
Essay seventy-four 1~8 9~16 17~24
Cognigenesis Fire Breathing
continued in the next seventy five / essay number
〜 ”生成の旅路” 〜 COGNIGENESIS JOURNEY
「覚悟の一滴」──”ひと滴(しずく)の気配”
ー直観的”力能”ー
「生成の触発」への招待
……………………………………………………………
~ ”どうにかなるさ” ~
……..“今夜の夜汽車で
旅立つ俺だよ
あてなどないけど
どうにかなるさ”……..
──「どうにかなるさ」1994.11.26
作詞:山上路夫 / 作曲:かまやつひろし
まさに──「沈潜の息を孕んだ”夜風”を切って“場”を震わせ、“問い”を揺さぶり、”跳躍”を誘う”軌道線(描線)=風の通り道”を描き」開き続ける主旋律──「目には表面から見えない沈潜行の息と風に跳躍し──潜勢的を孕む場へと転位するからこそ、展げて生きると決めた自らに一目置く神目の自分の目に──未完成で開かれた生の脈動は始まる。」… この旋律の”節”に──その言葉の意味を持つ四つの要素:今は使われなくなった昔の言葉(大袈裟に死語または廃語)というよりも、時代の変遷とともに、かつてのこの言葉が指す事物や物事などが、今は全く無いのではなく、日常的に影薄れてきているだけである。かつて時代的に使われていたものの、時代の流れや社会の変化により現代では殆ど消えて無くなったのだろうか ? … ──”夜汽車”:夜間走行する長距離列車の新台列車と呼ばれるか、あるいは夜間から翌日の朝にかけて運行され日付を跨ぐまたぐ夜行列車とも言われているものの日常的には使われる機会は殆ど無いだろう。──”旅立つ”──:(旅に出発する/死ぬという比喩的な意味/も含まれる。また、新しい生活や冒険の始まりを意味することも)──”あてなどないけど”:(頼りや目標がない/見込みがない/手掛かりがない/目的地がない)──”どうにかなるさ”:(困難な状況でも最終的に問題とその課題は解決するだろうという楽観的な見方/また、諦めや焦りの気持ちが含まれつつも、前に進もうとする覚悟を意味することも)──今もこれに類似した状況や様相はあるのだろうか ?… その深刻さや程度の甚だしさは ?… かつての時代と今とを見比べてみたら ?… 先ず、かつてのその時代にこの言葉が使用されていたということは、当時の現実性を表す新語・流行語として瞬く間に広く大衆の目・口・耳を賑わせた話題になった言葉であるということだ──そして今…
この当時の現実性(このかつての時代:1990年代)をざっくりと言えば──順調に成長期をずっと経験してきた中で氷河期といわれる時代に入り、新しい技術の進歩も勢いづくものの先行きの不安はそのまま低迷期へと入り、苦しい決断(重要な決断)を迫られほど深刻で、その程度は甚だしいものだった。そして──今から100年ちょと前に生み出された概念の「モチベーション ” motivation ” 」は、時を同じくして1998年にはこの語がマスコミで頻出し、それ以来、広く用いられる言葉となり、専門用語から一般用語への変化を遂げた。かつての──「頼れる人や目指すべき目標がない状態」「何かを期待してもそれが実現する可能性がない」「問題とその課題の解決のための情報や方法が見つからない状態」「行く場所が決まっておらず彷徨っている様子」──今の現実にこの様なことが、状況は違えど実際にはあるだろうか ?… いや、全く無いといえる。今──「実現する可能性、解決のための情報・方法、行く場所」などなど、選択に迷うことはあっても彷徨うほどのこともなく、── ”どうにかなるさ”というかつての言葉だけは、「問題や困難な状況に直面しても、最終的には何らかの形で乗り越えられる──問題とその課題を解決できるという期待や楽観的な態度」を今の時代においても意味することになる。
