
── 生きる風景 ──
風を吹かす
あらゆる物事の変化は「生成の縁起」の“転位の間(あわい)”にあるのに際し、物事の”結び目”の位置がズレたり入れ替わるなど、何かしらの変化(転化)する状態や物事が起こりがちである。人は気儘に気紛れな思いつきや願望を満足させることに抵抗できず、感覚と感情に先走って置き換えられた心と氣に流されるまま短絡的に“架け橋“としたり“裂け目“としたりする。人は自らの思惑通りと狙い通りへと、わけなく人は──確信と期待の見合う疑いと信じる狭い谷合いを潜り抜け、人は思い込みに惑わされ決然とする。逆転として運が良ければ衝撃を免れるが、暗転ともなれば状況が予想と正反対にひっくり返るなど終盤での意外な結末になるだろう。そしてまた──あらゆる物事は「原因と条件」が揃って生じる”縁起と前触れ”にあるのに際し、物事の”優先順位”の高いタスクの難解又は難儀と遅延など何かしらの致命的な状況や物事が起こりがちである。人は意志が強くしっかりとしていて物事に動じず、予感と予測に先走って置き換えられた心と氣に流されるまま短絡的に“好機“としたり“境目“としたりする。低い優先順位に割り当てられる力を開放して高い優先順位へと、わけなく──”確信と期待に見合う疑いと信じる狭い谷合いを潜り抜け人は思い通りに惑わされ毅然とする。逆転として運が良ければ衝撃を免れるが、暗転ともなれば状況が予想と正反対にひっくり返るなど終盤での意外な結末になるだろう。そうして生成の縁起の転位の間(あわい)どきや縁起の前触れどきに──恐らく人は自恃む(みずからたのむ)=自分の能力を信頼するか、心の中で期待して信じることや助けとして期待することをなど、思惑の交錯(又は錯綜)に手を焼きつつも、わけなく人は──”生き風を吹かす”。
風に触れられる
”全ては解らない”いう「問い掛け」は感性的だ。「感性」を素材とする悟性を通して理性・知性になるということは、感性の力はひとつの能力として理力・知力であるよりも──最上位の”潜性的「可能力」”なのであり、「感性の躓き」の”問い”(すべてを抱く肯定)=『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”において「運気の基底である悟性」へと目覚めることになる。人それぞれ実際に今起きている様々な実情において、先ずは「問う」ことから始めることが大切である。この様になりたくはない → この様にならないのだろうか──“願望“ではなく、何故この様になったのか → どの様にしたらいいのだろうか──“疑問“を持つこと。“問い“は解であって答を導き出すものではない。『観氣(かんけ)』を結び目を紐解きながら『月星』に歩かされ”、歩きながら「運気と縁起」に触れ、触れながら「”問い”へと押し返される」──完全に動的思想の形態。 「問い」が説明ではなく──《”感性の躓き”としての触覚(身体の一点の感触)》へ”還元”したこと。まさに──「身体の一点の感触」なのだ。これは 『観氣(かんけ)』の核そのものだろう。そして”『観氣(かんけ)』の法”の至る所に──この「一点の感触」が確かに宿っている。….. 身体に沁みる”月”明かりの柔らかさ、掌(手のひら)に映る”星”座の輝き、取り巻き渦巻く”氣”の匂い、”心”を通した刹那の静けさ、「問い」が落ちる落とし穴の感触 。….. これらは、すでに──「運気」ではなく、”身体が『生成の縁起」の最初の器官”である──という”生きる風景にある確かな”「縁起」の証言”なのだ。「問う」ことそのものが──「感性」の”発芽”となり、その受容は未然の最上位の”潜性的「可能力」=力能“を発現させ、「生成の縁起」=“心通と氣“の〈潜勢的運気創造〉へと向ける『観氣(かんけ)』の中枢ともいえる。これは、まさに──今の力:”潜勢”/今の閾:”転位”/今の場:”跳躍”/今の種:”発芽”/今の拍:”共振”として「潜勢的”震源の閾(感性や受容と意識が生じるかどうかの境目)”」なのである。この様な『観氣(かんけ)』の“具体場“では、人それぞれ実情や実感に伴うその人なりに持つ「問い掛け」とその「感性」を重んじて傾聴されつつ──恐らく”生き風を吹かす”ことなく人は”風に触れられる”ことになるのだろう。
