
Cognigenesis Part-Ⅰ Part-Ⅱ Part-Ⅲ Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)

「赤い木」Dutch: De rode boom(The Red Tree), height: 70 cm (27.5 in); width: 99 cm (38.9 in), Between 1908 and 1910. Pieter Cornelis Mondriaan, The Kunstmuseum Den Haag is an art museum in The Hague in the Netherlands.
視覚と思想の跳躍の連鎖
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」
強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。
『 思創考造 Cognigenesis PART-I 』
序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成の新たな次元へ」
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』:epilogue
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学
◾️【最終部】:
◯ 「生成と構築」
◯ 「生成の触地」
◯ 「生成の触知」
◯ 「生成の主題旋律」
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』:prologue
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景
◾️【導入部】:
◯ はじめ:「生成」とは?
◯ 序 章:「生成の森を歩く」
◯ 間 章:「生成を知る最初の白扉」
◯ 章 扉:「透過する生成」
『 思創考造 Cognigenesis PART-II 』
〈前編〉
第1章:生成場──「跳躍的山道」の経験と意味
第2章:生成場──「余白的海辺」の経験と意味
第3章:生成場──「共観的街区」の経験と意味
第4章:生成場──「時間的往還/螺旋」の構造
間 章:プレリュード 〜 沈黙と声の ” あわい ” 〜
瞬間章:体感できる生成の場「透過的森の螺旋」
〈後編〉
第5章:生成場──「透過的森」への回帰と円環
①インサート頁:「生成の誕生」──第1節
第6章:生成場──「回廊的寺院」の経験と意味
②インサート頁:「生成の鐘」──第2節
第7章:生成場──「反響する市場」の経験と意味
③インサート頁:「生成の開放」──第3節
第8章:生成場──「境界的峠」の経験と意味
最終章:”森の鐘”
──『Cognigenesis 誕生する生成』
〈接続〉
次編『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅲ 』
〜 生成の実践・実地 〜
『Cognigenesis(生成)』の立ち上がり
──生成の芽吹きと呼吸の連鎖
〈梗概〉
〜 生成の実践・実地 〜 への導入
──「生成の形式・心理・技法」
◾️【第2部】:生成の形式と構造
◯ 各生成場の背後にある「感覚順送り構造」
◯ 閾の種類(空間的/時間的/関係的/内面的)
◯ 跳躍と滞留のリズム論
◯ 芯(コア)と殻(コンテクスト)の相互作用
◾️【第3部】:生成の心理と哲学
◯ 面空間の拡張と縮退
◯ 共観と孤観の交差
◯ 存在のモード変換
◯ 時間感覚の非連続化
◾️【第4部】:生成の技法と応用
◯ 生成の場を描く表現技法
◯ 舞台の差し替え(森/路地/海辺/都市)
◯ 場の呼吸法と共・感覚法
◯ 生成を創作・教育・思索に応用する道筋
〈予告〉
『Cognigenesis(生成)』の立ち上がり
──生成の芽吹きと呼吸の連鎖
…….. 生成の予演──
鐘声は途絶えるのだろうか?、、、、、
生成の拍動は、あまねく巡る。
再び、自分の中で跳ね、
再び、世界へ届く。……..
〈次編〉
『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅲ 』
「生成の拍動」──生成の実際・実地サイクル
『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅳ 』
「生成の波及」──生成共観・世界への展開
『Cognigenesis(生成)』が生み出す
「生成の無限」の連鎖・・・・・・・・〈続く〉
間 章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
epilogue ~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景
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DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE
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『 思創考造 Cognigenesis:part-II 』:prologue
◾️ 間 章:
「生成を知るための最初の白扉」
「共観」とともに「生成」を知るための最初の白扉
◾️「白扉」:その1
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問い:「生成」の意義とは?