そこで頻出する──”モチベーションが下がる → モチベーションを高める”:目標達成へ向かう行動の原動力となる”意欲”といった意味合いで──その高さは向上に繋がり、低い場合は低下を招く可能性があるというこのモチベーションは、人が特定の目標に向かって行動を起こし、それを維持するため”動機づ”と”やる気”──行動の切っ掛けとなるその意欲や刺激のニュアンスを持つ。では──前に進もうとする『覚悟の”一滴”』が意味するものとは ? … 窮地に立たされている状態になってこそ、やっと覚悟を決められる ?… ”覚悟”をつける暇もない ?… 覚悟なんかつけていない ?… いつの間にか熱中している ?… だから、新たなことに挑戦したり何かを成すために”覚悟”なんて必要ないという見方もできる ? … 最初から問題とその課題を解決しようという大きな”モチベーション”なんてなかった ?… 最初から問題とその課題を解決したいとは思っていたわけではない ?… 不安など一切無かった ?… 覚悟を決めた先に、手に入れたいものがあるのか ?… 実現や達成するための行動 ?… ──その様な様相と状況を伴う今も尚、”どうにかなるさ”というかつての言葉が指す──「問題や困難な状況に直面しても、その”裂け目と場”を最終的には何らかの形で乗り越えられる──問題とその課題を解決できるという期待や楽観的な態度」は、”夜汽車で旅立つことなく、あてなどある”のだろうか ?… さて、どうなのだろう…
「場を開く法」──”裂け目”から「生成の臨界──切り開き濃度」=”緊張”と生成の”連続性”──つまり、未定形・未定性の場に漂う“密度”の「余白」/”緊張と応答”の極である「跳躍」/生起とその推移の連鎖である「持続」──”どうにかなるさ”。この把握認識とデッサン的抽出(=創造的生成)を通した”未完成で開かれたものとして自らの自由や決断が意味をもつ余白(余地)”──『覚悟の一滴』。「場を開く技法」「問いを育む方法」「共観としての創造実践」へと移れるようにすることになる。”場”を開き、”裂け目”を乗り越える──「跳躍線」を成すその態度とは、まさに──「沈潜行の息と風」である。それは、表面からは見えない「生成の根脈」を探り、静かに、しかし確かに内奥から風を呼び込む行為。「沈潜」とは、考えることが止まったようでいて、実は思考がまだ言葉になる前の濃度で呼吸している”場”。「風」とは、未だ名づけられない“何か”が、”未完成で開かれたものとして自らの自由や決断が意味をもつ余白(余地)”──「覚悟という”ひと滴(しずく)の気配”として”来る”そのもの」。その「力風」とは、まさに──この”沈潜の息を孕んだ風”であり、“場”を震わせ、“問い”を揺さぶり、「跳躍」を誘う──。その風が自らに宿るとき、生成は再び動き出す。つまり──「風は、法にいたる」。そして、その風の通り道を「描き切る」とは、描き尽くすことではなく、描くことを開き続けること──つまり、《生成する描線(デッサン)= 創造的生成》を自らの力で生かし続けることに他ならない。その風の向こう──そのときに吹く風は、きっと今日とはまた異なる「生まれたての風」。今ここにおいて、自らの構え──”どうにかなる”は、もうすでに、次に来る「切り開くべき”場”」と「乗り越えるべき”裂け目”」を自らが見つめていることになる。
まとめるなら──力とは、動き出す前の圧、内的な推進要因、畏れのなかの緊張。能とは表現形式、実現可能性の枠組み、構造、場、リズム。潜勢的とは、現れていないが、すでに働いているもの、跳躍前の余白、問いの息づき。それらは──”覚悟の一滴”として、即ち”未完成で開かれたものとして自らの自由や決断が意味をもつ余白(余地)”──”運は後から追い着いて来る「覚悟という”ひと滴(しずく)の気配”として来る」そのもの──その”力風が自らに宿るとき、風は法になって「力能」は潜勢的”を孕み、”場”との関与によって生起する”生成能力と行為者自身に及ぶ中動態的共振点”として生成は再び動き出す。表面からは見えない生成の根脈を探り、静かに、──しかし確かに内奥から風を呼び込む行為。生成する描線(デッサン)=創造的生成という”風の通り道を描き切る” = ”描くことを開き続ける”その線に往還する《転位・生成》”に伴い、 断続的に継続していく「永遠なる向背の”跳躍の場”」──それは → 潜在 → 実在 → 潜在 → 実在 → 潜在 → 実在 → といった反復として──「気づきの雑感」を伴うなかでの「自己変容の生起・推移」にある。