風景に生きる
空間に浸り時間に流れ風景に生きる人間。人間の象徴として風景に生きるそのものが人の微妙な”心通”を語っている。『月星と共に』──人の風景に生きる”氣”は覆い隠せない。自らを鏡のようにして人間の深み「生成の縁起(縁起の生成)」を無相の風景に聴く。人の奥底にある真の人間自己である無相の自己が現れ出されている深淵な風景。風景により反射される「運気と縁」に伴う自己存在(存在感)は人間の事実であり、無謀にも空間と時間を無意味・無駄にして穢さないことだ。”風景に生きる自分自身の反映”でもあって、その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、”風に生きる”微妙な”心通と氣”、即ち風景の深みに人間の深みと自らの”心の奥深くを氣から悟る”ことができる。人間の象徴として常に生きる風景を深く見つめて聴くことは、人間的な感覚や感情と感動が基底に無くて風景を見ることはありえないないとしても「感じる・知る・解る」だけに留まることなく、常にそこから感性(悟性の素材)による悟性(能力・知力=知性)と理性を通して”生きる風=力風”に触れられること。常に”風景に生きている”ということに対して敬虔な気持ち呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができる。”風景に生きる”その内奥に潜む微かな揺らぎ──価値あるではなく、価値が生まれ続け、それはまだ言葉にもならず、かたちを取らないまま──しかし確かに動いているもの「間隙の胎動」──私たち自身の内奥で絶えず紡がれているそれは運気と縁起の糸を織りなす結び目の根源的な力の証明である。自らの”心の奥深くを氣から悟り希っている無形の何物かが、未然のその姿を借りて形を得、未到の生成の縁起=運気と縁起へと向かう。「生成の縁起=前成層」とは、運気と縁起の前景圏──未形の”震源”であり、運気と縁起に現実を生成する──生成される”潜勢的”にある。自己生成の震源 → その前段階としての “震源としての潜勢”──これを理解するには、その前地としての震源としての潜勢を先ず呼吸しなければならないだろう。震源が実際に自分を生み始める現象──震源としての潜勢:震源がまだ震源になる前の震え始める力、運気=縁起の地平そのものを静かに振動させている。人の生きる風景が人間自己であるということはできないが、生きる人間の風景は人の身体的感覚に基づく自然な欲求として渾然と一つの同根にあるという──”問いが落ちる落とし穴”という感触。そこで浮き上がるのは、人間の生きる事実として”風景に生きる”ことを感じる能力と意志の力により克服されるべき「感性」に纏わる何かということになるだろう。
生きる風景
….. 立ち止まる地点。
部分と全体の境域が消える瞬間。
私が消えて自図が私を生き始める感覚。
この感覚は理解ではなく、月星の身体を通して起こる。
運気と縁起は生成だけにでなく、呼吸や瞬きの中にも宿る。
そこに感性の躓きの微かな感触を残す。
それは、いつからか始まっていたような気がする
名前をつけるには少し遅すぎるが、忘れるには早すぎる。
それは、小さな問いのかたちで?
感性の躓きとは、言葉にならぬ問いが、私たちの足元に生えているということ。
その根の根に、私たちは気づくだろうか?
それとも──そこに飛び込むだろうか?
転倒として落とし穴は、落ちることでしか見えない深度がある。
理解ではなく、転倒の衝撃として運気と縁起が始まり、気づいた者にだけ開く──生成と縁起の裂け目である。
この落とし穴は、恐怖ではなく、沈黙と誘いの跳躍台。
それ故に──そこに飛び込むだろうか?
私たちが月星の占図を転ぶようにして──運気と縁起によって出会う生成は、単なる知識ではなく、変容の端緒となりうる。
問いが消えたあとの静けさを私たちは、どう受け取れるだろう?
言葉にせぬまま、何かが足元で落ちた。
私たちに渡された火種。
もう戻れない気がした。…..