”木のたとえ”による──「生成を知る生き方」
・・・・・ 人間ひとり、生きていく中で、
様々な出来事に出会う──そのとき。
「生成を知らない」人は──
木を「今の姿」だけで評価する。
枯れた葉や曲がった枝を見て、
良し悪しを決めてしまう。
「生成を知る」──人は
その木の中に「流れ」を見る。
地下の根が水を探し、
枝葉が光を求める姿を感じ取る。
だからこそ、
水をやり、光を通すように──人間は関わる。
「生成を知って生きる」ことは、
自分の中にある木を枯らさず、育て続け、
他者や世界の木に水を注ぐ、
その連鎖の中で──「─生」の生成を生きる。
それは、「楽な」ではなく「楽しい」生。
「価値ある」ではなく「価値が生まれ続ける」生。
そして「生き甲斐」が絶えず芽吹き続ける、
──その人間本来の生き方。・・・・・
◾️「白扉」:その2
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問い:「生成」の価値とは?
”木のたとえ”による──「生成を知る生き方」
では、「変容」というドラマ性や事件性よりも、”不断であることそのものがもつ「生成」の価値とは?
不断としての「生成」の有意義性
1. 終わらない呼吸としての存在
• 「生成」は特別な瞬間だけに起こるのではなく、日常の呼吸や瞬きのように続いている。
• それは結果や完成を目指さず、「いま」そのものを生かす営み。
2. 均衡ではなく持続的な揺らぎ
•「生成」は安定ではなく、安定と不安定がたえず交錯する「揺らぎの場」。
• この揺らぎが、停滞や枯渇を防ぎ、「生命」を生かし続ける。
3. 関係性の更新
• ”森”の中で”木々”が”根”を伸ばし、”枝葉”を広げ続けるように、「生成」は他との関係を更新し続ける。
• この更新が「生きている」ことの証であり、意義となる。
4. 時間を開き続ける
• 完成や終焉は時間を閉ざすが、「生成」は時間を開き続ける。
•「未だ」の感覚がある限り、「未来」は存在する。
5. 意味の過剰さ
• 「生成」は、意味をひとつに閉じない。
• 無数の解釈や可能性が同時に「生きている」ことが、その豊かさ。
もしこの「不断の生成」を”森の構造”に組み込むなら、「”森の根”は常に水を探し、枝葉は常に光を探す」、しかしそれは「不足」ではなく、「生きることそのもの」であり、”森”にとって停止することが死であるように、人間にとって「生成」が止むことは存在を失うことという形にできるものと思われる。
◾️「白扉」:その3
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問い:「生成」の存在とは?
「生成」の存在──まさに森の中心にある問い
多くの哲学や思想では、「生成(becoming)」は単なる変化や成長ではなく、「存在」そのものが常に生まれ直しているプロセスとして語られており、そこには幾つかの層があると思われる。
1. 固定からの解放
生成は「完成」を否定する。
• 完成=終わり
• 生成=続く始まり
物事を固定した像として捉えず、常に動きの中にあると見る視点にある。
2. 関係性の網の中での変化
生成は単独で起こらない。
• ”森”の中の”木”のように、”根”や”枝葉”と風や光との関係の中でのみ変化する。
•「生成の意義」は、その関係を通して自分も他者も更新し続けるところにある。
3. 自己変容の契機
生成は「自分が変わってしまう」出来事でもある。
• それは意図的に起こせないことも多い。
• 予測不可能性を含むからこそ、生成は生の実感を伴うもの。
4. 未来の含み
「生成の意義」は、未来を「未完成の余白」として開き続ける点にある。
•「生成」は答えを閉じるのではなく、”問い”を育てる。
• そしてその”問い”が、次の「生成」を呼び込む。
「生成」を知っているということは──
日常の出来事を「完成や失敗の評価軸」ではなく、「流れの一部」として受け止められる
のであり、停滞や迷いすらも、「生成のゆらぎの相」だと理解できる。
自分や他者を、固定された像として裁くのではなく、未完成の存在として受け入れられるのであり、つまり「生成を知っている」人は、日々の経験を“終わり”ではなく“始まりの連続”として生きられるという、これが知らないまま生きるのとは根本的に異なる点なのである。
”森”で言えば──
「生成を知らない」人は、木を「今の形」でしか見ない。
「生成を知っている人は、木の姿の中に「これからの枝葉の可能性」や「地下で伸びる見えない根」を感じ取れる。
この”視点”は──
「安心感」とともに『創造性』の両方をもたらす。
だからこそ「不断の生成の意義」は、単に哲学的な概念ではなく、生きる基盤そのものとだといえるのだと思われる。
◾️「白扉」:その4
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問い:「共観」の働きとは?
