間と空間」に
──”生成の曲線”

 

時間軸は、左右への水平的に剛体流動であり、それはどこまでも生成的に線硬性を伴う直線的。
生動軸は、左右への律動的に塑体流動であり、それはどこまでも形成的に線弾性を伴う曲線的。時間の流動は剛性体としてどこまでも生成的に「直線的」──”線硬性”であるが、人間の生動は塑性体としてあくまでも生成的に「曲線的」──”線弾性”であり、「時間流動」の直線的線硬性(水平真直線)の「線」に付随し「人間生動」の曲線的線弾性(律動波曲線)は、時間の流動の水平真直線上ポイントにおいて上下律動を描き、破波を打っている。

その破波は、上に「顕勢的」、下に「潜勢的」、その左右時間直線上の繰り返しの”間隙”を、「生成線」は潜りつつ時間軸沿いに「生成”移動=生成運動(流転)」の途絶えることなく進み続ける。「形成的潜在要素」にある”時間流動のポイント的に「可能的線硬性の上下波打ち=《裂け目》”が重なる「生成的潜在要素」は、”人間生動の顕勢的波破線と潜勢的波破線の間隙における「生成的エネルギー」”そのものであり、”「環境をつくるもの」としての人間”の生動によって「生成を対応する」という、《環境》を”運動(流転)系の時間空間”とした考え=「生成的移動」へと向かうことになるわけである。

 

形成(枠組み)のなかにある世界(world- in-formation)の生成的な流れのうちに、わたしたちは、──形成のなかにある『生成世界』を通っている。「生成の”対象”とは?」と先ずは問うだろう。それは生成の“出発点”ではなく──“展開の場”である。
つまり、「生成の対象」とは、固定された物質的な“対象物”ではなく、自己の内に跳躍と転位を呼び起こすような──“生成を促す触媒”=生成触発体(triggering medium)なのである。
 
 

 

生成的意味・働き──
(緊張構造としての生成的二項)

 

○ 「時間性 ↔ 空間性」

=持続と場の変容──時間は流れ、空間は広がる
──生成は「時空の交差点」に起こる。

○ 「孤高 ↔ 共観
」
=内なる核(孤高)と他者との生成的連環(共観)

──いずれも欠けては成立しない生成。

○ 「知覚性 ↔ 感受性
」
=外界を捉えることと、内側で響くことの交錯。

──生成とは“見る”だけでなく“感じる”。

○ 「心的 ↔ 身体的
」
=意識の深層と身体の動き・触覚
。
──生成は“全人的”現象。

○ 「思考 ↔ 創造」

=分析と跳躍。把握と逸脱。

──生成とは、両者を架橋し続ける流動的運動。

 

これらは、「生成を広げる」ための内的条件でもあり、“対象”の本質を明るみに出す媒介の諸力でもある。「自然性の緊張」「過去性」または「歴史性」の緊張は、『思創考造』が切り開いている〈生成〉の概念にとって、時間と存在、世界と自己、自然と歴史との緊張的な接触面=生成の臨界場として、極めて本質的な問いである。

 

 

生成
──緊張の構造

 

「自然性の緊張」
──
無意志の流れ vs. 意識の生成

自然性(naturalness)という語には、本来的に以下の両面が宿っている。生成における「自然発生性」=自ずから然る(しぜん)
。人間の意志や操作に回収されない「他力的な流れ・変化」
この自然性は、人間の創造(artificiality)と緊張関係にある。
つまり──
自然は生成の“根底的条件”であると同時に、制御できない“他者”でもある。

 

緊張の構造
──

自発 vs. 他発(わたしが生む/わたしに訪れる)。

秩序 vs. カオス(自然の理/生成の予兆)
。
能動 vs. 受動(創る/委ねる)
。
生命 vs. 自然の死の力(生成/腐敗・風化)。


生成を考えるとき、自然性との緊張は「委ねと介入」のバランスであり、
それは「場を開く」ために、自らを“閉じすぎず、解きすぎない”張力として働く──
「自然に還れ」ではなく、「自然と生成しろ」という態度。

 

「過去性・歴史性の緊張」
──
遺産としての重み vs. 今への跳躍

生成の行為は、現在においてのみ起こるものであるが、
そこに常に絡みつくのが──
「過去性=かつてあったもの」「歴史性=記述され継承されたもの」
なのである。

 

緊張構造──

・記憶 vs. 忘却(何を受け継ぎ、何を手放すか)
。
・伝統 vs. 跳躍(歴史的連続/創造的断絶)。
・同一性 vs. 変容性(わたしの過去と、これからの〈わたし〉)
。
・語り得るもの vs. 未だ語られぬもの。


ここには「過去から未来へと生成を渡す〈媒介者としての自己〉」という構造が潜んでいる。重要な問いは──どのように、生成は“歴史に呑まれず”に、歴史を超えるか?
どのように、過去の重みを抱えつつ、“未到の未来”を産み出せるのか?

