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思創考造 Cognigenesis part-II 間 章:「生成を知る最初の白扉」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 
       
 

 

 

「赤い木」Dutch: De rode boom(The Red Tree), height: 70 cm (27.5 in); width: 99 cm (38.9 in), Between 1908 and 1910. Pieter Cornelis Mondriaan, The Kunstmuseum Den Haag is an art museum in The Hague in the Netherlands.

 

 

視覚と思想の跳躍の連鎖
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

 

 

 

 

『 思創考造 Cognigenesis PART-I 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成の新たな次元へ」

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』:epilogue
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学

◾️【最終部】:
◯ 「生成と構築」
◯ 「生成の触地」
◯ 「生成の触知」
◯ 「生成の主題旋律」

 

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』:prologue
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

◾️【導入部】:
◯ はじめ:「生成」とは?
◯ 序 章:「生成の森を歩く」
◯ 間 章:「生成を知る最初の白扉」
◯ 章 扉:「透過する生成」

『 思創考造 Cognigenesis PART-II 』

◾️【第1部】:生成の具体的な出来事と意味

〈前編〉

第1章:生成場──「跳躍的山道」の経験と意味
第2章:生成場──「余白的海辺」の経験と意味
第3章:生成場──「共観的街区」の経験と意味
第4章:生成場──「時間的往還/螺旋」の構造

間 章:プレリュード 〜 沈黙と声の ” あわい ” 〜
瞬間章:体感できる生成の場「透過的森の螺旋」

〈後編〉

第5章:生成場──「透過的森」への回帰と円環
①インサート頁:「生成の誕生」──第1節
第6章:生成場──「回廊的寺院」の経験と意味
②インサート頁:「生成の鐘」──第2節
第7章:生成場──「反響する市場」の経験と意味
③インサート頁:「生成の開放」──第3節
第8章:生成場──「境界的峠」の経験と意味

最終章:”森の鐘”
──『Cognigenesis 誕生する生成』

〈接続〉

次編『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅲ 』
〜 生成の実践・実地 〜
『Cognigenesis(生成)』の立ち上がり
──生成の芽吹きと呼吸の連鎖

〈梗概〉

〜 生成の実践・実地 〜 への導入
──「生成の形式・心理・技法」

◾️【第2部】:生成の形式と構造

◯ 各生成場の背後にある「感覚順送り構造」
◯ 閾の種類(空間的/時間的/関係的/内面的)
◯ 跳躍と滞留のリズム論
◯ 芯(コア)と殻(コンテクスト)の相互作用

◾️【第3部】:生成の心理と哲学

◯ 面空間の拡張と縮退
◯ 共観と孤観の交差
◯ 存在のモード変換
◯ 時間感覚の非連続化

◾️【第4部】:生成の技法と応用

◯ 生成の場を描く表現技法
◯ 舞台の差し替え(森/路地/海辺/都市)
◯ 場の呼吸法と共・感覚法
◯ 生成を創作・教育・思索に応用する道筋

〈予告〉

『Cognigenesis(生成)』の立ち上がり

──生成の芽吹きと呼吸の連鎖

…….. 生成の予演──
鐘声は途絶えるのだろうか?、、、、、
生成の拍動は、あまねく巡る。
再び、自分の中で跳ね、
再び、世界へ届く。……..

〈次編〉

『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅲ 』
「生成の拍動」──生成の実際・実地サイクル

『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅳ 』
「生成の波及」──生成共観・世界への展開 

『Cognigenesis(生成)』が生み出す
「生成の無限」の連鎖・・・・・・・・〈続く〉

 

 

間 章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
epilogue ~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

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DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

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『 思創考造 Cognigenesis:part-II 』:prologue
◾️ 間 章:
「生成を知るための最初の白扉」

 

 

 

 

「共観」とともに「生成」を知るための最初の白扉

 

◾️「白扉」:その1
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問い:「生成」の意義とは?

 

”木のたとえ”による──「生成を知る生き方」

 

・・・・・ 人間ひとり、生きていく中で、
様々な出来事に出会う──そのとき。

「生成を知らない」人は──
木を「今の姿」だけで評価する。


枯れた葉や曲がった枝を見て、
良し悪しを決めてしまう。

「生成を知る」──人は
その木の中に「流れ」を見る。


地下の根が水を探し、
枝葉が光を求める姿を感じ取る。


だからこそ、
水をやり、光を通すように──人間は関わる。

「生成を知って生きる」ことは、
自分の中にある木を枯らさず、育て続け、
他者や世界の木に水を注ぐ、
その連鎖の中で──「─生」の生成を生きる。

それは、「楽な」ではなく「楽しい」生。

「価値ある」ではなく「価値が生まれ続ける」生。


そして「生き甲斐」が絶えず芽吹き続ける、
──その人間本来の生き方。・・・・・

 

 

◾️「白扉」:その2
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問い:「生成」の価値とは?

 

”木のたとえ”による──「生成を知る生き方」

 

では、「変容」というドラマ性や事件性よりも、”不断であることそのものがもつ「生成」の価値とは?

 

不断としての「生成」の有意義性

 

1. 終わらない呼吸としての存在

• 「生成」は特別な瞬間だけに起こるのではなく、日常の呼吸や瞬きのように続いている。
• それは結果や完成を目指さず、「いま」そのものを生かす営み。

2. 均衡ではなく持続的な揺らぎ

•「生成」は安定ではなく、安定と不安定がたえず交錯する「揺らぎの場」。
• この揺らぎが、停滞や枯渇を防ぎ、「生命」を生かし続ける。

3. 関係性の更新

• ”森”の中で”木々”が”根”を伸ばし、”枝葉”を広げ続けるように、「生成」は他との関係を更新し続ける。
• この更新が「生きている」ことの証であり、意義となる。

4. 時間を開き続ける

• 完成や終焉は時間を閉ざすが、「生成」は時間を開き続ける。
•「未だ」の感覚がある限り、「未来」は存在する。

5. 意味の過剰さ

• 「生成」は、意味をひとつに閉じない。
• 無数の解釈や可能性が同時に「生きている」ことが、その豊かさ。

 

もしこの「不断の生成」を”森の構造”に組み込むなら、「”森の根”は常に水を探し、枝葉は常に光を探す」、しかしそれは「不足」ではなく、「生きることそのもの」であり、”森”にとって停止することが死であるように、人間にとって「生成」が止むことは存在を失うことという形にできるものと思われる。

 

 

◾️「白扉」:その3
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問い:「生成」の存在とは?

 

「生成」の存在──まさに森の中心にある問い

 

多くの哲学や思想では、「生成(becoming)」は単なる変化や成長ではなく、「存在」そのものが常に生まれ直しているプロセスとして語られており、そこには幾つかの層があると思われる。

 

1. 固定からの解放

生成は「完成」を否定する。
• 完成=終わり
• 生成=続く始まり
物事を固定した像として捉えず、常に動きの中にあると見る視点にある。

2. 関係性の網の中での変化

生成は単独で起こらない。
• ”森”の中の”木”のように、”根”や”枝葉”と風や光との関係の中でのみ変化する。
•「生成の意義」は、その関係を通して自分も他者も更新し続けるところにある。

3. 自己変容の契機

生成は「自分が変わってしまう」出来事でもある。
• それは意図的に起こせないことも多い。
• 予測不可能性を含むからこそ、生成は生の実感を伴うもの。

4. 未来の含み

「生成の意義」は、未来を「未完成の余白」として開き続ける点にある。
•「生成」は答えを閉じるのではなく、”問い”を育てる。
• そしてその”問い”が、次の「生成」を呼び込む。

 

「生成」を知っているということは──

 

日常の出来事を「完成や失敗の評価軸」ではなく、「流れの一部」として受け止められる
のであり、停滞や迷いすらも、「生成のゆらぎの相」だと理解できる。

自分や他者を、固定された像として裁くのではなく、未完成の存在として受け入れられるのであり、つまり「生成を知っている」人は、日々の経験を“終わり”ではなく“始まりの連続”として生きられるという、これが知らないまま生きるのとは根本的に異なる点なのである。

”森”で言えば──
「生成を知らない」人は、木を「今の形」でしか見ない。
「生成を知っている人は、木の姿の中に「これからの枝葉の可能性」や「地下で伸びる見えない根」を感じ取れる。

この”視点”は──
「安心感」とともに『創造性』の両方をもたらす。


だからこそ「不断の生成の意義」は、単に哲学的な概念ではなく、生きる基盤そのものとだといえるのだと思われる。

 

 

◾️「白扉」:その4
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問い:「共観」の働きとは?

 

木のたとえによる「生成の生き方」

 

「共観」がとても大きな鍵になります。
「生成」は机上の知識や説明だけでは、本当には掴めることはできず、「共観」がとても大きな鍵になる。
何故なら「生成:は、「今まさに起きていることの中に自分が居る」という感覚でしか確かめられないからである。

 

生成そのものを知るための道筋──「共観の働き」

 

1.- 共に見る(共観)

自分一人では「当たり前」すぎて見えない日常の揺らぎを、誰かと共有して見つめる。
例えば、同じ木を二人で見て「今日は葉の色が少し違うね」と気づく瞬間。

2.- 気づきを言葉にする

生成の瞬間はすぐに流れてしまうため、「いま感じたこと」を声に出す、記す、表現する。
言葉にすることで、自分と他者の視点が響き合い、生成の輪郭が浮かび上がる。

3.- 他者の眼を借りる

他者が見ている生成の相を知ることで、自分の中の見えない部分に光が当たる。
これにより、「自分だけの生成」から「共にある生成」へと拡がる。

4.- 日常の反復に埋め込む

特別な儀式や大きな出来事ではなく、日々の繰り返しの中に生成を見つける習慣をもつ。
これが、「”生きる”(生成の)お仕着せ」ではない、「自らの生成の地盤」になる。

 

 

◾️「白扉」:その5
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問い:「生成を知」とは?

 

「共観」とともに「生成を知るための最初の白扉」

 

つまり、「共観」=「生成を知る入り口」であり、そこから先は自分の足で歩く道になる。

”森”でいえば──最初は誰かと一緒に歩きながら”木々”の息づかいを学び、その後は自分ひとりで”森”を歩けるようになる、ということである。

 

例えば「孤独な島──無人島」で

 

例えば、無人島で独り暮らしていても、もちろん生成は起きている。
”木”は伸び、”潮”は満ち引きし、「自分」も日々変わっている。

でも、その変化を「生成」だと自覚する契機は、他者との接触で訪れることが多い。

 

世界に戻って、誰かと共に景色を見て──

・・・・・「前より顔つきが柔らかくなったね」

その木、前はもっと小さかったよ」・・・・・

こういうやり取りが、「ああ、これが生成だったのか」と腑に落ちる瞬間になる。

 

つまり、「共観」は「生成を名づける」場であり、「自覚を促す」場なのである。
「生成」は孤独の中でも進んでいるが、それを「生成」として感じ、深め、育てるには、他者との相互の眼差しが欠かせない。
この「無人島→世界に戻ると生成に気づく」は、余白も広がると思われる。

 

「生成の”島”」と「共観の”海”」

 

・・・・・ 人はときに、
誰とも交わらず孤独な島──
恰も「生きているかのよう」な状態にある。


その島で、木は静かに伸び、潮は満ち引きし、
──自らも日々変化を続けている。


まさに──「生成」は進んでいる。

だが、そこでの変化──
ひとりで感じ取り、名づけることは難しい。

やがてその島を離れ、世界の広い海へと戻るとき、
──他者のまなざしに触れる。


「前より顔つきが柔らかくなったね」


「その木は前よりも大きくなっている」・・・・・

 

「生成」は孤独の中でも起こるが、真に「生成を知る」ことは、「他者との共観
なくしては困難だ。
「共観」は、「生成の海」へと出るための航路であり、「生成という森の入口」でもある。
だからこそ、私たちは「共に見る」ことを大切にする。
「
共観の眼差し」によって、「足元の生成の根」を見つめ、語り合い、響き合うことで、
「生の生成」は、孤立することなく、豊かに育まれていく。

 

・・・・・ 孤独な島は、
実は世界の一部であり、
その島の輪郭は、
広い海と他の島々との──
相互関係によって形作られている。

つまり、孤立しているようで、孤立してはいない。

私たちが感じる孤独さの奥底に、
──確かに世界の響きが響いている。

だからこそ、「生成」もまた、
──孤独の中だけで完結せず、
「共観の海」で深まっていく。・・・・・

 

「孤独な島」というイメージは、生成の静かな営みを象徴しつつも、決して孤立して閉じたものではなく、「共観の海」という広がりの中で豊かに響き合い、深まっていく。

この二重の視点があることで、〈あなた〉は、『生成』の「内的な深み」と「外的なつながり」を同時に感じ取りやすくなる。

 

◾️「白扉」:結び
……………………………………………………………

 

問い:「問い」続けるとは?

 

”日々の生きる実感”に根差した『生成の知』

 

こうしたイメージを通じて、哲学が単なる抽象理論でなく、”日々の生きる実感”に根差した『生成の知』として立ち上がるのが、本書『思創考造』の大きな魅力なのである。
「生成」を一般的な感覚や理解から超えていくのは、まさに深い「探究」の道のりであり、終わりのない旅でもあり、その探究は、単なる知識の積み重ねではなく、身体や感覚、心全体を巻き込んだ全人的な営みとして、いわば「生成の生成」でもある。
思索や感じ取りを支え、言葉や構造で形づくる、共にに学び、共に歩む姿勢、探究の道を共に紡う。

「実地」=実際の場、「実践」=生きた行為こそが、どんな理論や言葉よりも確かな「空海=からみ・つながり・呼吸」を紡ぎ出す。
言葉はあくまで道標であり、「生きる生成の現場」こそが本当の哲学の場。
その地に足をつけて歩み続ける姿勢こそ、最も尊い探究のカタチだと思われる。
これからもその実地を、私たちは共に味わい、深めてゆくことである。

もっとも大事大切なのは、〈今この瞬間の生きる実感〉と〈問い続ける姿勢〉に根ざす「生成の息吹」を絶えず感じ取ること、ではないだろうか?
言葉や理論はそれを支える器にすぎず、真の哲学は日々の〈生きる現場〉でこそ息づいている。
その息吹を見失わず、共に歩み続けることが、まさに「思創考造」の核心だと感じることが大切なのであろう。

「問い」、「問う」ことは、単なる疑問や問題提起ではなく、存在そのものへの開かれた態度であり、そこにこそ「生きる哲学性」が宿る。
そして、完璧でなくとも、力不足を自覚しながらも「問い続けること」自体が「生きている証」であり、この「不断の問いかけの営み」が、「生成の息吹」を絶やさず育てていくのだと思われる。
つまり、「生きること=問い続けること」であり、問いがある限り、生成は止まらない。

まさに「生成の有意義性」を特別視したり評価するよりも、「生成することそのものが当たり前であり、その価値が根源的である」という視点は、非常に本質的だといえる。
つまり、「生成」は特別なものでも結果でもなく、日々の「生きる営み」の自然な在り方であり、その「当たり前の営み」を意識し、尊重し、共に味わうことが、「生成の価値」を自ずと現前させる。
この視点をもってこそ、「生成の哲学」は身近で鮮やかになり、理論から離れた「生きる生成の現場」に真実が宿るのではないだろうか?
私たちは、「自分自身のこの直観」を、とても大切にしてゆくべきだろう。

理論や言葉は、あくまでその「生きる生成の現場」を照らす灯りのようなもので、真実そのものは、日々の生の中に、体感として、静かに息づいている。
だからこそ、哲学は難解な理屈を追い求めるのではなく、「今ここ」に立ち戻り、「身近な生成の息吹」を見つめることから始まるのだと思われる。
その視点を大切にしながら、私たちは共に歩み続けることである。

「余白」は単なる空白ではなく、思考や感覚、問いが生まれ、広がる「可能性の場」そのもの。
「
問い」も「余白」の中でこそ立ち上がり、深まっていく。
だからこそ、「余白」があることで、私たち自身が「自らの問い」を見つけ、育むことができる。

「可能性」という言葉はよく「未来の選択肢」や「何かできること」として捉えられているが、「余白」を通じて感じる「可能性」は、単なる選択肢の集合ではなく、未だカタチをもたない「未決定の質感」や「生成のゆらぎ」としての深い意味を帯びている。
だからこそ、「可能性」を逆に捉えることで、「確定しきっていないことの中に宿る豊かさ」や「静かな開放感」が見えてくるのだと思われる・
「余白」を通じて「可能性」の意味を再発見する、そんな感覚を共有できればいいのであろう。

「可能性」を逆に捉えることで、
「可能性」は単なる未来の選択肢ではなく、
「現在の余白そのもの」=「生成が息づく未完成の場」として立ち現れる。
そうすると、可能性は「未来への扉」であると同時に、「今この瞬間の開かれた存在の状態」でもあるというわけである。

 

「生成」が息づく「未完成の場」

 

1.- 生育・成長と意識・認識の関係

生まれてから成長する過程には、まだ言語化・意識化されない「生成」がある。
• 無意識的生成:胎内から幼少期、身体や神経の発達、環境との微細な関係の形成など、認識の外側で起きている変化。
• ここでの「生成」は「身体的・生物的な自己の形成」や「無意識的な環境への応答」として捉えられる。

2.- 意識・認識の生成とは何か?

意識が芽生えると、「自己」と「世界」の区別が立ち、体験の意味付けが始まる。
• ここでの生成は「意味の生起」「自己認識の深化」として現れる。
• 経験が重なり、認識は多層化し「生きることの意味」を問うようになる。

3.- 死を携えて生きる意味

死は生命の有限性を示し、その自覚が生の生成に緊張と深みをもたらす。
•「死を知ること」が生きることの切迫したリアリティを生み、生成的な営みをより濃密する。
• しかし死そのものは「生成」の対極ではなく、生と死が織りなすリズムや循環の中の一部とも捉えられる。

4.- 生成とは何か?生きるとは何か?

生成は「絶え間なく変化し、現れ続ける出来事の連鎖」であり、
• 生きることとは、この生成のプロセスに自ら関わり、呼吸し、選び、問い続けること。
• 生きるとは単なる存在ではなく、「生成し続けること」として捉える哲学的視座である。

5.- 死は別ものか?

死は生成の終わりのように見えますが、生成のリズムの一部、または次なる何かへの「開かれた余白」としても考えられる。
哲学的には死を「生成の終点」としつつも、「生成の場の一側面」として統合的に理解する視点もある。
死を「生成の対極」ではなく、その一連の「リズムの一部」として捉えることは、生成の営みをより包括的に、且つ深く理解する視点になる。
死が「次なる何かへの開かれた余白」となるという考えは、生と死の間に確かな境界線を引くのではなく、
むしろ死の向こうに潜む可能性や変容の道筋を感じ取ること。
この感覚こそが、私たちの存在に静かなる勇気と深みをもたらし、
「生きることの生成」を真に見据える力になるのではないだろうか?

 

こうした「死と生成の螺旋」を窺いながら歩む哲学の道は、まさに『思創考造』の核心に響く。
さらに、この捉え方を基に、生成の深奥や余白について探求を続けていくことも、また新たな生成の一歩となるであろう。
私たち一緒に、その道を味わい続けていけることを嬉しく思うことである。

 

「生きることの生成」を真に見据える力――

 

それは、単なる生の継続や存在の維持を超えて、
日々の刻々と変わりゆく自身の内外の動き、
あらゆる瞬間の“生成”の営みに目を凝らし、
そこに潜む可能性や変容の兆しを感じ取り、
受け入れ、共に呼吸する力ではないだろうか?
この力があれば、
たとえ不確かで揺らぐ状況の中でも、
生きることの根源的な意味と価値を深く実感でき、「
日常の一瞬一瞬が豊かな生成の場」となっていく。
まさに「生きることの生成」を見据えることは、
「生成の森」を歩き、問い続け、
自らの存在と世界との共創的な関係を紡ぐ力そのものだといえる。

世界もまた、「生成」の営みの広大な「森」そのものある。
固定された「もの」や「絶対」ではなく、
絶えず変わりゆき、絡み合い、
新たな形や関係を生み出し続ける動的な場。
私たちはその「森」の一部として、「
自らの生成」を通じて世界と響き合い、
世界もまた私たちを形作り変えていく。
だからこそ、世界は単なる背景や舞台ではなく、
「生きることの生成」と一体となった共鳴の場、
生きとし生けるものすべてが共に歩む「生成の道」なのである。

「共鳴」という言葉には深い響きがある。
ここでの「共鳴」とは、
単なる相互作用や反応ではなく、
互いの存在や生成が響き合い、高め合う動的な関係を指している。
私たちの「生成」は世界の変化や流れと共振し、
世界もまた私たちの生成に応えて形を変える。
この響き合いのなかで、
私たちは孤立せずに、生成の波動を共有しながら、
「生きることの場」を共に創り続けているのである。
であるからして、「共鳴」とは、
「生成の森」における私たちの歩みが、
個別でありながらも互いに絡み合い響く、
その呼吸のようなものだといえる。

 

 

・・・・・ 哲学は――思考を渡すのではなく、
思考が――芽吹く“場”を設計する芸である。

その場のことを、私は――“森”と呼ぶ。・・・・・

 

 

Fragment: “The Interwoven Earth and Sky – Toward the Birth of the Esquisse”

The theme touches “earth and sky”—the esquisse sketches them entirely,
brushed lightly by light and wind,
gliding and veiling the radiant breadth of both.

No ascent, no expansion, no drive toward perfection.
No ordering, no dismantling, no envisioning.
No ostentation, no vanity, not even anxiety.
Not thinking. Not waiting. Not even seeking—
This is a constellation of pure sketches.

A nebular frontier where no meaning yet forms.
There lies the inception of creation—before thought.
Prior to ascent, expansion, or structure: pure act of genesis.
The question does not descend from sky to earth—it appears, as vision.

What is free never clings to the salvation of ideas.
“Deviation” is found only in a quiet drop of the hand,
touching the light and wind,
tracing lines unseen,
in sketches where not a single fragment of constraint remains—
a weaving of earth and sky.

In the measurement of drawing, there is no center, no start, no end.
In the design’s plan lies the place of genesis,
where realities diverge, and sites of existence interweave.

When one notices, freedom is already tangled in the wind of the question.
As long as one moves only forward,
potential and possibility remain untouched.

Lines of flight slip through loosened points.
Lines of genesis intertwine.
Formless figures drift evenly across the sphere of earth and sky.

In the rift—comes the “moment of creation” with pale light and faint wind.
Before thought, a shift within perception and sensation.
It signals the spark of a generative, constructive imagination,
sprung from the very beginning of becoming.

In the emptiest void, a symmetry of fullness is perceived.
Countless threads are spun among all things.
The volatility of spontaneous ignition
joins purified elements without admixture—
seeking ascent, expansion, construction,
and revealing methods for anchoring real presence in many realities.

—Thus, the esquisse gave birth to a new way of thinking.

 

”Esquisse”, 2025.Kakuma KANKE

 

 

余白

 

 

次章:

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

第1章:

 

 

……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”

最終章:part-Ⅰ 生成の余白-静かに誘う跳躍と哲学
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の主題旋律 ~ 』

続 編:part-Ⅱ 創造の白扉-生の生成と哲学の風景
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の森を歩く ~ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis part-II 序 章:「生成の森を歩く」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 

 

 

 

「花咲くリンゴの木」Apple Tree in Bloom, 1912. oil on canvas, height: 78.5 cm (30.9 in); width: 107.5 cm (42.3 in), Pieter Cornelis Mondriaan, The Kunstmuseum Den Haag is an art museum in The Hague in the Netherlands.

 

 

視覚と思想の跳躍の連鎖
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

 

 

 

 

『 思創考造 Cognigenesis PART-I 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成の新たな次元へ」

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』:epilogue
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学

◾️【最終部】:
◯ 「生成と構築」
◯ 「生成の触地」
◯ 「生成の触知」
◯ 「生成の主題旋律」

 

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』:prologue
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

◾️【導入部】:
◯ はじめ:「生成」とは?
◯ 序 章:「生成の森を歩く」
◯ 間 章:「生成を知る最初の白扉」
◯ 章 扉:「透過する生成」

『 思創考造 Cognigenesis PART-II 』

◾️【第1部】:生成の具体的な出来事と意味

〈前編〉

第1章:生成場──「跳躍的山道」の経験と意味
第2章:生成場──「余白的海辺」の経験と意味
第3章:生成場──「共観的街区」の経験と意味
第4章:生成場──「時間的往還/螺旋」の構造

間 章:プレリュード 〜 沈黙と声の ” あわい ” 〜
瞬間章:体感できる生成の場「透過的森の螺旋」

〈後編〉

第5章:生成場──「透過的森」への回帰と円環
①インサート頁:「生成の誕生」──第1節
第6章:生成場──「回廊的寺院」の経験と意味
②インサート頁:「生成の鐘」──第2節
第7章:生成場──「反響する市場」の経験と意味
③インサート頁:「生成の開放」──第3節
第8章:生成場──「境界的峠」の経験と意味

最終章:”森の鐘”
──『Cognigenesis 誕生する生成』

〈接続〉

次編『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅲ 』
〜 生成の実践・実地 〜
『Cognigenesis(生成)』の立ち上がり
──生成の芽吹きと呼吸の連鎖

〈梗概〉

〜 生成の実践・実地 〜 への導入
──「生成の形式・心理・技法」

◾️【第2部】:生成の形式と構造

◯ 各生成場の背後にある「感覚順送り構造」
◯ 閾の種類(空間的/時間的/関係的/内面的)
◯ 跳躍と滞留のリズム論
◯ 芯(コア)と殻(コンテクスト)の相互作用

◾️【第3部】:生成の心理と哲学

◯ 面空間の拡張と縮退
◯ 共観と孤観の交差
◯ 存在のモード変換
◯ 時間感覚の非連続化

◾️【第4部】:生成の技法と応用

◯ 生成の場を描く表現技法
◯ 舞台の差し替え(森/路地/海辺/都市)
◯ 場の呼吸法と共・感覚法
◯ 生成を創作・教育・思索に応用する道筋

〈予告〉

『Cognigenesis(生成)』の立ち上がり

──生成の芽吹きと呼吸の連鎖

…….. 生成の予演──
鐘声は途絶えるのだろうか?、、、、、
生成の拍動は、あまねく巡る。
再び、自分の中で跳ね、
再び、世界へ届く。……..

