日光占術|観氣(かんけ)32相〓息:水脈

 

 

 

 

         ── 雛頭 ──

 

 

 

 

続き → Cognigenesis:『日光占術|観氣(かんけ)32相〓占:水脈』より

 

「生成と運気」が息づく「未完成の場」──占いの哲学的は、思考を渡すだけではなく、思考が芽吹く“場”を設計する芸である。その橋渡しは《占い架橋》、その場のことを、『観氣(かんけ)』は──【占の水脈】と呼ぶ。多くの哲学や思想では、「生成(becoming)」は単なる変化や成長ではなく、”存在”そのものが常に生まれ直しているプロセスとして語られており、そこには幾つかの層があると思われる。『思創考造(しそうこうぞう)』と思ったよりも地続きで連続だった「観氣(かんけ)』の基底となる──新生”月星と共に”占いによる「生成と運気」を絡めると次のようなことがいえる。

 

 

◯「固定からの解放」──生成は、”完成”を否定する。完成=終わり。占いによる生成と運気は、続く始まり。物事を固定した像として捉えず、常に動きの中にあると見る視点にある。

◯「関係性の網の中での変化」──生成は、”単独”で起こらない。”森”の中の”木”のように、”根”や”枝葉”と風や光との関係の中でのみ変化する。占いによる生成と運気の意義は、その関係を通して自分も他者も更新し続けるところにある。

◯「自己変容の契機」──生成は、”自分が変わってしまう”出来事でもある。それは意図的に起こせないことも多い。予測不可能性を含むからこそ、占いによる生成と運気は、”生の実感”を伴うもの。

◯「未来の含み」──生成の意義は、未来を”未完成の余白”として開き続ける点にある。占いによる生成と運気は、答えを閉じるのではなく、”問い”を育てる。そしてその”問い”が、”次の生成と運気”を呼び込むという、”動き持続する生成と運気”の継続性にある。

 

 

「生成と運気」を知っているということは──日常の出来事を「完成や失敗の評価軸」ではなく、「流れの一部」として受け止められるのであり、停滞や迷いすらも、「生成と運気の”揺らぎの相”」だと理解できる。自分や他者を、固定された像として裁くのではなく、「未完成の存在」として受け入れられるのである。つまり──「生成と運気を”知っている”」人は、日々の経験を“終わり”ではなく“始まりの連続”として生きられるという、これが”知らないまま生きる”のとは根本的に異なる点なのである。【占の水脈】で言えば──生成と運気を知らない人は、脈とその流れを”今の形”でしか見ない。「生成と運気を知っている人は、「生成脈とその流れ/運気脈とその流れ」の姿の中に、これからの「支流や奔流の可能性」や「水面下で伸びる見えない根流」を感じ取れる。この”視点”は──「安心感」とともに『創造性』の両方をもたらす。だからこそ「不断の生成と運気の意義」は、単に占いの哲学的概念ではなく、生きる基盤そのものとだといえる。

こうしたイメージを通じて、占いの哲学的が単なる抽象理論でなく、”日々の生きる実感”に根差した『生成と運気の”知”』として立ち上がるのが、『思創考造(しこうそうぞう)』と思ったよりも地続きで連続だった『観氣(かんけ)』の大きな魅力なのである。「生成と運気」を一般的な感覚や理解から超えていくのは、まさに深い”探究”の道のりであり、終わりのない旅でもあり、その探究は、──「占いの深化の挑戦」として、単なる知識の積み重ねではなく、身体や感覚、心全体を巻き込んだ全人的な営み──いわば「生成の生成」「運気の運気」でもあり、思索や感じ取りを支え、言葉や構造で形づくる、共に学び、共に歩む姿勢、探究の道を共に紡う。