 

生成の中で交差する四重の緊張構造──

「自然性」「過去性(歴史性)」を含め、
本書の生成論を四象限的に整理するなら──
 
   (生成の広がり)  
   +──────+
   |     |
   | 自然  | 共観
   |(環境) |(他者)
   +──────+
   |     |
   | 過去  | 未来
   |(歴史) |(跳躍)
   +──────+
   (生成の深み)
 
 

「自然性」「過去性(歴史性)」を含め、
本書の生成論を四象限的に整理するなら──ここで生成は、自然性と共観性の間で、外的触発を受け止め
、過去性と未来性の間で、内的変容を起こす。まさに、「生成の中動態」にふさわしい緊張の格子構造をなしている。生成とは、「挟まれたもの」の運動であり、生成は、この二項の緊張の”あいだ”に位置すること「介立」であり、他の助けを借りずに物事をなす孤高の生成
、他者との共鳴の中で広がる共観の生成
、媒介としての“あいだ”にある生成(二相のテンションのなかで)。生成の対象とは、そこに介在する者=媒介者としての主体が、どう関わるかによって様態を変える──“関係的な現象”。

 

 

生成の喜び

 

哀惜としての生成、これは極めて深い、詩的・実存的主題。「生成の喜び」は、自己が自己を超える瞬間への驚きに満ちており、そこには「“生きることが意味を得る”という至高の感覚」がある。しかしそれは同時に、
「やがて老い死すべき者」であるという限界を前提とする。つまり、生成とは、有限な者が、有限であるがゆえに、無限に開かれた瞬間に賭ける営み”、そして、この哀惜の感覚は、「生成は常に終わりへと開かれている」という“儚さ(transience)”と“いのちの濃度”の同居として立ち上がる。生成の“対象”とは何か? 生成の対象とは、「自己と世界のあいだに介在し、跳躍と転位を触発する“共鳴の場”であり、それに関わる主体の存在そのものを変容させる触媒である。」
そして、その触媒に出会うことは──「喜びと哀惜の、人生的な生成体験」そのものである。

 

 

生成的感性ー
(generative sensitivity)

 

感性とは、生成の触媒である──

「感性」は受動ではない。
感性とは──「感じ取る」ことによって、自らを開き変容し、さらに“意味を生み出す場”として創造してゆく運動体。これは「単に美的な感性」「経験の入口」としての感性をはるかに超え、「生成的感性(generative sensitivity)」とでも呼ぶべき本質的能力を意味する。このとき、感性とは──
「外界」の微細な変化に気づく力(知覚的触発)
、そこに意味を感じ取り、応答を起動する力(情動的応答)
、応答を通して自己を新たに生成しなおす力(構造変容)
を持っており、知性とはもはや対立せず、創造の統合機能として共にある。

 

「拡がる」ということ──dilate/覚拡張

ここに登場する「dilate:ダイレイト」という語の使用は非常に本質的。
生成とは、“開かれる”ことではなく、“拡張される”こと。
自らの感受圏(内的知覚)や意味圏(概念・経験)を押し広げてゆく運動。
このとき、「覚(さとり)」の拡張は、
単なる意識の冴えではなく、
実在の濃度や他者への感受を深めながら、知が変容していくこと
であり、生成に向かう力はまさに──「感性・知性・意味」が交錯する場のなかで、自己の存在領域を広げてゆくような“内発的伸張運動”であるといえる。

 

知識の「構造化」→「再構築」→「更新」

このプロセスは極めて重要。つまり知識とは、ただ記憶されたものではなく、「感じ取ったものをどう統合し、経験を通じて書き換え続けるか」という、”生成的な過程”そのもの。

◯ 感受層
=感じ取る・引き受ける
→「生成の入口」=触発

◯ 統合層
=意味を結び直す・連関させる
→「生成の媒介」=再編

◯ 拡張層
=新たな知や感性を持ち出す
→「生成の開花」=変容

この過程の層このように、「知識」もまた生きている。むしろ「生きているように構造化され、再構築されるもの」が、真に「生成的な知識(generative knowing)」。生成の知と拡張感性──「生きること」と「知ること」のあいだで、「生成の触媒としての感性 」── 感じることは、生成すること。

◯ 拡張する覚
──dilate の論理と感受の空間
。

◯ 構造化する知識
──経験のうちで編みなおされる意味
。

◯ 生成知としての自己
──感性・知性・創造の三位連環
。

◯ 生成に向かう力
──哀惜と歓喜のなかの跳躍。

「生成に向かう力」とは、感じることであり、意味を創ることであり、
自己の限界を超えて世界を拡張してゆく──“共創的跳躍”そのもの。そしてそのとき、知識も、感性も、身体も、思考も、
すべてがひとつの「場」をつくり、《生成の悦びと哀惜》を携えながら、〈あなた〉自身の生を濃度高く生かし始める。「何ものかによって、自らを開き変容し、意味を生み出す場とする」という生成的運動は、”自分の感性や能動性だけではなく、「自分の外」から来るものへの“開き”によって起動する。

ここには、極めて重要な二重の契機が存在している。

 

 
 
生成とは?

 

「何ものか」
=自らを変容せしめる“触発”の力──この「何ものか」は定義づけられない他者性、あるいは世界そのものであり、以下のような多様な契機として現れる。

・心理的な微細な動揺
(ある沈黙・声・視線)

・視覚的な兆候(絵画・風景・光や闇)

・技術的な媒介(言語、道具、構造、方法)
・自然的な作用(風、音、気温、匂い、重力)

・他者のまなざし(まさに〈わたし-あなた〉の場)

・自らの内部に芽生えた未明の気配

いずれにせよ、それは「外的刺激」ではなく、“生成されるべき感受性”に応じて開かれてくる“出来事”であり、つまり──「生成とは“起こる”こと」でもある。

 

 

「自分を空けておく」──

=生成のための“受容的な空白”

 

ここがとても重要であり、「自分を空けておく」=開放・解放、そして “空(くう)”という、この「空けておく」という行為は──自己を明け渡すような、内的空間の確保。
コントロールを手放し、未知が入り込む隙間を用意すること。
固定された知覚や意味づけを一旦ゆるめて、まだ名のない“感じ”を引き受けること。これを言い換えれば、「生成に向けた沈黙」、つまり──「自己を空けておく」ことそのものが、「生成の準備態」であり、「創造的感受の場」。「生成とは」
=自己が“空白”を孕むことで起こる出来事。