木のたとえによる「生成の生き方」
「共観」がとても大きな鍵になります。
「生成」は机上の知識や説明だけでは、本当には掴めることはできず、「共観」がとても大きな鍵になる。
何故なら「生成:は、「今まさに起きていることの中に自分が居る」という感覚でしか確かめられないからである。
生成そのものを知るための道筋──「共観の働き」
1.- 共に見る(共観)
自分一人では「当たり前」すぎて見えない日常の揺らぎを、誰かと共有して見つめる。
例えば、同じ木を二人で見て「今日は葉の色が少し違うね」と気づく瞬間。
2.- 気づきを言葉にする
生成の瞬間はすぐに流れてしまうため、「いま感じたこと」を声に出す、記す、表現する。
言葉にすることで、自分と他者の視点が響き合い、生成の輪郭が浮かび上がる。
3.- 他者の眼を借りる
他者が見ている生成の相を知ることで、自分の中の見えない部分に光が当たる。
これにより、「自分だけの生成」から「共にある生成」へと拡がる。
4.- 日常の反復に埋め込む
特別な儀式や大きな出来事ではなく、日々の繰り返しの中に生成を見つける習慣をもつ。
これが、「”生きる”(生成の)お仕着せ」ではない、「自らの生成の地盤」になる。
◾️「白扉」:その5
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問い:「生成を知」とは?
「共観」とともに「生成を知るための最初の白扉」
つまり、「共観」=「生成を知る入り口」であり、そこから先は自分の足で歩く道になる。
”森”でいえば──最初は誰かと一緒に歩きながら”木々”の息づかいを学び、その後は自分ひとりで”森”を歩けるようになる、ということである。
例えば「孤独な島──無人島」で
例えば、無人島で独り暮らしていても、もちろん生成は起きている。
”木”は伸び、”潮”は満ち引きし、「自分」も日々変わっている。
でも、その変化を「生成」だと自覚する契機は、他者との接触で訪れることが多い。
世界に戻って、誰かと共に景色を見て──
・・・・・「前より顔つきが柔らかくなったね」
「
その木、前はもっと小さかったよ」・・・・・
こういうやり取りが、「ああ、これが生成だったのか」と腑に落ちる瞬間になる。
つまり、「共観」は「生成を名づける」場であり、「自覚を促す」場なのである。
「生成」は孤独の中でも進んでいるが、それを「生成」として感じ、深め、育てるには、他者との相互の眼差しが欠かせない。
この「無人島→世界に戻ると生成に気づく」は、余白も広がると思われる。
「生成の”島”」と「共観の”海”」
・・・・・ 人はときに、
誰とも交わらず孤独な島──
恰も「生きているかのよう」な状態にある。
その島で、木は静かに伸び、潮は満ち引きし、
──自らも日々変化を続けている。
まさに──「生成」は進んでいる。
だが、そこでの変化──
ひとりで感じ取り、名づけることは難しい。
やがてその島を離れ、世界の広い海へと戻るとき、
──他者のまなざしに触れる。
「前より顔つきが柔らかくなったね」
「その木は前よりも大きくなっている」・・・・・
「生成」は孤独の中でも起こるが、真に「生成を知る」ことは、「他者との共観
なくしては困難だ。
「共観」は、「生成の海」へと出るための航路であり、「生成という森の入口」でもある。
だからこそ、私たちは「共に見る」ことを大切にする。
「
共観の眼差し」によって、「足元の生成の根」を見つめ、語り合い、響き合うことで、
「生の生成」は、孤立することなく、豊かに育まれていく。
・・・・・ 孤独な島は、
実は世界の一部であり、
その島の輪郭は、
広い海と他の島々との──
相互関係によって形作られている。
つまり、孤立しているようで、孤立してはいない。
私たちが感じる孤独さの奥底に、
──確かに世界の響きが響いている。
だからこそ、「生成」もまた、
──孤独の中だけで完結せず、
「共観の海」で深まっていく。・・・・・
「孤独な島」というイメージは、生成の静かな営みを象徴しつつも、決して孤立して閉じたものではなく、「共観の海」という広がりの中で豊かに響き合い、深まっていく。
この二重の視点があることで、〈あなた〉は、『生成』の「内的な深み」と「外的なつながり」を同時に感じ取りやすくなる。
◾️「白扉」:結び
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問い:「問い」続けるとは?