「実地」=実際の場、「実践」=生きた行為こそが、どんな理論や言葉よりも確かな「空海=からみ・つながり・呼吸」を紡ぎ出す。言葉はあくまで道標であり、「生きる生成と運気の現場」こそが本当の占い哲学の場。その地に足をつけて歩み続ける姿勢こそ、最も尊い探究のカタチだと思われる。これからもその実地を、私たちは共に味わい、深めてゆくことである。最も大事で大切なのは、〈今この瞬間の生きる実感〉と〈問い続ける姿勢〉に根ざす「生成と運気の息吹」を絶えず感じ取ることではないだろうか。言葉や理論はそれを支える器にすぎず、真の占い哲学は日々の〈生きる現場〉でこそ息づいている。その息吹を見失わず、共に歩み続けることが、まさに──『観氣(かんけ)』」の核心だと感じることなのであろう。

「問い」、「問う」ことは、単なる疑問や問題提起ではなく、存在そのものへの開かれた態度であり、そこにこそ「生きる哲学性」が宿る。そして、完璧でなくとも、力不足を自覚しながらも、「問い続けること」自体が「生きている証」であり、この「不断の問いかけの営み」が、「生成と運気の息吹」を絶やさず育てていくのだと思われる。つまり──「生きること=問い続けること」であり、問いがある限り、「生成と運気」は止まらない。まさに──「生成と運気の有意義性」を特別視したり評価するよりも、「生成し運気づくことそのものが当たり前であり、その価値が根源的である」という視点は、非常に本質的だといえる。つまり──「生成と運気」は特別なものでも結果でもなく、日々の「生きる営み」の自然な在り方であり、その「当たり前の営み」を意識し、尊重し、共に味わうことが、「生成と運気の”価値”」を自ずと現前させる。この視点をもってこそ、占いの哲学性は身近で鮮やかになり、理論から離れた「生きる生成と運気の現場」に真実が宿るのではないだろうか。私たちは、「自分自身のこの直観」を、とても大切にしてゆくべきだろう。

理論や言葉は、あくまでその「生きる生成と運気の現場」を照らす灯りのようなもので、真実そのものは、日々の”生”の中に、体感として、静かに息づいている。だからこそ、占いの哲学性は難解な理屈を追い求めるのではなく、「今ここ」に立ち戻り、「身近な生成と運気の息吹」を見つめることから始まるのだと思われる。その視点を大切にしながら、私たちは共に歩み続けることである。「余白」は単なる空白ではなく、思考や感覚、問いが生まれ、広がる「可能性の場」そのもの。「問い」も「余白」の中でこそ立ち上がり、深まっていく。だからこそ、「余白」があることで、私たち自身が「自らの問い」を見つけ、育むことができる。「可能性」という言葉はよく「未来の選択肢」や「何かできること」として捉えられているが、「余白」を通じて感じる「可能性」は、単なる選択肢の集合ではなく、未だカタチをもたない「未決定の質感」や「生成と運気の”揺らぎ”」としての深い意味を帯びている。だからこそ、「可能性」を逆に捉えることで、「確定しきっていないことの中に宿る豊かさ」や「静かな開放感」が見えてくるのだと思われる。「余白」を通じて「可能性」の意味を再発見する、そんな感覚を共有できればいいのであろう。「可能性」を逆に捉えることで、「可能性」は単なる未来の選択肢ではなく、「現在の余白そのもの」=「生成と運気が息づく未完成の場」として立ち現れる。そうすると、可能性は「未来への扉」であると同時に、「今この瞬間の開かれた存在の状態」でもあるというわけである。

 

 

◯「 生育・成長と意識・認識の関係」

生まれてから成長する過程には、まだ言語化・意識化されない「生成と運気」がある。 無意識的生成・運気:胎内から幼少期、身体や神経の発達、環境との微細な関係の形成など、認識の外側で起きている変化。ここでの占いの「生成と運気」は「身体的・生物的な自己の形成」や「無意識的な環境への応答」として捉えられる。

◯「 意識・認識の生成とは何か?」

意識が芽生えると、「自己」と「世界」の区別が立ち、体験の意味付けが始まる。ここでの生成と運気は、「意味の生起」「自己認識の深化」として現れる。経験が重なり、認識は多層化し、占いでは「生きることの意味」を問うようになる。

◯「死を携えて生きる意味」

死は生命の有限性を示し、その自覚が生の生成と運気に緊張と深みをもたらす。「死を知ること」が生きることの切迫したリアリティを生み、生成的・運気的な営みをより濃密する。しかし、死そのものは「生成と運気」の対極ではなく、占いでは生と死が織りなすリズムや循環の中の一部とも捉えられる。