  

[何ものか] → [自己の空白] → [意味生成・変容]
     
  |              ↑
  
(触発・出来事)    (空け渡し・開放)

 

この関係性のなかで、「生成」とは、自己の閉じたシステムからの脱出ではなく、
「未明のもの」を迎え入れるための内なる余白の濃度
、自己が“介立的存在”として世界に立ち上がる瞬間だといえる。この生成的過程にあるのは、「生成に向かって、空白を明け渡すこと」
「開くという出来事」
「意味の予兆に沈黙する」
「生成のための“解放態”」
「空所としての〈わたし〉」
「生成が訪れる場所を、自己に設ける」
「呼びかけに応答する、感性の余白」。

 

 
 
空けておくこと=生成への信託

 

………「自分を空けておく」とは、
わたしのうちに、
まだ出会っていない〈生成〉が、
やってくることを信じる行為である。


それは、
“何かをつくろう”とする能動ではなく、

“やってくるものに、
応じようとする姿勢”──


この信託(trust)があってはじめて、

生成はわたしを通って、
世界へとひらかれていく。………

 

 

生成の旅路
──「生成の喜び」と「生成する者としての哀惜」

 

生成には、喜びとともに哀惜がある──「生成を課題としつづけながらやがては老い死すべき者としての人間」の生そのものに触れてくる。生成は有限者の営みである。
だからこそ、生成は深く、濃く、震えるように美しい。「因果律」は、“生成”にとっての思考の跳躍を阻む可能性がある。なぜなら、生成とは──「何かが生まれる」のではなく、
「なにかが“生みの場”として開かれる」出来事であり、
そこには「原因も結果もないような生成」が、〈潜在力〉の形で佇んでいるからだ。

たとえば「共観」という出来事において、わたしがあなたに触発されたのか、
あなたがわたしに何かを引き出されたのか、
あるいは“場”がわたしたち両方に何かをもたらしたのか、──そのような問いはすでに中動態的経験の前では、意味をなさなくなる。但し、因果律を「超える」ために、あえて「触れる」ことは可能。完全に因果律を避けるのではなく、
生成とは「因果を超える知の形式」である。
線形的因果の支配では語り得ない〈場の論理〉がここにはある。
という文脈で、「因果律」という概念を批判的に取り扱うことは可能。

その場合、「中動態」や「潜在力」「触発」「媒介」などを足場にした以下のような転位になる。因果ではなく「共発(co-emergence)」
、主客の因果関係ではなく「生成の場の調律」
、A→B ではなく「AとBが共に“開かれた場”を生む」。「生成の論理」や「生成の中動態」に力点を置く以上、因果律には“中心的には触れない”方が、「生成の力動」そのものを開きやすくなるだろう。ただし、「生成の深層には、因果律的な思考では到達しえない世界がある」というような〈暗示〉や〈対照性の示唆〉として因果律を捉えることは、哲学的に有効。

 

  

生成の問い

 

それはまさに──「生成するとはどう語るべきか、どう沈黙すべきか」ということは、『思創考造』が最も深いところで掘り当てようとしている問いそのもの。この問いの構えは、「生成の呼び水=生成そのものの跳躍点」となる。「何かが“生まれる”」という思考ではなく、
「なにかが“生みの場”として、開かれる」こと。これこそが、
『思創考造』=Cognigenesis thinkingにおける「生成の深層・中動態的場」。

 

 

生成する線の中間

 

………”触地”と『思創考造』の旅路。

裂け目に芽吹く──触地のはじまり
。
「実地」とは何か?

生成の亀裂=跳躍の布置として。

あいだの線──生を縫う動き、

点でも面でもなく
──
「あいだ」で生きること(逃走線)。

メッシュワーク──行為と環境の共成
。
線の絡まりとしての環境・行為は、
空間を生成する。

囚われの祝福──
他者・素材との関係性。

制約=跳躍の契機・素材が語る
──
共創される──「場」。

旅路としての思創考造──ノマド的営み。

思考=線の運動・実地
=
生成しつづける世界の中間。

裂け目、触地、線、中間性
──
縫うように進む
通り抜ける
行為が、
環境を生成する
とらわれ=
祝福、環境との共成、生成する歩行。………

 

 
 
浮上する〈あなた〉への問い(メタ的構造)

 

あなたは、どの「裂け目」に立っているか?
 あなたの足元には、どんな「線」が生まれつつあるか?
 あなたが生きている「環境」は、どのようなメッシュを形成しているか?
──これらは、読者の〈あなた〉に「生成の旅路を促す問い」でもある。

 

………形成(枠組み)のなかにある──
世界(world- in-formation)の、

生成的な流れのうちに、”身近”はあり、

形成のなかにある『生成世界』を通って、

わたしたちは”動く”。

何かを取り戻すことでもなく、

何かを知ることでもなく、

何かを変えるのでもなく、

可能性と価値を求め歩くわけでもなく、

──取り逃してきた生きる「裂け目」に、
立ち向かうわけでもなく、

〈生きること〉の姿を、
みつけることでもない。

外部ではなく、

生成の展開の場と生成する身体=
時間と空間に、
自分を生きる跳躍であり、

生成世界の終わりなき流動に向かって、

余白を明け渡し
──
生成のための“解放態”として動き、

世界を生成しながら、

自らも生成し続けてゆくことだ。………

 

 