”日々の生きる実感”に根差した『生成の知』
こうしたイメージを通じて、哲学が単なる抽象理論でなく、”日々の生きる実感”に根差した『生成の知』として立ち上がるのが、本書『思創考造』の大きな魅力なのである。
「生成」を一般的な感覚や理解から超えていくのは、まさに深い「探究」の道のりであり、終わりのない旅でもあり、その探究は、単なる知識の積み重ねではなく、身体や感覚、心全体を巻き込んだ全人的な営みとして、いわば「生成の生成」でもある。
思索や感じ取りを支え、言葉や構造で形づくる、共にに学び、共に歩む姿勢、探究の道を共に紡う。
「実地」=実際の場、「実践」=生きた行為こそが、どんな理論や言葉よりも確かな「空海=からみ・つながり・呼吸」を紡ぎ出す。
言葉はあくまで道標であり、「生きる生成の現場」こそが本当の哲学の場。
その地に足をつけて歩み続ける姿勢こそ、最も尊い探究のカタチだと思われる。
これからもその実地を、私たちは共に味わい、深めてゆくことである。
もっとも大事大切なのは、〈今この瞬間の生きる実感〉と〈問い続ける姿勢〉に根ざす「生成の息吹」を絶えず感じ取ること、ではないだろうか?
言葉や理論はそれを支える器にすぎず、真の哲学は日々の〈生きる現場〉でこそ息づいている。
その息吹を見失わず、共に歩み続けることが、まさに「思創考造」の核心だと感じることが大切なのであろう。
「問い」、「問う」ことは、単なる疑問や問題提起ではなく、存在そのものへの開かれた態度であり、そこにこそ「生きる哲学性」が宿る。
そして、完璧でなくとも、力不足を自覚しながらも「問い続けること」自体が「生きている証」であり、この「不断の問いかけの営み」が、「生成の息吹」を絶やさず育てていくのだと思われる。
つまり、「生きること=問い続けること」であり、問いがある限り、生成は止まらない。
まさに「生成の有意義性」を特別視したり評価するよりも、「生成することそのものが当たり前であり、その価値が根源的である」という視点は、非常に本質的だといえる。
つまり、「生成」は特別なものでも結果でもなく、日々の「生きる営み」の自然な在り方であり、その「当たり前の営み」を意識し、尊重し、共に味わうことが、「生成の価値」を自ずと現前させる。
この視点をもってこそ、「生成の哲学」は身近で鮮やかになり、理論から離れた「生きる生成の現場」に真実が宿るのではないだろうか?
