日光占術|観氣(かんけ)32相〓息:息衝き

 

 

 

 

         ── 共鳴 ──

 

 

 

 

続き → Cognigenesis:『日光占術|観氣(かんけ)32相〓占:占萌し』より

 

「生成脈・運気脈」の『水脈』は、一筋の”脈”と”流れ”ではない。しかし──”一筋の脈と流れ”に「生成脈・運気脈」の『水脈』全体が宿る。このような「生成と運気」の”水脈”を、【占の水脈】として「共観の兆し」を感じつつ、《占い架橋》を『観氣(かんけ)」と共に歩んでいくことになるだろう。《占い”構図と余白”》が見えてくるという感覚──それは、《占い》が単に内容を追うのではなく、「生成と運気の”視座”」そのものを立ち上げ始めた瞬間ではないだろうか。

「生成脈・運気脈」の『水脈』の”流れ構造”とは何か? この語には、単なる構成法を超えた「占術の”動的な場”」の設計が含まれている。『水脈』=全体構造は、『観氣(かんけ)』という一つの「場=呼吸体」であり、一つひとつの”脈”と”流れ”は、特定の生成・運気現象の──「身近な”表出”」であるが、それらは直線的に並ぶのではなく、内へと沈み込み、外へと振動する“螺旋的”としてひらかれる。つまり──観者となる相談者は、「身近な”表出”」である特定の生成・運気現象の一つひとつの脈と流れを感じるをたびに、──「生成と運気とは何か?」の問いへと、また別の角度で還流し直すことになる。

「占い構図と余白」が見えてくるということ、これは、『観氣(かんけ)」全体を《占い”描く”/占い”観る”》ような感覚に通じている。「構図=生成と運気の脈、流れ、軸、視座、ひらかれ」「余白=問いの余韻、跳躍の時間空間」=観者となる相談者の〈あなた〉が”生成と運気”に加わるための「未完の場」。この「占い構図と余白」の”呼吸”によってこそ──『観氣(かんけ)』は単なる占術を超え、「生成と運気の”現場”」になっていくのだろう。”生成力”と”運気力”を刺激する「水脈の螺旋的”ひらかれ”の構造」、まさに──「シンプルな脈と流れ」を並べるのではなく、「シンプルな脈と流れ」の構築によって、内へと、外へと、哲学が誘い支ていく──「生成現場と運気現場」、全体構造の「軸と振幅」。今、まさに──「生成と運気の”水脈”」そのものが、静かにその姿を立ち上げはじめている──そんな感触。

 

 

ー 例 ー

 

例えば、とても深い問い──例:《”愛”と”老い”》。”老い”は、「生成的か?」「運気的か?」”老い”ることは、時間とともに不可逆的に形が変わっていく現象である。物理的にも、生物学的にも、不可逆性・変容・持続性という特徴を持つため、これは「生成の一形態」といえる。但し──ここでの「生成と運気」は 、「創造的な方向性を含む”生成と運気”」 というよりも、「存在がそのまま変わり続けるという”生成と運気”」である。つまり──「生成の能動的側面(意志を持ってつくりだす)」「生成の受動的側面(変化を受けながら形を変えていく)」、”老い”は後者が強い。けれど──その受動的な「生成」のなかに、能動的に何を編み込むかは、人間それぞれの選択に委ねられるし、「運気」の現れ方にもよる。

”愛”は「生成的か?」「運気的か?」”愛”は、ある意味では「生成的」であるが、”老い”と違い、「存在そのものの物理的変化」ではなく、関係の場が生まれることである。”愛”は「自分と相手の間に関係空間時間を生成し運気づく」「関係は”生成と運気”に育ちもするし衰退もする」「しかし”愛”は物質の老化のように必然的ではなく意志・選択・受容に大きく依存する」、ここが”老い”との最大の違いである。そこで、”愛”は「生成ではないような気がする?」という感覚について、この感覚はとてもよく分かる。何故なら、”愛”には「生成と運気」のように時間に沿って不可逆的に進む性質よりも、瞬間的に満ちるという性質が強いからだろう。「生成と運気」は流れ・プロセスとして見えるけれど、それは時に 一瞬の出来事として立ち上がる。たとえば、「初めて誰かを抱きしめたいと思った瞬間」「ふと相手の存在を丸ごと肯定してしまう瞬間」、それは過程ではなく、出来事あり、出来事としての”愛”は、まさに──「生成と運気の”水脈”の中で時折り立ち上がる”泉”」のようなものだろう。

