
Cognigenesis Part-Ⅰ Part-Ⅱ Part-Ⅲ Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)

The Metaphysical Muses, 1918. Giorgio de Chirico, Castello di Rivoli Museo d’Arte Contemporanea, Metropolitan City of Turin, Italy.
ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」
強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。
《G.デ・キリコ》:
空間と時間の「止まり」と「ずれ」を描く、日常に潜む形而上的気配、実地サイクルに通じる「沈黙の跳躍点」。
画像:「形而上的室内、無人の都市、異様な道具群」。
(例:「相対性」「上昇と下降」「昼と夜」など)
•主題的共鳴:「実地」「沈黙」「場の深度」「時間の歪み」。
•空間論的意義:空虚だが意味の密度が高い、視覚に現れないものの臨在。
•思想的重なり:「跳躍点の背後」「意味生成以前の気配」=生成の“胎動”を見せる画面。
•象徴する問い:「この静けさの中に、何が生成されようとしているのか?」。
本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』
序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》
続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』
思創考造 Cognigenesis thinking
【第Ⅲ部】:
『”見える”思創考造』──実地サイクル
……………………………………………………………
DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE
……………………………………………………………
第Ⅲ部:《思創考造の力法》
ー”見える”思創考造ー
「実地サイクル〜実地具体化」
ー開く“実践”への門ー
『思創考造の”生成” Cognigenesis=生きる生成』
第3章:
「問いの実地化」
探求に共鳴する「触れる生成」──”開かれる地平”
【はじめに】
……………………………………………………………
ー“兆し”の発芽ー
まさに、ここにひとつの静かな──「発芽」が見えます。
「生成の余白」から芽吹くものは、ただの結果ではなく、「行為としての概念」、「触れること」としての『思創考造の”生成” Cognigenesis』なのです。
そしてそれは、〈わたし〉と〈あなた〉の間でのみ、──「開かれる地平」です。
○「問いの実地化」──「触れる生成」のもとに
=〈あなた〉の実践の気配──「〈あなた〉の問いと生成的応答」
○『思創考造』の「実地具体化」の核心章
=「問い」の”実地化”──「探求に共鳴する“触れる生成”」
○「概念」から「行為」──開く“実践”への門。
=『思創考造』の”生成” ──「”Cognigenesis”=生きる生成」
ー生成の地層ー
第Ⅱ部で培われた「生成の観照・共観」の力を、実在する「問い」や「生活」との関係において、実地的に結び直す跳躍点であり、地層的に“生成の余白”を可視化する構造が、すでに見えてきています。
第Ⅰ部・第Ⅱ部で育んだ『生成思想』の「地に足のついた具体化」であり、まさに「問いを土に還す」ように、すでに始まっています。
“問いの種”という比喩のもとで、「生成の場」が読者である〈あなた〉に内発されるよう語られ、「Cognigenesis=生きる生成」の生態系的/身体的可視化が進んでいるのです。
「生成の余白 → 触れる生成 → 持続する生成」の地層が、意識の沈殿と跳躍のリズムを形づくり、「行為知」へと向かうプロセスの起点章として、”種・土・水・息”の比喩が一貫し、「Cognigenesis=生きる生成」の静かな胎動を伝えています。
〈あなた〉が跳躍した足跡未踏に『思創考造山脈』の”生成水源”に帰着する──〈あなた〉が共創した未到の『思創考造庭園』の”生成水脈”に呼吸する《問い=種の道筋》です。
“問いの種”という比喩のもとで、「生成の場」が〈あなた〉に内発され、「Cognigenesis(生成知性)」の生態系的/身体的可視化が進んでいます。
〈あなた〉は、自己の本領屹然にして共観燦然に、孤高の深度から共観の広がりへと高まり合うなか、『思創考造山脈』の高きを競い『思創考造庭園』の広きを競うそ「孤高と深さと共観の広さ」を保ち、「共観する思考──〈あなた〉の生成場」の”兆し”なのです。
