
Cognigenesis Part-Ⅰ Part-Ⅱ Part-Ⅲ Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)

Self-Illuminating, 1924. Wassilyevich Kandinsky, Artizon Museum Aatizon Bijutukan, until 2018 Bridgestone Museum of Art, is an art museum in Tokyo, Japan.
視覚と思想の跳躍の連鎖
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」
強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。
ワシリー・カンディンスキー
Wassily Kandinsky
生成の“前兆”としてのカンディンスキー:
響きによる生成の兆し。
「感覚の深層からの招待図」への最初の応答。
色と響き、共観、深層知性の覚醒。
色彩と形態の純化、内的必然性。
見えるものの背後にある「響き・共観」に通じる。
内的必然性/色彩の響き/線と点の霊性といった感受の深層に潜り、これから新たな次元として捉えていく『思創考造』における《生成へ向かう”分岐線”》、「共観」「響き合う知性」「潜在力の振動」の主題に到達するもの。
位置づけ:
• 本書第Ⅳ部における“最初の共鳴”の起点として、きわめて本質的。
• “視覚”から“象徴”を通り越して“生成”へ至るための、最初の変調点(modulation point)。
•「内的必然性(innere Notwendigkeit)」「色彩の響き」「形態の霊性」は、ま さに“思考以前の生成の徴”**と重なる。
• 感受の深層に直接的に触れるための“媒体”としての色・線・点。それは、記号では なく、“先触れ”としての兆し。
本書との接点:
•「生成の招待図に最初に応答する」とは、極めて優れた比喩です。
•『思創考造』において、「感覚(知覚)」が「思考」へと“先触れる”場において、カンディンスキーは象徴の発明者ではなく、生成の媒介者。
• カンディンスキーの登場=生成的知性の“共観の場”の開示。
本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』
序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
最終章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学
続 編:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景
思創考造 Cognigenesis thinking
【第Ⅳ部】:《思創考造の生成》
「生成の”新たな次元”」
生成と構築
──触れられる思考と創造の裂け目
……………………………………………………………
DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE
……………………………………………………………
第Ⅳ部:
「生成と構築」
──生成の”新たな次元”
第1章:
絵画を「見る」と絵画を「描く」──生成の”触地”
◾️はじめに:
……………………………………………………………
絵画を”見る”と絵画を”描く”という──
「生成の触地」とは、
「触地」
‖
・「触れる経験」
↓
・「絵画・音楽との出会い」
↓
・「生成の兆し」
↓
・「跳躍の道」
──という「流れの構造」にある。
キーワード
• 触地(Contact Ground):
=身体的接触と思考の交差。
• 跳躍(Leap):
= 知覚と意識の生成的転位。
• 生成感覚(Generative Sensibility):
= 触れることで立ち上がる新しい感覚。
• 創造的受容(Creative Reception):
= 見る行為が思考を生む。
• 共観(Co-Perception):
= 描く者と見る者が共有する生成の場。
章内の層分け
1.-触れる記憶の層
:
→ 絵本/子守唄/初めての絵画との出会い、
→ 身体に触れた感覚記憶の回想。
2.-問題提起の層
:
→ 「見る」と「描く」は並列か?
→ あるいは別の生成的場か?
3.-哲学的・理論的層
:
→ 知覚経験の限界/創造的受容、
→ 共観的思為。
4.-生成の現場の層
:
→ 水面/同心円の比喩、
→ 触地感/跳躍感と場の変容。
5.-総括と展望の層
:
→ 経験のされ方の変化、
→ 生成の新たな次元への道。
◾️冒頭:
……………………………………………………………
「生成の思考体」と「生成感覚」
触れる記憶の層:
絵本・子守唄・初めての絵画・音楽との出会い──”身体に触れた”感覚記憶の回想。
・・・・・・私たちは、生きるなかに、
──ふと振り返りみる。
思えば、
幼子の時より、
いろいろな『絵本』に触れ、語りに触れられ、
また、いろいろな”子守唄”の『音』にも触れ、
歌声に触れられ、
歩み育つ──
成育の地と道に”触れてきた”ように、、、、、
そして、
物心つきし時より、
様々な《絵画を”見る”》ことや──
〈音楽を聴く〉ことによって、
身体で《絵を”描き”》、〈唄を”歌い”〉、
歩み生きる──
成長の地と道に”身体で触れてきた”ように、、、、、
そうして、
『絵画」や「音楽」は身体に”触れ”、
──身体に地と道は”触れ”、
歩み育ち、歩み生き、、、、、
思い起こせば、
これまでの”触れる”絵画や音楽は、
──”触れる地と道”だった。
思いがけず、
絵画や音楽に”触れられ”、
生き長らえる”地と道に”触れられ”、
「自分だけの答え」が見つかる、、、、、
思考が開始される──
即ちそれが創造であり、生成である。
身体を撫でるように「生成」の”兆し”は、
絵画も音楽も「触れられる=視」の感触性。
新しい触覚的価値を解放した──
「触知=生成感覚」の介入によって、
変様させられ主体へと生成する。
自分と世界を観照しながら世界と共に生成する──
自らが超出の”身体の触地”と”跳躍する道”だった。
それは、「触地」の感覚、、、、、
「生成」は、「”思考”のはじまり」を超えて、
──“出てきてしまう動き”に息づく。
私たちは、生きるなかに、
──ふと立ち止まり知る。・・・・・
◾️序 編:
……………………………………………………………
「感覚・思考・創造」の三軸──〈絵を”描く”〉者と〈絵を”見る”〉者の往復書簡的関係
問題提起の層:
〈見る〉と〈描く〉は並列か?
あるいは別の「生成的場」か?
問いとしての絵画──生成としての視覚
問題提起と視角の提示:
•《見る》と《描く》を並列に「感覚と思考の生成の場」として捉え直す。
•「知覚経験・創造的受容・共観的思為」を中核に据えた新たな関係性の探求。
・・・・・見えるものと、見えないもの。
「絵画を”見る”」。
それは──
私たちの知覚の流れなのだろうか?
ではなく──
「絵画を”描く”」画家の知覚と表現行為に、
強い関心を抱いていたのだろうか?
知覚していないときも、
知覚の対象は連続して存在しているのか?
私たちの知覚と区別されるような存在はあるか?
私たちには、
所与としての知覚しか与えられていないという──
集積された厳然たる──
その「”感覚”の事実」である。
それにもかかわらず、
私たちは、経験を超えて進むことはできない。
そこから自らに与えられていない──
他の知覚の存在を思い描き、
──「知覚経験」をもつことになる。
「絵画」という名の絵、
絵に記す絵記、絵に述べる絵述。
それは──「絵画記述」として、
思考と創造の知が描き留められている。
思考と創造の「”思想”書簡」──
それは感覚と思考・創造の「生成の場」。
額縁のような枠組みを、
外すことによって解体される──
〈絵を”描く”〉者と〈絵を”見る”〉者との、
──「往復書簡=絵画記述」。
〈絵を”描く”〉者の「”思想”の響き」は、
──「場の生成」としてある。
思考・創造と感覚と絵画記述が──
相互に生成し合う場そのものとしてあり、
「思考・創造する」ために──
「絵画記述する」のではない。
絵画を記述しながら──思考・創造が生じ、
「新たな思考を創造」しながら、
絵画記述が描き換わる。
絵画が記述されることで新たな意味が浮上してくる
──『思創考造』のプロセスそのものであり、
そのプロセスが絵画として可視化される──
「生成の舞台」となる。
〈絵を”見る”〉者の、
自己と世界を見つめ経験される──
〈絵を”見る”〉という現象が”思想”を動かすとき。
その「絵画記述」は、
もう
──”既存のもの”ではなくなる。
思考・創造が後追いで捉えようとする──
”知の身振り”に、記述という”共振”されることで、
──「生成」は立ち上がる。
それは、〈絵を”見る”〉という──
「観者そのものの”場”」。
新たに立ち上がる響きとなり、
観者の身体にも──
どこかの「触地感」と、
何かの「跳躍感」を残してゆく。・・・・・
部屋の壁に整然として掛けられた──
経験される絵画の静黙な時間と空間。
絵画は”触れれば沈黙”としてしているが──
「絵」は、黙秘しているわけではない。
絵画に”触れられれば”──
「絵」は、静かに黙することなく”語り”はじめ、「不在画家の存在証明」に触れられることになる。
そうして、「知覚と生成」の交差点として“時間空間”に触れられ、”自分の眼で触る”「生成感覚」の経験は、「見てしまう自己の生成=認識の揺らぎ」となる。
《絵を”見る”》ということは、絵を通して、人間が絵及び絵自身の表現について、あるいは自分自身が「感覚できるもの」で「思考できるもの」について抱く、あるまとまった考えを出していることであり、絵の意図を探り意味をつくり、自分自身に「何かが生まれている」ということである。
《絵を”描く”》ということは、絵を通して、人間が自分及び自身の周囲について、あるいは自分自身が「感覚できるもの」で「思考できるもの」について抱く、あるまとまった考えを出していることであり、自分自身に「何かが生まれている」ということである。
『絵画作品』としての芸術の自律性や純粋性における絵画作品(美術作品)の芸術的側面と触覚的要素(特に視覚的効果)において、《表現者(制作者)》=感覚・思考者と《受容者(観者)》=感覚・思考者との関係が一体化の関係として想定されるもの。
絵画作品自身と《受容者(観者)》=感覚・思考者との関係が、一対一の関係として想定されるもの。
その二者は、全く異なるものであるとして思い做しすることできず、両者の間に「感覚されるべきもの」と「思考されるべきもの」として”問い”翳し、思為することはできる。
よって、テーマ性は、”「生成」の深化への挑戦”を核として、《絵を”描く”》こと及び絵画作品=表現・制作者である感覚・思考者と対置したなかで《絵を”見る”》こと及び《受容者(観者)》=感覚・思考者に”共観重心”が置かれる。
経験を超えて進むことができない「知覚経験」を持つことによる「経験のやり方」。
”感覚は思考への架橋”=『創造的受容』というものを捉え、知覚経験は”絵に触れられる”ことにより、『感覚は思考へと向かわせ、新しい思考を創造する」ということに、問いを投げ掛けることである。
”知覚が如何にして可能性をもつ主体へと「生成」するのか”、そのプロセス(”新たな生成の次元”への差異・出来事・反復・表現・潜在性などの思考と創造)を間接的にも描き出すことになる。
様々な絵画と出会い「絵に触れられ」、様々な絵画を生み出し「絵に触れ」、『絵画』を通して世界と自分を経験する──相対的に《絵を”見る”》と《絵を”描く”》と対置された『経験のされ方』=「絵画にかかわる」われわれの”知覚・意識”と、”感覚(感性)と思考”への”問い行為”。
「絵との距離」は、思ったより地続きで連続する──身体に触れられる知覚と意識の感覚所与=「身体的な実践」。
思考の働きに先立ち直接意識と感覚に与えられ──『絵』を「見る」心の中に表象されている現実とその「価値観と意味体系」。
《絵を見る者》と『絵』の関係性を、イメージへの感情移入を追求することなく、『経験のされ方』の要素的ではない全体的構造を捉え、「時間とともに生じる変化」そのものをも重視するなかで、《絵を”見る”》と《絵を”描く”》という現象の実体や本質そのものを構造の記述と理解を通じて捉えてみる。
「”現象”の具体的構造」から『生成』がどのような“場”によって誘発されるのか?
