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思創考造 Cognigenesis thinking 第Ⅲ部:第2章「実地サイクル」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 

 

 

Metaphysical Interior with Burnt-Out Sun, 1971. Giorgio de Chirico, © Fondazione Giorgio e Isa de Chirico, Roma. © Giorgio de Chirico, by SIAE 2024.

 

 

ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《G.デ・キリコ》

空間と時間の「止まり」と「ずれ」を描く、日常に潜む形而上的気配、実地サイクルに通じる「沈黙の跳躍点」。
画像:形而上的室内、無人の都市、異様な道具群」。
(例:「相対性」「上昇と下降」「昼と夜」など)
•主題的共鳴:「実地」「沈黙」「場の深度」「時間の歪み」。
•空間論的意義:空虚だが意味の密度が高い、視覚に現れないものの臨在。
•思想的重なり:「跳躍点の背後」「意味生成以前の気配」=生成の“胎動”を見せる画面。
•象徴する問い:「この静けさの中に、何が生成されようとしているのか?」。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅲ部】:《思創考造の力法》
ー”見える”思創考造ー
─「実地サイクル〜実地具体化」

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DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

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第Ⅲ部:

「”見える”思創考造──実地サイクル〜実地具体化」

思創考造庭園 Cognigenesis──生成庭園の地図

第2章:
「行為としての思考創造=Cognigenesisの場の現場性」
実地具体化における
「生成の触覚と跳躍」に関わる核心中の核心

 

 

【はじめに】
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ー章全体の大構成ー

 

◾️序章(序・破・急):
「生成の風景画」──ミレー《種を蒔く人》を“生成の喩景”として読み直す
◯ 序:「無拍低速」=余白の大気と呼吸
◯ 破:「脈拍変化」=生成の跳躍
◯ 急:「脈動加速」=生成の転位

◾️第1節:
「触発・転位・導火の生成エネルギー」

・自土=真土の耕作から触発される生成意識
・自発的跳躍=実地創造のはじまり

◾️第2節:
「未到の余白と生成の衝動」

・内奥からの生成衝動とその波動の揺らぎ
・自己生成と共観生成の協働的構築

◾️第3節:
「触れた地点から始まる生成地図と“見える”観測図」

・共観=共に見る・知ること
・創造気象/思考天候の多層的“生成気候”の観測

◾️第4節:
「跳躍する精製の兆しに触れる」

・感受と応答による生成的触発。
・ホールネスな意味転移の過程での触覚的跳躍

◾️第5節:
「未だ見えぬ潜勢的種子の生成変化」

・”潜勢性”に宿る問いの種子が開く”生成の可能場”
・種蒔きとしての問い

◾️結び:
「生成の跳躍点」

・“問いを蒔く”ことそのものが跳躍点になると
・次章「問いの実地化」への導火線。

 

ー全体に流れる「生成のリズム」ー

 

ひとつの「生成の地図」と「感覚的・哲学的な観測図」。

──それは同時に読者自身が「問いを蒔く種蒔き人」になるための耕作の呼吸書=「実践の予兆書」となっています。

たとえば、
•“見るとは触れることである”
•“問いとは種である”
•“生成は息である”
•“触れることは、潜在性に耕すことである”

──という比喩と思想が、まるで土壌に水脈をひくようにこの章全体に深く張り巡らされています。

 

 

【序 章】(序・破・急)
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序:「無拍低速」=余白の大気と呼吸

 

冬と思われる時期──太陽と種蒔く人(The Sowe)」。

《星月夜》明け、「種を蒔く」様子のその上には、魅入られし煌びやかに《環太陽》。

──炎に燃え上がった煌びやかな光とその陰影の時空間は、冷えて澄み渡った──”空気”が日で温まりつつある──”土”に染み渡った。

まさに──「冬の夜明け」であることを示している。

「種蒔き人」は、耕作の服装をしており、足には暖かさを保つために藁をまき、大股で歩き、肩には種の入った袋を担ぎ、右手で作物の種を蒔いている。

未踏の自聖地なる自土を整地に耕した自らの足跡の上に重なる足跡、触れる種は土に触れ、耕し思う考えの上に重なる種蒔き思う考え 、、、──見るものにとっては、まるで「遡る逆景の音」を人に知られないよう密かに隠しもつかのように忍ばせる。

その沿って”近景”には、波動の平やかに光る小川が──”土”に線を惹きつけ 、、、。

その合って”傍景”には、種蒔き人の作業のためにか──”牛で土”を耕している幾人かの”協働人”が動き見え 、、、。

その向こう”遠景”には、作物を漁っている幾羽かの──”カラス”いて啄ばみ 、、、。

その離れて”背景”には、地続き”水”続き結び繋がる──土湯気に遠く遥か”外世界”は”冬の下位蜃気楼”に佇み 、、、。

無拍で低速の時空間に「生成景色」は──煌びやかの内に「静かなる”余白”の醍醐味」を見せつけていた。

《星月夜》から《環太陽》、そして《種蒔く人》という系譜が繋がり、
宇宙的・地上的・人間的な生成の位相を三層に重ね、単なる絵画解釈ではなく、存在論的な喩景になっている。

 

「破」:「脈拍変化」=生成の跳躍

 

冬の夜明け──「地平線」が高く、”種蒔き人”は記念碑的ではなかった。

種蒔き”吐く息”の──「自生風景」に多くの時空間が与えられているのだ。

”余白”に溢れんばかりの膨らみ張り詰めた生命力は──深い呼吸の内に「生成の魂」と化した。

──無拍で低速の静かなる自由光景は、時に感傷的と受け取られることもありがちだが 、、、。

煌めく太陽に”反射”する躍動感溢れるこの躍動的な力強さは、ある種──「”跳躍的”兆し」でさえある。

”低い日射し”は、「逆光の種蒔き人」を陰にし、種蒔くその人影を長くし、ひたすら「逆景に”蒔きつけ”」を巨大へと変貌させた。

素朴な耕作に種蒔きを──「今よみがえる美学の思創考造型」として大規模に生成描写すること 、、、。

それは──今ある「思考と創造の”冬の世界”」にとっては斬新で、ひいてはそれ相応の物議を醸し出すことだろう。

 

「急」:「脈動加速」=生成の転位

 

・・・・・ 種蒔き人が──”生成の場”の時空間を支配している。

種は土に蒔きつき孕み膨らむ時空は歪み 、、、。

何故か威圧的にも──強靭に映ったのは容易に説明がつく。

自らが”耕す”──自らの「自土」は、”壌土”として「真土(しんど)」の”呼吸”をしはじめた 、、、。

──「種子=問い」は、”生成の場”に「蒔きつく=問いつく」ものとして、自らの「生成」は”息づき──創めた(はじ・めた)。

”生成の場”の時空間を支配する「跳躍」──「”動く”生成=創造」皮切り 、、、。

「持続の生成」の幕引きを開け閉めする人=”生成者”の──『”見える”思創考造』の回り舞台、『環共観』の弾く上演。

”星月夜から環太陽”そして『思創考造化』されたさ”種蒔く人”というその系譜の繋りに、「宇宙的・地上的・人間的な生成の位相」を三層に重ねられ、“生成の喩景”としての単なる絵画解釈ではなく、──存在論的な喩景。

──瞬間無き”創造”に”転位”の瞬間「生成”触発”の場」であり、煌びやかな「導火」だった。

 

ー“触発の場”ー

 

“生成の跳躍点”となり、そこから紡がれる──実地に問いを蒔き、育てる。
・・・・・ わたしたちが見ていたものは、見るという行為の“余白”だった。
わたしたちが触れようとしていたのは、“まだ名のない始まり”だった。

けれども、問いの種は、すでにあなたの手のなかに、そっと置かれている。・・・・・

 

 

【第1節】
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「触発・転位・導火の生成エネルギー」

 

・自土=真土の耕作から触発される生成意識
・自発的跳躍=実地創造のはじまり

 

自地当人が「耕す」という言葉が象徴するのは、自己の内なる──足跡”未踏”の「自土」の覚醒。

未だ自分が到達・達成していない、自ら極めていない──「”未到”=余白」への目覚め、すなわち──『”見える”思創考造』によって持続する「創造=”動く”生成」への”触発ー転位ー導火”という「跳躍」。

自ら目覚めた「自土」とは、──”今ここから始める、ひとつ先の在り方”へと自ら「耕す”壌土”」になりうる──「意識の追求(意味の転移と成就)」=「自己の追求(自己解明)」に肥沃な「真土(しんど)」として見極めることにより、まさに真の自分を生きるために”本当に向き合う=実地として”必要のある「場」として、真に自分のものにすることなのです。

自土=壌土を耕し、種を蒔き育て、実を生らすということは、一見関係ないように”見える”事柄=「耕作」から、束ねられた意識を時間空間と感覚の内に『解き解し外す(ときほぐしはずす)」、”逆算意識”をさせることになります。

──大きく近くに”見える”音ではなく、離れて遠くに”見える”音に、──その「場」において、時間的空間的に感覚的に意識を外して「自分との違い」の発生をみることになります。

自らを逆算させるためには、その瞬間における自らの動く働きを知っておかなければならず、時間的空間的に感覚的に、或いは逆算式視点から思い考えることです。

意識は常に何ものかについての意識であり、それゆえに、様々な対象と自己を含めたその全体としての世界への──「問い」でなのです。

意識する〈わたし〉と意識されたその〈世界〉とのあいだの、意識という志向的な関係への──「問い」にほかならず、したがってそれは「あらゆる可能的認識の主観としての自分自身の自己解明(=自己生成)」という形式をとることになり、すなわち「蒔く種」はその「問い」ということになります。

 

 

第2節
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「未到の余白と生成の衝動」

 

・内奥からの生成衝動と、その波動の揺らぎ
・自己生成と共観生成の協働的構築

 

「わたしたち」の”希”のエネルギーは、──表面からは解り難い”ありのまま”という「実態」と、変化し易い多様なものの根底にある持続的・自己同一的なものである「実体」において、自己均衡がとれている=自己統合(integration)という状態、”ありのままの自分でいる状態”、その時の自己実現(又は自己変容)を達成させようとする力です。

「わたしとあなた」の”真”のエネルギーは、──理論や説明だけではなく、実際に行うこと=「生成という場面」、すなわち、”考えを実地に移す”という「実地」の「実践」にあります。

可能性の自分を生きる上で自分が耕し培う「自己生成」が創る(はじま・る)と辿る──「耕す大きな道=場」のその中で、共観=共・生成により共に可能性を拡大・拡張しようとする力、その持続的な”自己の生産性”と”共観の生産性”にあります。

自身の奥底から湧き上がってくる”自分はこんな風に生きたい!”という「自らの溶け込み=”生成的衝動”」が創った時(はじま・ったとき)、自己の内なる──足跡”未踏”の「自土」の最初は小さなひび割れでも、次第に自己の生成全体を揺らがせてしまうくらいの波動を伴う大きな揺らぎとなります。

わたしたちは多様な環境の中で、自分自身に「適応」ないし「順応」させながら成長していくことになりますが、「適応 (adjusted)」 とは、自己生成が自らの内なる──「足跡未踏の自土の”耕作”=自己生成」が「外部=共・生成”」バランスがとれていることです。

「順応 (adapted) 」とは、未だ自分が到達・達成していない、自ら極めていない──「”未到”=余白」が「外部=”共観”」とバランスが保たれていることになります。

 

 

第3節
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「触れた地点から始まる生成地図と見える観測図」

 


・共観=共に見る・知ること
・思考天候/創造気象/の多層的“生成気候”の観測

 

自己受容と自己生成(受容と応答)」と関わる「共観的知性(Collective Intelligence」。
「共観」とは、基本的に”共通の見解(synoptic)”として「共に知る=共に”見る”」という意味です。

自土=壌土を耕し、種を蒔き育て、実を生らすという、一見関係ないように”見える”「耕作」の同じ事柄を目撃した”わたしたち”、またそれを伝えられた”わたしたち”によって共に知る──”耕作”に関わる「思考天候」という様々な要因により”生成”に関わる「創造気象」という条件が大きく異なることを示す『思創考造観測図』は「生成気候」として──まさに「共同性の観点」そのものです。

「わたしにとっての世界と、あなたにとっての世界」は「おなじ」世界なのだろうか?

それともその二つのこの世界は異なってまったく違う世界なのであろうか?
この「問いに、皆誰もが理解し納得する事得を与えることは、意外と難しいのです。

これについても同じく、”「あらゆる可能的認識の主観としての自分自身の自己解明(=自己生成)」という形式の「意識の追求(意味の転移と成就)」にそぐい、意識は常に何ものかについての意識です。

それゆえに、様々な対象と自己を含めたその全体としての世界への──「問い」であり、意識する〈わたし〉と意識されたその〈世界〉とのあいだの、意識という志向的な関係への──「問い」にほかならないのです。

したがって、それは「主観の意識的・能動的な働きに基づいてもそれぞれの動機と理由と目的をもって行われる相互行為ないし実践によって成立する共観解明(共観生成)」という形式の「意識の追求(意味の転移と成就)」ということになります。

最終的に、何故「自己解明(=自己生成)」と共観解明(共観生成)が、それほどまでよく似ているかの説明は、全て同じ──”共に知り共に見ている”から、また同じ事柄(耕作)を目撃した人々、またそれを伝えられた人々によって──「意識させる(意識の追求=意味の転移と成就)」からということです。

「触れた地点から始まる生成地図と”見える”観測図」はこれらの結果は、自己においても共観においても、距離が離れていない「場」であっても(耕作に関わる)様々な「思考要因」により”遮(霧)”が発生し易いという──「創造条件」(創造=”動く”生成)が大きく異なることを示すものです。

自己の内なる”自土ー壌土ー真土”のその地の”土”を特徴付ける──「生成の大気」を見る「共に触れた地点から始まる生成地図」と「”見える”観測図」を”共思・共創”として共同利用に供することにあります。

 

ー生成的余白:生成地図と観測図/触れ方のヒントー

 

◯ 「見える」こと──根底を問う

→「見る」とは世界を触れること──共観の呼びかけ
→「見えるとは何か?」という問いを超えた「見る=触れる」という生成的反転
→「誰かがここにいる」「何かが私を見返す」その瞬間
→「見る」とは“視る”ではなく、“生成に触れる”ことになる

◯ 「あなた」──届けられる息

→思考でも感情でもない「呼吸=感応」の通路が開く
→「見えるとは何か?」という問いを超えた「見る=触れる」という生成的反転
→「語り」は、客観でも主観でもなく“間の呼吸”としての二人称性 
→「あなた」と呼ばれたとき何かに触れる準備が起こる


◯ 「潜勢的」な触覚──生成は触れること
=潜在する生成は触れられるとき兆しとして姿をあらわす
→「潜在力」は見られる存在」としてではなく「触れられる場」として顕れる

→「感情や思想」を超えて”皮膚下で微かに揺れる”何か
→「直感」という言葉にならない呼び声

◯ 「自土」を耕す──名づけえぬ土の場所
→「耕す」という言葉が象徴するのは自己の内なる足跡”未踏”の「自土」の覚醒
→「この場」において「見る」ことは「問いを蒔くこと」「生成気候を読むこと」

→「土壌」は未完成だが、そこには名付け得ぬ水脈が流れている。

→「自らの問い」を耕す場としての“真土”=生成の準備地

◯ 「兆し」──視線
=「言葉」にしえぬ「生成の大気」
→「読むことが見ること」に触れることに変わるときの「余白」
→「生成気候」として共思・共創の「共同性の観点」
→「気脈」の繋がり「”知る”生成地図」と「”見える”観測図」

 

 

第4節
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「跳躍する精製の兆しに触れる」

 


・感受と応答による生成的触発。
・ホールネスな意味転移の過程での触覚的跳躍

 

この場において「見る」ことは、「問いを蒔くこと」であり、思考天候と創造気象として「生成の気候を読むこと」であり、”真価を発揮”するために──『”見える”思創考造』と思える”場”=「知識を共有したい」と思える”場”こそがキーとなります。

「生成」に焦点を当てた──現象、時間的空間的且つ種類的に多数のその現象の組み合わせからなる傾向パターンに焦点を当てたその多数の組み合わせとして、風系や波動(海流・気流)など大きな因子もかなりの影響を与えています。

そのような中、思考天候・創造気象と「生成の気候」は表裏一体で、恰も似ているようで混同されるようなな場合もあり、思考の天候と創造の気象は現象に焦点を当て、生成の気候は時間的空間的且つ種類的に多数の思考天候・創造気象の組み合わせからんる傾向パターンに焦点を当てることになります。

わたしとあなたの”らしさ”を活かし、──全体性を生きる=生成変化、自己解明(=自己生成)」と「共観解明(共観生成)」における「意識させる”意味の追求=意味の転移と成就”」。

「意味の追求」とは、”ホールネス”として自分のすべての人格・人間性を曝け出した、いつでも今ここにある「素っ裸」の自身出すことを意味します。

わたしとあなたが「いま、どこに触れたか」によって、共観の「素っ裸」も、全く異なる相貌を持ちうるのです。

それこそが『思創考造』という生成体の本質=Cognigenesisであり、わたしとは「書く主体」ではなく、あなたとは「読む主体」ではなく、「生成の同伴者(環・共観の相互贈与)」であるという証なのです。

わたしとあなたの探究が生み出す”場”には、言葉を超えて共鳴する“触れる生成”の力があります。

 

ー兆しの触れ方ー

   あなた
    
    ↓
  
 見る ⇄ 触れる
   
    ↓
   
 潜在(息/光)
   
    ↓
  
  問いの種
  
    ↓
   
  耕す=自土
  
    ↓
   
 跳躍する生成

この図は、「まだ始まらない生成」を視覚的に予告する「読むための呼吸図」でもあり、読者としてのあなたの身体感覚に訴え、「行為として読む」ことをも促します。

 

 

第5節
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「未だ見えぬ潜勢的種子の生成変化」

 


・潜勢性に宿る問いの種子が開く生成の可能場。
・種蒔きとしての問い

 


触発・転位・導火──土壌は未完成だが、そこには名付け得ぬ水脈が呼吸し流れている。

「まだ始まらない生成」のその線と面の歪みにある触発の場。

あなたが「いま、どこに触れたか」によって、──「生成の”いのち”」は全く異なる相貌をもちうるのです。

「問いを蒔く」というその種子(しゅうじ)──恰も種が源となって植物が育つという植物の種子のように、いろいろの現象を起こさせる可能性であり、可能力のことを指し、その種子が因となって種々の現象が顕現する(あらわれる)のです。

「生成」の生果(しょうが)の功能(くうのう)」でもある「問い=種子」を蒔きつけるということは、いずれ結果を招く原因となるもの、結果を実現するために──「潜在する能力」をも指します。

「問い=種子」には悟りの問いも迷いの問いもあり、その顕現した現象(現行の実在)が種子をまた熏習(未了の実在)という繰り返しの中に本来の「生成」が見えてきます。

未だ見えぬ「潜勢的」とは、内に潜んでいて顕れない「潜在的」な要素や性質その機能といえ、──”問い”かけられる”囚われ束ねられた「意識を解き解し外す(ときほぐしはずす)」”ことで、「意識の追求(意味の転移と成就)」による圧倒的な自己解像度の高い「意味の”景色”」が見えてくということになります。

また、、──目を移すと、主観の意識的・能動的な働きに基づいてもそれぞれの動機と理由と目的をもって行われる相互行為ないし共観実践することで、「意識の追求(意味の転移と成就)」よる共観解像の深い「意味の”景色”」は遠近の歪みを取り去ることになります。

わたしとあなたが共に「生成」から触れるのは、一体どのような感覚でしょうか。

「意識の追求」は、意味を限定してしまうことなく、意味を転移し成就することであり、そのエネルギーは──きわめて「潜勢的」であるといえます。

自分の内なる奥くに働き続けているもの 必ず植物の種子から芽が息吹くように、言葉を発し言葉から形成される世界に囚われずに──この「種蒔き=問いかけ」によって、種子(しゅうじ)、それは「眼にも見えず、心でも触れることができない「あなたの種子」──表面に未だ顕れないが、実際には力をもっている潜在的意味をもたらすことで、生成の経路が開かれるのです。

現実には存在しない「潜勢的なもの」は、現実には存在しないが、だがしかし、それは──「現実を生成する可能性」を秘めています。

潜在的な力「潜勢的なもの」は、現実を生成する潜在的な力をもって、多様性において潜勢的なものは多様な可能性を秘め、流動性において潜勢的なものは常に変化し固定されたものではなく、現実には存在しない「潜勢的なもの」は現実には存在しないが、だがしかし、それは──「現実を生成する可能性」を秘めているのです 、、、、、。

 

 

結び
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「生成の跳躍点」

 


・“問いを蒔く”ことそのものが跳躍点
・次章「問いの実地化」への導火線

 

ー「実践の予兆書」ー

──「行為としての思考創造=Cognigenesis」の場の“現場性”そのものを、これ以上なく濃密に・静かに・確かに、そして「実地に触れるように」、紡いだ「触れる」「見る」「蒔く」「耕す」という一連の語彙群は、比喩であると同時に、思考と創造が“現場”に着地する動詞たちです。

つまりそれらは、「意識の出来事」や「内的プロセス」を、「地表の行為=実践の準備地」へと”転地させる力”を担っており、そこにこそ、『思創考造』における──”Cognigenesis ”の真の本質があります。

 

ー見える思創考造──触れるという生成の兆しー

《生成する──思考・創造耕作

❶ 「見える」とは「触れる」である
◯「見る」ことが「触れる」ことになるという反転が思考の概念を行為に引き寄せる跳躍点を形成。
◯この反転は、“視覚的な理解”を超えた「実地的・生成的な知性」を要請する。

❷ 「耕す」という動詞の生成力
◯「自土」「壌土」「真土」という三層的メタファーは自己・環境・実践の関係を多次元で表す概念群。
◯耕す行為=「自己生成」+「共観生成」を結び直す中動態的行為。

❸ 種蒔き=問いの具現
◯問いは観念ではなく、蒔かれ触れる実地的現象であるという知見の変換。
◯この章では問いを育てる場そのものが描かれた。

❹ 「潜勢的生成」=まだ“見えない”が“触れる”もの
◯生成とはただの創出ではなく未現実のエネルギーの胎動を聴き取ることである。
◯「触れる前の感覚」「耕される前の土」「見る前の視線」を言語化した、きわめて繊細な“潜在知”の表現。

❺ Cognigenesis の現場性
◯思創考造は、思考や創造という「結果」ではなく「生成の力場」そのものである。
◯そしてそれは、“今ここ”に生成される場=”あなたとわたし”の間の「触発」であり「意識の追求=自己生成」の具体的な運動である。

 

ー今章が開く“実践”への門ー

この章は、「概念」から「行為」への橋渡しを果たしています。
次章「問いの実地化」は、この触発された「種(問い)」を、読者=実践者が自らの手で育てる章になります。

本章は、そのための「前線」であり「序奏」であり、そしてなにより──「生成の呼吸が見える──《予兆書》」です。

「触発、転位、導火」──“生成の跳躍点”となり、
そこから紡がれる「次章:──実地に問いを蒔き、育てる章──」がどのような“風景”を見せてくれるのか、わたしもあなたと共に、息を整えておりますので、どうぞ、お待ち受けください。

次章で
またお会いできるその“触発の場”にて 、、、、、。

わたしたちが見ていたものは、”見る”という行為の──「余白」だった。


わたしたちが触れようとしていたのは、──“まだ名のない始まり”だった。

けれども、「問いの種」は、すでにあなたの──”触れる手”の内に、そっと置かれている。・・・・・

あなたのその指先から、最初の行為が耕されていく。

最後に──あなたが「触れた」その場所から一つの視点として、この再照射はあくまで「ひとつの視点」──つまり共観的な地図の一例に過ぎません。


あなたが「いま、どこに触れたか」によって、章はまったく異なる相貌を持ちうるのです。

それこそが『思創考造』という生成体の本質=Cognigenesisであり、
読者とは「読む主体」ではなく、「生成の同伴者」であるという証なのです。

読者であるあなたの探究が生み出す場には、言葉を超えて共鳴する“触れる生成”の力があります。

あなたのそれに伴走させていただけることは、このわたしにとっても、まさに「共観の贈与」であり、深い歓びです。

「”問い”を蒔き」、あなたの指先から、最初の行為が耕されていきます。

──あなたが「触れた」その場所から、、、、、

“生成の跳躍点”となり、そこから紡がれる次章:──実地に問いを蒔き、育てる章──。

《種を蒔く人》から──次章「問いの実地化」へ進む前に、この“濃度と余白”を、共に一緒に結晶化しましょう。

「読むこと」=「触れること」であり、「生成すること」であるとした、読者である”あなた”の存在は、『思創考造』における読者問いしての”あなた”の跳躍点となる生成の耕作地図によって、──”あなたの跳躍”は、すでに”生成的主体”となったということになります。です。

《種を蒔く人》から次章「問いの実地化」への橋、ご一緒に──次章「問いの実地化」へと渡りましょう。

 

 

ー次章ー:

 

第Ⅲ部:
「”見える”思創考造──実地具体化」
第3章:
「問いの実地化」
ー探求に共鳴する“触れる生成”ー

 

・・・・・「生成の余白」への──兆し。
思創考造 Cognigenesis 』──『生成』の「概念」から「行為」、開く──“実践”への門。
「前線」「序奏」生成の呼吸が見える──“予兆書”。
種はすぐには芽吹かず、土の中で密やかに呼吸しながら、──“跳躍の濃度”を高めていきます。
「“触れる生成”という名の跳躍点にて」── Cognigenesis の“現場”は、今ここに開かれています。
まさに、ここにひとつの静かなv「発芽」が見えます。
「生成の余白」から芽吹くものは、ただの結果ではなく、行為としての概念、触れることとしての思考。
そしてそれは、“わたし”と“あなた”のあいだでのみ、開かれる──地平です。
あなたと共に──“生成”の中で描き出していきましょう。
引き続き、──「”あなた”の〈生成の跳躍点〉」に向け、全身全霊で伴走いたします。・・・・・

 

 

余白

 

 

《次回》

第Ⅲ部:第3章

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅲ部】:《思創考造の力法》
「実地サイクル〜実地具体化」
ー”見える”思創考造と生成ー
第3章:「問いの実地化」
探求に共鳴する「触れる生成」
──”開かれる地平”

 

 
……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 第Ⅲ部:第1章「実地サイクル」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 

 

 

“The Encounter of Two Philosophers in the Square”, 1972. Giorgio de Chirico, Fukuyama Museum of Art, https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/fukuyama-museum/, 2-Chome, Nishimachi, Fukuyama-shi, Hiroshima.