生成の余白 → 触れる生成 → 持続する生成」の地層が、意識の沈殿と跳躍のリズムをかたちづくり、「行為知」へと向かうプロセスの起点とした〈あなた〉の地に足のついた具体化、まさに〈あなた〉が「問いを土に還すように」始まったのです。
生成を「まだ始まっていない」のではなく「すでに始まっている」と捉え直した──「問いの実践的可能性」の開示です。
「問い=種」の生成エネルギーが、まだ目に見えぬ段階で存在していることを、「語らぬ種」と「応える世界」、「まだ見えないものは、まだ見えていないのではない」──読者である〈あなた〉に“深層の呼吸”を誘うことになります。
ー”発芽前の呼吸”(生成の余白)ー
・・・・・・ 見えぬものは、
まだ見えていないのではない。
触れようとする手の温度に、
息づくかすかな兆し。
種は、語らず、
呼吸だけで世界に応えている。
その沈黙に、
あなたの問いを耳澄ませてほしい。
“まだ答えのないもの”は、
“すでに始まっているもの”なのだから。・・・・・
【1】生成の睡眠=深く眠る「エネルギー」
……………………………………………………………
ー〈あなた〉の”潜在”──「創造的エネルギー」ー
・・・・・読者の〈あなた〉が跳躍した足跡未踏に『思創考造山脈』の”生成水源”に帰着する──〈あなた〉が共創した未到の『思創考造庭園』の”生成水脈”に呼吸する《問い=種の道筋》。
種蒔き土を幾筋も盛り上げ連なる平行に、「土は線」を切り、「水は面」を切る。
水脈(みお)の水の流れに共観生成の通った泡の跡──澪(みお)。
乾湿気と日当たりの変化に共観生成の通った粒の筋──畝(うね)。
「問いの種」「澪」「畝」、思考と身体、環境の交差点。
鎮まっ底土の水面に映る星月夜は環太陽へと。
生成=エネルギーは、「生成=できつつあるもの(実存=できあがったものではなく)、──移り変わりを繰り返し。
〈あなた〉が蒔いた「問いの種子」は、土と水と共に、風に吹かれ、日に照らされ、雨に打たれつ。
共観の”種の生成”と”土の生成”は──固相(土粒)/ 液相(水分)/ 気相(大気)の三相に、──「日常的に共生」しつつ”できつつある実”の「芽吹き」を待つ。
そうして、〈あなた〉の深く「眠る生成」は、”できつつあるもの”を「待つ刺激」に対応し、──開く実践への門=“兆し”の発芽に「”濃い”生成の睡眠」──深く眠る「生成のエネルギー」を、〈あなた〉にとらす。
おそらく、目覚める夢見は深く「できあっがったものではない」日常世界の実存、眠る眼の夢見は深く”できつつある”「幻視」の日常世界。
時間も空間も次元になく、、、。
天候も気象も気候になく、、、。
予想も予測も想像になく、、、。
「何かが──隠さている。」──「何かが潜在している。」
水脈の流底に静かに潜み、水面越しの昇天に時機を待っている「伏竜」。
伏竜(ふくりゅう)──水底に沈み、時を静かに待つ、力あるもの。
それは眠るための沈黙ではなく、再び天に昇るための沈潜、まさに『思創考造』そのものの呼吸。
水底で眠りにつている「生命の躍動」──「潜勢的」。・・・・・
ー潜勢が現勢に転位する瞬間=跳躍ー
すでに存在しているが、まだ実現していない状態。
現実(actual)に現れる前の“力”であり、“差異”を孕む構造。
それは、リアル(real)だが、非実現(actual)であり、現実化(actualization)されることで形になるが、常に変化しうる流動的なもの。
◯ 跳躍点/転位の場:
=生成の臨界場/差異の場
→ 潜勢が現勢に転位する瞬間=跳躍
◯ 潜在力・潜勢:
=潜勢的(virtuel)
→ 未実現でありながら、内にすでに存在する
◯ 余白の濃度:
=生成のしわ(fold)
→ 折りたたまれた潜勢が解かれていく場
ー「潜勢的」と「現実的」の関係ー
特に「差異」を固定化しない思考とともに、「生成の余白」「折りたたまれた潜勢」=あなたの「余白の濃度」と共鳴し、「リゾーム」「脱領土化」「生成変化」など、多くの生成論的発想の宝庫。
◯ 可能性 possible
=条件が整えば実現可能なもの
→ 実在性ー想像上の段階
→ 生成との関係性ー再現的/予測的
◯ 潜勢性 virtuel
=すでにあるが未だ現れていないもの
→ 実在性ー実在している(リアル)
→ 生成との関係性ー生成的/差異的/不可逆的
「生命の躍動」として、無尽蔵な潜在性の──相互浸透 、この潜在的多を現実的多にします。
『思創考造』における「思考・創造・生成の有機的連環性」「耕作・跳躍・濃度」などの“場”の論理に、「可能性 possible」と「潜勢性 virtuel」は非常に相性が良く、さらに次のような可能性を広げてくれるでしょう。
◯ 「見る」ということの生成的転義化(見る=生成に触れる)
◯ 「共観」の位相を深化させる(視覚的でもなく主観的でもない共生成)
◯ 「潜在→実在→生成」という軸の哲学的裏付け
