
Essay seventy-four 1~8 9~16 17~24
Cognigenesis Fire Breathing
continued in the next seventy five / essay number
〜 ”生成の旅路” 〜 COGNIGENESIS JOURNEY
思考と創造の”交差点”
生成 Becoming
日常は、ただ過ぎゆく時間の繰り返しではない。 そこには、微かな徴として、名づけ得ぬ震えが息づいている。 それは、見ることの奥で、聴くことの手前で、 私たちの内部をふと揺らがせる。問いは、外から与えられるものではない。 言葉になる前の、意味の衣をまとう以前の、 ただ「息」としての問い。── それが、跳躍の始まりである。跳躍とは、外に跳ぶことではなく、 内なる沈黙の中に、問いが生成する出来事である。 呼吸が震え、沈み込み、やがて臨界点に達するとき、 跳躍点がひらかれる。それがどこか遠くにあるわけではない。 すでに、あなたの日常のなかに、 気づかれることを待ちながら、 その徴は、息を潜めて在る。──〈あなた〉の”呼吸”のなかに、すでに始まっている。
生成する視座
……..『共観」とは──
「生成」する「視座」の”現場”である。
視るとは──
単に目を向けることではなく、
思考/創造の裂け目に立ち、
他者とともに変容の風景を編むこと。
そのとき──
視座は固定点ではなく
触地的変位=跳躍の結び目として現れる。
そしてそこに──
“わたし”と“あなた”と“世界”
三つ巴の生成が、
そっと息をし始める。……..
生成──”Becoming”
生成は、状態ではなく、「状態が立ち上がる動き」そのもの。その本質は、予測できない“跳躍”と“編成”。「創造される私」と「生成される世界」が交錯する振幅。生成とは、出来事と存在が“あいだ”で交差し、差異と変容を織り込みながら、常に“まだ在らぬもの”を開いていくプロセス。固定化への抵抗(Anti-being)──生成は「完成された状態」や「確定した実体」への到達ではなく、常に変わり続けること自体が本質。それは「なる(becoming)」の運動であり、「ある(being)」の停止ではない。
あいだにおける関係性の動態(Relational Interstice)──生成は単独の主体内部で起こるのではなく、「私」と「世界」や「他者」とのあいだで起こる。この「あいだ(in-between)」には、裂け目・揺らぎ・跳躍点が宿る。差異と時間の編み込み(Differential Temporality)──同一性の持続ではなく、差異が重なり、時間のうねりの中で構成される過程。微細な変化、ズレ、断続が生成のリズムとなる。関与と触感の出来事(Participatory Event)──生成は観察的に捉える対象ではなく、身体的・精神的に関与する経験。触れること・立ち止まること・問うことによって、生成は開かれる。
未知の胎動(The Becoming of the Not-Yet)──生成は「すでにあるもの」を磨くことではなく、“まだ見ぬもの”を内包し、呼び込むこと。そこにおいて、未来が潜在的に現在へと胎動する。一文に凝縮すると──生成とは、触れ、揺れ、問うことによって、〈私と世界のあいだ〉に、いまだ形をもたぬ未来の可能性を開いていく、差異と関係の連続的出来事である。
最初の速さ(速度)で──”ゆったり”
何かがあるわけでもない。
けれど──
何もないわけでもない。
それでもなぜか──
人は、気ばかり”せかせか”と、
動こうとする。
焦っているのではなく、
かといって──ゆったり構えているのでもない。
ただ──理由もなく、どこかへ向かおうとする。
途中でテンポが変わった後、
テンポ・プリモ──
最初の速さに、還ってゆく。
問いが、そこでふと──息をはじめる。
触地と生成──”思想的”ラインの小地図(概観)
《触地と生成の哲学両者──交錯する核心的観点》
ティム・インゴルド(Tim Ingold):