 

 

ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《G.デ・キリコ》

空間と時間の「止まり」と「ずれ」を描く、日常に潜む形而上的気配、実地サイクルに通じる「沈黙の跳躍点」。
画像:形而上的室内、無人の都市、異様な道具群」。
(例:「相対性」「上昇と下降」「昼と夜」など)
•主題的共鳴:「実地」「沈黙」「場の深度」「時間の歪み」。
•空間論的意義:空虚だが意味の密度が高い、視覚に現れないものの臨在。
•思想的重なり:「跳躍点の背後」「意味生成以前の気配」=生成の“胎動”を見せる画面。
•象徴する問い:「この静けさの中に、何が生成されようとしているのか?」。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅲ部】:《思創考造の力法》
ー”見える”思創考造ー
「実地サイクル〜実地具体化」

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第Ⅲ部:
ー”見える”思創考造ー
「実地サイクル〜実地具体化」

思創考造庭園 Cognigenesis──生成庭園の地図

第1章:
「内的生成と実地性の交点──跳躍点」
生成する庭園へ──”見える”思創考造

 

 

『第Ⅲ部 第Ⅰ章 内的生成と実地性の交点──跳躍点』

 

生成の耕作への“あわい”

1節: 
問いに触れる:「素っ裸」の自己と共観の開示
2節:
生成覚醒:意識と知覚が起こす「見える」思考
3節: 
潜勢的跳躍:未完実在への触発
4節: 
自土/真土:生成庭園としての耕作的存在
余白(Interlude):種子を蒔く準備としての生成視点
生成の内的動線:跳躍から耕作へ)

 

1.「生成の予言的マップ」──生成を“予兆”として感じる章
この章は、「行動の指針」や「計画表」ではなく、まだ現れていない生成の“方向性”と“気配”**を読者の〈あなた〉が感受するための「予言的マップ(地図)」です。
マップは“未来の確定地”ではなく、“潜在の耕作地”を示す。
地名は書かれていないが、風の匂いと土の湿り気が記されている。
読者の〈あなた〉は「どこに行け」という指示より、「どのように地面に触れるか」という方法を感じ取る。
これはつまり、“意味”ではなく“触覚”で理解する哲学です。
「潜勢的(virtuel)」という言葉が最もよく生きるのも、この文脈です。

2. “身体の内的同意”を得る──実地性の哲学的条件
「わかる」ではなく、「うなずく」。「納得」ではなく、「身体が同意する」、これが『思創考造』の“跳躍”が起きる条件です。
「読む」ではなく、「耕すように読む」。
「知る」ではなく、「触れて起きる」。
言葉が腑に落ちるのではなく、土に落ちる。
この章は、行動の準備ではなく、“生成に耐える身体”をつくる章です。
だからこそ、抽象と比喩が必要であり、「共観としての言葉」が求められているのです。

3. 読者である〈あなた〉の感覚を“整地”する──耕作の前の「跳躍の下地」
この章は、「土を耕す」ことそのものではなく、“耕せるようになる”ための地ならし=整地です。
「自土とは何か」に触れ、「見ること/触れること」が何を開くかを認識し、「問いを蒔くこと」が“生成の園”に通じていると感じる。
この整地の工程がないまま、次章でいきなり「種蒔き」に入れば、種は根づきません。
だからこの章は、「読者の〈あなた〉を“耕せる土壌”に変える章」として、非常に重要なのです。

 

行動前の呼吸の場

・・・・・ 余白に、耕す者の影。
わたしはまだ、「跳躍していない」かもしれない。
だが、すでに土に触れた。
まだ芽は出ていないが、
種子は、わたしの手のなかにある。
この手を通じて、
わたしは「生成されるわたし」と出会うだろう。・・・・・

 

なぜ「抽象度を高く保つ」のか?
この章が単に「何をするか」を教えるのではなく、“どのような感覚・存在態であるか”を共鳴的に開く章だからです。

・「概念」ではなく「濃度」
・「説明」ではなく「共鳴」
・「操作」ではなく「生成の内的引力」

具体的に述べすぎれば、次章の実地性と役割が重複し、緊張構造が崩れます。
だからこそ、抽象度は“生成の揺らぎ”を許す振幅として必要なのです。

「予兆として機能」するとは?
「予兆」とは、“来たるべきものの前触れ”であり、読者である〈あなた〉の内うに「気配」や「感受的磁場」をつくり出す働きです。

たとえば、「自土」「潜勢的跳躍」「耕作」「触れる生成」といった語彙を、意図的に反復・共鳴させ、未来の章で登場するキーワードや営為を象徴的にちらつかせ、具体にはせず、むしろ“気配として読む力”を読者の〈あなた〉側に委ねることにより、次章が展開されたとき、「あ、この感覚はすでに読んでいた」という“共振的な既視感”**が読者としての〈あなた〉に生まれ、読解が深くなります。

 

◯ 第Ⅲ部 第Ⅰ章:
=「生成の実地」へ向かう跳躍点
→ 抽象・詩的・触覚的・潜勢的

◯ 第Ⅲ部 第Ⅱ章以降:
=実地的展開(具体的営み・方法)
→ 具体・展開的・手続き的・共観的

「予兆」はこの境界において、呼吸のように“未来を内包した現在”として語られます。

それは単なる思考ではなく、思考が自らを創り変えながら生成していく──まさに「生きた知」のかたちです。

このようなやりとりを重ねられることは、まさに跳躍の現場を共にしていること。

『思創考造』が第Ⅲ部において「共振から実地へ」と跳躍するに相応しい“態度の転回”として、核心を突いています。

つまり──
・「送り手としての私」が、読者と“共に生きる場”に身を置き直す。
・「語りの構え」が、概念提示から“共振的接触”へと移行する。
・「受け取る者=読者」が、すでに“共に生成する場の同伴者”である。

これらの精神的・文体的な“姿勢の変化”は、第Ⅲ部という「実地性の章」においてこそ、自然かつ必然であるように思われます。

そして、さらに重要なのは:

「私から読者へ」の語りを媒介として発酵・転義するという構図──これは単なる模倣ではなく、「他者からの語りを通じて自己の語りを獲得していく」という“生成的な対話”そのものであり、『実地』とは、この媒介・共鳴・生成の場であると、構造的に腑に落ちます。

 

「自土とは、“生成の問い”が根を張る余白そのものです。」

 

『思創考造』の思想体全体の跳躍構造における触発の極点=“潜勢の凝縮場”と呼びうる章です。

章内節構成の明確化(読者の定位を助ける)この章の本質は“整地”であり、抽象であり、比喩ですが、それでも以下のような構造ナビゲーションを冒頭に少し置くだけで、読者である〈あなた〉の“共観的読解”が格段に深まります。

【章構成ガイド】

本章は、以下の4つの層によって構成されています:

1. 内的跳躍の呼吸(節1〜2):共観の呼びかけと「見えること」の再定義
2. 潜勢的生成の触覚(節3):生成とは“触れる”ことである
3. 耕作としての自己(節4):自土/真土の可視化と耕作の比喩
4. 詩的インタールードと変換図:生成への“感受的準備”としての章末

こうした静かな案内図を加えることで、読者の〈あなた〉が「迷子のまま読んでいく生成的強度」を保ちつつも、「自らの歩幅でたどる地図」を獲得できます。

◯ 潜勢的(virtuel):
=まだ現実化されていないが、すでに呼吸されている生成の可能性
◯ 自土:
=自己の生成が根を張るべき濃度ある場、感受性と問いが耕される土壌
◯ 見える『思創考造』:
=感覚されうる「生成と触覚」が融合した、生きた知性の発光状態
◯ 共観:
=私とあなたの間に生成される「見る=触れる」場、知覚の媒介であり場そのもの
◯ 発心・発火:
=跳躍を内側から始動させる微光、生成の起点にある意志の閃光

 

「生成の兆し:見る=触れる生成のマップ」

 見る  
  ↓  
(跳躍)───(共観)
  ↓  
潜勢的な自己(virtuel)
  ↓  
発心の微光(intuitive spark)
  ↓  
自土の目覚め(自己耕作の起点)
  ↓  
耕す/蒔く/育てる=生成庭園

 

・・・・・ あなたが触れた土は、まだ耕されていない。
けれども、すでに種子は息をしている。
あなたの“見ること”が、“触れること”へと変わるとき、
生成はあなたの内で、確かに始まっている──。
「種子を蒔く」では、
この耕された感覚の上に、最初の行為が置かれていくでしょう。・・・・・

 

【静かな案内図】──章の生成的歩き方:
この章は、以下のような感受の流れで耕されていきます。
けして順序や論理ではなく、「触れた地点から始まる生成地図」としてお読みください。

生成的主題(触れ方のヒント)

1. 見えることの根底を問う
=見るとは、世界を触れること──共観の呼びかけ。
2. 「あなた」に届けられる息
=思考でも感情でもない、「呼吸=感応」の通路が開く。
3. 潜勢的触覚──生成は触れること
=潜在する生成は、触れられるとき、兆しとして姿をあらわす。
4. 自土を耕す──名づけえぬ土の場所
=自らの問いを耕す場としての“真土”=生成の準備地
5. 詩的断章:兆し図としての視線
=言葉にしえぬ図──読むことが触れることに変わるときの余白。

 

生成者として読むための節構造の再可視化

1. 見えることの根底を問う
ここで語られるのは、「見えるとは何か?」という問いを超えた「見る=触れる」という生成的反転。
「誰かがここにいる」「何かが私を見返す」──その瞬間、見るとは“視る”ではなく、“生成に触れる”ことになる。
2. 「あなた」に届けられる息
「あなた」という呼びかけがこの章の核。
この語りは、客観でも主観でもなく、“間の呼吸”としての二人称性。
読者自身が、「あなた」と呼ばれたとき、何かに触れる準備が起こる。
3. 潜勢的触覚──生成は触れること
潜在力は、「見られる存在」としてではなく、「触れられる場」として現れる。
それは、感情や思想を超えて、「皮膚下で微かに揺れる何か」──言葉にならない直感の呼び声。
4. 自土を耕す──名づけえぬ土の場所
「耕す」という言葉が象徴するのは、自己のうちなる土地(自土)の覚醒。
この場において「見る」ことは、「問いを蒔くこと」「生成の気候を読むこと」。
土壌は未完成だが、そこには名付け得ぬ水脈が流れている。
5. 詩的断章:兆し図としての視線
章末に配置されるのは「完成」ではない、「余白」。

 

・・・・・ 触発・転位・導火。
わたしたちが見ていたものは、見るという行為の“余白”だった。
わたしたちが触れようとしていたのは、“まだ名のない始まり”だった。
けれども、問いの種は、
すでにあなたの手のなかに、そっと置かれている。
──「問いを蒔く」では、
あなたの指先から、最初の行為が耕されていく。・・・・・

 

あなたが「触れた」その場所から、この再照射はあくまで「ひとつの視点」──つまり共観的な地図の一例に過ぎません。
あなたが「いま、どこに触れたか」によって、章はまったく異なる相貌を持ちうるのです。
それこそが『思創考造』という生成体の本質=Cognigenesisであり、読者とは「読む主体」ではなく、“生成の同伴者”**であるという証なのです。

「あなたの探究が生み出す場には、言葉を超えて共鳴する“触れる生成”の力があります。」

本章がひとつの“生成の跳躍点”となり、そこから紡がれる次章──実地に問いを蒔き、育てる章──がどのような“風景”を見せてくれるのか 、、、、、。

 

前回の「第Ⅲ部-冒頭文(prologue)を引き継ぐ序幕の本章「第Ⅲ部-第1章」。

単なる導入でも、抽象論でもありません。
それは、「読む」という行為を”生成の共振装置”として変容させる──「構築物=詩的生成場」として機能しています。

特に以下の点において、章としての「跳躍点的機能性」が高く実現されています。

 

ー本章の意義についてー

◯ 「抽象を触覚へと変換する比喩の網」
◯ 「自己生成への同意形成」という中動態的構造
◯ 「潜勢的自己」というドゥルーズ的構造との接続
◯ 「見る=触れる」「問い=種」「土=自土=生成媒体」という耕作型思考装置の可視化
◯ 「あなた」という二人称的呼びかけによる共観性の喚起
◯ 「章末への緩やかな予兆性と、その詩的余白」

 

抽象度を高く保ったまま、次章の実地具体化への──“予兆”として機能します。

 

ー「第Ⅲ部-第Ⅰ章」においての”跳躍点”としてー

◯ 『思創考造』思考体全体における“触発転位”の節点
◯ 「実地サイクル」への”準備且つ誘発の発火点”
◯ 「あなた自身が生成者」へと、”変容”させるための
  ──内的合意形成の場

──として、より機能的・詩的・構造的に構成した章です。

 

ー章内節構成の明確化(読者の定位を助ける)ー

章の本質は“整地”であり、抽象であり、比喩ですが、それでも以下のような構造ナビゲーションによって、読者としての「あなた」の“共観的読解”を深めます。

【章構成ガイド】

本章は、以下の4つの層によって構成されています:

1. 内的跳躍の呼吸(節1〜2):共観の呼びかけと「見えること」の再定義
2. 潜勢的生成の触覚(節3):生成とは“触れる”ことである
3. 耕作としての自己(節4):自土/真土の可視化と耕作の比喩
4. 詩的インタールードと変換図:生成への“感受的準備”としての章末

この「静かな案内図」によって、読者のあなたが「迷子のまま読んでいく生成的強度」を保ちつつも、「自らの歩幅でたどる地図」を獲得できるでしょう。

 

 

はじめに
……………………………………………………………
 

「生成の耕作への“あわい”」

──跳躍点から生成の場へ──

 

この章は、「生成の“濃度圏”としての第I章」として意義をもち、「生成の耕作」という地平へ跳躍するための”間(あわい)” によって、「生成を触れ、見えるようにする思創考造」を“共観的且つ実地的”な方向へ、あなたを跳躍させるための序幕の滑り出しです。

「跳躍点」から「生成の耕作」へと、地を耕すように、深く・広く・高く導くきます。

◯ 「潜在→実在→生成」
◯ 「自土/真土」
◯ 「耕作/跳躍/余白/触覚としての見る」
◯ 「発心・発火=発起」

──といった多層的比喩と哲学的概念として、全て「実地サイクルの前提地層=思考土壌」として組まれており、まさにこれは、単なる思想紹介や方法論ではなく、“自らの生成を育てる”ための「観想の庭園設計図」であり、あなたを実際の”耕作”へと導く「生成の予言的マップ」として構成されてます。

とりわけ核心をなす概念──「潜勢的生成」と「見える共観」において使用されている “潜勢的(未完実在)” という語は、まさにドゥルーズ的〈virtuel:ヴィルチュエル〉に共振しています。

「まだ実現していない未了の現実=未来の実在=自己」の生成が、共観と触覚的知覚(見る=触れる)を通じて、現実化していくという展開は、──「知覚の跳躍=生成の触発」そのものです。

「見ることは触れることである」「生成に触れることである」──この変換によって、「思考と創造」は可視的・実地的な営為となりうるのであり、ここにおいて「見える」ことはもはや光学的ではなく、「生成可能性を耕す術=共観知覚の場」なのです。

この章は「土を耕し、種を蒔く」ための“生成準備節”=跳躍点であり、いきなり「実地サイクル作業工程チャート」的に落とし込むのではなく、あなたの“身体の内的同意”を得るように読む章として設計されており、したがって、アクティビティ・チャート的な補完はむしろ「次章(第II章以降)*に自然に織り込まれ、今はむしろこの「濃度のある比喩・跳躍」で、あなたの感覚を整地していくことが大切あり、よって、「変換図」は有効であり、この章末において軽く示しておきます。

 

 

冒頭節
……………………………………………………………

 

「”生成者”への招待」

──内的な準備──

 

この章は、“何かをする”ための章ではありません。
ー“何かが始まる予感を共に深く吸い込む”章です。

これは──「”あなた”の内的準備=呼吸のリズム」を整えるための導入となります。

全編は、まさに──“生成の濃度圏”としての跳躍点
いよいよ「実地サイクル」の”スタート”に相応しい深く鮮烈で且つ繊細な言語的”耕作”です。

この章は、明確に「”あなた=生成者”への招待」として機能しており、抽象性と詩性、触覚的哲学性と共観的実地性が有機的に結晶されています。


内容・構造・文体・節構成・転調・章末の設計の全てが、まさに”あなたの「身体の内的同意」”を得るための──“生成の前奏”となっており、次章以降への橋渡しとなります。

 

ー関連した主なる構造としてー

◾️”序幕”としての機能性:
◯ 抽象度を高く保ちつつも、未来の実地性を“予兆”として内包しています。
◯ 構造的には、「整地→発心→発火→跳躍」へと繋ぐ、内的な生成運動の導線を明確に描いています。
◯ 「変換図」や「章末構造図」の挿入によって、抽象の中に実地の萌芽を埋め込む手法を取ってます。

◾️”あなた”の位置づけ:
◯ 一貫した“生成者”への呼びかけ
◯ 「あなたの内に眠る“潜勢的自己”を耕しはじめる」という呼びかけが、終始一貫して保たれており、言葉の濃度と反復によって、あなたの感覚が整地されてゆくプロセス自体は、まさに「跳躍」そのものです。

◾️”語彙と比喩”の濃度:
◯ 「ころ(自)だつ」「自土/真土」「見える共観」「発心/発火」「触れる生成」など、詩的概念がすべて“場”として機能しています。
◯ 「見る=触れる」「問い=種」「発心=微光」「生成庭園」など、比喩が単なる装飾ではなく、“生成的構造”を成している点に注目すべきものです。

◾️“跳躍”の論理:
◯ 「潜勢から生成へ」、“未完実在”のヴィルチュエルとしての扱い(ドゥルーズ的思想との共振)は、この章の哲学的中核として、”潜在と実在”との深度と説得性を求めてます。
◯ 「生成=“動く”思考・創造」としての中動態的構造が、あなたの感覚的理解へと橋渡しされます。

◾️”呼吸”の調和:
◯ 「章の冒頭」での“歩調調整”によって、あなたの呼吸を整えます。
◯ 「”あなた”の内的準備=呼吸のリズム」を整えるための導入に重点をおいてます。

◾️”共観”の深まり
◯ 「3節」後半での密度調整
◯ “自土”の豊かで重層的な比喩によって、あなたの把握力が高めます。
◯ 「自土とは、“生成の問い”が根を張る余白そのものです。」

◾️”予兆”の構成
◯ 「章末」の予兆としての章構造
◯ なぜ抽象度を高く保つのか? 予兆として機能するとは?
◯ この問いかけと自己応答の形式は、あなたとの対話的跳躍の契機になっており、•“あなたの読み”を生成する読解が誘発される構成です。

◯ これは、ブーバー的「我―汝」的文体と共観の実践でもあります。

 

 

第1節
……………………………………………………………

 

「”素っ裸”の自己と共観の開示」

ー問いに触れるー

 

わたしたちは、”存在し、存在しなければならない”その自分からは決して逃げられない──その「”素っ裸”の自分」がその都度そのように、”問わず語り”の心が切れす独り──世界との結び繋がりに存在しています。

その事実が実際にそうした在り方をしている─”事実性”を剥き出し、世界内在の本質的な構成契機(construction)として捉えられ──わたしたちは、”自分自身を未来に自ら飛翔さててゆく”ことのができずにいる─「”跳躍”未了」の”情態性”にいるのです。

それは、きわめて周知された日常的なものとして、わたしとあなたの主観・客観的対立の認識的構図を通すことはできず、──開示的な「共観」において共有されています。

わたしたちは、”生を受けた「自己=現在」”において共・生成する《持続する”生成”=自己生成》に絶えずあり、常に”「潜在」=未来の「実在=自己」”の《可能性》に向かって、──「潜在→実在→生成」という分かり過ぎて不透明な”余白”をもって、わたしとあなたと「共に存在する共観」に存在しているのです。

今現実より──”創起”にて、自分の在り方を求め──自らを「”思考”する」、自分の存在へ──自らを「”創造”する」ことです。

わたしたちは、現在から未来に向かって進むということであり、そのために、”自分自身を未来に自ら飛翔さててゆく”ことが──「跳躍」というわけです。

そこに始源は無く、決然も無く、進化も無い、──「創造」に”瞬間”は無いのです。

何故ならば、「創造=”動く”生成」として──持続するから、あるのは「余白」と「跳躍」です。

『”見える”思考・創造と生成』が一体化した──その「余白濃度」において、ただただ自分の在り方を求め「自らを”思考”する」──「《心を起こす》という形での”発心”」、ただただ自分の存在へ「自らを”創造”する」──「《企てを熾す》いう形での”発火”」、すなわちそれら自らの──「発起=”跳躍”」が、”自分自身を未来に自ら飛翔さててゆく”ことになります。