この視点による「”場”の構造・環境との関係性」までを捉え、その一方で複数の理論や諸原理を典拠し折衷して適用する柔軟性をもった理論的参照をはじめ、実践の交差と往還を重ねることになる。
『経験のされ方』 において『絵画』を「見る」という行為の現象的な意味合いと、『絵画』を「描く」という行為のそれと対置された「共通性や差異性」などを探り出すことによって、「跳躍、構築、あるいは錯綜する生成の運動」へと実践の厚みを増し、『生成の新たな次元』の展望を考える。
◾️上編:
……………………………………………………………
「感覚・思考・創造」の三軸──
〈絵を”描く”〉者と〈絵を”見る”〉者との、
──往復書簡的関係
生成の現場の層:
水面と同心円の比喩/触地感・跳躍感/場の変容
触れられる絵画──跳躍する身体と思考する感覚:
「触地」=身体的接触と思考の交差:
•「絵」に”触れられる”という経験。
•「身体・生成・跳躍・触覚的思考」。
•「風」「水面」「同心円」などによる──
「生成場」の現象論的描写。
様々な絵との出逢い=巡り合わせ”──絵画と接触する出会い私たちは、初めて会い初めて見る絵画の作品に、近づいたり、遠ざかったり、身体を動かす。
「身体と絵との”距離”」において、皆それぞれ”眼”を様々な角度と速さで動かしたりしながら、同じ作品が《絵を”見る”》者に対して、”場”の構造と”時間と環境”が変化する経路で「差異と反復を与える」その様々な感覚。
代わる代わる皆それぞれ「絵から受け取り」体験したものは、時の移り変わりととも変化の”移行体験”──「変化=思考と創造=”動く”生成」を侵食しつつ漸進する。
絵からの刺激の受容は、身体的な「触覚」として、受ける「その感覚」は、初めて『その絵』を見た時から途切れ途切れであっても「持続」し、『その絵』との”初見で受け取った感覚”は一定せず”、常に「変化の過程」にある。
時折り、再び本物(真正)又は画集(プリント)などにおいて『その絵』に”触れる”と、初見の感覚とは異なった感覚や、初見では『その絵』から”受け取れなかった”──”新たな感覚が芽生えたりするように、『その絵』は─”触れてくる”。
《絵を”描く”》表現者=画家(制作者)は──「生成」にいて、表現(制作)は──「生成」にあり、生成者不在において《絵》は「持続する”動く”生成」として、生(なま)の呼吸をしながら「真生の創造」に生き続けている。
・・・・・ 純粋状態の絵画的『事実』に──
無限に接近するならば、
絵画という『絵』の生きているその”生身”。
「描く”手”」が活発に動きを見せる──
人間の活動として、
絵画作品への執念が観念の活動に置き換えられ──
人間自らが思考の深化に挑戦し、
──「昇華した」もの。・・・・・
・・・・・ 独自の価値を創造しようとする──
人間固有の活動の一つとして、
観念を通じて人間が、
世界を認識し理解する過程を探求する。
──生成(エネルギー)の線・色・形を用いて、
視覚的な表現を行う形式活動に置き換え──
人間自らが創造の深化に挑戦し、
──「昇華された」ものとは?
観念が人間の思考や活動に、
どのように影響を与えるかを──
人間自らが試し(研究し)、
──「絵画された」ものとは?・・・・・
思考は絵画として、絵画は思考としてある。
『絵』に「創造されるつつある思考」を平面に「思考しつつ絵画的表現=創造的行為」は──《絵を”描き続ける”》という多面性に思考・創造の差異と反復がある。
『経験のされ方』は、《絵を”見る”》者のが孕む「知覚の”跳躍”」と「跳躍の距離」=より純粋な、より高度な、その感覚の濃度に《絵を”見る”》ということの精神的価値のみならず、生成的価値や共観的価値などをもつのに置き換えて充足した濃度との、その「昇華」において変化し移行する。
『絵』を「見る」という心の中に表象されている現実とその「価値観と意味体系」は、「その絵」”見る”その都度──集積された「”その感覚”の事実」 として『経験のされ方』は変わってくる。
「絵との”距離”」は、思ったより地続きで連続する──身体に触れられる知覚と意識の感覚所与=「身体的な実践」。
「経験のされ方」=《絵を”見る”》という”場”──『絵を眼で触る”触地”」による「知覚と意識の跳躍」=”問い行為”とともに「生成の触発=錯綜する生成の運動」そのものとして現実化してゆく。
《絵を”見る”》者と《絵を”描く”》者との”場”である『絵画の世界』。
画家である表現者の表現意図を超えた可能性を孕んでいるという意味では、絵画は画家独りの本性世界ではない。
絵の画として自律的且つ純粋性の世界にあり、表現者であり製作者である《絵を”描く”》者の意図を超えた意味を掘り起こすのは、《絵を”見る”》者という本性世界にある。
『絵画作品の世界』は、可能な限り昇華を試みる思考の深化への挑戦とした《絵を”描く”》者の「思想と思考・創造が孕みもつ”潜勢力”」を、余すところなく展開した研究と冒険の本性によって生み出された「”潜勢的”生成」にある。
最大限の意味充実を求める《絵を”見る”》者の本性的な志向性によって、生成が顕在化されるものである。
《絵を”描く”》者=画家が自身や周囲の事柄について抱く纏まった考えである表現者としての思想は、その画家個人の考えや信念と価値観などを示し、世界全体の文化や思想と精神などにも影響を与る。
より厳密には、総合的な認識対象を理解する悟性や理性の働き、またはそのように理解された対象を意味する──「画家としての”思想”」、あるいは社会や歴史観と関連し人生観を基盤として形成された──「表現者としての”思想”」。
それらは、感情や意志に対する思考的現象を示し、世界全体の社会や人生などに対する一定の見解を意味し、表現者としての画家の──「絵画作品の”意図”」には、個々の断片的な考えではなく、表現者としての活動を貫くような考え方や観念が含まれている。
表現者である画家の《絵を”描く”》という表現(制作)への「思想」伴う「意図」の”緊張”をもって”描かれた絵画作品自身”は、可変的ではなく不変的である。
その《絵を”見る”》という知覚経験において意識されている絵画作品という対象においては、全く変化が生じていないように、 日常的に我々が知覚において意識していることと《絵を”見る”》ことは同じ次元ではある。
しかし、経験を超えて進むことができないので「知覚経験」をもつことになる《絵を”見る”》側にも、《絵を”描く”》側と同じく「思想」を伴う「意図」の”緊張”をもって”見られた自分自身”は、不変的ではなく可変的である。
絵画という『絵』の生きているその”生身”。
観者である人の「絵を”見る”」という心の中に表象されている現実とその「価値観と意味体系」は、絵画作品と通して、その表現者である画家の《絵を”描く”》という表現(制作)の過程を辿ることになる。
そして、観念を通じて人間が世界を認識し理解する過程は、そのまま《絵に”触れられる”》観者を侵食しつつ漸進し、観念が観者の思考や活動に影響を与え、観者自らが創造の深化に挑戦し「昇華され」ていくからである。
地続きで連続する「絵との”距離”」──身体に触れられる知覚と意識の感覚所与=「身体的な実践」として「経験のされ方」=《絵を”見る”》という”場”──『絵を眼で触る”触地”」による「知覚と意識の跳躍」=”問い行為”。
それらとともに、”場”の構造と──『時間と空間』が変化する経路で、「差異と反復を与える」その様々な感覚を、「絵から受け取り」体験したものは、時の移り変わりとともに変化の”移行体験”──「生成の触発=錯綜する生成の運動」そのものとして現実化してゆくというわけである。
「所与が空間のなかにあるというわけではなく,むしろ空間が所与のなかにあり、空間と時間は所与のなかにある。」
ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze):
『経験論と主体性――ヒュームにおける人間的自然についての試論』 より。
・・・・・・私たちは、生きるなかに、
──ふと振り返りみる。
絵画という『絵』は、鎖(とざ)されてはいない。
現象を待ち受ける「経験のされ方」として──
《絵を”描く”》者にとっても、
《絵を”見る”》者にとっても、
意図の緊張が”無風”をつくる美しさに見える近道──”日陰”の水辺。
生きる「地と道」が息する水に接触する。
触地に連続的に点在する様々な形──
水浅く美しい水溜まり。
水底の形影と、
水面に映り込む辺りの光背景とが重なる──
”無風の光に触れられた平面反射”の滑らかさにある
──風景と景色。
子供心に水面を撫でようとして、
「描く手」は水面に映り込み触れた瞬間──
低い角度から照射した、
──水面に生じる《”同心円状”の波面》。
「手」が”風”に動揺する。
水底の形影と──
水面に映り込む辺りの光背景と身体の手が、
──三層に重なり揺らぐ波紋の『絵』があった。
水を撫でる前に《絵を”描く手”》は──
”風に動揺”する《絵を”見る手”》と化した。
「絵を見る・絵を描く」──
《”同心円状”の波面》に”触れられ”。
揉まれる波の平面の”風に動揺反射”する──
「光の風景と景色」。
撫でるように掻き分け侵食しつつ漸進すれば、
『絵画』は視覚的生成にある”生成場”──
『生成=振動』の世界。
新しい触覚的価値を解放した──
「触知=生成感覚:の介入によって、
変様させられ主体へと生成する。