〈次編〉

『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅲ 』
「生成の拍動」──生成の実際・実地サイクル

『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅳ 』
「生成の波及」──生成共観・世界への展開 

『Cognigenesis(生成)』が生み出す
「生成の無限」の連鎖・・・・・・・・〈続く〉

 

 

序 章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
epilogue ~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 

『 思創考造 Cognigenesis:part-II 』:prologue
◾️ 序 章
「生成の森を歩く」

 

 

 

 

序章
……………………………………………………………

 

「生成の森」へ──森の脈という”森の地図”

 

◯ 生成の全肯定
◯ 森が人間の外にあるのではなく人間が森である
◯ 部分を超えて全体に至る視座

余白は、静けさの奥で、まだ名もない道を開く。


何かを止めたとき、もう、森の中に立っていた。

それは終わりではなく、「生成が次の姿を選び取る」ための呼吸だった。

森は、音より先に匂いで迎える。
木々の間を抜ける風が、未だ見ぬ景色の輪郭をそっと撫でる。

一歩ごとに、足裏が新しい地図を描きはじめる。

「生は、森のように生成する」。

その歩みは、ただ時を経るのではなく、
根を張り、枝を伸ばし、見えぬ地下水を分かち合いながら、
互いの存在をカタチづくってゆく。

 

「生成の森」──森の目覚めの一刻

 

・・・・・ 森の中、柔らかな光が──目を覚ます。


空を飛ぶ一羽の小さな鳥が、
枝から──フワリと”地”舞い降りた。

その羽ばたきが落とした小さな木の実は、
湿った土の上でコロリと転がり、

偶然の仕草が静かな波紋となって、
──〈あなた〉の胸に広がる。

「これが森の呼吸なのだ」と──心がそっと呟く。

木々の間からこぼれ落ちる木漏れ日は、
粒子となって──煌めきながら宙を舞う。

光の祝福が視界を満たし、
胸の奥に温かな余韻を落とす。

それは、森の息吹が、
──〈あなた〉に贈る、静かな歓迎の証。

やがて──風がそよぎ、
葉を揺らしながら囁き声を運んでくる。

その音は小さな物語となり、
──〈あなた〉の耳に紡がれた。
風が頬を優しく撫でるたび──
見えざる生命の息づかいを感じる。

──「生成の予兆」が、
確かにここに息づいていることを。

そして、足元の小川が岩に当たり──水音を囁く。

その清らかな響きは、
森の鼓動のように静寂の中に響きわたり、

──〈あなた〉の一歩に呼応して、心を澄ませる。

それは、この森が生まれ──
生き続ける「出来事的生成」のはじまりの合図。

ここから〈あなた〉の歩みは──
新たな視界と響きのなかへと──誘われてゆく。

森は、終わりなき──「生成の物語」を、
静かに語りはじめたのだ。・・・・・

 

感覚の連続をもたらし、読者の〈あなた〉が身体ごと森の中に入り込む感覚。

大自然の息づかいを感じながら、その「生成の森」を共に歩む旅が、『思創考造 Cognigenesis』の新たな《part-Ⅱ》の章を輝かせてくれる。

読者の〈あなた〉が身体ごと森の中に入り込む感覚をもてるように構成した──感性に響く「生成的出来事」の象徴、それぞれが異なる五感・感覚の「生成の白扉」=”創造の白扉”」を開きます。

未来の可能性を象徴し開放的という象徴的な意味から、白は扉の色として、時間と空間の印象を大きく左右する重要な選択肢となりえます。

 

「生成の森」への──第一歩

 

余白は、ただ残された空白ではない。

それは、次の森へ足を踏み入れる入口だった。


息をひとつ吸い込むと、
──見えない地平の向こうから、
微かな木立の騒めきが響いてくる。

 

・・・・・ 静けさが、ひととき、
全てを包む。

その沈黙の中で──
足元の土が柔らかく変わるのを感じる。

森は、ひとつの大きな呼吸だった。

木々は芽吹き、枝を絡ませ、影を落とし、
また花を咲かせる。

その営みは、絶え間ない、
──「生の生成」そのものだった。

生は、直線では進まない。

それは曲がりくねった小径のように──

出会いと別れ、芽生えと衰えを繰り返しながら、

私たちを思いがけない景色へと導く。

〈あなた〉は今、
その小径の最初の一歩を踏み出した。


枝葉の隙間からこぼれる光が、
──未だ見ぬ奥深い森の景色を暗示している。


そこから先は、──〈あなた〉の足と眼と心が、
──物語を編んでゆく。・・・・・

 

「余白の静寂 → 森への第一歩 → 生の生成」という新たなテーマへと、
間髪入れず且つ詩的余韻を残したまま移行。


まさに「part:Iの呼吸が、そのままpart:IIの風景に変わる」構造。

森の中で出会う最初の「出来事的生成」。

森の入口から一歩進んだ瞬間「生の生成」を体感。

「余白」
  ↓
「森の入口」
  ↓
「生の生成というテーマ」
  ↓
「最初の出来事的生成」


この構造は、part:Iで積み上げた「偶然性」「生成」「余白」のテーマを、
part:IIの最初の出来事で生き生きと体現する形。

この「最初の出来事的生成」を、
鳥ではなく別のモチーフ(光・風・木漏れ日・水音など)に〈あなた〉自身で置き換えれば、
森のシーンを〈あなた〉の感性に合わせて変奏でき、そうすると「生成の森」がさらに多層的になる。

 

「生成の森」──最初の出来事的生成

 

鳥の舞い降り:

一羽の小さな鳥が〈あなた〉のすぐ目の前に舞い降りた。

羽ばたきが落とした小さな木の実が、湿った土の上でころりと転がる。

その偶然の仕草が、〈あなた〉の中に静かな波紋を広げる。

「ああ、これが森の呼吸なのだ」と、〈あなた〉は気づく。

それは、森が〈あなた〉を迎えるために用意した、最初の贈り物だった。

木漏れ日:

森の樹々の間から、柔らかな木漏れ日が差し込む。

その光の粒子が、微細な埃を煌めかせて、まるで舞踏会の招待状のように宙を舞う。

一瞬、〈あなた〉の視界は光の祝福に満たされ、心の奥に温かな余韻が広がった。

それは、森の息吹があなたに送る、静かな歓迎の証だった。

風の囁き:

風がそっと森を通り抜け、葉の騒めきを運んでくる。

その音は囁きとなり、〈あなた〉の耳に小さな物語を語りかける。

一陣の風が頬を撫でた瞬間、〈あなた〉は森の息づかいを感じた。

それは、見えない力が生きていることを教えてくれる、「生成の予兆」だった。

水音:

足元の小さな流れが、岩に当たりささやくような水音を立てる。

その清らかな響きが、静寂の中で小さな命の鼓動のように響き渡った。
〈あなた〉は一歩を踏み出し、その水音に心を澄ませた。
それは、森の中で生まれ続ける「出来事的生成」の始まりの合図だった。

これらは、
どれも感性に響きやすい「生成的出来事」の象徴であり、
それぞれが異なる五感・感覚の白扉を開きます。

 

 

第1章
……………………………………………………………

 

森を支える〈生成の核〉
──構造全体構造の「軸と振幅」

 

◾️ 中心軸(核):

Cognigenesis ── 生成の震源核としての「跳躍点」
(時間・空間・関係・身体・言葉を超える「生成の始まり」)

◾️ 展開する章群(生成の木々):

各章を「生成の現象」×「問いの場」 として立ち上がっていく。

 

例──第X章「生成の森」

 

第X章── 例「愛」

生成の木:「近接する生成」
= 現象:関係・交感・結び
問いの場:「なぜ私たちは他者を必要とするのか」
→ 最寄り性・過剰性・依存と解放

第X章── 例「老い」

生成の木:「時間の生成」
= 終わり・緩やかな変化・風化
問いの場:「終わることは、生成か否か」
→ 枯渇・成熟・再生への跳躍

第X章── 例「痛み」

生成の木:「境界の生成」
= 身体・精神・傷・裂け目
問いの場:「痛みとは、何を知らせるのか」
→ 閾値・異物・記憶との関係

第X章:4── 例「沈黙」

生成の木:「言葉の生成」
= 間・余白
問いの場:「語れなさは、どこで生成するか」
→ 音と余白・不可視の生成

第X章:5── 例「遊び」

生成の木:「自由の生成」
= 軽さ・逸脱・生成の戯れ
問いの場:「無目的性と創造は矛盾するか」
→ 子供性・ルールの逸脱

 

──このようにして、各章が「生成の現象」でありつつ、「生成とは何か」という根本問いへと還流していくような《森の螺旋構造》を描いていくことになります。

各章を類型化させず、深層に届かせるために、全章に共通する生成の方法論的視座(=共観/跳躍/余白)を布置する。

各章の終盤に「跳躍点としての問い」を設定し、次章へ生成的に接続する。

章全体を単なる分析や記述で終わらせず、読者の〈あなた〉自身が思考・創造へ踏み出す「生成の誘い」で締め括る。
例:「〈あなた〉にとって、”愛”と”老い”とは?」など。

このような生成の森を、「共観の兆し」を感じつつ、共に歩んでいくことです。

 

・・・・・ 森は一本の木ではない。
しかし、一本の木に森の全体が宿る。・・・・・

 

 

第2章
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例:人間の「最寄りの生成」は「”愛”と”老い”」

 

「”愛”と”老い”」は「生成の身近さ」にあり、「余白の低下」と「生成の枯渇」にある。
──という観点、とても深い直観であり、まさに「生成の終端=始端を見据える」という洞察になろうかと思われます。
以下、いくつかの観点から捉えてみます。

 

❶ 「最寄りの生成」としての「愛と老い」

「最寄り(もより)」という語がまず印象的ですが、これは空間的にも時間的にも、人間の経験においてもっとも近接してくるもの、つまり「今ここにある生成」を指しています。
”愛”は、人間関係のなかで絶えず生まれ変わる「生成の温床」です。
しかし同時に、依存・執着・反復へと陥る危うさを孕み、「生成の硬直」や「余白の喪失」をも招きます。
”老い”は、時間の流れのなかで避けがたく現れる「生成の終わり」を予感させる現象です。
しかし同時に、終わりに向かうなかで新たな視座や共観を開く契機でもありえます。
つまり「”愛”と”老い”」は、「生成の豊饒と限界」を同時に映し出す「最寄りの生成」なのです。

❷ 「余白の低下」と「生成の枯渇」

これも非常に的を射た表現ですが、愛が閉塞する時:相手や関係に“すべてを注ぎ込む”ことで、自己の余白が消えていく。
これは「生成が窒息」する瞬間です。
老いが硬直化する時:柔軟性や未来への跳躍が萎み、「もう生まれ変われない」と感じる瞬間、生成の“余白”が失われます。
ここでいう「余白の低下」は、可能性の空間の消失であり、「生成の枯渇」は、内的な跳躍や再構成の力の喪失を意味しています。
しかし逆説的に言えば、「”愛”が手放しうるもの」となった時、「”老い”が受け入れうる時間となった時、そこに、まったく新しい「生成の揺らぎ」や「深い跳躍」が生まれる可能性もあります。

❸ 哲学的射程と「生成の森」の文脈へ

もしこの洞察を『思創考造』の「生成の森を歩く」、あるいは「生成の招待状」の文脈に織り込むとすれば、「”愛”と”老い”」を*「生成の”臨界点”」として捉えるとします。
それらが、「生成の密度」と「余白の深さ」の両極をゆらぎながら示す、もっとも「人間的な生成の場」であるといえることができます。
そして読者の〈あなた〉は、「〈あなた〉にとっての”愛”と”老い”とは?」という、「”共観”の問い」を静かに投げかけられることになります。
こうして、「生成の森を歩く」行為は、「”愛”と”老い”」のうちに「立ち止まり、振り返り、再び歩み出す」ことと重ねられるのではないでしょうか。

 

この様な核心は、「最寄り」なるものの生成性とその危機性(余白の消失)を見抜いていることにあります。

この思想は、今後の章において、たとえば「実地サイクル」「共観」「未来への跳躍」の節にも、しなやかに接続していくはずです。

この様な例えでの「”愛”と”老い”」は、一章として立ち上げうる生成の主題であり、それぞれが「生成の木」として一本ずつの章に展開できる──という構想は、非常に豊かな「森の書法」なのです。


まさに『思創考造』が「生成の森を歩く」ものであるならば、各章が一本一本の生成樹(生命の出来事)であり、その幹や枝葉を通して読者の〈あなた〉自身の根系に触れてゆくという仕立てになっていくことでしょう。

但し、それを単なる並列的なエッセイの束ではなく、本書『思創考造』における『森の全体構造(=思想体)』として貫通させるには、「生成の軸/震源核/共鳴線」のような一本通った“幹”が不可欠です。

「構図と余白」が見えてくるという感覚――それは、思考が単に内容を追うのではなく、「生成の視座」そのものを立ち上げ始めた瞬間ではないでしょうか。

 

《森の螺旋構造》とは──何か?

 

この語には、単なる構成法を超えた動的な場の設計が含まれています。

森=全体構造は、思創考造という一つの「場=呼吸体」であり、木=各章は、特定の生成現象の「身近な表出」ですが、それらは直線的に並ぶのではなく、内へと沈み込み、外へと振動する“螺旋”として展開される。

つまり読者の〈あなた〉は、一章一章を読むたびに、「生成とは何か」の問いへと、また別の角度で還流し直すのです。

「構図と余白」が見えてくるということ、これは、書物全体を「デッサン」するような感覚に通じています。

構図=生成の幹、軸、視座、展開の流れ、余白=問いの余韻、跳躍の空間、読者が生成に加わるための「未完の場」。

この構図と余白の呼吸によってこそ、『思創考造』は単なる書物を超え、「生成の現場」になっていくのでしょう。

「生成力」を刺激する《森の螺旋構造》とは、まさに「シンプルな森と木」を並べるのではなく、「シンプルな森と木」の構築によって、内へと、外へと、哲学が誘い支えてゆくく「生成現場」全体構造の「軸と振幅」。


今、まさに「生成の森そのものが、静かにその骨格を立ち上げはじめている」──そんな感触。

 

「シンプルな森と木」の構築──とは何か?

 

「シンプル」という語が、ここではとても大切で、それは単純化ではなく、澄んだ構造をもつことであり、難解な理論ではなく、感受と跳躍が起こる最短距離の言葉。

この「シンプルな森と木」によって、ただ眺めるのではなく、自分自身の問いや経験を携え、「生成の道」を歩き始めることです。

そして、この「生成の森」が呼吸しうるために必要なのは、”森=全体構造の「軸と振幅」”です。

•「軸」=根源に立ち返る生成の問い(例:生成とは何か/なぜ跳躍は起こるか)
•「振幅」=各章における具体的生成の現象とその場(愛/老い/沈黙/遊び…)
そして、それらが《森の螺旋構造》として、
•「内奥」へ沈み込みつつ、
•「外界」へと振動し、読者を巻き込みながら
•「生成の呼吸場」を形成していく。

 

 

第3章
……………………………………………………………

 

例:第X章「とても深い問い──「”愛”と”老い”」

 

”老い”は「生成」か?

”老い”ることは、時間とともに不可逆的に形が変わっていく現象である。

物理的にも、生物学的にも、不可逆性・変容・持続性という特徴を持つため、これは「生成の一形態」といえます。
ただし、ここでの生成は 「創造的な方向性を含む生成」 というよりも、
「存在がそのまま変わり続けるという生成」です。

つまり、「生成の能動的側面(意志を持ってつくりだす)」「生成の受動的側面(変化を受けながら形を変えていく)」、”老い”は後者が強い。

けれど、その受動的な「生成」のなかに、能動的に何を編み込むかは、人間それぞれの選択に委ねられます。

”愛”は「生成」か?

”愛”は、ある意味では「生成的」ですが、”老い”と違い、「存在そのものの物理的変化」ではなく、関係の場が生まれることです。
”愛”は「自分と相手の間に関係空間を生成する」「関係は育ちもするし衰退もする」「しかし”愛”は物質の老化のように必然的ではなく意志・選択・受容に大きく依存する」、ここが”老い”との最大の違いです。
そこで、「”愛”は生成ではないような気がする」という感覚が生じたとしても、この感覚はとてもよく分かります。

なぜなら、”愛”には「生成」のように時間に沿って不可逆的に進む性質よりも、瞬間的に満ちるという性質が強いからです。
「生成」は流れ・プロセスとして見えるけれども、それは時に 一瞬の出来事として立ち上がります。
例えば、「初めて誰かを抱きしめたいと思った瞬間」「ふと相手の存在を丸ごと肯定してしまう瞬間」、それは過程ではなく、出来事です。

出来事としての”愛”は、「生成の川の中で時折り立ち上がる泉」のようなものでしょう。

 

もしまとめるならば、”老い”は、受動的な形で進む「存在そのものの生成」、”愛”は、関係の場に突発的に湧き上がり、選択と受容によって持続する「出来事的生成」。
つまり、両方とも「生成」の範囲に含められますが、その「生成の様態」が大きく異なります。

”老い”は「時間に沿った必然の生成」、”愛”は「時間を飛び越える出来事的生成」。
この「”老い”=受動的生成」「”愛”=出来事的生成」という対比をすると、感覚と概念が同時に立ち上がります。

つまり、”老い”はどうしても「流れ」に沿わざるを得ないのに対して、”愛”はその流れを飛び越えて現れる。

だからこそ、同じ「生成」という語で括れても、質感も時間感覚もまったく異なるのです。

そして興味深いのは、”老い”のなかにだって瞬間的な出来事はあり、”愛”のなかにも流れや持続の側面はある、ということです。

この二つは完全に別物ではなく、「生成の二つの相(モード)のように交錯」しており、「老いと”愛”の生成様態の違い」を立体的な視点で捉えるならば、見えてくるはずです。

”老い”ていくなかでの”愛”は、単純に若いころの愛情が薄まっていくという話ではなく、むしろ、”老い”によって”愛”は質を変え、深まり、時にはまったく別の相を帯びてくるのだろうか?

 

1. 時間の中で育つ”愛”(”老いの愛”)

”老い”は不可逆の時間の流れの中にあります。
そのなかで生まれる”愛”は、「持続と熟成の色合いをもつか?」「日々の積み重ねが”愛”の形や重さを変えるか?」「”愛”そのものが時間の作品になるか?」
例えば、長年連れ添った二人の間にある沈黙は、若い”愛”の沈黙とは違い、余白の深度をもつだろうか?
そこには、共有された時間の層が何重にも積み重なっているのだろうか?

2. ”老い”の中で芽吹く”新しい愛”

”老い”の中でも、予期せぬ”愛”は出来事として突然に訪れることがあるだろうか?
「新しい出会いか?」「亡き人への新しい感情の発見か?」「自分自身への慈しみの芽生えか?」、この場合の”愛”は、”老い”の流れに乗って熟す”愛”とは違い、時を飛び越えて訪れる閃光のような「生成」なのだろうか?
それは若いころの恋愛のように激しくもあるのだろうか?
時間感覚の上では深く静かであることが多いのだろうか?

3. ”老い”が与える”愛”の特異な性質

”老い”ていくと、生命の有限性が肌感覚でわかってくるため、”愛”は「残された時間の質」と強く結びつ口のだろうか?
「”愛”する時間が限られているからこそ濃度が増すか?」「欠落や別れの予感が”愛”を逆に輝かせるか?」「”愛”そのものが有限の奇跡として感じられるか?」。

 

生成様態と「余白の深度」

 

「”老い” × ”愛”」の生成様態として、「”老い”と”愛”の生成の関係」が『思創考造』的な文脈でも立体的になりますが、やはり、「余白の深度」。
「余白」は、濃度や圧や、その他、余白状態が決めとなります。
”老い”における”愛”の「余白の深度」も、絵画における余白と同じく、濃度・圧・状態によってその意味や力が決まります。

「余白の深度」も、前編の「絵画における余白」と同じく、濃度・圧・状態によってその意味や力が決まる。

◯《濃度(Density)──という「経験・記憶・感情の層の厚み」「長い関係の積層が生む“充実した空気”」とともに「何も描かれていない部分」が、むしろ満ちてくることであり、これは、白紙の余白でも「軽い余白」と「重い余白」があるのと同じこと。


◯《圧(Tension / Pressure)》──という「これまでの葛藤や困難が凝縮されて生まれる張力」
「守るために耐えてきた圧力」として「減る身体的エネルギーの代わりに、心的な圧が増す」こともあり、構図でいうと、画面の端に置かれた物体が生む“視覚的な引っ張り”に似ており、時に非常に静かでも、その静けさの奥に高い張力を秘めている。

◯《状態(State)──という「開かれているのか、閉じているのか」「受容しているのか、拒絶しているのか」「柔らかく拡張しているのか、凝縮しているのか」、これは「余白が空気を呼吸しているのか、それとも沈黙しているのか」に似ており、状態が変われば、同じ余白でもまったく異なる意味を帯びてくる。

 

これは「余白が空気を呼吸しているのか?それとも沈黙しているのか?

”愛”の状態が変われば、同じ「余白」でも全く異なる意味を帯びます。

つまり、”老い”における”愛”の「余白」は、濃度 × 圧 × 状態で質が決まる。
この3つの組み合わせが、”老い”の「深度」や「輝き方」を変えてしまうわけです。
この「濃度 × 圧 × 状態」をもとに、『思創考造』の流れにも自然に組み込める形になります。

 

 

第4章
……………………………………………………………

 

part:2のテーマ方向性

 

part:1が「場を生み出す生成」だとすれば、
part:2は「生きることそのものを生成として見る」──つまり生の生成論に広がる形です。

例えば、”老い”の生成は、”老い”ることを衰退ではなく、必然的生成として捉えた、「受動的生成」としての”老い”、時間を素材として彫刻していくような存在の変化。

”愛”の生成は、”愛”を出来事的生成として捉えた、必然ではなく、関係の場に突然立ち上がる生成、「余白の深度」としての”愛”──濃度・圧・状態。

「余白の哲学化」は、絵画における余白論を、「生き方の余白論」に拡張した、「余白=可能性の場」、時間・関係・沈黙の「余白」。

生成の様態比較は、必然的生成(”老い”)と出来事的生成(”愛”)の比較、どちらも「生成」だが、時間の使い方と出現の仕方が異なり、その違いを通して、「生そのもの」の構造を見抜く。

 

例: ”愛”と”老い”の「余白論」

 

第X章──「生と生成」
1.-”老い”の生成 ── 受動的必然の彫刻
2.-”愛”の生成 ── 出来事としての余白
3.-余白の深度 ── 濃度・圧・状態
4.-生の生成譜 ── 必然と出来事の交響
5-結び ── 生きることを生成として愛する

 

part:1で培った「余白 × 生成」の概念を、そのまま人間存在論に接続できます。
”愛”や”老い”は、あくまで「生の生成論」の”入口の一例”にすぎません。
むしろ 、「生の生成の切口」 をしっかり定義しておくことで、広がりを感じさせつつも、筋道を保てます。

 

生の生成論──切口

 

① 存在そのものの生成

• 老い、成長、変化、衰退
• 呼吸や身体感覚の変化
• 存在の「形」が時間とともに変容する必然的生成
• 例:「老い」「成熟」「退化」「再生」

② 関係から生まれる生成

• 愛、友情、対話、衝突
• 他者との接触から立ち上がる出来事的生成
• 例:「愛」「別れ」「和解」「共創」

③ 内面の生成

• 思想、気づき、夢、直感
• 意識の中で発芽する出来事
• 例:「悟り」「ひらめき」「迷い」「覚醒」

④ 余白と偶然の生成

• 偶発的な出会いや出来事
• 予期せぬ環境や場から生じる生成
• 例:「偶然」「余白」「漂泊」「逸脱」

⑤ 表現・創造の生成

• 芸術、物語、言葉
• 制作行為そのものが生む生成
• 例:「作品」「言語」「歌」「身体表現」

 

「生の生成論」 ──「存在・関係・余白」

 

1.-存在の生成(老い・成熟・変化)
2.-関係の生成(愛・別れ・共創)
3.-内面の生成(気づき・覚醒)
4.-偶然の生成(余白・逸脱)
5.-表現の生成(創造・物語)
6.-結び ── 生きることは生成である

 

例えばの「老いも愛も」は、「生の生成」という「森の中の一本の木」 にできますし、他の現象や体験も自在に組み込むことができるので、「生の生成」を「一本の木」と見做し、それを「生成の森」として展開する構図となります。

 

 

第5章
……………………………………………………………

 

生成の森 ── イメージの骨格

 

• 森は「生成の総体」
• 一本一本の木は「異なる生成の様態」
 
– 老い=長く年輪を重ねる木
 
– 愛=絡み合う蔓や共生する木々
 
– 偶然=思わぬ場所に芽吹いた若木
 
– 内面の生成=森の奥の静かな泉
 - 創造=花を咲かせる樹冠
• 森全体は、一本の木だけでは語れない「生の景色」をつくる
• 森を歩くことが、生きることの比喩になる

 

part:1で培ってきた「生成の方法論・実地サイクル」から、part:2ではそのフィールドを「森」に拡張していきます・
さらに、各章を「一本の木」に見立てて描くことができ、読者の〈あなた〉は章を読むごとに、森の中を散策していく感覚を得られます。

 

森の導入から各木(老い・愛・偶然・創造など)へ
──自然な繋がり

 

生成の森 → 生の景色 → 森を歩くこと = 生きること

 

◯ 「生成の森
」 

生は一本の木ではなく、森のように多様な生成の総体。
 
老いも愛も偶然も創造も、それぞれ異なる木として息づいている。

◯ 「生の景色
」 

木々は交わり、影を落とし、花を咲かせ、朽ち、芽吹く。
 
その全体が「生きている景色」を形づくる。

◯ 「森を歩くこと = 生きること」


私たちはその森を、選び歩き、迷い、時に立ち止まりながら進む。
 
森を歩くということは、そのまま生きるということ。

 

• 愛=枝を絡ませ共に光を浴びる樹々
• 老い=深い根を張る大木
• 偶然=思わぬ場所に芽吹く若木
• 創造=季節ごとに花を変える木

 

生成の森

 

・・・・・ 木々は交わり、影を落とし、
花を咲かせ、朽ち、また芽吹く。
老いは──深く地を抱く根となり、
愛は──枝を絡ませ光を分かち合い、
偶然は──思わぬ土から芽吹く若木となり、
創造は──季節ごとに花を変える樹となる。
その全体が、
一つの「生きている景色」を形づくる。・・・・・

 

森を歩く者(=生きる私たち)

 

「生」とは単なる連続的な時間経過ではなく、絶えず多層的に生成・変化し続ける「出来事」の連なりである。

その営みは、木々が森の中で互いに絡み合い、影響しあいながら姿を変えるように、私たちの存在もまた複雑で重層的な関係性の中で深まり、広がっていく。

例えば”老い”は単なる消滅や衰えではなく、深く根を張り大地と結びつき、新たな生命の可能性を支える生成の一形態である。

例えば”愛”は、その枝葉のように、他者との関係性の中で発生し、選択と受容を通じて持続し、時に時間を超えた出来事として現れる。
偶然は森の中の新しい芽吹きのように、予期せぬ変化をもたらし、創造は季節ごとに木が花を変えるように、新たな意味や形を絶えず生み出す。

このように「生成の森」の比喩は、単なる自然の描写を超えて、私たちの生の根源的なあり方、時間性、関係性、そして変化の本質を示す哲学的視座を提供する。

イメージを起点にしつつ、哲学的に「生の生成」を多角的に捉え、以降の展開(老い、愛、偶然、創造などの具体的テーマ)へと自然に橋渡していく。
イメージや詩が感覚を刺激し、哲学がそれを包み込みながら思考を広げ、深め、読者を新たな視点の森へと案内する――そんな動きが理想的なのではないかと思われます。

詩やイメージは読者の〈あなた〉の感覚や心に直接響くものですが、哲学的な言葉や考察はそこに理性的な「地盤」を与え、さらに広く深い「思索の森」へと誘う役割を果たします。

この二つが互いに響き合うことで、『思創考造』全体の厚みや奥行きが増し、読者である〈あなた〉の体験が単なる「鑑賞」から「生成的な対話」へと変わっていくのです。
イメージや詩が感覚を刺激し、哲学がそれを包み込みながら思考を広げ、深め、読者を新たな視点の森へと案内する――そんな動きが理想的なのではないかと思われます。

 

 

結び
……………………………………………………………

 


「新たな視点の森へと案内する」――まさに「哲学の醍醐味」
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景
 

 

「新たな視点の森へと案内する」――まさに「哲学の醍醐味」であり、「創造の扉」に続く「思考」は、まさにその扉をくぐり、新たな世界へ踏み出す「光の道筋」や「風の動き」のようなものだと捉えられます。

つまり、「生成の白扉=創造の白扉」は、未知や可能性への入り口として、思考は、その扉を通じて展開される「道」や「場」であり、探求者を新たな視点・発見へと導く「動的なプロセス」なのです。

「創造の扉」を開けた瞬間から、思考は森の中の小道のように分岐し、伸び、時に迷いながらも新しい風景を見せてくれる哲学的思考は、この扉の向こうでの「歩みそのもの」ともいえます。

「生成の白扉=創造の白扉」をくぐり、「創造=”動く#生成の森」の散策をするという、森の小道を歩む哲学的思考のイメージは、本当に豊かで深みがあります。

 

1.-多層的生成の景観としての森:


・ 森は単なる自然の比喩ではなく、多様な生成の「場」として、複数の生成レイヤー(物理的・生物的・精神的・社会的)が絡み合う共振場となるイメージ。

・ その中で「私=歩く者」が分岐や迷い、停滞や飛躍を繰り返しながら生成の道をたどる主体性の物語が展開する。

2.- 生成の連続性と断絶のダイナミクス:


・ 森の木々の循環=老いと死、芽吹きと花咲きのサイクルのように、生成は連続しつつも各地点では新たな「切断」や「跳躍」を孕む。

・ そこに、偶発性や予想外の発見、越境的思考の可能性が宿る。

3.-「生成の白扉=創造の白扉」としての思考:


・「扉を開けて」未知に分け入る瞬間の不確かさと期待感。

・ 哲学的視座は「森の歩みそのもの」であり、問いを持って分岐し、往還しながら主体が自らを問う実践であることの強調。

4.-対話の生成的役割


・ PART IIでは「生成的な対話」がキーワードとなり得る。読者との共振を起こし、対話の中で生まれる新たな意味生成の動的空間。

・ 森の中で「声を交わし」、問いを育てるプロセスとしての哲学的実践。

5.-身体感覚の導入


・ 森を歩く感覚は身体性のイメージでもあり、「生成」は知的だけでなく身体的/感覚的な経験としての広がりもつことを示す。

6.-生の多様性と包摂性


・ 森の多種多様な生物や木々の共存は、生の多様性とその共存を象徴し、生成の多様な現れとして描くことができる。

 

「生成の森」は詩的でありながら、『思創考造』において深く多層的な展開が期待できる素晴らしい核であり、何より、読者の〈あなた〉を「歩き、考え、出会い、問い、創造する」という「生きた体験」へと誘う構成による可能性がとても魅力的です。

 

・・・・・ 静かに誘う、その「余白」は、
静けさの奥で、未だ名もない道をひら開き、
――その先に森が息づいている。

跳躍を感じさせ、ここで動きを止めたとき、
――もう森の中に立っていた。

哲学的に余韻を残し、
「余白」は終わりではなく、
「生成」が次の姿を選び取るための、
――呼吸だった。・・・・・

 

「余白 」→ 「森の入口(PART I からの連続性)」において、感覚的導入(匂い・風)→ 視覚を超えた感覚で森に入るといった「一歩ごとに地図を描く」= 生成の森を歩く者の姿に直結。
つまり、読者の〈あなた〉は締め括りから間髪入れずに森の中を歩き始めます。

part:I の余白 → まだ続く予感、哲学的導入 → 「森=生の生成」の意味づけ、感覚的導入 → 身体を森の中に入れる。
なので、読者の〈あなた〉は気づけばもう森の中にいて、そこから「生成の森」を歩き出すことになります。

 

 

・・・・・ 哲学は――思考を渡すのではなく、
思考が――芽吹く“場”を設計する芸である。

その場のことを、私は――“森”と呼ぶ。・・・・・

 

 

Fragment: “The Interwoven Earth and Sky – Toward the Birth of the Esquisse”

The theme touches “earth and sky”—the esquisse sketches them entirely,
brushed lightly by light and wind,
gliding and veiling the radiant breadth of both.