もしまとめるなら、こう考えられる。──”老い”は、受動的な形で進む「”存在そのもの”の生成と運気」。──”愛”は、関係の場に突発的に湧き上がり、選択と受容によって持続する「”出来事的”生成と運気」。つまり──両方とも「生成と運気」の範囲に含められるが、その「生成と運気の”様態”」が大きく異なる。”老い”は「”時間に沿った必然”の生成・運気」、”愛”は「”時間を飛び越える出来事的”な生成・運気」。この「”老い”=受動的生成・運気」「”愛”=出来事的生成・運気」という対比をすると、感覚と概念が同時に立ち上がる。つまり──”老い”はどうしても「流れに沿わざるを得ない」のに対して、”愛”はその「流れを飛び越え」て現れる。だからこそ、──同じ「生成」「運気」という語で括れても、質感も時間感覚もまったく異なるのである。そして興味深いのは、──「”老い”のなかにだって瞬間的な出来事はある」「”愛”のなかにも流れや持続の側面はある」ということ。この二つは完全に別物ではなく、”相”と”老い”は、「生成と運気」の二つの相(モード)のように”交錯”している』ともいえる。

”老い”ていくなかでの”愛”は、単純に若いころの愛情が薄まっていくという話ではなく、むしろ、”老い”によって”愛”は質を変え、深まり、時にはまったく別の相を帯びてくるのだろうか?  時間の中で育つ”愛”(老いの”愛”)──”老い”は不可逆の時間の流れの中にある。そのなかで生まれる”愛”は、「持続と熟成の色合いをもつか?」「日々の積み重ねが”愛”の形や重さを変えるか?」「”愛”そのものが時間の作品になるか?」例えば、長年連れ添った二人の間にある沈黙は、若い”愛”の沈黙とは違い、余白の深度をもつだろうか? そこには、共有された時間の層が何重にも積み重なっているのだろうか? ── ”老い”の中で芽吹く新しい愛:”老い”の中でも、予期せぬ”愛”は出来事として突然に訪れることがあるだろうか?「新しい出会いか?」「亡き人への新しい感情の発見か?」「自分自身への慈しみの芽生えか?」、この場合の”愛”は、”老い”の流れに乗って熟す”愛”とは違い、時を飛び越えて訪れる閃光のような「生成」なのだろうか? それは若いころの恋愛のように激しくもあるのだろうか? 時間感覚の上では深く静かであることが多いのだろうか? ── ”老い”が与える愛の特異な性質:”老い”ていくと、生命の有限性が肌感覚でわかってくるため、”愛”は「残された時間の質」と強く結びつ口のだろうか?「”愛”する時間が限られているからこそ濃度が増すか?」「欠落や別れの予感が”愛”を逆に輝かせるか?」「”愛”そのものが有限の奇跡として感じられるか?」

例:《”愛” × ”老い”》の「生成と運気の”様態”」として、「”老い”と”愛”の生成・運気の関係」が『観氣(かんけ)』的な『占い脈」でも立体的になる。やはり──「余白の深度」。余白は、濃度や圧や、その他、余白状態が決めとなる。”老い”における”愛”の「余白の深度」も、たとえば──《絵画》における余白と同じく、濃度・圧・状態によってその意味や力が決ま眺る。