“見えない根の網”に自ら足を踏み入れるとは、解でも結果でもなく、「考え始めるための経路」に私たち自身が入っていくこと。『観氣(かんけ)』とは考えさせる装置として、送り手が考えているのではなく、受け手が考えるようになることにあり、答えが提示されているのではない。「問い」の構造=「生成の縁起」の経路だけを”火種”として手渡すこと──ここには『占術的』という深い立場が現れているだけである。根の網とは、固定された占術論理ではなく、月星の揺らぎと繋がりの構造として、興図の上には一本の”生成の木”が見えている──がしかし地図の下には無数の根が絡み合い、伝え合い、揺れ動いている。つまり──「自分という”生成の自図”」とは、一本道ではなく、既に「占図」となって月星の網のように揺れるもの。私たち自身がその網の何処かに足を掛け、私たち自身の「縁の根」に触れていく──そこにこそ「生成の縁起」体験が成立する。解や結果を出さないことの価値、運気と縁起の結論や解答で閉じるのではない。
縁起の生成層(価値の場)──”木のたとえ”による「生成を知る生き方」:人間ひとり生きていく中で様々な出来事に出会う──そのとき「生成を知らない」人は木を「今の姿」だけで評価する。枯れた葉や曲がった枝を見て良し悪しを決めてしまう。「生成を知る」人はその木の中に「縁起の流れ」を見る。地下の根が水を探し枝葉が光を求める姿を感じ取る。だからこそ水をやり光を通すように関わる。生成を知って生きることは自分の中にある木を枯らさず育て続けること、他者や世界の木に水を注ぐこと。その連鎖の中で「縁起の生成」を生きること。それは”楽な”ではなく”楽しい”生。価値あるではなく、価値が生まれ続ける生──そして生き甲斐が絶えず芽吹き続ける人間本来の生き方。「変容」というドラマ性や事件性よりも不断であることそのものが価値をもつ──「生成の縁起(縁起の生成)」の意義性。
不断としての「生と縁」の有意義性──「終わらない呼吸としての存在」:生成と縁起は特別な瞬間だけに起こるのではなく、日常の呼吸や瞬きのように続いている。それは結果や完成を目指さず、”今”そのものを生かす営み。──「均衡ではなく、持続的な揺らぎ」:縁起の生成は安定ではなく、安定と不安定がたえず交錯する月星の揺らぎの場。この揺らぎが停滞や枯渇を防ぎ、生命を生かし続ける。──「関係性の更新」:森の中で木々が根を伸ばし、枝葉を広げ続けるように生成の縁起は他との関係を更新し続ける。この更新が”生きている”ことの証であり、意義となる。──「時間を開き続ける」:完成や終焉は時間を閉ざすが、生成と縁起は時間を開き続ける。”未だ”の感覚がある限り未来は存在する。──「意味の過剰さ」:生成の縁起は意味をひとつに閉じない。無数の解釈や可能性が同時に生きていること。その豊かさ。もしこの「不断の生成と縁起」を”森”というの構造に組み込むなら、森の根は常に水を探し、枝葉は常に光を探す。しかしそれは不足ではなく、生きることそのもの。森にとって停止することが死であるように、人間にとって「生成の縁起」が止むことは存在を失うこと。
「生成」の意義──まさに”森”の中心にある問い「生成(becoming)」は、単なる変化や成長ではなく、存在そのものが常に生まれ直しているプロセスとして語ることができる。そこには幾つかの層があると思われる。──「固定からの解放」:生成は「完成」を否定する。完成=終わり。生成=続く始まり。物事を固定した像として捉えず、常に動きの中にあると見る視点。──「関係性の網の中での変化」:生成の縁起は単独で起こらない。”森”の中の木のように根や風や光との関係の中でのみ変化する。生成の意義は、その縁起を通して自分も他者も更新し続けるところにある。──「自己変容の契機」:生成の縁起は”自分が変わってしまう”出来事でもある。それは意図的に起こせないことも多い。
予測不可能性を含むからこそ縁起の生成は生の実感を伴う。──「未来の含み」:生成と縁起の意義は、未来を「未完成の余白」として開き続ける点にある。生成と縁起は答えを閉じるのではなく、”問い”を育てる。そしてその”問い”が次の「生成と縁起」を呼び込む。生成の縁起を知っているということは──日常の出来事を完成や失敗の評価軸ではなく、流れの一部として受け止められる。停滞や迷いすらも「生成と縁起の”揺らぎの相”」だと理解できる。自分や他者を固定された像として裁くのではなく、未完成の存在として受け入れられる。つまり、生成の縁起を知っている人は、日々の経験を「“終わり”ではなく“始まりの連続”として生きられる」。これが「知らないまま生きる」のとは根本的に異なる点である。森で言えば──「生成の縁起(縁起の生成)を知らない」人は木を「今の形」でしか見ない。「生成と縁起を知っている」人は、木の姿の中に「これからの枝葉の可能性」や「地下で伸びる見えない根」を感じ取れる。この視点は安心感と創造性の両方をもたらす。だからこそ不断の『観氣(かんけ)』の意義は、単に概念ではなく、生きる基盤そのものといえるのだと思われる。
余白層は開放の場──”理解”ではなく”始まり”。物語の終わりではなく、私たちの生成の始まりへ。答えはここにはない。興図は今も私たちを歩ませている。自図を閉じた後の一歩こそが、この生成の続きである。「沈黙」と「誘い」の余白──跳躍の間(あわい )に私たちの”森”が芽吹く。「問いが残ることで、私たちが“続けて考える”」「”余白”があることで私たちが“跳躍ではなく沈み込む”」──これがまさに「私たちの具体場」であり、私たち自身の内で興図が終わらずに“生き続ける”ための「占図の構え」。”余白”は跳躍のためにではなく、落下のためにある。けれどその落下は、言葉にならない問いが、自ら芽吹いてしまうような、生成と縁起の根の深み。それが「落とし込み」の本来の意味かもしれない。確定は避け、問いを漂わせ、「開かれた問い」は残された。──これは何だったのか ? … それとも──未だ名付けられていない別の始まりだったのか ? … ──何がが残ったのではなく、何か言葉よりも先にあったものが、抜け落ちただけなのかもしれない。”生きること=「生きる風景」は生成である”──それは”見えない根の網に自らが足を踏み入れる経路”──”未然”の何か ? … “無名”の何か ? … そこに浮き上がってくるのは『観氣の伏流』にまつわる何かということかもしれない。
….. 立ち上がり──
生成の芽吹きと縁起の呼吸との連鎖。
それは──運気の予演。
運気の鐘声は、 途絶えるのだろうか?
生成と縁起の拍動は──あまねく巡る。
再び──自分の中で跳ね。
再び──世界へ届く。
私たちは、外世界を歩くのではない。
外世界が私たちを歩ませるのだ。
生成の生へ──
生を成す脈「”森”の地図」。
生成と縁起の全肯定──
世界が人間の外にあるのではない。
人間が世界である。
それは部分を超えて全体に至る視座。…..