共観の交わるところに、未知の領域を切りひらき、視座によって、生きることと知ることは、地と空が割けずに、完全にひとつになること。
地と空とは、いかなる場か、
線を引くとはどういうことか、
板を挽くとき職人たちは何をしているのか、
大地・天空と応答すること、
散歩することと物語ること、
観察するとはどういうことか。

さまざまな問いから、取り逃してきた〈生きること〉の姿をみつけ、
〈生を肯定する〉の可能性と価値を擁護する。


時間と空間が重なる環境下での生成は価値がある。時間や空間の使い方も多様性の一つと考えられていくはずであり、その変化を受け入れていくためには、俯瞰的に物事を見る力が必要になる。大きな視点で物事を捉え、他者に対する配慮をしながら働く環境を整備していく、そのような働き方で自分には見えていなかった部分を想像する、そうした能力がさらに重要になってくると思われる。誰も全体をコントロールできず、マスタープランが存在しない世界、そこで地球規模の思考を獲得し、危機に立ち向かう技術をいかにして手にできるか、「空間」と「時間」のスケールというふたつの側面から探ることだ。
 
 

 
 

「生成の往還」──生成的”布置”

 

「知覚の場=見ることの出来事性」──「視ることが構成するライフ空間」。
「星座」と「視座」──「スケープを編む構図としての〈視る〉」。
「知覚が生成を布置する」──「視る=構成する=動的な創造行為への転換」。「生成の往還──生成的”布置”」の思想の可視化=感性化することであり、とりわけ《視・聴・触・空間》が交差する「膜面」としての知覚の生成論を、中動態・共観・共振・布置・星座──という語彙を用いて探究し、とりわけ「感覚=生成的布置(生成視座/生成星座)」という、Cognigenesisを感性における〈布置の力学〉として捉え直す非常に創造的な着眼として、“共観”をさらに導ける可能性がひらける。

 
 
…….. 視覚とは、

意味を与える「回路」ではない
。

視覚とは、
世界に応じて、
身体が立ち上がること
──
運動のなかで立ち上がる生成である。



光と音、時間と空間、

身体と感性が交差する「膜面」。



そこからしか、
「新たな意味」は現れない。


そこにしか、
「共観的理解」は生まれない。



変容とは、

感覚の奥で始まる出来事ないのだ。………

 

…….. 生成の目──

見ることとは、生成すること。

光・奥行・気配、視の触覚化──

見るとは、触れることである。


身体・皮膚・空間密度
──
視ることの跳躍として、

知覚とは、
差異と変容を孕んだ跳躍である。


異相・変化・瞬間、音とともに、

「共光の呼吸光」とは、
──生成の息吹。

拡がり・包囲・明暗の交錯、

共観の視線としての──
他者の眼差しを孕んだ視覚。


関係・共振・媒介、視覚の転位は、

「見られるもの」が、
「見させるもの」へ──
受動能・生成点としての対象。………

 

 
 
感覚・視座・星座の中動態

 

◯ 視・光・身体・感性における生成的膜面
。
◯ 知覚=包囲と浸透:音・風・光の中動態。
◯ 
視座(cognigenesis)=配置の思考
。
◯ 星座(constellation)=音と光の繋ぎ手
。
◯ 問いの投げかけ/感覚の哲学的跳躍群

(Qブロック)

 

 
 
生成布置

 

◯〈視覚は膜面である〉
──

生成する視線/触れる視覚/媒介としての他者。

◯〈風と音のなかの知覚〉
──

中動態の知覚/音=膜/風に触れる身体。

◯〈視の配置=生成的視座〉
──

Cognigenesisとは「配置によって共創される意味」。

◯〈星の配置=生成的星座〉
──

星座=音と光の生成線/夜の地とノマド的知覚。

◯〈問いとしての感覚──生成の哲学〉
──

Q:風に触れているか? 

Q:音はどこにあるのか?

 Q:世界は見えるのか? 

Q:感性は世界を創れるか?

 

 
 
知覚=膜面

 

生成的「透過性・浸潤性」が感性の根幹にあるという認識。

◯ 膜面=〈生成の皮膚〉としての空間
。
◯ 浸透視=〈中動的視野〉としての共観。

◯ 音と光の〈襞(ひだ)〉としての知覚
。
◯ 視覚の〈触覚化〉=皮膚で見る。

◯ 星座は「記憶と願望の布置」=未来への配置知覚。

「視覚・聴覚・生成」、或いは「感性」と生成論的知覚》を考察するうえで、「触れ得ぬものに触れる/感じ得ぬものを感じる/見えぬものを見る」という中動態的な経験の中枢に、強く共鳴するもの。

・「風と音」における中動態の知覚

・「音=包囲する世界」「視覚=浸透する空間」

・「知覚=包囲されること」という生成

知覚とは、自己の外部で起きる出来事に浸されること、すなわち、“自分が知覚している”のではなく、
世界が自分を“包み”ながら、生成の場をなしているという「視座」。
 
 

 

「”視”の配置=”視座”」──ライフ空間

 

一つの事象だけでは意味を読み解くことができなくても、全体として事象として捉え、繋ぎ合わせていくことで、『視座』という意味が立ち現れはじめ、「共に/co- 知り/gnosce 創る(はじま・る)生成/genesis」は、──「コグニジェネシス」として、共観とともに、”問いの散らばり”が”見える”思考と創造の解となる、──「生成的視座「Cognigenesis(cognoscere=cognitive)」。  
 
 

…….. 風を見ない昼の《地》に、

”触地”する生活をしながら
、
”鳴り見える動く風”と、
「身体の交差」している
──
〈あなた〉が
、
「時空間(space-time)」を
、
共につくっているなかで
、
〈あなた〉は──
はたして
生成の”風”に「触れ
」
──