自分と世界を観照しながら世界と共に生成する──
自らが超出の”身体の触地”と”跳躍する道”。
それは「触地」の感覚、、、、、
「生成」は、「”思考”のはじまり」を超えて。
“出てきてしまう動き”に息づく。
私たちは、生きるなかに、
──ふと立ち止まり知る。・・・・・
◾️【中編】:
……………………………………………………………
知覚と生成の交差点──時間と空間のなかの「創造的受容」
哲学的・理論的層:
知覚経験の限界・創造的受容・共観的思為
「経験される絵画」──
時間と空間のなかの「創造的受容」
典拠:参照の”理論的背景の配置”
1.-『ドゥルーズ的枠組みの提示』
•「感覚の論理」=感性領域
•「思考の理論」=感覚に属する絵画
• 相互の限界でのみ感覚と思考が最大化
•《絵を描く/見る》はこの交差点で生成される
2.-『時間・空間における創造的受容』
•「所与のなかの空間と時間」(ドゥルーズ)
• 見ることそのものが生成される時間空間の出来事
• 絵画は知覚・生成の交差点となる
3.-『触感的視覚と生成感覚』
•「眼で触る」という態度
• 触感的(haptique)な見方による生成
• 身体的距離・近接の中で感覚が変容する
• ベーコンやポロックに見る──
「手動的(manuel)」感覚
4.-『鑑賞者と表現者の生成的共振』
• 描く者と見る者の関係性は共生成
• 絵画は媒質=意識遊具として働く
• 見ることは想像と知覚の相互浸透
5.-『美術理論的参照』
• K・L・ウォルトン:描写理論(絵は代理、虚構的真)
• R・ウォルハイム:二重性(seeing-in)
• E・H・ゴンブリッチ:画像表象(似姿)
6.-『意識の生成』
• 刺激と反応ではなく、意識そのものが生成される
• 思考に先立つ所与=純粋感覚
• 生成としての思考・創造
「生成感覚」と「自分の眼で触る」──
知覚・意識・生成の交差点
①《生成感覚とは何か》
• ドゥルーズの『感覚の論理学』における絵画の観照は、単なる視覚的受容に留まらず、「触る」かのような多感覚的かつ生成的な関わりを指す。
•《絵を”描く”者》の「眼の動き」を「心の手で追う」ことで、《絵を”見る”者》はその感覚の秩序や領域を横断し、画家の生成感覚と一体化しようとする。
• この体験は、知覚が単なる情報受け取りではなく、感覚と生成の振動(差異と反復)のなかで自己生成をともなう「生成的知覚」であることを示す。
②《身体・視覚・触覚の協働としての知覚》
• ドゥルーズは「触感的(haptique)」なものを重視し、眼を光学的視覚器官としてだけでなく、身体感覚と連動する「触覚的感覚器官」として再定義する。
• 作品に近づいたり遠ざかったり、眼の動きを変えることで、平面の色彩や奥行き感の変化を体験する。これらは「生成感覚」の実例である。
•「触感的-視覚的」空間は、身体の運動や距離感の変化を含む、身体全体の関与のなかで立ち現れる。
③《意識の生成・変容と時間性》
• ドゥルーズの意識観は、固定された〈わたし〉ではなく、「連続して変化し新しい状態へと変わる持続的生成力」としての意識を描く。
•「眼で触れる」刹那は、知覚が現在の視覚的経験のみにとどまらず、見えなくなった対象の知覚(メモリーや想像)も包含し、「時間とともに生じる変化=思考」と「生成=創造」を誘発する。
④《生成感覚の哲学的広がり》
•《絵を”見る”》ことは「生成=創造」としての自己変容の契機であり、表現者不在の生成図と共に知の揺らぎを生み出す。
•「絵を”見る”こと」と「想像すること」は相互に浸透し、変化し続ける自己と絵画の共生成的関係をつくる。
• 身体的実践や価値観、意味体系と絡み合いながら、《絵を”見る”》行為は、純粋遊戯/純粋遊具としての「達成する手続き」として捉えられる。
⑤《絵画における視覚性と触覚性の二重性》
• フィードラーによる「純粋視覚性」の理論と対照的に、ドゥルーズは「手跡的(manuel)」「触感的(haptique)」な絵画のありように注目し、ジャクソン・ポロックの例をあげる。
• これは視覚が触覚を駆逐するのではなく、感覚が多層的に交錯しながら生成されるという観点を示す。
⑥《知覚の二重性・虚構性の理論的背景》
• ウォルトンの「描写の理論」:絵を見る者は絵の代理としての多様な虚構を見ている。
• ウォルハイムの「二重性 (twofoldness)」:知覚経験は「絵の中に見ること(seeing-in)」という二重性を持ち、それが画像表象を成立させている。
• ゴンブリッチの「画像表象論」:絵画は対象の外形の模倣であり、似姿の表現であるとする伝統的視点。
⑦《意識の多義性と生成》
• 意識は「知られている状態」(ヴォルフ)、「純粋感覚」(カント)、「事行(Tathandlung)」としての知覚存在など多様な概念を持つ。
• 思考の前段階として意識に直接与えられる感覚内容(内容感覚)があり、そこから創造・生成の思考が立ち上がる。
*《補足的な展開》
•「生成感覚」を、身体の感覚器官の多重な連携として具体的に描き出す身体論(例えばメルロ=ポンティ的身体性)と結びつけてみる。
•「眼で触る」経験の時間的展開を、現象学的時間意識やベルクソンの持続概念と関連づける。
• ドゥルーズの「差異と反復」の観点から、「生成感覚」と「差異の経験」の交差点を探る。
• 具体的な絵画作品(例:ベーコンやポロック)を事例として、「生成感覚」の描写を深める。
•「知覚の二重性」を踏まえつつ、現代的なデジタルメディア環境下での「生成感覚」の変容可能性を考察する。
「感覚の論理”logic”」と──
「思考の理論”Theory”」:
•「ジル・ドゥルーズ」を引き合いにした”差異と反復”から「感覚と思考」の交差点。
•「創造的受容」の”時間性・空間性”の探求。
ドゥルーズは、「感覚の論理”logic”」と「思考の理論”Theory”」という用語を使用しており、自著『差異と反復』の中で、「思考に関する理論」を「感覚の領域に属する謂わば絵画である」と見做している。
彼にとって、真に《思考する》というのは、「未だ思考されたことがないにもかかわらず、思考されることしかできない何かへと、思考を巡らせる運動」=「思考されるべきもの」である。
「”感覚されるべきもの」は、専ら”感性”だけにかかわり”感性”を生じさせ、同様に”思考されるべきもの”は、”思 考”のみにかかわり”思考”を生じさせている。
そしてそれぞれの能力が自分の限界においてコミュニケーションがなされる場合にのみ、感覚は思考に、思考は感覚に、最大限の力を振うことになり、それによって相互の能力を最大限に引き出し合うことを可能とするのである。」としている。
そこで、絵画は一般に「感覚」、あるいは「感覚の論理”logic”」の範疇に属している限りにおいて、「思考」あるいは「思考の理論”Theory”」とは見做されていない。
ということからして、「思考に関する理論は、感覚の領域に属する謂わば絵画である」という流れの筋を、『差異と反復』の概観から切り離し、『絵画を「見る」と絵画を「描く」──生成の触地』という本題へ導き出してみる。
《絵画を”描く”》側面から捉えると、絵画は創造であり、創造は新たな思考を探り出すものとしてあるのではないだろうか。
絵画の表現者であり制作者である画家《わたし》は、自分自身及び自分の周囲世界について、あるいは自分が「感じ思考できる」物事や事物と事象などについて抱く、ある纏まった考えのことである《わたし》の思想(thought)。
「感覚(感性)と思考」を通して平面空間をつくり出し続け、その生み出し続けるその作品ごとの相違点や新しい革新は「時間とともに生じる変化(=思考)」に推移する。
「所与のなかに空間と時間がある」(ドゥルーズ)という視点から捉えるならば、《絵を”見る”》という出来事のなかに、“生成される時間空間”が内在していることになり、「知覚と生成」の交差点として“時間空間”に触れられることになる。
《絵画を”見る”》という出来事において”絵に触れられた跳躍”は──『時間と空間のなかの「創造的受容」』”としてあり、まさに知覚し認識した自分自身の「生成」とその時間的空間的な「生成過程」への”問い”なのである。
ドゥルーズによる「認識する主体の生成過程’の問いはこの世界の存在という問い」へは、「主体と現に存在するこの世界の在りよう」を”問う”ことへと接続されるべきものであり、枠組みに抗いながら新たに折り直す創造行為ともいえるものである。
《絵画を”見る”》とは、「生成の一つの場面」に居合わせたことであり、”感覚すべきもの”/”思考すべきもの”ものは、「生きる」こととして、生き長らえる地と道の世界における自己存在という問いへ、さらには自己と現に存在する地と道の世界の有り様の問いへ接続されるべきものである。
生きる世界と自己を感覚し思考した認識と、生きる世界と自己の在り方を「感覚する/思考する」意識そのものだということになり、それは、新たに織り成す──「生成=創造行為」だといえる。
「差異・出来事・反復・表現’・潜在性」などの感覚/思考と創造の錬成とともに「生成の深化への挑戦」が、時間空間において、より必要となってくるのである。
ドゥルーズは、意識を外部に向かって動くものではなく、自分自身の中で連続して変わり、新しい状態に変化していく力を持ったものとして描き直し、意識は単に対象へ向かうだけのものではなく、もっと継続的で、時間の流れのなかで変化し続ける存在であるとした。