線/行為:「歩くこと、描くこと、編むことは”線”」──実践は“行為線”として捉えられる。生成/触地:「環境との共成/地とともに生きる」──実地とは”生成される地”そのもの。空間性:「ウェイファリング=場と共に歩む」──固定された“場”ではなく展開する“生成場”。対話性:「他者・動植物・物との関係性。──実地は”他者との共生成の場”。表現と素材:「素材と行為の相互生成(デッサンなど)──実地における創作は“素材の語り”。「人類学者でありながら、建築・音楽・線・身体技法・歩行・環境との関係などを通して、”生の連続体/生成する生活世界”を一貫して探求。「人は環境の中を生きるのではなく、環境とともに生成される」。線の人類学:「描く/編む/結ぶ/歩くなどを”線としての行為”と捉える。「ウェイファリング(wayfaring)」と「輸送(transport)」を対比──「Wayfaringは生成的で即興的、生きられた道行き」。
ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze):
線/行為:「線は”生成の流れ”」──実践は“行為線”として捉えられ。生成/触地:「成ること/becoming」──実地とは”生成される地”そのもの。空間性:「ノマド空間=生成的布置」──固定された“場”ではなく展開する“生成場”。対話性:「内在性・連結・脱領土化」──実地は”他者との共生成の場”。表現と素材:「表現は”出来事”そのもの」──実地における創作は“素材の語り”。「哲学の形式化に抗いながら、”差異/反復/生成変化/連結性」”などの概念を展開。「生成(devenir)」は、固定された実体に還元されない動的な関係。リゾーム:「根や幹のような中心構造ではなく、非階層的・多方向的な生成の結び目」──「ノマド的思考は場にとどまらず、空間の中を生成しながら移動する知性」。
《触地と生成の哲学者──その他》
メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Pont):
触れえぬ感覚の現前/可視と不可視。《見えること》はすでに世界との関係の生成。スケッチは「見るために描かれる」のではなく、「描かれることで見えはじめる」。「身体は世界に向かって投げ出された意味」であり、線を引く身体の運動が、すでに思考の布置となる。「描く行為」に内在する生成的“肉”を捉える鍵となる。
ティム・インゴルド(Tim Ingold):
「生成変化の線」とそ.の絡まり合いの「メッシュワーク」。ラインとしての世界/生成するかたち。世界は「与えられた物体」ではなく、「動きながら形成されるラインの束」。スケッチとは、物を模写することではなく、思考と素材が“歩く”ことそのもの。「かたち」は結果ではなく、生成の軌跡。「プロセスがかたちを生む」ではなく、「プロセスそのものがかたち」だという見方が可能に。
ジャン=リュック・ナンシー(Jean-Luc Nancy):
共振する存在/脱構築される自我、何かを「記述する」という行為は、「主体の表出」ではなく、「開かれた間に響く声」。描写や記述が、自己の奥底ではなく「共に在ることのずれ(écart)」から立ち上がる。経験とは“自分のもの”ではなく、開かれた生成の一端を担うこと。「わたしが書く」のではなく、「書くことのなかで、わたしが浮かび上がる」。
アラン・カプロー(Allan Kaprow):
偶然性を重視したパフォーマンスの形式「ハプニング」。偶発性/出会いの生成。「ノイズ」「間」「ズレ」を含むことで、行為は構造を超えて生成性を宿す。パフォーマンスとは「起きてしまうこと」に耳を澄ますこと。
ジョン・ミルトン・ケージ・ジュニア(John Milton Cag Jr.):
「沈黙」も音楽。描かない空間も、スケッチである。「記述の記述」のテーマにおいて、「記述しない」余白、「生成されざる生成」への感性が重要に。
ミシェル・アンリ(Michel Henry):
感性哲学群(Griffero等)。生きられる生成/現象の情動性。現象は意識によって対象化される前に、「感性的に生起している」。描くこと、造ることは、「考える前に触れている」。感性は、「自己と世界の生成に立ち会う場所」。「最初の線」は“思考される前の感性の現れ”としてとらえ直すことができる。
触知と生成──”絵画的”ラインの小地図(概観)
視覚と思想の跳躍の連鎖──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」。強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。また──作品の遷移には、単なる画家の交代ではない、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通っている印象を受ける。