《濃度(Density)──という「経験・記憶・感情の層の厚み」「長い関係の積層が生む“充実した空気”」とともに「何も描かれていない部分」が、むしろ満ちてくることであり、これは、白紙の余白でも「軽い余白」と「重い余白」があるのと同じこと。《圧(Tension / Pressure)》──という「これまでの葛藤や困難が凝縮されて生まれる張力」「守るために耐えてきた圧力」として「減る身体的エネルギーの代わりに、心的な圧が増す」こともあり、構図でいうと、《絵画》におけ画面の端に置かれた物体が生む“視覚的な引っ張り”に似ており、時に非常に静かでも、その静けさの奥に高い張力を秘めている。《状態(State)──という「開かれているのか、閉じているのか」「受容しているのか、拒絶しているのか」「柔らかく拡張しているのか、凝縮しているのか」、これは「余白が空気を呼吸しているのか、それとも沈黙しているのか」に似ており、状態が変われば、同じ余白でもまったく異なる意味を帯びてくる。これは「余白が空気を呼吸しているのか? それとも沈黙しているのか? ”愛”の状態が変われば、同じ「余白」でも全く異なる意味を帯びる。つまり──”老い”における”愛”の「余白」は、濃度 × 圧 × 状態で質が決まる。この3つの組み合わせが、”老い”の「深度」や「輝き方」を変えてしまうわけである。この「濃度 × 圧 × 状態」をもとに、『観氣(かんけ)』の流れにも自然に組み込める形になる。

これまでが「場を生み出す生成と運気」だとすれば、これからは「”生きることそのもの”を生成と運気として見る」。つまり──「”生”の生成・運気論に広がる形であろうか。例えば、──「”老い”の生成と運気」は、”老い”ることを衰退ではなく、必然的生成・運気として捉えた「受動的生成・運気」としての”老い”、時間を素材として彫刻していくような存在の変化。──「”愛”の生成と運気」は、”愛”を出来事的生成として捉えた必然ではなく、関係の場に突然立ち上がる「生成と運気」「余白の深度」としての”愛”──濃度・圧・状態。「余白の哲学化」は、絵画における余白論を、「生き方の余白論」に拡張した「余白=可能性の場」、「時間・関係・沈黙の”余白”」。「生成と運気の”様態比較”」は、必然的生成・運気(”老い”)と出来事的生成・運気(”愛”)の比較。どちらも「生成と運気」だが、時間の使い方と出現の仕方が異なり、その違いを通して、「”生”そのもの」の構造を見抜く。”老い”や”愛”は、あくまで──「生の生成・運気論」の”入口のひとつの例”にすぎない。むしろ ──「占い口」と「生の生成と運気の切口」 をしっかり認識し確立しておくことで、『観氣(かんけ)』の広がりを感じさせつつも、筋道を保てる。”生きること”は生成であり、運気である。

 

 

ー 例 ー

 

◯「”存在そのもの”の生成と運気」──老い、成長、変化、衰退。呼吸や身体感覚の変化。存在の「形」が時間とともに変容する必然的生成・運気。例:「老い」「成熟」「退化」「再生」。

◯「関係から生まれる”生成と運気」──愛、友情、対話、衝突。 他者との接触から立ち上がる出来事的生成・運気。例:「愛」「別れ」「和解」「共創」。

◯「内面の生成と運気」──思想、気づき、覚醒、夢、直感。意識の中で発芽する出来事。例:「悟り」「ひらめき」「迷い」「覚醒」。

◯「余白と偶然の生成と運気」──偶発的な出会いや出来事。予期せぬ環境や場から生じる生成・運気。例:「偶然」「余白」「漂泊」「逸脱」。

◯「表現・創造の生成と運気」──芸術、物語、言葉。 制作行為そのものが生む生成・運気。例:「作品」「言語」「歌」「身体表現」。

 

 