ベルクソンの「持続」の概念である意識が“持続”するということにおいて、ドゥルーズの「発展」の概念は、意識は対象に向かいながらも、時間とともにかたちを変え、固定されないものとして考える。
そこに「時間の中で連続して変化し、新しい状態へと変わっていく」その力を見出し、意識は単に外へ広がるだけではなく、自分自身の内側で変容し続けるとして捉え直し、意識はそうした“持続”のなかにあって固定された〈わたし〉ではなく、絶えず新しい状態へと変化していく力こそが意識だとしている。
絵の感触性の問題──触知「生成感覚」において、「絵画との“持続的関係”=生成の反復性」があり、初見の絵との接触が時間を経て新たな感覚を生むように、「経験される絵画」は常に変化し続ける“場”であり、その都度新たに“生成される”。
知覚とは情報の受け取りではなく、「差異と反復の振動」における生成の出来事として、《見る》という行為は単なる外的入力ではなく、「見てしまう自己の生成」(=認識の揺らぎ)でもある。
知覚とは情報の受け取りではなく、「差異と反復の振動」における生成の出来事としての「生成的知覚」であり、《見る》という行為は単なる外的入力ではなく、「見てしまう自己の生成=認識の揺らぎ」でもある。
「感覚の論理”logic”」と「思考の理論”Theory”」という用語を使用しているドゥルーズは、自著『差異と反復』の中で、「思考に関する理論」を「感覚の領域に属する謂わば絵画である」と見做している。
彼にとって、真に《思考する》というのは、「未だ思考されたことがないにもかかわらず、思考されることしかできない何かへと、思考を巡らせる運動」=「思考されるべきもの」である。
「”感覚されるべきもの」は、専ら”感性”だけにかかわり”感性”を生じさせ、同様に”思考されるべきもの”は、”思考”のみにかかわり”思考”を生じさせている。
そしてそれぞれの能力が自分の限界においてコミュニケーションがなされる場合にのみ、「感覚は思考に、思考は感覚に、最大限の力を振うことになり、それによって相互の能力を最大限に引き出し合うことを可能とするのである。」としている。
そこで、絵画は一般に「感覚」或いは「感覚の論理”logic”」の範疇に属している限りにおいて、「思考」或いは「思考の理論”Theory”」とは見做されていない。
ということからして、「思考に関する理論は、感覚の領域に属する謂わば絵画である」という流れの筋を、『差異と反復』の概観から切り離し、『絵画を「見る」と絵画を「描く」──生成の触地』という本題へ導き出してみる。
《絵画を”描く”》側面から捉えると、絵画は創造であり、創造は新たな思考を探り出すものである。
「感覚(感性)と思考」を通して平面空間をつくり出し続け、その生み出し続けるその作品ごとの相違点や新しい革新は「時間とともに生じる変化(=思考)」に推移する。
”自分の眼で触る”──「生成感覚」
「絵画=作品」は、容易には《絵を”見る”》者=”自分の感情移入”を許さず、常に一つの客体として存在する。
その客体としての考察を媒介にして、創造的な瞬間の最中にある《絵を”描く”》者=”表現者”である画家の創造的な瞬間の最中にある感覚に限りなく近づき寄ろう」とする──ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)。
『感覚の論理学』──
(ドゥルーズの書いた唯一の美術書)
「なぜ今日でも、まだ絵画が問題なのか」。
《絵を”見る”》”自分”をそのように姿勢づけ、絵画=作品の表面を撫でるように見つつも、イメージへの安易な感情移入の一歩手前に留まる。
《絵を”描く”》者=”表現者”である画家にとって「自分の眼で触る」ことにより描くことの重要さと同じく、《絵を”見る”》者=自分にとって『絵』の表面を撫でるように見る「自分の眼で触る」ことの重要さの強調する。
《絵を”描く”》者=”表現者”である画家の絵画作品の制作は、「”絵画の様々な”秩序や領域”を横断する『感覚』である」とする。
それに並行した片側で《絵を”見る”》者=自分は、その作品を「触るかのように見る」ことで、その画家の「眼の動き」を心の手で追い、異なる『感覚』をその領域のそれぞれに見極めようとしながら、それらを横断するその画家の感覚と一体化しようとしている。
その”様々な秩序や領域を横断する『感覚』”とは、”秩序的生成”や”領域的生成”に近いものがあるのではないかと捉えることもでき、”様々な生成と生成領域を往還する『生成感覚』”のそれに並行した片側で《絵を”見る”》者=自分は、ドゥルーズがいうところの「その作品を”触るかのように見る”」こと=生成そのものである。
その画家の”眼の動きを心の手で追い”、異なる『生成感覚』を”生成領域”のそれぞれに見極めようとしながら、それらを往還するその画家の感覚と一体化しようとするのが、すなわち真正なる《絵を”見る”》”自分”であると、言い換えることもできるのではなかろうか。
ドゥルーズは、意識を外部に向かって動くものではなく、自分自身の中で連続して変わり、新しい状態に変化していく力を持ったものとして描き直した。
《絵を”見る”》ことを”鑑賞体験”として置き換えるなかで、《絵を”見る”》者は、いろいろと”はかり知れない”部分的要素からなる全体を見ることに”触地”することなる。
それらの”はかり知れない”要素を「跳躍し、横断し、加速し、撹拌する」ベーコンの手つきを見ることになるドゥルーズはそこに、「解き放たれた手の力」の作用、すなわち「手動的なもの」を見るのである。
私たちは作品に近づいたりそれから遠かったり、眼をさまざまな速さで動かしたりしながら、同じ作品やモチーフにおけるそれらの差異が与える様々な感覚を代わる代わる体験することになる。
その感覚は一定せず、常に変化の過程にある。
色の塗られた平面を見ていたかと思えば、少しだけ距離をおいてみると、今度は同じ平面が奥行きを表現し始める。その逆に、奥行きの効果を与えていたはずの要素が、彩られた平面のように見えはじめたりすることもあるだろう。
重要なのは、体や眼を動かすことでその見え方が大きく変わるような作品との近さである。
この距離感の中では、あたかも眼で表面を撫でるように、つまり触感的ハプティックなやり方で作品を見ることも可能となる。
ドゥルーズの著述における「触感的なもの(haptique)]とは、次第に様々な感覚を代わる代わる喚起しながら、自身の身体もまた運動のうちに置き、作品を見るという活動そのものを意味するようになる。
時間と身体との間に空間があることを示唆する。
触覚と視覚の双方の協働の中で、私たちは描かれた虚構の空間を想像することができるようになる。
『絵画』との出逢い=巡り合わせ──身体に触れられる知覚と意識の感覚所与という、『絵画』と《絵を”見る”》自分との”初対面”」──「視野に存在する」こと。
『絵画』が視野に入ったまさにその瞬間=「眼で触れた刹那」に、現象学的な知覚の存在となり、知覚意識になり得た『絵』は、視野から消えた『絵』を知覚することができる。
知覚の存在という性質は、可変項から不変項へと、現在見えているのか,見えていないのかを超えたところに、すなわち、”時間とともに生じる「変化=思考」と『生成=創造』”が誘発される。
『表現者』たるものは、「絵を”描く”」という生成にいて、”表現者不在”の代わりとして『絵=生成図』は、”持続する「創造=”動く”生成」にある。
《絵を”見る”》ということは、「何を受け取る」か、その”場”に出会い《絵を”見る”》という自分は、思いも寄らぬ”生成”が誘発され、『絵』と共にする知の揺らぎや、生成未然の動きを可能とするのである。
「絵を”見る”こと」 -vs.-「”想像”すること」の『相互浸透』にある「さまよえる絵=さまよえる自分」。
それは、時間とともに生じる「変化=思考」と『生成=創造」として捉えることができる。
「身体的な実践」と「価値観・意味体系」が絡み合っていて、 身体を通じて、ある価値と意味が自然と身に付いていくようなものとして、『絵』と《絵を”見る”》ことによる知覚の存在と、『絵』と共にする知の動きは、《絵画の純粋遊戯》と《純粋遊具の絵画》として、達成する何か、具体的には、何かしら目的を達成する方法や手段又はやり方や手続きを意味する。
ドゥルーズは、純粋に視覚によってのみ把握される視覚的(optique)なもの、手で触ることができそうな奥行きを感じさせる輪郭や起伏の表現により把握される触覚的(tactile)なもの、光学的理性を逸脱する自由な手が生み出す「手動的なもの」(manuel)、「触感的」(haptique)なもの、このように分類している。
「触覚的-視覚的」空間とは異なり、絵画作品にできるだけ寄って近づき、視覚の働きを抑制した状態でも得ることができる対象についての認識に資するものとしている。
「触感的」なものは、眼を、光学的な機能とは切り離した感覚器官として作り変えることで得られる感覚である。
このとき眼は、もはや、輪郭や光によって奥行きや具象性を把握するための器官ではない。
それは手によって支配されることも、手を支配することもない。眼そのものが作品の表面を動き、触り、手とはまた異なる、固有の「触感」を得るのである。
ドゥルーズは、生成をいうことには触れず、また持続する生成については、述べ終えてはいない。