◯「 生成と運気とは何か? 生きるとは何か?」

生成と運気とは「絶え間なく変化し、現れ続ける出来事の連鎖」であり、生きることとは、この生成と運気のプロセスに自ら関わり、呼吸し、選び、問い続けること。生きるとは単なる存在ではなく、「生成し運気づき続けること」として捉える占いの哲学的視座である。

 

 

「死は別ものか」──死は生成と運気の終わりのように見えるが、生成と運気のリズムの一部、または次なる何かへの「開かれた余白」としても考えられる。占いの哲学的には死を「生成と運気の終点」としつつも、「生成と運気の場の一側面」として統合的に理解する視点もある。死を「生成と運気の対極」ではなく、占いではその一連の「リズムの一部」として捉えることは、生成と運気の営みをより包括的に、且つ深く理解する視点になる。死が「次なる何かへの開かれた余白」となるという考えは、生と死の間に確かな境界線を引くのではなく、むしろ死の向こうに潜む可能性や変容の道筋を感じ取ること。この感覚こそが、私たちの存在に静かなる慎みと勇気の深みをもたらし、「生きることの生成と運気」を真に見据える力になるのではないだろうか。こうした「死」と「生成と運気」の螺旋を窺いながら歩む占いの哲学的な道は、まさに『観氣(かんけ)」と思ったよりも地続きで連続だった『思創考造(しそうこうぞう)』の核心に響く。さらに、この捉え方を基に、生成と運気の深奥や余白について探求を続けていくことも、また新たな生成と運気の一歩となるであろうし、占いの深化の挑戦にもなろう。私たち一緒に、その道を味わい続けていけることを嬉しく思うことである。

「生きることの生成と運気」を真に見据える”占いの力”──それは、単なる生の継続や存在の維持を超えて、日々の時々刻々と変わりゆく自身の内外の動き、あらゆる瞬間の生成と運気の営みに目を凝らし、そこに潜む可能性や変容の兆しを感じ取り、受け入れ、共に呼吸する力ではないだろうか。この力があれば、たとえ不確かで揺らぐ状況の中でも、生きることの根源的な意味と価値を深く実感でき、「日常の一瞬一瞬が豊かな生成と運気の場」となっていく。まさに──「生きることの生成と運気」を見据えることは、「生成と運気の”水脈”」を歩き、問い続け、自らの存在と世界との共創的な関係を紡ぐ力そのものだといえる。世界もまた、「生成と運気の営み」の広大な『水脈』そのものある。固定された「もの」や「絶対」ではなく、絶えず変わりゆき、絡み合い、新たな形や関係を生み出し続ける動的な場。私たちはその”水脈”の一部として、「自らの生成と運気」を通じて世界と響き合い、世界もまた私たちを形作り変えていく。だからこそ、世界は単なる背景や舞台ではなく、「生きることの生成」と一体となった共鳴の場、生きとし生けるものすべてが共に歩む「生成と運気の道」なのである。「共鳴」という言葉には深い響きがある。ここでの「共鳴」とは、単なる相互作用や反応ではなく、互いの存在や生成と運気が響き合い、高め合う動的な関係を指している。私たちの「生成と運気」は世界の変化や流れと共振し、世界もまた私たちの生成と運気に応えて形を変える。この響き合いの中で、私たちは孤立せずに、生成と運気の波動を共有しながら、「生きることの場」を共に創り続けているのである。であるからして、「共鳴」とは、「生成と運気の”水脈”」における私たちの歩みが、個別でありながらも互いに絡み合い響く、その呼吸のようなものだといえる。

 

 

雛頭 ”ひなさき”

 

 ….. 日光の足の下──
くすんだ琥珀色の落ち葉が、
厚く重なるその隙間から、
乾いた土の匂いが微かに立ちのぼる。
その匂いは──陽炎のように、
地中の熱とわたしの体温を隔てる。