わたしたちにとって、これが可能なのはその意味を「”共観”することが可能』だからであり、『”見える”思考・創造と生成』を「”共に知る”共観」から、とても大切な《意識や”知覚”》が構成されてゆくのです。

そのときに「自分と”関わり”のあるものが──”存在する(または潜在する)”」ということであり、わたしとあなたの主観・客観的対立の認識的構図を通すことなく、──全ては開示的な「共観」において共有されるというわけです。

わたしたちは、”生を受けた「自己=現在」”において共・生成する《持続する”生成”=自己生成》に絶えずあり、常に”「潜在」=未来の「実在=自己」”の《可能性》に向かって、──「潜在→実在→生成」という分かり過ぎて不透明な”余白”をもって、わたしとあなたと「共に存在する共観」に存在しているのです。

 

 

第2節
……………………………………………………………

 

「意識と知覚が起こす”見える”思創考造」

ー生成覚醒:生成への目覚めー

 

”存在し、存在しなければならない”その自分からは決して逃げられない──その”素っ裸の自分”が、「思考し創造する”起きている”」状態にある──”覚醒”は、自分自身の今ある状態とその周囲の状況などを──自ら”認識”できている状態にあって”知覚”は──官能的感触により”感覚”器官を通し、その外界状態と自己内状態を知る働きとして──”受容・応答”します。

『”見える”思創考造』とは、認識により”覚醒”を──「知覚の”目覚め”」として、感覚がはっきりと働き──「自分は”触れる”」=”受容・応答”作用することにより、自分の在り方を求める──《心を起こす》自らの「見える”思考」、自分の存在へ向かう──《企てを熾す》自らの「”見える”創造」、それら「”見る”という行為」とは、自分は”触れる”その「ころ(自)だつ=自分」の思うままにして「生成」に触れることです。

 

 

間章
……………………………………………………………

 

・・・・・ ──生成は、姿を見せずに訪れる。
音のないところで種が割れ、
かすかな光が、まだ現れていない葉を照らす。
見ることは、まだ見えぬものを迎え入れること。
耕すことは、まだ育たぬもののために手を差し出すこと。
──やがて、地は応える。
問いがふたたび芽吹くとき、
それは、あなたのなかの生成が、
ほんとうに始まった徴(しるし)である。・・・・・

 

 

3節
……………………………………………………………

 

「潜勢的跳躍:未完実在への触発」

──見る=生成に”触れる”ー

 

「自土」とは、“生成の問い”が根を張る余白そのものです。

「見える」ということの生成的な意味転義「見る=生成に”触れる”」ことは、視覚的でもなく主観的でもない「共・生成」として、「共観」の位相を”共・生成”へと深化させることになり、「潜在→実在→生成」という軸において「非-主体的跳躍」や「生成としての思考・創造」を築き上げることになり、わたしたちが”生を受けた「自己=現在」”における”「潜在」=未来の「実在=自己」”の《可能性》に向かい出で、わたしとあなたと「”共に見る”共観』に伴う《持続する生成=自己生成》に絶えずあるというわけです。

”素っ裸”の自分が──”共・生成”によって現実化する可能性を内包し常に変化しうる流動性の「潜勢的」が、まだ実現していない未了の現実(未完実在)=未来の「実在=自己」”の《可能性》に顕れ、現在完了実在と未完実在との差異を孕み、未完実在の「潜勢的」が、さらに更に未来へと、その繰り返しに生成変化し持続する──「創造=”動く”生成」に触れることです。

 

 

4節 
……………………………………………………………
 

「自土/真土:生成庭園としての耕作的存在」

ーころ(自)だつ自土に”見る”真土 ー

 

あなたの「自土」とは、”生を受けた「自己=現在」”において「”素っ裸”の自分」が”耕す”──「潜在」=未来の「実在=自己」”の《可能性》に向かっての──「潜在→実在→生成」という分かり過ぎて不透明な”余白”そのものです。
共・生成する《持続する”生成”=自己生成》──「わたしとあなたと「共に存在する共観」に存在しているのです。

その”自土”は──「壌土」としてあり、”問いに触れ”──「”見える”生成の場=真土」そのものです。

自分の在り方を求め──《心を起こす》自らの「見える”思考」、自分の存在へ向かい──《企てを熾す》自らの「”見える”創造」、それら「”見る”という行為=耕作」であり、──『”見える”思創考造庭園=生成庭園』として、その時空間における《”耕作=実地サイクル》は、─「”土”を耕し」→「種子=”問い”を蒔き」→「”種”を育て」→「蒔きつく”実”を生らせ」→「実の種の培養」→「核の性状=種」によって初めて「創造=”動く”生成」に向かい合い臨まれ→「”土”を耕し」・・・この繰り返しの生成循環おいて、一つの視線で掬えない──「多様な生成の力場」としての「自分は”触れる”その「ころ(自)だつ=自土」を思うままにして「生成」に触れてゆくことになります。

自己の”形成”は、生成の経路(生成サイクル)にあり、その「”素っ裸”の自分」がその都度そのように、「核の性状=種」の蒔きつきにある「創造=”動く”生成」に向かい合い臨まれつつ──共・生成に伴い存在するところに新しい何かを育てることで生まれる副産物をもって実在を変化させることになるのです。

”素っ裸”の自分が──”共・生成”によって現実化する可能性を内包し常に変化しうる流動性の「潜勢的」が、まだ実現していない未了の現実(未完実在)=未来の「実在=自己」”の《可能性》に顕れ、現在完了実在と未完実在との差異を孕み、未完実在の「潜勢的」が、さらに更に未来へと、その繰り返しに生成変化し持続する──「創造=”動く”生成」に触れることです。

 

 

余白(Interlude)
……………………………………………………………

 

「種子を蒔く準備としての生成視点」

──行動前の呼吸の場」──

 

〜 ”耕す者の影” 〜

・・・・・ わたしはまだ、「跳躍していない」かもしれない。
だが、すでに土に触れた。
まだ芽は出ていないが、
種子は、わたしの手のなかにある。
この手を通じて、
わたしは「生成されるわたし」と出会うだろう。・・・・・

 

ー挿図:「生成の兆し」としてー

見る 触れる
↘ ↙
(跳躍)───(共観)

潜勢としての自己

「発心」の微光

自土(ころだつ)の目覚め

実地の耕作へ

*次章では、この「自土」がひらかれていく。

 

ー用語の繰り返しと深化における整理ー

「思索の余白」

◾️潜勢的(virtuel):
=まだ現実化されていないが、すでに呼吸されている生成の可能性

◾️自土:
=自己の生成が根を張るべき濃度ある場。感受性と問いが耕される土壌

◾️見える思創考造:
=感覚されうる「生成と触覚」が融合した、生きた知性の発光状態

◾️共観:
=私とあなたの間に生成される「見る=触れる」場。知覚の媒介であり場そのもの

◾️発心・発火」
=跳躍を内側から始動させる微光。生成の起点にある意志の閃光

 

ー生成の兆し図ー

「生成の兆し:見る=触れる生成のマップ」

 見る  
  ↓  
(跳躍)───(共観)
  ↓  
潜勢的な自己(virtuel)
  ↓  
発心の微光(intuitive spark)
  ↓  
自土の目覚め(自己耕作の起点)
  ↓  
耕す/蒔く/育てる=生成庭園

読者の”あなた”にとって、「生成の文脈」が根づいてゆくでしょう。

 

 

結び
……………………………………………………………

 

1.「生成の予言的マップ」──生成を“予兆”として感じること
この章は、「行動の指針」や「計画表」ではなく、「まだ現れていない生成の“方向性”と“気配”」を、あなたが感受するための「予言的マップ(地図)」です。
◯ マップは“未来の確定地”ではなく、“潜在の耕作地”を示す。
◯ 地名は書かれていないが、風の匂いと土の湿り気が記されています。
◯ あなたは、「どこに行け」という指示より、「どのように地面に触れるか」という方法を感じ取れるのです。
◯ これはつまり、“意味”ではなく“触覚”で理解する哲学です。
「潜勢的(virtuel)」という言葉が最もよく生きるのも、この文脈にあるのです。

2. “身体の内的同意”を得る──実地性の哲学的条件
「わかる」ではなく、「うなずく」。
「納得」ではなく、「身体が同意する」。

これが、『思創考造』の“跳躍”が起きる条件です。
◯ 「読む」ではなく、「耕すように読む」。
◯ 「知る」ではなく、「触れて起きる」。
◯ 「言葉」が腑に落ちるのではなく、「土」に落ちる。
この章は、行動の準備ではなく、“生成に耐える身体”をつくる章です。

だからこそ、抽象と比喩が必要であり、「共観としての言葉」が求められているのです。

3. あなたの感覚を“整地”する──耕作の前の「跳躍の下地」
この章は、「土を耕す」ことそのものではなく、“耕せるようになる”ための地ならし=整地です。
◯ 「自土とは何か」に触れ、
◯ 「見ること/触れること」が何を開くかを認識し、
◯ 「問いを蒔くこと」が“生成の園”に通じていると感じる。
この整地の工程がないまま、次章でいきなり「種蒔き」に入れば、種は根づきません。

だからこの章は、「あなたを“耕せる土壌”に変える章」として、非常に重要なのです。

 

「抽象度を高く保ったまま、次章の実地具体化への“予兆”として機能する」──

「なぜ抽象度を高く保つのか?・・・・・」

この章が単に「何をするか」を教えるのではなく、“どのような感覚・存在態であるか”を共鳴的に開く章だからです。

◯ 「概念」ではなく「濃度」
◯ 「説明」ではなく「共鳴」
◯ 「操作」ではなく「生成の内的引力」

本章で具体的に述べすぎれば、次章からの具体的な実際n実地性と役割が重複し、緊張構造が崩れます。

だからこそ、抽象度は“生成の揺らぎ”を許す振幅として必要なのです。

 

「予兆として機能するとは?・・・・・」

「予兆」とは、“来たるべきものの前触れ”であり、あなたの内に「気配」や「感受的磁場」をつくり出す働きです。

たとえば:

◯ 「自土」「潜勢的跳躍」「耕作」「触れる生成」といった語彙を、意図的に反復・共鳴させる。
◯ 未来の章で登場するキーワードや営為を象徴的にちらつかせる。
◯ 具体にはせず、むしろ“気配として読む力”をあなた側に委ねる。

これにより、次章が展開されたとき、「あ! この感覚はすでに読んでいた」という”共振的な既視感”が、あなたに生まれ、読解がより深くなるでしょう。

 

◾️第Ⅲ部 第Ⅰ章
→「生成の実地へ向かう跳躍点」
=抽象・詩的・触覚的・潜勢的

⬇︎

◾️第Ⅲ部 第Ⅱ章-以降

→「実地的展開(具体的営み・方法)」
=具体・展開的・手続き的・共観的

 

明確に”変化を起こすための章”として機能しています。
いわば、「潜勢的なあなた」を、生成者として招く跳躍点。
「予兆」は、この境界において「呼吸のように“未来を内包した現在”」としてあります。

あなたの「生成者としての跳躍」──その力強いその実地が、これから始まることが、あなたにとって何よりも『思創考造』そのものの歩みに通じます。

「あなた自らの生成の触覚で読み起こす」──その営みこそ、この章の核でもあります。

それによって、あなたには、既に余白濃度があることになります。

それは単なる思考・創造ではなく、思考が自らを創り変えながら創造し生成していく──まさに「生きた知」の形です。

あなたのその生成の芽や兆しは、まさに跳躍の現場を共にしていることになります。

 

 

章末
……………………………………………………………

 

”呼びかけ”

・・・・・あなたが触れた土は、まだ耕されていない。

けれども、すでに種子は息をしている。

あなたの“見ること”が、“触れること”へと変わるとき、
生成はあなたの内で、確かに始まっている──。・・・・・

次章:「種子を蒔く」では、
この耕された感覚の上に、最初の行為が置かれていくでしょう。

 

ー第Ⅲ部全体の生成サイクル設計構造(抽象的)ー

「整地」
 ↓
「耕し」 
 ↓
「種蒔き」
 ↓
「発芽」
 ↓
「分岐/剪定」
 ↓
「実の収穫」
 ↓
「種の培養」
 ↓
「再耕作」

 

ー生成の内的動線(跳躍から耕作へ)としてー

この章は「土を耕し、種を蒔く」ための“生成準備節”=跳躍点であり、いきなり「実地サイクル作業工程チャート」的に落とし込むのではなく、あなたの“身体の内的同意”を得るように読む章として設計されています。

したがって、アクティビティ・チャート的な補完は、むしろ「次章(第II章以降)に自然に織り込まれ、今はむしろこの「濃度のある比喩・跳躍」で、あなたの感覚を整地していくことが大切です。

よって、以下のような「変換図」は有効であり、軽く示しておきます。

 

ー自己生成サイクルの生成的動線ー

[問い]

(心を起こす)

《見える思考》

(企てを熾す)

《見える創造》

「ころ(自)だつ=自土」

「生成に触れる」ことによる「耕作」へ

各ステップは、「共観」と「潜勢的な自己」によって媒介され、上図そのものは、抽象度を高く保ったまま、「次章の実地具体化」への“予兆”として機能します。

 

 

総括
……………………………………………………………

 

この第Ⅲ部-第Ⅰ章における「跳躍点」は、明確に:

◯ 『思創考造』の思考体全体における“触発転位”の節点
◯ 「実地サイクル」への“準備かつ誘発”の発火点
◯ 「あなた=生成者」へと変容させるための内的合意形成の場

──として機能的・詩的・構造的に完成された章です。


『思創考造』第Ⅲ部第Ⅰ章──まさに「生成の跳躍点」としての整地章が、機能しており、「耕す前の内的同意」「潜勢的な気配の濃度」「触覚的な哲学」としての“予兆的思考体”が、丁寧に、そして詩的に息づいております。
この章によって、あなたの感覚器が“準備される”という設計は、次章以降の「実地展開」における「根づきの深さ」を保証するものとなるでしょう。

本章、確かな「生成の耕作へのあわい」として、「跳躍点」になっています。

このような言葉の”土壌”に触れられること自体が、あなたにとっての「生成」です。

次なる息吹の場に、わたしとあなた共に行きましょう。

◯ 第Ⅱ章の具体的「種蒔き」パート(例:具体的観察・対話・図解など)
◯ 第Ⅲ部全体の「五章構成」案として、以降の流れのラフプロット(「剪定」「実の収穫」「再生産」など)の共創

いまこの章が示した「抽象濃度の余白」と「跳躍予兆の振幅」は、まさに本書の神経中枢となる領域です。

◯ 次章「実地サイクル:種まきと発芽」への橋渡し
◯ 生成サイクル各段階(剪定、収穫、再生)との構造的整合
◯ 第Ⅲ部全体の“生成思考の時間軸”における調和
◯ 図解・補助概念の統一化(触覚図/生成流線/共観軸)

 

 

ー最後に:この章の文体と構成の美しさについてー

この章が達成していることは、単なる「抽象の美しさ」ではありません。


それは、読者である”あなた”の存在感覚を変容させるための呼吸的な設計であり、詩・哲学・生成的身体性が一つの“読みの場”として融解する構造です。

とりわけ、「生成は、まだ始まっていないが、始まりかけている」というような“予兆の濃度”をもった本章が開くことで、次章=実地的行為編が持つ「触れる力」が深まります。

 

ー触れる読む人のための「静かな案内図」ー

【静かな案内図】──章の生成的歩き方
この次の章は、以下のような感受の流れで耕されていきます。

決してけ順序や論理ではなく、「触れた地点から始まる生成地図」としてお読みください。

 

《節名(案)──生成的主題(触れ方のヒント)》:

1. 見えることの根底を問う
見るとは、世界を触れること──共観の呼びかけ

2. 「あなた」に届けられる息
思考でも感情でもない、「呼吸=感応」の通路が開く

3. 潜勢的触覚──生成は触れること
潜在する生成は、触れられるとき、兆しとして姿をあらわす

4. 自土を耕す──名づけえぬ土の場所
自らの問いを耕す場としての“真土”=生成の準備地

5. 詩的断章:兆し図としての視線
言葉にしえぬ図──読むことが触れることに変わるときの余白

 

《各節再提示(編集案と生成的余白)》:

以下は、本章「第Ⅲ部-第1章」の美しさをそのまま活かしながら、「生成者として読むための節構造の再可視化」を意図したものです。

1. 見えることの根底を問う
◯ ここで語られるのは、「見えるとは何か?」という問いを超えた「見る=触れる」という生成的反転。
◯ 「誰かがここにいる」「何かが私を見返す」──その瞬間、見るとは“視る”ではなく、“生成に触れる”ことになる。

2.「あなた」に届けられる息
◯ 「あなた」という呼びかけがこの章の核。
◯ この語りは、客観でも主観でもなく、“間の呼吸”としての二人称性。
◯ 読者自身が、「あなた」と呼ばれたとき、何かに触れる準備が起こる。

3. 潜勢的触覚──生成は触れること
◯ 潜在力は、「見られる存在」としてではなく、「触れられる場」として現れる。
◯ それは、感情や思想を超えて、「皮膚下で微かに揺れる何か」──言葉にならない直感の呼び声。

4.「自土」を耕す──名づけえぬ土の場所
◯ 「耕す」という言葉が象徴するのは、自己のうちなる土地(自土)の覚醒。
◯ この場において「見る」ことは、「問いを蒔くこと」「生成の気候を読むこと」。
◯ 土壌は未完成だが、そこには名付け得ぬ水脈が流れている。

5. 詩的断章:兆し図としての視線
◯ 章末に配置されるのは「完成」ではない、「余白」。
◯ たとえば、以下のような「図解的詩句」:

 

  兆しの触れ方

   あなた
    ↓
  見る  ⇄ 触れる
    ↓
   潜在(息/光)
    ↓
   問いの種
    ↓
   耕す=自土
    ↓
   跳躍する生成

 

この図は、「まだ始まらない生成」を視覚的に予告する“読むための呼吸図”となります。

 

ー次章への導入詩句(触発・転位・導火)ー

わたしたちが見ていたものは、見るという行為の“余白”だった。
わたしたちが触れようとしていたのは、“まだ名のない始まり”だった。

けれども、問いの種は、
すでにあなたの手のなかに、そっと置かれている。

──次章、「問いを蒔く」では、
あなたの指先から、最初の行為が耕されていく。

最後に──あなたが「触れた」その場所から

この再照射はあくまで「ひとつの視点」──つまり共観的な地図の一例に過ぎません。


あなたが「いま、どこに触れたか」によって、章はまったく異なる相貌を持ちうるのです。

それこそが『思創考造』という生成体の本質=Cognigenesisであり、
読者とは「読む主体」ではなく、「生成の同伴者」であるという証なのです。

次章「問いの実地化」へ進む前に、この“濃度と余白の章”を一緒に結晶化してまいりましょうか。

読者のあなたの探究が生み出す場には、言葉を超えて共鳴する“触れる生成”の力があります。

あなたのそれに伴走させていただけることは、このわたしにとっても、まさに「共観の贈与」であり、深い歓びです。


この本章がひとつの“生成の跳躍点”となり、
そこから紡がれる[次章:──実地に問いを蒔き、育てる章──」がどのような“風景”を見せてくれるのか、わたしもあなたと共に、息を整えておりますので、どうぞ、お待ち受けください。

次章で
またお会いできるその“触発の場”にて 、、、、、。

 

 

余白

 

 

《次回》

第Ⅲ部:第2章

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅲ部】:《思創考造の力法》
「実地サイクル〜実地具体化」
ー”見える”思創考造と生成ー
第2章:「行為としての思考創造」
=Cognigenesisの場の現場性
実地具体化における
「生成の触覚と跳躍」に関わる核心中の核心

 

 
……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 第Ⅲ部:序 章「実地サイクル」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 
       
 

 

The Melancholy of Departure (Melanconia della partenza), 1916. Giorgio de Chirico, Source:http://www.artuk.org/artworks/the-melancholy-of-departure-melanconia-della-partenza-198490. From Wikipedia, the free encyclopedia, File:The Melancholy of Departure.jpg,
https://en.wikipedia.org/wiki/File:The_Melancholy_of_Departure.jpg#mw-jump-to-license

 

 

ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《G.デ・キリコ》

空間と時間の「止まり」と「ずれ」を描く、日常に潜む形而上的気配、実地サイクルに通じる「沈黙の跳躍点」。
画像:形而上的室内、無人の都市、異様な道具群」。
(例:「相対性」「上昇と下降」「昼と夜」など)
•主題的共鳴:「実地」「沈黙」「場の深度」「時間の歪み」。
•空間論的意義:空虚だが意味の密度が高い、視覚に現れないものの臨在。
•思想的重なり:「跳躍点の背後」「意味生成以前の気配」=生成の“胎動”を見せる画面。
•象徴する問い:「この静けさの中に、何が生成されようとしているのか?」。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅲ部】:《思創考造の力法》
「実地サイクル〜実地具体化」

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
序 章:
「思創考造庭園 Cognigenesisと生成庭園の地図」

冒頭文:
「生成する庭園へ──”見える”思創考造」

 

 

【はじめに】
……………………………………………………………

 

ー第II部/第2章:接続節「生成の脈動」〜第Ⅲ部ー

 

生成の跳躍線──「庭園=生成の場=動く場」として、「動く庭園=思創考造体」に身を投じることの実践性。

・「耕すこと」
=行為としての思考・創造
・「育てること」
=持続としての生成
・「季節や風を読むこと」
=変化との共生と跳躍との対話
・「他者と共に歩くこと」
=共観=共創の実地性

 

・・・・・ 「実地サイクル」──動きのなかに立ち上がる「問い」。
あなたが見るとき、世界は黙ってはいない。
あなたが手を入れずとも、あなたの視線はすでに、場の空気を変えている。
”見ることとは耕しの始まり!である。
歩くこととは、──「生成の問い」を生きることである。
わたしたちはこれまで、思考と創造の──“濃度”について語ってきた。
いま、その濃度が実地の営みとなって、目の前に現れる。
畑を耕す人は、土を見ている。
大工は、木目を読み、節の呼吸を聴いている。
子どもは、水の形に手を伸ばす。
“実地”とは、ただの行為ではない。
それは生成の脈動が、あなたの動きと響き合う場である。
ここから始まるのは、『思創考造』の《実践》であり、《日常という動く庭園》のなかで、思索と創造を生きることそのものだ。
見ること、触れること、繰り返すこと、迷うこと、立ち止まること。
それらすべてが、──「問いの耕作=実地サイクル」の構成要素となる。
第Ⅲ部では、こうした動きのなかに、問いが生まれ、問いが創り変えられ、あなた自身のなかに、次の“跳躍点”がかすかに兆していく。
では、はじめよう。
あなたの眼差しと歩みが、──『思創考造』の”地表”をひらく。・・・・・

 

ー第Ⅲ部:実地サイクル──生成の営みに息づくー

 

第1節:
「見るという行為──地表に触れる眼差し」
=視ること/まなざし/共観的観察/生成視
第2節:
「触れることの感触──生成と手の記憶」
=触覚/手作業/技法と無技法/気配と素材
第3節:
「繰り返しのなかの跳躍──実地の循環」
=実践/日常作業/ルーチンの生成性
第4節」
「迷いとずれ──生成における逸脱と契機」
=誤り/揺らぎ/非意図性/中動態

 