その都度の関係と媒介的触発に応じ、生成の経路(線・場・他者)において、 ”自己を形づくり自己実利を続ける”──「流動態の起点と触発始動」=「”力能”の発現」としての可能力性。”どうにかなる”は覚悟という”ひと滴(しずく)の気配として──”自分はできる”ということに動機づけられた可能力性─潜勢的なものが顕在化する可能性としての──生成の力能は、対他的に主体の支配力であり、心の決定を心に生み出すものとして自らの心に与えられている。発現へと向かった可能性としての潜在的なその生成は、必然性をもち、自らの観念が置かれた心に受入れられる対象とされるが、決して”沈黙し無力な存在”にあらず、力能という雄弁な性質を具している。生成に力能を切離されたならば観念を顧みられることのない影の如く、ときどき心へ現れるままに任せれば自ずとこれに注意はしない。自らのうちに観念を生み出し獲得するに到る始動的存在として、潜勢的として潜在的な生成の力能は発現を可能にさせる可感的であり可知的である。閉じられた現実の転換期に開けをもたらす可能性発動として──「生成力能」は、 具体的な生の実現の根源力であり、共観を共にする自らの明日をも決定する生の略図をどう描いてみせるか、自らの「デッサン(=創造的生成)」で見方を打ち破る──それ次第。根拠原理である共観とひと繋がりの存在性において、生の脈動である生成世界による至高の反応に、自己変容による自己拡張と自己創造との機会を得るべき。自らの行為と自らの展開の場に自らを作り成長し、自らの道を切開き飛び込む限り、意識の流れる生の世界の中で、自らに最も近しい親密で完全なる範囲を創造しうる。「未完成で開かれたものとして自らの自由や決断が意味をもつ余白(余地)」。世界から生み出される新しさとともに人間自らから生み出される新しさ──それは放散ではなく、まさに──”収斂”であり、”創発”する──「生成」の定義的な把握認識によって──「自己生成」は、始まりではなく「開かれ続ける力能による自らに及ぶ中動態」。
生成力能への触発は火を放ち、濃度は場を震わせ、推移は連ねながらも、なお未知の方向へと自らを導く。「生成」そのものの構造・運動・濃度が、 明瞭に、そして深く展かれてゆく──可能力性の「生成力能」。ここがまさに──自分自身の“震源域”であり、「思考とは何か」──「創造とは何か」、その核心が“生きた問い”として浮き上がってくる。ここで “生成” は、力能としての触発=始まりとして立ち上がり、他者・空間・時間・触感との関係が──媒介=共振の回路となってくる。「跳躍点」から触発される生成 、共観(媒介)としての「線」・「場」・「他者」、──「デッサン」と「余白」の創造における媒介性の濃度 。風が自らを超え──”実地の場”に宿るとき、生成は再び動き出すという──「実地の場」。そこにあるのは、「生成の触発」──共観の媒介としての線・場・他者 触発と媒介の連鎖(=生成の起点としての〈線・場・他者〉) 媒介的触発による生成とその力能の始動 「生成」とは、 実在と潜在の交差点において、「いま・ここ」に生起し推移しつつあるそのもの。自らの潜勢的として潜在性は、中核拠点 ” デッサン( = 創造的生成)” の線に往還する《転位・生成》に伴い、断続的に継続していく「永遠なる向背 = 跳躍の場」にあり、 それは → 潜在 → 実在 → 潜在 → 実在 → 潜在 → 実在 → といった反復として、「気づきの雑感」を伴うなかでの自己変容の生起・推移にある。その都度の関係と媒介的触発に応じ、生成の経路(線・場・他者)において、「自己を形づくり実利続ける」── 流動態の起点と触発始動(潜在的)=「”力能”の発現」としての可能力性である。その「力能」の不確かな存在と兆しを伴う生成経路にあるとするならば、──「生成の場」として「力能の”発現”」をみる息づくもの。