「存在・関係・余白」にある「”生”の生成と運気」 。存在の生成・運気(老い・成熟・変化)。「存在・関係・余白」にある─関係の生成・運気(愛・別れ・共創)。内面の生成・運気(気づき・覚醒)。偶然の生成・運気(余白・逸脱)。表現の生成・運気(創造・物語)….. すなわち──『生成と運気の”水脈 ”』── ”水脈”は「生成と運気の総体」。《生成脈》と《運気脈》の一筋一筋の水脈は「異なる生成と運気の様態」。「老い=水脈に長く波紋を重ねる泉」「愛=水脈に絡み合う流れや共生する泉」「偶然=思わぬ水脈に芽吹いた泉」「内面の生成=水脈の奥の静かな泉。」「創造─=水脈に花を咲かせる泉」…..その全体が、一つの「生きている景色」を形づくる。水脈全体は、一筋の脈と流れだけでは語れない「生の景色」をつくる。「水脈の歩みそのもの」が、”生きること”そのものと「生成と運気」の比喩になる。

“見えない水の流れ”に自ら足を踏み入れ、「”水脈”の中で時折り立ち上がる”泉”」のように「生成と運気」は起こる──その『水脈』とは、「そのすべてを言い尽くさない構造=伏流」。すなわち──【占の水脈】と《占い架橋》。──「水脈をゆく者(=生きる私たち)」。”生”とは単なる連続的な時間経過ではなく、絶えず多層的に動き持続する「生成と運気」を変化し続ける「出来事」の”脈なり流れなり”。その継続変化の営みは、水が”水脈”の中で互いに絡み合い影響し合いながら姿形を変えるように、私たちの存在もまた複雑で重層的な関係性の中で深まり、広がっていく。例えば”老い”は単なる消滅や衰えではなく、深く根を張り大地と結びつき、新たな生命の可能性を支える生成の一形態である。例えば”愛”は、その枝葉のように、他者との関係性の中で発生し、選択と受容を通じて持続し、時に時間を超えた出来事として現れる。偶然は水脈の中の新しい芽吹きのように、予期せぬ変化をもたらし、創造は季節ごとに水脈が花を変えるように、新たな意味や形を絶えず生み出す。このように”生きること”そのものと「生成と運気の水脈」の比喩は、単なる自然の描写を超えて、私たちの”生”の根源的なあり方、時間性、関係性、そして”変化の本質”を示す《占い》の──哲学的「視座」を提供する。

このように、具体的テーマを例題(=問題)とした日常的イメージを起点にしつつ、哲学的に「”生”の生成と運気」を多角的に捉え、以降の《占い展開》である新生”月星と共に”『観氣(かんけ)』の具体場へと自然に橋渡していく。『占想』と《占い”記述”》が感覚を刺激し、哲学がそれを包み込みながら思考を広げ、深め、新たな視点の「水脈」へと案内する──そんな動きが理想的なのではないかと思われる。《占い》は、感覚や心に直接響くものであるが、哲学的な言葉や考察は、そこに知性的・理性的な「地盤」を与え、さらに広く深い「思索の水脈」へと誘う役割を果たすだろう。この二つが互いに響き合うことで、『観氣(かんけ)』全体の厚みや奥行きが増し、観者である相談者の〈あなた〉の体験が単なる「占い”鑑賞”」から「生成的運気的な──”対話”」へと変わっていく。《占い》が感覚を刺激し、さらに《占い》がそれを包み込みながら”思考・創造”を広げ、深め、〈あなた〉を新たな視点の――『占い水脈』へと案内する《占い架橋》。そんな「思創考造 Cognigenessis 日光占術|観氣(かんけ)』の、まさに――〈生成的運気的”動き”〉が理想的なのではないかと思われる。