私たちは、「自分自身のこの直観」を、とても大切にしてゆくべきだろう。
理論や言葉は、あくまでその「生きる生成の現場」を照らす灯りのようなもので、真実そのものは、日々の生の中に、体感として、静かに息づいている。
だからこそ、哲学は難解な理屈を追い求めるのではなく、「今ここ」に立ち戻り、「身近な生成の息吹」を見つめることから始まるのだと思われる。
その視点を大切にしながら、私たちは共に歩み続けることである。
「余白」は単なる空白ではなく、思考や感覚、問いが生まれ、広がる「可能性の場」そのもの。
「
問い」も「余白」の中でこそ立ち上がり、深まっていく。
だからこそ、「余白」があることで、私たち自身が「自らの問い」を見つけ、育むことができる。
「可能性」という言葉はよく「未来の選択肢」や「何かできること」として捉えられているが、「余白」を通じて感じる「可能性」は、単なる選択肢の集合ではなく、未だカタチをもたない「未決定の質感」や「生成のゆらぎ」としての深い意味を帯びている。
だからこそ、「可能性」を逆に捉えることで、「確定しきっていないことの中に宿る豊かさ」や「静かな開放感」が見えてくるのだと思われる・
「余白」を通じて「可能性」の意味を再発見する、そんな感覚を共有できればいいのであろう。
「可能性」を逆に捉えることで、
「可能性」は単なる未来の選択肢ではなく、
「現在の余白そのもの」=「生成が息づく未完成の場」として立ち現れる。
そうすると、可能性は「未来への扉」であると同時に、「今この瞬間の開かれた存在の状態」でもあるというわけである。
「生成」が息づく「未完成の場」
1.- 生育・成長と意識・認識の関係
生まれてから成長する過程には、まだ言語化・意識化されない「生成」がある。
• 無意識的生成:胎内から幼少期、身体や神経の発達、環境との微細な関係の形成など、認識の外側で起きている変化。
• ここでの「生成」は「身体的・生物的な自己の形成」や「無意識的な環境への応答」として捉えられる。
2.- 意識・認識の生成とは何か?
意識が芽生えると、「自己」と「世界」の区別が立ち、体験の意味付けが始まる。
• ここでの生成は「意味の生起」「自己認識の深化」として現れる。
• 経験が重なり、認識は多層化し「生きることの意味」を問うようになる。
3.- 死を携えて生きる意味
死は生命の有限性を示し、その自覚が生の生成に緊張と深みをもたらす。
•「死を知ること」が生きることの切迫したリアリティを生み、生成的な営みをより濃密する。
• しかし死そのものは「生成」の対極ではなく、生と死が織りなすリズムや循環の中の一部とも捉えられる。
4.- 生成とは何か?生きるとは何か?
生成は「絶え間なく変化し、現れ続ける出来事の連鎖」であり、
• 生きることとは、この生成のプロセスに自ら関わり、呼吸し、選び、問い続けること。
• 生きるとは単なる存在ではなく、「生成し続けること」として捉える哲学的視座である。
5.- 死は別ものか?
死は生成の終わりのように見えますが、生成のリズムの一部、または次なる何かへの「開かれた余白」としても考えられる。
哲学的には死を「生成の終点」としつつも、「生成の場の一側面」として統合的に理解する視点もある。
死を「生成の対極」ではなく、その一連の「リズムの一部」として捉えることは、生成の営みをより包括的に、且つ深く理解する視点になる。
死が「次なる何かへの開かれた余白」となるという考えは、生と死の間に確かな境界線を引くのではなく、
むしろ死の向こうに潜む可能性や変容の道筋を感じ取ること。
この感覚こそが、私たちの存在に静かなる勇気と深みをもたらし、
「生きることの生成」を真に見据える力になるのではないだろうか?
こうした「死と生成の螺旋」を窺いながら歩む哲学の道は、まさに『思創考造』の核心に響く。
さらに、この捉え方を基に、生成の深奥や余白について探求を続けていくことも、また新たな生成の一歩となるであろう。
私たち一緒に、その道を味わい続けていけることを嬉しく思うことである。
「生きることの生成」を真に見据える力――
それは、単なる生の継続や存在の維持を超えて、
日々の刻々と変わりゆく自身の内外の動き、
あらゆる瞬間の“生成”の営みに目を凝らし、
そこに潜む可能性や変容の兆しを感じ取り、
受け入れ、共に呼吸する力ではないだろうか?