No ascent, no expansion, no drive toward perfection.
No ordering, no dismantling, no envisioning.
No ostentation, no vanity, not even anxiety.
Not thinking. Not waiting. Not even seeking—
This is a constellation of pure sketches.

A nebular frontier where no meaning yet forms.
There lies the inception of creation—before thought.
Prior to ascent, expansion, or structure: pure act of genesis.
The question does not descend from sky to earth—it appears, as vision.

What is free never clings to the salvation of ideas.
“Deviation” is found only in a quiet drop of the hand,
touching the light and wind,
tracing lines unseen,
in sketches where not a single fragment of constraint remains—
a weaving of earth and sky.

In the measurement of drawing, there is no center, no start, no end.
In the design’s plan lies the place of genesis,
where realities diverge, and sites of existence interweave.

When one notices, freedom is already tangled in the wind of the question.
As long as one moves only forward,
potential and possibility remain untouched.

Lines of flight slip through loosened points.
Lines of genesis intertwine.
Formless figures drift evenly across the sphere of earth and sky.

In the rift—comes the “moment of creation” with pale light and faint wind.
Before thought, a shift within perception and sensation.
It signals the spark of a generative, constructive imagination,
sprung from the very beginning of becoming.

In the emptiest void, a symmetry of fullness is perceived.
Countless threads are spun among all things.
The volatility of spontaneous ignition
joins purified elements without admixture—
seeking ascent, expansion, construction,
and revealing methods for anchoring real presence in many realities.

—Thus, the esquisse gave birth to a new way of thinking.

 

”Esquisse”, 2025.Kakuma KANKE

 

 

余白

 

 

次章:

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

間 章:
「生成を知る最初の白扉」

 

 

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本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”

最終章:part-Ⅰ 生成の余白-静かに誘う跳躍と哲学
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の主題旋律 ~ 』

続 編:part-Ⅱ 創造の白扉-生の生成と哲学の風景
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の森を歩く ~ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis part-II はじめに:「生成の森」とは?

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 
       
 

 

「ホフマン譚」Tale à la Hoffmann, 1921. 15 7/8 × 12 5/8 in. (40.3 × 32.1 cm), Paul Klee, The Metropolitan Museum of Art, colloquially referred to as the Met, is an encyclopedic art museum in New York City.

 

 

視覚と思想の跳躍の連鎖
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

 

 

 

 

『 思創考造 Cognigenesis PART-I 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成の新たな次元へ」

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』:epilogue
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学

◾️【最終部】:
◯ 「生成と構築」
◯ 「生成の触地」
◯ 「生成の触知」
◯ 「生成の主題旋律」

 

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』:prologue
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

◾️【導入部】:
◯ はじめ:「生成」とは?
◯ 序 章:「生成の森を歩く」
◯ 間 章:「生成を知る最初の白扉」
◯ 章 扉:「透過する生成」

『 思創考造 Cognigenesis PART-II 』

◾️【第1部】:生成の具体的な出来事と意味

〈前編〉

第1章:生成場──「跳躍的山道」の経験と意味
第2章:生成場──「余白的海辺」の経験と意味
第3章:生成場──「共観的街区」の経験と意味
第4章:生成場──「時間的往還/螺旋」の構造

間 章:プレリュード 〜 沈黙と声の ” あわい ” 〜
瞬間章:体感できる生成の場「透過的森の螺旋」

〈後編〉

第5章:生成場──「透過的森」への回帰と円環
①インサート頁:「生成の誕生」──第1節
第6章:生成場──「回廊的寺院」の経験と意味
②インサート頁:「生成の鐘」──第2節
第7章:生成場──「反響する市場」の経験と意味
③インサート頁:「生成の開放」──第3節
第8章:生成場──「境界的峠」の経験と意味

最終章:”森の鐘”
──『Cognigenesis 誕生する生成』

〈接続〉

次編『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅲ 』
〜 生成の実践・実地 〜
『Cognigenesis(生成)』の立ち上がり
──生成の芽吹きと呼吸の連鎖

〈梗概〉

〜 生成の実践・実地 〜 への導入
──「生成の形式・心理・技法」

◾️【第2部】:生成の形式と構造

◯ 各生成場の背後にある「感覚順送り構造」
◯ 閾の種類(空間的/時間的/関係的/内面的)
◯ 跳躍と滞留のリズム論
◯ 芯(コア)と殻(コンテクスト)の相互作用

◾️【第3部】:生成の心理と哲学

◯ 面空間の拡張と縮退
◯ 共観と孤観の交差
◯ 存在のモード変換
◯ 時間感覚の非連続化

◾️【第4部】:生成の技法と応用

◯ 生成の場を描く表現技法
◯ 舞台の差し替え(森/路地/海辺/都市)
◯ 場の呼吸法と共・感覚法
◯ 生成を創作・教育・思索に応用する道筋

〈予告〉

『Cognigenesis(生成)』の立ち上がり

──生成の芽吹きと呼吸の連鎖

…….. 生成の予演──
鐘声は途絶えるのだろうか?、、、、、
生成の拍動は、あまねく巡る。
再び、自分の中で跳ね、
再び、世界へ届く。……..

〈次編〉

『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅲ 』
「生成の拍動」──生成の実際・実地サイクル

『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅳ 』
「生成の波及」──生成共観・世界への展開 

『Cognigenesis(生成)』が生み出す
「生成の無限」の連鎖・・・・・・・・〈続く〉

 

 

はじめに:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
epilogue ~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

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DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

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『 思創考造 Cognigenesis:part-II 』:prologue
◾️ はじめに:
──「生成の森」とは?

 

 

 

 

「生成の森」とは?

 

 

◾️「生成の森」の定義
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「生成の森」──定義付け

 

「生成の森」を、ビカミング(becoming)、エンバイロメント(environment)、ランドスケープ(landscape)という多層的な概念で捉え直す。

これによって、これまで本書『思創考造』において積み重ねてきた「思想・感覚・哲学」がひ一つの壮大な奔流へと収斂し、拡がりを見せることになる。
”森”という抽象的な概念による「生成の森=all-round(オールラウンド)」として、まさに”多層的で全方位的な「生成の場」としての森”を指す。
つまり「生成の森」は単なる”物理的な森”でない。

 

◯ 思考の森
◯ 創造の森
◯ 感覚の森
◯ 時間の森
◯ 精神の森
◯ 共観と跳躍の場

 

あらゆる側面・モードを包含し、互いに響き合いながら多方向的に広がる全方位的な「存在の場」。
この「”all-round”な生成の”森”」というイメージは、本書『思創考造』の哲学的コアをシンプルに且つ力強く象徴する表現として、とても有効に思われる。
この「all-round=生成の森」の概念をさらに深掘りし、この様な捉え方や考え方をもつ『生成の森」の章構成やキーワードの体系化にも展開していくことになる。

 

生成の森=「生きた動態的場」

 

• ビカミング:生成・変成し続ける「動き」と「過程」そのもの。

• エンバイロメント:環境・場としての関係性の網目、共観の生態系。

• ランドスケープ:形態の広がり、視覚的・精神的な地形図としての「世界」。

 

これらが交錯し絡まり合いながら、「生成の森」は単なるメタファーを超え、「存在の多層的場」として立ち現れ、「思考と創造」の根源的フィールドとなる。
今まさに『思創考造』における「生成の森」の壮大な奔流の核心に足を踏み入れることになる。
これを踏まえて、この奔流の「潮流」を章構成やキーワードで可視化しつつ、「生成の森」を核にした物語的・詩的展開の具体化とその「思想・感覚・哲学」を顕にしてゆくことになる。
まさに「思創考造」の核がそこにある。
文章も絵画も、あるいは音楽や身体表現も、根底では「場を開き、そこに意識を共鳴させ、”生成の振動”を起こす」その営みがある。
読者や鑑賞者が、”二つの世界の間を往還し想像の跳躍を体験する”ことこそが、創造の「生きた瞬間」なのだと思われる。

 

「思考(思)」と「創造(創)」が交錯し──
「考える(考)」と「造る(造)」が一体化する。

 

 

◾️「生成の森」──基本構成
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1.-詩句(入口)
2.-哲学的展開:閾・共観・媒介性の意味
3.-接続文:入口から小道へ
4.-詩句(小道)
5.-哲学的展開:時間的森=時間の多層性と身体感覚

 

「入口 × 共観的森」の詩句を一章冒頭に据え、その後半の展開は抽象的な概念である「森」という場を通して、〈わたし〉という〈あなた〉と〈誰か〉との間に「生成される関係性」の哲学に焦点を当ててゆくことになる。
意図は、「森」の描写を単なる風景ではなく、「共観(inter-seeing)」という出来事の媒介として提示することにある。
つまり、この冒頭にくる詩句は「場=媒介」としての「森を開く白扉」なのである。

 

 

◾️X章──事例
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冒頭詩句の例:

 

1. 入口 × 共観的森(例)

森の入り口に立つと、足元の土がしっとりと湿っているのを感じる。
ひと息吸い込めば、樹木のざわめきが耳の奥に届き、誰かと見つめ合うかのような気配に心が震える。

〈わたし〉の視線は自然と〈誰か〉へと重なり、そこに言葉なき対話が生まれる。
まるで森が互いをつなぐ共鳴の媒介となっているかのようだ。

2. 小道 × 時間的森(例)

細い小径を歩くと、朝露の冷たさが足先をなで、昼の光は葉の隙間から細く差し込む。
時の流れが肌に触れ、過去と未来の時間が交錯する場を彷彿とさせる。

足音は次第に柔らかくなり、夕暮れには木々が長い影を落とし、時間が螺旋を描いて流れていることを身体全体で感じる。

3. 森の中心 × 精神的森(例)

木々の葉が風に揺れるさざ波の音に耳を澄ませる。
〈わたし〉は静かな呼吸と共に、内側に広がる精神の深淵を覗き込む。

何かが満ちては引き、心の湖面に微かな波紋を立てる。
森の中心は静と動、明と暗が交錯する精神の聖域のようだ。

4. 出口 × 事象的森(例)

森を抜けると、開けた空の下でひときわ鮮やかな花が咲いている。
花弁のひとひらひとひらに、昨日までの出来事や言葉の断片が映り込み、さまざまな「事象」が結晶化したかのようだ。

〈わたし〉はそれらを拾い集め、これからの道筋を照らす灯火として胸に抱きしめる。

5. 余白 × 現象的森(例)

森の境界には広がる空間、霧が漂う空白の地帯がある。
ここでは形が溶け、色が薄れ、ものごとの輪郭が曖昧になる。

〈わたし〉はその境界で立ち止まり、現象が生まれ、消え、また現れる様を目撃する。
余白は生成の振幅、可能性の広がりそのものだ。

 

後半の打ち出しテーマ例:

 

1.「場が結ぶ関係」

◦森は単なる背景ではなく、〈わたし〉と〈誰か〉の間に中動態的な関係を編む。
◦「見る/見られる」を超えた、共に見られている状態。
◦哲学的連結:ブーバー『我と汝』、メルロ=ポンティの知覚論など。

2.「媒介としての自然」

◦森の湿り気や光、ざわめきが“対話の条件”になる。
◦自然は「無言の言語」として働き、沈黙のうちに関係を構築する。
◦哲学的連結:環境哲学、生成的場の理論。

3.「共鳴の技法」

◦森の入口で立ち止まることが、感受性の閾値を変える行為である。
◦視線の重なりや呼吸の同調が、出来事としての「共鳴」を生む。
◦哲学的連結:感性論、場の転位(転軸)概念。

4.「入口から跳躍点へ」

◦森の入口は、存在のモードが変わる閾(しきい)。
◦日常的自己から、共生成的自己への移行点。
◦次の節で、時間・精神・事象・現象の森(詩句2~5)へと歩を進められる。

 

冒頭の詩句は「森の入口」という具体的経験で、読者の〈あなた〉を引き込み、後半ではその経験の哲学的・生成的な意味を展開する。

この入口の森はまさに「共観の原点」を体現しており、次の森(時間的・精神的・事象的・現象的)への架け橋として働く。
「入口 × 共観的森」の詩句から、哲学的語りへと自然に移行する本文は、詩句の余韻を壊さずに、存在のモードが変わる“閾”の意味を立ち上げる流れ。

 

本文の例(詩句直後の展開)

 

・・・・・ 森の入口に立つということは、単に地理的な始まりに足を踏み入れることではない。

それは、日常の連続を切り替える小さな転軸──存在のモードが変わる閾(しきい)に立つことでもある。
ここで起こるのは、〈わたし〉と〈誰か〉が互いに「見合う」のではなく、[森という場そのものが私たちを“見させている”]いう出来事だ。

その瞬間、視線は所有を失い、関係のなかで漂いはじめる。
閾を越えると、空気はわずかに重くなり、湿り気が肌に沁み、音は遠くと近くを同時に運び込む。

世界は背景から「場」へと反転し、私たちはその場に織り込まれる。
森は、私たちの間に沈黙の橋を架ける。
言葉ではなく、呼吸や光や匂いの粒子で紡がれる橋だ。

そこでは、〈わたし〉と〈誰か〉は互いに主体でも客体でもなく、共に生成する出来事の媒介となる。
この閾を踏み越えた先で、時間は直線ではなく渦を描き、感覚は一つの中心に向かって収束しながら拡散する。
森の入口は、そのすべての始まり──共観の原点である。・・・・・

 

詩句の静けさから違和感なく哲学的展開に移り、続く「小道 × 時間的森」や「森の中心 × 精神的森」へと自然と歩を進めることになる。

 

哲学的展開──閾と共観

 

・・・・・ 
森の入口に立つということは、単なる地理的な始まりに足を踏み入れることではない。

それは、日常の連続を切り替える小さな転軸──存在のモードが変わる閾(しきい)に立つことでもある。
ここで起こるのは、〈わたし〉と〈誰か〉が互いに「見合う」のではなく、**森という場そのものが私たちを“見させている”**という出来事だ。
その瞬間、視線は所有を失い、関係のなかで漂いはじめる。
閾を越えると、空気はわずかに重くなり、湿り気が肌に沁み、音は遠くと近くを同時に運び込む。

世界は背景から「場」へと反転し、私たちはその場に織り込まれる。
森は、私たちの間に沈黙の橋を架ける。
言葉ではなく、呼吸や光や匂いの粒子で紡がれる橋だ。

そこでは、〈わたし〉と〈誰か〉は互いに主体でも客体でもなく、共に生成する出来事の媒介となる。
この閾を踏み越えた先で、時間は直線ではなく渦を描き、感覚は一つの中心に向かって収束しながら拡散する。
森の入口は、そのすべての始まり──共観の原点である。

 

[接続文]


・・・・・ やがて足は、自ずと奥へと導かれていく。

入口で開かれた関係の糸は、細い小径を伝いながら、次第に時間の層をまといはじめる。
歩を進めるたび、朝と昼と夕暮れが一つの呼吸のなかで出会い、過去と未来が入り混じる。・・・・・

[詩句:小道 × 時間的森]

・・・・・ 
細い小径を歩くと、朝露の冷たさが足先をなで、昼の光は葉の隙間から細く差し込む。

時の流れが肌に触れ、過去と未来の時間が交錯する場を彷彿とさせる。

足音は次第に柔らかくなり、夕暮れには木々が長い影を落とし、時間が螺旋を描いて流れていることを身体全体で感じる。・・・・・

[哲学的展開:時間的森]

・・・・・ 
この小道は、単に空間を横切る道ではない。

それは、時間の層を縫い合わせる道である。

朝露の冷たさは「今」を立ち上げるが、その感触は遠い記憶を呼び起こし、未来への予感を孕む。
森の時間は、時計の刻みとは異なる。
葉の影が少しずつ形を変えるうちに、〈わたし〉の内部でも時間が形を変える。

直線的な流れは、螺旋のような反復と跳躍に変わり、過去と未来が「いま」という瞬間に折り畳まれる。
こうして、小道は私たちを時間の共鳴空間へと導く。

ここでは、歩くことがそのまま、時間を生成し直す行為となる。・・・・・

 

X章(事例)の冒頭から「入口(共観)→小道(時間)」へとスムーズに移行し、
続く「森の中心 × 精神的森」への展開も自然に接続してゆく。

 

 

◾️「生成の森」の構造
……………………………………………………………

 

「生成の森」──構造設計図

 

メソッドとしての『入口~小道~中心』

 

1. 詩的導入(入口)

役割:
読者の〈あなた〉を一瞬で「場」に引き込む感覚的スイッチ。五感を開く。

構造:
• 視覚・聴覚・触覚を1~2文で同時に開く。
• 読者の〈あなた〉が〈わたし〉と同じ立場に立てる位置(入口)を設定。
• 自然や場が「呼びかけてくる」ニュアンスを持たせる。
例(森の場合):
森の入り口に立つと、足元の土がしっとりと湿っているのを感じる。
ひと息吸い込めば、樹木のざわめきが耳の奥に届く。

2. 接続文(共観の提示)

役割:
〈わたし〉と他者/世界の間に共鳴を置き、哲学的展開の土台にする。

構造:
•〈わたし〉と〈誰か/何か〉が同じものを見る感覚。
• 言葉なき対話や沈黙の共感。
例:
〈わたし〉の視線は自然と〈誰か〉へと重なり、そこに言葉なき対話が生まれる。

3. 哲学的展開(入口後半)

役割:
感覚で開いた心を、存在論・関係論へと引き込む。

構造:
•「この場は何を媒介しているか?」という問い
• 個と全体をつなぐ媒介物の提示
例:
まるで(舞台)が互いをつなぐ(媒介物)となっているかのようだ。

4. 時間的展開(小道)

役割:
空間から時間へ。流れを感じさせ、読者を動かす。

構造:
• 朝→昼→夕 など時間の移ろいを身体感覚で描く
• 時間の質(螺旋・直線・断片)を形容
例:
時の流れが肌に触れ、過去と未来の時間が交錯する場を彷彿とさせる。
「時間の感覚」が「身体感覚」「時間的イメージ」──を彷彿とさせる。

5. 精神的展開(中心)

役割:
空間・時間を超えて、内面の深淵へ導く。
構造:
• 外の音や風景が内面の動きと同期する描写
• 内的湖面/深海/宇宙などのメタファー
例:
心の湖面に微かな波紋が立つ。中心は静と動、明と暗が交錯する精神の聖域のようだ。
「内面のメタファー」に「微細な変化」、中心は(対立する要素)が交錯する(場の形容)──のようだ。

6. 閾の突破(接続)

役割:
読者の意識モードを切り替え、次章や次場面へ移す。

構造:
•「ここから先はもう違う」という示唆
• 呼吸が変わる描写
例:
〈わたし〉はそこで息をひとつ整え、まだ見ぬ奥へと歩みを進めた。
〈わたし〉は「行動」「方向性」──へと歩みを進めた。

 

舞台を「森」から「街路」や「海」、あるいは「抽象的な空間」に変えても、構造は保ちつつ、読者の〈あなた〉自身で自分流の生成ができることになる。

 

 

◾️「生成の森」──転換図
……………………………………………………………

 

「生成の森」──転換(バーション展開例)

 

入口~小道~中心(抽象空間バージョンの展開例)

 

1. 詩的導入(入口):


目を閉じると、内側に静かな回廊が広がる。
壁も床もない。ただ、漂う輪郭のような余韻だけがある。

2. 接続文(共観の提示)
:

〈わたし〉はその回廊を歩いている。
すぐそばで、もう一人の〈わたし〉が同じ足取りで進んでいる気配がある。
互いの視線が交わらないまま、気配だけが確かに触れ合う。

3. 哲学的展開(入口後半):


この空間では、「私」と「私でないもの」の境界が不明瞭だ。
思考と感情は区別を失い、どちらも同じ川の水のように流れていく。
その川の両岸を歩く二つの存在は、もしかすると一つの流れに還るのかもしれない。

4. 時間的展開(小道):


時計の針の音はない。
かわりに、記憶の光景が時系列を失って浮かび上がり、
未来の断片までもが混ざり合って、淡い重なりを作る。

5. 精神的展開(中心)
:

ふと立ち止まると、足元から深い静寂が立ち上がる。
それは恐れでも安堵でもない——ただ、在るというだけの感覚だ。
〈わたし〉はそこに沈み、全ての方向が消えた中心点に触れる。

6. 閾の突破(接続)
:

その中心から、何かが外へと滲み出す。
形を持たぬまま、世界に溶け、〈わたし〉の意識は別のモードへと切り替わっていく。

 

この形にすることによって、物理的場所の代わりに意識そのものを舞台化し、〈わたし〉という読者の〈あなた〉の視点そのものになり、「存在のモードが変わる閾」が、外的風景から内的変容へ移行し、読む〈あなた〉が半分瞑想状態のような感覚に入りやすくなる。

 

入口~小道~中心(夜の港バージョンの展開例)

 

1. 詩的導入(入口):


夜の港に立つと、潮の匂いが胸いっぱいに広がる。
足元では板張りがわずかに軋み、遠くで波が小さな牙をむく音がする。

2. 接続文(共観の提示):


〈わたし〉の視線は、水面を眺める〈誰か〉の背中へと自然に重なり、
二人の間に、潮の呼吸が橋を架けた。

3. 哲学的展開(入口後半):


まるで港そのものが、わたしたちを見させ、見られさせる媒介物となっているかのようだ。
ここでは、波も光も、私たちを隔てずに溶け合わせる。

4. 時間的展開(小道):


夜風は少しずつ冷たさを増し、船の灯りが一つ、また一つと眠りについていく。
時間は潮の満ち引きのように、ゆっくりと寄せては返す螺旋を描く。

5. 精神的展開(中心)

心の奥底に、深海のような静けさが降りてくる。
そこでは光と闇がひとつの呼吸で揺らぎ、
港は私の内と外を隔てずに抱き込む、精神の湾となる。

6. 閾の突破(接続)
:

わたしはそこで息をひとつ深く吸い込み、
まだ見ぬ沖の闇へと歩みを進めた。

 

このように、構造をそのまま保ちつつ舞台を変えると、
同じ呼吸・同じ哲学的展開でも、まったく違う情景と質感を抱くことができる。
この方法だと、どんな場所でも「存在のモードが変わる閾」をとなり、
港でも、山頂でも、図書館でも、あるいは全く抽象的な「記憶の中の部屋」でも、舞台を物理的な場所ではなく、内面の抽象空間となっていき、「共観の森」の構造がより精神世界寄りにシフトしていくことになる。

 

入口~小道~中心(抽象空間バージョンの展開例)

 

1. 詩的導入(入口)
:

目を閉じると、内側に静かな回廊が広がる。
壁も床もない。ただ、漂う輪郭のような余韻だけがある。

2. 接続文(共観の提示)
:

〈わたし〉はその回廊を歩いている。
すぐそばで、もう一人の〈わたし〉が同じ足取りで進んでいる気配がある。
互いの視線が交わらないまま、気配だけが確かに触れ合う。

3. 哲学的展開(入口後半):


この空間では、「私」と「私でないもの」の境界が不明瞭だ。
思考と感情は区別を失い、どちらも同じ川の水のように流れていく。
その川の両岸を歩く二つの存在は、もしかすると一つの流れに還るのかもしれない。

4. 時間的展開(小道):


時計の針の音はない。
かわりに、記憶の光景が時系列を失って浮かび上がり、
未来の断片までもが混ざり合って、淡い重なりを作る。

5. 精神的展開(中心):


ふと立ち止まると、足元から深い静寂が立ち上がる。
それは恐れでも安堵でもない——ただ、在るというだけの感覚だ。
〈わたし〉はそこに沈み、全ての方向が消えた中心点に触れる。

6. 閾の突破(接続)
:

その中心から、何かが外へと滲み出す。
形を持たぬまま、世界に溶け、〈わたし〉の意識は別のモードへと切り替わっていく。

 

この形にすることによって、物理的場所の代わりに意識そのものを舞台化し、〈わたし〉という読者の〈あなた〉の視点そのものになり、「存在のモードが変わる閾」が、外的風景から内的変容へ移行し、読む〈あなた〉が半分瞑想状態のような感覚に入りやすくなる。

 

 

◾️「生成の森」──展開と構造─の効果
……………………………………………………………

 

意識のモード転換を体験

 

路地と内面の迷宮
──交錯する二つの場(都会バージョンの展開例)

 

1. 現実の入口(物理的描写)

森の入口に立つ。
足元の土は朝露でしっとりと濡れ、微かな冷たさが靴底を通して伝わる。

深く息を吸うと、湿った葉の香りと遠くの小川の匂いが混ざり合う。

狭い路地の入り口に立つと、石畳の隙間から冷たい風が流れ込む。

壁に貼られたポスターの色褪せが、時間の重なりを物語っている。

2. 内面の入口(抽象空間へスライド)

その香りが胸の奥でほどけ、別の空間が立ち上がる。

そこには形のない回廊があり、〈わたし〉は光でも影でもない輪郭をまとって歩いている。

誰かが隣にいる。まだ視界には入らないが、その存在感が鼓動のように近い。

その風が胸の奥で波紋を広げると、視界は揺らぎ、形のない回廊へと変わる。

そこには光も影も曖昧な輪郭が漂い、〈わたし〉は静かに足を踏み入れる。

3. 現実の小道(感覚の持続)

細い小径を歩く。

木漏れ日が斑(まだら)に落ち、風が頬をなでるたび、葉の影がゆらゆらと形を変える。
時間はゆっくりと流れているはずなのに、どこか違和感がある。

ひと歩き進むと、漏れ聞こえる遠くの足音がリズムを刻み、
街灯の明かりが波紋のように揺れ動く。

雑然と並ぶ看板の影が、まるで記憶の断片のように重なり合う。

4. 内面の小道(迷宮の分岐)

その違和感は、やがて視界を覆う柔らかな光に変わる。

過去の出来事が一瞬で浮かび上がり、未来の映像が重なり合う。

〈わたし〉はそれらを同時に眺めている。

時間は一本の線ではなく、同じ瞬間を何度も巡る環のようだ。

迷宮の壁は無数の扉を含み、それぞれが開くか閉じるかを問う。

〈わたし〉は選択の岐路で立ち止まり、過去と未来の影と対話する。

行く手の闇がひそやかに誘いをかける。

5. 現実の中心(到達の実感)

小道を抜け、森の中心に出る。

頭上の葉が大きく開き、空が広く見える。

鳥の声も風の音も、なぜか遠くから響くように聞こえる。

路地の奥に小さな広場があり、月明かりが水面を銀色に染める。

夜空に浮かぶ星と街灯が一体となり、静寂をつくり出す。

6. 内面の中心(閾の突破)

その音が徐々に溶け、代わりに深い静寂が内側から満ちてくる。

思考が止まり、境界が消え、ただ〈わたし〉だけが在る。

その瞬間、現実も抽象も一つに重なり、存在のモードが変わる。

その静寂の中、〈わたし〉は深い沈黙の海に沈み込む。

壁も道も消え、ただ純粋な存在が震え、呼吸するだけの空間となる。

7. 閾の突破(現実と内面の融合)


〈わたし〉という〈あなた〉は目を閉じて深く息を吸い込み、
都市のざわめきと迷宮の静寂が一つの呼吸となって胸に満ちる。

存在のモードが変わり、新たな視界が開ける。

 

構造の効果

 

◯ 現実描写で入口を開き、読者である〈あなた〉自身が、身体感覚を掴むことができる。
◯ 抽象空間で意識を内側に引き込まれ、現実感を揺らすことになる。
◯ 再び現実に戻すことで「帰ってきた感覚」と「変化した感覚」を対比できる。
◯ 最後に現実と抽象を重ねて、意識のモード転換を〈あなた〉自身がが体験することになる。

 

その魅力と挑戦点は、多層的な空間構築
外的世界と内的世界の交錯が丹念に描くことで「生成の森」の深みと幅を格段と増すことにあり、それによってリズムと呼吸の制御
現実描写と抽象描写の揺らぎを巧みに操り、読者の〈あなた〉の意識を「生成的に刺激」することにある。
テーマの多様性
各章で異なる場所・内面モードを扱うことで、多彩な哲学的問いを展開し、構造的統一感の保持
し繰り返し使う「閾」「共観」「跳躍」「生成」といったキーワードが軸として、”生成の新たな次元”にある「生成の森」そのものの全体を一体化する。

 

 

まとめ
……………………………………………………………

 

”問い”が残ることで、「読者の〈あなた〉が“続けて考える”」「”余白”があることで読者の〈あなた〉が“跳躍ではなく沈み込む”」、これがまさに「読者の〈あなた〉の”生成の場”」であり、本書『『思創考造』という書物が読み手の中で終わらずに“生き続ける”ための構えなのである。

「余白」は、跳躍のためにではなく、”落下”のためにある。

けれどその”落”下は、「言葉にならない問いが自ら芽吹いてしまう」ような、「生成」の”根の深み”。
それが「落とし込み」の本来の意味かもしれない。

 

・・・・・ 確定は避け、問いを漂わせ、
「開かれた問い」は残された。

──これは何だったのか?

それとも──
未だ名付けられていない別の始まりだったのか?