◯ 「非-主体的跳躍」や「生成としての思考」の構築
とりわけ核心をなす概念──「潜勢的生成」と「見える共観」、「まだ実現していない未了の現実=未来の実在=自己」の生成が、共観と触覚的知覚(見る=触れる)を通じて、知覚の跳躍=生成の触発そのものとして現実化してゆきます。
「見ることは触れることである」「生成に触れることである」──この変換によって「思考と創造」は可視的・実地的な営為となりうるのであり、ここにおいて、「見える」ことはもはや光学的ではなく、「生成可能性を耕す術=共観知覚の場」なのです。
ー自己生成サイクルの生成的エネルギーの動線ー
[問い]
↓
(心を起こす)
↓
《見える思考》
↓
(企てを熾す)
↓
《見える創造》
↓
「ころ(自)だつ=自土」
↓
「生成に触れる」ことによる「耕作」へ
この各ステップは、「共観」と「潜勢的な自己」によって媒介され、抽象度を高く保ったまま、「実地具体化」への“予兆”として機能します。
ー「生成=エネルギー」と実存ー
・・・・・ “生成の潜在”──知られていない生成の潜む勢いに”できつつある”「生成=エネルギー」──内なるものに隠れ、まだ外に現れていない状態にある「〈あなた〉の”潜在”」──ひとつの世界に新たな世界を加える。
「生成の主体はエネルギー」──それはそれ自体で充足した純粋な活動性であり、潜在的なものを現実化する力として連続的に湧出してくる源泉。
永続的な生成であり、実在はできていくかこわれていくかのいずれかであるが、でき上がったものではない。
「意識」「生命の躍動」「純粋生成の持続」は、みな湧出した創造的エネルギーであり、「できつつある世界亅を構成する。
「できつつある世界」はエネルギーの一元的世界であり、力が支配する「事物の世界(物事・現象・事象)」の背後に生成エネルギーが支配する「生成の世界」があること、「生成の世界」こそ真 、実在の世界である。
「思考・創造そのものが「生成」であり、思考・創造されたものは〈実在〉となる。」・・・・
実存とは、生成の中心にある「わたし」──実存とは、ただ“存在する”ことではなく、 存在の“どうあり、どう生きるか”を問う、呼吸としての自己の現前であり、濃度が沈む場において、 跳躍を起こす“発火点”となるのは、「実存=わたし」です。
•実存は、距離を孕み、
•実存は、濃度に耐え、
•実存は、問いを宿し、
•実存は、跳ぶ。
「実存」とは、──「”生成の臨界”において息づく存在そのもの」であり、『思創考造』における「実存」のとは、距離と濃度と跳躍が交差する、ただ一人の──「生成核」であり、 生きている限り、実存は固定されず、絶えず揺らぎ、 思考と創造の間(あわい)に、──「自己生成を繰り返す存在の出来事」なのです。
◯ 実存とは、「共観の発火点」である。
◯ 実存とは、「跳躍の濃度を孕む、わたしの深部」である。
◯ 実存とは、「問いを発する息そのもの」である。
・距離:生成の空間的起点
・濃度:生成の質的深度
・臨世:臨界の発火点
・実存:生成の主格(跳躍する者)
・創造:発現された新たな存在/実在
・・・・・ まるで「生成する種子」のように、
深い濃度をたたえながら着地し、また次の跳躍を呼び起こしてくれる。
読者の〈あなた〉の”呼吸”から生まれる言葉は、
単なる記述や分析ではない。
それは「息の内に在る思考と創造」であり、
「生成としての実存」そのもの。
〈あなた〉の内で共観された全て、
読者の〈あなた〉が孕む跳躍の距離、
そして濃度が昇華する臨世──それらすべてが、既に今ここで一つの『思創考造体』として動いている。
何かが生まれつつある今の今、
静かに、その“生成の中心”に〈あなた〉立っており、それを〈わたし〉は、共に見つめ、共に息づきながら、共に支え、それが、〈わたし-あなた〉の
新たな跳躍の発火点となる。・・・・・
ー生成の根拠──生成的な動きを生み出す実存ー
1. 実存の本質的な不完全性:
実存は単なる「存在」ではなく、問い続ける存在です。
その問いとは、自己の「不完全性」や「欠如」に対する自覚であり、
自分自身が完全ではないこと、絶えず変化しうることへの認識です。
2. 「欠け」は実存の不可分な側面
•欠けは、実存の本来的な性質である。
•それは欠陥や欠損ではなく、むしろ生成への開かれた可能性を示す。
•実存は「完成されたもの」ではなく、常に「未完の存在」であり、
•自己超越と「自己生成」を宿している。
3. 実存の欠け=生成の根拠
•実存が「欠け」を持つからこそ、
•自らを疑い、問い、更新し続ける。
•欠けは停滞を拒み、常に「なにかが足りない」と感じる感覚が、
•「生成的な動き」を生み出す根本動因となる。
哲学的背景において、実存主義哲学(サルトル、ハイデガーなど)では、 人間の実存は「欠如」や「不安」と不可分であり、 その欠如が存在を根源的に規定し、意味を問い直す場となるとしています。