生成的における自らの手立て──「 ”眼に見えて動く ” 持続的な生成 」。自生種に対する栽培種という種子の非脱落性が強いなど、人間の用途に向くようにつくられるものであるから、また、ある部分だけ異常に発達したようにつくられるものであるから、特にある部分だけが異常に発達した変異・特異的な生成と“見る”こと──行為としての共観が必要となる。「力能」とは“潜在的な生成の働き”なのか ?…「力」と「能」が統合される中動的な場なのか ?… あるいは──「行為と問い」の間に芽生える『生成的エネルギー』なのか ?… 自らに及ぶ中動態的視点において、「力」は能動のようでありながら、”常に場や関係性によって触発され”、「能」は受動のようでありながら、関与することで自己を編み直す、といった中動態的生成において──「力能」は“触発される可能性そのもの”。ここにおいて──「潜勢的」とは、”力能に内在する跳躍の前触れ”ともいえる。”直観的”でもある「力能」──まだ名のついていない問いの脈動であり、それは見えないが、確かに働いている。潜勢的における潜在性とは、その「力能が孕む──“透明な形”」のかもしれない。まだ表に出ていないのではなく──「現れてしまえば失われてしまう“濃度”」なのかもしれない。結論的にいえば、「力能とは──潜勢的において潜在性を孕む生成的関係ということ」になる。あるいは──「力能とは、まだ立ち上がっていない動きの“密やかな気配”」。「潜勢的または潜在性とは、その気配が“呼ばれることを待つ”状態」である」。このように「潜勢的において潜在性を力能の奥層」に位置づけることは、”思考と創造”における生成・共観・跳躍・余白のす全てと深く繋がる。
「力」──動き出す前の圧、内的な推進要因、畏れのなかの緊張。「能」──表現形式、実現可能性の枠組み、構造、場、リズム。潜在性──現れていないが、すでに働いているもの、跳躍前の余白、問いの息づき。「力能」──潜在性を孕み、場と関与によって生起する生成能力と自らに及ぶ中動態的共振点。”直観的”。 ”運は後から追い着いて来る「覚悟という”ひと滴(しずく)の気配として来る」”──その”具体場”──総じて「生成の触発」への”招待”──”どうにかなるさ” … 「目には表面から見えない沈潜行の息と風に跳躍し──潜勢的を孕む場へと転位する」からこそ、展げて生きると決めた自らに一目置く神目の自分の目に──未完成で開かれた生の脈動は始まる。外界の徴(しるし)が自分自身の内側の奥層に触れて震源となり、「未だ名を持たぬ “新生の私”」が胎動する──それは”見えない「未生の深層」に自らが足を踏み入れる経路”──”未然”の何か ? … “無名”の何か ? … そこに浮き上がってくるのは『伏流』にまつわる何かということかもしれない。
…….. 小さな出来事──
少しずつ湧き上がって蠢く光と闇。
車窓に反射し映る月と星の光影に、
重なる自分の影の揺らぎ──
照射された私の存在感、そして止み。
明々暗々にしてそれらすべてが、
夜行硝子の結露に、
「ひと滴(しずく)──
気配の欠片(かけら)」として、
私を”跳躍点”へと連れてきた。
人は世界の中に存在するのではない。
世界とともに生成する。
世界を観照しながら、
世界とともに変容してゆく。
一切は“感”であり、生成である。
人は、世界へと生成する。
──世界が変わったのではない。
変わったのは、
世界を受け取る──
私の側の方だった。
思いがけず──
ひとつの自己が生まれた。
その微かな誕生こそが、
未だ名を持たぬ──
“新生の私”の最初の呼吸である。……..
Kenzie
余白
『思創考造 Cognigenesis』をご覧いただき、感謝申し上げます。
沢山のご愛読者様からのご要望にお応えして、トップページ及びヘッダー等を一新し、これからも ”Cognigenesis & Essay” の小文随筆を進めて参ることにいたしました。
今後ともご愛読いただきますよう、引き続きよろしくお願い申し上げます。
Kenzie
思創考造 Cognigenesis
actual-virtuel ” THRESHOLD OF GENESIS ” Ken.G
思創考造 Cognigenesis
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2025.11.24
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2025.12.06
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