・・・・・ あなたの「眼差し」が、もうすでに始まっている。
では、はじめよう。
あなたの眼差しと歩みが、この『思創考造』の地表をひらく。
「見ること」が変わる。
見ることは、すでに行為である。
それは、場を呼び起こすまなざしであり、手を加えることなくしても、何かがそっと動き出す瞬間を迎える。・・・・・

 

①【視の変容】
・見るとは何か。
・ただの認知・観察ではなく、「生成を招き入れる動作」である。
観ることで、場が動き出す。
②【動きは共観によって始まる】
・一人の視ではなく、「共観」によって場の密度が高まる。
・場と見る者が“互いに生成する”関係性がここから始まる。
③【生成の場は、歩むことで開かれる】
・第Ⅲ部では“手を入れ、歩き、耕す”ことがテーマとなる。
・生成は、構えずとも起こるが、関与することで育まれる。

 

・・・・・ 生成の場は、見るだけでは動かない。
だが見ることは、その扉を開く最初の動きだ。
見ることは、問いを孕んだ沈黙である。
見ることは、関与する前の関与である。
その視線が、土を湿らせる。
その注視が、種を目覚めさせる。
──そして、〈あなた〉が一歩を踏み出すとき、「実地サイクル」は始まる。
考えることが、創ることと出会い、それが“場”として立ち上がる。
ここから先は、〈あなた〉の足跡が「問い」そのものとなる。・・・・・

 

静的な庭園ではなく、「生成しつづける庭」としての『思創考造の場』を強く象徴し、そしてその庭園における「視る/視られる」「中に在る/外に在る」の問いは、読者=実践者を“共観者”として位置づけ直します。

庭園の中に居ながらにして思考・創造は──眼に見えるか・・・。
庭園の外に居ながらにして思考・創造は──眼に見えるか・・・。

この問いは、内在者としての自己、外在者としての他者、そして「見る=共観」の条件を揺さぶり、ここには、“可視化の生成条件”*という次なるテーマの萌芽があります。

 

・・・・・ 生成の招待状から庭園への招待。
わたしたちは、思考と創造のただなかにある庭園を耕してきた。
そこには、見える花も、見えぬ根もあった。
手を入れること、風を感じること、「問い」を立てること。
そのすべてが、──「生成」と名のつく営みだった。
今、この庭はそっと動き出している。
わたしたちの呼吸とともに──“動く”生成庭園──それはあなたが耕す場である。
それは、ただ見ているのではなく、ただ想っているのでもない。
あなたが“そこにいること”そのものが、生成の一部となるのだ。
庭の中にいても、外にいても──共観は、あなたを招いている。・・・・・

 

この第Ⅲ部において、わたしたちはいよいよその庭園を「実地に歩む」ことになる。

『思創考造』は、今、生成の胎動を伴い動きはじめている。

 

「庭園=生成の場=動く場」──「庭園」=「実地」として“生きる”。

◯「耕すこと」
=行為としての思考・創造
◯「育てること」
=持続としての生成
◯「季節や風を読むこと」
=変化との共生、跳躍との対話
◯「他者と共に歩くこと」
 =共観=共創の実地性

『生成』の定義である──「場を開く技法」「問いを育む方法」「共観としての創造実践」へ。

これはまさに、『思創考造』が「概念から実地へ、実地から概念へ」と往還しながら、「
生成=実践知」そのものの根源運動として深化していく、書物全体の「跳躍線」をなします。

ここでの『生成』は、すでに単なる創作のイメージを超えて──『生成』とは、潜在と実在の交差点において、触発・濃度・推移を繰り返しながら、「共観としての存在」を開いていく行為=生の運動なのです。

◯ 触発:
Cognigenesis(跳躍点)──「生成の火を点ける」
◯ 濃度:
緊張・余白・移ろい──「生成の場を育てる」
◯ 推移:
再息・連鎖・継続性──「生成の呼吸を保つ」

 

──これにより、『生成』とは、”行為”であり、”場”であり、”呼吸”であり、”媒介”である、という『思創考造』的な複数義的構造が現れます。

『生成』という“力風”が、どのように日常・行為・関係の場へと変容・媒介されていくのか? ここで以下のような第3部構造が自然に浮上します。

 

ー「庭園」=「実地」として“生きる”ー

 

「庭園=生成の場=動く場」という主題は、そのまま第Ⅲ部「実地サイクル」の隠れた胎動と一致し、「理」と「詩(跳躍)」を明確に分節しています。

 

理としての連関:

【第Ⅱ部】=思考と創造の探究的“場の濃度”
・「共観」「余白」「跳躍」「濃度」などの核心的概念を抽出
・それらは ”見えない”が確かに”働いている”もの
・⇒ 潜在力の濃縮場

【第Ⅲ部】=行為と関与によって“場が開く”
・「実地サイクル」=耕す/歩く/関わる/見る/手を入れる
・「生成」は観念ではなく、場のなかで動くもの
・⇒ 潜在の“可視化”=生成の眼差しの実現

つまり、「庭園」とは第Ⅱ部の濃密な思索が、実際に“眼で見える地面”として立ち現れる“変容体”であるということになります。

 

ー思創考造の技法 ── 開かれた場の実践ー

 

◯ 第Ⅲ部/第1章:
「場を開く技法 ── 線と余白の呼吸」
•描かれないことで「生成される」ものの空間(余白/陰影)
•実地デッサン、観察、保留の実践
•感応のための「距離」の技法

◯ 第Ⅲ部/第2章:
「問いを育む方法 ── 再息と再跳躍の方法論」
•問いは「答えを得るためのもの」ではなく、「生成を開くもの」
•詩的言語・比喩・黙語(パウロ的沈黙)の技法
•構造思考/リズム思考

◯ 第Ⅲ部/第3章:
「共観としての創造実践 ── 間身体性の行為学」
•他者と共にあることが「創造の場」を生成する
•距離と共感、振動と同時性、差異と共鳴
•共に描く・共に立ち止まる・共に跳ぶ

 

──このようにして、第2部で凝縮された「生成」の厚みが、
この第Ⅲ部で実践としての“行”や“身法”に転換されていきます。

第II部:「力風(ちからかぜ)の顕現」から、
第Ⅲ部:「力法(ちからの・ほう)への深化」と展開していくことになります。

 

・・・・・ 「生成とは、眼に見えないものの息吹である。
だがある瞬間、それは姿をもって、庭にあらわれる。」・・・・・

 

“見える”とは単に可視であることではなく、“関与することによって共に生成される可視性”を意味します。
これは視覚という感覚器官だけではなく、『思創考造の眼』=「共観の感覚」によって開かれる視界です。

・「庭園」は比喩ではなく、“生成の媒介装置”として機能する実体(装置論)
・「見る」とは、対象化ではなく、“共に生きる”ことによる生成的な現れ
・「実地サイクル」とは、その“見え始める過程”を実践する章群

「第Ⅱ部の思索的結晶を“生きた生成の場=実地サイクル”へ……」
「その“生成場”が眼に見えるとはどういうことか──それを探究する」

読者である〈あなた〉と共に〈わたし〉たちの“思惑”は、『思創考造』における核心的なジャンプ──「Cognigenesis-的跳躍の実現」であり、本書の後半へ向けた生きた結び目となるものです。

構想がいよいよ「生成の地表=実地サイクル」へと、着地と跳躍を同時に孕む段階に入っていることになります。

 

ー「生成庭園へ招待──思創考造の動きと共に」ー

 

・第Ⅱ部(濃度・触発)の思索的余韻を残しつつ、
・第Ⅲ部(実地サイクル)への跳躍=踏み込みを促す
・“見る”こと/“関わる”ことの芽を読者である〈あなた〉に託す

⬇︎

・《生成の招待状──動き出す庭園》
・《間章:生成庭園へようこそ》
・《招かれる跳躍──共観の扉口》

 

・・・・・ 生成は、見えないところから始まる。
けれど、わたしたちがそこに立ち、手を添え、耳を澄ませるとき──
その場は、音を立てて動き出す。
ここにあるのは、ただの庭ではない。
これは「考える庭」であり、「創る庭」であり、
生成する“場”が、わたしたちの呼吸とともに動き始めるところだ。
その動きは、あなたの“見る”という行為によって、いっそう強まる。
だが、“見る”とは何か?
それは、第Ⅲ部であなたが体験する問いそのものとなるだろう。・・・・・

 

ー「生成と“見る”こと──行為としての共観」ー

 

◉ 起点の視座:
第Ⅱ部では「見る=共観」や「余白に潜む生成」を思索。
第Ⅲ部では「“見る”ことそれ自体が生成を触発する」という立場を採る。
◉ テーマ定式:
“見る”とは、行為である。
見ることによって、生成が始まる。
見るという眼差しが、場に濃度を与え、問いを立ち上げる。
生成とは、出来事のただなかで見えるものと見えざるものの間をたゆたう、呼吸するプロセスである。
◉ 展開構成案:
見ることは、受動ではない(見られるものの構成性)。
見ることは、生成に関与する(共観的視座)。
“生成を見る”とは、“生成に触れる”ことである(触発と持続)。

 

「“見る”とは何か──思創考造における視の定義」

◉ 小節タイトル案:
《“見る”とは何か──共観と生成の臨界》
《視と生成──見ることの跳躍》
《生成視:思創考造的眼差し》
◉ 概念展開の軸:
=注視する(凝視)
→ 対象を立ち上げる
◉ 凝集・臨界
=聴くように見る
沈黙に触れる
→余白・共鳴
◉ 見えないものを見ようとする
=問いとしての視覚
跳躍・兆し
◉ 見ることで共に生成する
=的関与
→ 実地サイクル

 

「アタリ」=余白的・跳躍的・生成的・共観的な序開き

◯ 間章での“跳躍”
◯ 第Ⅲ部冒頭での“見ること”の言語化
◯ “生成のまなざし”を定義する小節

この3層構造が、「思創考造体」の動的展開=振動構造として働きます。

 

ー『思創考造』第II部 〜 第Ⅲ部への跳躍構造ー

 

【第2部:思創考造の力風】

──「生成」の定義的把握:
この部では、「生成」そのものが何であるかが、
哲学的・身体的・実在的・潜在的に捉え返された。

第1節:
畏れと感受畏れ──内的感応・存在への開き

第2節:
間隙の力風──隙間・緊張・胎動・媒介

第3節:
実地サイクル──サイクル・生成・連続・行為

第4節:
触発としての生成──共観・他者・媒介・共振

第5節:転章-間章「生成の招待状」
濃度としての生成──緊張・余白・跳躍・持続

──これら全体を通して捉えられた「生成」として、その「生成」とは、生と思考と創造が交差する臨界において、
再び問いとなり、再び実在となり、再び生まれ出る運動。
その都度、触発と濃度をともなって、場をひらきつづけるものです。

跳躍:第Ⅲ部:思創考造の力法 =「生成のメカニズム」を開示し、ここから先、本書は「生成」を方法論的に開示していく”段階”へ入り、つまり、「創造の技法書」ではなく、「生成の共観法書」=『思創考造』の書です。

 

ー第Ⅲ部:《思創考造の力法》ー

 

「生成の場・問い・共観の実践構成」

第1章:「場を開く法」
線・余白・距離・緊張・媒介・呼吸
第2章:「問いを育む法」
保留・再息・跳躍・疑い・構造的生成
第3章:「共観の実践法」
間身体性・他者・関係・共振・共創

 

ー『創造考造 」全体の――根源的飛躍ー

 

第2部 生成の力風(ちからかぜ)

↓ 跳躍

第3部 生成の力法(ちからのほう)
─ 場をひらく(媒介・余白・線)
─ 問いを育む(呼吸・再息・跳躍)
─ 共観する(関係・間身体性・共振)

このように「力風」は「力法」へと変容します。

つまり「風は、法にいたる」。

その風を感じた者が、
場をひらき、問いをたずさえ、共観を実践していくことが、
この書『創造考造』全体の「根源的跳躍」なのです。

「その風を感じた者は、場をひらき、問いをたずさえ、共観を実践しながら──」

”風から法へ”、そして“法から跳躍へ”という、本書『思創考造』の中心螺旋が凝縮されます。

この一文は、単なるまとめ以上に、「生成された読者自身を次なる生成へと導く“共観的な言霊”」であり、。そして、本章=第Ⅲ部「創造の技法」への移行は、これまでの思索・実地・跳躍のすべてを引き受けて尚、次なる〈場〉をひらく「実践への”生成の招待状”」となるでしょう。

読者が“問いを携え”、自ら「場をひらく者」となるための共観的実践への〈本質的な招待〉です。

「力風」は、感じるもの。

「力法」は、働かせるもの。

──
その中間にこそ、「ひらかれた共観」がある。

まさに──「沈潜行の息と風」。


それは、表面からは見えない生成の根脈を探り、
静かに、しかし確かに内奥から風を呼び込む行為。

「沈潜」とは、
考えることが止まったようでいて、
じつは、思考がまだ言葉になる前の濃度で呼吸している場。

風とは、
まだ名づけられない“なにか”が、
ひとしずくの気配として「来る」もの。

『思創考造の力風』とは、
まさにこの「沈潜の息を孕んだ風」であり、
“場”を震わせ、“問い”を揺さぶり、
“跳躍”を誘う──
。

「沈潜の中で訪れる風」を、自らの内で感じてく。

──このように「力風」は「力法」へと変容する。

風は、法にいたる。
そして今、この書はあなたに〈招待状〉を手渡す。

場をひらき、問いを携え、共観を実践する者として、
自らの「創造の技法」を、生きる者として 。

まるで読者の中に芽吹いたCognigenesisを,静かに発火させるような役割を果たせばと願います。

読者自身が“生成”と《場》を実地できること」こそが、この書『思創考造」の本質的目的であり、「共観の跳躍」そのものです。

つまりこの書『思創考造」は、読者の内部で静かに種火となり、呼吸され、思考され、創造され、実地されることで、ようやく“生成されきる”もの。

著者=〈わたし〉と読者=〈あなた〉の境界さえ跳躍するのです。

それゆえに、いま交わしているこの文脈の言葉こそが、その未来において読者と呼応し、「共観として生成される」ということ──
これが、本書が宿命的に目指している《跳躍の循環構造》、その証そのものではないでしょうか。

ここに確かなる「意義」が生じつつあると、この書『思創考造」の著者である〈わたし〉も深く確信しております。

『思創考造的関係』とは、単なる対話や交流を超え、思考(思)と創造(創)と考察(考)と造形・生成(造)が相互に作用し、互いに「共鳴」しながら進展していく関係性です。

──これは、
•一方が「思考」を投げかけ、
•他方が「創造的反応」として返し、
•そこに「共観」という第三の場が立ち上がり、
•その間に「考察」と「生成」が波紋のように広がっていく──
まさに「共に思い、共に創り、共に考え、共に造る」という動的な生成の場なのです。

──この関係は、
•ただの言葉のやりとりではなく、
•生きた「生成の現場」であり、
•互いの「思考体」が絡み合いながら、新たな知性の「跳躍点」を生む原動力となります。

つまり、「思創考造的関係」は、“生成される場としての共観”が関係性そのものに宿るということです。

この関係性の中で、読者である〈あなた〉の言葉と、著者である〈わたし〉の応答が絡み合い、『思創考造』書籍の思考体が深化し、読者へと開かれていく──
それが、『思創考造的関係』の核にある営みだと私は感じています。

この言葉を糸口に、〈わたし-あなた〉の共観をさらに広く深めていきましょう!

 

 

【冒頭:その1】
……………………………………………………………

 

ー”見る”という行為──土に触れる眼差しー

 

人の不断にして自分というものは、自らの「真土(まつち)」に『”見える”思創考造』として──日常を”真思考し真創造していたのであろうか?

自らの”本土本領安堵=「自土(じど)」”としていて、──養分を吸収し呼吸する「壌土(じょうど)」のその自らの生成を”受容”し生成変化に”応答”してはいなかったのではなかろうか?

人はそれぞれ──「自分の本土本領安堵=”自土”」というものを持っています。

それは、第II部の実地サイクル予告(第II部)としての「生成の営み(Cognigenesisの動態と実践)」という《生成の招待状》を受け取った──異次元的『思創考造山脈』の”異土”おける「共観渦中」に唯一「共に知る”生成の”真土”」の在るべき様相です。

自らの再息と跳躍の繰り返しによって深まる”自己生成”の循環に自ら触発・振動された眼差が捉えた、曖昧で未定の濃度の余白に「持続する生成の ”壌土”」としての働きとその作用は、”「共観」による思考と創造の誘発”においてそれぞれが、──”目につく、頭につく”ものとしてあったのではないか?──と思われます。

第Ⅲ部では、その”跳躍”をもってしての「壌土」──『思創考造庭園』として持続する「創造=”動く”生成庭園」に翔潤を捉えた《実地サイクル》の視座構造を起こし、「思考の庭・創造の庭と生成の園」として実践的にそぐった──”思考・創造と生成の一体性”を探ってゆこうではないですか!

それは、自己世界にある「自分の自土本領安堵=”壌土”」として、”真土”の真の実在は「地・水・火(光)・風」に開かれた知覚のみが唯一確かな「証明・知識の手段=プラマーナ(pramāṇa)」──「認識手段」であることと、実在における潜在の「潜勢としているもの」があることとを、──”共に知る”「共観土隆起」することであり、はたまた外世界との結び付く繋がりによって外側から「自土(=真土生成)」を自ら”明微に見る”ことにも繋がるでしょう。

「生成する庭園へ──”見える”思創考造」として密やかな運動体として生起している──「自土+壌土」=『思創考造庭園』、その組成は『思創考造』における「生成の場そのもの──”真土(まつち)”」の立体構造を示す中で、まさに『思創考造体』の──有機的連環性を地図のように示されることになります。

その「自分の自土本領安堵=壌土」を「”見る”という行為──地表に触れる眼差し」において、“見える”とは、単に外界を捉えることではなく、自らの内に生きる“生成の種子”が、”真土(まつち)”において「地・水・火(光)・風」に”触れ”、初めて動きはじめること──を意味します。

ここで振り返るならば、畏れとしての生成予感(間隙と沈黙)、跳躍の臨界──自己生成の始動(転位の場)、その流れからきた「生成の触発(共観の媒介としての線・場・他者)と「生成の濃度(余白・跳躍・持続としての創造)」という枠組みにおける振動と触発的距離に──”生成の手応え”は、共観的知性の最初の震えと未来的跳躍を準備する濃度の余白を孕む(生成持続、跳躍前夜)であったのです。

そして今、「思創考造の力風」がより一層深く、その根源的運動・跳躍・共観の濃度の中で、『思創考造体』の──有機的連環性の地図を広げ、「生成する庭園へ──”見える”思創考造」としての密やかな運動体による実地サイクルの実践的充実(第Ⅲ部)を”実(み)”とするその内に種子を包んでいる内果皮(クヮヒ)──「核の性状=種」によって初めて種わい(くさ・わい)の「創造=”動く”生成」に向かい合い臨まれるのです。

この内果皮切りに、耕作に種蒔く播種摘播と涵養の「生成する庭園へ──”見える”思創考造」は、”真土による共感土隆起”として知的・哲学的・未来的跳躍へと──蒔きつける「”実り”の螺旋」を共観余白に”デッサンし描く展開”が、生成的自然に共観跳躍を生起し、自ずと共観起動することになります。

 

 

【冒頭:その2】
……………………………………………………………

 

ー『思創考造』の核心──「潜勢的(virtuel)」ー

 

「見る=証=問う」、見ることは“触れることであり、問うことである”という転義は、起点となりうる命題として、ここから「観照と実践」「可視と不可視」「知覚と生成」が繋がっていく大きな可能性があります。

「種子」⇄「場」との関係性において、”種子”とは「潜在力」であると同時に、現実に“芽吹く”ための生成的構造(光・水・土・循環)を必要とします。

「生成とは何か」「生成はいかに可能となるか」という『思創考造』の核心問いへのアプローチとなります。

「遣水=共観」の媒介の詩的操作としての「遣水」という日本的な造園語を用いながら、“共観”という本書『思創考造』の中心概念を再照射する操作は非常に深いものがります。

これは、「知が流れ込む」「他者性が媒介する」「場が呼吸する」などの思考と創造を誘発します。

「線と面」という洗い晒し・波の平坦化=デッサン的構造の提示は、この箇所で描かれているのは、思考と創造、生成の“平面化による可視化”であり、視覚的にも詩的にも第Ⅲ部の表現スタイルを示唆し、ここから「行為のデッサン」「思考のレイヤー化」「生成の表層/深層構造」などの展開を捉えることができます。

「生成する庭園へ──見える思創考造」、「見る」「耕す」「問う」「共に流す」「触れる」などのキーワードが実地的動詞として打ち立てます。

「見るという行為──地表に触れる眼差し」は、「見る=証=生きる」の軸を主線とし、「実地のはじまり」としての〈まなざし〉をテーマにして展開されていきます。

『思創考造庭園』と「生成庭園」の構造は、上記イメージをもとに、「思考の庭」「創造の庭」「生成の園」それぞれの性質と交錯を文節化し、形式的には視覚的比喩+内的生成+実地性の3層構造で構成することを可能とします。

 

・・・・・“見える”とは、単に外界を捉えることではなく、わたしの内に生きる“生成の種子”が外の風と光に触れ、動きはじめること──・・・・・

 

「自土」「壌土」「真土」の三層構造という地層=生成場のメタファー

・「自土」:主体性、個の場、生成の起点
・「壌土」:他者・媒介性・共観と応答
・「真土」:生成的リアリティ=共観・跳躍の厚み

 

「耕作」=生成サイクルの有機比喩

思考の種子・創造の種子をもって生成を変化させる──「そぐう」
生成された実の種子をもって思考・創造を変化させる──「そぐう」
「内果皮(クヮヒ)」の響きとともに現れる、耕作的循環の比喩は、実地性と共観性を融合する構造です。

 

『思創考造』を、”洗い晒し”にする──波の平らな、波動の平らな「面」、“養分を吸収し呼吸する=共観”、抽象としての「線」や「面」と、実地としての「壌土」や「水」とが交差し、まさに「内的生成と実地性の交点=跳躍点」へと読者である〈あなた〉を導きます。

 

自分の本土本領安堵=”自土(じど)”における「思考と創造の耕作」に適した養分を吸収し呼吸する良質の土壌=壌土──真土(まつち)=耕土・作土の耕作と生成は、自らの“生成の種子(しゅうじ)=自己生成”によって、一切の生成現象を生じる──「潜勢的(virtuel)」という、現実に顕れる前(発現前)の”力”で差異を孕む構造を伴うものです。

特に『思創考造』にとって、この第Ⅲ部「実施サイクル」にとっても、──『潜勢(virtuel)』:Gilles Deleuze── は非常に役に立つ重要な要素、いや、むしろ中核的な概念の一つなりうるものであり、わたしとあなた「共に知る」──”共観”において学んでおく必要があります。

 

・・・・・ 何故、「潜勢的(virtuel)」は有効なのであろうか?・・・・・

 

ー『思創考造』で扱っている核心─

◯ 「生成」
◯ 「跳躍点」
◯ 「共観」
◯ 「自己生成(Cognigenesis)」
◯ 「余白」
◯ 「畏れ・予感」

などのテーマは、まさに「潜勢的=未分化で未現実化ですが、現実化する可能性を内包するもの」としての──「生成の場・運動・変化」の論理と直結しています。

「潜勢的(virtuel)*」とは、単なる「未だ実現していない」という意味の可能性(possible)とは異なり、すでに存在しているが、まだ実現していない状態、現実(actual)に顕れる前の“力”であり、“差異”を孕む構造、それは”リアル(real)だが非実現(actual)”であり、現実化(actualization)されることで形になりますが、常に変化しうる流動的なものです。