『生起場』──《生成的力・運気的力》という跳躍点の第一震源(=転位の震源)──”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の「流れ」の中で、《占い”対話”》の生成的運気的”役割”がキーワードとなり得る。”占い”は観者である相談者の〈あなた〉との共振を起こし、《占い”対話”》の中で生まれる新たな意味生成・運気の動的空間と時間。『占い水脈』の中で「声を交わし」、《占いの”問い”》を育てるプロセスとしての占的実践。《占いの”水脈”》を歩く感覚は身体性のイメージでもあり、「生成と運気」は知的だけでなく、身体的/感覚的な経験としての広がりもつことを示す。”生”の多様性と包摂性において”水脈”の多種多様な共存は、”生”の多様性とその共存を象徴し、「生成と運気」の”多様な現れ”として身近の表出となる。《占いの”水脈”》は詩的でありながら、『観氣(かんけ)』において深く多層的な展開が期待できる素晴らしい核であり、何より、観者である相談者の〈あなた〉を「歩き、考え、出会い、問い、創造する」という「生きた体験」へと誘う構成による可能性がとても魅力的である。

「余白 」→ 「水脈の入口=《占い口》からの連続性」において、感覚的導入(占いの”匂い・風”)→ 視覚を超えた感覚で《占い水脈》に入るといった、「一歩ごとに《占い地図》を描く・観る」= 生成と運気の水脈を歩く者の姿に直結。つまり、観者である相談者の〈あなた〉は、締め括りから間髪入れずに”水脈”の中を歩き始めることになる。つまり──《占い”余白 ”》→ まだ続く予感、占的導入 → 「水脈=”生”の生成と運気」の意味づけ、感覚的導入 → 〈あなた〉は気づけばもう水脈””の中にいて、そこから「生成と運気の”水脈”」を歩き出すことになる。その中で”水脈”の「私=足を踏み入れる者」としての分岐や迷い、停滞や飛躍を繰り返しながら「生成と運気の”道”=占いの通り道」をたどる──観者である相談者の〈あなた〉の体験が単なる「占い”鑑賞”」から「生成的運気的な──”対話”」へと変わっていく。『生起場』──《生成的力・運気的力》という跳躍点の第一震源(=転位の震源)──”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の「流れ」の中で、占学は思考を渡すのではなく、思考が芽吹く“場”を設計する芸である。その場のことを、『観氣(かんけ)』は「占い水脈”」呼ぶ。

人間は、〈自分の存在感〉を“単独”では捉えることができない。「存在感」は、他者の視線・反応・沈黙・気配という“反射面”によって立ち上がる。但し、その”反射”を受け取っているのは“〈わたし〉の内なる場”であり、そこにこそ「”主体”の生成と運気」が起きる。なぜ自分では〈自分の存在感〉がわからないのか?──理由は簡潔に言えば:自己とは常に“内側からしか”見えないから。目は自分の目を直接見られない。自分の声は録音で初めて「他者が聞いている自分」を知る。”存在感”もまったく同じ構造をもつ。《占いの”水脈”》に「私=足を踏み入れる者」の動き、声、佇まい、沈黙──それらは“他者にどう届いているか”は、他者の反応なしには把握できない。これは心理学でも哲学でも一致している重要な結論。他者に映った自分が“反射”して返ってくる!──ここが決定的。「存在感」はこういう経路をたどる:〈わたし〉 → (他者に映る) → 〈他者の反応〉 → (反射) → 〈わたし〉──この〈わたし〉に返ってきた瞬間、初めて「〈わたし〉はここにいる」と実感される。この反射の構造は、実は『観氣(かんけ)』と思ったよりも地続きで連続だった『思創考造 Cognigenesis』で何度も言及してきた──「“共観”/“生成の触発”/“中動態的主体”」の基礎そのもの。

では「存在感」は他者によって決められるのか?──いいえ、それも違いう。ここが難しく、深いポイント。「占い(他者)は“鏡面”であり、“光源”ではない」「占い(他者)は“反射場”であり、“価値判断の主”ではない」「反射が返ってくるけれど、それを どう受け取るかは主体の内部にある」。つまり──「存在感は他占い(他者)によって“示される”が存在感の“内的生成・運気”は主体の側で起きる。」──この二層構造がとても大事。すなわち──《占い》はその”他者”でもあり“鏡面”である。存在そのものの生成・運気=Cognigenesis の初期形態──『観氣(かんけ)』と思ったよりも地続きで連続だった『思創考造 Cognigenesis』で一貫して掘り当ててきた核心──「主体は孤立した点ではなく、”場”の中で生成し運気づく “出来事” である。」──「存在感」もその一つの出来事。主体が、「〈わたし〉―占い(他者)―場」の三項の中で初めて震え、生まれる。これこそ──「跳躍点」「生成と運気の”水脈”」「共観の入口」「占い(他者)の呼吸と重なる領域」──すべての前提になる「”第一”の生成と運気」。