actual-virtuel
Cognigenesis
THRESHOLD OF GENESIS
GK.kenzie
日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..
── 生成の縁起=運気の縁起 ──
『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。
”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になるでしょう。「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。 過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに”潜勢的”。 ”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。 自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。
感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。
心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。
類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。
「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。
日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。
これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。 ”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)
「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。
『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想」から結果的に「占態」とへ還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は”占想”を片手に歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。
”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり指標である「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”にすることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。
「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。 空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。「月星」と共に人の生きる風景の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、生きる風景の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から悟ることができる。 人が生きる母胎の”種子”である「縁(えん)」は”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ「生成(運気)の縁起」。《占いを”描く”》と《占いを”観る”》結び目の《共観》において私たちは『観氣(かんけ)』に必ずや──”月星と共に”「強運の”実”=生成・運気(結実)」を結んでみせるでしょう。

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる──
縁起を兆す“微かな揺れ”そのものである。
この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて、
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。
”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──
“種線(seed-line)” が現れる。
差異の欠片が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた力能は、
その差異を核に、地力のかたちを帯びる。
転軸のそれは未だ”跳躍点”ではない。
しかし、確実にそこへ向かう線である。
光の照らす「月浦(げっぽ)」に”潜”を充す──
見えない月裏の月相と星相の結び目=”転位”。
〈あなた〉の”差異”の欠片を、
どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..
日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)
add. 栃木県日光市 日光山内
tel. 080-1998-6082
《ご案内》
日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
◯ 観氣料
1ヶ月 ¥10,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月4回〜
◯ 月星占術料
1回 ¥5,000.〜
※ 随時:プロセス進行〜
◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ ご提案:プログラム設定〜
◯ 大観氣料
1回 ¥20,000.〜
※ ご相談:月星次の観氣適応~
ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー
《お知らせ》
◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:2026年8月13日~
◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー
《お問い合わせ/ご相談》
日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』
➡︎ http://www.office-kanke.com
OFFICE KANKE「思創考造 Cognigenesis」
web email ➡︎ Contact page