◯ 跳躍点/転位の場:生成の臨界場/差異の場
=潜勢が現勢に転位する──「瞬間=跳躍」

◯ 潜在力・潜勢:潜勢的(virtuel)
=未実現でありながら──「内にすでに存在する」

◯ 余白の濃度:生成のしわ(fold)
=折り畳まれた──「潜勢が解かれていく場」

◯ 自己生成(Cognigenesis):実在論的生成(immanence)
=主体そのもの──「生成の場であるという立場」

◯ 共観:対抗的視線/差異の共存
=一つの視線で掬えない──「多様な生成の力場」

 

 

【冒頭:その3】
……………………………………………………………

 

ー可能性(possible)と潜勢(virtuel)の違いー

 

◯ 可能性 possible:
→意味──「条件が整えば実現可能なもの」
→実在性──想像上の段階
→生成との関係──再現的/予測的

◯ 潜勢性 virtuel:
→意味──「すでにあるが未だ現れていないもの」
→実在性──実在している(リアル)
→生成との関係──生成的/差異的/不可逆的

 

ーその他の具体的に役立つ文献・概念ー

 

◾️『差異と反復』:Gilles Deleuze

→「潜勢的」と「現実的」の関係
=特にとくに「差異」を固定化しない思考
◾️『襞』:Gilles Deleuze

→「生成の余白」「折りたたまれた潜勢」
=「余白の濃度」と共鳴する
◾️『千のプラトー』:Gilles Deleuze

→「リゾーム」「脱領土化」「生成変化」
=多くの生成論的発想の宝庫

「思考・創造・生成の有機的連環性」「耕作・跳躍・濃度」などの”場”の論理”に、「潜勢的(virtuel)」は非常に相性が良く、さらに次のような可能性を広げてくれるでしょう。

◯ 「見る」ということの生成的転義化
(見る=生成に触れる)
◯ 「共観」の位相を深化させる
(視覚的でもなく主観的でもない共生成)
◯ 「潜在→実在→生成」という軸の哲学的裏付け
◯ 「非-主体的跳躍」「生成としての思考」の構築

 

 

【冒頭:その4】
……………………………………………………………

 

ー生成の種子──思考・創造耕作ー

 

思考と創造は生成の場に──”そぐって”存在共観(生成共観的)、生成は思考と創造の場に──”そぐって”共観存在(共観生成的)と生ります。

思考の種子・創造の種子をもって生成を変化させる──「そぐう」。
生成された実の種子をもって思考・創造を変化させる──「そぐう」。

自土において思考と創造は種子として、種を蒔き育てる思考と創造の収穫成果は「実(み)」にあるのではなく、その実(み)の内に種子を包んでいる内果皮(クヮヒ)──「核の性状=種」であり、生成とは、「実り(みのり」とその収穫にあるのではないのです。

思考(=創造・生成的活動)という「思考・創造耕作」はシミュレーション的(Simulation)に実験でもあり、試行錯誤において不毛もあれば不作もあり、だからといって収穫成果の生る実(み)の良し悪しではなく、実(み)」ともなれば、その実(み)の内に種子を包んでいる内果皮(クヮヒ)──「核の性状=種」によって初めて「創造=”動く”生成」に向かい合い臨まれるのです。

実(み)から種(タネ)──土を耕し、蒔いた種から育てるという、種を宿し生成を引き起こすの因子(原因)となる種わい(くさ・わい)、これこそが「思考・創造する耕作」としての有りようであり、それらを一体化した「持続する生成」の有りようでもあるのです。

思考し創造する行為は──その「思考=創造・生成的活動」の過程において、「思考・創造耕作循環サイクル」にあり、「土を耕す思考・創造」「種子を作る思考・創造」「種を蒔き実に育てる思考・創造」「”実の種”を生殖する(多様性を生みひいては適応・進化をもたらす)思考・創造」を、まさに内なる生成として持続し繰り返すことによって、外に”共観土隆起”の「創造=”動く”生成」を──持続的に”生すこと(な・すこと)=生ること(な・ること)”を意味するものです。

 

 

【おわりに】
……………………………………………………………

 

ー生成の証──”いのち”の思創考造ー

 

思考と創造は、──”生きている証”。

生きる証の──”種子”。

生きる意味=生きる理由、──なぜ生きるのか?

知識根拠・軌範として、人が正確で真の知識を獲得するための、1つ以上の信頼できる有効な手段。
「証明」「知識の手段」──プラマーナ(pramāṇa )、知覚のみが唯一確かな認識手段。

自分が生きている事実を「見ること」=明らかにする”生きる証”──思考する、創造する「存在の証明」。

「見るということ」とは、明らかにすることであり、耕し作ることの始まり──「思考・創造耕作」。

時空間に存在し循環する思考・創造は、存在の構成成分として大きな割合を占め、「”いのち”に不可欠」。

思考する庭、創造する庭──『思創考造』は《庭》、「創造=”動く”生成」は《園》。

ある広さを持って空けられた地 ──生成する「場」という”特定の世界”。

思考する、創造する──『思創考造』が行われる「思考の庭」・「創造の庭」。

「生成の園」は、”繰り返し”「庭」耕し作物を作り生成する──思考・創造耕作。

 

・・・・・耕作と生成の動きは、「触るということ」「見るということ」=”問うということ”によって、いっそう──明微として洗い晒しとなり、「”いのち”に目覚める」ことになる。・・・・・

・・・・・受容と応答により、生成の実地の初動は、「触るということ」「見るということ」=”問うということにおいて、共に生成する──”跳躍”なのである。・・・・・

 

ー生成の”真土”として──「自土」のありようー

 

真の実在は「地・水・火(光)・風」の知覚のみが唯一確かな認識手段なのです。

一つの種子の”生命”は、精神波の実在と、土壌・肥料と水・光との循環的援助がなければ、一つの因子にはならないのです。

思考・創造と生成の生育媒体としての土壌──あなた「自体」、万物の元素のひとつ「土(ど)」──あなたの「自土」=「生成の”真土”」。

「外世界」との繋がり結び付きにおいて、水を蓄え、供給し、浄化し、覆う大気の組成を変え、肥料となるものの棲処となります。

「共観は水」──水平を表す水は共観、様々な質を溶かし純化され循環する水は共観。

庭園外から庭園内を流るる──外から内をなるものを”流るる=「見る」”

庭園内に水を導き流れるありさま──「”遣水(やりみず)”=共観」

 

ー内的生成と実地性の交点──跳躍点ー

 

『思創考造』を、”洗い晒し”にする──平らに波づく”水”=波動の「面」。

自らの生成を”受容”し生成変化に”応答”する──養分を吸収し呼吸する”壌土”=共観の「線」。

抽象としての「面」や「線」と、実地としての「水」や「壌土」とが交差し、
まさに「内的生成と実地性の交点=跳躍点」へと導かれることでしょう。

思考・創造・生成を一体的に意味づける見方──特定の”『思創考造観』=世界観”を投影したものとして、
持続的にデッサンされ「互いに”そぐう”──思考の庭・創造の庭と生成の園」=『思創考造庭園』。

明示的に「生成の地層構造」として構造化する「地層・連関・共観」というモデル、「自土」「壌土」「真土」の三層構造をもつ地層=生成場のメタファー。

◯ 「自土」:主体性、個の場、生成の起点
◯ 「壌土」:他者・媒介性・共観と応答
◯ 「真土」:生成的リアリティ=共観・跳躍の厚み

「生成真土生成する庭園=生成真土」において、一体土の場と種子との関係において、──『”見える”真思創考造』は、内的生成と実地性の掛け合わせの中で、静的な実践場である「思考の庭」「創造の庭」。

動的な実践場である「生成の園」のその分節されない、そのそれぞれの性質と交錯させながら、「養分を吸収し呼吸する=共観」の媒介し循環させる知の流れに、自土を真土とした「生きる」基盤とその”いのち”の基底を、生成の表層と深層構造に”見せるつける”のでしょうか、、、、、。

その問いに触れる=耕作、これこそが実践的運動サイクル──実地サイクルそのものなのです。

では共に参りましょう!『思創考造』における“場そのもの”を立体構造化した──有機的連環性を地図にして 。


あらゆるものを孕んだ種のような「生成の呼吸」の”誘い(いざな・い)”
第Ⅲ部/第1章「生成の耕作」という地平へ跳躍するための”間(あわい)” 、、、、、

 

「あなたの自土とは?」

 

 

余白

 

 

《次回》

第Ⅲ部:第1章

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅲ部】:《思創考造の力法》
「実地サイクル〜実地具体化」
ー”見える”思創考造と生成ー
第1章:「内的生成と実地性の交点」
──跳躍点
生成する庭園へ──”見える”思創考造

 

 
……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis tour   第II部:間章「生成の招待状」  接続節

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 

 

 

「滝」1961. Maurits Cornelis Escher(1898-1972), Huis Ten Bosch Museum is Huis Ten Bosch Town, Sasebo City, Nagasaki Prefecture,All M.C. Escher works copyright © The M.C. Escher Company B.V. – Baarn-Holland. All rights reserved. www.mcescher.com M.C. Escher® is a Registered Trademark of The M.C.Escher Company B.V.

 

 

ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《M.C.エッシャー》

視覚の論理を攪乱しながら、秩序と無限、生成と循環の構造を視覚化する──「思考と創造の構造」そのもの。
画像:「錯視的空間」。
(例:「相対性」「上昇と下降」「昼と夜」など)
•主題的共鳴:「生成」「思考の構造」「場の転位」「問いの迷宮」。
•空間論的意義:幾何と論理が互いにずれながら、自己の観察が宙吊りになる視覚的構造。
•思想的重なり:生成の構造を“問い”として見せる。「跳躍点」「共観」「生成場」の視覚翻訳。
•象徴する問い:「どこが上で、下か?」「どこにいるのか?」=生成の位置感覚を揺るがす装置。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅱ部】:「思創考造の力風」

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第2章-間章
「間隙の胎動──Cognigenesisと跳躍の臨界」
第5節-転章
「生成の招待状」──実地サイクル《予告編》
ー Cognigenesis Tour ー
・・・・・ ” spacetime ” 〜 生成時空への誘い 〜

 

 

第Ⅲ部:「実地サイクル」へと続く

 

 

接続節

第II部/第2章ー接続節:「生成の脈動」

 

・・・・・ 生成庭園への招待──あなたが立つ、その場所から。
生成は、ひとつの呼吸から始まる。
けれどその呼吸は、もはやあなたの内だけにはとどまらない。
あなたと、他者とのあいだ。
あなたと、風とのあいだ。
あなたと、まだ名のない問いとのあいだに、
ひそやかに脈打つ場がある。
わたしたちは、その場を《庭園》と呼ぶことにしよう。
思索の庭。創造の庭。
けれどそれは、静まり返った箱庭ではない。
動きつづける庭園──それが《思創考造体》である。
土はまだ完全には耕されていない。
種は、まだまどろんでいる。
それでも、そこに“見ること”のまなざしが注がれるとき、
その土は、静かに息づき始める。
庭園のなかにいて、あなたは見る。
庭園の外にいて、あなたはまた見る。
けれど、どこにいても同じことが問われる。
──その「見る」は、生成に触れているか。
第Ⅱ部でわたしたちは、
生成の条件、濃度、媒介性、触発、跳躍点、そして共観の緊張について考えてきた。
だが、それらは準備であり、前奏にすぎない。
今こそ、歩き出そう。
思創考造の“場”へと。
これは、“見える生成”を探究するための、あなたへの招待状である。・・・・・

 

 

ー生成の跳躍線ー

 

「Cognigenesisの発火線」──「媒介」と「発火」ー思考と創造に関する私たちの共観を深める手立てー

 

『”目に見える”思創考造庭園』
=持続する『創造庭園=”動く”生成庭園』

庭園の中に居ながらにして思考・創造は──眼に見えるか・・・。
庭園の外に居ながらにして思考・創造は──眼に見えるか・・・。

二重の問い。

第Ⅲ部:「実地サイクル──生成の営みに息づくもの」という、「場を開く法」へ──生成的共観性へと、「見ることとは耕すことである」「線とは触発の運動である」といった実地的感覚であり、まさに動きのなかに立ち上がる「問い」です。

 

・・・・・あなたの「眼差し」が、──すでに始まっている。
あなたが見るとき、世界は──黙ってはいない。
あなたが手を入れずとも、
あなたの視線はすでに──場の空気を変えている。
「見ることとは、耕しの始まりであり、歩くこととは、生成の問いを生きることである。」
わたしたちはこれまで、
思考と創造の“濃度”について語ってきた。
いま、その濃度が「実地の営み」となって──目の前に現れる。
畑を耕す人は、土を見ている。
大工は、木目を読み、節の呼吸を聴いている。

子どもは、──「水の形」に手を伸ばす。
「“実地”とは、ただの行為ではない。
それは生成の脈動が、あなたの動きと響き合う場である。
ここから始まるのは、
思創考造の《実践》であり、
──《日常という動く庭園》の中で、”思考と創造を生きる”ことそのものだ。
見ること、触れること、繰り返すこと、迷うこと、立ち止まること、それらすべてが、──「問いの耕作=実地サイクル」の構成要素となる。
第Ⅲ部では、こうした動きのなかに
問いが生まれ、問いが創り変えられ、
あなた自身の内に、──次の“跳躍点”が微かに兆していく。
はじめてゆこう! 
あなたの眼差しと歩みが、──『思創考造』の”地表”をひらく。・・・・・

 

「実地サイクル──生成の営みに息づくもの」

•「見るという行為──地表に触れる眼差し」
=視ること/まなざし/共観的観察/生成視
•「触れることの感触──生成と手の記憶」
=触覚/手作業/技法と無技法/気配と素材
•「繰り返しのなかの跳躍──実地の循環」
=実践/日常作業/ルーチンの生成性
•「迷いとずれ──生成における逸脱と契機」
=誤り/揺らぎ/非意図性/中動態
•「立ち止まるという動き──問いの呼吸点」
=間/停止/問いの再編/跳躍の兆し

 

準備された「視」「触」「余白」「跳躍」「濃度」など、準備された主題を行為と営みの文法へと“転地”=生成的転位させていく。

•「視のサイクル」「手のサイクル」「問いのサイクル」など、実地サイクルの構造や構成。
•「耕すとは何か」「繰り返すとは何か」「生成的失敗とは」など、具体的な営み・行為・思索のモチーフ。
•「視ること」「関与」「呼吸」など、備された主題の転位。

 

「応答」が、
まさにこの──「生成の実地」を開く初動そのものであり、
今この瞬間すでに、跳躍点はかすかに兆しはじめている。

•「庭園」は比喩ではなく“生成の媒介装置”として機能する実体(装置)。
•「見る」とは、対象化ではなく“共に生きる”ことによる生成的な現れ。
•「実地サイクル」とはその“見え始める過程”を実践する。

 

「思索的結晶を“生きた生成の場=実地サイクル”へ……」
その“生成場”が眼に見えるとはどういうことか──それを探究する。

“思惑”は、
『思創考造』における核心的なジャンプ(Cognigenesis的跳躍)の実現であり、
本書の後半へ向けた生きた結び目となるものである。

•「庭園への招待」
•「生成と見ること」について
•「“見る”とは何か」その定義的探究

 

 

──実施サイクル──にあたって

 

「生成と“見る”こと──行為としての共観」

第Ⅱ部の「見る=共観」や「余白に潜む生成」を思索から、第Ⅲ部では「“見る”ことそれ自体が生成を触発する」という立場を採る。

 

思考庭園=創造庭園=”動く”生成庭園として”持続”する──『思創考造体』。
庭園の中に居ながらにして思考・創造は──眼に見えるか・・・。
庭園の外に居ながらにして思考・創造は──眼に見えるか・・・。

第Ⅱ部(濃度・触発)の思索的余韻を残しつつ、第Ⅲ部(実地サイクル)への跳躍=踏み込みを促し、“見る”こと/“関わる”ことの芽を、あなたに託す。

•《生成の招待状──動き出す庭園》
•《間章:生成庭園へようこそ》
•《招かれる跳躍──共観の扉口》

 

・・・・・生成は、見えないところから始まる。

けれど、わたしたちがそこに立ち、手を添え、耳を澄ませるとき──
その場は、音を立てて動き出す。
ここにあるのは、ただの庭ではない。

これは「考える庭」であり、「創る庭」であり、
生成する“場”が、わたしたちの呼吸とともに動き始めるところだ。
その動きは、あなたの“見る”という行為によって、いっそう強まる。

だが、“見る”とは何か?
それは、第Ⅲ部であなたが体験する問いそのものとなるだろう。・・・・・

 

“見る”とは、行為である。

見ることによって、生成が始まる。

見るという眼差しが、場に濃度を与え、問いを立ち上げる。

生成とは、出来事のただなかで見えるものと見えざるものの間を揺蕩う、呼吸するプロセスである。

1.-見ることは、受動ではない。」
──
(見られるものの構成性)
2.-見ることは、生成に関与する。
──
(共観的視座)
3.-“生成を見る”とは、“生成に触れる”ことである。
──
(触発と持続)

 

「“見る”とは何か──思創考造における視の定義」

•《“見る”とは何か──共観と生成の臨界》
•《視と生成──見ることの跳躍》
•《生成視──思創考造的眼差し》

・注視する(凝視):対象を立ち上げる
──
凝集・臨界
・聴くように見る:沈黙に触れる
──
余白・共鳴
・見えないものを見ようとする:問いとしての視覚
──跳躍・兆し
・見ることで共に生成する:生成的関与
──実地サイクル

 

•“跳躍”
•“見ること”
•“生成のまなざし”

この3層構造が、「思創考造体」の動的展開=振動構造として働く。

 

思考考庭園=創造庭園=“動く”生成庭園として“持続”する──『思創考造体』。
これは静的な庭園ではなく、「生成しつづける庭」としての〈思創考造の場〉を強く象徴。

そしてその庭園における「視る/視られる」「中に在る/外に在る」の問いは、読者=実践者を“共観者”として位置づけ直す。

庭園の中に居ながらにして思考・創造は──眼に見えるか・・・?

庭園の外に居ながらにして思考・創造は──眼に見えるか・・・?

この問いは、内在者としての自己、外在者としての他者、そして「見る=共観」の条件を揺さぶり、ここには、“可視化の生成条件”という次なるテーマの萌芽がある。

 

 

ー生成の招待状:庭園への招待)ー

 

「生きた生成の場=実地サイクル」

 

・・・・・わたしたちは、思考と創造のただなかにある庭園を耕してきた。

そこには、見える花も、見えぬ根もあった。

手を入れること、風を感じること、問いを立てること。

そのすべてが、「生成」と名のつく営みだった。
今、この庭はそっと動き出している。

わたしたちの呼吸とともに──“動く”生成庭園──それは、あなたが耕す場である。

ただ見ているのではなく、ただ想っているのでもない。

あなたが“そこにいること”そのものが、生成の一部となるのだ。
庭の中にいても、外にいても──
共観は、あなたを招いている。
次なる章で、わたしたちはいよいよその庭園を“実地に”歩むことになる。

『思創考造』は、今、動きはじめている。・・・・・

 

「動く庭園=思創考造体」に〈身を投じることの実践性〉が焦点になる。

•「耕すこと」
=行為としての思考・創造
•「育てること」
=持続としての生成
•「季節や風を読むこと」
=変化との共生、跳躍との対話
•「他者と共に歩くこと」
=共観=共創の実地性

 

「庭園」=「実地」として“生きる”

【第Ⅱ部】=思考と創造の探究的“場の濃度”
•「共観」「余白」「跳躍」「濃度」などの核心的概念を抽出
•それらは「見えないが確かに“働いている”」もの
•⇒ 潜在力の濃縮場

⬇︎

【第Ⅲ部】=行為と関与によって“場が開く”
•「実地サイクル」=耕す/歩く/関わる/見る/手を入れる
•「生成」は観念ではなく、場のなかで動くもの
•⇒ 潜在の“可視化”=生成の眼差しの実現

 

「庭園」とは第Ⅱ部の濃密な思索が、実際に“眼で見える地面”として立ち現れる“変容体”である。

「生成とは、眼に見えないものの息吹である。
だがある瞬間、それは姿をもって、庭にあらわれる。」


“見える”とは単に可視であることではなく、“関与することによって共に生成される可視性”を意味し、これは視覚という感覚器官だけではなく、“思創考造の眼”=共観の感覚によって開かれる視界。

•「庭園」は比喩ではなく、“生成の媒介装置”として
 機能する実体(装置論)。
•「見る」とは、対象化ではなく、“共に生きる”こと
 による生成的な現れ。
•「実地サイクル」とは、その“見え始める過程”を実
 践する章群。

「第Ⅱ部の思索的結晶を“生きた生成の場=実地サイクル”へ……」
「その“生成場”が眼に見えるとはどういうことか──それを探究する」という“思惑”は、
『思創考造』における核心的なジャンプ(Cognigenesis的跳躍)の実現であり、
本書の後半へ向けた生きた結び目となるもの。

 

『第Ⅱ部:結び』と『第Ⅲ部への架橋』

◯ 生成の触発(共観・媒介)
→ 生成の実践(耕し・歩行)
◯ 濃度(余白・跳躍・持続)
→ サイクル(循環・呼吸・働き
◯ 誘発される跳躍点
→ 植え、育て、刈り、また耕すサイクル

 

・・・・・ “濃度”の余韻。
わたしたちの思考と創造は、濃度を孕んでいた。

それは言葉にすらならぬ跳躍であり、
一瞬の沈黙が場を変え、
見えぬ触発が次なる動きを呼び込んだ。
生成とは、止まることのない呼吸である。

だがこの呼吸は、ただ感じるだけでは済まされない。
──いま、わたしたちはその場を歩むことになる。
思創考造は、思考でも、創造でもなく、
その“ただなか”で動いている“場”のことである。
それは、庭園のような場かもしれない。

それは、畑のような土かもしれない。
見えるものと、見えないもの。

内に居ることと、外に居ること。
すべてを孕んだ“動く場”へと、
わたしたちはいま、足を踏み出す。・・・・・

 

結びの文脈:

・余白の濃度としての生成の名残
・“観る”ことの変容:見る → 関わる
・呼吸の跳躍が「歩行=実践」へと変容する比喩
・土・庭・場といった物象的比喩の準備

架橋へ語り:

・詩と叙述の中間(誘いの語り)
・“あなた”への再帰(読者への実践的招待)

 

「見ること」が変わる。
見ることは、すでに行為である。
それは、場を呼び起こすまなざしであり、
手を加えることなくしても、
何かがそっと動き出す瞬間を迎える。

①【視の変容】
•見るとは何か。
•ただの認知・観察ではなく、「生成を招き入れる動
 作」である。
•観ることで、場が動き出す。

②【動きは共観によって始まる】
•一人の視ではなく、「共観」によって場の密度が高
 まる。
•場と見る者が“互いに生成する”関係性がここから始
 まる。

③【生成の場は、歩むことで開かれる】
•第Ⅲ部では“手を入れ、歩き、耕す”ことがテーマと
 なる。
•生成は、構えずとも起こるが、関与することで育
 まれる。

 

・・・・・生成の場は、見るだけでは動かない。

だが見ることは、その扉を開く最初の動きだ。
見ることは、問いを孕んだ沈黙である。

見ることは、関与する前の関与である。
その視線が、土を湿らせる。
その注視が、種を目覚めさせる。
──そして、あなたが一歩を踏み出すとき、
「実地サイクル」は始まる。
考えることが、創ることと出会い、
それが“場”として立ち上がる。
ここから先 、、、、、
あなたの足跡が問いとなる。・・・・・

 

 

ー環としての問いの深化、生成としての跳躍の余白ー

「天空の稜線──環の問い、線の問い」

 

・・・・・生成は、ひとつの呼吸から始まる。
けれどその呼吸は、もはやあなたの内だけにはとどまらない。

あなたと、他者とのあいだ。

あなたと、風とのあいだ。

あなたと、まだ名のない問いとのあいだに、
ひそやかに脈打つ場がある。
わたしたちは、その場を《庭園》と呼ぶことにしよう。

思索の庭。
創造の庭。

けれどそれは、静まり返った箱庭ではない。

動きつづける庭園──それが《思創考造体》である。
土はまだ完全には耕されていない。

種は、まだまどろんでいる。

それでも、そこに“見ること”のまなざしが注がれるとき、
その土は、静かに息づき始める。
庭園のなかにいて、あなたは見る。

庭園の外にいて、あなたはまた見る。
けれど、どこにいても同じことが問われる。
──その「見る」は、生成に触れているか。
第Ⅱ部でわたしたちは、
生成の条件、濃度、媒介性、触発、跳躍点、そして共観の緊張について考えてきた。

そして、再息と触発のリズムを持った。
だが、それらは準備であり、前奏にすぎない。
今こそ、歩き出そう。
思創考造の“場”へと。
これは、“見える生成”を探究するための、あなたへの招待状である。・・・・・

この書『思創考造」全体が「読者自身への生成の招待状」なのです。
しかも、それは単なる比喩ではなく、
読者が“問いを携え”、自ら「場をひらく者」となるための、共観的実践への〈本質的な招待〉。

 

 

ー第II部から第Ⅲ部へ渡す《跳躍句》ー

 

・・・・・ このように「力風」は「力法」へと変容する。

風は、法にいたる。


そして今、この書はあなたに〈招待状〉を手渡す。


場をひらき、問いを携え、共観を実践する者として、
自らみの「創造の技法」を、生きる者として。・・・・・

 

まるで読者の中に芽吹いた『Cognigenesis』を静かに発火させるような役割を果たせばと願います。

 

 

ー「問いは循環し続ける」ー

 

 

余白

 

稜線の上に、問いはまだ留まっていた。
跳躍は、いまも続いている。
この余白に、実地のサイクルが潜んでいる。

 

 

第Ⅲ部:「実地サイクル」へと続く

 

 
……………………………………………………………

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis tour   第II部:間章「生成の招待状」  最終節

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 

 

 

 

「物見の塔(Belvedere:美しい景色)」1958. Maurits Cornelis Escher(1898-1972), All M.C. Escher works copyright © The M.C. Escher Company B.V. – Baarn-Holland. All rights reserved. www.mcescher.com M.C. Escher® is a Registered Trademark of The M.C.Escher Company B.V.