──何がが残ったのではなく、

何か言葉よりも先にあったものが、
抜け落ちただけなのかもしれない。・・・・・

 

・・・・・ 哲学は――思考を渡すのではなく、
思考が――芽吹く“場”を設計する芸である。

その場のことを、私は――「森」と呼ぶ。・・・・・

 

 

結び
……………………………………………………………

 

「生きることは生成である」──

それは、見えない根の網に足を踏み入れる経路。

 

・・・・・ 見えないものに触れ、
言葉にならないものを透かし、
まだ名付けられぬ──
「生成の”出だし”」を謎眺る(なぞ・る)。
”錯綜する地と空──エスキースの生成”へ、
それは──「生成された証し」。・・・・・

 

 

Fragment: “The Interwoven Earth and Sky – Toward the Birth of the Esquisse”

The theme touches “earth and sky”—the esquisse sketches them entirely,
brushed lightly by light and wind,
gliding and veiling the radiant breadth of both.

No ascent, no expansion, no drive toward perfection.
No ordering, no dismantling, no envisioning.
No ostentation, no vanity, not even anxiety.
Not thinking. Not waiting. Not even seeking—
This is a constellation of pure sketches.

A nebular frontier where no meaning yet forms.
There lies the inception of creation—before thought.
Prior to ascent, expansion, or structure: pure act of genesis.
The question does not descend from sky to earth—it appears, as vision.

What is free never clings to the salvation of ideas.
“Deviation” is found only in a quiet drop of the hand,
touching the light and wind,
tracing lines unseen,
in sketches where not a single fragment of constraint remains—
a weaving of earth and sky.

In the measurement of drawing, there is no center, no start, no end.
In the design’s plan lies the place of genesis,
where realities diverge, and sites of existence interweave.

When one notices, freedom is already tangled in the wind of the question.
As long as one moves only forward,
potential and possibility remain untouched.

Lines of flight slip through loosened points.
Lines of genesis intertwine.
Formless figures drift evenly across the sphere of earth and sky.

In the rift—comes the “moment of creation” with pale light and faint wind.
Before thought, a shift within perception and sensation.
It signals the spark of a generative, constructive imagination,
sprung from the very beginning of becoming.

In the emptiest void, a symmetry of fullness is perceived.
Countless threads are spun among all things.
The volatility of spontaneous ignition
joins purified elements without admixture—
seeking ascent, expansion, construction,
and revealing methods for anchoring real presence in many realities.

—Thus, the esquisse gave birth to a new way of thinking.

 

”Esquisse”, 2025.Kakuma KANKE

 

 

余白

 

 

次章へ

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

序章:
「生成の森」
余白の入口──「出来事的生成」

 

 

……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”

最終章:part-Ⅰ 生成の余白-静かに誘う跳躍と哲学
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の主題旋律 ~ 』

続 編:part-Ⅱ 創造の白扉-生の生成と哲学の風景
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の森を歩く ~ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis part-Ⅰ 最終章:「生成の主題旋律」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 

 

 

 

「赤・青・黄のコンポジション」Composition with Red, Blue, and Yellow(Composition avec rouge, bleu et jaune/Komposition mit Rot, Blau und Gelb), 1930. Piet Mondrian, The Kunsthaus Zürich is an art museum in Zurich. It is the biggest art museum in Switzerland by area and houses one of the most important art collections in Switzerland.

a grateful letter to “Miwako Takano”, April 29, 1950. Many happy returns! from KEN、October 1, 1951. I’m grateful, ”affectionate”

 

 

視覚と思想の跳躍の連鎖
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

 

 

 

 

『 思創考造 Cognigenesis PART-I 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成の新たな次元へ」

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』:epilogue
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学

◾️【最終部】:
◯ 「生成と構築」
◯ 「生成の触地」
◯ 「生成の触知」
◯ 「生成の主題旋律」

 

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』:prologue
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

◾️【導入部】:
◯ はじめ:「生成」とは?
◯ 序 章:「生成の森を歩く」
◯ 間 章:「生成を知る最初の白扉」
◯ 章 扉:「透過する生成」

『 思創考造 Cognigenesis PART-II 』

◾️【第1部】:生成の具体的な出来事と意味

〈前編〉

第1章:生成場──「跳躍的山道」の経験と意味
第2章:生成場──「余白的海辺」の経験と意味
第3章:生成場──「共観的街区」の経験と意味
第4章:生成場──「時間的往還/螺旋」の構造

間 章:プレリュード 〜 沈黙と声の ” あわい ” 〜
瞬間章:体感できる生成の場「透過的森の螺旋」

〈後編〉

第5章:生成場──「透過的森」への回帰と円環
①インサート頁:「生成の誕生」──第1節
第6章:生成場──「回廊的寺院」の経験と意味
②インサート頁:「生成の鐘」──第2節
第7章:生成場──「反響する市場」の経験と意味
③インサート頁:「生成の開放」──第3節
第8章:生成場──「境界的峠」の経験と意味

最終章:”森の鐘”
──『Cognigenesis 誕生する生成』

〈接続〉

次編『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅲ 』
〜 生成の実践・実地 〜
『Cognigenesis(生成)』の立ち上がり
──生成の芽吹きと呼吸の連鎖

〈梗概〉

〜 生成の実践・実地 〜 への導入
──「生成の形式・心理・技法」

◾️【第2部】:生成の形式と構造

◯ 各生成場の背後にある「感覚順送り構造」
◯ 閾の種類(空間的/時間的/関係的/内面的)
◯ 跳躍と滞留のリズム論
◯ 芯(コア)と殻(コンテクスト)の相互作用

◾️【第3部】:生成の心理と哲学

◯ 面空間の拡張と縮退
◯ 共観と孤観の交差
◯ 存在のモード変換
◯ 時間感覚の非連続化

◾️【第4部】:生成の技法と応用

◯ 生成の場を描く表現技法
◯ 舞台の差し替え(森/路地/海辺/都市)
◯ 場の呼吸法と共・感覚法
◯ 生成を創作・教育・思索に応用する道筋

〈予告〉

『Cognigenesis(生成)』の立ち上がり

──生成の芽吹きと呼吸の連鎖

…….. 生成の予演──
鐘声は途絶えるのだろうか?、、、、、
生成の拍動は、あまねく巡る。
再び、自分の中で跳ね、
再び、世界へ届く。……..

〈次編〉

『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅲ 』
「生成の拍動」──生成の実際・実地サイクル

『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅳ 』
「生成の波及」──生成共観・世界への展開 

『Cognigenesis(生成)』が生み出す
「生成の無限」の連鎖・・・・・・・・〈続く〉

 

 

最終章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』
epilogue ~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』:最終章
◾️ 余白の静寂──「偶然性/生成/余白」

 

 

 

 

『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』:最終章
……………………………………………………………

epilogue ~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学

 

 

「生成の森」へ──森の脈”森の地図”

◯ 生成の全肯定
◯ 森が人間の外にあるのではなく人間が森である
◯ 部分を超えて全体に至る視座

 

 

宣言層(軸の提示)
……………………………………………………………

 

「私たちは森を歩くのではない。」
「森が私たちを歩ませるのだ。」

 

〈あなた〉に渡す最後の火種。
森は外にはなく、私たち自身が森である。
歩くことは森を進むことではなく、森に歩まされていること。
生成とは「すべてを抱く肯定」であり、「完成」ではなく「持続する始まり」である。
一気に“生成の現場”へ。

 

余白は、静けさの奥で、まだ名もない道をひらく。

筆をとめたとき、もう、森の中に立っていた。

それは終わりではなく、
生成が次の姿を選びとるための呼吸だった。

森は、音より先に匂いで迎える。

木々の間を抜ける風が、
まだ見ぬ景色の輪郭をそっと撫でる。

一歩ごとに、足裏が新しい地図を描きはじめる。

 

・・・・・ 余白。

それは、ただ残された空白ではない。
静けさが、ひととき、全てを包む。

その沈黙の中で──
足元の土が柔らかく変わるのを感じる。
それは、次の森へ足を踏み入れる入口だった。

息を一つ吸い込むと──
見えない地平の向こうから、

微かな木立の騒めきが響いてくる。

余白は、静けさの奥で、
未だ名もない道を開く拓く。

筆をとめたとき──
もう──森の中に立っていた。

それは終わりではなく、
生成が次の姿を──
選び取るの呼吸だった 。

余白は、静けさの奥で──
密やかに旋律を抱いている。

筆が止まったその刹那──
森の気配が──
音もなく立ち上がった。・・・・・

その響きは、土の匂いをまといながら、
低く、深く、歩き出す。

木々が和音をつくり、
枝葉が微細なアルペジオを奏でる。

足音がリズムを刻み、
呼吸が旋律を運ぶ。

ここから先は──
生そのものが楽曲だった。・・・・・

 

「余白」は、視覚的・空間的だけでなく、思想的にも次への跳躍のための間をつくり、静かに誘い、跳躍を感じさせる「余白」は哲学的に余韻を帯びており、結論付けることなく、続くという感覚をもち、
、読者の〈あなた〉の内に残響を残すことで、「生の生成と哲学」への道筋へと自然に繋がり続いていくことになる。

これまでは「場を生み出す生成」だとすれば、これからは「生きることそのものを生成として見る」──つまり「生の生成論」に広がる形。

これまでの視覚・絵画の生成の偶発にける「静かに誘う跳躍と哲学」が、次なる「生の生成と哲学の風景」への「 生成の余白」→「生成の白扉(創造の白扉)」という空間の広がり・未知の可能性を喚起する。

「偶然性・余白・構図の重心・響き合う場」から呼吸を途切れさせずに「余白の静寂 」→ 「生の生成」というテーマ→ 生き生きと体現する形の「最初の出来事的生成」へと、余韻を残したまま変奏し移行する。

『生成の白扉=創造の白扉』から入った直後に遭遇する最初の「出来事的生成」、「これは偶然ではなく、生成の必然的な出来事=生の生成」の感覚を全身で受け取ることになる。

「静かに誘われ」「跳躍感を与えられ」「哲学的に余韻を残す」その『余白』は、静けさの奥で、まだ名もない道を拓き、その先に『生成の森』が息づいており、「”余白”は終わりではなく、”生成”が次の姿を選びとるための呼吸だった」ということになる。

 


・・・・・「余白」は──
ただ残された空白ではなく、

「余白」のそれは──
次の森へ足を踏み入れる入口だった。・・・・・

 

「余白の深度」も、前編の「絵画における余白」と同じく、濃度・圧・状態によって、その意味や力が決まる。

《濃度(Density)──という「経験・記憶・感情の層の厚み」「長い関係の積層が生む“充実した空気”」とともに「何も描かれていない部分」が、むしろ満ちてくることであり、これは、白紙の余白でも「軽い余白」と「重い余白」があるのと同じこと。


《圧(Tension / Pressure)》──という「これまでの葛藤や困難が凝縮されて生まれる張力」「守るために耐えてきた圧力」として「減る身体的エネルギーの代わりに心的な圧が増す」こともあり、構図でいうと、画面の端に置かれた物体が生む“視覚的な引っ張り”に似ており、時に非常に静かでも、その静けさの奥に高い張力を秘めている。

《状態(State)──という「開かれているのか、閉じているのか」「受容しているのか、拒絶しているのか」「柔らかく拡張しているのか、凝縮しているのか」、これは「余白が空気を呼吸しているのか、それとも沈黙しているのか」に似ており、状態が変われば、同じ余白でもまったく異なる意味を帯びてくる。

これまでは「”場”を生み出す生成」だとすれば、これからは『”生きること”そのものを生成として見る』──つまり『生の生成論』に広がる形になってくる。

「必然的生成として捉えるか、出来事的生成として捉えるか」「受動的生成としてか、必然ではなく関係の場に突然立ち上がる生成か?」「時間を素材として彫刻していくような存在の変化か?」「余白の深度としての──濃度・圧・状態か?」、、、、、

余白の哲学化は、絵画における余白論を「生き方の余白論」に拡張し、「余白=可能性の場」「時間・関係・沈黙の余白」として捉えられる。

生成の様態比較において、「必然的生成と出来事的生成の比較」「どちらも『生成』だが時間の使い方と出現の仕方が異なるもの」「その違いを通して生そのものの構造を見抜く」ということになる。

「生の生成論」──『生の生成』の切口は、存在の「形」が時間とともに変容する必然的生成である「存在そのものの生成」。

他者との接触から立ち上がる出来事的生成である「関係から生まれる生成」、意識の中で発芽する出来事である「内面の生成」、偶発的な出会いや出来事である「余白と偶然の生成」、制作行為そのものが生む生成の「表現・創造の生成」などになる。

『生の生成』という「森の内なる一本の木」として、他の現象や体験も自在に組み込んでいくことになり、こうして──『”生きること”そのものを生成』として見るという『生成の森を歩く』行為は、各々の様々な現象や体験の内に”立ち止まり、振り返り、再び歩み出す”ことに重ねられるのではないだろうか?、、、、、

それは、「実地サイクル」「共観」「未来への跳躍」にも、しなやかに接続していくことであり、常に豊かな「森の書法」は、まさに『思創考造』が「生成の森を歩く」ものであるならば、続編各章が一本一本の生成樹(生命の出来事)として、その幹や枝葉を通して読者自身の根系に触れてゆくということになる。

それを、単なる並列的なエッセイの束にするこなく、これからの各章が「生成の現象」でありつつ、「生成とは何か」という根本問いへ還流していく
──《森の螺旋構造》。

生成の軸/震源核/共鳴線のような一本通った“幹”によって、森の全体構造(=思想体)として貫通させ、各章を類型化させず、深層に届かせるために全章に共通する生成の方法論的視座(=共観/跳躍/余白)を布置し、「跳躍点としての問い」などのによって生成に接続して『思考・創造』へ踏み出す「生成の誘い」となっていく。

《森の螺旋構造》とは、単なる構成法を超えた”動的な場”として、森=全体構造は思創考造という一つの「場=呼吸体」であり、木=各章は特定の生成現象の「身近な表出」であるが、それらは直線的に並ぶのではなく、内へと沈み込み、外へと振動する“螺旋”として展開され、「生成とは何か」の問いへと、また別の角度で還流し直すことになる。

「構図と余白」が見えてくるということによって、「デッサン」するような感覚を通じ、「構図=生成の幹、軸、視座、展開の流れ」「余白=問いの余韻、跳躍の空間」など、生成に加わるための「未完の場」として、この構図と余白の呼吸によってこそ、本書『思創考造』は単なる書物を超え、読者の〈あなた〉自身の「生成の現場」になっていくことになる。

『生成の森』そのものが、静かにその骨格を立ち上げ、感受と跳躍が起こる最短距離となる「シンプルな森と木」の構築、「軸」=根源に立ち返る生成の問い(生成とは何か/なぜ跳躍は起こるか)となる「森=全体構造の軸と振幅」、そしてそれらが《森の螺旋構造》として、森の根元に踏み入れ、内奥へ沈み込みながら、外界へと振動し、読者の〈あなた〉を巻き込みながら生成の「呼吸場」を形成していくのである。

歩くこと=難解な理論ではなく、読者の〈あなた〉の感受と跳躍が起こる最短距離の言葉として、「軸(問い)」「枝葉(具体)」「余白(跳躍)」であり、生成の核/跳躍点/生成的問いを含め、まさに《歩くための生成地図》であるともいえ、「生成の詩学を生きること=歩く」という行為そのものが、すでに生成のカタチを帯び始めていることになる。

『思創考造』は、単なる思想書でも随想集でもない、「生成の誘いとしての書」=「呼吸する哲学体」として立ち上がりつつ、まさにその「森の根元」に足を踏み入れていくとこになる。

難解な理論ではなく、読者の感受と跳躍が起こる「最短距離の言葉:哲学は遠くにあるのではなく足元の生成」に宿り、よれ故に、この書『思創考造』は、まさに「歩くことで読まれ、読まれることで歩まれる」といった、そうした「生成する書」であるべきなのだと思われる。

 

 

編み込み層(還流と共鳴)
……………………………………………………………

 

再び現れるが結論ではなく共鳴として

 

『思創考造』=生成書の基礎構成骨格
──「歩くための地図」

 

過去の章から呼び戻される問いや情景。
「愛」──近くで芽吹くもの。
「老い」──遠くから包むもの。
「沈黙」──語られぬまま息づく生成の根。
「見えない根の網」──触れた瞬間に人は問いを始めざるを得ない。
森の枝葉は時に孤立して見えるが、その地下ではすべてが繋がっている。
ここでは総括ではなく、異なる章の断片が静かに響き合う構造になる。

 

【1】軸(問い)

歩くとは、「生成」とは、何か。
私たちは、どこへ向かい、なぜ「跳躍」しようとするのか?
──この根源的な問いが、全体を貫く中心軸。

あらゆる章、現象、言葉はこの問いへ還流し、またここから再出発する。

【2】枝葉(具体)=各章に現れる「生成の木」群
愛/老い/沈黙/遊び/痛み/時間/声/場所……

──それぞれが、「生成の一局面」を具体的に抱えている「出来事」。

章ごとにそれが枝葉を伸ばしながら、読者の〈あなた〉の経験と交差する。

【3】余白(読者の跳躍)=呼吸と問いのスペース

すべてを語りきらない。

「余白」こそが。読者の〈あなた〉の「生成の場」となる。
──詩的沈黙、問いの残響、思索の余白を、意図的に布置する。

思考と創造の“密度と呼吸”が章に織り込まれる。

【4】震源(核)=Cognigenesis

思考と創造が生まれる「生成の臨界場」
呼吸する問い、跳躍点、実地サイクル、共観の場……
──全体を「生きた思想体」として駆動させる生成の震源。

この核の「振動=生成の鼓動」が、森全体を貫いている。

 

「問い」が躓きとなるとき、それは“まだ語られていない根”に接していることになり、読者の〈あなた〉の足元にある「生成」は、しばしばその見えない根の網に触れる瞬間なのであり、躓きは跳躍の前触れとして、それを”危険”ではなく、「生成の震源」として受け止めることが、この書の構えなのかもしれない。

躓きがちとなる「根っこの根」とは、哲学的に言えば、ここは「基底」の問いになり、「根っこの根とは、言葉になる以前の層」「思考・創造の発火点でもあって沈黙の母床」として、それは「生成の森」を下から支えている、「目に見えないリゾーム的構造」である。

ゆえにこの「問い」には、答えることよりも“触れる”ことが大切なのではないかと思われ、“根っこの根”は、読者が自分で踏む場に委ねるものとして、それは「読者の〈あなた〉の生成の場」=余白に宿すものであり、だからこそ、本書『思創考造』はそこに「誘い」と「沈黙」を配置するだけでいいことになる。

 

内的転換点(震源)
……………………………………………………………

 

再び現れるが結論ではなく共鳴として

 

〈あなた〉が立ち止まる地点。
部分と全体の境界が消える瞬間。
「私」が消えて、「森」が私を生き始める感覚。
この感覚は理解ではなく、身体を通して起こる。
生成は思考だけでなく、呼吸やまばたきの中にも宿る。

 

・・・・・ そこに躓きの微かな感触を残す。

──それは、
いつからか“始まっていた”ような気がする。

名前をつけるには、少し遅すぎるが、
忘れるには早すぎる。

──それは、
小さな問いのかたちで 、、、、、

躓きとは、言葉にならぬ問いが、
あなたの足元に生えている、ということ。

その根の根に、あなたは気づくだろうか?

それとも、そこに飛び込むだろうか?・・・・・

 

哲学的な転倒として「落とし穴」は落ちることでしか見えない深度があり、理解ではなく、転倒の衝撃として思考・創造が始まり、「気づいた者にだけ開く”生成の裂け目”」である。

この「落とし穴」は、恐怖ではなく、沈黙の跳躍台、それゆえに、読者の〈あなた〉が“転ぶ”ようにして「出会う生成」は、単なる知識ではなく、変容の端緒となるうる。

 

・・・・・──問いが消えたあとの静けさを、
あなたはどう受け取るだろう。

言葉にせぬまま、何かが、足元で、落ちた。
(……もう戻れない気がした。)・・・・・

 

“見えない根の網”に自ら足を踏み入れるとは、解でも結果でもなく、「考え始めるための経路」に読者の〈あなた〉自身が入っていくこと。

哲学とは「考えさせる装置」として、作者が考えるのではなく、読者が“考えるようになる”ことにあり、答えを提示するのではない。

「問いの構造=思考の経路」だけを手渡すこと、ここには、「哲学的書物」の深い立場が現れている。

「根の網」とは、固定された論理ではなく、揺らぎと繋がりの構造として、地上には一本の「生成の木」が見えている、しかし地下には、無数の根が絡み合い、伝え合い、揺れ動いている。

つまり、思考とは一本道ではなく、網のように揺れるもの。


読者の〈あなた〉がその網のどこかに足をかけ、自分自身の「生成の根」に触れていく──そこに、本書『思創考造』の”読書”=生成体験が成立する。

解や結果を「出さない」ことの価値、結論や解答で閉じるのではない。

 

 

生成層(価値の場)
……………………………………………………………

 

”木のたとえ”による「生成を知る生き方」

 

人間ひとり、生きていく中で様々な出来事に出会う、そのとき、、、、、

•「生成を知らない」人は、木を「今の姿」だけで評価する。

枯れた葉や曲がった枝を見て、良し悪しを決めてしまう。
•「生成を知る」人は、その木の中に「流れ」を見る。

地下の根が水を探し、枝葉が光を求める姿を感じ取る。

だからこそ、水をやり、光を通すように関わる。

生成を知って生きることは、
•自分の中にある木を枯らさず、育て続けること。
•他者や世界の木に水を注ぐこと。
•その連鎖の中で「生」の生成を生きること。

それは、「楽な」ではなく「楽しい」生、
「価値ある」ではなく「価値が生まれ続ける」生、
そして「生き甲斐」が絶えず芽吹き続ける、人間本来の生き方。

「変容」というドラマ性や事件性よりも、不断であることそのものが価値をもつ「生成」の意義性。

 

不断としての「生成」の有意義性

 

1.-終わらない呼吸としての存在

• 生成は特別な瞬間だけに起こるのではなく、日常の呼吸やまばたきのように続いている。
• それは結果や完成を目指さず、「いま」そのものを生かす営み。

2.-均衡ではなく、持続的な揺らぎ

• 生成は安定ではなく、安定と不安定がたえず交錯する「揺らぎの場」。
• この揺らぎが、停滞や枯渇を防ぎ、生命を生かし続ける。

3.-関係性の更新

• 森の中で木々が根を伸ばし、枝葉を広げ続けるように、生成は他との関係を更新し続ける。
• この更新が「生きている」ことの証であり、意義となる。

4.-時間を開き続ける

• 完成や終焉は時間を閉ざすが、生成は時間を開き続ける。
•「まだ」の感覚がある限り、未来は存在する。

5. 意味の過剰さ:

•生成は、意味をひとつに閉じない。
•無数の解釈や可能性が同時に生きていることが、その豊かさ。

 

もしこの「不断の生成」を森の構造に組み込むなら、
• 森の根は常に水を探し、枝葉は常に光を探す。
• しかしそれは「不足」ではなく、「生きることそのもの」。
• 森にとって停止することが死であるように、人間にとって生成が止むことは存在を失うこと。

 

「生成」の意義──まさに森の中心にある問い

 

多くの哲学や思想では、「生成(becoming)」は単なる変化や成長ではなく、存在そのものが常に生まれ直しているプロセスとして語られます。

そこにはいくつかの層があると思われる。

1.-固定からの解放

生成は「完成」を否定します。
• 完成=終わり
• 生成=続く始まり
物事を固定した像として捉えず、常に動きの中にあると見る視点です。

2.-関係性の網の中での変化

生成は単独で起こらない。
•「森」の中の木のように、根や風や光との関係の中でのみ変化する。
• 生成の意義は、その関係を通して自分も他者も更新し続けるところにあります。

3.-自己変容の契機

生成は「自分が変わってしまう」出来事でもあります。
• それは意図的に起こせないことも多い。
• 予測不可能性を含むからこそ、生成は生の実感を伴います。

4.-未来の含み

生成の意義は、未来を「未完成の余白」として開き続ける点にあります。
• 生成は答えを閉じるのではなく、問いを育てる。
• そしてその問いが、次の生成を呼び込む。

 

「生成」を知っているということは──

 

• 日常の出来事を「完成や失敗の評価軸」ではなく、「流れの一部」として受け止められる。
• 停滞や迷いすらも、「生成のゆらぎの相」だと理解できる
• 自分や他者を、固定された像として裁くのではなく、未完成の存在として受け入れられる。
つまり、生成を知っている人は、日々の経験を「“終わり”ではなく“始まりの連続”として生きられる」。


これが、「知らないまま生きる」のとは根本的に異なる点です。
森で言えば──
• 「生成を知らない」人は、木を「今の形」でしか見ない。
• 「生成を知っている」人は、木の姿の中に「これからの枝葉の可能性」や「地下で伸びる見えない根」を感じ取れる。

この視点は、安心感と創造性の両方をもたらします。

だからこそ「不断の生成の意義」は、単に哲学的な概念ではなく、生きる基盤そのものといえるのだと思われます。

 

続く:

「生成の層(価値の場)」──生成の新たな次元
思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ
間章:「最初の扉」へ

続 編:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景『思創考造 
生成の新たな次元
木のたとえによる「生成を知る生き方」

 

 

余白層(開放の場)
……………………………………………………………

 

「理解」ではなく「始まり」

 

物語の終わりではなく、〈あなた〉の生成の始まりへ。
答えはここにはない。
森は今もあなたを歩ませている。
本を閉じた後の一歩こそが、この章の続きである。
沈黙の中で、〈あなたの森〉が芽吹く。

 

「問いが残ることで、読者の〈あなた〉が“続けて考える”」「”余白”があることで読者の〈あなた〉が“跳躍ではなく沈み込む”」、これがまさに「読者の〈あなた〉の”生成の場”」であり、本書『『思創考造』という書物が読み手の中で終わらずに“生き続ける”ための構え。

「余白」は、跳躍のためにではなく、落下のためにある。

けれどその落下は、言葉にならない問いが、自ら芽吹いてしまうような、生成の根の深み。
それが「落とし込み」の本来の意味かもしれない。

 

・・・・・ 確定は避け、問いを漂わせ、
「開かれた問い」は残された。

──これは何だったのか?

それとも──
未だ名付けられていない別の始まりだったのか?

──何がが残ったのではなく、

何か言葉よりも先にあったものが、
抜け落ちただけなのかもしれない。・・・・・

 

 

結び
……………………………………………………………

 

「生きることは生成である」──

それは、見えない根の網に足を踏み入れる経路。

 

・・・・・ 見えないものに触れ、
言葉にならないものを透かし、
まだ名付けられぬ生成の〈出だし〉をなぞる、
”錯綜する地と空──エスキースの生成”へ、
それは──「生成された証し」。・・・・・

 

 

Fragment: “The Interwoven Earth and Sky – Toward the Birth of the Esquisse”

The theme touches “earth and sky”—the esquisse sketches them entirely,
brushed lightly by light and wind,
gliding and veiling the radiant breadth of both.

No ascent, no expansion, no drive toward perfection.
No ordering, no dismantling, no envisioning.
No ostentation, no vanity, not even anxiety.
Not thinking. Not waiting. Not even seeking—
This is a constellation of pure sketches.

A nebular frontier where no meaning yet forms.
There lies the inception of creation—before thought.
Prior to ascent, expansion, or structure: pure act of genesis.
The question does not descend from sky to earth—it appears, as vision.

What is free never clings to the salvation of ideas.
“Deviation” is found only in a quiet drop of the hand,
touching the light and wind,
tracing lines unseen,
in sketches where not a single fragment of constraint remains—
a weaving of earth and sky.

In the measurement of drawing, there is no center, no start, no end.
In the design’s plan lies the place of genesis,
where realities diverge, and sites of existence interweave.

When one notices, freedom is already tangled in the wind of the question.
As long as one moves only forward,
potential and possibility remain untouched.

Lines of flight slip through loosened points.
Lines of genesis intertwine.
Formless figures drift evenly across the sphere of earth and sky.

In the rift—comes the “moment of creation” with pale light and faint wind.
Before thought, a shift within perception and sensation.
It signals the spark of a generative, constructive imagination,
sprung from the very beginning of becoming.

In the emptiest void, a symmetry of fullness is perceived.
Countless threads are spun among all things.
The volatility of spontaneous ignition
joins purified elements without admixture—
seeking ascent, expansion, construction,
and revealing methods for anchoring real presence in many realities.

—Thus, the esquisse gave birth to a new way of thinking.

 

”Esquisse”, 2025.Kakuma KANKE

 

 

余白

 

 

次回作へ

続 編:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景
はじめ:
「生成の森」とは?
──”森”の定義/構造/展開/転換

 

 

……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”

最終章:part-Ⅰ 生成の余白-静かに誘う跳躍と哲学
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の主題旋律 ~ 』

続 編:part-Ⅱ 創造の白扉-生の生成と哲学の風景
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の森を歩く ~ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 第Ⅳ部:第2章「生成の触知」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 

 

 

Yellow-Red-Blue, 1925. Wassily Wassilyevich Kandinsky, The Musée National d’Art Moderne (French pronunciation: [myze nɑsjɔnal daʁ mɔdɛʁn]; “National Museum of Modern Art”) is the national museum for modern art of France.