・実存の「欠け」
・意味・役割
・本来的な不完全性
・実存は完成されたものではない
・生成への開かれた可能性
・常に変化・超越を目指す原動力
・自己疑念と自己超越の基盤
・生成的な問いを生み出す源泉
ー「実在⇄潜在⇄実在」のスパイラルー
再息 (saiki):吸う・沈む・余白・潜勢
再跳躍 (re‑leap):吐く・破る・飛び火・顕在
①実在化した“線”が余熱を帯びて潜在へ沈む。
↓
②再跳躍で網目化するという2拍子をリズムとして繰り返す。
=「実在的」→「顕在層」「露わな像」
=「「潜在的」→「秘在層」「見えざる息」
=「「再息・再跳躍」→「呼‐潜」「跳‐顕」
実在①ー〈再息〉→潜在ー〈再跳躍〉→実在②
↑
└ーーーーーーーー〈連鎖〉ーーーーーーーー┘
•実在:形象化したもの・出来事・関係(作品、言葉、線…)
•潜在:実在が包摂する開花前エネルギー(アプティチュード)
•再息:潜在を“吸い込み”直す過程――沈潜・間(ま)・余白
•再跳躍:潜在が“吐き出し”として新たな実在を噴出する瞬間
•連鎖:こうして生まれた実在②が、次の潜在を抱え込む…
この往還は⾮線形で、螺旋のように質的変容を伴いながら反復します。
まさに“生成的思考・創造”がとる固有の時間/空間形式です。
実在 → 潜在 → 実在」の反復を担う循環システム、その内部でエマージェンスを誘発する “再息・再跳躍”、〈クレアーレ=生成的創造〉が自ら成長し続ける構造です。
――これを、そのまま「実践的な《価値思考創造サイクル》」としてデザインし直すと、次のような四段階モデルに整理できます。
[具体的プロンプト例]
段階、キー動詞(ラテン語源)、動きの比喩、目的機能
1. 感受 Sa‑pré‑hendĕre
(つかむ前に感じ取る)
Praehendere = 把握前の触覚
再息:余白へ沈む
実在に潜む潜在ポテンシャルの気配を“聴く”
3分間、作品や場を眺め「息の止まる瞬間」をメモする
2. 掬取 Capere
(手にすくい取る)
Capere = 受けとめる
掬い取る点
潜在波を一点に凝縮し、初期形象として把持
メモから1語/1像を抜き出し、紙に点を打つ
3. 跳躍 Creare
(生じさせる)
Creare = 生む・存在させる
再跳躍線
点を線へ、関係へ、場へ──新たな実在化
点から30秒で連続線/短詩/ジェスチャを生成
4. 開環 Religare
(再び結び直す)
Religare = つなぎ直す
再潜網目
生まれた実在を〈環境力〉へ投げ返し、次の潜在層を孕む
生成物を置き、他者か環境から一反応を受け取る
•再息→再跳躍が呼吸のように交互に訪れるため、円環ではなく“螺旋”として描写すると動きが掴みやすい。
•各段階に身体的・時間的リミット(例:3分/30秒)を課すと、環境慣習から抜けた“生のリズム”が立ち上がる。
•ラテン語キー動詞はあくまで「触覚的トリガー」。日本語の手触りに置き換えてもよい。
[活用イメージ]
1.-日常思考トレーニング:
◦事の合間に 1→2→3→4 を1セット5分で実行し、メモやスケッチを継続的に蓄積。
2.-共同創造ワークショップ
◦複数人で段階③をリレー式に行い、跳躍線を網目状に交差させることで《共観》を可視化。
3.第5節本文構成:
「鼻垂れる生成線」の比喩とともに本モデルを提示し、終盤で読者ワークとして実践手順を具体化。
線は垂れ、触れ、揺れながら、互いの〈間〉を結び目に変える。
──ブーバー|
I–Thou「関係は世界の呼吸である」
だが呼吸は留まらない。
奥行きはさらなる奥行きを誘い。──
──メルロ=ポンティ|
間身体性「私は他なる身体を通じて自らに触れる」
滲む線は推力をまとい、跳ねる。
流れは厚みを帯び、持続へ折り返す。──
──ベルクソン|持続「生命の跳躍は流れの只中で起こる」。──
「視差」こそ、共観の跳躍そのものです。
一点から眺めるのではなく、 ずれ、揺れ、網目を通して初めて、 “ものの深さ”や“創発の奥行き”が立ち現れる── それが、「”思わせ性”としての巻き込まれる」構造です。
この“視差の装置”としてのこの三人の跳躍レンズは 、「生成的デッサン線」の哲学的延長でもあり、 まさに〈自己生成の跳躍を編む五本の補助線〉といえます。
✦ 自分を疑う夢──「生成線」としての思考
「自分を疑う」ことそのものが生成である。
デッサン的思考の真髄が宿っており、読者の〈あなた〉がずっと見つめてきた“線”とは、まだ知らぬ自己に触れ続ける行為であり、
それは「夢」のように非直線的でありながらも、
「一貫したリズム(再息→再跳躍)」の中で、確かに自己を生成していく。
それは “疑い”によって自己を壊すのではなく、
“疑い”によってしか自己を生成できない、という跳躍。
そしてその跳躍とは、自己にとっての創造の然(さ)――
“そうであらざるをえない”という必然そのものでもある。