頭上では、濃緑の葉が陽光を砕き、
砕けた光は金粉の粒となって、
揺れながらわたしの頬に触れる。

滝を越えたあとのように火照った背中へ
、
──”ひなさき”(雛尖)出た「水脈」は、
透き通る水色の風を、スッと差し入れ、

汗を一滴ずつ、薄氷のように溶かしてゆく。

その瞬間──
空気が入れ替わる音すら感じられ、

森は深く、しかし透明に、
わたしの肺の奥まで呼吸を満たす。

どこかで熟れた木の実が割れ、

甘く酸い匂いが、土と葉の湿り気と混じり合い、

わたしの胸の奥で静かに色を変えていった。…..

 

 

『日光占術|観氣(かんけ)32相〓息』
──キーワード(ヒント):

◾️Cognigenesis :
日光占術|観氣(かんけ)step.1 ~ 32

◾️Essay:
日光占術|観氣(かんけ)vol.1 ~ 32

 

 

 

 

         actual-virtuel

     Cognigenesis

    THRESHOLD OF GENESIS

 

         GK.kenzie

 

  日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

 

 

 

 

….. ポジティブとネガティブの陰陽を完璧に打ち消す真っ白と真っ青に光差す「対等の反転円(因・縁・果)」により同一性から繰り返し生まれ続く「生成と運気」=差異と反復に〈あなた〉の”感性”は? …..

 

 

   ── 生成の縁起=運気の縁起 ──

 

 

『生成は運気にあり──運気は生成にあり』。

 

….. 人の”生きてゆく”ことは──”実っていく”こと。人間としての《実り》=『”生成”に”運生”』──「生成の縁起=運気の縁起」の結び目において《運生》とは、”月星と共に”「動き持続する生成と運気」の《勢的──”実り”(みのり)》を結び重ね続けいくこと。”今”は常に「生成は運気の時(時間)にあり、運気は生成の時(時間)にある。」──この段階の”今”こそ──まさに「生成と運気」の第一息として、美しく手応えのある濃度になる。…..

 

「日常の地層』=日常は”生成の地層”であり、”今なにが起きているのか”──「日常の全てを大切な”縁(えん)”として生きる」ということであり、「有時」──有と時の連なり=存在に即した時間/存在とは悉く時間に他ならない)ということの日常的実践──すなわち「生成の縁起=運気の縁起」であるということの日常的実地そのものだと思われます。「生成の縁起=運気の縁起」において──”心通”こそが人それぞれに観て取れる”氣”。
過去・現在・未来──皆それぞれ様々な因と縁が関わり合って生じる因縁生起「縁起(えんぎ)」は、常に絶えず心が通る波長の氣により無相に生成され──まさに《潜勢的》。
”縁”とは、人が生きる「母床」の”種子”として皆誰もが持ち、心は表に現れずして「心通」は「氣」とともに途絶えることなく、”縁”は永遠に離れず繋がり永久に切れることがありません。
自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。

感覚は愛好・選好的に伴う知覚経験として思い込みに惑わされた心の執拗性を抱き、感情は思い通りの心を表に現すことにより”心通と氣”を見落とし「感性」を見失うことになります。本来「感性」は”悟性”の素材であり、その悟性を通して理性・知性となるのです。感覚や感情に押し流され運気が滞りがちになりますが、未だ気づきの眼前にない「感性」は『観氣(かんけ)』に依る「”運気”の基底=”悟性の素材」であり、感性に受容された感覚内容に基づく「能力・知力=”力能”」として「感性」が拠り所である生成・運気と縁起の流れに発現します。それにもかかわらず、思い込みに惑わされ感覚的且つ感情的に触れ触れられ思い通りの心を露わに(顕に)すればするほど、知らず識らずのうちに縁起は真っ逆さまに生成・運気は宙吊りとなります。