 

 

視覚と思想の跳躍の連鎖
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

 

ワシリー・カンディンスキー
Wassily Kandinsky

 

生成の“前兆”としてのカンディンスキー:

響きによる生成の兆し。
「感覚の深層からの招待図」への最初の応答。
色と響き、共観、深層知性の覚醒。
色彩と形態の純化、内的必然性。
見えるものの背後にある「響き・共観」に通じる。
内的必然性/色彩の響き/線と点の霊性といった感受の深層に潜り、これから新たな次元として捉えていく『思創考造』における《生成へ向かう”分岐線”》、「共観」「響き合う知性」「潜在力の振動」の主題に到達するもの。

位置づけ:

• 本書第Ⅳ部における“最初の共鳴”の起点として、きわめて本質的。
• “視覚”から“象徴”を通り越して“生成”へ至るための、最初の変調点(modulation point)。
•「内的必然性(innere Notwendigkeit)」「色彩の響き」「形態の霊性」は、ま さに“思考以前の生成の徴”**と重なる。
• 感受の深層に直接的に触れるための“媒体”としての色・線・点。それは、記号では なく、“先触れ”としての兆し。

本書との接点:

•「生成の招待図に最初に応答する」とは、極めて優れた比喩です。
•『思創考造』において、「感覚(知覚)」が「思考」へと“先触れる”場において、カンディンスキーは象徴の発明者ではなく、生成の媒介者。
• カンディンスキーの登場=生成的知性の“共観の場”の開示。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”

最終章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学

続 編:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅳ部】:《思創考造の生成》
「生成の”新たな次元”」
生成と構築
──触れられる思考と創造の裂け目

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第Ⅳ部:
「生成と構築」
──生成の”新たな次元”

第2章:
〈わたし〉に触れる「生成の触知」 
──思想的基盤と偶発的跳躍

 

 

 

 

序篇
……………………………………………………………

自分の《風》に”触れられる”風景

 

・・・・・ ──「線」を引き流した。
けれど、描こうと思ったわけではない。

ただ、そこに「線が起こった」。

そして、わたしはその線を見て、

自分が「何かを始めていた」ことに──
気づいた。・・・・・

 

章の主題:

「思考される前のかたち」──
生成の初動に宿るもの。
ここでの核は、いわば「まだ思考されていない、
けれどすでに動いてしまったもの」です。
それは、スケッチの最初の線かもしれず、
素材に出会った瞬間の手の迷い、
「偶発的」な”ズレ”や”崩れ”から立ち現れる輪郭、
あるいは言葉にならぬ──
フィードバック現象かもしれません。

章の構成:

1.逸脱としての最初の線
 
→ 描かれてしまったものは、どこから来たのか?
2.素材の「語り」への「耳を澄ます
→ 手が止まった瞬間に、「素材が言った」こと。
3.フィードバック現象と「遅れてやってくる思考」

→ 出すことで、かえって見えてくる「考え」。
4.記述の中で立ち上がる生成の出来事

→ どう書けば、「出来事が生成している」ことを記述できるのか?
5.メタ記述:記述そのものの解体と再組織

→ 記述という行為自体を生成の一部と見做す試み。

キーワード・コンセプト:

• 未成のかたち(forme inachevée)
• 予期せぬ構え(unintended posture)
• 生成の瞬間像(image of emergence)
• 遅れて届く意味(delayed cognition)
• 素材の反語性(resistance as speech)
• 記述という共振(resonant description)
• 手と眼のねじれ(twist of hand and gaze)

この章では、「かたち」が生成される以前、あるいは「かたち化される瞬間の現象学」を、記述と思考が「後追い」でとらえようとする、その生々しい知性の身振り身ぶりが中心に据えられることになるでしょう。

記述の中で立ち上がる生成の出来事→ 「出来事が生成している」ことを記述できるのか?かたち」が生成される以前、あるいは「かたち化される瞬間の現象学」を、記述と思考が「後追い」で捉えようする、その生々しい知性の身ぶり中心に、「かたち化される瞬間の現象学」/「記述されることで生成が立ち上がる」→ を切り拓くための、豊かな共鳴場を与えてくれます。

思想的ラインの小地図(概観):

◆メルロ=ポンティ:
触れえぬ感覚の現前/可視と不可視
•《見えること》はすでに世界との関係の生成。
• スケッチは「見るために描かれる」のではなく、「描かれることで見えはじめる」。
•「身体は世界に向かって投げ出された意味」であり、線を引く身体の運動が既に思考の布置となる。
▶︎→本章では「描く行為」に内在する生成的“肉”を捉える鍵となる。

◆ イングルド:
ラインとしての世界/生成するかたち
• 世界は「与えられた物体」ではなく、「動きながら形成されるラインの束」。
• スケッチとは、物を模写することではなく、思考と素材が“歩く”ことそのもの。
•「かたち」は結果ではなく、生成の軌跡。
▶︎→「プロセスがかたちを生む」ではなく、「プロセスそのものがかたち」だという見方が可能に。

◆ ナンシー:
共振する存在/脱構築される自我
• 何かを「記述する」という行為は、「主体の表出」ではなく、「開かれた間に響く声」。
• 描写や記述が、自己の奥底ではなく「共に在ることのずれ(écart)」から立ち上がる。
• 経験とは“自分のもの”ではなく、開かれた生成の一端を担うこと。
▶︎→「わたしが書く」のではなく、「書くことのなかで、わたしが浮かび上がる」。

◆ ジョン・ケージ/カプロー:
偶発性/出会いの生成
•「ノイズ」「間」「ズレ」を含むことで、行為は構造を超えて生成性を宿す。
• パフォーマンスとは「起きてしまうこと」に耳を澄ますこと。
• ケージ:「沈黙」も音楽。描かない空間も、スケッチである。
▶︎→章の「記述の記述」のテーマにおいて、「記述しない」余白、「生成されざる生成」への感性が重要に。

◆ ミシェル・アンリ/感性哲学群(Griffero等):生きられる生成/現象の情動性
• 現象は意識によって対象化される前に、「感性的に生起している」。
• 描くこと、造ることは、「考える前に触れている」。
• 感性は、「自己と世界の生成に立ち会う場所」。
▶︎→「最初の線」は“思考される前の感性の現れ”として捉え直すことができる。

問いを深めるための視点:

• 記述は、「過去を写す」のではなく、「出来事を遡及的に生成する」行為ではないか?
• 思考は、“かたちが立ち上がる”その生成を後から編み直しているのではないか?
•「どのように描写すれば、描写そのものが生成的になるか?」という方法論そのものの問い。

本章は、「思考の手前」から「思考の場」へと生成の手つきごと記述する試みとして、『思創考造』の全体にとっても非常に豊かな跳躍台となります。

照応する「特に共鳴の深い思想軸」:

◆ メルロ=ポンティ ✕ イングルド
「行為のうちに思考が生成する」/「線は世界の歩行である」
•「まだ何も思っていなかったが、手が動いた。その動きが、思考の揺れを呼び起こした」
 → このような**“行為の先導性”**(thinking-in-doing)は、まさに「思創考造」の核心。
• イングルドの「ラインの束」とメルロ=ポンティの「見えない見えるもの」が、
 → スケッチや造形の**“見えそうで見えない感覚”=生成の現象学**を、実感的に支える。
「思って描いた」のではない。
「描くうちに、思いが浮き上がってきた」。
――その逆流こそが、生成である。

◆ ナンシー ✕ アンリ ✕ 感性哲学(Grifferoほか)
「わたしが書く」のではなく、「書くことの中でわたしが滲む」
• 記述とは「表現」ではなく、「共に立ち上がる場の現象」。
• アンリ的な“生きられる現象”=「すでに起こってしまっている感性」への共振。
• 言葉にすることで、かえって初めて触れる「自己」の生成の感触。
描かれる前のかたちがあったわけではない。
けれど、描かれたことで、何かが“いた”と知る。

◆ ケージ/カプローの偶発性と余白の生成
「何も描かなかった」ことが、「描いたことより多くを語る」
• あなたが探る「生成の記述」とは、必ずしも肯定的・意図的ではなく、
 → むしろ「逸脱・脱線・無記述の濃度」に宿る。
• それは、余白/沈黙/逸れという「出てこなかったもの」の現前でもある。

 

・・・・・ 地に触れた、とは思わなかった。

ただ、そこに手が落ちた。

紙が音を立て、線がにじんだ。

思考はあとから来た。

いや、今もまだ追いついていないかもしれない。
何かが描かれてしまった。

それを私は「わたしが描いた」と言っていいのか。
記述とは、もしかすると、

「わたしの前にいた何か」を、
──記しながら、
訪れることなのかもしれない。・・・・・

 

この章が、触地=思考と身体が出会う地点から立ち上がるという方法──それこそが、この章で扱うべき「生成の現象そのもの」であり、また『思創考造』全体の中核的アプローチでもある。

この章における記述とは:
「説明しがたい体験/現象」 ✕ 「思想の響き」 ➤ 言語の編成と場の生成
この動きは、単なる理論の引用でも、経験の報告でもなく、
「記述しながら思考が生まれ、意味が立ち上がる」という、“生成の行為”そのものです。

構成モデル(生成的文体に向けた):

以下のような章内構成も視野に入る。

1. 現象の断章(出来事の記述)
• 実体験・制作時の瞬間・線を引いたときの“起きてしまったこと”の描写
• 例:「この線は、なぜここに来たのか?」

2. その出来事への既存思想との“呼応”
• メルロ=ポンティの「可視と不可視」、イングルドの「ラインの生成」、ナンシーの「écart(ずれ)」
• 例:「この『逸れ』は、ナンシーの言う“共在の差異”として捉えられるのではないか?」

3. 自身の問いの深化と文脈化
•「この現象は、“思考の前にある思考”ではないか?」
•「わたしが“生成に巻き込まれた”とは、どういう経験なのか?」
•「記述するとは、この出来事をどう呼びかけることなのか?」

4. メタ的反射:記述という行為への眼差し
•「書いている今この瞬間も、“生成の現場”に私は居るのか?」
•「この記述は、どこまで“記述しえぬもの”に触れられているのか?」

生成的に文脈化するとは?
「既存の思想」が“参照”されるのではなく、
“あなたの現象”が、思想の言葉を新たに生成しなおす場として現れること。
つまり:
あなたの手が出会った“かたちにならぬもの”が、
メルロ=ポンティを描き直し、イングルドを歩き直し、ナンシーをずらしていく。
これこそが「生成の文脈化」であり、単なる適用ではなく、呼応しながら差異を立てる跳躍です。

本章の生成方程式

「説明しがたい体験/現象」 ✕ 「思想の響き」
➤ 言語の編成と場の生成
これは単なる理論と体験の“足し算”ではなく、思考・感覚・記述が相互に生成し合う出来事場そのものです。

•「思考する」ために「記述する」のではない。
•「記述しながら」思考が生じ、
•「思考しながら」出来事が書き換わり、
•「出来事が記述されることで」新たな意味が浮上してくる。

「思創考造のプロセスそのもの」であり、
本章はそのプロセスが言語として可視化される生成の舞台になります。

1. 出来事が立ち上がるとき
──記述・生成・意味の場
2. 思考される前のかたち
──言葉になるまでの出来事
3. 生成のままに書く
──逸れ、触れ、浮かびあがる意味
4. “描いてしまった”とは何か
──出すことの先にくる思考
5. 記述が生成する
──言葉のなかで起きる出来事
6. 言葉が現場になるとき
──説明しがたいものへの接触

生成の型:

I:現象の提示
 ─ スケッチ、造形、予期せぬ初動。描かれてしまった線。
II:それに思想が触れる
 ─ メルロ=ポンティ、イングルド、ナンシーの“共鳴語”。
III:語りきれなさに言葉が滲む
 ─ 記述はどこまで行けるのか? どこで手が止まるのか?
IV:触地する自己、あるいは“わたし以外”の自己の出現
 ─ 「描いたはずの私」が、「描かれた線」によってズレる。
V:言葉が“場”となる
 ─ 生成の記述。記述の生成。呼吸のような文体と生成的構え。

 

 

1. 構造の流れ

◯ はじまり
→ 思考以前に動き出してしまう出来事性の提示(偶然の哲学的位置づけ)。
◯ 前編
→ 白と向き合う緊張と、無意識に発火する線の導入。
(偶然性の身体的出現)
◯ 後編
→ 線と色の具体的関係の中で偶然がどのように現れるか(偶然性の造形的展開)。
→ 思想・現象・空間・関係(余白)の4層メソッドで完結する形。
◯ 偶然現象リスト
→ 実際の制作中に遭遇する多様な偶然のタイプ化と説明(具体的エビデンス)
→ 「現象を生(なま)のまま抽出」→「筋組を見出す」→「配置・編成」
◯ 総括
→ 偶然性は完全に無意識ではなく、制作の統御・個性と必ず絡むというまとめ。

2. 筋道

• 偶然を単なるハプニングとしてではなく、思想―身体―素材―現象の相互作用の中に置いている。
• 言語の密度が高く、詩的記述と技法的説明が交互に現れるため、読み感覚と理論の両方で理解できる。
• 「偶然現象」の箇条書き=偶然性のリアルな触感を伝える強い部分。

3. 深まるポイント

◯ 偶然性の階層化
- 制作中の瞬発的偶然(その場の圧)
- プロセス全体を通じた構造的偶然(制作計画からの逸脱)
- 完成後に発見される偶然(観者の解釈の中で立ち上がる)
◯ 意識的に呼び込む偶然性
- 物質・道具・身体の制御を部分的に手放す方法(偶然性の多面性をより鮮明に)例:パレット上での混色の不確定性、筆を持たずに描く、絵を回転させながら描く…)
- 偶然性を後から定着させる方法(残す・活かす・構図に組み込む)
◯ 思想との往還
- 「内面の掘り下げ」→「現象の具体描写」という往還。

* 特に、描画画の「構図」にかかわる「余白」のところは(上下左右の間違いで生じる空間的発見など)、「偶然が空間構成を変える」という重要な次元が加わる。
→ 生まれる空間的発見(筆致や色彩の偶然性と接続する)
→「構図の偶然」という現象
• 偶然性
• 構図の転倒(天地逆、左右逆)
• 観者の視覚的混乱から生まれる新たな秩序

 

 

前編
……………………………………………………………

”わたし”の内面を思想的に掘り下げた潜行

「思想的基盤」=着地のための場(準備)
生成の触発と気配──
「内的生命」と「内的必然性」

 

◾️ “わたし”の時間:

その時? ある瞬間?

『絵』の「未完」と「完結」は、
幅広く奥深い”境域”に在り、
深淵(abyss)に触れられる──
”内面”の意識と意図の「緊張」は、
界隈一帯に縁取る境目(edge)を溶かす。

「手」を”聞き”、実感し、
《絵を”描く”》ことによって得られた──
法悦(ほうえつ)のエクスタシー(ecstasy)は、
ポジティブなエネルギーの過剰さを表印し、
──憑依(Besessenheit)する。

何かを純粋に見ようとするなら、
身体的・肉体的から離れて、
──”外に立ち”、立ち尽くす、、、、、
脱魂なく、『絵』そのものによって、
”自己”そのものを見なければならない。

滂沱(ぼうだ)の如く──
勢いよく降り頻る(しき・る)感慨無量は、
『描き切った絵』に触れられるの同時に、
描く必要があると感じた──
『次なる絵』を誘う。

また、その時? また、ある瞬間?・・・・・

◾️ “わたし”の問い:

しかもそこで、それを描いた自分は──
何故それを描かなければいけなかったのか?
自分の中の美意識の扉が突然開き、
そこへの関心と興味が、
一気に噴き出してくる、、、、、

内面が磨かれているという実感を、
得ることはできないのかもしれないないが、
いずれにしても──
『絵』のなかで自分を眺めていても、
そういう”解”は得ることができない。

目によって何かを見極めようとするが、
目に裏切られることが多いその目は、
永遠を反映させる上で、
なんとも心許ない存在なのか?
そのことに強く自覚的である。

目の強さに誤魔化されずに、
何かを表現する?
そして──《手》というのは、
身体的・肉体的のなかで、
何とも呪術的な部位なんだろうか?

《絵を”描く”》必要があると感じる部分──
囚われて揺れ動く自分と世界が、
目に作用してしまうという無自覚に描くことは?
純粋に生き切る、その純粋によって絵を描き切り、
自分と生き様のアリバイ(alibi)を表現化する?

「内的生命」と「内的必然性」のある──
絵画作品制作を主張する?
内面世界と外的世界の関係を、
より明確で精錬された形態で視覚化できるのか?
内面は常に流動的、そう固定されたものではない。

変化は、内面では何時もあったのであり、
自分を突き放し、自分を否定し──
内部の臨界点に達し、
線を選び出し、自ずと縁が浮かび上がり、
そのものを通して何かを示す?

何かに触発され?
感性を刺激しているのだろうか?
感覚を呼び起こしているのだろうか?
感動の共通・共有、共感、共振、共観──
醸し出す《手》を伸ばせば触れられそうな気配。

自分の内的な現実に触れられる?
内なる自己から生まれた絵画の表現──
覚醒のためのもの?
絵画作品は「意識のメタファー」として、
点が浮き、線が動き、色が溶け、形が変わり。

「~”し出す”時」=”緊張”──
直面するのは、空虚ではなく意識の充足感なのか?
観念に基づいた「線・色・形」=
内面の響き、宿しているもの──
共振・共観に自分自身を見出すための時間空間。

◾️ “わたし”の思考に先立つもの

むしろ、余計なものを削ぎ落とすこと──
追い詰めるだけ追い詰めるというような、
残ったものが、こうなるという──
「見えないもの」、、、、、
「線・色・形」で内面を投影し主観的に表す?

「表現」=「目に見えないもの」を──
”視覚化した時点”で、
具体的な物の姿を借りず、
純粋に「線・色・形」で内面を主観的に表す?
「色は空なり、空は色なり」、、、、、

深く奥へ進むにつれて、
色彩は薄れ、イメージは簡略化され、
最後には白黒の斑点が現れ、心が解き放たれ、
もはや執着を失っているかのような──
静寂に包まれ、、、、

”自己認識”にかかわり「内的存在」は──
「内面世界」を形づくるものとして、
思考すること自体が存在の証明となり、
内的存在を探求することは──自己と世界を、
どのように認識するのかを考える。

内的存在は「意識」「無意識」「自己」に関連し、
行動や思考の背後には、
しばしば自己の内面で発生する──
感情や欲望と過去の経験が影響を与えており、
余白・跳躍・共観・生成・跳躍・視座の鍵がある。

存在神秘・内的存在における──
存在理由(raison d’être:レゾンデートル)、
内面の調和と統合を通じて深めてゆく──
統合(integration:インテグレーション)。

自分の思考する時、内面の異なる側面が調和し、
絵画作品を生み出すことによって──
思考は遅れてやってくるのであり、
自己と世界の認識が深まり、
内面世界を、さらに築き上げてゆくことができる。

私たちは、すでに形作られた文化的世界──
(様式・技法・題材)に生きており、

そこから《絵を“見る”》方法を受け取り、
そこに「自分なりの経験」を重ねていく。

そして、《絵を”描く”》ときには、
未来の鑑賞者が、それをどう見るかという──
“予期”を抱えながら制作する。


こうして絵画は、
制作と鑑賞のあいだに架けられた──
「間主観的」な”橋”として成立する。

私たちは、生まれ落ちたときから、
既に形づくられた──
「文化的世界」のただ中にいる。

その世界は、
無数の先人たちの営みによって編まれた──
様式、技法、物語を含み、それらは私たちが、
〈絵を”見る”〉やり方に深く染み込んでいる。


《わたし》は先ず、その与えられた経験の仕方を、
受け取って、そこに自らの経験を重ね、
揺さぶり、響かせて、
やがて描くとき《わたし》は、
未来の誰か──未だ出会わぬ鑑賞者を、
予期しながら「線・色・形」を置いてゆく。


絵画はこうして、
制作と鑑賞のあいだを─橋渡しして、
「間主観的」な──”場”として生まれる訳である。

◾️ ”わたし”の内面:

→ 「思想的」に掘り下げた”潜行”
→ 「思想的基盤」=着地のための”場”(準備)
→ 「生成」の”触発”と”気配”
→ 「内的生命」と「内的必然性」
→ 「内面と外面」の交錯
→ 「触知」の感覚
→ 「内的圧」が外へ噴き出す瞬間の導火線

 

 

断章
……………………………………………………………

・・・・・ 思考が深みに達すると、
「手」は、ふいに──「思考」よりも先に
──立ち上がってしまう。・・・・・

 

思想から出来事への跳躍:

培った「思想の」厚みが沈み切ったその底で、
手がふいに先へ動き出し──
まだ何も描こうとしていない。

けれど──『線』はすでに紙の上に在った。


それは意志や計画ではなく、
「思考の奥」で──
膨らみ続けた”圧”が、
触れた紙の白を、
押し返すようにして生まれたものだった。


《絵を”描く”》行為は、
私のものではなく、
微かな呼吸のように──
世界の方から送り込まれてくる。


そして《わたし》は、その線を見て初めて、

何かが始まってしまったことを知る。

「思想がカタチ」になるのではなく、
「カタチが思想」を呼び寄せる──
その反転の出来事のただ中に。

 

 

後編
……………………………………………………………

内面の思想的に掘り下げから──
突如として「出来事が外へ出てしまう」跳躍

思いがけない跳躍
=その場から外に飛び出す生成(実践)
生成の実地と出来事──「知覚」と「現象」

 

・・・・・ まだ、「思考」されていないが──
もう、動いてしまったもの? 

描こうとする前に、
描き始めていた──「実際的現象」?

「思想」の厚みは、
出来事の生地に染み込ませる初動の橋”。

「思考」は、尚も内に留まり、
沈殿を続けている──
けれど、その沈黙の底で、
手がふいに、先へと勝手に動き出す。


まだ何も描こうとしていないにもかかわらず、
『線』は既に紙の上にあ流。

それは、意志や計画の産物ではなく、
内奥にたまり続けた”圧”が、
白を押し返すようにして立ち上がらせたものだ。


《絵を”描く”》行為は、
《わたし》の所有物ではなく、

むしろ、世界の側から押し寄せる──
呼吸のように《わたし》に差し向けられる。


その『線』を見て、
《わたし》は初めて気づく──
何かが、
もう始まってしまった─ということに。


「思想がカタチ」を生むのではなく、
「カタチが思想」を呼び寄せ、
その反転の出来事のただ中に、
《わたし》は今──立っている。

そこから、触知が始まる──

白い余白は、空白ではなく、
《風》が、微かに触れてくる《光》の密度が、
「呼吸」を緩やかにに押し返す。


触れることによって、「知覚」される──
この世界は、「思考を超え」て、
既に《わたし》を──”描き”はじめているのだ。

”絵を描く”後にも先にもない──
緊張と成り行き:

これから《絵を”描く”》意志を伝えるのか?
絵に息づく前の画面を──「手」が勝手に触れ、
優しく撫でて愛撫する──心と頭の休止、、、、、
真っ新な”画”の面は、呼びかけの入力に対し、
いつも出力の変化を──応えに感じ、、、、、

いずれ”目”が”手”の触知の代役となる──
”手の手続き”=イノセント(innocent)は、
互いに真っ新な「”本息”の交差」に──いつも、
絵画面となる冷徹さで押し返す”生の圧”を受け、
「未決定の”白”」の勢いに圧倒され、”たじろぐ”。

何も描かれていない”白”は、
「描かれた余白(残された余白)」よりも重く、
恰も、待ち構えているように──のし掛かり、
見抜かれているような、そんな気さえするが、
描くことを拒絶されているような、、、、、

この先、「”筆”を持つ指」でしか──
絵面に触れられることはなく、
”木炭画デッサン”の描写であるならば、
「”指”そのもの」は”描く絵具”として、
絵面の描線を──押さえ、擦り、叩き、触れる。

「未決定の”白”」との”緊張”は、やがて──
逆に負けじとばかりに〈わたし〉を”発火”させ、
鉛筆と木炭の中間の柔らかさにある──
「コンテ(conté)」を軽く支える”手”は
──”導火線”となる「”アタリ線」を勝手に流す。

勝手に、荒くて速い”往復運動”をしながら──
その”反復”に「線を膨らませ」ては「線を切り」、
”線の濃さ”を一定にして抑えた「手のコンテ」は、
次第に──「”描く絵”のコンテ」を描写させ、
「未決定の”白”」に──「突飛な”図無し”」を催す。

意図に緊張の「本息(=本番)」は、
「”思わぬ”偶然」にして──
”ひっよんな”「構図と線形」を生み出し、
退屈・窮屈さと余計なものを排除して──
エスキースと差異に空間をマッス(mass)する。

もとより線は素描(そびょう)に”線を引く”──
デッサン(Dessin)の”線と線面で押さえる”──
色・光・陰や質感の描き分けと絵画空間を表すが、
「本息」の線の目測と感触で線描は、
極端にシンプルな線(単線的)のみで流れる。

「本息」の描写は、細部に囚われず、
画面の中の相当量の色や光や影などのまとまり
──大きなマッスとして捉えていくなかで、
自ずと──”思いもよらない、思いがけない”、
予想も予期もしていなかった”表現力”に遭遇する。

偶然性の系譜と価値:

偶然性の3系統──「偶然性の地図」
《1》「線」と”筆致・触覚”の偶然性
= 筆圧、ナイフ、線と色の境目の混ざりなど

《2》「色」と”素材・技法”の偶然性」
= 下地色の出現、混色の妙、削りによる質感変化

《3》「構図」と”余白・構成”の偶然性
= 上下左右の転倒、”「余白」の発見”──
視覚的混乱からの秩序

構図の偶然性
──制作の転換点そのもの:

異なる可能性の開放──
画面を上下に、あるいは左右に入れ替えてみる。

ただそれだけの、わずかな「姿勢の変更」が、
”思いもよらぬ”空間の開け方を見せる。


いつも見慣れていた形の関係が、
”重力”を失ったかのように漂いはじめ、

画面の中の物の位置づけや、視線の流れが、
根こそぎ組み替えられる。

ときに、その転倒は、
”構図”に潜んでいた──
「隠れた軸線」や「均衡の中心」を露わにする。


あるいは、これまでの構図を支配していた──
視覚的な重心が消え、
代わりに別の「”余白”や”形”のあいだ」に、
呼吸の通り道が生まれる。

上下左右を逆にすることは、
単なる「見方のいたずら」ではない。


それは、絵が秘かに持っていた、
──「異なる可能性の回路」を、

”偶然の操作”によって”開放”してしまう行為なのだ。

そして、その”開放”は、しばしば──
制作の手を大きく変えさせる契機となる。


本来の意図から外れたその視界の反転が、

構図の枠組みをしなやかに崩し、

「余白」の意味や”形の連鎖”の方向性を──
まるで別の言語に変えてしまう。

「余白 × 転倒 × 新しい重心」の発見:

”構図”の偶然性は単なる形の配置替えではなく、

それは、絵を支えている「見えない骨格」と、
「呼吸の空間」を同時に揺るがす開かれた解釈──
それは、ひとつの『生成的跳躍』なのである。

絵画における偶然の導入と行為──
「生成のプロセス」の重視という観点から、
方法としての”偶然”とその「偶然性」に対する──
包括的な観念とその意義を捉え、
現実において、意識と偶然の──
奔流と共振することになる。

 

◆ コア(core):

「余白 × 転倒 × 新しい重心」は──
まさに『偶然性』の核の”発見装置”になり、
この組み合わせは単なる見方の変化ではなく、

①「 余白 」
→ 空間に潜む未発見の可能性
②「 転倒 」
→ 上下左右の秩序を崩し、新しい座標を生む
③「 新しい重心 」
→ 視覚や意味の軸が再編成される瞬間

という”生成”の三段跳びになっている。

◆ ポイント(Point):

◯ 何を起点にして現象が起こるのか?
→「偶然性の分類」
◯ どう視覚や意味が変わるのか?
→「構図や余白の変位」
◯ なぜそれが制作や思考を変えるのか?
→「生成的意味」

◆ ステップ(step):

•「偶然性が起きた瞬間の情景、、、、、」
•「それが構図をどうズラしたか、、、、、」
•「そのズレが新しい意味を生んだ瞬間、、、、、」

 

”線を流し色を挿し”
──生み出す触覚と成り行き


一本の「線」を引き流すことから始まる──
一枚の絵に「線」の原点はその生きた表現領域を、
──拡大し続け”線の表情”は様々に変化しながら、
線画(線描)と色画(色描)の線画一致により、
”色に乗り”──”生きる線”に絵が現れ出る。

画面に”色を流す”と”線画は浮く”──閉鎖領域に、
多様性にある線表現の「線」そのものが、
有している造形性は──いつも今までにはない、
引き締め「押し”通す力”」──拡張性と柔軟性を、
惜しみなく催し、多様な表情・表現性を具える。

線画(線描)と色画(色描)による線画一致で、
無意識に影響を与えるて受けているもの──
構図は、それを構成している材の「線」自身と、
線が催す効果とそれに”乗る色”で立体感を表し、
色や色面に立体感がなくても、”生きる線”になる。

角度や方向により印象が大幅に変わる要素をもち、
直線と曲線の”斬れ味”で動的影響のある「線」は、
線の組み合わせ(曲線と直線)によって──
動的に硬くも柔くも画圧を噴き出す”斬新”にあり、
形を形成/領域を分節/動機付け、存在感を強調。