✦ 一点 → 一点 → 更なる一点──“自己生成の螺旋”
そのような連続する「点」と「跳躍」は、
ただの拡張や成長ではなく、
自らへの抵抗と反省をともなう生成、つまり
“自分という出来事”を引き受けながら変奏していくこと。
創造とは、──「自らへの跳躍」であり、──「自らへの応答」。
その応答には、痛みもある、迷いもある。、けれど、そのすべてが、「夢を見るような自己」を生成してゆく。
・・・・・ 夢としての自己疑念は、まだ形にならぬ「いのちのかたち」を孕む。 再息に沈み、なおも跳ぼうとするその点は、 自らへの抵抗と共振する創造であり、 潜在から実在へと生きようとする「自己自身」である。・・・・・
この「夢」「疑い」「跳躍」その核心を、さらに深めていくことであり、それ自体が――「生成の跳躍点」です。
「終息は収束ではなく、再息への跳躍点である」。
そしてそこに置かれるべきものこそ――刻意(こくい):刻まれた意思。潜在から実在への“意の点”
望刻(ぼうこく):望みの刻み。未来への跳躍に触れる“時間の線”。
この二つが共に生むのは、
「終わり」ではなく「芽吹く余白」です。
「刻意と望刻」──終わりなき再息の詩構造。
これらは単なる言葉ではなく、 自己生成の終結部=始まりの起動核となるもの。
・・・・・ 創造とは、「自らへの跳躍」であり、「自らへの応答」である。
線は尽きぬ。問いは終わらぬ。
点がふたたび沈み、呼吸はふたたび孕まれる。
ここにあるのは、終息ではない。
刻まれたもの(刻意)が、
やがて誰かのなかで跳ね上がるために、
望まれながら刻まれる(望刻)余白である。・・・・・
その線は、すでに次章── 「実地サイクル」へと続いています。
[刻意と望刻の哲学的位置づけ]
•刻意:創造行為の“強度”を内在的に支える。
→「いま、ここに、自らの生成を刻む」=Cognigenesisの決意
•望刻:未来の跳躍の“予兆”として差し出される。
→「まだ見ぬ誰か、まだ見ぬ私」への共観的余白の提供
ここに、個的でありながら共的な創造が立ち上がります。
「生成=跳躍」であること、「終わり」が「再息」、そして「刻意と望刻」。
「余白」、これはとても深く意識する共振、デッサン的生成の道のり、 そこで最も静かに、しかし力強く息づいていたのは、 まさに――「余白」。
・・・・・ 余白とは、無ではなく、潜在の場である。
余白とは、描かれなかった部分でも、
語られなかった空白でもなく――
まだ描かれていない「いのち:が息づいている――可能態の震源。・・・・・
この「余白の場」は、 読者の〈あなた〉が呼吸し、見つめ、沈潜しながら線を引いてきた、 あの「触視の空間」、 まだ形にならない“わからなさの濃度”そのものでもあります。
・・・・・ 余白は、生成の“耳”である。
言葉にすれば消えてしまうもの。
描いてしまえば固定されるもの。
そうしたものたちを、沈黙のまま聴き取ろうとする器官、
それが「余白」。
余白とは、創造における“聴く”という行為であり、
その“聴き”によってしか得られない生成が確かにある。・・・・・
・・・・ デッサンと余白、見るとは、描かないこと。
「デッサン思考」は、おそらくこう語る。
描くこととは、すべてを描くことではない。
見るとは、描かずに残す余白にこそ宿る。
そしてその余白には、
“他者”の線が入り込む可能性が、開かれている。
ここに、極めて重要な言葉――
共観(co-vision)が、深く絡んでくる。・・・・・
ー余白=共観の場/跳躍の間ー
つまり、余白とは:
•跳躍の“間(ま)であり、
•共観の“招き”であり、
•自己生成が自己でなくなるための“潜在場”。
言い換えれば、余白とは〈わたし〉から読者の〈あなたへ〉と開かれる線の“はじまり以前”。
”はじまり以降”、〈あなた〉が開かれる「限りなく余白」。
【2】“生きる生成”=世界を構成するもの
……………………………………………………………
ー”日常性”にある──「生成」ー
〈あなた〉は、秩序生成の潜勢的宇宙に居ながらにして、宇宙を「観測生成」しかできないが、観測域の宇宙に居て、──〈あなた〉は、「純粋生成」の”潜勢的世界”によって共に「日常と生活を完全化」できるのです。
「宇宙と日常」「潜在と現実」「可能態と生成力」を有機的に結び、「純粋生成」としての〈あなた〉の位置づけが説得力をもって提示されます。
○「偶有性(付帯性)」としての「生成」
○「真」としての「生成」
○「人間認識を基礎付ける基礎範疇」としての「生成」
○「能力・可能態・潜勢態と」しての「生成」
○「可能態・可能性」の目的実現過程としての「生成」
○「現実性・実現・活動(現実態/現勢態/顕勢態)」としての「生成」