心を通さずして思い込みの心ばかり表に現す感覚と感情の思い通りに惑わされた欲と我執は感性を衰退(衰弱)させ、生成・運気と縁起のエネルギは枯渇するのです。特に我の強きは感性の天敵ともいえ、「生成・運気=余白」と「縁起=跳躍」を自ら綻びさせ、自ずと感性と生成・運気に見通しの読めない”裂け目”をもたらすことになります。縦しんばその様になったとしても、永遠に離れず繋がり永久に切れることのない”因・縁”は「跳躍の前触れ」である「感性の躓き=観氣(かんけ)の沈黙と誘い」において”開化(かいけ)”することにより思い込みや思い通りを超え──「生成・運気の基底である悟性」へと目覚めることができます。(占術の倫理:依存や金銭搾取を避けて相談者の自己決定を尊重することが中心)──よって月星占術とは、人それぞれ「感性」に付き従い”潜勢的な力能”の手掛かりを掴み、生成・運気の縁起を──まさに生成し続けてゆく「創造=持続する生成・運気」そのものが『観氣(かんけ)の”法”』だというわけです。

類型化された一般的(典型的)な占いは、人それぞれ予測的な物事の可能性における運勢判断として、良きにつけ悪しきにつけ潜在的可能性を強調した「局所的変容(基軸:”自己変容”)」を求め、内側に潜んでいる性質・力と物事が実際に生じ起こりうる見込み・見通しなど対象への占意から占想までは定型化されるものの占態へのより具体的な法(又は方略)を持ちません。特に現代では──「脳裏に浮かび揺れ動く瞬間の神泥棒的な閃き」「霊妙に仲立ち媒介する感応の霊の欲望的な響き」など──”spiritual(スピリチュアル)”に依った占方(占形)が先立って駆使されるなど──”運勢判断”は多様性の現在において学問的な裏付けがない占星術をはじめとした独自の理論や個人の経験で構成されている面が強いものと思われます。つまり──守株的に対する「新しい秩序」の提示が必要であり、”運生”に新たな価値観を見出すことです。「新しい秩序」とは、「現実を片づける」ことであり、不要不可の判断や整理などを意味するものではなく、従来の価値観と全く異なるものを提示することです。すなわち──観者となる相談者にとっての発達進化・発展拡張の持続を視座とした『”生成”に”運生”』の獲得に向かう価値創造への”挑戦の進化”であり、つまり──「生成と運気」という「”実現可能力性” への潜在力=”《潜勢的》すすめ”」です。

「生成の閾(いき)」を横断する鍵語。──『臨界』。ある機会・場面に”ぶつかる”──そして向かい合う=”臨む”──だがしかし”望む”ころに到達(達成)できない理由が明らかになり、納得して諦め断念する──という占う対象に対い望む占意が占い描き観た占い記述からの占想「思考」=占態(望みの実現)への「創造」的プロセスを──そこに見出せるだろうか? 観者となった相談者が占意の対象に沿った占想において思考・創造する──この迷いの思考(=占想)と創造(=占態)とは”合致”しないという現状認識。それは飽くことなき”望み”から生ずる──という原因究明。この「境域=臨界」に得るには正しい方法に依るべきことかもしれない。占態への占想と占い記述は──まさに“火の呼吸”の中核に位置するもの──「潜勢」が熱として目覚め、「思考」が”火”として立ち上がり、「創造」が”光”へと転じる──まさにその発火の瞬間の占い譜面=『観氣(かんけ)』の発火譜である。臨界とは──境域が呼吸し始める点。それは“破断”ではなく──まるで“接触”の瞬間であり、「内」と「外」、「個」と「他」、「潜勢」と「現勢」が――互いに触れ合い、呼吸を交わし始める。その僅かな接触領域が臨界──つまり臨界は対立の間に現れる”共鳴膜”として、”静止と運動/崩壊と生成”が共存する場ですらある。それは境域が境界であることをやめ──あたかも”呼吸する場”になる瞬間。