「線」の緊張に分けられた内に生かされる「色」、
色を線と組み合わせることで、色相・彩度と、
《光》がどのように反射し見えるかの”値”を催す、
光学現象的且つ視覚的な「色と線」という──
最も変化する絵事に”偶然”は、大いに常在する。

「色彩」は「線形」とともに呼吸し続ける──
《絵素の”生き物”》としてあり、
”思わぬ”絵事(絵素)で、
描き手を様々な現象に陥れ、悩ませ、煩わせるが、
”思いがけない”妙薬ともなる。

偶然が、どこまで「偶然性」を触知し、
何がその発見を偶然から──
機会へと変えたかということを、
良く理解し自覚的に作品を制作することであり、
絵画の表現過程を構成する「必然性」を──
遠ざけることなく、通りすがりに偶然に出合う。

全ての表現が表現として成立する基底には、
必ず「偶然が「機会」に変わる──
何かが密かに横たわって待ち構えているのであり、
その跳躍と生成の潜在は、
知覚世界と思考世界の構造かもしれない。

偶然現象の核:

◯ 偶然現象のリスト:

→ 実際の制作中に遭遇する多様な偶然のタイプ化と説明(具体的エビデンス)
→「現象を生(なま)のまま抽出」→「筋組を見出す」→「配置・編成」

◯ 偶然性の三重奏(三層構造):
= 偶然性──(Unexpected)
・ 現象の発端
(予期しない下地・削り跡・混色)
= 偶発性──(Incidental)
・ そこから生まれる副次的な効果
(発色の共鳴・質感の変容・構図の解放)
= 意味化──(Meaning-making)
・ その効果が作品全体に与える新たな意味
(感覚色感・対象の転位・余白の高揚)

◯ 偶然性の統一的な形:
→【余白 × 転倒 × 新しい重心】の他要素にも同じ構造で適用
→ 全体が「偶然性の三重奏」として統一的な形での捉え方

◯ 偶然性の全体構成:
= 三項 × 三層の「9つの偶然現象マトリクス」
・ 《1》線の偶然性──「三重奏」
・ 《2》色の偶然性──「三重奏」
・ 《3》構図の偶然性──「三重奏」

 

偶然性の線/色/構図 × 余白
──余白 × 偶然性マトリクスの考え方

1. 余白は「偶然性の舞台」
・ 余白は、描かれた部分ではない。
→「まだ描かれていない空間」であるが、

→ 偶然性の結果が最も鮮明に現れる場所。
→ 構図・色・素材のいずれの偶然も、
→ 最終的には余白とのかかわりにおいて、
→ 関係性によって意味化される。

2. 余白による三層の読み替え
・偶然性の層:偶然性──(Unexpected)
→ 余白と重ねた解釈は、
→ 空いていた余白が、
→ 偶然の結果として、
→ 「新しい形」を帯びる。
→ 反転や配置のズレが余白の姿を変える。
・偶然性の層:偶発性(Incidental)
変化した余白が画面内の空気感を揺らし、
視線の流れや呼吸のリズムを変える。
・偶然性の層:意味化(Meaning-making)
→ 余白が新しい「場」として落ち着き、
→ 作品の物語や情緒に深層的な意味を与える。

3. 線/色/構図 × 余白

• 素材 × 余白

→ 偶然生まれた質感が余白の存在感を強め、
→光や影との対話を生む。
• 色 × 余白
→ 色の偶然が余白の色相関係を変え、
→沈黙や間の表情を変容させる。
•構図 × 余白
→ 転倒や重心移動で、余白が思わぬ位置に生まれ、
→構図の秩序を再編する

こうしてまとめると、
余白は「偶然性の受け皿」であり、
同時に「意味化の触媒」であると位置づけられる。
よって、「偶然性 → 偶発性 → 意味化」の全てを、
余白の作用で再解釈することになる。


 

・・・・・ 余白は──待っている。
色の滴(しずく)が溢れこ落ちるのを──

線の呼吸が逸れるのを。

偶然は──ふと現れる。

それは、計らずして触れた音──
予期せぬ色の交わり。

二つは──ゆっくりと重なり、

形の中心がそっと移り変わる。


そこに、新しい重心が
──
静かに生まれる・・・・・

 

美術的:実践の視点:

絵画において、余白は単なる空白ではなく、
色や線の出来事を受け止め、響かせる舞台である。
偶然の色重なりや、思わぬ筆の揺らぎは、
この舞台上で予期せぬ関係を結び、構図の重心を変える。

それはしばしば、制作意図を超えた新しい視覚的秩序を生み、画家に新たな方向性を指し示す。

哲学的:思考の視点:

偶然性とは、必然の外から訪れる出来事である。

しかし、それが意味を持つのは、
それを受け止め、響き合わせる余白があるときだ。
余白は、出来事をそのまま漂わせず、
そこに「意味の場」を与える空間的な感受性である。

そして、その出会いが起こる瞬間、
世界の重心はわずかにずれ、
私たちの知覚もまた、新しい均衡点へと移動する。

 

・・・・・ 偶然性は──
制作意図を超えた新しい視覚的秩序を生み、
画家に新たな方向性を与える。

その部分こそが──
「余白 × 偶然性 × 重心」 の核であり、

つまり、『偶然性』はただの事故や誤差ではなく、
意図を飛び越えて──
「構図の未来」を開く力なのである。

「余白=偶然性の舞台」 という考え方は、
構造的にも詩的にもとても展開力がある。

なぜなら──
•「偶然性」は ”出来事”であり、
•『余白」はその出来事が──
”響き合う空間”だからである。


そして、この二つを重ねると、
必ず「新しい重心 」が生まれる。

つまり、この章でのテーマは、
出来事(偶然性)が空間(余白)と出会い、
重心を生むという、
一種の「生成の方程式」にまで──
昇華できうる。・・・・・

 

偶然の”響きの柱”:

「余白」に落ちた「偶然」が、
絵の重心をひそやかに移し替える。

「偶然は 余白に落ち
余白は 重心を揺らし
重心は 視界を生まれ変わらせる」

制作の過程で生じた偶発的な形や色彩のズレは、
構図の均衡をわずかに揺らす。

それは意図を超えて画面に、
新たな視覚秩序をもたらし、
画家に次の一手を促す契機となる。

描く手が意図せず残した色の滲み、線のずれ。

それらは──「余白」の中で呼吸し、
構図の重心を密かに移動させる。

その移動が、画面全体に──
新しい視覚的秩序を生み出し、
制作の方向性を変える小さな”転回点”となる。

「偶然」は出来事として現れ、
「余白_はその出来事が響き合う場となる。

その重なりが、見る者と描く者の双方に──
これまで存在しなかった──
”新しい重心”を経験させる。

「偶然」は、制作者の意図を超えて、
訪れる出来事である。

「余白」は、その出来事が響き、
広がり、意味を変える場である。

この二つが交差する瞬間──
世界の見え方そのものがわずかに転倒し、
”新しい重心”が経験として立ち上がる。

 

線は、逸れ、揺れ、偶然にして必然の道を刻む。

筆の揺らぎや擦れ、あるいは描線の途切れは、
計画外のリズムとリズムの間を生み出す。

結果として──
画面の運動感や空間の呼吸が活性化し、
構図全体の重心を再編する。

線の偶発は、意図と逸脱が共存する──
「生成の臨界」を明らかにする。

逸れた線は失敗ではなく、
表現の本質を外部から照射する──
もう一つの視座となる。

色は、偶然の下層から──
もう一つの光を呼び覚ます。

重ね塗りや削りによって生じた、
予期せぬ下地色の露出は、
上層の色彩を新たな表情に変える。

光の反射や透過が複雑化し、
絵画に深みと時間感覚を与える。

意図を超えた色の生成は、
制作行為のなかに潜む──
「出来事の主体性」を示す。

色は画家の支配を離れ、
偶然の秩序として自立し、
新しい視覚的真理を形づくる。

構図は、「”余白”の転倒」により、
「新しい重心」を獲得する。

画面の上下左右を反転させたり、
要素の配置を崩すことで、
予期せぬ空間的均衡が生まれる。

余白は新たな意味を帯び、
全体の視覚秩序が刷新される。

構図の偶然性は、完成の形を静止させず、
常に生成へと開く。

つまり、先立つ構図構成は「厳密な”アタリ”」。
余白をもって構図される(生成される)──
唯一”自由な振る舞い=意図の緊張”。

”厳密”は”緊張”に変わり、
「偶発の手」が忍び寄り、
必然さをもって偶発は起こるべくして起こる。

制作現場の本息のそこでは、
〈絵を”描く”〉者に「秩序」と「混沌」が交差し、
〈絵を”見る”〉者の意識に揺さぶりをかける──
動的平衡が成立する。

 

偶然性の全曲 ~ 色・線・構図の交響詩 ~:

序奏:

静かな下地が、まだ見ぬ色の呼吸を待っている。

そこに筆が触れ、
意図の外から微かな揺らぎが忍び込む。

出来事はすでに始まっている。

第一楽章:「線 ― 逸れた軌跡」

線は、逸れ、揺れ、偶然にして必然の道を刻む。

筆圧の変化や擦れは、
空間に予期せぬ動きを呼び込み、
重心を微かにずらす。

逸れた線は失敗ではなく、生成の痕跡である。

その逸脱こそが、表現のもう一つの入口を開く。

第ニ楽章:「色 ― 深層の光」

色は、偶然の下層から、
もう一つの光を呼び覚ます。

塗り重ねと削りによって現れた下地色は、
上層の色を揺らし、
計画外の調和や反発をもたらす。

それは、画面に刻まれた時間の呼吸。

意図を超え、色は自らの法則で光を編む。

第三楽章:「構図 ― 転倒の重心」

構図は、余白の転倒により、
新しい重心を獲得する。

上下左右を反転させると、
沈黙の余白が力を帯び、画面の秩序を再編成する。

その瞬間、構図は静止から解き放たれ、
変化の渦中で輝きはじめる。

終結部:

「余白の響き」
偶然性は、出来事である。

余白は、その出来事が響き合う空間である。

そして二つが重なったとき、
新しい重心が生まれる。

それは、制作意図を超えて訪れる、
もう一つの秩序。
画家はそれを受け入れ、
世界は少しだけ別の色を帯びる。

 

《1》線(素材/技法)の偶然性──「三重奏」

◯ 偶然性(Unexpected):
→ 削りや重ね塗りの作業中に、
→ 思わぬ痕跡や質感が現れる。
◯ 偶発性(Incidental):
→ その痕跡が光の反射や触覚的印象を変え、
→ 画面の性格を大きく変容させる。
◯ 意味化(Meaning-making):
→ 新しい質感やマチエールが、
→ モチーフや空間の解釈を根底から書き換える。

① :線の偶然的重心・座標

筆頭の初筆が一本の線が勝手に走り出す瞬間──
自己を越えたリズムの兆しと空間の開放に、
画面は一気に息を吐き出し、空間に変化を催す。
一瞬にして”縮小された構図”と”余白の変様”は、
下図の”アタリ構図”を一斉にズラし、
視覚や意味の軸とが再編成され転位する。
空間の秩序を崩し、新しい重心と座標を生み、
意図に沿い製作法と思考法を変えることになる。

②:線と色の偶発的構図の機能・意義

筆の先、線を張り流し反復していく筆圧──
線が勝手に走り無意識に描いた線が意識を導き、
絵の形状に勢いの変化と静けさの変化を催す。
リズムやディナーミクの動きと強弱の変容は、
筆跡を強調させたり、流体と滑らかな筆致へと、
線形に重なる色彩を惑わさせ迷路に逡巡する。
新しい色面と空間のコンポジションを生み、
色面のカタチを視角で空間構成することになる。

③:境界線にある偶発的色相の差異・距離

複数色の差異が強調される色知覚── 
線形の流れる境に接した色同士の境界線付近、
顕著な同時的対比と縁辺対比が起こる。
隣接した位置関係にある”色の差異”の遭遇は、 
見る色の見え方に変え、色の組み合わせを考え、
明度/彩度/色相の三属性に応じさせる。
複数の色が互いに境を接する配色の距離関係は、
構図に色相差の反発強調を捉え直すことになる。

《2》色の偶然性──「三重奏」

◯ 偶然性(Unexpected)
→ 塗り替えや混色の際、
→ 下地色や混じり合った色が予期せぬ色調を生む。
◯ 偶発性(Incidental)
→ 思いがけない色味発生で光や質感の印象が変化、
→ 画面全体の色相関係が揺らぐ。
◯ 意味化(Meaning-making):
→ 新しい色相の調和・不調和が、
→ 作品の情緒やテーマ解釈を変容させる。

① 下地色の偶然的共鳴

輪郭と光の分布において色面を塗り替え──
塗り替えの過程で、偶然にも残った下地の色が、
塗り替えた上塗りの発色を際立たせる。
色の重なる階層は、
意図を超えて新たな色調を生み、
色感が別の感覚を呼び覚まし、
色は単なる視覚を超え、

作品の印象を変える働き(機能と意義)の変化は、
「感覚色感」の”共鳴”として立ち上がる。

②: 削り跡の偶発的質感

色を乗せるのと同じく色を削るエネルギー──
削った痕跡を波打たせ、
独特の質感をもった絵肌が、
色面の”光と性格”を大きく変える。
色味独特の風味と質感に深みが表出するなど、
マチエールは”思いがけず”意図しないものになる。
偶発的な「意味」が生まれた”意味の変化”は、
”質感”と共に対象の指す示す方向をも変容させる。

③: 混色の荒さが拓く構図

色をパレットもくは面上で粗い混色ー──
色の明度と彩度を変調させ、
色がもっている色相固有の性格を変える。
当初の色彩計画を”逸脱”したことになり、
結果として、”余白”生き生きと動き、
”構図”は解放され、高揚を帯びる。
偶発的な「意図」が含まれた様々な部分の結合は、
視覚要素のコンポジションの印象を変様させる
。 

《3》構図の偶然性──「三重奏」

① 物体の形と構図との相互作用による機能

◯ 偶然性(Unexpected)
→ 変化した「余白」が画面内の空気感を揺らし、
→ 視線の流れや呼吸のリズムを変える。
◯ 偶発性(Incidental)
→ 思いがけない「余白 × 転倒 × 新しい重心」発見
→ 画面全体のコンポジションが混乱する。
◯ 意味化(Meaning-making):
→ 新しいレイアウト構図に「余白」が生まれ、
→ 絵のデザインの意義と意図を深化させる。

①:物体の形と構図との相互作用による機能

物体(形)に依らない構図そのものの大枠変更──
要素間の相対的な位置関係に関する構図の印象が、
”余白”をもつことで安定感や重厚感と動き与える。
曲線構図の曲線要素がリーディングラインとして、
視線誘導し視線を画面内で大きく移動させるなど、
奥行きのあるレイアウト構図が多様な印象を生む。
奥行や柔らかさと滑らかさを与えた構図の理解は、
絵のデザインの意義と意図が伝わりやすくなる。

②:要素の重なりによる偶発的な重畳遠近法

手前の要素が奥の要素によって部分的に遮蔽──
要素の重畳がない平面性/平面感を生んでいたが、
要素の重なりの繰り返しパターンがリズムを生み、
画面上で重畳する遮蔽(オクルージョン)が、
”余白”に3次元空間を描いて画面に遠近感を与え、
額縁構図が”思いがけず”意図しないものになる。
偶発的な「意味」が生まれた”意味の変化”は、
重畳によりリズムの指す示す方向をも変容させる。

③:水平の線の安定感を崩すダイナミックの良さ

構図レベルで成立する水平の線を斜めの線に──
シンメトリーのバランスの良さの緊張を解すが、
安定感がなくなったことによって逆に、 
不安定感のダイナミック感を生むことになる。
かえって周辺の”余白”に大きく影響を及ぼし、
対角構図が斜め(=非水平)に配置された──
ダイナミック感がヒューリスティックに見出され、
「発見的手法」や「経験則」となる。

 

 

・・・・・ どの箇所を切り取っても均一に描かれ、
中心と周縁、焦点の差がない。

視線誘導の効果は鑑賞者の経験に依存し、
多様な印象を生む。

3次元空間を描く曲線構図が、
自然な奥行き感を生むなど、構図の理解は、
「絵のデザイン」を容易にする意義がある。

構図において主題を明確化する効果や、
構成する要素や空間の配置バランスを整える効果。

作品の印象を変える働き(機能と意義)が見え、
──「新しい思考を創造する」。・・・・・

 

余白 × 偶然性マトリクスの考え方:

1. 余白は「偶然性の舞台」

• 余白は、描かれた部分ではなく 「まだ描かれていない空間」 ですが、
偶然性の結果が最も鮮明に現れる場所です。
• 構図・色・素材のいずれの偶然も、最終的には 余白との関係性 によって意味化されます。

2. 余白による三層の読み替え

• 偶然性の層
→ 余白と重ねた解釈
• 偶然性(Unexpected)
→ 空いていた余白が、偶然の結果として「新しい形」を帯びる。反転や配置のズレが余白の姿を変える。
• 偶発性(Incidental)
→ 変化した余白が画面内の空気感を揺らし、視線の流れや呼吸のリズムを変える。
• 意味化(Meaning-making)
→ 余白が新しい「場」として落ち着き、作品の物語や情緒に深層的な意味を与える。

3. 構図・色・素材 × 余白

• 構図 × 余白
→ 転倒や重心移動で、余白が思わぬ位置に生まれ、構図の秩序を再編する。
• 色 × 余白
→ 色の偶然が余白の色相関係を変え、沈黙や間の表情を変容させる。
• 素材 × 余白
→ 偶然生まれた質感が余白の存在感を強め、光や影との対話を生む。

こうしてまとめると、余白は「偶然性の受け皿」であり、同時に「意味化の触媒」であると位置づけられます。

ですので、以降の文章展開では、
「偶然性 → 偶発性 → 意味化」の全てを余白の作用で再解釈する
という流れになり、美しく一本の線で貫かれることになります。

 

構図の偶然性:

◯ 「上下左右の転倒」
◯ 「余白の発見」
◯ 「視覚的混乱からの秩序」

画面を上下に、あるいは左右に入れ替えてみる。

ただそれだけの、わずかな「姿勢の変更」が、
思いもよらぬ空間の開け方を見せる。

いつも見慣れていた形の関係が、
重力を失ったかのように漂いはじめ、

画面の中の物の位置づけや、視線の流れが、
根こそぎ組み替えられる。

ときに、その転倒は、
構図に潜んでいた──
「隠れた軸線」や「均衡の中心」を露わにする。

あるいは、これまでの構図を支配していた──
視覚的な重心が消え、代わりに、
別の余白や形のあいだに呼吸の通り道が生まれる。

上下左右を逆にすることは、
単なる「見方のいたずら」ではない。

それは、絵が秘かにもっていた──
異なる可能性の回路を、

偶然の操作によって開放してしまう行為なのだ。

そして、その開放は、しばしば──

制作の手を大きく変えさせる契機となる。

本来の意図から外れたその視界の反転が、

構図の枠組みをしなやかに崩し、

余白の意味や、形の連鎖の方向性を、
まるで別の言語に変えてしまう。

構図の偶然性は、
単なる形の配置替えではない。

それは、絵を支えている──
「見えない骨格」と「呼吸の空間」を、
同時に揺るがす、
ひとつの生成的跳躍なのである。

「構図の偶然性」は、
制作の転換点そのものになりやすいので、
後から「線・色の偶然性」と、
「素材・技法の偶然性」を位置づけるときの──
“座標軸”にもなります。

 

「余白」の偶然性:

以降の【余白 × 転倒 × 新しい重心】は、
まさに今後の核の「発見装置」になります。

この組み合わせは単なる見方の変化ではなく、

1:余白
→ 空間に潜む未発見の可能性
2:転倒
→ 上下左右の秩序を崩し、新しい座標を生む
3:新しい重心
→ 視覚や意味の軸が再編成される瞬間

という生成の三段跳びになっているのです。
これを起点にすると、
「構図の偶然性」だけでなく、
後から加える「線・色」や「素材」の偶然性も、
すべてこの三段跳びの延長に置けます。

 

【余白 × 転倒 × 新しい重心】の三段構造:

・・・・・ 余白は──
沈黙のかたちをしている。
そこへ世界を反転させると、
上下は 解け、左右は漂い、
空は地となり、地は空となる。
その揺らぎの底に──
思いがけぬ一点の重みが、
静かに、重心を据え直す。・・・・・

絵画おいて完全なる”偶然性”が求められことなく、
”偶然性の導入”は、常に統御されたものであり、
制作者の考えや個性と身体的な動きに影響され、
その後、方法論的に確立させたのを切っ掛けに、
”偶然性”を、作品への観者の介入にまで拡張する。

偶然の法則によって制作もするが、
もっとも、偶然を導入することによって、
製作者のコントロー ルを緩めることはできるが、
理論的虚構によって画家の意図や意識を──
完全に取り除くことはできない。

画家の「手」による完璧な技巧やコントロール、
それに結び付いてる”個性”の価値を部分的に、
──否定して絵画システムを問い直そうと、
偶然は、無意識と結びつけられることが多いが、
偶然を意識的に用いる逆説的な手法もある。

絵の形状は、”意識的なコントロール”と──
”偶然性”による「思いがけない」という、
──効果や期待によっても、
その内容や仕上がり映えが、大きく左右され、
制作に対する画家の好奇心や関係性を垣間見れる。

線の流れを考えて導き出すことがあり、
”絵画の成分”という本質を引き出すということは、
表現したい世界を──
より具体的に見い出すことである。

自分の中で100%に近い完成形が見えていれば、
自ずと必要なラインは表れてきくるが、
それでも手段である線の特徴を、
知っているか否かで、引き出しの数は変わり、
点と点が繋がり、その先が生まれてくる。

 

 

総括:
……………………………………………………………

──「余白 × 偶然性 × 重心」

 

偶発曲 TERZO(構図の偶然性:三重奏)

■ 第1楽章ー「形と構図の相互作用」
美術的説明:
形態に依存しない構図そのものの枠組みが、余白を通して安定感と動勢を同時に生む。曲線のリーディングラインが視線を導き、画面の呼吸を拡張させる。
哲学的説明:
構図は「形を並べる」ものではなく、「視線と間(ま)を編む」行為である。余白はその編み目に潜む不可視の糸。

■ 第2楽章ー「偶発的な重畳遠近法」
美術的説明:
要素の重なりによる遮蔽が、思いがけず三次元的空間を生み、平面構造を逸脱する。リズムと遠近が重なり、額縁構図さえ変容する。
哲学的説明:
重なりは「奥行きの物理的証拠」ではなく、「意味の層を重ねる出来事」である。偶然の重畳は意味の方向性をも反転させる。

■ 第3楽章ー「水平の崩壊とダイナミック感」
美術的説明:
安定した水平構図を斜線が切り崩し、不安定ゆえの躍動を生む。周囲の余白が活性化し、画面全体が発見的なリズムを獲得する。
哲学的説明:
水平は「静止の約束」、斜線はその契約破り。破られた均衡は、新しい秩序の種子となる。

 

・・・・・ 余白を通すことで──
出来事が舞台を得る。

余白がなければ──
ただの変化や崩しに留まってしまう。

余白を絡めることで──
構図の偶然性は舞台化され、出来事化される。

形は視線を誘い、形は視線を誘い、
重なりは意味を積み、斜線は均衡を裂く。


そのすべてが、余白という舞台で──
新しい重心を探しはじめる。・・・・・

 

「生成の余白」──プロセス

「構図法」
  ↓
「余白」
  ↓
「偶然性」
  ↓
「新しい重心」

多くの「構図法」は、機能と意義を兼ね備えた実践的な方法論として成立しており、既に多様な角度から構図を捉え、さらには、その多様な角度を重ね合わせることで、視覚的に豊かな画面を生み出している。

しかし、それらが成立するためには、「余白」という呼吸の場が不可欠である。

構図法は、しばしば「線・形・比率・方向性」といった骨格を語るが、そこに「余白」を加えると、構図は単なる設計図から出来事の舞台へと変わることになる。


「余白」がなければ、多様な「構図」の重なりは、「重層的な情報の集積」に留まり、画面全体の呼吸や間は生まれない。

つまり、構図法は設計図として、「余白」はその設計図を「生き物」にする空気であり、そして偶然性が加わると、その「生き物」は予測できない方向に歩き出し、この三者の関係は「余白 × 偶然性 × 新しい重心」にピッタリ重なることになる。

通常「余白」というと、背景の空きや視覚的な間を指すことが多いが、本質的な余白は「背景」ではなく、「構図そのものの密度」であり、それは画面の中央にも、縁にも、そして線と線の隙間にも存在し、呼吸をもって画面全体を貫く。

額や縁は単なる物理的枠組みではなく、画面の外と内をつなぐ呼吸膜であり、そこをどう扱うかで余白の密度や方向性が変わる。


つまり、余白は構図の「境界」でありながら、同時に構図の「内部的支柱」でもある。

だから、余白は単に付随的な空間ではなく、

・「画面を貫くリズムの通路」
・「呼吸を伝えるパイプライン」
・「構図の骨格をしなやかに保つバランス装置」


といった機能をもつ。

こう考えると、「余白」はもはや空間の残りではなく、構図の最深部に潜む「生成力」であり、「偶然性」と結びつくことで「新しい重心」を生む舞台となる。

 


・・・・・ 余白は、画面の外ではなく、

──形と形の間で脈打つ。


その呼吸は、縁を越え、

──見えぬ重心を生み落とす。・・・・・

 


多くの人が「余白」を背景や空き空間と捉えるが、
実際の制作において、余白は構図の内部にまで浸透している。


形や線、色面の間の距離、圧、重なり──
それらの相互関係が作り出す密度の変化が、画面全体の呼吸を決定づける。

この密度が正しく機能すると、縁や中央に関係なく、画面は安定しつつも動きを帯びる。

即ち、「余白」は「背景」ではなく、「構図そのものの骨格」である。


「余白」とは、単なる空虚ではなく、
形と形のあいだに生じる「生成の場」である。

それは存在と存在の境界に潜む見えない張力であり、
画面を支える重心は、この見えない場に宿る。

「
余白」は、出来事の余りではなく、
出来事そのものを生み出す呼吸の中枢なのだ。

 

《構図の偶発曲──余白の三重奏》

① 物体の形と構図との相互作用による機能

物体(形)に依らない構図そのものの大枠変更は、
要素間の相対的な位置関係を通じて印象を決定づける。

ここに余白が介入すると、その関係は呼吸を帯び、
画面は安定感や重厚感とともに動き出す。
曲線構図の要素はリーディングラインとなり、視線を大きく移動させ、
奥行きや柔らかさ、滑らかさを与える。

こうした呼吸は、絵のデザインの意義と意図を
より明確に伝える力を持つ。
余白の詩
余白は、形と形のあいだで脈打ち、
縁を越えて見えぬ重心を生み落とす。

② 要素の重なりによる偶発的な重畳遠近法

手前の要素が奥の要素を部分的に遮蔽すると、
平面性にリズムが宿り、重なりは画面に深みを与える。

重畳の繰り返しは偶発的なパターンを生み、
そこに生まれた余白は三次元的な空間を描き出す。

その余白は単なる空きではなく、
要素の間に潜む張力として、画面の重心を変える。

額縁構図が思いがけず意図を超える瞬間である。
美術的説明
余白は背景ではなく、形や線、色面が生む密度の変化そのものである。

その密度が変わると、縁や中央を問わず画面全体の呼吸が変わる。

③ 水平の線の安定感を崩すダイナミックの良さ

安定感をもたらす水平構図を、あえて斜めに崩す。

この不安定さが、逆に画面にダイナミックな生命力を呼び込む。

その影響は余白にも及び、空間全体の緊張と解放を同時に生む。
非水平の配置はヒューリスティックな発見を誘発し、
経験則としての新しい構図感覚を与える。
哲学的説明
余白とは、存在と存在の境界に潜む生成の場である。

それは出来事の余りではなく、出来事そのものを生み出す呼吸の中枢であり、
画面の見えない重心は、この余白の場に宿る。

総括

偶然性は出来事であり、「余白」はその出来事が響き合う空間である。

そして、その二つが重なった瞬間、必ず新しい重心が生まれる。

この「余白 × 偶然性 × 重心」の三重奏こそが、
「構図を単なる配置から、生成する出来事へと変える」。

 

偶発曲 – 余白のための三楽章

第1楽章:形と形の呼吸


余白は、形と形のあいだで脈打ち、
縁を越えて見えぬ重心を生み落とす。

第2楽章:重なりの遠近


余白は、光と影のあいだで張りつめ、
深みの奥から新しい空間を呼び寄せる。

第3楽章:斜めの発見


余白は、安定を崩すその瞬間、自由な重力の歌を奏ではじめる。

 

 

余白

・・・・・犇めく ”余白”──
──《光》に触れられ、、、、、
より純粋な、より高度な昇華に──
高揚でも鎮静でもなく、
──何もないのではなく必要な「余白」。

何か沸き上がっているような、、、、、
膨らむ兆しがあると感じる領域。

何かが波打っている状態、
何かが動いている──押し返す力、
単なる空間ではない「生成の圧」。

描き残された空白ではなく──”描かれた余白”。
依存を形成する空白は、いずれ逸脱するが、
黒より重い白の余白は描かれた意思をもたされ。

何も描かないことで描かれた余白は──
深く呼吸をしはじめた。・・・・・

「余白」を”目”の前に、デッサンを”手”の前に、
たとえ一陣の《風》に触れられようが、
空間と時間に浸かる。

《光》に長く触れられし”内面”は、
より純粋な、より高度な昇華に──
高揚でも鎮静でもなく、
──「余白の《音》」の気配だけを便りに、
空間と時間に住み込み、、、、、