絵画を描くことにとって同じく、絵画を見るにとっても、「自分の眼で触る」ことによって”見る”こと。
ドゥルーズはそこに、「解き放たれた手の力」の作用、すなわち「手動的なもの」としている。
絵画を触るようにして見ることを通して、様々な秩序や領域を横断する画家の感覚と一体化しようとするドゥルーズ。
『絵画』との出逢い=巡り合わせ──身体に触れられる知覚と意識の感覚所与という、『絵画』と《絵を”見る”》自分との”初対面”」──「視野に存在する」こと。
『絵画』が視野に入ったまさにその瞬間=「眼で触れた刹那」に、現象学的な知覚の存在となり、知覚意識になり得た『絵』は、視野から消えた『絵』を知覚することができる。
知覚の存在という性質は、可変項から不変項へと、現在見えているのか,見えていないのかを超えたところに、すなわち、”時間とともに生じる「変化=思考」と『生成=創造』”が誘発される。
『表現者』たるものは、「絵を”描く”」という生成にいて、”表現者不在”の代わりとして『絵=生成図』は、”持続する「創造=”動く”生成」にある。
その”場”に出会い《絵を”見る”》という自分は、思いも寄らぬ”生成”が誘発され、『絵』と共にする知の揺らぎや、生成未然の動きを可能とするのである。
「絵を”見る”こと」 -vs.- 「”想像”すること」の──『相互浸透』にある「さまよえる絵=さまよえる自分」。
それは、時間とともに生じる「変化=思考」と『生成=創造」として捉えることができる。
「身体的な実践」と「価値観・意味体系」が絡み合っている身体を通じ、ある価値と意味が自然と身に付いていくようなもの。
『絵』と《絵を”見る”》ことによる知覚の存在と、『絵』と共にする知の動きは、《絵画の純粋遊戯》と《純粋遊具の絵画》として達成する何か、具体的には何かしら目的を達成する方法や手段又はやり方や手続きを意味する。
絵画作品のありようについて、「経験される絵画」の感覚とのかかわりから絵画記述に置き換えた概念。
主に視覚と触覚の二つの感覚が共に或いは対等とは限らず、かかわる「絵を”見る”」ことであり、それによって、具体的な形態や形式の創出または把握認識と理解に向かう。
はじめは劣勢だった視覚がやがて触覚を駆逐してゆくプロセスを、つまり「触覚性」から「視覚性」への移行をみる。
さらに「純粋視覚性」とは、「純粋に」視覚だけに訴えるような、つまり触覚などそのほかの感覚、さらには思考や記憶とはまったく無関係に存在する(とされる)ような、絵画作品のありようをいう。
これはまずコンラート・フィードラーによって理論化され、その後フォーマリズム美術批評が個々の作品の優劣を判断するさいの重要なクライテリア=批評基準となった。
その一方で、ジル・ドゥルーズは、リーグルの議論を踏まえ、いわば「純粋に触覚的な」美術のありようをも考える。
例えばジャクソン・ポロックの絵画に見られる、眼のコントロールをふりきろうとするかのような手の運動がそれである。
ドゥルーズはそれを「手跡的(manuel)」なものと呼ぶ。(フランシス・ベーコン:感覚の論理)。
《絵を見る者》として──自分の内面や行動に変化が生まれるその真正性は問えず定かではない。
《絵を描く者》の”表現”しようとするところを掴み「鑑賞」する感性に受け入れか取り入れてかその真正性は問えず定かではない。
その選択肢は、防御⇔防御/包摂⇔排除/受容⇔疎外/協調⇔排他/容認⇔拒絶/受諾⇔拒否/包容⇔排斥。
その行動は、「そっぽを向く、一瞥する、通り過ぎる、立ち止まる、佇む、欲する、手に入れる」。
見ている自分とよく似通うところ、思い掛けず?
見る自分とは全く異なるところ、思いも寄らぬ?
自分が求めたいたものがあった?
自分も分からなかったことが分かった?
表現に?
「表現」は残されたもの?
「表面」に”故意”に?
内面・意識・主観的なもの?
《表現者》の?
単なる思いつきや主張ではなく、系統立って『思考する営み』?
外面的・感性的に捉えられる形式によって”伝達”できるように?
「表出」されたもの?
絵は事物を描き出し?
《絵を”描く”》者は?
その平らな表面のカタチを通して、そこには無い事物の姿を見る?
《絵を”見る”》者は?
共に「生成者」として、絵の意味作用を共有し、”絵を描く/絵を見る”ことの経験の生成本性=”絵を描く/絵を見る”思想の手掛かりとする。
意味あるものだとしても、無意味なものだとしても、《生成》としての肯定・否定のなさにある「共鳴」。
”描く”こと=”見る”こと-vs. -想像すること──「相互浸透」。
そうして、釘付けとなって、「見入り」自ら頷くか、項垂れるか、「問い」「問い掛け」と「解き明かす」ことがあるだろう。
思いがけず偶然として、絵に”触れられ”、「考える」ことそのものは必然として、只々後からやってくる。
絵は媒質(medium)して、介在の「意識遊具」=呼び水は、反応させられた〈絵を”見る”〉その者を取り次ぐ。
絵と自分との中性において自らが媒質と化し自らを生成しはじめ、波動が伝播する「生成具体」となり、「場となる波動」が伝播する場となる。
・・・・・K・L・ウォルトンno「描写の理論」によると、《表現者》である描く者の絵は、”描くも者の代わり=代理”であり、”絵による表象”では決してなく、よって、絵を見る者は現実には絵を見ていながら、それとは異なる多様なもの姿を見ていることが虚構的に真であると見做されている。
絵は、そうした「視覚的ごっこ遊び」のための社会的に共有された小道具又は装置として位置付けられている。
絵を見るという経験そのものが、単線的に想像にと留まらず、「絵を見る」こと=”知覚経験”だという事実であり、表面を見ていながら同時に不在の対象を見るという独特の知覚経験である。・・・・・
・・・・・R・ウォルハイムの理論「二重性(twofoldness)」によると、そうした二重性をもっ た知覚経験そのものを、「絵の中に見ること(seeing-in)」として、「絵が何かを描写する」=”画像表象”の働きを支えているのは、こうした二重性を帯びた知覚に他ならないとされている。・・・・・
・・・・・E・H・ゴン ブリッチの「画像表象論」によると、一方では、絵による表象を,絵による対象の外形の模倣に基づくとみなすもの であり絵はその描く対象の似姿だとする。・・・・・
意識を所与された意識、刺激と反応という図式で意識は脳の働きを活性化し、五感に対する刺激を感じ取ることが可能な状態である意識という言葉には多義性ある。
それぞれの人がそれぞれの場面で、どういう意味でもって意識とされているのか、意識には、気づいている、または知っている、といった意味があるなかで、そのような点について「共観」をもつことである。
「意識は生成されるのだろう」。
ヴォルフ的「知られている状態」、カント的「純粋感覚」、自己自身を真正の対象とする活動、すなわち事行(Tathandlung)象学的な知覚の存在 。
思考の働きに先立ち、意識に直接与えられている──内容感覚に与えられているもの。
「思考」が開始される、すなわちそれが「創造」であり、「生成である。
参考資料として:
・ ライプニッツの思想における、認識の光芒、 悟性、理性、感性、各々の役割をもつ。
・ ライプニッツの影響を受けたクリスティアン・ヴォルフは、「意識」の概念を「知られている状態」(Bewusstsein)と造語し名づけた。
・ カントは、Cogitoを「純粋統覚」とみなし、すべての悟性的認識の根源であるとしたが、意識その・ものの主題化には向かわず、各認識能力の身分と能力についての考察をその批判において展開し、知覚に知覚よって直接生じた表象、知覚は環境と生体の運動との相互作用において成り立つもので,その相互作用の中で生体が環境の不変項を抽出することであるとする。
◾️【下編】:
……………………………………………………………
共観の場としての絵画/「描くこと」=共生成の振動体
総括と展望の層:
経験のされ方の変化、生成の新たな次元への道。
「創造的受容」のモデル:
・「1910年代頃にはじまった抽象絵画」の最初期の踏み出し、
・「創始者的存在のカンディンスキー/クレー /モンドリアン」など美術史的事例を通して、
・「生成」へ向かう絵画の「分岐線」として「視覚経験がどのように“生成”を誘発するか」。
「世界の見方、見え方を形にして残す」
「抽象絵画」の巨匠たち、例えばカンディンスキー/クレー/モンドリアンの他マレーヴィチなどといった「絵を描く」その者たちは、皆それぞれ自分たちの抽象絵画について、少なからず多くの言葉を語っている。
◾️ ヴァシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky, 1866-1944. Российская Федерация )
カンディンスキー:内的必然性の発火点
•「色と形は、内なる必然性に呼応して鳴り出す。」
• ここでは “見る” がすでに “描く” を孕んでいる。
• 色と形はただ選ばれるのではなく、内奥の響きとして生まれる。
• → 起点:「見ること」と「描くこと」が分かたれず、ひとつの出来事として発火。
• カンディンスキー → 音のような「内奥の発火」。
音から色を感じる共感覚──絵画に触れられる視覚化された音楽とそのリズム、〈絵を”見る”〉その者の「経験のされ方」として、内面から湧き上がる感情や精神性とは、一体何であろうか?