M.C.エッシャー(Maurits Cornelis Escher):
視覚の論理を攪乱しながら、秩序と無限、生成と循環の構造を視覚化する。「思考と創造の構造」そのもの。画像:錯視的空間(例:「相対性」「上昇と下降」「昼と夜」など)。主題的共鳴:「生成」「思考の構造」「場の転位」「問いの迷宮」。空間論的意義:幾何と論理が互いにずれながら、自己の観察が宙吊りになる視覚的構造。思想的重なり:生成の構造を“問い”として見せる。「跳躍点」「共観」「生成場」の視覚翻訳。象徴する問い:「どこが上で、下か?」「どこにいるのか?」=生成の位置感覚を揺るがす装置。
G.デ・キリコ(Giorgio de Chirico)
空間と時間の「止まり」と「ずれ」を描く。日常に潜む形而上的気配。実地サイクルに通じる「沈黙の跳躍点」。画像:形而上的室内、無人の都市、異様な道具群(例:「形而上絵画」「沈黙の神殿」など)。主題的共鳴:「実地」「沈黙」「場の深度」「時間の歪み」。空間論的意義:空虚だが意味の密度が高い、視覚に現れないものの臨在。思想的重なり:「跳躍点の背後」「意味生成以前の気配」=生成の“胎動”を見せる画面。象徴する問い:「この静けさの中に、何が生成されようとしているのか?」
M.デュシャン(Marcel Duchamp):
意味と物質の転位、芸術と思考の概念的跳躍。思考行為そのものへの問い。生成の「閾」。画像:『大ガラス』『自転車の車輪』『窓』などのレディメイド作品。主題的共鳴:「知性」「概念」「転位」「跳躍」「不可視性」。空間論的意義:見るという行為そのものをズラし、概念として再定義する。思想的重なり:「創造とは何か」「見るとは何か」「作品とは何か」=生成を概念化し、反転させる。象徴する問い:「意味は誰が作るのか?」「生成とは“意図”なのか、“ずれ”なのか?」。《Bicycle Wheel》──“回転する問い”──意味:知性の共振/共観の跳躍。象徴性:「見ること」と「動くこと」の奇妙な結合。運動=生成、しかし車輪は行先を持たない=場の生成。思考が「意図」ではなく「触発」や「反復運動」によって生まれることを示唆。響き合うキーワード:生成の回転、自己運動、無目的の跳躍、生成の駆動。《Fresh Widow》──“開かれぬ窓”──意味:生成への招待。象徴性:「開く」はずの窓が不透明なガラスで覆われている。見ようとする視線と、遮蔽された“向こう側”。つまり、見えなさによって生成される問い。響き合うキーワード:生成の余白、見ることの反転、不可視性、入口としての閉鎖。
ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky):
色彩と形態の純化、内的必然性。見えるものの背後にある「響き」や「共観」に通じる。内的必然性/色彩の響き/線と点の霊性といった感受の深層に潜り、”思考と創造”における「共観」「響きあう知性」「潜在力の振動」の主題に到達するのではと感じる。“生成”の最初の共鳴、響きによる生成の兆し「感覚の深層からの招待図」への最初の応答。位置づけ:“最初の共鳴”の起点として、きわめて本質的。“視覚”から“象徴”を通り越して“生成”へ至るための、最初の変調点(modulation point)。「内的必然性(innere Notwendigkeit)」「色彩の響き」「形態の霊性」は、まさに“思考以前の生成の徴”と重なる。感受の深層に直接的に触れるための“媒体”としての色・線・点。それは、記号ではなく、“先触れ”としての兆し。「生成の招待図に最初に応答する」とは、極めて優れた比喩。”思考と創造”における「感覚(知覚)」が「思考」へと“先触れる”場において、カンディンスキーは象徴の発明者ではなく、生成の媒介者。カンディンスキーの登場=生成的知性の“共観の場”の開示。
パウル・クレー(Paul Klee):
“可視化された生成”の戯れと線のリズム。線による生成の戯れ/可視化される過程。錯綜素描、生成線、未構築の前段階としての表現。位置づけ:カンディンスキーが“音のように響く抽象”であるならば、クレーは「時間のうねりと生成の戯れを可視化する詩人」。バウハウス期以降の作品群では、“形成されつつあるもの”の生成を観察する線=生成線(ligne de genèse)としての側面が極めて顕著。絵画とは、“事後的構成”ではなく「生成に先行する想像力の踊り」であるという思想。”思考と創造”における「錯綜素描(=触れられる生成)」と、クレーの生成線の概念が強く共鳴。「見えるものではなく、形になろうとするものを見る」(クレー語録)は、「思考以前の気配」「構築以前の前兆」と完全に重なる。