「”風”に触れら」ているのだろうか?………

 

 
 
「”星”の配置=”星座”」──ノマド空間

 

一つひとつの星に本来意味はなくても、全体として星を捉え、繋ぎ合わせていくことで、『星座』という意味をもちはじめ、「共に/co- 星/stella」は、──「コンストレーション」として、音と共に、光る”星の散らばり”が”見える星の集まり”になる、──「生成的星座(constellation)」。
 
 

…….. 光を見ない夜の《地》に、

”触地”する羊番をしながら
──


”光り見える動く星”と、

──
身体の交差している
羊飼いが、
《空》に
──

「星座(constellation)」を、

共につくっていったなかで
羊飼いは、
はたして
生成の”光”に触れ──

「”光”に触れられ」ていたのだろうか?………

 
 
風に触れる──中動態の知覚
→感覚は「すること」ではなく「されることとともにある」ことではないか?
音はどこにあるのか?──空間のなかの生成
→音は点ではなく膜であり、流れであり、世界の触覚であるのではないか?
光の厚み、視の奥行──世界は見えるのか?
→見るとは「光景」ではなく「厚みと浸透の場」に身を委ねることでは?
知覚の生成──世界を創る感性
→感覚は「世界を構成する力」そのものである。生成は“感じる力”から始まる。視覚や聴覚を“感覚”として扱うとき、それはもはや「五感」という機能ではなく、世界との生成的関係=存在の様式として見えてくる。
これこそが『思創考造』──生成の現場性と媒介性を掘り下げる核心。
 
 

 

織りなす「跳躍」
哲学的布置=生成の入口

 

知覚は五感ではなく“媒介”である。
視るとは触れることであり、感じるとは包まれることである。
星座のように、世界の散らばりから意味が布置されていく。
その媒介の中心に、「共観」と『Cognigenesis*がある。〈跳躍的布置=生成の往還〉が、次なる音、沈黙、書くこと、あるいは触発──へと開いていくとすれば、それはまさに『思創考造』という生きた思想体の運動となるだろう。
 
 

 

「生成の触地」──”Environment”の共生成

 

「触地=歩行」、描線、語線──身体の線が空間に結び目を編む。
「環境」は背景ではなく、「共に編まれる地層」であり、主体も環境に触れられながら変容する。
「跳躍と地の連環」=スケープの誕生条件。

「環境(Environment )」とは、通常「環境」は外部的・周辺的な意味を持ちますが、近年の生態学的・現象学的思考においては、環境とは人と世界の共感的・相互生成的な絡まりの場と捉えられつつあり、「weather-world」や、「住まいながら生成される風景」といった感覚。

「共生成(co-becoming / co-creation)」とは、個と環境が一方向ではなく、相互に影響を与え合いながら成り立つこと。すなわち、わたしたちは「環境に包まれて生きる」のではなく、「環境を生きながら、環境そのものを生成し直している」のである。このときの「環境(Environment )」は「固定された背景」ではなく、「触れること、交わること、生成し合うことのできる“場”」となり、Environment は「触地(=触れる場)」として、「共生成(co-becoming / co-creation)」共生成は「わたしも環境も変容しながら在る」ことになる。

「環境とは背景でも構造でもなく、動的な共存の場である」とするならば、この意味での environment とは、外在的な「自然」や「都市」ではなく、経験の厚みとして触れられ、形づくられていく生きた空間。したがって、ここでの Environment とは、「生活における生成の触媒」
「becoming を共にする空間」
「触覚的=経験的な編み手としての場」と捉え直せる。「スケープ(scape)」という語が──「“環境(environment)”=生成的」に捉え直す鍵となり、そこに「音」が組み込まれると同時に、「音だけではない何か」が求められている。『思創考造』において、「生成」は出来事であり、媒質的変容であり、自他のあいだを横断して流れこむ共観の響きです。
ランドスケープとは、“風景という生成場”であり、空間ではなく“変容しながら見られつづける世界”として捉えることである。

 

…….. 風が鳴る──


それを「聴いた」のではない。

それは、私という“場”に、
すでに吹いていた
私の“外”ではなく、
“中”でもなく、


その「間」に
、
世界は鳴り響いている

──
それが、
「生成する風景」
──スケープである。………

 
 
「スケープ(scape)」とは何か、「スケープ」は、もともと「ランドスケープ(landscape)」に代表されるように、
空間の可視的な広がり/空間のまとまり(構図)/環境の眺望的把握を含みますが、近年の人類学・感覚論的転回では、以下のような意味へと拡張されている。スケープ = 知覚される環境の生成的場(知覚×存在)、それは見る・聴く・感じるといった感覚の軌跡であり、その場に生きる身体との交錯の動態。よって、「スケープ」はもはや「視覚的構図」ではなく──「存在と環境が共に生成される“出来事の風景”*」と考えられるわけである。
 
 

◯ ランドスケープ(landscape)

→ 視覚的・空間的な風景

→ 対象化された環境としての自然・人工空間


◯ サウンドスケープ(soundscape)

→ 音響的環境、聴く風景

→ 音の重なり=生のリズム、共鳴する場


◯ スモールスケープ(smellscape)

→ 嗅覚的環境(臭気地図)

→ 空間を嗅覚でたどる感覚的地誌


◯ タッチスケープ(touchscape)

→ 触覚的経験の広がり

→ 温度、質感、振動が開く“触れる環境”

 

求めるのは、「音」だけに依らず、より全方位的な生成の風景であり、これは単なる感覚器官ごとの拡張ではなく、「場の生成」「生の開かれ」そのものをスケープ化する」視点として、新しい「スケープ」が求められる。