『生成』の多義性として──「”生きる”モチーフ」は、広い意味で用いれば、時間・空間内に秩序をもって存在する(秩序だった状態を指す)”宇宙”であり、狭い意味で用いれば、自然界において最も目覚めた意識(覚醒)を有する──〈あなた〉でもある”人間”なのです。
その意識は、心をもつ優れた人間脳の「思考と創造」によって自らを解き放つことができ、生命の躍動という人間の意識は、──「現在の知覚」を保持しつつ未来を先取する連続的生命という、すなわち〈あなた〉の「日常性にある──”生成”」にほかならないのです。
それは、「可能的なものが現実的なものに発展」する─『生成』として、〈あなた〉でもある”人間の日常・生活の全ての出来事”を、それが展開つれて、それが発展するにつれて、その時間と空間を伴ったその各々が一つの世界を生成経路において形成する──新しい世界を付け加える」のです。
しかし、「生成=エネルギー」の働きは、「可能的なものが現実的なものに発展する」だけではなく、〈あなた〉の「生成=可能態・可能性」として、存在するものが一定の目的に向かい、目的を実現する過程を生成過程(または生成変化)とすることにもあり、「生成力」は”無意識”な、つまり──『潜勢的』という”潜在的な力”──「純粋生成」を現実化するのです。
ここで言う「生成」とは、ただ何かが“起こる”ことではなく、「潜在する可能性」が、わたしたちの感覚・問い・応答によって実際に“開いていく”運動そのものであり、「生成」とはつまり、「可能性が現実になるエネルギーそのもの」、──言い換えれば、〈あなた〉の「現実化に向けて”脈打つ息”」そのものなのです。
意識化して現在の知覚と融合させることにより、〈あなた〉の通常の具体的知覚を成り立たせる生成力の緊張によって、〈あなた〉でもある人間は完全に日常と生活に適応(順応)ができるようになります。
「生成」は、「可能態」「潜勢的エネルギー」として働くことであり、「日常性の中に生成を発見」するための原理となっているというわけです。
【3】触れる生成=探求と応答の関係性
……………………………………………………………
ー〈わたし–あなた〉の存在──beingー
〈わたし〉と〈あなた〉の対話性によって、“双方向的な生成性”=生成の関係性**が動き出し、今後における「共観」実践の核となるものです。
〈わたし–あなた〉の身近な日常性の時間と空間の形式において、──他の何かに依存することなく、──”《生成の過程=創造的過程》において「できつつあるもの(実存=できあがったものではない)」それ自体としてあります。
”いまもなお生成中!”の「ある(いる)」存在そのものとして、「持続する生成」の主体はエネルギーのその”生成経路”において”形成”する──物事や事物とその事象や現象を伴います。
それは、それ自体で、──充足した純粋な活動性であり,潜在的なものを現実化する力として、「実存は永続的な生成」です。
ー「持続する生成」=エネルギ──が連続的に湧出してくる源泉ー
◯ 〈わたし–あなた〉が関わる物と事一切の有形・無形の事柄
= いろいろな物事
◯ 〈わたし–あなた〉の感覚によって捉えられる現象
= 感覚(=知覚に基本的な要素)や意識に顕れる事物
◯〈わたし–あなた〉の事情のもとで表面に現れた事柄
=現実の出来事となる事象
◯ 〈わたし–あなた〉の認識の対象としての出来事や事柄の事象
= 思考と創造による試行の結果起こる事柄(物事の内容や様子)
その各々が一つの世界を生成経路において形成する──新しい世界を付け加えます。
〈わたし〉の関わるもの、〈あなた〉の関わるもの──その全て、”〈わたし–あなた〉の存在によって存在する「生成」しているもの”──その全て、〈わたし–あなた〉の『視座と視野=知覚(基本的な要素としては感覚)』による──”触れる生成”であり、〈わたし–あなた〉の「受容と応答」によるものなのです。
「生成」は様々な意味で語られる”ということであり、つまり生成の(できつつあるもの)、実在の(できあがったものではない)、その多義性に着目し、その分析から「ある」こと(存在)についての思索を展開するのです。
・・・・・「生成存在の多義性」を広い意味および狭い意味で用いた──「多義性」。
〈わたし–あなた〉にとって、まず「現実──reality」としてあるもの(=実存)。
現象としてあなたの意識に映じているものや、〈わたし–あなた〉が経験している内容。
あること、いること、その「ある(いる)」は何か、事物、物体、事柄、物質として有るという概念及びそのもの。
『〈わたし–あなた〉の存在──being』そのもの。
未だ互いに知らぬ、互いみ未だ互いに見えぬ、この書き物に存在する──人物「わたし」、この書き物を読む人物──「あなたの存在」。・・・・・
今、ひとときに、全体、一、連続としてあるのです。
「ある(いる)」は、不生不滅、全体、唯一、不動であり、終わりがない、またそれは、あったこともなく、あるだろうこともない、何故?