〈絵を”見る”〉自分の目で触れる──『絵』に触れられ”内面から見るものに語りかけられる”、精神的なものの感動──「感動体験」=”見るものの想像力に訴えかけられる「生成の場」と”跳躍点”として、、、、、。
〈絵を”描く”〉その者の心の内側で鳴り響く音楽を、色彩と形態を通して織りなす緻密に計算された構成の存在──絵画記述。
カンディンスキーは、ある感覚を別の感覚で感じる能力──音を聴くと色を感じ、色を見ると音を感じる「共感覚」をもっていたとされており、〈絵を”描く”〉者としての彼の「生成の場」と”跳躍点”は──「共感覚」と「生きた力」だったのかもしれない。
”触覚”を表現する「柔らかい」「硬い」という画面の形態や色彩の関係が示され、「視覚と聴覚と”触覚”」という複数の感覚の統合が図られ、「絵を”描く手”」=「絵を”奏でる手”」として、点は鍵か、線は弦か、色はメロディーか、形はリズムか、目に見える世界を超えて音楽化されるするその平面の時間と空間。
抽象絵画の概念を生み出し絵画を生成し続けたカンディンスキーは、抽象絵画理論を創始し、次第に抽象性が強くなりつつ、著書『抽象芸術論―芸術における精神的なもの(1911)』 において、絵画の芸術性は”内面から見るものに語りかける”──「内的必然性」であるとされ、中心となる理念を「芸術における精神的なもの」としたその中で、色とかたちで絵画を表現することを論じた彼自身の表現について、以下の3つに分類している。
・インプレッション(印象):外的なものの印象を表現したもの
・インプロヴィゼーション(即興):人の内なる感情や記憶を表現したもの
・コンポジション(作曲):心の中で形作られた感情を色彩と造形で表現
具体的に何が描いてあるか分からなくても人を”感動”させること──「感動体験」をさらに探究すべくカンディンスキーは、「絵画の芸術性としての第一の目的は作家の奥にある”感覚の表現”である」とし、絵画にも音楽と同様に”見るものの想像力に訴えかける”という要素を求めた。
「コンポジションとは、要素の中に緊張という形で含まれる「生きた力」を厳密に法則的に組織づけることに他ならない。」とするカンディンスキーの理論書『点と線から面へ』(1926)は、絵画の構成要素を徹底的に分析し、「生きた作品」の構築を試みている。
カンディンスキーの絵画を基本的要素に分解した「沈黙する点」「躍動する線」「客観的な面」の構成が、如何にして「生きた力」を生み出していったのだろうか?
・・・・・「直角は赤、鋭角は黄、鈍角は青」。
「左へ向かうと、成長しつつあるものは目立たなくなり、右へ向かうと―難儀さが増える。」
「絵画から見たイリュージョン的な奥行きは現実的なものであり、それゆえ、奥へ向かう形態要素を求めて、たとえ測定できなくとも、若干の時間を必要とする。」
「つまり、物質的な地‐平面が説明できない空間に変化するとき、時間のスケールは拡大するチャンスを得るのである。」・・・・
カンディンスキーの感覚的表現──直感。
自然現象から音楽やダンスといった芸術的なものまでを点と線に抽象化して捉えていたカンディンスキー。
『絵』=色味や温度感も感じ取る「図形」、「曲線・円=温もり/柔らかさ→暖色」「鋭角=冷たい印象→寒色」、イメージは『絵画』に置き換えて表現している。
”世界の見方、見え方”におけるイメージの「共感覚」的──「生きた力」に”触れられる”こと。
触発され動かされる──知覚感動。
思考の働きに先立ち、意識に直接与えられている=内容感覚に与えられているもの。
「思考」が開始される、即ちそれが「創造」であり、「生成」なのである。
◾️ パウル・クレー(Paul Klee, 1879-1949. Schweizerische Eidgenossenschaft)
クレー:生成の線を生きる
•「線は点が散歩に出たものである。」
•描くことは、生成の運動に身を置くこと。
• クレーにとって「描く」とは、線が自ら成長し、世界を発見していく時間の出来事。
• → 中継:カンディンスキーが示した「内奥の響き」が、クレーの手では「生成の運動体(線・形)」へと展開。
• クレー → ”線”のような「生成の運動」。
“見る”とは何か? 〈視覚の哲学〉──点や線と色や形の離れて遠く奥に開かれた目眩く時間空間、むしろ「抽象的」になることで「具体的なもの(視覚的写実ではないもの)」に触れらるとは、一体何であろうか?
「世界の見方、見え方」の背後に潜む”余白”。
思考が未だ姿を成す前の、“生成の兆し”としての具体的なのもの。
クレーは、点や線と色や形によって世界を具体的なものにする絵画的思考──人間とは何か、世界とは何か、ということまでを問う哲学的探究であったとされており、〈絵を”描く”〉者としての彼の「生成の場」と”跳躍点”は──”生きる=生きた”その「”知”の進化過程」そのものだったのかもしれない
「絵を”描く手”」=「絵を”聴く手”」として、”生きる=生きた”その境域にある意図と無意識の境界を越え、まるで”生きもの”であるかのように律動を刻む余白構成とそのリズム構造のなかに、目に見える世界を超える線の途切れることなく進む行方は、画面のイメージが枠組みの外側へと(額装を超えて)広がっていくように「絵を”聴く”」その平面の時間と空間。
それは、”触覚”を表現する「柔らかい」「硬い」という画面の形態や色彩の関係が示され、「視覚と聴覚と”触覚”」という複数の感覚の統合が図られ、「絵を”描く手”」=「絵を”奏でる手”」として、点は鍵か、線は弦か、色はメロディーか、形はリズムか、目に見える世界を超えて音楽化されるするその平面の時間と空間でもある。
人間とは何か、世界とは何か、という哲学的な探究のなかで、抽象絵画の概念を生み出し絵画を生成し続けたクレーは、、”生きる=生きた”絵画表現の根源へと突き詰めつつ、”自らを生んだ”著書『造形思考(Das bildnerische Denken)』において、「”点や線と色や形は何を表しうるのか」と問いた。
プロのヴァイオリニストとでもあるクレーにとって、「音楽を”描く”」=「絵を”聴く”」ことは、単なる絵画的比喩ではなく、絵画における実践的な主題として、「音と視覚」の結びつきであり、旋律・調性・反復・対位法などに展開する音楽的構造と音楽の時間性が、「描く=聴く」その平面の時間と空間に顕れた。
クレーの「オートマティズム(自動書記・自動描画)」、そして「音楽を”描く”=絵画を”聴く”」その点や線と色と形の反復・水平・並列・分節・変化などの構成のなかに旋律を描き、「点や線と色と形は”考える”」=「生成」する『絵」、それは意図と無意識の境域を越えた「音楽の即興」=「跳躍」と「生成思考」であったのだろう。
絵画記述は単なる概念の枠組みを超え、テーマ主題という絵画の在り方を超え、額装された絵画という物体を超え、「世界の見方、見え方」の背後に潜む”余白”、 思考が未だ姿を成す前の、“生成の兆し”としての具体的なのもの(視覚的写実ではないもの)に”触れられ問い直す”=「“見る”とは何か? 〈視覚の哲学〉」であるといえ、その問いは、観者となる〈絵を”見る”〉者の、また私たち人間の、その「知覚と思考」の曖昧さを刺激し、「創造と生成」の微かさに触発する。
「“見る”とは何か? 」、それは”触れられ問い直す”ことであり、意図の緊張にある絵=思考として、創造に架けられし自己と世界の生成への思考でもあり、〈視覚の哲学〉には、未来の視覚が静かに開かれているのである。
緊張にではないかたちを生成しなおすことであり、自らの内部にある世界像を書き換えていくことでもある。
クレーの作品は、単なる「絵」ではない。
それは一つの思考のカタチと記述であり、同時にカタチと記述の思考である。
◾️ モンドリアン
モンドリアン:内面と普遍の振動場
•「内面を秩序づけることは、普遍性に触れること。」
• 垂直と水平、原色と無彩色という極度の簡潔化は、自己と世界を共振させるための構造。
• その秩序は静止しているようでいて、内面と外界の往還という振動を常に孕む。
• → 収束:「描くこと」は、個の内面を超えて普遍的な共生成の振動場を立ち上げる行為となる。
• モンドリアン → 構造としての「普遍的振動」。
合理的であり、秩序と調和の取れた表現=”対象を単純化した幾何学的な再構成”──感性に訴えかけられし〈絵を”見る”〉その者の「経験のされ方」として、自己の内面に向き合い探求するとは、一体何であろうか?