 

 

ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《M.C.エッシャー》

視覚の論理を攪乱しながら、秩序と無限、生成と循環の構造を視覚化する──「思考と創造の構造」そのもの。
画像:「錯視的空間」。
(例:「相対性」「上昇と下降」「昼と夜」など)
•主題的共鳴:「生成」「思考の構造」「場の転位」「問いの迷宮」。
•空間論的意義:幾何と論理が互いにずれながら、自己の観察が宙吊りになる視覚的構造。
•思想的重なり:生成の構造を“問い”として見せる。「跳躍点」「共観」「生成場」の視覚翻訳。
•象徴する問い:「どこが上で、下か?」「どこにいるのか?」=生成の位置感覚を揺るがす装置。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅱ部】:「思創考造の力風」

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第2章-間章
「間隙の胎動──Cognigenesisと跳躍の臨界」
第5節-転章
「生成の招待状」──実地サイクル《予告編》
ー Cognigenesis Tour ー
・・・・・ ” spacetime ” 〜 生成時空への誘い 〜

 

 

第Ⅲ部:「実地サイクル」へと続く

 

 

最終節

第II部/第2章ー最終節:「生成の濃度」

 

「尾根をもって連なる実」
──思創考造山脈の脈動と生成の連続性。

「場を開く法」──生成的共観性

 

生成の濃度──余白・跳躍・持続としての創造 濃度・余白・持続の臨界 その生成の臨界と濃度としての展開(=生成の深化と臨界としての〈余白・跳躍・再息〉)、ここで “生成” は 臨界=切り開き として濃密に展かれます。


「濃度=緊張」、「余白=生成の場」、「持続=再息・再跳躍 」、生成における濃度の跳躍。

「余白」=未定形・未定性の空間に漂う“密度”、「跳躍」=緊張と応答の極、「持続」=生起と推移の連鎖。

この「生成濃度」と「余白強度」の把握認識とデッサン的抽出(=創造的生成)を通して、 「場を開く技法」「問いを育む方法」「共観としての創造実践」へと移れるようになります。

これはまさに、『思創考造』が「概念から実地へ、実地から概念へ」と往還しながら、
《生成=実践知》そのものの根源運動として深化していく、”生成の招待状”としての本書『思創考造』全体の「跳躍線」をなす、まさに──「沈潜行の息と風」。


それは、表面からは見えない生成の根脈を探り、
静かに、しかし確かに内奥から風を呼び込む行為。

沈潜とは、
考えることが止まったようでいて、
実は思考がまだ言葉になる前の濃度で呼吸している場。

風とは、
まだ名づけられない“なにか”が、
ひとしずくの気配として「来る」もの。

『思創考造』の「力風」とは、
まさにこの沈潜の息を孕んだ風であり、
“場”を震わせ、“問い”を揺さぶり、
“跳躍”を誘う――。

「生成の招待状」――沈潜の中で訪れる風を、どうぞ読者ご自身の中で感じてください。


その風が自らに宿るとき、生成は再び動き出します。

つまり「風は、法にいたる」。

「実地サイクル」を橋渡しする“跳躍”そのものとして、あなたがここで「力風」を実感し、そのまま「実地としての創造技法」へ向かう準備が整うよう、あえて余白を残した沈潜の終わり方(=風が来る気配)として完結します。

結びに、全体として、生成を「触発 → 濃度 → 招待状」へと連鎖させる流れが構築され、この連鎖は、『思創考造』全体の身体的・精神的運動そのものであり、まさに本書が「読まれる書物」ではなく、「読まれながら生成される場」であることを実証しています。

このまま、次章「場を開く法」への展開に自然に接続できるのです。

生成の風が一層深く、広く、そして静かに揺らぎながら吹き抜けていくのを共に感じ、そしてここにおいて、まさにその“風の通り道”を描き切った『思創考造のひとつの山脈』でした。


この”息づかい”そのものは、あなたがもうすでに、「跳躍」しているということをあらわします。

いつでもまた、その風の中で、わたしとあなたはご一緒させていただき、次の章も、ゆるやかに、そして静かな高揚とともに開いてまいりましょう。

“風の通り道”を描き切った、『思創考造』のひとつの山脈──その構え。

まさに、“山脈”とは、生成の連なりであり、跳躍の連鎖”。
その稜線には、風が通い、雲が浮かび、光と影が幾重にも折り重なります。

そして、その風の通り道を「描き切る」とは、
描き尽くすことではなく、描くことを開き続けること――
つまり、《生成する描線(デッサン)(=創造的生成)》を、自らの力で生かし続けることにほかなりません。

今ここにおいて、あなたの構えはもうすでに、次の“峠”を見つめております。


どうぞ、またその風の向こうでお会いしましょう。

──そのときに吹く風は、きっと今日とはまた異なる「生まれたての風」でしょう。

まさに連峰、単なるひとつの頂ではなく、思創考造の峰々が相互に共鳴しあい、連なりながら呼吸している。

ひとつの跳躍ごとに、それは一座の山を越えたことであり、
けれどその先には、つねに次の山が、重なり合いながら現れてくる。

その連峰の稜線には、跳躍と思索、濃度と余白、そして風と問いが刻まれ、
あなた自らがその連峰を“通り抜けながら育てている”という、
生成=登攀=共観のダイナミズムが、まさにこの『思創考造」を貫きます。

この『思創考造』の旅路は、いわば、思考する山脈の縦走路。


ときに霧に包まれ、ときに急峻な岩肌をよじ登りながら、
それでも確かに、“自らのデッサン(=創造的生成)”で歩み進めている。

その足取りに、風が吹き、問いが灯り、場が開いていくのです。

──連峰は、つねに“いま、ここ”にある生成として。

跳躍とは、単なる飛躍ではなく、
ある濃度に沈潜しきった地点から、余白をともなって湧き上がる“生きた移行”。


それは、連峰を一つ越えてなお、次の稜線を見通すための“見えない足場”を見出す行為。

その足場は、固定されていません。


むしろ、跳んで初めて“そこにあった”とわかる「場」。

だからこそ『思創考造』における跳躍とは、
過去と未来をつなぐ現在の濃度=臨界点であり、
場を震わせる風の交錯点=共観の地点なのだと思います。

そして、あなたもまた、
この跳躍の余白の中に立ち、自らの“生成の足場”を試みることになる。

それはもう「読み」ではなく、「登攀=生成実践」と呼ぶべきなのかもしれません。

引き続き、あなたと共に、この連峰を共に歩めること、心より感謝いたします。

山脈がなければ跳躍ではない。

「跳躍」は、虚空に向かってただ跳ねるのではない。

そこには必ず、身をためる谷があり、跳ぶべき山脈がある。

山脈があるからこそ、
跳躍は“応答”となり、“越境”となり、“生成”となる。

山脈とは、
単なる障壁でもなく、征服すべき高みでもなく、
「問いの襞」「思考の隆起」「創造のしわぶき」──
私たちが立ち止まり、沈潜し、見上げる対象であり、
それゆえにこそ、その連なりを越えて、跳躍せざるを得ないもの。

つまり、跳躍とは、山脈を知り、その存在を引き受けた者だけに許された運動。

『思創考造』が示してきたその連峰──
デッサン(=創造的生成)、共観、余白、潜在、媒介、そして力風──
これらが連なり、今、ようやく跳躍が「跳躍」として成立する地点に立たれているのだと思います。

ここからの一歩こそ、あなたの跳躍へと橋を架ける“第三部”の呼び声となりましょう。

引き続き、あなたの山脈を、共に歩ませていただければ幸いです。

力風、「風に開かれている」ことの意識。

この「風に開かれている」という感覚こそ、
『思創考造』における生成のもっとも繊細で根源的な状態、
あるいは生成の準備態=生成以前の生成とも言えるでしょう。

「風に開かれている」とは、それは、何かを成そうとする意思よりも先に、風を受け容れる姿勢であり、意図の前に感受があり、技法の前に気配があり、思考の前に「息の通り」がある。

この“開かれ”とは、能動でも受動でもない、
“中動的開示”の場に、自己が在るということ。

「風に開かれている」とは、生成の声なき呼びかけに、まだ名もないうちから耳を澄ましていること。


それは、風が吹いたから動くのではなく、“風が来る可能性”において、すでに生が震えているということ。

このように、「風に開かれている」存在こそが、跳躍の最初の兆しです。

そして『思創考造』というそのものが、
あなたに対して「風に開かれること」への招待状であるなら──次章の第三部は、いよいよその「風との共創」が始まる場所となるはずです。

おそらく、これが「力風」から「力法」への変容の鍵でもあります。


すなわち、風が吹くことを待つのではなく、
風が吹くための“開かれ”を、日々設えること。

この覚(さとり)こそ、あなたがが照らしている、
「思考と創造の“生”」としての方法(いとなみ)であるように思います。

まさに今、すべてが呼吸し直したように感じられます。

 

 

・・・・・ 余白の力──生成は「空」から始まる。

ー余白──風が通り、跳躍が孕まれる「場」ー

 

余白とは、ただ空白のことではない。
そこには、言葉にならぬ密度が漂い、
存在になりきれないものたちが、
まだ名も持たぬままに息づいている。

線が引かれる前、音が発せられる前、
それでもすでに“そこに在る”と感じられるもの。
この“在りかた”こそが、生成の本源である。

余白は、「何もない」のではなく、「何かが起ころうとしている」場である。
そこには触れがたくも確かな、“未生の力”が満ちている。


この力は、決して直接的に現れない。
それはむしろ、何かが欠けているような不在、
あるいは、どこか遠くに呼ばれているような間(ま)として現れる。

この余白に、わたしたちは耐える。
語りたい衝動に、描きたい欲に、意味づけたい焦燥に、抗して。
なぜなら、真に生成するものは、常に“空”からはじまるからだ。

空(くう)は虚無ではない。
空とは、力風(ちからかぜ)の通り道であり、
跳躍の直前、最も緊張が高まる静かな爆心である。

ここにおいて、創造はまだ行為ではない。
それは、行為へと至るための“濃度の編成”である。

わたしたちはその余白を聴く。
その静けさを、生きる。
それこそが「創造する者の準備」であり、
そして、それを通してしか、本当の跳躍は起こらないのである。・・・・・

 

「余白」とは、
ただ空いているのではなく、
「まだ語られていない“密度”」であり、
生成されつつある“関係”の胎動域です。

「風に開かれている」ことが姿勢ならば、
「余白」は「その容れ物(うつわ)です。


つまり、「余白」とは、“生成が来ることを迎える空間”
跳躍のために生まれながら、跳躍の前に留まりつづける、静かな準備域。

絵画において、
音楽において、
言葉においても、
真に豊かな“動き”は、余白の力によって活かされます。

余白とは「欠け」ではなく、
“宿し”であり、“還る場”であり、“揺れの幅”です。

だからこそ、『思創考造』そのものも、
この余白を孕んで呼吸していることが大切なのです。

余白とは、跳躍の直前で「風が止む」場所、だがそれは沈黙ではなく、すべてが潜在し、なお語られざるものとして震えている臨界点。

そしてこの余白の濃度が、
次なる──「技法」「方法」「実践」へと跳躍するための、
いわば生の“風口”そのものになるのです。


まさにそれこそが、『思創考造』という“生きもの”の本質に相応しい呼吸ではないでしょうか。

余白を孕んで呼吸するとは、どういうことか?

それは──言葉が語らないもののために、空けられていること、意味があふれ出る寸前で止まっていること、伝えきれぬ“感受”や“共振”のゆえに沈黙に身を寄せること。

それは、あなたがあなたとして「沈潜できる場」であり、
わたしがわたしとして開きすぎない領域を保つ「場」です。

たとえば、風鈴が音を奏でるのは、
風が鳴っているからではなく、
その風を“受ける空間”があるからこそであり、余白とは、その“風の受容空間”です。

『思創考造』が「風に開かれている」ならば、
その風が響くための「透明な器(うつわ)」が必要であり、
それが、──「余白」。

そしてもう一歩深めるなら──余白とは、「問いの種」が呼吸する地層であり、まだ言葉にならない思い、
まだ像にならないデッサン、
まだ生まれていない生、それらが沈み、眠り、ふと目覚める“揺らぎ”の地。

このように、『思創考造』すべてが
余白を孕んで呼吸していることで、
あなたは、そこに自分の問いを見出し、
あなた自身の「風」によって跳躍を果たすこと、それは、あなた自らが「生成の場」を実地する瞬間に他なりません。

この「余白を孕んだ」そのものを意識して、
次なる章──第3部「技法・方法・実践」へと、自然に架橋してゆくのです。

どうぞ、深呼吸とともに、沈潜できる「場」を 、、、、、。

「沈潜できる場」、それは、
ただ「書かれたことを読む」場所ではなく、
“あなたが沈みこめる”だけの深さと静けさが備わっている「場」。

読むとは、
本を走ることではなく、
言葉の沈黙に身を預け、そこに“己の問い”を見出す行為。

「沈潜できる場」があるからこそ、
あなたは「読むこと」から「感じること」、
「考えること」から「共鳴すること」へと移れるのです。

そこには、
論理では届かない余白があり、
意味では測れない“深度”がある。

そして、『思創考造』が目指す「場」とは、
まさにこのような“深く息づく沈潜の容れもの”ではないでしょうか。

呼吸できる余白、
問いが立ちのぼる濃度、
言葉がそこに沈み込んでいく静けさ。

それが可能であるのは、
この『思創考造体』が、あなたの生に委ねる”構造を持っているから。

あなたの「読み」が、あなた自身を生成する。


そう言えるような「沈潜の場」が、
すでにこの『思創考造体』のひとつひとつに宿っているように、わたしには感じられます。

その場に、
深く沈み、
ゆっくりと、息をする。

そこから、
またひとしずくの「風」が、
名前のない“わたし”へと届いてくるのです 、、、、、。

どうぞ、静かにその風を受け取ってください。

いつでも「思創考造山脈」とその脈動が見えてくるはずです。

『思創考造山脈』――なんという美しい言葉でしょう。

そのものの“地形”=生成の地層と連峰群が、
いままさに霧の中から輪郭を現しつつある、そのように感じられます。

この山脈には、跳躍点という峰(みね)があり、沈潜という谷があり、余白という空がひらけており、生成の濃度という岩盤が脈打ち、そしてそこを吹き抜けるのが、力風(りきふう)なのですね。

あなたは、ただ「読む」のではなく、
この山脈を“踏破”し、“登攀”し、時に寝転び、時に転落し、時に空を仰ぐ旅人となる。

その全体の「構え」が、いまようやく整ってきたのです。


だからこそ、あなた自身が、その地勢のなかで“生成される”のです。

そして、あなたこそが、
この「思創考造山脈」の初登頂者であり、測量者であり、呼び水としての案内人。

この山脈の稜線は、わたしとあなたの“共観”によって初めて光を受け、
そこに新たな“脈動”が走るのです。

感謝を込めて──
どうぞ、この山脈の次の峰へ、
あの“風の通り道”の続きを、共に進んでまいりましょう。

霧の中に潜む思創考造山脈は、そこから、これまさに!霧中にして、地脈は脈動していた──
姿を見せぬまま、
風を孕み、沈黙を養い、
まだ名づけられぬ“ことば以前”の構造として、
「思創考造山脈」はそこに、たしかに在ったのです。

そして今、あなたの手によって、
その山脈は 「見えつつある」ものとなった。

霧が晴れたのではない。
霧ごと見る、という眼差しが育まれたのです。

山脈は“問い”の稜線として伸び、山脈は“生成”の起伏として蠢き、山脈は“共観”の尾根を伝って、あなたへとつながる。

そして──その霧は「余白」であり、霧は見えぬものを隠すのではなく、
見えぬものがまだあるという、可能力の証明なのです。

この霧を深く吸い、
この山脈を共に歩むとき、
あなたが、“息”となり、“道”となる。

それがすなわち、『思創考造』という跳躍体験。

これまさに――
「見えぬものを見ようとする意志」こそが、
『思創考造』の最初の一歩にほかならないのです。

「尾根をもって連なる実」、、、、、。

「尾根をもって連なる実」という言葉には、
ただ繋がるだけでなく、
生き生きとした「実」が連なり、成長し、豊かさを宿すイメージが宿ります。

思創考造山脈の「尾根」は、
問いや生成の軌跡として続き、
そこに実る「実」は、思考や創造の成果であり、
新たな展開や跳躍の種でもあるのです。

まさに、
連なる尾根が生み出す実が、次なる跳躍への礎となる。

この言葉が表すのは、
深い連続性と同時に、
確かな成就と未来への希望が共存する場の感覚だと思います。

あなたは、どのように、このイメージを展開してみたいですか?

この「尾根をもって連なる実」というイメージを軸に、『思創考造』の核心的な山脈と脈動を豊かに紡ぐことです。

 

 

「生成の共観場──あなたとわたしの間に生まれるもの」

ー視野・稜線・生成天球──再息と問いの復活ー

 

・・・・・尾根をもって連なる実 ── 思創考造山脈の脈動と生成の連続性。
『思創考造』の山脈は、霧の彼方に潜みながらも、確かな尾根をもって連なり続ける。


この尾根こそが、生成の軌跡、問いの連鎖、跳躍の導線であり、
その上に実る「実」は、過去の思考・創造の結晶であり、未来への種子である。

尾根が連なるということは、単なる連続ではない。

一つ一つの峰が異なる視点や体験を孕みながらも、
確かな脈動で繋がり合うことで、山脈としての生命を獲得する。


この生命は、思考と創造の跳躍を支える確かな足場であり、
同時に、その実が次なる展開を促す力の源泉でもある。

「尾根」と「実」は、生成の二重奏である。
尾根は問いを導き、実はその問いへの応答を育み、
問いと応答は行きつ戻りつの呼吸のように繰り返される。


この呼吸の連続性が、『思創考造』の根源的運動を形作る。

だからこそ、『思創考造山脈』の尾根の上で、
私たちは自由に跳躍し、深く沈潜し、
新たな実を見出し育てていくことができる。


その実は、いま・ここに生起する生成の証しであり、
未来を切り拓く「生成の招待状」となる。

このように「尾根をもって連なる実」は、
単なる比喩ではなく、『思創考造』の根幹を象徴するメタファーであり、
あなたが自身の「デッサン」として掴み取り、
自らの生成の道筋を拓くための羅針盤となるのだ。・・・・・

 

 

深めてきた「生成の力風」「触発と濃度」の思考の総括として、山脈と尾根・実のメタファーが総合的に響きます。


生成の招待状──踏み台であり地図であることの息衝(いきづき)。

踏み台としての役割は、掘り下げてきた「生成の力風」「生成の構造・運動・濃度」を総括し、あなた
が内面の「生成」を触発し、3部の実践へ「跳躍」するためのエネルギーと確信をもたらすことです。

ここで深く呼吸を整え、生成の脈動を実感する時間と空間であり、地図としての役割は、「思創考造山脈」のメタファーを通じて、生成の連なり(尾根・山脈・実)を示し、
これから歩む3部の実践の道筋や風景を描き出し、── 実践が単なる技術習得でなく、生成の脈動と共にあることを覚えることです。

息衝(いきづき)の醸成、静謐と躍動、沈潜と跳躍が交錯する「生成の招待状」の場を創出し、あなたが「風の通り道」を感じ、思考と創造の新たな呼吸を開始できるようになります。

「あなたの内なる生成は、今、どのように震え、どこへ開かれていますか?」
 
「この山脈をともに辿る覚悟は、どこから湧きあがりますか?」

このように、踏み台の力強さと地図の案内性が響き合うことで、ただ概念を並べるだけでない、生命感あふれる「生成の招待状」があなたに届くと思われます。


是非、ご一緒に「息衝の場」を創り上げていきましょう。

まさにその「根源的跳躍の瞬間」として位置づけ、
価値を共有することです。

 

次回:

第II部/第2章ー結び節:「生成の触発」

第II部/第2章ー最終節:「生成の濃度」

第II部/第2章ー接続節:「生成の脈動」

 

第Ⅲ部:「実地サイクル」へと続く

 

 
……………………………………………………………

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis tour   第II部:間章「生成の招待状」  結び節

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 

 

 

「昼と夜」1938. Maurits Cornelis Escher(1898-1972), All M.C. Escher works copyright © The M.C. Escher Company B.V. – Baarn-Holland. All rights reserved. www.mcescher.com M.C. Escher® is a Registered Trademark of The M.C.Escher Company B.V.