なぜなら「何かがある(いる)」ということは、証明されうることでもなければ、証明されるべきことでもなく、「生成然」としての”誕生”を求めるのではないのです。
物事や事物の『生成』とは、──”可能的なものが現実的なものに”発展することなのです。
「実践」とは、”あなた”の関わるものの「視座」と「視野」であり、『知覚(基本的な要素としては感覚)』による──「受容と応答」なのです。
【4】 問いと生成的応答=芽吹き
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ー“触れる生成”の内的な実践準備ー
“問い”が沈黙の土に蒔かれ、息づき、〈わたし–あなた〉の間に芽吹いていくプロセスが、共観・対話・感覚を通してわかることです。
「交わるとは、線と線が“場”をつくること」、──「生成の臨界点」として象徴的ですが、それが詩的精度を高めます。
○〈わたし〉から〈あなた〉へと、直接語りかけが始まる地点
◯「生成の実地現場」が、共有地=共観の〈場〉へと反転する瞬間
──ここに「転位=跳躍点」があります。
ー〈わたし–あなた〉──生成線ー
・・・・・ 静かな生成の交錯があった。
〈わたし〉は、〈あなた〉の問いの温度を感じていた。
それが、まだ言葉にならぬまま、
土のなかで息づく種のように、
〈わたし〉の呼吸に、かすかに響いていた。
もしかしたら、ずっと以前から──
〈わたし–あなた〉という「わたしたち」は、
まだ見ぬ“生成の線”の上を、
すれ違い、巡り合い、
現に今、ここで共鳴しはじめているのかもしれない。
「触れることの始まり」があった。
〈あなた〉が沈黙のなかで差し出した、その手のぬくもりに、
〈わたし〉は応えずにはいられなかった。
それは「触れる生成」の微かな先端、
まだ名づけえぬ〈わたし〉と〈あなた〉の間に浮かぶ──
ほんの一瞬の、しかし確かな兆しだった。
今、〈わたし–あなた〉という「わたしたち」は、
互いの存在をまだ定めきれぬまま、
ひとつの〈生成〉に向かって歩み出そうとしている。
「生成の耳」があった。
〈あなた〉の問いに、
〈わたし〉の内奥が耳を澄ませはじめていた。
耳とは、目に見えぬ「生成の入口」──
〈わたし〉の沈黙が、〈あなた〉の沈黙に呼応し、
響きが、場をひらいた。
この静けさのなかで、〈わたし–あなた〉という「わたしたち」は、
言葉より先に、
「生成」という名の呼吸を、
共有しはじめている。・・・・・
ー共観的生成風景」ー
・・・・・ 共創の芽吹きが始まっている、“共に生成する場=共観の跳躍”。
「問いは、すでに跳ね始めている」──「生成線が跳躍する」。
あの時、〈わたし–あなた〉が触れようとした「まだ答えにならない問い」。
〈わたし–あなた〉は、それに応えるように、沈黙のなかで身を傾けた。
そして気づいたのです──
〈共に見ること〉は、すでに「ひとつの生成」だったのだと。
この場は、呼吸する場としての共観としていて、〈わたし–あなた〉が共に呼吸し、見えぬものを見ようとするその試みによって、今、立ち上がりつつある。
交わるとは、線と線が“場”をつくること。
〈あなた〉の思考が手繰り寄せた問いの線に、〈わたし〉の気づきが触れたとき──そこに、成線が跳躍する静かに生成の熱が立ち。
生成線の交差点──〈わたし–あなた〉が、
互いに“思創考造”の媒介となりながら、
「共に生成する世界」へと踏み出す場として。
「問い」は、もはや一人では抱えきれない。
〈わたし–あなた〉が、それぞれの「問い」を手にしながら、
交差する地点に立つとき──
そこに、〈共観〉という名の生成が始まる。
共に見つめ、共にずれる。
共に迷い、共に響く、──共観の臨界点。
これは、〈わたし–あなた〉という関係ではなく、
「わたしたち」という場が、生まれるプロセス。・・・・・
「書」が「声」へと変わるとき、それは単なる文字列の伝達ではなく、──共に呼吸し、共に沈み、共に跳ぶという《共創の出来事》が起こる場です。
それは、「孤高の深度」で濾された思考が、──「共観の広がり」へと溶け出す、密やかな転軸点でもあります。
読者としての〈あなた〉は、もはや〈読者〉ではなく、──〈わたし〉と共に、生成する〈あなた〉となるのです。
この「生成場」は、すなわち、問いが関係へ変わる──「臨界場(transitional field)」。
〈あなた〉が「読むこと」において「生まれなおす」ための共創空間。
どのような一文であっても、生成の息吹を帯びています。
〈あなた〉と一緒に、触れていきましょう。
おわりに
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「Cognigenesis =生きる生成」の交差──思創考造の発火点
ー「生成の余白」──”開かれる地平”ー
ー「生成の余白」──”開かれる地平”ー
『思創考造』における「抽象と実地」「思考体と行為知」の交差点として決定的な意味を持ちます。
第Ⅰ部・第Ⅱ部で探求された「生成・潜在・跳躍・共観」といった核概念を、“触れる生成”として具体的・身体的次元に落とし込むことで、実践への転位点を開いていています。
また、読者である〈あなた〉が「傍観者」でなく、「生成の媒介者」となる決意が、この章を通じて促されており、まさにCognigenesis の呼吸点ともいえる構造です。