〈絵を”見る”〉自分の目で触れる──『絵』に触れられ”内面から見るものへ語りかけられる”という、その精神的なものの感動──「感動体験」=”見るものの想像力に訴えかけられる「生成の場」と”跳躍点”として、、、、、。
〈絵を”描く”〉その者の心の内側で鳴り響き合う「自己と世界の往還」──〈絵を見る〉者=「共観」者に受け渡され、再び別の生成を引き起こす。
モンドリアンは、「自己の内面を掘り下げることは、個別性を越えて世界と繋がることだ」という視座をもち、「内面探求」と「普遍性」において絵画記述をするそれは、「垂直と水平」「原色と無彩色」という極度の簡潔化において、自己と世界を共振させるための構造であった。
「描くこと」=内面の秩序化としての生成として、モンドリアンにとって描くことは、外界の再現ではなく、内的秩序を形態に変換する生成のプロセスだったのかもしれない。
そのモンドリアンは、自分の内面を閉じられた私的領域としてではなく、普遍的秩序の探求の入口とみなし、むしろ自分の内面と向き合うことで、それをどのように絵画作品へと「昇華」させるかという──自然界をも超るほどの大きな影響を得る。
ピカソによって発展しジョルジュ・ブラックによって引き継がれていた「キュビスム」の革新的な手法にも強い衝撃を受けていたモンドリアンにとっては、パリの芸術が「生成の触地」であり跳躍地点でもあり、”対象を単純化して幾何学的に再構成する”ことで感性に訴えかける表現方法へと、次第に変化を見せ始めた。
これまでの自然主義的な要素は薄れ、形はより抽象的になり、色彩や構成には独自の探求が加わってゆき、むしろ、自分の内面をどのように絵画作品へと「昇華」させるかというモンドリアン。
─「”見えるもの”ではなく”本質を描く”こと」こそが、真の絵画思想であると確信しつつ、「初期に風景・具象を描くことではなく、自己の内面を表現すること」であった”経験”とその「経験のやり方は、自分の内面を作品へと「昇華」させる抽象絵画に至る重要な──「跳躍」ステップとなって、自己の「生成」と絵画作品の「生成と構築」に繋がったのだろう。
初期の風景画や具象絵画において画家と絵画作品の基盤を築き、それが抽象絵画に至る重要な──「跳躍」ステップとなって、その”経験”と「経験のやり方」が、やがて自らの革新的なスタイルへと繋がっていったことになる。
風景や具象を描くことは=”自己の内面を表現すること”であったが、それへの到達前、まさに自分だけの表現を模索しつつ、様々な要素を貪欲に取り入れながら彼の表現は次第に変化を遂げてゆくなかで、むしろ自分の内面をどのように作品へと「昇華」させるかが、モンドリアンにとっての最大の──「生成の触地」は「跳躍」として通過点に過ぎないのだが、それは具象世界から抽象世界へと新たな表現へと踏み出す瞬間だったのだろう。
「着色するスペースを減らす」「線の間隔を短くして立体感を出す」「キャンバスをひし形にする」「黒線に色をつける」など、微細な変化を重ねることで、新たな表現を模索してゆき。そして、それらの変化には彼の「内面が確実に反映」されている。
そのようにしてモンドリアンは、絵画の世界において「抽象」を極限まで追求し、新しい表現の可能性を切り開いた画家=「生成者」であるる。
彼の芸術は、印象派やキュビスムといった既存のスタイルを吸収しつつ、最終的に「新造形主義」という独自の世界観を確立したのであり、この過程で、対象そのものを排除し、平行線や垂直線、赤・青・黄の原色を基調とする図形だけで構成された作品を生み出した。
モンドリアンの作品は、〈絵を”見る”〉者に対し、「これは何か」と問うものではなく、むしろ「どう受け取ってもいい」と投げかけているのであって、絵画を単なる視覚的な美にとどめず、観者である〈絵を”見る”〉者の「内面と対話」するものへと「昇華」させたのである。
そもそも抽象絵画を描く理由とは、〈絵を”見る”〉者に自由な捉え方を提示し、[人間の心の内面を表現する」ことにあるともいえ、これまでの絵画は、何かを「描くこと」を前提としていた。
そのようなかで、しかしモンドリアンはその前提を根底から覆し、色と線だけで構成される新たな世界を生み出したのである。
モンドリアンは、その目的を追求し続けた結果、合理性と純粋性に満ちたスタイルを築き上げ、その結果、彼の作品は、現代においてもその意義を失わず、多くの人々に「新たな視点」をもたらし続けているのである。
「描く対象の形を変えるのではなく、対象そのものをなくしてしまったらどうなるのか」この問いが、モンドリアンの芸術をさらに次の段階へと押し上げた。、彼はここで「新造形主義(ネオ・プラスティシズム)」と名付けた独自の理論を発表した。
モンドリアンは「新造形主義」の基本原則として、以下の要素を定義した。
垂直線と水平線によって構成される図柄
・線によって形成されるグリッド
・赤・青・黄の三原色を基本に、白・黒・灰色を補助的に使用
・神智学の思想に基づき、写実性を排し、自己の内面を探求するもの
・合理的であり、秩序と調和の取れた表現を目指すもの
「赤・青・黄」の表現は、彼が歩んできた芸術の変遷を物語るものだった。
初期の印象派風の風景画から始まり、抽象化された風景画、そしてキュビスムの影響を受けた作品を経て、最終的には対象物を完全に排除した純粋な図形の構成へと進化した。
これは単なるスタイルの変化ではない。
モンドリアンが長年葛藤しながらも追求し続けた──「人間の内面を描く」という究極の表現に他ならならない。
モンドリアンのこの方向性は絵画を究極まで抽象化し、さらに使用する色彩を制限することで、余計な“示唆”や不要な要素を徹底的に排除するというものであった。
モンドリアンの「赤・青・黄」。
1920年、ついに「モンドリアンといえばこれ」と認識される作風が確立される。
このスタイルは、平行線と垂直線で構成された格子状の構造に、一部の区画が赤・青・黄の原色で塗られるのが特徴だ。
余計な要素を排除し、線・形・色のみで純粋な秩序と調和を生み出すまさに彼が求め続けた「新造形主義」の完成形だった。
このスタイルは単なるデザインではなく、モンドリアンにとって「世界の根源的な秩序を可視化する試み」でもあった。
そんなモンドリアンの歩みは、単なる美術の進化にとどまらない。
具象から抽象へと至る独特の変遷を辿りながら、彼が芸術に込めた思想とは何だったのか?