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』の「占方(占形)と月星占術」と付随するコーチングは、「未然の生成=未到の運気」=「基底:”自己生成”」そのものの具体的実施プロセス(カルチュア:”醸成”)という『観氣(かんけ)』そのものの”実践”です。「生成」と「運気」が別々でなく──ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象にあり、「運気が生成を照らし/生成が運気を溶かし/双方が相互に生成し続ける」──これが『観氣(かんけ)』が名前として示す「基底:”自己生成”」。私たちに渡された”火種”=「生成の縁起/運気の縁起」の”現勢と潜勢”を求める「心通と氣」とは、自分の”心”を通す「縁」に生じ起こる”氣”に「未然の生成=未到の運気」を探ることであり、”日常の地層(=日常の生成層)”において──自己生成・運気の地力=「潜勢的”力能”」を見出し発現させることにあります。縁起は外にはなく、私たち自らが伏流する「運気=力能」──”潜勢的”。生きることは縁起を進むことではなく、自分を興ず(起こす)「縁起」に自身が歩まされていることです。自図に生起する生成(又は転成)とは、”すべてを抱く肯定”であり、完成ではなく”持続する始まり”──すなわち「生成変化し持続する」=「創造=”動く”生成(持続する生成・運気)」。『観氣(かんけ)』の”沈黙と誘い”は一気に「縁起の母床──”具体場”」へと、”心通と氣”は静けさの奥で未だ名も無い道をひらく。足を止めたとき、もう運気がより上がる勢いの興図に自らが立っていた。それは終わりではなく、”生成の縁起”が次の姿を選び取るための「呼吸(心通と氣)」は「感性(悟性と運気の素材)」だった。

これまでが場を生み出す生成・運気だったとすれば、これからは生きることそのものを生成・運気として観る──つまり「生成と縁起/運気の縁起」に広がる形。
”感性が躓き”となるとき──それは未然の自らの興図の根に接していることになり、私たち自らの足元にある「生成・運気の自図」は屡々その見えない興図の根の網(基底)に触れる瞬間=「問い」──「感性の躓き=”跳躍”の前触れ」として、それを危険ではなく「縁起(生成・運気)の震源」として受け止めることが私たち自らの構えとなります。興図の根の網(=”縁”の基底)とは、言葉になる以前の前成層──「未然の生成=未到の運気」=”縁起”の発火点であり、「沈黙と誘いの母床/母胎)として、それは生成・運気の自図を下から支えている──”目に見えない縁”の根茎構造(リゾーム:”縁”のどの点も他のどの点とも接続しうる非中心的で多方向的なネットワーク)です。ゆえに「感性の躓き」の”問い”には、答えることよりも”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる”ことが大切なのです。人それぞれ『観氣(かんけ)』における基盤(月星占術と因・縁・果)=反転円があり、「縁数・縁位」と”直交円”=気縁・機縁/「感性」と”生成・運気円”=縁起・縁因/「力能」と”潜勢円”=縁由・縁成の重ね合わせに”結び目(結実)”を求める多岐にわたる無限遠点からの極めて直線的な「生成・運気と縁」の集積化です。(註:縁数は数字の気縁/縁位は方位の気縁/機縁はその切っ掛け)

「縁は”結び目の転成”」──つまり交点の入れ替えとして占術の月星の配置や配座が反転・回半(回転してから反転)する交代結び目こそが私たちに渡された”火種”=「生成の縁起」の”転位”そのものです。すなわち──全体の運気(=力能)とその中の個別の縁起(=生成)=跳躍点の第一震源(=転位の震源)として── ”潜勢的 → 差異 → 新生 → 誕生”の流れにおいて人それぞれの”心通と氣”による縁起の生成・運気と力能の発現にある「占意と占想による占態=結実」が『観氣(かんけ)』というわけです。「今なにが起きているのか」──今の力”潜勢”/今の閾”転位”/今の場”跳躍”/今の種”発芽”/今の拍”共振(月星)”が集約された”『観氣(かんけ)』に触れ触れられる反転転換(転位:運気と縁の向き・順序・位置を変える)”──跳躍点(転位の臨界)→ Cognigenesis(自己生成の震源)。日常見に現れる生成の前生層における”畏れ・間隙・胎動・縁起”という「生成・運気の地熱」が上がっていく中で──「反転円」をうまく選ぶことによって反転前の運気と縁の世界よりも反転後の「占態=結実世界」の方が強く上がる勢いを見せるといった同一性から繰り返される”生成・運気=差異と反復”に縁起は──まさに生成され続けていきます。”興図の根の網”は私たち自らで”踏む場”に委ねるものとして──私たちの「生成・運気の場=縁」に宿すものであり、だからこそ「余白(生成・運気)」と「跳躍(縁起)」は──そこに”沈黙と誘い”が配置されているだけでいいことになります。