 
 
ジェネスケープ(Genescape)

= 生成する風景、生成(Cognigenesis)の出来事が広がり。層・揺らぎとして感得される場。
「何かが生まれる」のではなく、「生まれ得る場がひらかれる」。
「音・光・触覚・気配を超えて、「可能性の振動」を孕んだ風景。

プレゼンスケープ(Presencescape)


= 存在すること(presence)そのものが響く空間、気配、沈黙、潜在的な生の響き。
「他者の不在」がなお存在として感じられる空間。
「風、鳥、沈黙、夕暮れ」などの気配、いわば「触れ得ないが感じ取れるもの」のスケープ。

カイロスケープ(Kairoscape)


= 時間の線的流れ(クロノス)ではなく、生成の臨界点としての時間(カイロス)に満たされた場。
「いま、ここ、このとき」──という生成の臨場感。
「跳躍点、転位、変容」の気配が場として知覚される。

ブリージングスケープ(Breathingscape)


= 息づき(breath)を中心とした場の生成、呼吸する風景。
「視覚・聴覚」のあいだで、呼吸される空間。
「生と死、内と外、個と他者」をつなぐ媒介としての呼吸。
 
 

スケープ = 出来事の風景として、──感覚・環境・身体・生成が交錯する〈生の臨界場〉、これを深く広げていくことである。スケープは「空間」ではなく「出来事」
──従来の「スケープ」は固定された「眺め」や「構図」であった。
しかし、『思創考造』の世界観においては、スケープは固定されない、つねに生成している。
スケープは、そこに生きる者の感受と接触と共鳴によって生成される。
だからこそ、「誰かのスケープ」は「誰かの生きた生成そのもの」でもある。

 

 

スケープは「交錯する感覚の軌跡」

 

◯ 見ること(視覚)。
◯ 
聴くこと(聴覚)
。
◯ 触れること(触覚)
。
◯ 息づくこと(呼吸)
。
◯ たゆたうこと(漂う身体)。

これらが重なり合いながら、その場に独自の「生成風景」を生じさせ、そしてこの交錯は、一つの出来事としての身体と環境の共鳴運動でもあり、つまり「スケープ」とは、「私がそこにいる」という現象の、生成そのものの風景でもある。

 

 

スケープ = 存在と環境が共に生成される現象の名


 

・視る以前に、光を浴びてしまう私
。
・聴く以前に、風の中で鳴り響く音に包まれてしまう私
。
・感じる以前に、場そのものの気配に呑まれてしまう私。

この「生成されてしまう私」と「生成されてしまう環境」との相互生起(intra-action)によって、
スケープは絶えず「更新され続ける出来事場」として現れ、風景とは、私がそれを見ることで成るのではなく、むしろ、私がそこに”ある”こと自体が、風景を成らしめる──。
 
 

この地点において、「スケープ = 知覚される環境の生成的場」という定義は、単なる感覚論ではなく、存在論(ontology)と生成論(genesis)の交差点となる。“world-in-formation(形成されつつある世界)として世界は既にそこにある”のではなく──“生成されている最中、ランドスケープを完了した対象=Objectではなく、流れそのもの=媒質的現象として捉えなおす「視座」を持つことであり、「天気」「光」「音」といった媒質の動的な出来事があり、ランドスケープを“場”ではなく、 “経験の運動体”へと変えてゆくことである。「見る」「イメージ」「対象」の間の関係に閉じるとき、それは「光」という媒質への関心を失うことであり、だがしかし、「光のなかで見る/音のなかで聴く」私たちは、常に媒質のうねりのなかでさらわれ、包まれ、変容している存在であり、ランドスケープも「攫われる風景」として理解することである。

地と空、風と光、音と形態は分離できず、一体のフィールドとして感得することであり、“分割不可能なフィールド”の感性を捉えようとするには、対象の姿ではなく、生成のうねり=媒質の厚み、そこに「学びの可能性」を見出すこと。“ランドスケープに飲み込まれる”ということ、わたしの存在そのものが風景に呑み込まれるという出来事は、生成とは、「風景の中で、自らも風景の一部となってしまう体験」だからであり、この「呑み込まれ」こそが、共観生成の起点ともなり得るのである。ランドスケープは固定された空間ではなく、天気/光/音/流れという媒質の畝りとして、光と風にさらわれる存在であり、「見る」ではなく「光に包まれる」/「聴く」ではなく「音に触れる」ということになる。

「身体性」「空と地」として、分割不可能なフィールドとしての存在=環境の共生成にあり、スケープとは私たちが生成の中に包まれた出来事なのである。『思創考造』において、「生成」は出来事であり、媒質的変容であり、自他のあいだを横断して流れこむ共観の響きとして、ランドスケープとは、「空間ではなく“変容しながら見られつづける世界”」なのである。

 
 
光(Light)


視覚の根源的な現象性。

光なしに見ることは始まらない。しかし,光は単なる物理ではなく、「包み」「満たし」「浮かび上がらせる」生成の媒介である。光は生成の前触れ、感性の震源。「問い」の原初的明滅。

空間(Space)


視覚が立ち上がる場=奥行・広がり・気配。

見るとは「空間の厚み」に触れること。見ることは、空間に身を投げ入れ、「場を生きる」行為である。

身体(Body)


見る主体は決して「目」だけではない。歩く/立ち止まる/息をのむ/触れるように視るということ。

全身的感性によって成立する。
視覚とは「身体的生成のひとつのモード」であり、静止ではなく運動の現れ。

感性(Aisthesis)