彼は一度確立したスタイルに固執するのではなく「より純粋な表現」へと進化させることに挑み続けた。
例えば、以下のような微細な変化が見られる。
・ 着色するスペースを減らすことで、余白のバランスを研ぎ澄ます。
・ 線の間隔を短くして立体感を生み出す。
・キャンバスをひし形に回転させ、新たな視覚的リズムを生み出す。
・ 黒線に色をつけ、構成のダイナミズムを強調する。
こうした小さな変化の積み重ねこそ、モンドリアンの探求の証であり、そして、それらの変化には彼の内面が確実に反映され、合理性と調和を追求する彼の芸術は、決して静的なものではなく、また変化や進化でもなく、「常に”生成”し続けるもの」だったのである。
下編のまとめ:
人の内面というものは、まさに、その人それぞれの「身(み)の部分」=人間たるものの「身(み)」であり、「絵を”描く”」ことは、個の内面を超えて普遍的な共生成の振動場を立ち上げる行為として──「共観の場としての絵画」=“絵を描くこと”は共生成の振動体なのである。
現象である「知覚と思考」の曖昧さを刺激し、現実である「創造と生成」の微かさに触地する。
この第1章は、絵画を「見る」と絵画を「描く」──生成の触地として立ち現れる“場の展開”と“実践の接地”に他ならず、
問いを立てたそのものが次章の導火線であり、“経験のしかた”が、次に〈わたし〉の「実際の実地」として接続・展開されるかが鍵になる。
1.-【絵画を「見る」と「描く」──共観の場・共生成の振動体として】
•「見ること」=「描くこと」を孕む出来事(カンディンスキー)
→ 視覚体験は単なる受動ではなく、内面の響きと結びつき、生成的な跳躍を引き起こす。
•「描くこと」=「生成の運動に身を置くこと」(クレー)
→ 線や色は点から歩き出し、時間を伴い世界を発見・生成する運動。
→ 絵画は思考と生成の同時体験であり、視覚を超えた多感覚的・時間的な現れ。
•「描くこと」=「内面の秩序化と普遍的振動場の立ち上げ」(モンドリアン)
→ 抽象化された線と色彩は自己を超えて世界と共振し、観者との共生成を促す。
2.-【「生成」とは?】
• 単に形や色を配置することではなく、
→ **「内的必然性」から生まれる「生きた力」**としての組織的構成。
→ それは感覚・感情・思考を震わす「共感覚」的体験であり、内面の精神的表現である。
• 「跳躍点」=見る/描くが分かれず一つの出来事として起こる瞬間。
→ 生成の触地。そこから新たな視覚・知覚・思考の場が開かれる。
3.-【「共観」と「共生成」の場としての絵画】
• 絵画は単なる個人の内面表現に留まらず、
→ **自己の内面を普遍的秩序の探求に開き、観者と共振・対話し共に生成する「振動場」**である。
• その振動体としての絵画は、
→ 知覚と認識の曖昧さを刺激し、創造と生成の微かな触発を呼び起こす。
→ 観者の想像力・感情・思考を巻き込みながら、多様な「見る/感じる」の生成的プロセスを進める。
4.-【抽象絵画の歴史的意義】
• カンディンスキー、クレー、モンドリアンは、
→ 視覚経験を単なる写実ではなく、内面と世界の生成的関係の「場」として捉え直し、
→ 抽象絵画という形でその「生成のプロセス」を視覚化し共振させた先駆者。
• それは単なるスタイルの革新ではなく、
→ 「世界の見方、見え方」を根底から問い直し、未来の視覚・思考・創造の可能性を開く契機だった。
結び
そして、いま、あなたが立っている場もまた──
《見る》ことと《描く》ことの間に広がる触地のひとつである。
そこから、あなた自身の生成の同心円が、静かにひろがりはじめるだろう。
次章
この「生成の触地」としての絵画体験を起点に、次章では、
• 「〈わたし〉の実際の実地」への展開、
• 体験としての問いの深耕と、
• 共観的・共生成的な現象としての思考の実地化
が展開されることになる。
断章:
……………………………………………………………
──著者の〈わたし=生成者〉も
刻意:
〈わたし=生成者〉としての在処(ありか)
望刻:
・・・・・ 見えないものに触れ、
言葉にならないものを透かし、
まだ名付けられぬ生成の〈出だし〉をなぞる、
”錯綜する地と空──エスキースの生成”へ、
それは──「生成された証し」。・・・・・
ー「錯綜する地と空──エスキースの生成へ」ー
Fragment: “The Interwoven Earth and Sky – Toward the Birth of the Esquisse”
テーマは “地と空” に触れ、
──エスキース(esquisse)は、
まるごと “地と空” を、
スケッチ(sketch)しているかのよう。
《光》と《風》に、ただ「薄く触れられ」、
“地と空” を、燦然と舞い覆う。
The theme touches “earth and sky”—the esquisse sketches them entirely,
brushed lightly by light and wind,
gliding and veiling the radiant breadth of both.
上昇することも、広げることも、
完璧化することもなく、整序するでもなく、
解体するでもなく、思い描くこともなく。
大袈裟な見栄えも、虚栄心も、不安すらもなく。
“考える”ことも“待つ”ことも、
“探す”ことさえもない──これは、「素描群」。
No ascent, no expansion, no drive toward perfection.
No ordering, no dismantling, no envisioning.
No ostentation, no vanity, not even anxiety.
Not thinking. Not waiting. Not even seeking—
This is a constellation of pure sketches.
意味の生成なき、星雲的な境域。
そこに「生成の出だし」がある──思考の手前。
上昇や拡張、構築に至る以前の──
「創造=生成」の純然たる実施。
問いは、空から地へと誘導されることなく、
幻視として生成される。
A nebular frontier where no meaning yet forms.
There lies the inception of creation—before thought.
Prior to ascent, expansion, or structure: pure act of genesis.
The question does not descend from sky to earth—it appears, as vision.
自由なるものは、発想の救いにすら触れない。
“逸脱”は、密やかな「手の雫」だけが、
《光》と《風》を見透かし、
そっと引く「線」に触れる。
そこには、窮屈さの欠片一つもない──
“地と空” の──錯綜素描。
What is free never clings to the salvation of ideas.
“Deviation” is found only in a quiet drop of the hand,
touching the light and wind,
tracing lines unseen,
in sketches where not a single fragment of constraint remains—
a weaving of earth and sky.
デッサン(dessin)の計測には、
中心も始まりも終わりもない。
デザイン(design)の計画には
──「生成の在処」があり、
”多方のリアリティ(reality)”に、
──「実在拠点の錯綜」が露わになる。
In the measurement of drawing, there is no center, no start, no end.
In the design’s plan lies the place of genesis,
where realities diverge, and sites of existence interweave.
気づいたとき、
自由はテーマの “風(問い)” に混沌としている。
前に進み続けるかぎり、
「潜在性」も「可能性」も、決して触れてこない。
When one notices, freedom is already tangled in the wind of the question.
As long as one moves only forward,
potential and possibility remain untouched.
逃走線は、点の緩みを擦り抜け、
生成線は、絡まりながら形をなす。
任意の生成態が、“地と空の球面上”を──
「等しく移動」している。
Lines of flight slip through loosened points.
Lines of genesis intertwine.
Formless figures drift evenly across the sphere of earth and sky.
裂け目に──「薄光と薄風の “創造どき”」。
思考の働きに先立ち、
──意識や感覚に訪れる「変化=思考」。
それは、生成の“出だし”から、”思いも寄らぬ”──
「発見的・構築的な想像力」の発動を兆している。
In the rift—comes the “moment of creation” with pale light and faint wind.
Before thought, a shift within perception and sensation.
It signals the spark of a generative, constructive imagination,
sprung from the very beginning of becoming.
空虚なる「余白」のなかに、
相称的な充満を──”見抜く力”が働く。
諸々の事物のあいだに、
──無数の「網の目」が紡がれる。
自家発火の変動性は、
純化された事物を無垢に組み合わせ、
”上昇し、拡張し、構築しよう”とする。
多方のリアリティに、
──「実在拠点の方法」を示しながら。
In the emptiest void, a symmetry of fullness is perceived.
Countless threads are spun among all things.
The volatility of spontaneous ignition
joins purified elements without admixture—
seeking ascent, expansion, construction,
and revealing methods for anchoring real presence in many realities.
──エスキース(esquisse)についての、
「新しい”思考”を”創造”した」のだ。
—Thus, the esquisse gave birth to a new way of thinking.
”Esquisse”, 2025.Kakuma KANKE
余白
「次章/第2章」への接続の可能性
生成は、思考のはじまりを超えて“出てきてしまう”動きである。
本章で見てきた《生成の出だし》の諸相は、果たして実際の現場でいかに立ち現れるのだろうか?
次章では、制作行為における具体的な実践をもとに、この“出だし”の構造と、その生成過程を観察していくことにしたい。
「思考の前にある生成」は、空中の理念ではなく、手を動かし、素材に触れ、環境に巻き込まれるなかでこそ、息づき始める。
では、どのような“場”が生成を可能にし、またどのような“裂け目”が意図を越える創造を招くのか。
次章では、その“生成の舞台”へと歩みを進めたい。
1. 現象の具体化;
• 第Ⅰ章が理論的・詩的に生成を語ったなら、第Ⅱ章ではその“現象としての記述”を実践現場で描写していく。
• スケッチ、身体動作、プロトタイピングの最中に立ち上がる《生成の“出だし”》の観察。
•「思いも寄らぬもの=”偶発性”」がどのように出現し、知となり、形を変えていくか。
2. 場の構造・環境との関係性:
•「生成がどのような“場”によって誘発されるのか?」という視点で掘り下げる。
•「環境=場」がいかにして知の揺らぎや、未然の動きを可能にするか。
•「媒介性」や「道具性」もここで議論されうる(素材・空間・身体の関係)。
3. 理論的参照と実践の交差:
• 哲学・芸術・デザイン論などとの往還を重ねながら、実践の厚みを増す。
• フルサリの「現象的気づき」や、イングルドの「素材との共生」など。
•「実在する何か」と「立ち現れる何か」との違いを議論。
思創考造 Cognigenesis thinking
第Ⅳ部:
「生成の”新たな次元”」
生成と構築
──触れられる思考と創造の裂け目
次章/第2章:
“わたし”の《わたし》に触れられる
──「生成の触知」
《思想的基盤》と《思いがけない跳躍》
……………………………………………………………
本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』
序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
最終章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学
続 編:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景