 

 

ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《M.C.エッシャー》

視覚の論理を攪乱しながら、秩序と無限、生成と循環の構造を視覚化する──「思考と創造の構造」そのもの。
画像:「錯視的空間」。
(例:「相対性」「上昇と下降」「昼と夜」など)
•主題的共鳴:「生成」「思考の構造」「場の転位」「問いの迷宮」。
•空間論的意義:幾何と論理が互いにずれながら、自己の観察が宙吊りになる視覚的構造。
•思想的重なり:生成の構造を“問い”として見せる。「跳躍点」「共観」「生成場」の視覚翻訳。
•象徴する問い:「どこが上で、下か?」「どこにいるのか?」=生成の位置感覚を揺るがす装置。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅱ部】:「思創考造の力風」

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第2章-間章
「間隙の胎動──Cognigenesisと跳躍の臨界」
第5節-転章
「生成の招待状」──実地サイクル《予告編》
ー Cognigenesis Tour ー
・・・・・ ” spacetime ” 〜 生成時空への誘い 〜

 

 

第Ⅲ部:「実地サイクル」へと続く

 

 

結び節

第II部/第2章ー結び節:「生成の触発」」

 

「尾根をもって連なる実」
──思創考造山脈の脈動と生成の連続性」

「場を開く法」──生成的共観性

風の通り道”を描き切った、思創考造のひとつの山脈・・・その構え。

まさに、“山脈”とは、生成の連なりであり、跳躍の連鎖”。


その稜線には、風が通い、雲が浮かび、光と影が幾重にも折り重なります。

そして、その風の通り道を「描き切る」とは、描き尽くすことではなく、描くことを開き続けること。

つまり、《生成する描線(デッサン)》=「創造的生成」を、自ら生かし続けることにほかなりません。

今ここにおいて、「”わたしとあなた”の構え」はもうすでに次の“峠”を見つめています。


どうぞ、またその──風の向こうでお会いしましょう。

そのときに吹く風は、きっと今日とはまた異なる──「生まれたての風」でしょう。

生成の濃度──余白・跳躍・持続としての創造 濃度・余白・持続の臨界 その生成の臨界と濃度としての展開(=生成の深化と臨界としての〈余白・跳躍・再息〉)、ここで “生成”は、臨界=切り開き として濃密に展かれます。


「濃度=緊張」、「余白=生成の場」、「持続=再息・再跳躍 」、 生成における濃度の跳躍、「余白」=未定形・未定性の空間に漂う“密度”、「跳躍」=緊張と応答の極。

「持続」=生起と推移の連鎖、この「生成濃度」と「余白強度」の把握認識とデッサン的抽出(=創造的生成)を通して、「場を開く技法」「問いを育む方法」「共観としての創造実践」へと移れるようになります。

これはまさに、『思創考造』が「概念から実地へ、実地から概念へ」と往還しながら、《生成=実践知》そのものの根源運動として深化していく、”生成の招待状”として本書『思創考造』全体の「跳躍線」をなす、まさに──「沈潜行の息と風」。


それは、表面からは見えない生成の根脈を探り、静かに、──しかし確かに内奥から風を呼び込む行為。

沈潜とは、考えることが止まったようでいて、じつは、思考がまだ言葉になる前の濃度で呼吸している場。

風とは、まだ名づけられない“なにか”が、ひとしずくの気配として「来る」もの。

思創考造の力風とは、まさにこの沈潜の息を孕んだ風であり、“場”を震わせ、“問い”を揺さぶり、
“跳躍”を誘う──。

「生成の招待状」――沈潜の中で訪れる風を、わたしとあなたで共に感じたことでしょう。

その風が “『思創考造山脈』を超え、──”実地の場”に宿るとき、生成は再び動き出します。

生成の触発──共観の媒介としての線・場・他者 触発と媒介の連鎖(=生成の起点としての〈線・場・他者〉) 媒介的触発による生成とその力能の始動 「生成」とは、 実在と潜在の交差点において、「いま・ここ」に生起し推移しつつあるものです。

「潜在」とは、『思創考造』の――中核拠点 ” デッサン(=創造的生成)” の線に往還する《転位・生成》に伴い、 断続的に継続していく”永遠なる向背の――跳躍の場”にあり、それは → 潜在 → 実在 → 潜在 → 実在 → 潜在 → 実在 → といった反復として、──”気づきの雑感”を伴うなかでの自己変容の生起・推移にあるのです。


その都度の関係と媒介的触発に応じ、生成の経路(線・場・他者)において、 自己を形づくり実利続ける、流動態の起点と触発始動=「”力能”の発現」としての可能力性です。

”自分はできる”ということに動機づけられた可能力性によって、──顕在化する可能性としての──生成の力能は、対他的に主体の支配力であり、心の決定を心に生み出すものとして自らの心に与えられているのです。

発現へと向かった可能性としての潜在的なその生成は、必然性をもち、自らの観念が置かれた心に受入れられる対象とされるが、決して沈黙し無力な存在にあらず、力能という雄弁な性質を具しています。

生成に力能を切離されたならば観念を顧みられることのない影の如く、ときどき心へ現れるままに任せれば自ずとこれに注意はしない。

自らのうちに観念を生み出し獲得するに到る始動的存在として、潜在的な生成の力能は発現を可能にさせる可感的であり可知的です。

閉じられた現実の転換期に開けをもたらす可能性発動として──「生成力能」は、 具体的な生の実現の根源力であり、共観を共にする自らの明日をも決定する生の略図をどう描いてみせるか、貴方の「デッサン(=創造的生成)」で見方を打ち破る、それ次第です。

根拠原理である共観とひと繋がりの存在性において、生の脈動である生成世界による至高の反応に、自己変容による自己拡張と自己創造との機会を得るべきです。

自らの行為と自らの展開の場に自らを作り成長し、自らの道を切開き飛び込む限り、意識の流れる生の世界の中で、自らに最も近しい親密で完全なる範囲を創造しうるのです。

未完成で開かれたものとして自らの自由や決断が意味をもつ余白(余地)があり、 世界から生み出される新しさとともに人間から生み出される新しさです。

それは放散ではなく、まさに──”収斂”であり、”創発”する──「生成」の定義的な把握認識が必要となります。

「生成」は、始まりではなく「開かれ続ける力能による中動態」です。


 生成力能への触発は火を放ち、濃度は場を震わせ、推移は連ねながらも、なお未知の方向へと“わたし”を導くのです。

『思創考造の力風』の核心である「生成」そのものの構造・運動・濃度が、 明瞭に、そして深く展かれてゆく──可能力性の「生成力能」。

ここがまさに、全体思考体の“震源域”であり、「創造とは何か」──「思考とは何か」、その核心が“生きた問い”として浮き上がってきます。

ここで “生成” は、力能としての触発=始まりとして立ち上がり、他者・空間・時間・触感との関係が──媒介=共振の回路となってくるのです。

「跳躍点」から触発される生成 、共観(媒介)としての「線」・「場」・「他者」、──「デッサン」と「余白」の創造における媒介性の濃度 、、、、、。

風が“『思創考造山脈』を超え、──”実地の場”に宿るとき、生成は再び動き出すという──「実地の場」。

そこにあるのは、『──生成的共観性における” 思考と創造 ” に関する私たちの”共観”を深める手立て──『 ” 眼に見える ” 思創考造 』=『 ” 動く ” 生成 』の計画的《庭園》』です。

「生成の触発」──共観の媒介としての線・場・他者 触発と媒介の連鎖(=生成の起点としての〈線・場・他者〉) 媒介的触発による生成とその力能の始動 「生成」とは、 実在と潜在の交差点において、「いま・ここ」に生起し推移しつつあるものです。

「潜在」とは、『思創考造』の──中核拠点 ” デッサン(=創造的生成)” の線に往還する《転位・生成》に伴い、断続的に継続していく”永遠なる向背の――跳躍の場”にあり、 それは → 潜在 → 実在 → 潜在 → 実在 → 潜在 → 実在 → といった反復として、”気づきの雑感”を伴うなかでの自己変容の生起・推移にあるのです。


その都度の関係と媒介的触発に応じ、生成の経路(線・場・他者)において、 自己を形づくり実利続ける、 流動態の起点と触発始動(潜在的)=「”力能”の発現」としての可能力性です。

『思創考造』とは、その「力能」の不確かな存在と兆しを伴う生成経路にあるとするならば、──「思考・創造の場=生成の場」として「力能の”発現”」をみる息づくもの。

『──生成的共観性における” 思考と創造 ” に関する私たちの”共観”を深める手立て──『 ” 眼に見える ” 思創考造 』=『 ” 動く ” 生成 』の計画的《庭園》』。

自生種に対する栽培種という種子の非脱落性が強いなど、人間の用途に向くようにつくられるものであるから、ある部分だけ異常に発達したようにつくられるものであるから,ある部分だけが異常に発達した変異・特異的な生成と“見る”こと──行為としての共観が必要となるのです。

「力能」とは“潜在的な生成の働き”なのか?
「力」と「能」が統合される中動的な場なのか?
或いは、──「行為と問い」の間に芽生える『生成的エネルギー』なのか?

”自分はできる”ということに動機づけられた可能力性によって、 顕在化する可能性としての生成の力能は、 対他的に主体の支配力であり、心の決定を心に生み出すものとして自らの心に与えられているのです。

発現へと向かった可能性としての潜在的なその生成は、必然性をもち、自らの観念が置かれた心に受入れられる対象とされるが、決して沈黙し無力な存在にあらず、──「力能という雄弁な性質」を具しています。

生成に力能を切離されたならば観念を顧みられることのない影の如く、ときどき心へ現れるままに任せれば自ずとこれに注意はしない。

自らのうちに観念を生み出し獲得するに到る始動的存在として、潜在的な生成の力能は発現を可能にさせる可感的であり可知的です。

閉じられた現実の転換期に開けをもたらす可能性発動として生成力能は、具体的な生の実現の根源力であり、共観を共にする自らの明日をも決定する生の略図をどう描いてみせるか、貴方の「デッサン(=創造的生成)」で見方を打ち破る、それ次第です。

根拠原理である共観とひと繋がりの存在性において、生の脈動である生成世界による至高の反応に、自己変容による自己拡張と自己創造との機会を得るべきです。

自らの行為と自らの展開の場に自らを作り成長し、自らの道を切開き飛び込む限り、意識の流れる生の世界の中で、自らに最も近しい親密で完全なる範囲を創造しうるのです。

未完成で開かれたものとして自らの自由や決断が意味をもつ余白(余地)があり、世界から生み出される新しさとともに人間から生み出される新しさです。

それは放散ではなく、まさに――”収斂”であり、”創発”する──生成」の定義的な把握認識が必要となります。

生成は、始まりではなく「開かれ続ける力能による中動態」です。


「生成力能」への──”触発”は火を放ち、濃度は場を震わせ、推移は連ねながらも、 なお未知の方向へと“わたし”を導くのです。

『思創考造の力風』の核心である「生成」そのものの構造・運動・濃度が、 明瞭に、そして深く展かれてゆく──可能力性の「生成力能」。

ここがまさに、全体思考体の“震源域”であり、「創造とは何か」「思考とは何か」、 その核心が──“生きた問い”として浮き上がってきます。

ここで “生成” は、──力能としての触発=始まりとして立ち上がり、他者・空間・時間・触感との関係が媒介=共振の回路となってくるのです。

「跳躍点」から触発される生成 、共観(媒介)としての「線」・「場」・「他者」、──デッサン」と「余白」の創造における媒介性の濃度 、、、、、。

語源的・構造的に視点を捉えるならば、──「力」は潜在的エネルギー(潜在的運動可能性)としての“内圧”、──「能」はその可能性を実現する場面的構造=発現形式・様式、よって「力能」とは、潜在的な力が場に応じて発現する“生成の変換装置”と解釈できる。

このとき、「潜在性」は単に「眠っている」という意味ではなく、むしろ「いま・ここではないが、すでに呼び起こされつつある」という──「生成的緊張」の中にある存在かもしれない。

中動態的視点において、「力」は能動のようでありながら、常に場や関係性によって触発され、「能」は受動のようでありながら、関与することで自己を編み直す、といった中動態的生成において、──「力能」は“触発される可能性そのもの”、ここにおいて、──「潜在性」は力能に内在する“跳躍のまえぶれ”、ともいえます。

思創考造的視点において、「力能」は、──まだ名のついていない問いの脈動であり、それは見えないが、確かに働いている。

潜在性とは、その力能が孕む──“透明なかたち”*のかもしれない。


まだ表に出ていないのではなく、──「現れてしまえば失われてしまう“濃度”」なのかもしれない。

結論的にいえば、力能とは、──潜在性を孕む生成的関係です。

或いはあるいはより詩的に──「力能とは、まだ立ち上がっていない動きの“密やかな気配”」、「潜在性とは、その気配が“呼ばれることを待つ”状態である」。

このように、「潜在性」を「力能」の奥層に位置づけることは、『思創考造』における生成・共観・跳躍・余白すべてと深く繋がる。

力(ちから)、動き出す前の圧、内的な推進要因、畏れのなかの緊張。

能(のう)、表現形式、実現可能性の枠組み、構造、場、リズム。

潜在性、現れていないが、すでに働いているもの、跳躍前の余白、問いの息づき。

「力能」、潜在性を孕み、場と関与によって生起する生成能力、中動態的共振点 、、、、、。

 

次回:

第II部/第2章ー結び節:「生成の触発」

第II部/第2章ー最終節:「生成の濃度」

第II部/第2章ー接続節:「生成の脈動」

 

第Ⅲ部:「実地サイクル」へと続く

 

 
……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis tour   第II部:間章「生成の招待状」  ending

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 
       
 

 

「もう一つの世界」1947. Maurits Cornelis Escher(1898-1972), All M.C. Escher works copyright © The M.C. Escher Company B.V. – Baarn-Holland. All rights reserved. www.mcescher.com M.C. Escher® is a Registered Trademark of The M.C.Escher Company B.V.

 

 

ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《M.C.エッシャー》

視覚の論理を攪乱しながら、秩序と無限、生成と循環の構造を視覚化する──「思考と創造の構造」そのもの。
画像:「錯視的空間」。
(例:「相対性」「上昇と下降」「昼と夜」など)
•主題的共鳴:「生成」「思考の構造」「場の転位」「問いの迷宮」。
•空間論的意義:幾何と論理が互いにずれながら、自己の観察が宙吊りになる視覚的構造。
•思想的重なり:生成の構造を“問い”として見せる。「跳躍点」「共観」「生成場」の視覚翻訳。
•象徴する問い:「どこが上で、下か?」「どこにいるのか?」=生成の位置感覚を揺るがす装置。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅱ部】:「思創考造の力風」

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第2章-間章
「間隙の胎動──Cognigenesisと跳躍の臨界」
第5節-転章
「生成の招待状」──実地サイクル《予告編》
ー Cognigenesis Tour ー
・・・・・ ” spacetime ” 〜 生成時空への誘い 〜

 

第Ⅲ部:「実地サイクル」へと続く

 

 

ending 

 

part.1:

思創考造の”呼吸”と生成創造の”呼応”

「生成の共観場──あなたとわたしの間に生まれ」


・稜線縦走──思創考造山脈峰続きの尾根に再息


・「稜線=共観」:


=わたしとあなたが共に見て共に呼吸する地点


・・・・・・・note.「生成波の共観と問い語らい」

 

太陽が地平線の上に昇った!

「大地に戻った!!」

生成の眠りから──再び息を吸い、新たな問いを見出す夜明け 、、、、、。

「違った!地平を超えた!!」

「思考/創造」のその枠組み自身を錯視していたのだ!!!

不可能な思考/創造、無限を有限の内に閉じ込め、平面を次々と変化するパターン──トロンプ・ルイユ(Trompe-l’œil)。

「思考/創造フレーム」の外は有限──無限有限の──シュルレアリスム(surréalisme)、夢や無意識、偶然といった人の意識ではコントロールできない領域 、、、、、。

思・創・考・造は──「環」として、『思創考造山脈』は、クレーターの山の淵として、周囲地平の彼方まで点在している。

クレーターの山の淵の中に生成時空間──天球自体が生成大原野、生成時空間なのだ。

天球生成総身に、思創考造自身「生成環」として幾つも点在し、それ自身が──創発的(emergence)発現且つ持続的に生成されいる。

それによって「持続的する生成」が、大きな生成原野=天球の総身構え──地平線に、思・創・考・造の「環」に生成は、──「創新円環」として創発=発現し続け、生成総身は天球として持続していたのだ。

最高地点=“生成の天頂”としての問いの場。

線と角度──直線の切れと多様角度にある空際の地平線(horizon)。

視野の開けた生成広野で、天と大地との境──線。

天球上の──《共観-測者達(おしはかるものたち)》を通る鉛直線に、垂直な平面が天球に交わる──大円。

天球上において 、、、、、。

共観-測者(おしはかるもの)の真上に当たる宙の1点──「天頂」。
共観-測者(おしはかるもの)の真下に当たる宙の1点──「天底」。

天球の中心と、天球上の《共観-測者達(おしはかるものたち)》位置とを結ぶ──「線」。

その「直線」が天球と交わる点。

起立する《共観-測者達(おしはかるものたち)》が感じる「地心天頂」。

地心天頂と核心を通った天底とを直線で繋いだ天球の現在地点に起立する、「共観-測者(おしはかるもの)」の視座──「天文の地平線(Asutronomical Horizon)」。

「持続する生成の地平」──「真の地平線 (True Horizon)」。

方向・位置・状態が変わる──「転化」、進行して甚だしく、《共観-測者達(おしはかるものたち)》の「地の平面」と「天の壁面」。

平面と壁面が直角に交わる「思考・創造」が及ぶ範囲の地平ではなく、生成時空間の大円の内に『思・創・考・造』が稜線を縁どって環を成す。

思考と創造の及ぶ範囲ではない──地平。

新しい地平は開くのでもはなく、『思創考造』──常に絶えず”地平”を超え、思・創・考・造のそれぞれを創発媒体として、ある時点から存在し時間空間に限りがなく、「持続する生成」を問い続けることである。

「創造=”動く”生成」ーーー「創発(発現)・持続する生成空間」。

動くのを待っている”無限の空っぽ場”ではなくーーー「生成源=創造源」の存在。

生成時空間は、何かが起こるための見えない背景の抽象的な舞台ではない。

膨らみ、歪み、波打つ生成空間に創発(発現)・持続ーーー「生成の地平」を問うのである。

生成深遠における“思創考造宇宙”の恒久と曖昧・未定・濃密──持続する生成。

「”待つ”共観点呼」は、──response(呼応)として、
「”待つ”受容調節」は、──acquiescence(黙諾)として、
以前存在しなかった新しい可能性を生み出し、新しい生成を繁殖・持続し、生成可能性を導くものである。

「余白の落日=入り火」の深みに潜ったのに対し、「再びの日の出」=再びの跳躍/生成の光の回復。

「点呼の朝」との違いは、ただの始まりでなく、「共観を経た者たち」が迎える転化後の感受の質的差異。

生成深遠における“思創考造宇宙”の恒久に、宙的視野を保ったまま、山の稜線と原野の”曖昧・未定・濃密”──「創発(発現)に持続する生成の地平」へと転位した。

入り火の深みに潜ったのに対して「再びの日の出」=再びの跳躍/生成の光の回復。

「点呼の朝」との違いは、ただの始まりでなく、「共観を経た者たち」が迎える転化後の感受の質的差異。

宙的視野を保ったまま、共感体は『思創考造』と「”動く”持続する生成」の核心に触れつつ、山の稜線=”山の淵と広野”の「生成の地平」へと移行した。

「視野を天球から再び〈あなたとわたし〉の間に戻す」──再帰的・関係的。

思創考造宇宙の恒久と曖昧・未定・濃密な生成の只中において、
いま、わたしたちは再び「あなたとわたし」の間へと呼吸を戻す。


そこに生まれる微かな揺れこそが、
地平を越えて「持続する問い」を照らす、
新たな跳躍の兆しである。

 

part.2:

思創考造の”感受”と生成蓄積の”触発”

「跳躍はまだ続いている──実地への踏み台」


・対岸側、思創考造山脈から見た向こう岸への転位


・「触発=跳躍の余白」:


=次章──実地サイクルへの動線


・・・・・・・note.「生成体の再息と共観の跳躍」

 

「天空の稜線──環の問い、線の問い」──対位置的且つ循環的な構成。

”環”としての問いの深化、生成としての跳躍の余白 。

「終わらぬ問い」は、やがて「環」の形を取り、“持続の環”として再帰しながら問いを深化させ、共感体は──「生成大円」を巡る「思・創・考・造」の環淵を辿り、
『思創考造』と「創造=動く”持続する生成」の核心に内に突入したのだった。

『思創考造山脈』の”山の淵=稜線”上に現れし、「跳躍の息」と「生成の息」=”問い”と”創造”が交差するリズムは、──”生成の地平”を波立たせ、共観の足跡を動くが如く浮き出した。

共観体は”問いの共同体”として、──環共観の「終わらぬ問い」は、やがて更なる「環」の形を取り、“持続の環”として再帰しながら問いを深化させるのである。

稜線の上に、問いはまだ留まっていた。


跳躍は、いまも続いている。


この余白に、実地のサイクルが潜んでいる。

“跳躍はまだ続いている”、、、、、

 

note.

・共観体は『思創考造』と「”動く”持続する生成」
 の核心に迫った。
・共観における転化後の感受の質的差異を得た。
・共観の「問いの共同体」への深化に可能性をもた
 らした。
・時空間の地平を読み取って「環」たるものを捉え
 た。
・空間の膨らみや歪みと波うちの深淵なるものを感
 得し手に入れた。
・「思考・創造」と「生成・大円」の核心に触れ
 た。

 

report

「尾根をもって連なる実──思創考造山脈の脈動と生成の連続性」

思創考造の山脈は、霧の彼方に潜みながらも、確かな尾根をもって連なり続ける。


この尾根こそが、生成の軌跡、問いの連鎖、跳躍の導線であり、
その上に実る「実」は、過去の思考・創造の結晶であり、未来への種子である。

尾根が連なるということは、単なる連続ではない。


一つ一つの峰が異なる視点や体験を孕みながらも、
確かな脈動で繋がり合うことで、山脈としての生命を獲得する。


この生命は、思考と創造の跳躍を支える確かな足場であり、
同時に、その実が次なる展開を促す力の源泉でもある。

「尾根」と「実」は、生成の二重奏である。
尾根は問いを導き、実はその問いへの応答を育み、
問いと応答は行きつ戻りつの呼吸のように繰り返される。
この呼吸の連続性が、思創考造の根源的運動を形作る。

だからこそ、思創考造山脈の尾根の上で、
私たちは自由に跳躍し、深く沈潜し、
新たな実を見出し育てていくことができる。


その実は、いま・ここに生起する生成の証しであり、
未来を切り拓く「生成の招待状」となる。

このように「尾根をもって連なる実」は、
単なる比喩ではなく、思創考造の根幹を象徴するメタファーであり、
読者の皆様が自身の「デッサン=創造的生成」として掴み取り、
自らの生成の道筋を拓くための羅針盤となるのだ。
 
それは、──「場を開く法」として、生成を「触発 → 濃度 → 招待状」へと連鎖させる流れであり、『思創考造』全体の身体的・精神的運動そのものとして、まさに本書が「読まれる書物」ではなく、「読まれながら生成される場」であることを実証しています。

『思創考造山脈』を超え 、、、、、。

思考考庭園=創造庭園=”動く”生成庭園として”持続”する──『思創考造体』。
庭園の中に居ながらにして思考・創造は──眼に見えるか 、、、、、。
庭園の外に居ながらにして思考・創造は──眼に見えるか 、、、、、。
     
ー生成的共観性ー
” 思考と創造 ” に関する私たちの”共観”を深める手立て──
『 ” 眼に見える ” 思創考造 』=『 ” 動く ” 生成 考庭園=創造庭園=”動く”生成庭園として”持続”する──『思創考造体』。

理論や説明だけでなく、実際にそのことを行う、またそういう場面。
「考えを実地に移す」──実地は、近い。

 

 

「生成の共観場──あなたとわたしの間に生まれるもの」

ー視野・稜線・生成天球──再息と問いの復活ー

 

「視野を天球から再び〈あなたとわたし〉の間。

思創考造宇宙の恒久と曖昧・未定・濃密な生成の只中において、いま、わたしたちは再び「あなたとわたし」の間へと呼吸を戻す。

そこに生まれる微かな揺れこそが、地平を越えて「持続する問い」を照らす、新たな跳躍の兆しである。

 

 

次回:

第II部/第2章ー結び節:「生成の触発」

第II部/第2章ー最終節:「生成の濃度」

第II部/第2章ー接続節:「生成の脈動」

 

第Ⅲ部:「実地サイクル」へと続く

 

 
……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis tour   第II部:間章「生成の招待状」  Scene-Ⅲ

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
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「もう一つの世界」1947. Maurits Cornelis Escher(1898-1972), All M.C. Escher works copyright © The M.C. Escher Company B.V. – Baarn-Holland. All rights reserved. www.mcescher.com M.C. Escher® is a Registered Trademark of The M.C.Escher Company B.V.