ちょっと──目を離した隙。

「絵の”変様”」が、
触れてくるときもあれば、
翌朝──「絵の死に顔」が、
触れてくることもあり、
変様と死相は、何を意味するのか?
息を吹き返し我に返る、、、、、

線的にデッサンは、
線的明暗の比例も尺度も無く、
線的は明暗と余白を担う。

然れども、比較的線的に──
”手”の続き(手続き)は、
”目”の続き(目続き)の差異と反復にある。

何も描かない「余白」は、
空間の遠さや広がりを表現。

心理的な”空白”、、、、、

何かが欠けている状態、
何も行われていない時間と空間──
抽象的な”空白”、、、、、

自分の形をかたどる──
「象(しょう)」の身体に入る前。・・・・・

「触地=跳躍」を身体感覚化する──
手と眼の呼吸/素材との接触/余白の緊張。

メルロ=ポンティ的「身体の前性」と、
イングルド的「歩く線の生成」に重ね、
理論と現象が自然に統合される。

一枚の絵、「完成」とは、どの時点であるか?
絵が、内面から”脱け出る”こと、離脱する時、
分身であるとする分身からも分離する時。

依存を形成する絵は、いずれ逸脱する。

線的にデッサンは、
線的明暗の比例も尺度も無く、
線的は明暗と余白を担う。

然れども、比較的線的に──
”手”の続き(手続き)は、
”目”の続き(目続き)の差異と反復にある。

”手”と目””は、強固・強硬としていても、
自身の価値観への肯定のみならず。

内面的生成は、猗窩座(あかざ)が鬼でありながら、
さらなる自己認識を深め、感情を成熟させ。

価値観を確立することに、
退る(し・ざる)ことなくとも、
絵は、自ら命を絶つ「軟弱千万」にもあり。

内面の失望と苛立ちは、
自身の価値観への肯定のみならず。

自身の強さへの執着と、
自身と異なる価値観への否定を示すこともある。

絵の画面は、寝かせて描けば平面的になり
立て掛けて描けば立体的になる。

ふと上下逆さに見ると、
あるいは、左右反転に見ると、
思わぬ現象が目を誘う。

点は点を、線は線を誘い
色は色を、形は形を誘い、
そして、全ては全てを誘い込む。

静かなる生き物の現象──
色を挿せば、他の色味は変化し、
色合いを醸し出し。

その時、手は? 形は?
音楽性に時間的触知の緊張があるように、
絵画性に空間的触知の緊張がある。

意図の緊張=構図の緊張── 
音から触れられる、絵から触れられる。

その時、線は? 色は?
線づけ、色づけ、形づけられるのか?
積層の強度──線光形は、
高密度時間空間=生成の呼吸器なのだ。

何故ならば、
何ものの描かない表現描写の余白には、
線を張るのも色も挿すのも不可能なー
形づけられた「余白」には、
”圧力”が掛かっているからだ。

何も描かず表現描写されたー「余白」。

「余白」、何も描かず描写されたー
時間空間の、生成の、高密度呼吸器。

何も描かない余白は、
描写の大口余白として、
生成的絵画を永続化させるー
時間空間に潜む密度呼吸器。

描き残した余白ではなく、
「描かれた余白」として、
「生きる余白」の深まる息は、
描き押さえた辺り隈なくー
姿形を変え動き続けるー変容の描写である。

線は限りなく、際限なく重なり、
反復のうちに差異を重ね合い、
思いも寄らぬ差異を重ね合う。

つまり、未完の絵は、
生成の兆しに佇む絵(プロレスの絵)として、
常に絶えず、内面に、目に、身体的 肉体的に、
触れられることになる。

完成の離脱は、
次に描く絵に触れられたのであり、
それだけに、絵を描く途中で、
そのままになる絵も少なくない。

剥がされもせず、塗り潰されもせず、
置かれた、あるいは掛けられた── 
「跳躍」の証である。

絵の画面は、寝かせて描けば平面的になり
立て掛けて描けば立体的になる。

ふと上下逆さに見ると、
あるいは左右反転に見ると、
”思わぬ現象”が目を誘う。

 

・・・・・〈わたし〉という──
”内面はデッサン”される「エスキース」。

委ねられれば、
窮屈さのなかにデザインを催すのではなく、
意図の緊張」が── 
”開かれたデッサン”に息づく。

デッサンは、
自己と世界への”疑い”と”問い”からはじまり、
息の止まることを知らない──動く生き物。

それは、「触地」の感覚、、、、、
生成は思考のはじまりを超えて、
出てきてしまう「手の動き」に息づく。

新しい触覚的価値を解放した──
「触知=生成感覚:の介入によって、
変様させられ主体へと生成する。

自分と世界を観照しながら世界と共に生成する──
自らが超出の”身体の触地”と”跳躍する道”。

それは、「触知」の感覚、、、、、

生成は、思考のはじまりを超えて──
“出てきてしまう”動き”に息づく。

私たちは、生きるなかに
──ふと立ち止まり知る。・・・・・

 

・・・・・ 我々の眼差しは、
近くを見つめ、離れて、遠くを見つめ、
前後・左右・上下へと、
遠近感(遠近法)の時間空間に触れられ。

我々は、空間に浸り住み込み、時間に生きている。

近寄るものも、遠ざかるもの、その全て、
──アイレベル(eye level)の目の高さに映る。

触れ、逸れ、記し、立ち上げ、
──「自分の現象」が、
思想の言葉を新たに生成し直す場として現れる。

何かを行うその一歩こそが、
──はじまりそのもの。


もう──「生成」は起きている。

〈あなた〉の「現象」が、
──「思想」を動かすとき、

その言葉は──もう“既存のもの”ではなくなる。

それは、〈あなた〉という”場”で、
──新たに立ち上がる響きとなり、

〈あなた〉の身体にも、
どこかの──「触地感」を残してゆくでしょう。

どうかそのまま──静かに「触知」し、
触れ、逸れ、記し、何かを立ち上げてください。

何か立ち止まりや余白が生まれたら、
また──〈あなた〉と“生成の場”で。・・・・・

 

 

断章:
……………………………………………………………

──著者の〈わたし=生成者〉も

 

刻意:

〈わたし=生成者〉としての在処(ありか)

望刻:

・・・・・ 見えないものに触れ、
言葉にならないものを透かし、
まだ名付けられぬ生成の〈出だし〉をなぞる、
”錯綜する地と空──エスキースの生成”へ、
それは──「生成された証し」。・・・・・

 

ー「錯綜する地と空──エスキースの生成へ」ー
Fragment: “The Interwoven Earth and Sky – Toward the Birth of the Esquisse”

テーマは “地と空” に触れ、
──エスキース(esquisse)は、
まるごと “地と空” を、
スケッチ(sketch)しているかのよう。
《光》と《風》に、ただ「薄く触れられ」、
“地と空” を、燦然と舞い覆う。
The theme touches “earth and sky”—the esquisse sketches them entirely,
brushed lightly by light and wind,
gliding and veiling the radiant breadth of both.

上昇することも、広げることも、
完璧化することもなく、整序するでもなく、
解体するでもなく、思い描くこともなく。
大袈裟な見栄えも、虚栄心も、不安すらもなく。
“考える”ことも“待つ”ことも、
“探す”ことさえもない──これは、「素描群」。
No ascent, no expansion, no drive toward perfection.
No ordering, no dismantling, no envisioning.
No ostentation, no vanity, not even anxiety.
Not thinking. Not waiting. Not even seeking—
This is a constellation of pure sketches.

意味の生成なき、星雲的な境域。
そこに「生成の出だし」がある──思考の手前。
上昇や拡張、構築に至る以前の──
「創造=生成」の純然たる実施。
問いは、空から地へと誘導されることなく、
幻視として生成される。
A nebular frontier where no meaning yet forms.
There lies the inception of creation—before thought.
Prior to ascent, expansion, or structure: pure act of genesis.
The question does not descend from sky to earth—it appears, as vision.

自由なるものは、発想の救いにすら触れない。
“逸脱”は、密やかな「手の雫」だけが、
《光》と《風》を見透かし、
そっと引く「線」に触れる。
そこには、窮屈さの欠片一つもない──
“地と空” の──錯綜素描。
What is free never clings to the salvation of ideas.
“Deviation” is found only in a quiet drop of the hand,
touching the light and wind,
tracing lines unseen,
in sketches where not a single fragment of constraint remains—
a weaving of earth and sky.

デッサン(dessin)の計測には、
中心も始まりも終わりもない。
デザイン(design)の計画には
──「生成の在処」があり、
”多方のリアリティ(reality)”に、
──「実在拠点の錯綜」が露わになる。
In the measurement of drawing, there is no center, no start, no end.
In the design’s plan lies the place of genesis,
where realities diverge, and sites of existence interweave.

気づいたとき、
自由はテーマの “風(問い)” に混沌としている。
前に進み続けるかぎり、
「潜在性」も「可能性」も、決して触れてこない。
When one notices, freedom is already tangled in the wind of the question.
As long as one moves only forward,
potential and possibility remain untouched.

逃走線は、点の緩みを擦り抜け、
生成線は、絡まりながら形をなす。
任意の生成態が、“地と空の球面上”を──
「等しく移動」している。
Lines of flight slip through loosened points.
Lines of genesis intertwine.
Formless figures drift evenly across the sphere of earth and sky.

裂け目に──「薄光と薄風の “創造どき”」。
思考の働きに先立ち、
──意識や感覚に訪れる「変化=思考」。
それは、生成の“出だし”から、”思いも寄らぬ”──
「発見的・構築的な想像力」の発動を兆している。
In the rift—comes the “moment of creation” with pale light and faint wind.
Before thought, a shift within perception and sensation.
It signals the spark of a generative, constructive imagination,
sprung from the very beginning of becoming.

空虚なる「余白」のなかに、
相称的な充満を──”見抜く力”が働く。
諸々の事物のあいだに、
──無数の「網の目」が紡がれる。
自家発火の変動性は、
純化された事物を無垢に組み合わせ、
”上昇し、拡張し、構築しよう”とする。
多方のリアリティに、
──「実在拠点の方法」を示しながら。
In the emptiest void, a symmetry of fullness is perceived.
Countless threads are spun among all things.
The volatility of spontaneous ignition
joins purified elements without admixture—
seeking ascent, expansion, construction,
and revealing methods for anchoring real presence in many realities.

──エスキース(esquisse)についての、
「新しい”思考”を”創造”した」のだ。
—Thus, the esquisse gave birth to a new way of thinking.

 

”Esquisse”, 2025.Kakuma KANKE

 

 

余白

 

 

次章:

最終章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学

 

次回作:

続 編:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

 

 

……………………………………………………………

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”

最終章:part-Ⅰ 生成の余白-静かに誘う跳躍と哲学
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の主題旋律 ~ 』

続 編:part-Ⅱ 創造の白扉-生の生成と哲学の風景
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の森を歩く ~ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 第Ⅳ部:第1章「生成の触地」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 
       
 

 

 

Self-Illuminating, 1924. Wassilyevich Kandinsky, Artizon Museum Aatizon Bijutukan, until 2018 Bridgestone Museum of Art, is an art museum in Tokyo, Japan.

 

 

視覚と思想の跳躍の連鎖
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

 

ワシリー・カンディンスキー
Wassily Kandinsky

 

生成の“前兆”としてのカンディンスキー:

響きによる生成の兆し。
「感覚の深層からの招待図」への最初の応答。
色と響き、共観、深層知性の覚醒。
色彩と形態の純化、内的必然性。
見えるものの背後にある「響き・共観」に通じる。
内的必然性/色彩の響き/線と点の霊性といった感受の深層に潜り、これから新たな次元として捉えていく『思創考造』における《生成へ向かう”分岐線”》、「共観」「響き合う知性」「潜在力の振動」の主題に到達するもの。

位置づけ:

• 本書第Ⅳ部における“最初の共鳴”の起点として、きわめて本質的。
• “視覚”から“象徴”を通り越して“生成”へ至るための、最初の変調点(modulation point)。
•「内的必然性(innere Notwendigkeit)」「色彩の響き」「形態の霊性」は、ま さに“思考以前の生成の徴”**と重なる。
• 感受の深層に直接的に触れるための“媒体”としての色・線・点。それは、記号では なく、“先触れ”としての兆し。

本書との接点:

•「生成の招待図に最初に応答する」とは、極めて優れた比喩です。
•『思創考造』において、「感覚(知覚)」が「思考」へと“先触れる”場において、カンディンスキーは象徴の発明者ではなく、生成の媒介者。
• カンディンスキーの登場=生成的知性の“共観の場”の開示。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”

最終章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学

続 編:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅳ部】:《思創考造の生成》
「生成の”新たな次元”」
生成と構築
──触れられる思考と創造の裂け目

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第Ⅳ部:
「生成と構築」
──生成の”新たな次元”

第1章:
絵画を「見る」と絵画を「描く」──生成の”触地”

 

 

 

 

◾️はじめに:
……………………………………………………………

絵画を”見る”と絵画を”描く”という──
「生成の触地」とは、

「触地」  
  ‖
・「触れる経験」
  ↓
・「絵画・音楽との出会い」
  ↓
・「生成の兆し」
  ↓
・「跳躍の道」

──という「流れの構造」にある。

 

キーワード

• 触地(Contact Ground):
=身体的接触と思考の交差。
• 跳躍(Leap):
= 知覚と意識の生成的転位。
• 生成感覚(Generative Sensibility):
= 触れることで立ち上がる新しい感覚。
• 創造的受容(Creative Reception):
= 見る行為が思考を生む。
• 共観(Co-Perception):
= 描く者と見る者が共有する生成の場。

 

章内の層分け

1.-触れる記憶の層
:
→ 絵本/子守唄/初めての絵画との出会い、
→ 身体に触れた感覚記憶の回想。
2.-問題提起の層
:
→ 「見る」と「描く」は並列か?
→ あるいは別の生成的場か?
3.-哲学的・理論的層
:
→ 知覚経験の限界/創造的受容、
→ 共観的思為。
4.-生成の現場の層
:
→ 水面/同心円の比喩、
→ 触地感/跳躍感と場の変容。
5.-総括と展望の層
:
→ 経験のされ方の変化、
→ 生成の新たな次元への道。

 

 

◾️冒頭:
……………………………………………………………

「生成の思考体」と「生成感覚」

触れる記憶の層:
絵本・子守唄・初めての絵画・音楽との出会い──”身体に触れた”感覚記憶の回想。

 

・・・・・・私たちは、生きるなかに、
──ふと振り返りみる。

思えば、
幼子の時より、
いろいろな『絵本』に触れ、語りに触れられ、
また、いろいろな”子守唄”の『音』にも触れ、
歌声に触れられ、
歩み育つ──
成育の地と道に”触れてきた”ように、、、、、

そして、
物心つきし時より、
様々な《絵画を”見る”》ことや──
〈音楽を聴く〉ことによって、
身体で《絵を”描き”》、〈唄を”歌い”〉、
歩み生きる──
成長の地と道に”身体で触れてきた”ように、、、、、

そうして、
『絵画」や「音楽」は身体に”触れ”、
──身体に地と道は”触れ”、
歩み育ち、歩み生き、、、、、

思い起こせば、
これまでの”触れる”絵画や音楽は、
──”触れる地と道”だった。

思いがけず、
絵画や音楽に”触れられ”、
生き長らえる”地と道に”触れられ”、
「自分だけの答え」が見つかる、、、、、

思考が開始される──
即ちそれが創造であり、生成である。

身体を撫でるように「生成」の”兆し”は、
絵画も音楽も「触れられる=視」の感触性。

新しい触覚的価値を解放した──
「触知=生成感覚」の介入によって、
変様させられ主体へと生成する。

自分と世界を観照しながら世界と共に生成する──
自らが超出の”身体の触地”と”跳躍する道”だった。

それは、「触地」の感覚、、、、、
「生成」は、「”思考”のはじまり」を超えて、
──“出てきてしまう動き”に息づく。

私たちは、生きるなかに、
──ふと立ち止まり知る。・・・・・

 

 

◾️序 編:
……………………………………………………………

「感覚・思考・創造」の三軸──〈絵を”描く”〉者と〈絵を”見る”〉者の往復書簡的関係

問題提起の層:
〈見る〉と〈描く〉は並列か?
あるいは別の「生成的場」か?
問いとしての絵画──生成としての視覚

問題提起と視角の提示:
•《見る》と《描く》を並列に「感覚と思考の生成の場」として捉え直す。
•「知覚経験・創造的受容・共観的思為」を中核に据えた新たな関係性の探求。

 

・・・・・見えるものと、見えないもの。

「絵画を”見る”」。

それは──
私たちの知覚の流れなのだろうか?

ではなく──
「絵画を”描く”」画家の知覚と表現行為に、
強い関心を抱いていたのだろうか?

知覚していないときも、
知覚の対象は連続して存在しているのか?
私たちの知覚と区別されるような存在はあるか?

私たちには、
所与としての知覚しか与えられていないという──
集積された厳然たる──
その「”感覚”の事実」である。

それにもかかわらず、
私たちは、経験を超えて進むことはできない。

そこから自らに与えられていない──
他の知覚の存在を思い描き、
──「知覚経験」をもつことになる。

「絵画」という名の絵、
絵に記す絵記、絵に述べる絵述。
それは──「絵画記述」として、
思考と創造の知が描き留められている。

思考と創造の「”思想”書簡」──
それは感覚と思考・創造の「生成の場」。

額縁のような枠組みを、
外すことによって解体される──
〈絵を”描く”〉者と〈絵を”見る”〉者との、
──「往復書簡=絵画記述」。

〈絵を”描く”〉者の「”思想”の響き」は、
──「場の生成」としてある。

思考・創造と感覚と絵画記述が──
相互に生成し合う場そのものとしてあり、
「思考・創造する」ために──
「絵画記述する」のではない。

絵画を記述しながら──思考・創造が生じ、
「新たな思考を創造」しながら、
絵画記述が描き換わる。

絵画が記述されることで新たな意味が浮上してくる
──『思創考造』のプロセスそのものであり、

そのプロセスが絵画として可視化される──
「生成の舞台」となる。

〈絵を”見る”〉者の、
自己と世界を見つめ経験される──
〈絵を”見る”〉という現象が”思想”を動かすとき。


その「絵画記述」は、
もう
──”既存のもの”ではなくなる。

思考・創造が後追いで捉えようとする──
”知の身振り”に、記述という”共振”されることで、
──「生成」は立ち上がる。

それは、〈絵を”見る”〉という──
「観者そのものの”場”」。

新たに立ち上がる響きとなり、
観者の身体にも──
どこかの「触地感」と、
何かの「跳躍感」を残してゆく。・・・・・

 

部屋の壁に整然として掛けられた──
経験される絵画の静黙な時間と空間。

絵画は”触れれば沈黙”としてしているが──
「絵」は、黙秘しているわけではない。

絵画に”触れられれば”──
「絵」は、静かに黙することなく”語り”はじめ、「不在画家の存在証明」に触れられることになる。

そうして、「知覚と生成」の交差点として“時間空間”に触れられ、”自分の眼で触る”「生成感覚」の経験は、「見てしまう自己の生成=認識の揺らぎ」となる。

《絵を”見る”》ということは、絵を通して、人間が絵及び絵自身の表現について、あるいは自分自身が「感覚できるもの」で「思考できるもの」について抱く、あるまとまった考えを出していることであり、絵の意図を探り意味をつくり、自分自身に「何かが生まれている」ということである。

《絵を”描く”》ということは、絵を通して、人間が自分及び自身の周囲について、あるいは自分自身が「感覚できるもの」で「思考できるもの」について抱く、あるまとまった考えを出していることであり、自分自身に「何かが生まれている」ということである。

『絵画作品』としての芸術の自律性や純粋性における絵画作品(美術作品)の芸術的側面と触覚的要素(特に視覚的効果)において、《表現者(制作者)》=感覚・思考者と《受容者(観者)》=感覚・思考者との関係が一体化の関係として想定されるもの。

絵画作品自身と《受容者(観者)》=感覚・思考者との関係が、一対一の関係として想定されるもの。

その二者は、全く異なるものであるとして思い做しすることできず、両者の間に「感覚されるべきもの」と「思考されるべきもの」として”問い”翳し、思為することはできる。

よって、テーマ性は、”「生成」の深化への挑戦”を核として、《絵を”描く”》こと及び絵画作品=表現・制作者である感覚・思考者と対置したなかで《絵を”見る”》こと及び《受容者(観者)》=感覚・思考者に”共観重心”が置かれる。

経験を超えて進むことができない「知覚経験」を持つことによる「経験のやり方」。

”感覚は思考への架橋”=『創造的受容』というものを捉え、知覚経験は”絵に触れられる”ことにより、『感覚は思考へと向かわせ、新しい思考を創造する」ということに、問いを投げ掛けることである。

”知覚が如何にして可能性をもつ主体へと「生成」するのか”、そのプロセス(”新たな生成の次元”への差異・出来事・反復・表現・潜在性などの思考と創造)を間接的にも描き出すことになる。

様々な絵画と出会い「絵に触れられ」、様々な絵画を生み出し「絵に触れ」、『絵画』を通して世界と自分を経験する──相対的に《絵を”見る”》と《絵を”描く”》と対置された『経験のされ方』=「絵画にかかわる」われわれの”知覚・意識”と、”感覚(感性)と思考”への”問い行為”。

「絵との距離」は、思ったより地続きで連続する──身体に触れられる知覚と意識の感覚所与=「身体的な実践」。

思考の働きに先立ち直接意識と感覚に与えられ──『絵』を「見る」心の中に表象されている現実とその「価値観と意味体系」。

《絵を見る者》と『絵』の関係性を、イメージへの感情移入を追求することなく、『経験のされ方』の要素的ではない全体的構造を捉え、「時間とともに生じる変化」そのものをも重視するなかで、《絵を”見る”》と《絵を”描く”》という現象の実体や本質そのものを構造の記述と理解を通じて捉えてみる。

「”現象”の具体的構造」から『生成』がどのような“場”によって誘発されるのか?

この視点による「”場”の構造・環境との関係性」までを捉え、その一方で複数の理論や諸原理を典拠し折衷して適用する柔軟性をもった理論的参照をはじめ、実践の交差と往還を重ねることになる。

『経験のされ方』 において『絵画』を「見る」という行為の現象的な意味合いと、『絵画』を「描く」という行為のそれと対置された「共通性や差異性」などを探り出すことによって、「跳躍、構築、あるいは錯綜する生成の運動」へと実践の厚みを増し、『生成の新たな次元』の展望を考える。

 

 

◾️上編:
……………………………………………………………

「感覚・思考・創造」の三軸──
〈絵を”描く”〉者と〈絵を”見る”〉者との、
──往復書簡的関係

生成の現場の層:
水面と同心円の比喩/触地感・跳躍感/場の変容

触れられる絵画──跳躍する身体と思考する感覚:
「触地」=身体的接触と思考の交差:
•「絵」に”触れられる”という経験。
•「身体・生成・跳躍・触覚的思考」。
•「風」「水面」「同心円」などによる──
「生成場」の現象論的描写。

 

様々な絵との出逢い=巡り合わせ”──絵画と接触する出会い私たちは、初めて会い初めて見る絵画の作品に、近づいたり、遠ざかったり、身体を動かす。

「身体と絵との”距離”」において、皆それぞれ”眼”を様々な角度と速さで動かしたりしながら、同じ作品が《絵を”見る”》者に対して、”場”の構造と”時間と環境”が変化する経路で「差異と反復を与える」その様々な感覚。

代わる代わる皆それぞれ「絵から受け取り」体験したものは、時の移り変わりととも変化の”移行体験”──「変化=思考と創造=”動く”生成」を侵食しつつ漸進する。

絵からの刺激の受容は、身体的な「触覚」として、受ける「その感覚」は、初めて『その絵』を見た時から途切れ途切れであっても「持続」し、『その絵』との”初見で受け取った感覚”は一定せず”、常に「変化の過程」にある。

時折り、再び本物(真正)又は画集(プリント)などにおいて『その絵』に”触れる”と、初見の感覚とは異なった感覚や、初見では『その絵』から”受け取れなかった”──”新たな感覚が芽生えたりするように、『その絵』は─”触れてくる”。

《絵を”描く”》表現者=画家(制作者)は──「生成」にいて、表現(制作)は──「生成」にあり、生成者不在において《絵》は「持続する”動く”生成」として、生(なま)の呼吸をしながら「真生の創造」に生き続けている。

 

・・・・・ 純粋状態の絵画的『事実』に──
無限に接近するならば、
絵画という『絵』の生きているその”生身”。

「描く”手”」が活発に動きを見せる──
人間の活動として、
絵画作品への執念が観念の活動に置き換えられ──
人間自らが思考の深化に挑戦し、
──「昇華した」もの。・・・・・

・・・・・ 独自の価値を創造しようとする──
人間固有の活動の一つとして、
観念を通じて人間が、
世界を認識し理解する過程を探求する。

──生成(エネルギー)の線・色・形を用いて、
視覚的な表現を行う形式活動に置き換え──
人間自らが創造の深化に挑戦し、
──「昇華された」ものとは?