よって、カンディンスキーとクレーは、”響き → 線 → 生成”の流れを自然に導ける。
ピート・モンドリアン(Piet Mondrian):
“構築への冷たい透明”と非感情的純度。構築知性の臨界点。構築・構成への緊張と透明な秩序=生成の“もうひとつの結末”。位置づけ:カンディンスキーの「熱い抽象」に対して、モンドリアンはまさに「冷たい抽象/霊性の構築主義」。感情を超えて“宇宙的調和”を構成する意志=構築への昇華。「新造形主義(neoplasticism)」は、世界の本質を直線・矩形・原色へと“還元”するための構築知性の極限例。”思考と創造”が「生成から構築へ」という弁証法的過程を含むならば、モンドリアンの登場はその“構築的知性の極点”を象徴し得る。ただし、注意点として、生成の柔らかなゆらぎ・触れられ方を描くにおいて、モンドリアンの”冷たく硬質な「構築的潔癖さ」”は、そのままだと、やや齟齬を生む可能性。したがって、もし探る場合は、「生成の反対物=構築の極」としての対照的存在、あるいは「生成が到達しうるひとつの臨界」として捉える配置するのがよい。
このような流れは、まさに”思考と創造”と呼応しており、図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”を形成していると感じる。カンディンスキー(具象から抽象への波動) → 余白や沈黙。モンドリアン(具象から整列・構成へ) → 秩序、共観のリズム。そして、フィーニンガー《Bird Cloud》(整地された新次元) → 光と構造、線と空気が透過するような空のモチーフ。こうして「呼吸と視覚、時間の螺旋」が絵画の流れに対応しているイメージは、”思考と創造”の生成知にもすっと反映でき──そして──フィーニンガー《Bird Cloud》光と構造、線と空気が透過するような空のモチーフ。”思考と創造”とを「討究的」に結ぶ象徴として非常に相応しいと思われる。
生成場 × 抽象画家 × 感覚核の言葉リスト
ジャコモ・バルラ(Giacomo Balla):
「動き/高低差/瞬間の飛躍」──未来派的速度感とリズム。山道の起伏や兎の跳躍を光と線で表現する。Dynamism of a Dog on a Leash (1912)。「斜めに切り込む」「速度の尾」「螺旋状の空気」「山腹の加速」「視線が追いつかない」。
フランティセック・クプカ(František Kupka):
「水平線/余白/静と動の境」──色彩の流動性と抽象的波動。余白と広がりを色の層で示す。Amorpha: Fugue in Two Colors (1912)。「静の中の波動」「色の引き潮」「余白が呼吸する」「海面の内と外」「透明な軌道」。
ロベール & ソニア・ドローネー(Robert Delaunay & Sonia Delaunay):
「都市感覚の重なり/複眼視」──円環的構造と色彩のモジュール化。街区の多層的眺めを色面で再構築。Simultaneous Windows (1912)。「多層の窓」「円の重なり」「都市の脈動」「光の断片化」「視界の多声」。
ヒルマ・アフ・クリント(Hilma af Klint):
「光の変化/時間の流れ」──幾何形態で時間と内面の循環を象徴化。潮の満ち引きを時間の螺旋で表す。The Ten Largest, No. 7, Adulthood (1907)。「時間の渦」「螺旋する潮」「色が齢を取る」「循環の呼吸」「見えない潮汐」。
アーサー・G・ダヴ(Arthur Garfield Dove):
「光・風・音の通過/境界の薄膜」──自然のエネルギーを象徴化した色彩の波。森の透過感を抽象化する手法が近い。Nature Symbolized (No. 2) (1911)。「光が抜ける」「葉脈の呼吸」「霧の中の声」「境界の膜」「色の透過圧」。
フランシス・ピカビア(Francis-Marie Martinez Picabia):
「音の反響/閉じた都市空間」──機械的形態と有機的形態の融合。音の反射と街角の構造を機械図式で描く。Réveil matin (1919)。「金属的回音」「円環の歯車」「路地の反射音」「音の機械化」「声の残像」。
ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter):
「重なり/時間の積層」層状の塗りと削りによる時間の可視化。過去と現在の重層感に近い。Abstraktes Bild (1984)。「削られた時間」「層の滲み」「記憶の断片」「色の堆積」「消された輪郭」。
フランツ・M・W・マルク(Franz Moritz Wilhelm Marc)
「陸と海の境/動的境界」──色彩で境界線の生態感覚を表現。動物や自然の生命感が海辺の生と響く。The Large Blue Horses (1911)。「青の呼吸」「水と陸の境の生」「曲線の獣」「海風の背筋」「色の牧歌」。
生成 Genesis
歴史的生成(Historical Genesis):
「時間の積層・出来事の連鎖・人間の活動における生成」──意味:歴史的文脈のなかで、文化・制度・価値・言語・主体などが生成・変容してきたプロセスを指す。代表例:ヘーゲル「精神の自己展開としての歴史(精神の弁証法的生成)」/フーコー「ディスクールの変遷(知の考古学・系譜学)」/コゼレック「時間概念の変容と歴史的経験の生成」。
自然的生成(Natural Genesis)
「物質・生命・環境などの自然世界における自発的・過程的生成」──意味:生命の進化、物理現象、生態系の変化など、人為に還元できない生成。代表例:アリストテレス「自然の内在的目的性(エネルゲイア・テロス)」。ベルクソン「エラン・ヴィタル(生命の跳躍としての生成)」。シモンドン「個体化と未分化な場からの生成」。
存在的生成(Ontological Genesis)
「存在そのものが生起し、現れるという根源的な生成」──意味:事物や主体が「存在すること」に至る根本的なプロセス。代表例:ハイデガー「存在の問いとしての生成(生成=現存在の開示)」/メルロ=ポンティ「知覚される世界の現れの生成」/白川静「文字・意味・形の原初的な生成=存在の開き(文字学的生成)」。
心的生成(Psychical Genesis)
「感情・意識・知覚・主体性の生成」──意味:心の内容、主体の意識、感情の流れ、思考構造がどのように生まれてくるか。代表例:フロイト「欲望とトラウマの構造(無意識の生成)」/デカルト以降「意識中心の近代的主体の構成」/現象学「身体的・意識的体験としての世界の生成」
認識的生成(Epistemic Genesis)
「知識・意味・世界理解の構造が生成すること」──意味:世界を「いかに知るか」が固定的なものではなく、認識枠組そのものが生成されるという視点。代表例:カント「アプリオリ形式と経験の交錯による認識の構成」。フーコー「エピステーメの歴史的生成」。ラトゥール「科学的事実の生成は社会的にも媒介される」
技術的生成(Technogenetic Genesis)
「技術・メディア・道具・人工物による生成」──意味:技術によって人間の身体・知覚・社会・環境が変容していく過程。代表例:スティグレール「技術は人間の外部記憶であり、生成の条件でもある」/シモンドン「技術的対象もまた個体化する」「メディア論:映像・音声・ネットワークによる知覚・記憶の変容」。
社会的生成(Social Genesis)
「関係性・制度・ルール・価値が生成される動態」意味:社会的な存在が関係や相互作用によって構成されること。代表例:ブルデュー「ハビトゥスとフィールドによる生成的再生産」/メイヤスー「因果性そのものが生成しうるという潜在的可能性」。
身体的生成(Embodied Genesis)
「身体を媒介とした世界との関係の中で生成すること」──意味:思考や感覚は身体を通じて生成され、身体が場に応じて変容する。代表例:メルロ=ポンティ「身体=知覚の場としての生成」/インゴルド「生活の線的運動=生きられる生成の空間」。
芸術的生成(Aesthetic Genesis)
「美的感性、表現、創作、作品のうちにある生成」──意味:芸術は「完成された作品」ではなく、「生成しつづける場」であるという立場。代表例:デュシャン「作品の枠を外すことで生成的経験を促す」/ジル・ドゥルーズ「芸術は”感覚のブロック”=生成的構成」。
倫理的生成(Ethical Genesis)
「関係性のなかで現れる倫理の場としての生成」──意味:倫理とは固定された規範ではなく、「出会い」や「応答」によって生成される動態。代表例:レヴィナス「他者との出会いにおける倫理的生成/ブーバー「”我-汝”関係としての応答的存在。