この問いには、すでに答えの鍵がある。──これはそのまま生成的・運気的な正解。自分の存在感は《占い(他者)》に映った自分が、その”占い”から反射してくる自分によって、はじめて自分でわかる?──はい。但し、それは《占い(他者)》に決められる自分ではなく、反射を受け取る「〈わたし〉の内なる生成と運気」 がその瞬間に起きている、ということ。この“二重の出来事性”を持つのが、人間の存在の最も美しいポイント。これを感知する理由──これは言わずもがな、今──「占いの通り道」=占いの水脈」という通路の生成・運気構造 を歩いたからであり、通路を歩く主体は、必ず「反射」へ出会う。「風」「光」「音」「空間の奥行き」「時間の流れ」「他者の気配」「自分の影」──そのどれかが、自分の存在を“照射し返す”、その最初の照射を掴んだ。

さらに深く進める場合──次はこの問いに進むと、核心(転位の震源)に入る:「反射してきた自分を〈わたし〉はどう受け取ったのか?」──その受け取り方が、”Cognigenesis” の「初期の震源」そのもの。──まさにそこが“震源”。直観された「存在感は反射によって初めて立ち上がる」という構造そのものが、「共観(co-perception)」「生成と運気の触発(generative ignition)」「中動態的主体(主体=起こされつつ、自ら起こす存在)」──その“根”に当たるということを、いま確かに確認できる。そして──いよいよ核心に入る。

占い(他者)によって反射してきた自分を、〈わたし〉は──「どう受け取ったのか? ここからが「 ”Cognigenesis”(自己生成の震源) 」の”本丸に入る瞬間”。「反射された〈わたし〉」を受け取るとき、主体の内部では次の三つが同時に起きる。内奥の“わたし”が揺らぐ(自明性の崩れ)──《占い(他者)》の反射によって返ってきた自分は、自分が“思っていた自分”とは違う。そのわずかなズレ、その違和感の微光が──主体の地盤をわずかに震わせる。『思創考造 Cognigenesis』と思ったよりも地続きで連続だった『観察(かんけ)』における「”Cognigenesis” の最初の微震」は、この“揺らぎ=差異”。”揺らぎ”を拒絶せず、受け取ってしまう。──ここに“中動態”が働く。「”占い”という外から与えられた反射」なのに、なぜか〈わたし〉はそれを自分の内側の出来事として受け取ってしまう。「外から/内から」「能動/受動」「主体/占い(他者)」──この区別が曖昧になる。主体は“受け身でありながら自ら生まれつつある”。ここに初めて中動態的主体が姿を現す。「〈わたし〉の中の”差異”」が、ひとつの「新生(birth)」を起こす。──「《占い(他者)》から”反射された自分”を受け取るとき、主体はそれを“情報”としてではなく、「生成と運気の”素材”」として受け取る」。ただの刺激でも、ただの占い(他者)の反応でもなく、それが内側で、ゆっくり沈殿し、発酵し、熱を生み、微かなかな形をもち始める。これが “Cognigenesis” の初期震源──”主体が生まれを起こす”最初の「無名の瞬間」。