見ることは、感受すること。それは単なる「受動」ではなく、むしろ“感じ取り・反応し・生成する”という能動的な開かれ。視覚は感性のひとつの触角であり、「知覚的跳躍点」である。

共観(Co-perception)


見るとは「わたし」だけでない。〈あな〉や「世界」との共振的参与。それは「目線の交差点」であり、「感じ方の共鳴膜」。視覚は、他者とともに開かれる「共観の場」。

 
 
視覚とは、「意味」を与えるための回路ではなく、視覚は、「生きた身体が世界に応じて立ち上がる運動」であり、
それは光と空間と身体と感性が交わる「生成の膜面」でもあり、そこからしか「新たな意味」「共観的な理解」「変容としての存在」は立ち上がらないのである。
「知覚とは何か」「世界とはどのように私たちに触れるのか」、それはまさに読者の〈あなた〉自身が「生成の現場=風や音の“場”」において開くこと。「視覚・聴覚・生成」、或いは《「感性」と生成論的知覚》を考察するうえで、「触れ得ぬものに触れる/感じ得ぬものを感じる/見えぬものを見る」という中動態的な経験の中枢に、強く共鳴することなのである。
 
 

「風と音」における中動態の知覚──

「私たちは風のなかで触れる」「世界が絶えまもなく主観性を襲い、包囲する」、この二者は、受動でも能動でもなく、「巻き込まれつつ感応する運動」=中動的知覚のイメージを強く喚起し、それは──”思考と創造”における《生成の中動態》そのものであり、ここでは「触れる」が、「触れられる」と「触れる」の交差点=生成の振動点となる。音=包囲する世界、視覚=浸透する空間──音は空間に「充満」し、空気を媒介にして、〈わたしたち〉の“皮膚と内面”の間を震わせ、視覚が“対象を見る”ことから“空間にひらかれる”ことへと移行するのと同様、聴覚も「聞く」から「響きの中で生きる」へと転位する。

 

「知覚=包囲されること」という生成観──


「波が浜辺の漂流物をとりまくように」「天空の青をながめる私は……それに身をゆだねる」、これらのフレーズに表れるのは、知覚とは、自己の外部で起きる出来事に浸されることである。すなわち、“自分が知覚している”のではなく、世界が自分を“包み”ながら、生成の場をなしているという視座として、これは「共観的な知覚」「共振する生成の環」の根源的な表現であり、”思考と創造”の中心である「〈わたし〉=場」のパースペクティブへと繋がり、視覚や聴覚を“感覚”として扱うとき、それはもはや「五感」という機能ではなく、「世界との生成的関係=存在の様式」として見えてくる。


これこそが”思考と創造”のにおいて、〈あなた〉と〈わたし〉が共に「生成の現場性と媒介性」を掘り下げる核心なのだ。ここでの Environment という、「生活における生成の触媒」「becoming を共にする空間」「触覚的=経験的な編み手としての場」として捉え直すならば、これらを重ね合わせることで浮かび上がるのは──「生活とは、生成の触覚であり、環境とは、生成の共鳴である」とい得ことができ、まさに、──「生成のリズムと触地の共鳴」だということになる。「becoming」へと導かれ、この後もこの席も、「becomingとしての生活」や「Environmentの共生成」をさらに掘り下げて構成化なさる場合、以下のような「視座」が有効となる。

 

「生活のbecoming」:生活=通過点の連鎖──


「生成の拍動」:呼吸・歩行・沈黙・観察といった、生活内の微細な生成力。
「逸脱の契機」:日常の中にひそむ非日常(跳躍点)。
「自己という出来事」:生活を受ける主体ではなく、生活を生成する主体としての「われ」。

 

「環境の共生成」:触地=出会いの地層──


「触覚的環境論」:視るのではなく「触れる・接する」環境。
「環境=応答する空間」:変化する私に応答して形を変える「場」。
「風景ではなくスケープ」:Staticな風景ではなく、共に生成される「共在の出来事=scape」。
 
 

  


「生成の律動」──”becoming”としての生活


 

生活とは「生成のリズム」そのもの。
光と音の中にある私たちの存在=媒質的環境の中で触れ合いながら形成される。
”world-in-formation”としての世界──〈わたしたち〉は既に生成世界の内にある。becoming は、「ある状態から別の状態へと絶えず移行すること」、あるいは──「実体に到達することのないプロセスそのもの」として語られてきた中で、特に「変化し続けることが本質」=「生成のリズムにおける生活の動態性」という根源的なリズムを意味する。becoming とは、「定まった存在に落ち着くことを拒みつづける運動」であり、過程こそが実体であるという逆説的命題として、重要なのは、このbecomingは、「個人の内的変化」だけでなく、「関係性や場が編まれてゆくこと」も含むという点。

また、「becoming とは誰にとってか?」と問えば、それは、「観察する自己」ではなく、「関与する身体」にとっての現実。では、生活との関において、この「生成し続けること(becoming)」が、なぜ「生活」と接続されるのかですが、それは、生活とは本来、「完成された存在の連続」ではなく、「差異と変化の織物」であるからだ。生活は習慣や制度に見える静態に包まれているが、実際には、毎日わずかづつ変わる風景、身体の感覚、気分、関係性などの微細なbecomingの積層であり、「生活する」とは、単に生きることではなく、常に「なりつつある(becoming)」ことへの関与であり、生成のリズムを受肉した営みなのだと考えることになる。becoming は「リズム」であり、 生活とは、「そのリズムを宿す形態」であり、よって「becomingとしての生活」とは、外的な行動の羅列ではなく、生成的変容のプロセスにおいて生活を捉え直す「視座」といえるだろう。

 

 

存在の広がり──生成的“場”としての環境

 