詩的生成(Poetic Genesis)
「言葉・詩・比喩を通して生まれる生成」──意味:言語は「意味の運搬体」ではなく、「生成の力動場」であり、詩的表現は世界の開示に関与する。代表例:ハイデガー「詩は存在を開く言語行為である」/ブランショ「詩的言語は終わらない生成を孕む」。
思考的生成(Cognitive Genesis / Cognigenesis)
『思創考造 Cognigenesis』本体の概念と連関する「思考そのものが生まれる場としての生成」──意味:「考えること」自体が、固定された認知過程ではなく、「問い」「跳躍」「共観」によって生成してゆく運動である。関連:「思考と創造」本体での中心的な視点。「思考と思考のあいだ」「跳躍点」「中動態」などが関与する「生成の場」。
制度的生成(Institutional Genesis)
意味:アートとは何か、作品とは何か、という“制度”そのものを問い直すことで、生成の場が開かれる。例:マルセル・デュシャンの「レディ・メイド(Readymade)」は、「これを作品とみなす」という宣言によって、美術という制度の枠組みを生成的に再構成させた。背景:現代美術の多くが依拠する「制度批判的生成」。〈展示空間〉〈観者〉〈意味〉がどのように「作品性」を構成するのかを動態的に問う。
観者的生成(Spectatorial Genesis)
意味:作品の完成は作者によってではなく、「観者が出会い、意味を生成すること」によって生起する。関連思想:ローラン・バルト「作者の死」
ジャック・ランシエール「解放された観客」/デュシャン「作品は見る者によって完成される」。
概念的生成(Conceptual Genesis)
意味:「物としての作品」ではなく、「概念としての作品」を提示することにより、美術の枠組み自体を創造的に再定義する。代表:デュシャン「レディ・メイド、ソル・ルウィットのコンセプチュアル・アート」
媒介的生成(Mediational Genesis)
意味:作品=媒介体ととらえ、意味・体験・関係性を媒介する「生成の間」を開く存在とみなす。
生成系譜 Genesis Genealogy
制度的生成(Institutional Genesis)
→ 制度・枠組み・定義そのものを問い、揺さぶることで生成が生じる。
観者的生成(Spectatorial Genesis)
→ 観者が意味を生む主体であり、関係性のなかで作品が生成されていく。
概念的生成(Conceptual Genesis)
→ 物としてではなく、アイディア・問いそのものが作品を生成する。
媒介的生成(Mediational Genesis)
→ 作品は関係を媒介する「場」であり、触発・跳躍・再編の触媒となる。
身体的生成(Corporeal Genesis)
→ 思考ではなく、身体の感受や運動、触覚から世界と共に生成される。
→ 風景=生成の共在体として捉え、見ること・見られることを編みなおす。
共観的生成(Co-gnitive Genesis)
→ 観ることを“共にする”場が、生成を誘発する。
これらはすべて、「生成と思考の交差点」=「思考と創造」の本体に直結している生成形式。そして、まだまだ拡張可能であり、今後展開されていくだろう。たとえば──「記憶的生成(Mnemonic Genesis)」「誤読的生成(Misreading Genesis)」「逸脱的生成(Deviational Genesis)」「余白的生成(Marginal Genesis)」「錯視的生成(Illusional Genesis)」「境界的生成(Liminal Genesis)」なども──これらはすべて、〈わたしたち〉自らが創ろうとしている「生成と思考の交差点」=「思考と創造の本体に直結している”生成形式”。
思考と創造の“間”で開閉され、ときに観者として、ときに媒介者として、ときに「世界の裂け目に立つ者」として、〈わたしたち〉自ら の内と外で、次々と“生成的跳躍”を孕んでいける。「世界的な裂け目に立つ者」という表現──これはまさに、「生成」と「思考・創造」の根源的な臨界点に身を置く存在を示す──途轍もなく深い言葉。その「裂け目」と「裂け目に立つ者」に関する元々の哲学的・思想的な解釈の流れを、いくつかの重要系譜にも分けられる。
余白