「新たな視点の”水脈”へと案内する」――まさに「占いの醍醐味」であり、「占い扉」に続く「思考」は、まさに――その扉を潜り、新たな世界へ踏み出す「光の道筋」や「風の動き」のようなもの。つまり、「生成の扉=運気の扉」は、未知や可能性への入り口として、《占い》は、その扉を通じて展開される「道」や「場」であり、探求者を新たな視点・発見へと導く「動的なプロセス」なのである。《占い扉》を開けた瞬間から、思考は『占いの通り道』に分岐し、伸び、時に迷いながらも新しい”生きる風景”を見せてくれる占的思考=《占い架橋》は、この扉の向こうでの「歩みそのもの」ともいえる。「生成の扉=運気の扉」を潜り、『占い”水脈”』の“見えない水の流れ”に自ら足を踏み入れるという《占い架橋》の”占的思考”と”占的視座”のイメージは、『占い”対話』によって本当に豊かで深みがあるのではないかと思われる。

多層的生成と運気の景観として”水脈””は、単なる自然の比喩ではなく、多様な「生成と運気の”場”」として、複数の生成脈と運気脈のレイヤーが絡み合う共振場となるイメージ。その中で”水脈”の「私=足を踏み入れる者」が分岐や迷い、停滞や飛躍を繰り返しながら「占い通りの道=生成と運気の”道”」をたどる主体性の「生きる風景」の物語は展開する。「生成と運気」の連続性と断絶のダイナミクスは、 ”水脈”の循環=老いと死、芽吹きと花咲きなどのサイクルのように、「生成と運気」は連続しつつも各地点では新たな「切断」や「跳躍」を孕む。そこに、偶発性や予想外の発見、越境的占思考の可能性が宿る。「生成の扉=運気の扉」としての『占的思考』は、《占い扉》を開けて未知に分け入る瞬間の不確かさと期待感にあり、その『占的視座』は、「”水脈”の歩みそのもの」としてある。、”占い”は、観者である相談者の〈あなた〉との共振を起こし、『占想』は、〈占い”記述”(description)〉に止まる(留まる)ことなく、《占い”対話”(communication)》の中で生まれる新たな意味生成・運気の動的空間と時間。『占い水脈』の中で「声を交わし」、《占いの”問い”》を育てるプロセスとしての占的実践。すなわち――「”問い”を持って分岐し往還しながら主体が”自らを問う実践”」であることが強調される。

 

 

….. 日光の足の下──
くすんだ琥珀色の落ち葉が、
厚く重なるその隙間から、
乾いた土の匂いが微かに立ちのぼる。
その匂いは──陽炎のように、
地中の熱とわたしの体温を隔てる。

頭上では、濃緑の葉が日光に舞い、
溶けた陽光は金粉の粒となって、
揺れながらわたしの頬に触れる。

滝を越えたあとのように火照った背中へ、

──「水脈」は、
透き通る水色の風となって、
スッと差し込み、

汗を一滴ずつ、薄氷のように溶かしてゆく。

その瞬間、空気が入れ替わる音すら感じられ、

日光を柔く遮る森は深く、しかし透明に、
──”蒸散”となって、
わたしの肺の奥まで呼吸を満たす。

どこかで熟れた木の実が割れ、

甘く酸い匂いが、土と葉の湿り気と混じり合い、

わたしの胸の奥で静かに色を変えていった。…..

 

 

『日光占術|観氣(かんけ)32相〓息』
──キーワード(ヒント):

◾️Cognigenesis :
日光占術|観氣(かんけ)step.1 ~ 32

◾️Essay:
日光占術|観氣(かんけ)vol.1 ~ 32

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

….. 人の”生きてゆく”ことは──”実っていく”こと。人間としての《実り》=『”生成”に”運生”』──「生成の縁起=運気の縁起」の結び目において《運生》とは、”月星と共に”「動き持続する生成と運気」の《勢的──”実り”(みのり)》を結び重ね続けいくこと。”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になる。…..