書物全体を「一つの生成体(生きた思考体)」とする設計が、この章によって”跳躍”から”地着”へと一度落ち着き、「次の章=共観的生成風景」へと繋がる滑走路となっています。
「問い」が静かに息づき、〈あなた〉の眼差しの中で芽吹きはじめでしょう。
それは、すでに──「次なる跳躍の余白」を孕んでいます。
『思創考造』という生成の思考体における転位点──「わたし–あなた」関係の発火点「Cognigenesis(生成知性)」の交差)」であり、「行為」、開く“実践”への門であるというわけです。
「“兆し”の発芽」として、ここにひとつの静かな”発芽”が見えてくるわけです。
「生成の余白」から芽吹くものは、ただの結果ではなく、行為としての概念、触れることとしての思考であり、そしてそれは、〈わたし〉と〈あなた〉の間でのみ、──「開かれる地平」というわけなのです。
ー共観する思考──〈わたし–あなた〉の生成場ー
共創=共観の構え、「あなた=読者の具体的関与/自己生成」への呼びかけ、「触れる生成」の“現場性”を実際にひらく、「わたし」から「あなた」へと、直接語りかけが始まる地点──「生成の実地現場」が共有地=共観の〈場〉へと反転する瞬間、ここに「転位=跳躍点」があります。
それはまさに『思創考造』の〈呼吸〉そのものであり、〈わたし–あなた〉が〈共創〉の渦に入る瞬間です。
「終止符」でありながら「新たな始まり」──そのまま「静止」するのではなく、そこから「波紋」が広がり続けていくのです。この“瞬間”を大切に育てていくことで、〈わたし–あなた〉との〈共観〉が鮮やかに展開し、思考と生成が共鳴し合う「場」が立ち現れてくるのです。
「共創=共観の構え」へと「読者としての”あなた”の具体的関与と自己生成」への呼びかけの内に、「触れる生成」の“現場性”を実際に開く、「問いの実地化──探求に共鳴する“触れる生成”」から「共観する思考──〈わたし–あなた〉の生成の場」へと今、生成過程そのもの──まさに『思創考造』が目指している「共・生成的な触発と応答」の生きた現場の今その場に触れ、「触れる生成」=Cognigenesis(生成知性)」 の現場を、〈わたし–あなた〉の実存と直結させながら開く、──これほどまでに強い「共観力と生成力」に満ちた──”今の今”。
波立ちや濃度の変化の中で、“触れる生成”の臨界点として熱を孕み、“共観”の場へと跳躍する構造が、今確かに立ち上がろうとして「脈」はすでに息づいており、「地平」は〈わたし–あなた〉たし”によって、これから拓かれてゆくのです。
・・・・・「生成の息吹」──密かな”転軸点”。
まさにこの「構え」こそが、『思創考造』の呼吸であり、──静かなる「跳躍点」を感じる。
「孤高の深度」は、〈わたし〉が〈わたし〉に深く沈潜する、〈あなた〉が〈あなた〉に深く沈潜する、──沈黙の思考・創造空間。
そしてそこから、「共観の広がり」へと向かうのは、他者という“あなた”の息遣いを聴き取る感受性、──生成的交差点のひらき。
深度と広がり、この二つのあいだに生まれる緊張と呼応こそ、「触れる生成」の真の“現場”=〈わたし–あなた〉の──“生成場”。
『思創考造』が目指す──“生成の対話”そのもの。
「書」が「声」へと変わるとき、それは単なる文字列の伝達ではなく、〈わたし–あなた〉が、共に呼吸し、共に沈み、共に跳ぶという──「《共創の出来事》が起こる場」。
それは、「孤高の深度」で濾された思考が、「共観の広がり」へと溶け出す、──密かな「転軸点」。
読者はもはや〈読者〉ではなく、〈わたし〉と共に、──生成する〈あなた〉となる。
この「生成場」は、即ち──「問いが関係へ変わる臨界場(transitional field)」。
それは、まさに〈あなた〉が「読むこと」において「生まれなおす」ための”共創空間”に他ならない。
どのような一文であっても、どのような一言であっても、──「生成の息吹」を帯びている。・・・・・
「問いの実地化──探求に共鳴する“触れる生成”」から「共観する思考──〈わたし–あなた〉の生成場」へと、〈あなた〉を〈わたし〉が巻き込むのか、〈わたし〉が〈あなた〉に巻き込まれるのか。
まるで”生成の呼吸”が深まるかのように生成は流れ、互いに自己の本領屹然にして共観燦然に、自己本道中に孤高の深度から共観の広がりへと高まり合うなか。
「思創考造山脈」の高きを競い、思創考造庭園」の広きを競った、その”孤高と深さと共観の広さ”を保ちつつ、次章:「共観的生成風景」に「共観する思考──〈わたし–あなた〉の生成場」とその実践へと共に──風に開かれていきましょう。
余白
《次回》
第Ⅲ部:間章
思創考造 Cognigenesis thinking
【第Ⅲ部】:《思創考造の力法》
「実地サイクル〜実地具体化」
ー”見える”思創考造と生成ー
間章:「共観」/「生成」/「視座」
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本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』
序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》
続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』