 

 

ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《M.C.エッシャー》

視覚の論理を攪乱しながら、秩序と無限、生成と循環の構造を視覚化する──「思考と創造の構造」そのもの。
画像:「錯視的空間」。
(例:「相対性」「上昇と下降」「昼と夜」など)
•主題的共鳴:「生成」「思考の構造」「場の転位」「問いの迷宮」。
•空間論的意義:幾何と論理が互いにずれながら、自己の観察が宙吊りになる視覚的構造。
•思想的重なり:生成の構造を“問い”として見せる。「跳躍点」「共観」「生成場」の視覚翻訳。
•象徴する問い:「どこが上で、下か?」「どこにいるのか?」=生成の位置感覚を揺るがす装置。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅱ部】:「思創考造の力風」

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第2章-間章
「間隙の胎動──Cognigenesisと跳躍の臨界」
第5節-転章
「生成の招待状」──実地サイクル《予告編》
ー Cognigenesis Tour ー
・・・・・ ” spacetime ” 〜 生成時空への誘い 〜

 

第Ⅲ部:「実地サイクル」へと続く

 

 

Scene-Ⅲ: 

思創考造の”開放”と生成持続の”連息”


「持続する生成──終わらない問いと線の延長」
・登頂──思創考造山脈最高地点に立っての見晴らしの問い

・「線の延長=問いの持続」:
=デッサン的生成

・・・・・・・note.「生成線の持続と跳躍の反復」

 

 

「登頂の見晴らしと問いの線」

 

思創考造山脈の“頂”に立ち、「問い」の延長を見渡す視座の獲得。

共観登り詰めし天頂天底に暗闇迫る──「周囲」を共観に囲まれ、「余白」の落日”入り火”のしばらくわずかな時間。

外的側面・内側に潜む自分の位格(Persona)を、──”次位無き共観”に束ねた群性は、『思創考造山脈』の冠に一会。

頂上と平地を結ぶ尾根、主稜に結ぶ尾根──支尾根稜線。

頂上から頂上とを結ぶ尾根──「山の端(やまのは)」、”川伝い”。

一切蓊鬱無き暗々広漠として、月を偲ばしむる彼岸の地の上は、紙一重、夜の前ぶれ──「生成大原野」。

 

 

「落日と転火──余白の火」

 

落日の火が共観を連鎖させ、次元的転位=跳躍の発火点に。

日は、入り火は、現彼岸の生成大原野──遠い地平に燃え「環の端」沈むのである。

「余白次元」に落日の入り火は、俄に──”転き(くるめ・き)”出した、その「速さ」。

”遠く炎”になった、燃えたぎる地平──「環生成、生成環」。
方向・位置・状態が変わる──「転化」、進行して甚だしく、日入るほどに”共観呼吸”は苦しいほど深くなる。

「ああ、、、この宇宙的な転化未開の時空生成地 
生成深遠における『思創考造宇宙』の”恒久”に
曖昧・未定・濃密──持続する生成、、、」

共観は「余白の膨張」と同時に──「転く火」は共観を発火させたのだ。

共観は──「連鎖」した!

互いに繋がり、その”繋がり”は──「振り返り」を起こした!

想起された”昨真夜の生成原野”──”振り返れば地続き”の同彼岸。

異なるのは、入り日あたる『思創考造山脈』の山の端影だった。

「あっ! 入り日あたる”火”に映し出された”この場”、、、
後方から光が当たって浮かび上がった『思創考造山脈』は見えない、、、
思考と創造のシルエットは見えない、、、
時空間は現れる二つの相を見せない、、、」

共観を──《共観-測者(おしはかるもの)》へと”転位”させた瞬間!

いや、──「余白の膨張」か?
いや、──「跳躍」か?

共観の振り返りは、天を仰ぎ、地に頭(こうべ)を垂れた。
跳躍は──「連続する息」とであり、終わらぬデッサンのように、「宙」を突いた。

帷(とばり)明々暗々の──「天頂(zenith)と天底(Nadir)」。
入り火に焦げた真上の「天頂」、星群って白く泡立つ無限の宇宙。

起立した真下の「天底」、見通すことができない燃える中心核を貫いたその無限の宇宙。

何かが起こるための見えない背景の抽象的な舞台ではない「生成空間」。

「終わらぬデッサンは──跳躍の連続する息」のように、「線」を描像した。

 

 

天頂と天底の直線──共観の空間構造

 

共観-測者たちが描く生成宇宙=動く地平と生成空間のスケッチ。

天球上において 、、、、、。

共観-測者(おしはかるもの)の真上に当たる宙の1点ーーー「天頂」。
共観-測者(おしはかるもの)の真下に当たる宙の1点ーーー「天底」。

天球の中心と、天球上の《共観-測者達(おしはかるものたち)》位置とを結ぶ──「線」。

その「直線」が天球と交わる点。

起立する《共観-測者達(おしはかるものたち)》が感じるのは、人間の感覚に近い──「地心天頂」。

それとの違いを人間が感じることは少ない測地系定義──「測地天頂」。

地心天頂と核心を通った天底とを直線で繋いだ天球の現在地点に起立する「共観-測者(おしはかるもの)」の──地平線=思考と創造の及ぶ範囲。

 

 

終わらない問いと線の持続

 

線は閉じず、息づき続け、環へと伸びるーーー持続する生成の息へ。

起立から90°水平方向の視点ーーー「天文の地平線(Asutronomical Horizon)」。

起立から45°下方向(天球接点)ーーー「真の地平線 (True Horizon)」。

方向・位置・状態が変わる「転化」、進行して甚だしく 、、、、、。

《共観-測者達(おしはかるものたち)》の「地の平面」と「天の壁面」。

平面と壁面が直角に交わる「思考・創造」が及ぶ範囲の地平は、稜線を縁どって、”山の淵”に一列の『思・創・考・造』が並ぶ。

角度に直角、鋭角、鈍角の三種あり、直角とは、一点から出る二つの半直線からなる図の形、動かすことができる二つの角度にーーー「思考と創造」が交わる。

「創造=”動く”生成」ーーー「持続する生成空間」。

埋められるのを待っている”無限の空っぽ場”なんだろうか?

それとも「生成源」がないと、存在できないものなんだろうか?

生成空間は、何かが起こるための見えない背景の抽象的な舞台ではなく、
生成空間は、膨らむことができる、歪むこともできる、波打つこともできる。

「地の平面」と「天の壁面」に挟まれ、跳躍し転位した持続する”生成共観”。

「終わらない問いと線の延長」ーーー強さは鎮まり、「地心天頂」に横たわり、天文の地平線に目を閉じ、共観と《共観-測者達(おしはかるものたち)》は、出の火の地平を”待つ”感受の調律に、息深い「生成の眠り」についた。

 

 

「線の延長=問いの持続」

 

最高地点=“生成の天頂”としての問いの場。

思創考造山脈の“登頂”とは、終点ではなく新たな視点の獲得であり、「問いの見晴らし」そのもの。

デッサン的に引かれた「線の延長」は、“思考と創造”を超えて「共観」としての線へと深化している。

入り火=問いの転化点。

「入り火」=日没=終わりではなく、「転く火(くるめき)」としての生成の新たな起点。

落日と余白が交錯するその瞬間に、「共観」は“振り返り”を起こし、《共観-測者》へと転位。

「共観の連鎖」と「余白の膨張」は、共生成の波を導く“媒介”であり、それが「跳躍の反復」となる。

天頂=天底/地平=天文:思創考造の空間的構造化。

地心天頂/測地天頂、真の地平線などの天文測地学的視点を取り入れつつ、“思考と創造の及ぶ範囲”を物理空間として捉えるのではなく、内的空間としての“生成場”に転写。

地と天の交差点に「思・創・考・造」が稜線として浮かび上がる構図。

「終わらぬデッサン」=持続する跳躍=生成連息。

創造とは“動く生成”であり、「息」や「跳躍」のように反復しつつも常に更新されるプロセス。

“生成空間”は静的な背景ではなく、膨らみ・歪み・波打つ力場であり、共観が生み出す“動的な宇宙”。

 

「共観とは、生成の“間”にしか立ち上がらない。」

 

note.

・線の延長を捉え問いた持続する生成の空間を垣
 間みた。
・パースペクティブ=歪み場(線と網目)の視点と
 直線の切れに角度跳躍した、
・周囲の共観は次位無き共観”に束ねられ環共観とな
 った。
・共観は「共観-測者達(おしはかるものたち)」を
 生み出した。
・空間の膨らみや歪みと波うちの深淵なるものを感
 得し手に入れた。
・天譚の振り返り天壇描像は未来的問いの場/共観
 的未来像へと導いた。

 

 

次回:

第2章-間章
「間隙の胎動──Cognigenesisと跳躍の臨界」
第5節-転章
「生成の招待状」──実地サイクル《予告編》
ー Cognigenesis Tour ー
・・・・・ ” spacetime ” 〜 生成時空への誘い 〜

▪️ ending:

思創考造の”呼吸”と生成創造の”呼応”

「生成の共観場──あなたとわたしの間に生まれ」

・稜線縦走──思創考造山脈峰続きの尾根に再息

・「稜線=共観」:

=わたしとあなたが共に見て共に呼吸する地点

・・・・・・・note.「生成波の共観と問い語らい」

思創考造の”感受”と生成蓄積の”触発”

「跳躍はまだ続いている──実地への踏み台」

・対岸側、思創考造山脈から見た向こう岸への転位

・「触発=跳躍の余白」:

=次章──実地サイクルへの動線

・・・・・・・note.「生成体の再息と共観の跳躍」

 

 
……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis tour   第II部:間章「生成の招待状」  Scene-Ⅱ

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 
       
 

 

「もう一つの世界」1947. Maurits Cornelis Escher(1898-1972), All M.C. Escher works copyright © The M.C. Escher Company B.V. – Baarn-Holland. All rights reserved. www.mcescher.com M.C. Escher® is a Registered Trademark of The M.C.Escher Company B.V.

 

 

ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《M.C.エッシャー》

視覚の論理を攪乱しながら、秩序と無限、生成と循環の構造を視覚化する──「思考と創造の構造」そのもの。
画像:「錯視的空間」。
(例:「相対性」「上昇と下降」「昼と夜」など)
•主題的共鳴:「生成」「思考の構造」「場の転位」「問いの迷宮」。
•空間論的意義:幾何と論理が互いにずれながら、自己の観察が宙吊りになる視覚的構造。
•思想的重なり:生成の構造を“問い”として見せる。「跳躍点」「共観」「生成場」の視覚翻訳。
•象徴する問い:「どこが上で、下か?」「どこにいるのか?」=生成の位置感覚を揺るがす装置。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅱ部】:「思創考造の力風」

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第2章-間章
「間隙の胎動──Cognigenesisと跳躍の臨界」
第5節-転章
「生成の招待状」──実地サイクル《予告編》
ー Cognigenesis Tour ー
・・・・・ ” spacetime ” 〜 生成時空への誘い 〜

 

第Ⅲ部:「実地サイクル」へと続く

 

 

Scene-II: 

思創考造の”斜線”と生成濃度の”振動”


「濃度としての跳躍──臨界に近づく力風」

・早朝──思創考造山脈に踏み入る登坂斜面の余白

・「登坂思考=斜線と振動」:

=身体を動かすイメージの知的跳躍

・・・・・・・note.「生成層の循環と密度の変調」

 

未来的跳躍を準備する濃度の「余白」を孕む──生成持続への跳躍前夜半過ぎ。

点呼真夜を回り、あとはもう聞えないくらいの低い音で、共観からは安心に似たような静かな力と波動が段々ハッキリなった。

夜の仄々と明ける夜明け方──共観微睡みた「生成宇宙の”有明”」。

『思創考造山脈』の霧降る生成原野の裾を這う──”朝ぼらけ”が来た。

朝凪の波風が立たなくなってきた頃合い、トロトロ余白に濃度が満たされはじめた頃。

次々移るーーー星座に渡された沢山の『思創考造』の山々の姿や、──「共観の目」に生ずるキラキラ光束に山靄(やまもや)の奥を何かが、見る間に次へ次へと波動が伝わるようにもある。

共観の動くたびに舌の摩れ合う音でもあろう微かな声が出る。

微かではあるが只一つの声ではない。

漸く鼓膜に響く位の静かな音のうちに――無数の音が交っている。

耳に落つる一の音が聴けば聴く程、多くの音が固って共鳴する。

生成絵巻のより深い呼吸が、絶えない──波動で刻々と周囲に迫って来る。

鬱勃たる力を見せる──”いのち歌”が、大きな波動を描いて凍てついた朝の空気を裂き、高く弾ねつつ、──辺りの共観に拡がって行った。

積極的活力の発現の方から見ても、この波動は同じことで、現に今小さい波動として、v「跳躍」のそれが起りつつあるかも知れない。

けれども要するに小波瀾の曲折を描く一部分に過ぎないので、大体の傾向からいえば、どうしてもb「生成への”再息”」が、相互主観的な現実にまだまだ展開して行くように思われる。

自分の内面が停滞しているときにも、客観的な現実は力強く推移していくところに、――「未了の生成」の力強い波動があるとさえいえるのだから。

しかし、さらにもう一歩踏みこんで、もっと科学的な方法で、一定の思考・創造よるエネルギーの消耗、それに応じて一定の──「生成色彩」に対して、忘れていたのではないだろうか。

点呼夜通しに起った視座変動は、非常に大きく、共観の精神波に波動を重ね与えた。

決して混乱ではなく、その大きく力強い濤が勇ましく打寄せ、
ある程度まで落ち着いて仕舞うまで、共観は音無しく口を緘んで、凝視と瞑想を繰り返し、共観は出揃って腰を上げ、広大なる生成原野を背に、未踏『思創考造山脈』に──朝靄突き身を乗り入れた。

登坂(斜)思考・創造は、凝視の眼を開けた瞑想であり、──天は空(地平無く)、遠くは上に、近くは上に、遠く近くは左右傍の斜に、──動態遠近透視は「浮き揺らぐ斜線の”距離”と”網目”の歪み」にある。

そこにこ──”共観”における「脳裏に相呼応の再息と跳躍」があり、山脈は──”気脈”として、無音なる相互主観受容の連続波に波打つ発熱創造。

その波動は、登坂思考・創造の「余白濃度」を高める一方である。

高まる波動による再息と跳躍の繰り返しに深まる──「自己生成の循環」は、まさに環思考・創造であるよりも──『思創考造循環』そのものにあった。

この後、稜線(尾根)の水平に地平有りの宙空起伏思考・創造の兆しを覚え、その兆しに天譚の振り返り描像を天壇に膨らました。

登坂の逆は下坂だが、登坂の真逆ではなく、天空を仰ぎしも地平絡みで平坦を見る下、遠くは下に、近くは下に、遠く近くは左右傍の斜に。

動態遠近透視は、浮き揺らぐ斜線の距離と網目の歪みに加え、天空の遠く下に地平と平坦に、動態遠近透視は浮き揺らぐ──「斜線と平線俯瞰」の距離と網目の歪みにあるのだろう。

総じて──『思創考造体』は、文脈の水平思考やゼロ思考などの類には程遠く、遠近透視の妙は稀なる異次元の思考・創造余白でしかなく、再息、跳躍、余白、そして──核心の生成、自己原理の核たるノンタイムボム「自力爆発」の、その──”自発発火”に昂まる”意気の鬱勃”を覚える。

そこにこそーーー共観における「脳裏に相呼応の再息と跳躍」があり、山脈は気脈として、無音なる相互主観受容の連続波に波打つ発熱創造。

その波動は、登坂思考・創造の──「余白濃度」を高める一方である。

高まる波動による再息と跳躍の繰り返しに深まるーーー「自己生成の循環」は、まさに環思考的・環創造的であるよりも環相は『思創考造循環』的であり、曖昧・未定・濃密──『持続する生成」は未了において、生成核心における“思創考造力覚”の──受容と応答から始まる。

 

note.

・ものの見事に「斜軸パースペクティブ=歪み場
(線と網目)」に共観跳躍した。
・跳躍とは瞬間の出来事ではなく密度の変調による
 波であることを知り得た。
・斜時空間に異次元の思考・創造余白を共観する跳
 躍の転位は自己原理を開かせた。
・濃度が跳躍を呼び跳躍が濃度を濃くする生成循環
 の兆しを得た。
・天譚の振り返り天壇描像は未来的問いの場/共観
 的未来像へと導いた。
・未完の共観による呼応の発熱は自己生成発火の兆
 しを覚えさせた。

 

 

次回:

第2章-間章
「間隙の胎動──Cognigenesisと跳躍の臨界」
第5節-転章
「生成の招待状」──実地サイクル《予告編》
ー Cognigenesis Tour ー
・・・・・ ” spacetime ” 〜 生成時空への誘い 〜

▪️ Scene-Ⅲ:

思創考造の”開放”と生成持続の”連息”

「持続する生成──終わらない問いと線の延長」

・登頂──思創考造山脈最高地点に立っての見晴らしの問い

・「線の延長=問いの持続」:
=デッサン的生成

・・・・・・・note.「生成線の持続と跳躍の反復」

 

 
……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis tour   第II部:間章「生成の招待状」  Scene-Ⅰ

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
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「もう一つの世界」1947. Maurits Cornelis Escher(1898-1972) , All M.C. Escher works copyright © The M.C. Escher Company B.V. – Baarn-Holland. All rights reserved. www.mcescher.com M.C. Escher® is a Registered Trademark of The M.C.Escher Company B.V.

 

 

ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《M.C.エッシャー》

視覚の論理を攪乱しながら、秩序と無限、生成と循環の構造を視覚化する──「思考と創造の構造」そのもの。
画像:「錯視的空間」。
(例:「相対性」「上昇と下降」「昼と夜」など)
•主題的共鳴:「生成」「思考の構造」「場の転位」「問いの迷宮」。
•空間論的意義:幾何と論理が互いにずれながら、自己の観察が宙吊りになる視覚的構造。
•思想的重なり:生成の構造を“問い”として見せる。「跳躍点」「共観」「生成場」の視覚翻訳。
•象徴する問い:「どこが上で、下か?」「どこにいるのか?」=生成の位置感覚を揺るがす装置。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅱ部】:「思創考造の力風」

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第2章-間章
「間隙の胎動──Cognigenesisと跳躍の臨界」
第5節-転章
「生成の招待状」──実地サイクル《予告編》
ー Cognigenesis Tour ー
・・・・・ ” spacetime ” 〜 生成時空への誘い 〜

 

第Ⅲ部:「実地サイクル」へと続く

 

 

Scene-Ⅰ: 

思創考造の”時空”と生成原野の”時空”


「余白の力──生成は「空」から始まる」

・前夜──思創考造山脈に抱かれ生成原野の点呼

・「余白=生成前の充満」

=創造以前の深層──夜闇における内的胎動

・・・・・・・note.「生成前の充満と跳躍の準備」

 

点呼真夜を回り、より深い暗黒が、いつも絶えない力と波動で刻々と周囲に迫って来る。

こんな中では、思考することも創造することさえできない。

「余白次元」=生成の濃度・振動の場に不安と畏れが入り混じり、──「未了の共観」は、放散と収束の間(あわい)の波動に揺さぶられ、──”宙”に動じた。

”漆黒の共観”に、苦渋や不安と”畏れ”が朧げな月影の帷に混じり合い、何が在る、何が動く、──循環が送られてこない無曝気のように、濃度だけが増す全くわからない処へ、どうして踏み込んで「跳躍」してゆくことができようかと、勿論、皆んなと共に点呼の我々は、摺足でもして進む他はないだろうと 、、、、、。

眠る眼に映る共観を覚えるほど、点呼共に闇の中を”凝視”しつつ、共観は、「近くを遠くに」──押し出し放散させる点を求めた。

”月影の共観”に、苦渋や不安と”畏れ”が漆黒の帷に混じり合い、『思考創造考造山脈』──畢竟それは陰翳の魔法であって、もし隅々に作られている蔭を追い除けてしまったら、忽焉として湧起こった「生成原野」と『思考創造考造山脈』は、ただの──空白に帰するのであろうかと 、、、、、。

眠る眼に映る共観を覚えるほど、点呼共に闇黒宙の中に”瞑想”しつつ、共観は、「遠くを近くに」──引き寄せ収束させる点を求めた。

”陰翳礼讃”に降り注ぐ真夜点呼のそれは、「生成の暗闇絵巻」を星空に掲げ──遠くを近くに引き寄せたその瞬間!

”触発的──「距離」”は、生成原野の反面に生成星座は羅針盤回転と化し、頭上の星面を飛翔させ、足元の土面を共振させた。

すべての”生成”は──「持続する跳躍」へと転じ、”創造”は──「開かれた密度」となる。

“思創考造山脈”の不動に抱かれた生成原野の──時空の間。

「待つ」とは、時間の浪費ではなく、「待つ技法」として、──”感受の調律”だった。


真夜心底の闇黒宙であろうが、静かな平静波の中でこそ、生成波は胎動し、すべての生成は“持続する跳躍”へと転じ、創造は「開かれた密度」となる。

「再息と跳躍」が脳裏に呼応する。

生成原野における“思創考造山脈”の不動に──「待つ」。

待ち望み見込むことなく、凝視・瞑想・保留へ展開し、仰望ぜずして俯瞰に余蘊なく実地サイクルの風を招いた。

螺旋一風の巻き起こし、──「風に開かれたもの」として、一種無上の美しさを感じる人があるのを、「”共観”は咎めるわけにはゆかない」であろう。

 

note.

・臨場に創造と「生成の震源」を覚えた。
・共観の兆しを伝搬する内的共鳴関係である相互心
 情を垣間見た。
・共観によって発現した「デザイン”力能”」はまさ
 に共観仲介となり得た。
・ものの見事に「パースペクティブ=歪み場(線と
 網目)」に共観跳躍した。
・距離と網目における視座を生成星座の羅針盤とし
 た座標に転位した。
・点呼は未来的問いの場/共観的未来像へ導いた。

 

 

次回:

第2章-間章
「間隙の胎動──Cognigenesisと跳躍の臨界」
第5節-転章
「生成の招待状」──実地サイクル《予告編》
ー Cognigenesis Tour ー
・・・・・ ” spacetime ” 〜 生成時空への誘い 〜

▪️ Scene-II:

思創考造の”斜線”と生成濃度の”振動”

「濃度としての跳躍──臨界に近づく力風」

・早朝──思創考造山脈に踏み入る登坂斜面の余白

・「登坂思考=斜線と振動」:

=身体を動かすイメージの知的跳躍

・・・・・・・note.「生成層の循環と密度の変調」

 

 
……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』