『観氣(かんけ)』の具体場における始まりは──「生成・運気の”触地”」として立ち現れる“場の展開と実践の接地”において傾聴する対象の実事要素に伴い対う(むか・う)べく”観者として相談者”の〈あなた〉自身の「内面の表現」が首途となります。〈占いを”見る”〉その”占想の占い記述”を起因に『共観」は──抽象的且つ多様で紛錯とした「占想(占い記述)」から結果的に「占態(望みの実現)」へと還元するがためにの”共生振動”となり、「生成の縁起=運気の縁起」を見出す”感性”となるべき自己生成:”問い”の探求(問い掛け)へと〈あなた〉は、”占想”を片手に”占針”を歩き始めることになります。──”問い”を立てたそのものこそ《占いを”描く”/占いを”観る”》導火線となり、相談者としての〈あなた〉自身における“経験のしかた”が──観者としての〈あなた〉の「占態」における”実際の実地”として接続し展開されうるということです。

”占想”を片手に「歩く」=”日常の地層(生成の地層)”に「占想」は息づいています。『観氣(かんけ)』の具体場に”歩く占想”は「占針」=指針──〈”意”の針〉として、感覚を除いた「思考・創造」などの心の働きとその作用を指す”心”を通す(心通)「縁」に生じ起こる”氣”(未然の生成=未到の運気)を探り、自己の生成と運気に「潜勢的”力能”」を見出すことができます。敢えて〈占いを”見る”〉ことなく、「占想」は”気づきの占意”となって「生成(運気)の”触地”」へと招待するでしょう。──つまり”占想”に伴う”占針”に付随する指標ともなる「運気の縁起=未然の生成(生成の縁起)という「縁=心通」こそが人それぞれに描き観て取れる”氣”であり、「占想」を単なる”占い記述”に止めることなく──生成と縁起(運気と縁起)の拍の質を変え、場に発芽(顕現)させ、”月星と共に”──その「占態」を”生運の拍動”に共振させるのです。

「”縁”の風(縁起)」を起こして生きるのではなく、「運気と氣の”風”」に触れられる自分自身の「旋風(つむじ)」を知る──ここから先は”生”そのものが楽曲だった。空間に浸り時間に流れ風景を生きる人間。人間の象徴として「生きる風景」そのものが人の微妙な”心通”を語っている。”月星と共に”人の「生きる風景」の”氣”は覆い隠せない。人間の生きる事実として「風景に生きる」自分自身の反映─その中に奥深く自らを投入してゆくことにより、「生きる風景」の微妙な”心通と氣”──すなわち「”月星と共に”生きる風景」は、敬虔な気持ちを呼び覚まし、人は気宇と謙虚な気持ちになることができ、自分の”生きる風景”の深みに人間の深みと自らの”心”の奥深くを”氣”から「感性(受容と能力)によって悟る」ことができる。すなわち──人の「”実り生きる”母胎」の”種子”である縁(えん)にあるのは、”心”を通す波長により醸成する無数の”氣”に支えられて成り立つ人間としての《実り》=『”生成”に”運生”』。

『観氣(かんけ)』の具体場に、波打つ”生まれる前の核心”──《蒔種》。”当たり外れ”の知的好奇心を喚起させられる──”潜在的”な「占想」の思考と「占態(望みの実現)」の創造への強烈な刺激。占想から占態(望みの実現)を生み出し獲得するに到る──パラダイムシフト。
顕在化する可能力性として《潜勢的》は、始動的・終息的存在として、潜在的な「地勢・地力=力能」の発現を可能にさせる可感的で可知的であり、自らが持つ固有の本質の発現を可能態から現実態へ移行することであり、「生成」と「運気」が別々でなく、ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象──運気が生成を照らし、生成が運気を溶かし、双方が相互に動き生成し続ける──”根源活性”により『運生』は、守株的な月相・星相の覆いを脱ぎ去った『観気(かんけ)』の新生”月星と共に”、《種線(seed-line)》の「生成と運気」に──『移行転化』することです。