この力があれば、
たとえ不確かで揺らぐ状況の中でも、
生きることの根源的な意味と価値を深く実感でき、「
日常の一瞬一瞬が豊かな生成の場」となっていく。
まさに「生きることの生成」を見据えることは、
「生成の森」を歩き、問い続け、
自らの存在と世界との共創的な関係を紡ぐ力そのものだといえる。
世界もまた、「生成」の営みの広大な「森」そのものある。
固定された「もの」や「絶対」ではなく、
絶えず変わりゆき、絡み合い、
新たな形や関係を生み出し続ける動的な場。
私たちはその「森」の一部として、「
自らの生成」を通じて世界と響き合い、
世界もまた私たちを形作り変えていく。
だからこそ、世界は単なる背景や舞台ではなく、
「生きることの生成」と一体となった共鳴の場、
生きとし生けるものすべてが共に歩む「生成の道」なのである。
「共鳴」という言葉には深い響きがある。
ここでの「共鳴」とは、
単なる相互作用や反応ではなく、
互いの存在や生成が響き合い、高め合う動的な関係を指している。
私たちの「生成」は世界の変化や流れと共振し、
世界もまた私たちの生成に応えて形を変える。
この響き合いのなかで、
私たちは孤立せずに、生成の波動を共有しながら、
「生きることの場」を共に創り続けているのである。
であるからして、「共鳴」とは、
「生成の森」における私たちの歩みが、
個別でありながらも互いに絡み合い響く、
その呼吸のようなものだといえる。
・・・・・ 哲学は――思考を渡すのではなく、
思考が――芽吹く“場”を設計する芸である。
その場のことを、私は――“森”と呼ぶ。・・・・・
Fragment: “The Interwoven Earth and Sky – Toward the Birth of the Esquisse”
The theme touches “earth and sky”—the esquisse sketches them entirely,
brushed lightly by light and wind,
gliding and veiling the radiant breadth of both.
No ascent, no expansion, no drive toward perfection.
No ordering, no dismantling, no envisioning.
No ostentation, no vanity, not even anxiety.
Not thinking. Not waiting. Not even seeking—
This is a constellation of pure sketches.
A nebular frontier where no meaning yet forms.
There lies the inception of creation—before thought.
Prior to ascent, expansion, or structure: pure act of genesis.
The question does not descend from sky to earth—it appears, as vision.
What is free never clings to the salvation of ideas.
“Deviation” is found only in a quiet drop of the hand,
touching the light and wind,
tracing lines unseen,
in sketches where not a single fragment of constraint remains—
a weaving of earth and sky.
In the measurement of drawing, there is no center, no start, no end.
In the design’s plan lies the place of genesis,
where realities diverge, and sites of existence interweave.
When one notices, freedom is already tangled in the wind of the question.
As long as one moves only forward,
potential and possibility remain untouched.
Lines of flight slip through loosened points.
Lines of genesis intertwine.
Formless figures drift evenly across the sphere of earth and sky.
In the rift—comes the “moment of creation” with pale light and faint wind.
Before thought, a shift within perception and sensation.
It signals the spark of a generative, constructive imagination,
sprung from the very beginning of becoming.
In the emptiest void, a symmetry of fullness is perceived.
Countless threads are spun among all things.
The volatility of spontaneous ignition
joins purified elements without admixture—
seeking ascent, expansion, construction,
and revealing methods for anchoring real presence in many realities.
—Thus, the esquisse gave birth to a new way of thinking.
”Esquisse”, 2025.Kakuma KANKE
余白
次章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景
第1章:
……………………………………………………………
本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』
序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
最終章:part-Ⅰ 生成の余白-静かに誘う跳躍と哲学
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の主題旋律 ~ 』
続 編:part-Ⅱ 創造の白扉-生の生成と哲学の風景
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の森を歩く ~ 』