「ランドスケープ」=実地の生成空間。「感受と能動の間」=生成的な裂け目の中で私たちは何かを生む。「環境」とは、実は「生成する私たち」そのものである。生成されつつある──「〈わたし〉と世界の交差点」を、”触れ”うるものと場として開いていくことになる。この「交差点」とは、静的な地図の座標ではなく、「becoming」の流れの中で常に変容し、「environment」の響きの中で常に共振する──動的な“触地の点”。それは、単なる用語の応用ではなく、〈わたしたち〉の“生きた経験”や“観察”を通して熟成された──「生成と思考の交差点」で、世界を〈触地的〉に読む技法。すなわち──「思考の生成学(Cognigenesis)」「生活の風景生成(Scape Formation)」「触れること・立ち止まること・問いを孕むことによる世界の再編成」。これらは、単なる引用では辿り着けない、〈わたしたち〉の「地に足のついた生成観」であり、専門化されえない領域を開いているとすらいえるものである。
 
 

 

becoming × environment

 

それは──「環境としての生成」と「生成としての環境」「生活の触感」と「触感の生活化」「跳躍点の風景化」と「風景の跳躍点化」。
といったように、無数の生成的変換を誘発する──動態。そしてこの動態を、生の中で繰り返し問い返し、描き、書き、立ち止まり、息づかせてきた。──それこそが、〈わたしたち〉にとっての“独自の地平”なのである。何よりもこの問いに、自ら応答しようとするその姿勢こそが、すでに〈あなた〉のなかの「跳躍点」であり、『〈あなた〉の生成』を開く鍵でもある。
この“開き”をそのままに、進めていくことだ。

 

 
 
「生活 = becoming × environment」

 


これは単なる等式ではなく、〈わたしたち〉自身の身体と経験と生成と思考が凝縮された「場の宣言」であり、ひとつの新たな〈思考形式〉である。この式は、たとえばこう読むことができる。「生活とは、変わりゆくもの(becoming)に触れながら、”世界と共に変わる”ことである。」
「生活とは、環境(environment)を単なる背景ではなく、”共に生成される──触地”として生きることである。」
「生活とは、〈わたし〉という内部でも、外部でもなく、”〈わたし〉と世界の間”で編まれつづけるリズムである。」

 

 

生活=「生成の触地」

 

このような「生活の地平」が、核心として立ち上がってくるのであれば、それは「呼吸する現場」そのものとなる。
これは「共に観る」ということ、そして「共に在る」ということであり、まさに──「思考と創造の合致」を志してきた「共観的生成」の一歩に他ならない。「生活=生成の触地」を〈わたしたち〉自身で、カタチで、問いで、息で、、、、、
「生活=生成の触地」──それは、触れることで生成し、生きることで共鳴し、共にに居ることで現れ出る「いま・ここ」の質感。そして──そこにあるのは、「わたし」でもなく「あなた」でもなく、“〈あなた〉と〈わたし〉のあいだ”にひらかれる、生成の場所。外部ではなく、「生成する身体=空間」──「触地の場としての環境」。

 

 
 
生成デッサン

 

…….. 自分を空ける。

感覚を細めて絞め──

絞り込んだ内に
生成に触れる。

生成の周りを静かに歩き
、
上下左右に──触れる。

カラーをモノクロに変換するが如く、

引き込まれる──
生成の裂け目の余分を消す。

消し跡も生成として加わり──

生成一体として動く。

ならば──

生成する空間が、

空けた自分に生成しはじめるだろう。

始まれば
──
生成に終わりはない。

変わりゆくものに触れるならば、

世界と共に変わる
生活は、

環境は
生成であることを
、
共に生成される触地として、
生きることを
触れてくる。

生活は
環境は
内在でもなく、
外在でもなく
、
自分と世界の間で、
生成に編まれ
編み続ける──
生成のリズムである。………

 
  

 

生成論的基礎構造の展開
”思考と創造”の論理的転地

 

「生成をめぐる空間と時間の論理」:

「時間と空間」において、生成が先にあって、それによって成立する“枠組み”は通常の物理的時間空間の「形成」論の枠組みであり、対して「生成時間・生成空間」は──持続・律動・移動の中でしか経験され得ない「剛性=直線(時間)」「塑性=曲線(生動)」の対比による新たな時空理論。

 

「生成における「媒介性」の理論と感性の転地」:

「生成触発体(triggering medium)」において、対象物ではなく、跳躍・転位を促す場として観察可能なものではなく、“関わることで生成する”場的存在として、生成とは「知覚 ↔ 感受」「孤高 ↔ 共観」「時間 ↔ 空間」などの二項間の緊張構造=中動態的な生成。

 

「緊張構造と共観的媒介」:

「自然性 ↔ 意識」「歴史性 ↔ 跳躍性」において、「生成」とは「これら力と場の“間(あわい)”に起こる運動」=緊張の格子として「自己は媒介的存在」であり、生成とは「介在の仕方によって意味を変える現象。

 

「生成の喜びと哀惜という実存的深み」:

生成とは「自己超えの驚き」であると同時に「いのちの儚さ」を伴う「哀惜の生成=いのちの濃度と感性の拡張」。

 

 
 
ここで──「生成の具体場」=生成の“実地性”が「環境」「身体」「触地」によって深められた今──次に問うべきは、「生成の“未来的潜在性”」=”跳躍#をどう呼び込むか?「共観知性」や「潜在力」へとどう展開するか?「スケープ=場」との”共生成”の先にある──《共生的・未来創造的な生成》とは何か?その主題の核たるものは、潜在的未来との共観的跳躍=《生成の未来地平》。

 

 

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