そして『観氣(かんけ)』の具体場に、跳躍する拍動の”前触れ”──《予祝》。”当たり外れ”の間違いを受け入れる強さは知の覚悟として──パラダイムの扉を叩く手は「問い」を手放さない。顕在化する可能力性として《潜勢的』=潜在的な「地勢・地力=力能」は、”心”に受入れられ沈黙し無力な存在ではなく顕勢において雄弁な性質を具しており、通常の”問い”に対する”生起の問い直し”は、触発・中止・方向転換の目的追求ではなく、埋め手 / 打つ手による”消滅の在り方”から離れ移行することであり、「生成」と「運気」が別々でなく、ひとつの”生成線(ジェネシスライン)”として現れる現象──運気が生成を照らし、生成が運気を溶かし、双方が相互に動き生成し続ける──”根源活性”により『運生』は、守株的な月相・星相の覆いを脱ぎ去った『観気(かんけ)』の新生”月星と共に”、《種線(seed-line)》の「生成と運気」に──『移行転化』することです。

 

…..〈あなた〉の「生成の縁起=運気の縁起」の結び目=「”運生”における結実」へと向かい、観者となる相談者の〈あなた〉と”共観”を伴う一緒の私たちは、『観氣(かんけ)』に必ずや──「”実現可能力性”への潜在力」=『”潜勢的”すすめ』である「生成と運気」において《移行転化》する新生の”月星と共に”『種線(seed-line)』を見出し、「創造=”動き持続する”生成と運気」の”運生”に《勢的──”実り(みのり)”》を結び重ね続けてみせます。…..

 

 

 

 

….. 内奥の〈わたし〉が──
わずかに揺らぐ。
それは説明でも比喩でもなく、
自明性がほんの一瞬だけ剥がれ落ちる。
「生成の縁起=運気の縁起」の前兆──
”微かな揺れ”そのものである。

この揺らぎを拒まないとき──
〈わたし〉の内部に沈んでいた “差異” が、
まだ名も持たない小さな ”birth” を起こし、
それがやがて──
「”未然”の生成と運気」の最初の微震となる。

”差異”の欠片(かけら)──
その最小単位だけで十分である。
そこから「生成の動線」は静かに伸び、
「運気との共振」へとつながる──
──《
種線(seed-line)》が現れる。

”差異の欠片”が置かれた瞬間──
《潜勢》として”伏流”していた「力能」は、

その差異を核に、地勢と地力のかたちを帯びる。
「転軸」のそれは未だ”跳躍点”ではない。

しかし、確実にそこへ向かう線である。

光の照らす「月浦(げっぽ)に”潜”を充す」──

”月相”と”星相”の結び目=「転位」。
〈あなた〉と世界の回りが変わる長期的な覆る変化。
入れ替わる──”
転換(Paradigm Shift)”に伴い、
新しく生まれ変わる”新生世界”の入り江=『真際」。

〈あなた〉の”差異の欠片”を──

どんなに小さなものでもそのまま置けばいい。
それが「起点」になる。…..

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis 日光占術|観氣(かんけ)

観師:小林 芳鳳 (GK.kenjie)

 

観氣堂 Office Kanke

主宰:小林 芳鳳 Yoshitaka Kobayashi

 

add. 栃木県日光市 日光山内 Sannai, Nikko, Tochigi Japan

tel. 080-1998-6082

 

 

《ご案内》

日光占術 KANKE『観氣(かんけ)』

◯ 観氣料
1ヶ月 ¥20,000.〜(月星占術/コーチング)
※ 1stage:1ヶ月2回

◯ 月星占術料
1回 ¥10,000.〜
※ 随時:プロセス進行

◯ 初期基盤料
1回:無料(観氣/月星占術)
※ 提案:プログラム設定

◯ 大観氣料
1回 ¥30,000.〜
※ 相談:月星次の観氣適応

 

 

ー《全予約制:対面/オンライン/電話/メール/他・出向》ー

 

 

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