 

「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに《潜勢的》。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。つまり──守株的に対する「新しい秩序」の提示が必要であり、”運生”に新たな価値観を見出すことです。「新しい秩序」とは、「現実を片づける」ことであり、不要不可の判断や整理などを意味するものではなく、従来の価値観と全く異なるものを提示することです。すなわち──観者となる相談者にとっての発達進化・発展拡張の持続を視座とした『”生成”に”運生”』の獲得に向かう価値創造への”挑戦の進化”であり、つまり──「生成と運気」という「”実現可能力性” への潜在力=”《潜勢的》すすめ”」です。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想(占い記述)」から結果的に「占態(望みの実現)」へと還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は、”占想”を片手に”占針”を歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり”占想”に伴う”占針”に付随する指標ともなる「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”に止めることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。”月星と共に”人の「生きる風景」の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、自分の”生きる風景”の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から「感性(受容と能力)によって悟る」ことができる。すなわち──人の「”実り生きる”母胎」の”種子”である縁(えん)にあるのは、”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ人間としての《実り》=『”生成”に”運生”』。

『観氣(かんけ)』の具体場に、波打つ”生まれる前の核心”──《蒔種》。”当たり外れ”の知的好奇心を喚起させられる──”潜在的”な「占想」の思考と「占態(望みの実現)」の創造への強烈な刺激。占想から占態(望みの実現)を生み出し獲得するに到る──パラダイムシフト。
顕在化する可能力性として《潜勢的》は、始動的・終息的存在として、潜在的な「地勢・地力=力能」の発現を可能にさせる可感的で可知的であり、自らが持つ固有の本質の発現を可能態から現実態へ移行することであり、「生成」と「運気」が別々でなく、ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象──運気が生成を照らし、生成が運気を溶かし、双方が相互に動き生成し続ける──”根源活性”により『運生』は、守株的な月相・星相の覆いを脱ぎ去った『観気(かんけ)』の新生”月星と共に”、《種線(seed-line)》の「生成と運気」に──『移行転化』することです。

そして『観氣(かんけ)』の具体場に、跳躍する拍動の”前触れ”──《予祝》。”当たり外れ”の間違いを受け入れる強さは知の覚悟として──パラダイムの扉を叩く手は「問い」を手放さない。顕在化する可能力性として《潜勢的』=潜在的な「地勢・地力=力能」は、”心”に受入れられ沈黙し無力な存在ではなく顕勢において雄弁な性質を具しており、通常の”問い”に対する”生起の問い直し”は、触発・中止・方向転換の目的追求ではなく、埋め手 / 打つ手による”消滅の在り方”から離れ移行することであり、「生成」と「運気」が別々でなく、ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象──運気が生成を照らし、生成が運気を溶かし、双方が相互に動き生成し続ける──”根源活性”により『運生』は、守株的な月相・星相の覆いを脱ぎ去った『観気(かんけ)』の新生”月星と共に”、《種線(seed-line)》の「生成と運気」に──『移行転化』することです。

 

…..〈あなた〉の「生成の縁起=運気の縁起」の結び目=「”運生”における結実」へと向かい、観者となる相談者の〈あなた〉と”共観”を伴う一緒の私たちは、『観氣(かんけ)』に必ずや──「”実現可能力性”への潜在力」=『”潜勢的”すすめ』である「生成と運気」において《移行転化》する新生の”月星と共に”『種線(seed-line)』を見出し、「創造=”動き持続する”生成と運気」の”運生”に《勢的──”実り(みのり)”》を結び重ね続けてみせます。…..

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──

”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis 日光占術|観氣(かんけ)

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

 

観氣堂 Office Kanke

主宰:小林 芳鳳 Yoshitaka Kobayashi

 

add. 栃木県日光市 日光山内 Sannai, Nikko, Tochigi Japan

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥20,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月2回

◯ 月星占術料
1回 ¥10,000.〜
※ 随時:プロセス進行

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ 提案:プログラム設定

◯ 大観氣料
1回 ¥30,000.〜
※ 相談:月星次の観氣適応

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

《お知らせ》

◾️「大観氣“予祝祭“」開催
※ 例年大祭:無料

◾️「観氣塾」:セミナー開催
※ 毎月1回:¥15,000.-(席数:15名様)
ー 参加予約受付中 ー

 

 

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