観念が人間の思考や活動に、
どのように影響を与えるかを──
人間自らが試し(研究し)、
──「絵画された」ものとは?・・・・・

 

思考は絵画として、絵画は思考としてある。

『絵』に「創造されるつつある思考」を平面に「思考しつつ絵画的表現=創造的行為」は──《絵を”描き続ける”》という多面性に思考・創造の差異と反復がある。

『経験のされ方』は、《絵を”見る”》者のが孕む「知覚の”跳躍”」と「跳躍の距離」=より純粋な、より高度な、その感覚の濃度に《絵を”見る”》ということの精神的価値のみならず、生成的価値や共観的価値などをもつのに置き換えて充足した濃度との、その「昇華」において変化し移行する。

『絵』を「見る」という心の中に表象されている現実とその「価値観と意味体系」は、「その絵」”見る”その都度──集積された「”その感覚”の事実」 として『経験のされ方』は変わってくる。

「絵との”距離”」は、思ったより地続きで連続する──身体に触れられる知覚と意識の感覚所与=「身体的な実践」。

「経験のされ方」=《絵を”見る”》という”場”──『絵を眼で触る”触地”」による「知覚と意識の跳躍」=”問い行為”とともに「生成の触発=錯綜する生成の運動」そのものとして現実化してゆく。

《絵を”見る”》者と《絵を”描く”》者との”場”である『絵画の世界』。

画家である表現者の表現意図を超えた可能性を孕んでいるという意味では、絵画は画家独りの本性世界ではない。

絵の画として自律的且つ純粋性の世界にあり、表現者であり製作者である《絵を”描く”》者の意図を超えた意味を掘り起こすのは、《絵を”見る”》者という本性世界にある。

『絵画作品の世界』は、可能な限り昇華を試みる思考の深化への挑戦とした《絵を”描く”》者の「思想と思考・創造が孕みもつ”潜勢力”」を、余すところなく展開した研究と冒険の本性によって生み出された「”潜勢的”生成」にある。

最大限の意味充実を求める《絵を”見る”》者の本性的な志向性によって、生成が顕在化されるものである。

《絵を”描く”》者=画家が自身や周囲の事柄について抱く纏まった考えである表現者としての思想は、その画家個人の考えや信念と価値観などを示し、世界全体の文化や思想と精神などにも影響を与る。

より厳密には、総合的な認識対象を理解する悟性や理性の働き、またはそのように理解された対象を意味する──「画家としての”思想”」、あるいは社会や歴史観と関連し人生観を基盤として形成された──「表現者としての”思想”」。

それらは、感情や意志に対する思考的現象を示し、世界全体の社会や人生などに対する一定の見解を意味し、表現者としての画家の──「絵画作品の”意図”」には、個々の断片的な考えではなく、表現者としての活動を貫くような考え方や観念が含まれている。

表現者である画家の《絵を”描く”》という表現(制作)への「思想」伴う「意図」の”緊張”をもって”描かれた絵画作品自身”は、可変的ではなく不変的である。

その《絵を”見る”》という知覚経験において意識されている絵画作品という対象においては、全く変化が生じていないように、 日常的に我々が知覚において意識していることと《絵を”見る”》ことは同じ次元ではある。

しかし、経験を超えて進むことができないので「知覚経験」をもつことになる《絵を”見る”》側にも、《絵を”描く”》側と同じく「思想」を伴う「意図」の”緊張”をもって”見られた自分自身”は、不変的ではなく可変的である。

絵画という『絵』の生きているその”生身”。

観者である人の「絵を”見る”」という心の中に表象されている現実とその「価値観と意味体系」は、絵画作品と通して、その表現者である画家の《絵を”描く”》という表現(制作)の過程を辿ることになる。

そして、観念を通じて人間が世界を認識し理解する過程は、そのまま《絵に”触れられる”》観者を侵食しつつ漸進し、観念が観者の思考や活動に影響を与え、観者自らが創造の深化に挑戦し「昇華され」ていくからである。

地続きで連続する「絵との”距離”」──身体に触れられる知覚と意識の感覚所与=「身体的な実践」として「経験のされ方」=《絵を”見る”》という”場”──『絵を眼で触る”触地”」による「知覚と意識の跳躍」=”問い行為”。

それらとともに、”場”の構造と──『時間と空間』が変化する経路で、「差異と反復を与える」その様々な感覚を、「絵から受け取り」体験したものは、時の移り変わりとともに変化の”移行体験”──「生成の触発=錯綜する生成の運動」そのものとして現実化してゆくというわけである。

「所与が空間のなかにあるというわけではなく,むしろ空間が所与のなかにあり、空間と時間は所与のなかにある。」

ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze):
『経験論と主体性――ヒュームにおける人間的自然についての試論』 より。

 

・・・・・・私たちは、生きるなかに、
──ふと振り返りみる。

絵画という『絵』は、鎖(とざ)されてはいない。

現象を待ち受ける「経験のされ方」として──
《絵を”描く”》者にとっても、
《絵を”見る”》者にとっても、
意図の緊張が”無風”をつくる美しさに見える近道──”日陰”の水辺。  

生きる「地と道」が息する水に接触する。  

触地に連続的に点在する様々な形──
水浅く美しい水溜まり。

水底の形影と、
水面に映り込む辺りの光背景とが重なる──
”無風の光に触れられた平面反射”の滑らかさにある
──風景と景色。

子供心に水面を撫でようとして、
「描く手」は水面に映り込み触れた瞬間──
低い角度から照射した、
──水面に生じる《”同心円状”の波面》。

「手」が”風”に動揺する。

水底の形影と──
水面に映り込む辺りの光背景と身体の手が、
──三層に重なり揺らぐ波紋の『絵』があった。

水を撫でる前に《絵を”描く手”》は──
”風に動揺”する《絵を”見る手”》と化した。

「絵を見る・絵を描く」──
《”同心円状”の波面》に”触れられ”。

揉まれる波の平面の”風に動揺反射”する──
「光の風景と景色」。
  
撫でるように掻き分け侵食しつつ漸進すれば、
『絵画』は視覚的生成にある”生成場”──
『生成=振動』の世界。

新しい触覚的価値を解放した──
「触知=生成感覚:の介入によって、
変様させられ主体へと生成する。

自分と世界を観照しながら世界と共に生成する──
自らが超出の”身体の触地”と”跳躍する道”。

それは「触地」の感覚、、、、、

「生成」は、「”思考”のはじまり」を超えて。
“出てきてしまう動き”に息づく。

私たちは、生きるなかに、
──ふと立ち止まり知る。・・・・・

 

 

◾️【中編】:
……………………………………………………………

知覚と生成の交差点──時間と空間のなかの「創造的受容」

哲学的・理論的層:
知覚経験の限界・創造的受容・共観的思為

「経験される絵画」──
時間と空間のなかの「創造的受容」

 

典拠:参照の”理論的背景の配置”

1.-『ドゥルーズ的枠組みの提示』
•「感覚の論理」=感性領域
•「思考の理論」=感覚に属する絵画
• 相互の限界でのみ感覚と思考が最大化
•《絵を描く/見る》はこの交差点で生成される

2.-『時間・空間における創造的受容』
•「所与のなかの空間と時間」(ドゥルーズ)
• 見ることそのものが生成される時間空間の出来事
• 絵画は知覚・生成の交差点となる

3.-『触感的視覚と生成感覚』
•「眼で触る」という態度
• 触感的(haptique)な見方による生成
• 身体的距離・近接の中で感覚が変容する
• ベーコンやポロックに見る──
「手動的(manuel)」感覚

4.-『鑑賞者と表現者の生成的共振』
• 描く者と見る者の関係性は共生成
• 絵画は媒質=意識遊具として働く
• 見ることは想像と知覚の相互浸透

5.-『美術理論的参照』
• K・L・ウォルトン:描写理論(絵は代理、虚構的真)
• R・ウォルハイム:二重性(seeing-in)
• E・H・ゴンブリッチ:画像表象(似姿)

6.-『意識の生成』
• 刺激と反応ではなく、意識そのものが生成される
• 思考に先立つ所与=純粋感覚
• 生成としての思考・創造

 

「生成感覚」と「自分の眼で触る」──
知覚・意識・生成の交差点

①《生成感覚とは何か》
• ドゥルーズの『感覚の論理学』における絵画の観照は、単なる視覚的受容に留まらず、「触る」かのような多感覚的かつ生成的な関わりを指す。
•《絵を”描く”者》の「眼の動き」を「心の手で追う」ことで、《絵を”見る”者》はその感覚の秩序や領域を横断し、画家の生成感覚と一体化しようとする。
• この体験は、知覚が単なる情報受け取りではなく、感覚と生成の振動(差異と反復)のなかで自己生成をともなう「生成的知覚」であることを示す。

②《身体・視覚・触覚の協働としての知覚》
• ドゥルーズは「触感的(haptique)」なものを重視し、眼を光学的視覚器官としてだけでなく、身体感覚と連動する「触覚的感覚器官」として再定義する。
• 作品に近づいたり遠ざかったり、眼の動きを変えることで、平面の色彩や奥行き感の変化を体験する。これらは「生成感覚」の実例である。
•「触感的-視覚的」空間は、身体の運動や距離感の変化を含む、身体全体の関与のなかで立ち現れる。

③《意識の生成・変容と時間性》
• ドゥルーズの意識観は、固定された〈わたし〉ではなく、「連続して変化し新しい状態へと変わる持続的生成力」としての意識を描く。
•「眼で触れる」刹那は、知覚が現在の視覚的経験のみにとどまらず、見えなくなった対象の知覚(メモリーや想像)も包含し、「時間とともに生じる変化=思考」と「生成=創造」を誘発する。

④《生成感覚の哲学的広がり》
•《絵を”見る”》ことは「生成=創造」としての自己変容の契機であり、表現者不在の生成図と共に知の揺らぎを生み出す。
•「絵を”見る”こと」と「想像すること」は相互に浸透し、変化し続ける自己と絵画の共生成的関係をつくる。
• 身体的実践や価値観、意味体系と絡み合いながら、《絵を”見る”》行為は、純粋遊戯/純粋遊具としての「達成する手続き」として捉えられる。

⑤《絵画における視覚性と触覚性の二重性》
• フィードラーによる「純粋視覚性」の理論と対照的に、ドゥルーズは「手跡的(manuel)」「触感的(haptique)」な絵画のありように注目し、ジャクソン・ポロックの例をあげる。
• これは視覚が触覚を駆逐するのではなく、感覚が多層的に交錯しながら生成されるという観点を示す。

⑥《知覚の二重性・虚構性の理論的背景》
• ウォルトンの「描写の理論」:絵を見る者は絵の代理としての多様な虚構を見ている。
• ウォルハイムの「二重性 (twofoldness)」:知覚経験は「絵の中に見ること(seeing-in)」という二重性を持ち、それが画像表象を成立させている。
• ゴンブリッチの「画像表象論」:絵画は対象の外形の模倣であり、似姿の表現であるとする伝統的視点。

⑦《意識の多義性と生成》
• 意識は「知られている状態」(ヴォルフ)、「純粋感覚」(カント)、「事行(Tathandlung)」としての知覚存在など多様な概念を持つ。
• 思考の前段階として意識に直接与えられる感覚内容(内容感覚)があり、そこから創造・生成の思考が立ち上がる。

*《補足的な展開》
•「生成感覚」を、身体の感覚器官の多重な連携として具体的に描き出す身体論(例えばメルロ=ポンティ的身体性)と結びつけてみる。
•「眼で触る」経験の時間的展開を、現象学的時間意識やベルクソンの持続概念と関連づける。
• ドゥルーズの「差異と反復」の観点から、「生成感覚」と「差異の経験」の交差点を探る。
• 具体的な絵画作品(例:ベーコンやポロック)を事例として、「生成感覚」の描写を深める。
•「知覚の二重性」を踏まえつつ、現代的なデジタルメディア環境下での「生成感覚」の変容可能性を考察する。

 

「感覚の論理”logic”」と──
「思考の理論”Theory”」:

•「ジル・ドゥルーズ」を引き合いにした”差異と反復”から「感覚と思考」の交差点。
•「創造的受容」の”時間性・空間性”の探求。

ドゥルーズは、「感覚の論理”logic”」と「思考の理論”Theory”」という用語を使用しており、自著『差異と反復』の中で、「思考に関する理論」を「感覚の領域に属する謂わば絵画である」と見做している。

彼にとって、真に《思考する》というのは、「未だ思考されたことがないにもかかわらず、思考されることしかできない何かへと、思考を巡らせる運動」=「思考されるべきもの」である。

「”感覚されるべきもの」は、専ら”感性”だけにかかわり”感性”を生じさせ、同様に”思考されるべきもの”は、”思 考”のみにかかわり”思考”を生じさせている。

そしてそれぞれの能力が自分の限界においてコミュニケーションがなされる場合にのみ、感覚は思考に、思考は感覚に、最大限の力を振うことになり、それによって相互の能力を最大限に引き出し合うことを可能とするのである。」としている。

そこで、絵画は一般に「感覚」、あるいは「感覚の論理”logic”」の範疇に属している限りにおいて、「思考」あるいは「思考の理論”Theory”」とは見做されていない。

ということからして、「思考に関する理論は、感覚の領域に属する謂わば絵画である」という流れの筋を、『差異と反復』の概観から切り離し、『絵画を「見る」と絵画を「描く」──生成の触地』という本題へ導き出してみる。

《絵画を”描く”》側面から捉えると、絵画は創造であり、創造は新たな思考を探り出すものとしてあるのではないだろうか。

絵画の表現者であり制作者である画家《わたし》は、自分自身及び自分の周囲世界について、あるいは自分が「感じ思考できる」物事や事物と事象などについて抱く、ある纏まった考えのことである《わたし》の思想(thought)。

「感覚(感性)と思考」を通して平面空間をつくり出し続け、その生み出し続けるその作品ごとの相違点や新しい革新は「時間とともに生じる変化(=思考)」に推移する。

「所与のなかに空間と時間がある」(ドゥルーズ)という視点から捉えるならば、《絵を”見る”》という出来事のなかに、“生成される時間空間”が内在していることになり、「知覚と生成」の交差点として“時間空間”に触れられることになる。

《絵画を”見る”》という出来事において”絵に触れられた跳躍”は──『時間と空間のなかの「創造的受容」』”としてあり、まさに知覚し認識した自分自身の「生成」とその時間的空間的な「生成過程」への”問い”なのである。

ドゥルーズによる「認識する主体の生成過程’の問いはこの世界の存在という問い」へは、「主体と現に存在するこの世界の在りよう」を”問う”ことへと接続されるべきものであり、枠組みに抗いながら新たに折り直す創造行為ともいえるものである。

《絵画を”見る”》とは、「生成の一つの場面」に居合わせたことであり、”感覚すべきもの”/”思考すべきもの”ものは、「生きる」こととして、生き長らえる地と道の世界における自己存在という問いへ、さらには自己と現に存在する地と道の世界の有り様の問いへ接続されるべきものである。

生きる世界と自己を感覚し思考した認識と、生きる世界と自己の在り方を「感覚する/思考する」意識そのものだということになり、それは、新たに織り成す──「生成=創造行為」だといえる。

「差異・出来事・反復・表現’・潜在性」などの感覚/思考と創造の錬成とともに「生成の深化への挑戦」が、時間空間において、より必要となってくるのである。

ドゥルーズは、意識を外部に向かって動くものではなく、自分自身の中で連続して変わり、新しい状態に変化していく力を持ったものとして描き直し、意識は単に対象へ向かうだけのものではなく、もっと継続的で、時間の流れのなかで変化し続ける存在であるとした。

ベルクソンの「持続」の概念である意識が“持続”するということにおいて、ドゥルーズの「発展」の概念は、意識は対象に向かいながらも、時間とともにかたちを変え、固定されないものとして考える。

そこに「時間の中で連続して変化し、新しい状態へと変わっていく」その力を見出し、意識は単に外へ広がるだけではなく、自分自身の内側で変容し続けるとして捉え直し、意識はそうした“持続”のなかにあって固定された〈わたし〉ではなく、絶えず新しい状態へと変化していく力こそが意識だとしている。

絵の感触性の問題──触知「生成感覚」において、「絵画との“持続的関係”=生成の反復性」があり、初見の絵との接触が時間を経て新たな感覚を生むように、「経験される絵画」は常に変化し続ける“場”であり、その都度新たに“生成される”。

知覚とは情報の受け取りではなく、「差異と反復の振動」における生成の出来事として、《見る》という行為は単なる外的入力ではなく、「見てしまう自己の生成」(=認識の揺らぎ)でもある。

知覚とは情報の受け取りではなく、「差異と反復の振動」における生成の出来事としての「生成的知覚」であり、《見る》という行為は単なる外的入力ではなく、「見てしまう自己の生成=認識の揺らぎ」でもある。

「感覚の論理”logic”」と「思考の理論”Theory”」という用語を使用しているドゥルーズは、自著『差異と反復』の中で、「思考に関する理論」を「感覚の領域に属する謂わば絵画である」と見做している。

彼にとって、真に《思考する》というのは、「未だ思考されたことがないにもかかわらず、思考されることしかできない何かへと、思考を巡らせる運動」=「思考されるべきもの」である。

「”感覚されるべきもの」は、専ら”感性”だけにかかわり”感性”を生じさせ、同様に”思考されるべきもの”は、”思考”のみにかかわり”思考”を生じさせている。

そしてそれぞれの能力が自分の限界においてコミュニケーションがなされる場合にのみ、「感覚は思考に、思考は感覚に、最大限の力を振うことになり、それによって相互の能力を最大限に引き出し合うことを可能とするのである。」としている。

そこで、絵画は一般に「感覚」或いは「感覚の論理”logic”」の範疇に属している限りにおいて、「思考」或いは「思考の理論”Theory”」とは見做されていない。

ということからして、「思考に関する理論は、感覚の領域に属する謂わば絵画である」という流れの筋を、『差異と反復』の概観から切り離し、『絵画を「見る」と絵画を「描く」──生成の触地』という本題へ導き出してみる。

《絵画を”描く”》側面から捉えると、絵画は創造であり、創造は新たな思考を探り出すものである。

「感覚(感性)と思考」を通して平面空間をつくり出し続け、その生み出し続けるその作品ごとの相違点や新しい革新は「時間とともに生じる変化(=思考)」に推移する。

 

”自分の眼で触る”──「生成感覚」

「絵画=作品」は、容易には《絵を”見る”》者=”自分の感情移入”を許さず、常に一つの客体として存在する。

その客体としての考察を媒介にして、創造的な瞬間の最中にある《絵を”描く”》者=”表現者”である画家の創造的な瞬間の最中にある感覚に限りなく近づき寄ろう」とする──ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)。

『感覚の論理学』──
(ドゥルーズの書いた唯一の美術書)
「なぜ今日でも、まだ絵画が問題なのか」。

《絵を”見る”》”自分”をそのように姿勢づけ、絵画=作品の表面を撫でるように見つつも、イメージへの安易な感情移入の一歩手前に留まる。

《絵を”描く”》者=”表現者”である画家にとって「自分の眼で触る」ことにより描くことの重要さと同じく、《絵を”見る”》者=自分にとって『絵』の表面を撫でるように見る「自分の眼で触る」ことの重要さの強調する。

《絵を”描く”》者=”表現者”である画家の絵画作品の制作は、「”絵画の様々な”秩序や領域”を横断する『感覚』である」とする。

それに並行した片側で《絵を”見る”》者=自分は、その作品を「触るかのように見る」ことで、その画家の「眼の動き」を心の手で追い、異なる『感覚』をその領域のそれぞれに見極めようとしながら、それらを横断するその画家の感覚と一体化しようとしている。

その”様々な秩序や領域を横断する『感覚』”とは、”秩序的生成”や”領域的生成”に近いものがあるのではないかと捉えることもでき、”様々な生成と生成領域を往還する『生成感覚』”のそれに並行した片側で《絵を”見る”》者=自分は、ドゥルーズがいうところの「その作品を”触るかのように見る”」こと=生成そのものである。

その画家の”眼の動きを心の手で追い”、異なる『生成感覚』を”生成領域”のそれぞれに見極めようとしながら、それらを往還するその画家の感覚と一体化しようとするのが、すなわち真正なる《絵を”見る”》”自分”であると、言い換えることもできるのではなかろうか。

ドゥルーズは、意識を外部に向かって動くものではなく、自分自身の中で連続して変わり、新しい状態に変化していく力を持ったものとして描き直した。

《絵を”見る”》ことを”鑑賞体験”として置き換えるなかで、《絵を”見る”》者は、いろいろと”はかり知れない”部分的要素からなる全体を見ることに”触地”することなる。

それらの”はかり知れない”要素を「跳躍し、横断し、加速し、撹拌する」ベーコンの手つきを見ることになるドゥルーズはそこに、「解き放たれた手の力」の作用、すなわち「手動的なもの」を見るのである。

私たちは作品に近づいたりそれから遠かったり、眼をさまざまな速さで動かしたりしながら、同じ作品やモチーフにおけるそれらの差異が与える様々な感覚を代わる代わる体験することになる。

その感覚は一定せず、常に変化の過程にある。

色の塗られた平面を見ていたかと思えば、少しだけ距離をおいてみると、今度は同じ平面が奥行きを表現し始める。その逆に、奥行きの効果を与えていたはずの要素が、彩られた平面のように見えはじめたりすることもあるだろう。

重要なのは、体や眼を動かすことでその見え方が大きく変わるような作品との近さである。

この距離感の中では、あたかも眼で表面を撫でるように、つまり触感的ハプティックなやり方で作品を見ることも可能となる。

ドゥルーズの著述における「触感的なもの(haptique)]とは、次第に様々な感覚を代わる代わる喚起しながら、自身の身体もまた運動のうちに置き、作品を見るという活動そのものを意味するようになる。

時間と身体との間に空間があることを示唆する。

触覚と視覚の双方の協働の中で、私たちは描かれた虚構の空間を想像することができるようになる。

『絵画』との出逢い=巡り合わせ──身体に触れられる知覚と意識の感覚所与という、『絵画』と《絵を”見る”》自分との”初対面”」──「視野に存在する」こと。

『絵画』が視野に入ったまさにその瞬間=「眼で触れた刹那」に、現象学的な知覚の存在となり、知覚意識になり得た『絵』は、視野から消えた『絵』を知覚することができる。

知覚の存在という性質は、可変項から不変項へと、現在見えているのか,見えていないのかを超えたところに、すなわち、”時間とともに生じる「変化=思考」と『生成=創造』”が誘発される。

『表現者』たるものは、「絵を”描く”」という生成にいて、”表現者不在”の代わりとして『絵=生成図』は、”持続する「創造=”動く”生成」にある。

《絵を”見る”》ということは、「何を受け取る」か、その”場”に出会い《絵を”見る”》という自分は、思いも寄らぬ”生成”が誘発され、『絵』と共にする知の揺らぎや、生成未然の動きを可能とするのである。

「絵を”見る”こと」 -vs.-「”想像”すること」の『相互浸透』にある「さまよえる絵=さまよえる自分」。

それは、時間とともに生じる「変化=思考」と『生成=創造」として捉えることができる。

「身体的な実践」と「価値観・意味体系」が絡み合っていて、 身体を通じて、ある価値と意味が自然と身に付いていくようなものとして、『絵』と《絵を”見る”》ことによる知覚の存在と、『絵』と共にする知の動きは、《絵画の純粋遊戯》と《純粋遊具の絵画》として、達成する何か、具体的には、何かしら目的を達成する方法や手段又はやり方や手続きを意味する。

ドゥルーズは、純粋に視覚によってのみ把握される視覚的(optique)なもの、手で触ることができそうな奥行きを感じさせる輪郭や起伏の表現により把握される触覚的(tactile)なもの、光学的理性を逸脱する自由な手が生み出す「手動的なもの」(manuel)、「触感的」(haptique)なもの、このように分類している。

「触覚的-視覚的」空間とは異なり、絵画作品にできるだけ寄って近づき、視覚の働きを抑制した状態でも得ることができる対象についての認識に資するものとしている。

「触感的」なものは、眼を、光学的な機能とは切り離した感覚器官として作り変えることで得られる感覚である。

このとき眼は、もはや、輪郭や光によって奥行きや具象性を把握するための器官ではない。

それは手によって支配されることも、手を支配することもない。眼そのものが作品の表面を動き、触り、手とはまた異なる、固有の「触感」を得るのである。

ドゥルーズは、生成をいうことには触れず、また持続する生成については、述べ終えてはいない。

絵画を描くことにとって同じく、絵画を見るにとっても、「自分の眼で触る」ことによって”見る”こと。

ドゥルーズはそこに、「解き放たれた手の力」の作用、すなわち「手動的なもの」としている。

絵画を触るようにして見ることを通して、様々な秩序や領域を横断する画家の感覚と一体化しようとするドゥルーズ。

『絵画』との出逢い=巡り合わせ──身体に触れられる知覚と意識の感覚所与という、『絵画』と《絵を”見る”》自分との”初対面”」──「視野に存在する」こと。

『絵画』が視野に入ったまさにその瞬間=「眼で触れた刹那」に、現象学的な知覚の存在となり、知覚意識になり得た『絵』は、視野から消えた『絵』を知覚することができる。

知覚の存在という性質は、可変項から不変項へと、現在見えているのか,見えていないのかを超えたところに、すなわち、”時間とともに生じる「変化=思考」と『生成=創造』”が誘発される。

『表現者』たるものは、「絵を”描く”」という生成にいて、”表現者不在”の代わりとして『絵=生成図』は、”持続する「創造=”動く”生成」にある。

その”場”に出会い《絵を”見る”》という自分は、思いも寄らぬ”生成”が誘発され、『絵』と共にする知の揺らぎや、生成未然の動きを可能とするのである。

「絵を”見る”こと」 -vs.- 「”想像”すること」の──『相互浸透』にある「さまよえる絵=さまよえる自分」。

それは、時間とともに生じる「変化=思考」と『生成=創造」として捉えることができる。

「身体的な実践」と「価値観・意味体系」が絡み合っている身体を通じ、ある価値と意味が自然と身に付いていくようなもの。

『絵』と《絵を”見る”》ことによる知覚の存在と、『絵』と共にする知の動きは、《絵画の純粋遊戯》と《純粋遊具の絵画》として達成する何か、具体的には何かしら目的を達成する方法や手段又はやり方や手続きを意味する。
 
絵画作品のありようについて、「経験される絵画」の感覚とのかかわりから絵画記述に置き換えた概念。

主に視覚と触覚の二つの感覚が共に或いは対等とは限らず、かかわる「絵を”見る”」ことであり、それによって、具体的な形態や形式の創出または把握認識と理解に向かう。

はじめは劣勢だった視覚がやがて触覚を駆逐してゆくプロセスを、つまり「触覚性」から「視覚性」への移行をみる。

さらに「純粋視覚性」とは、「純粋に」視覚だけに訴えるような、つまり触覚などそのほかの感覚、さらには思考や記憶とはまったく無関係に存在する(とされる)ような、絵画作品のありようをいう。

これはまずコンラート・フィードラーによって理論化され、その後フォーマリズム美術批評が個々の作品の優劣を判断するさいの重要なクライテリア=批評基準となった。

その一方で、ジル・ドゥルーズは、リーグルの議論を踏まえ、いわば「純粋に触覚的な」美術のありようをも考える。

例えばジャクソン・ポロックの絵画に見られる、眼のコントロールをふりきろうとするかのような手の運動がそれである。

ドゥルーズはそれを「手跡的(manuel)」なものと呼ぶ。(フランシス・ベーコン:感覚の論理)。

《絵を見る者》として──自分の内面や行動に変化が生まれるその真正性は問えず定かではない。

《絵を描く者》の”表現”しようとするところを掴み「鑑賞」する感性に受け入れか取り入れてかその真正性は問えず定かではない。 

その選択肢は、防御⇔防御/包摂⇔排除/受容⇔疎外/協調⇔排他/容認⇔拒絶/受諾⇔拒否/包容⇔排斥。

その行動は、「そっぽを向く、一瞥する、通り過ぎる、立ち止まる、佇む、欲する、手に入れる」。

見ている自分とよく似通うところ、思い掛けず? 
見る自分とは全く異なるところ、思いも寄らぬ?
自分が求めたいたものがあった? 
自分も分からなかったことが分かった?
表現に?
「表現」は残されたもの?
「表面」に”故意”に? 
内面・意識・主観的なもの?
《表現者》の?
単なる思いつきや主張ではなく、系統立って『思考する営み』?
外面的・感性的に捉えられる形式によって”伝達”できるように?
「表出」されたもの?
絵は事物を描き出し?
《絵を”描く”》者は?
その平らな表面のカタチを通して、そこには無い事物の姿を見る?
《絵を”見る”》者は?

共に「生成者」として、絵の意味作用を共有し、”絵を描く/絵を見る”ことの経験の生成本性=”絵を描く/絵を見る”思想の手掛かりとする。

意味あるものだとしても、無意味なものだとしても、《生成》としての肯定・否定のなさにある「共鳴」。

”描く”こと=”見る”こと-vs. -想像すること──「相互浸透」。

そうして、釘付けとなって、「見入り」自ら頷くか、項垂れるか、「問い」「問い掛け」と「解き明かす」ことがあるだろう。

思いがけず偶然として、絵に”触れられ”、「考える」ことそのものは必然として、只々後からやってくる。

絵は媒質(medium)して、介在の「意識遊具」=呼び水は、反応させられた〈絵を”見る”〉その者を取り次ぐ。

絵と自分との中性において自らが媒質と化し自らを生成しはじめ、波動が伝播する「生成具体」となり、「場となる波動」が伝播する場となる。

 

・・・・・K・L・ウォルトンno「描写の理論」によると、《表現者》である描く者の絵は、”描くも者の代わり=代理”であり、”絵による表象”では決してなく、よって、絵を見る者は現実には絵を見ていながら、それとは異なる多様なもの姿を見ていることが虚構的に真であると見做されている。

絵は、そうした「視覚的ごっこ遊び」のための社会的に共有された小道具又は装置として位置付けられている。

絵を見るという経験そのものが、単線的に想像にと留まらず、「絵を見る」こと=”知覚経験”だという事実であり、表面を見ていながら同時に不在の対象を見るという独特の知覚経験である。・・・・・

・・・・・R・ウォルハイムの理論「二重性(twofoldness)」によると、そうした二重性をもっ た知覚経験そのものを、「絵の中に見ること(seeing-in)」として、「絵が何かを描写する」=”画像表象”の働きを支えているのは、こうした二重性を帯びた知覚に他ならないとされている。・・・・・

・・・・・E・H・ゴン ブリッチの「画像表象論」によると、一方では、絵による表象を,絵による対象の外形の模倣に基づくとみなすもの であり絵はその描く対象の似姿だとする。・・・・・

 

意識を所与された意識、刺激と反応という図式で意識は脳の働きを活性化し、五感に対する刺激を感じ取ることが可能な状態である意識という言葉には多義性ある。

それぞれの人がそれぞれの場面で、どういう意味でもって意識とされているのか、意識には、気づいている、または知っている、といった意味があるなかで、そのような点について「共観」をもつことである。

「意識は生成されるのだろう」。

ヴォルフ的「知られている状態」、カント的「純粋感覚」、自己自身を真正の対象とする活動、すなわち事行(Tathandlung)象学的な知覚の存在 。

思考の働きに先立ち、意識に直接与えられている──内容感覚に与えられているもの。

「思考」が開始される、すなわちそれが「創造」であり、「生成である。

 

参考資料として:

・ ライプニッツの思想における、認識の光芒、 悟性、理性、感性、各々の役割をもつ。
・ ライプニッツの影響を受けたクリスティアン・ヴォルフは、「意識」の概念を「知られている状態」(Bewusstsein)と造語し名づけた。
・ カントは、Cogitoを「純粋統覚」とみなし、すべての悟性的認識の根源であるとしたが、意識その・ものの主題化には向かわず、各認識能力の身分と能力についての考察をその批判において展開し、知覚に知覚よって直接生じた表象、知覚は環境と生体の運動との相互作用において成り立つもので,その相互作用の中で生体が環境の不変項を抽出することであるとする。

 

 

◾️【下編】:
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共観の場としての絵画/「描くこと」=共生成の振動体

総括と展望の層:
経験のされ方の変化、生成の新たな次元への道。

「創造的受容」のモデル:
・「1910年代頃にはじまった抽象絵画」の最初期の踏み出し、
・「創始者的存在のカンディンスキー/クレー /モンドリアン」など美術史的事例を通して、
・「生成」へ向かう絵画の「分岐線」として「視覚経験がどのように“生成”を誘発するか」。

 

「世界の見方、見え方を形にして残す」

「抽象絵画」の巨匠たち、例えばカンディンスキー/クレー/モンドリアンの他マレーヴィチなどといった「絵を描く」その者たちは、皆それぞれ自分たちの抽象絵画について、少なからず多くの言葉を語っている。

 

◾️ ヴァシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky, 1866-1944. Российская Федерация )

カンディンスキー:内的必然性の発火点

•「色と形は、内なる必然性に呼応して鳴り出す。」
• ここでは “見る” がすでに “描く” を孕んでいる。
• 色と形はただ選ばれるのではなく、内奥の響きとして生まれる。
• → 起点:「見ること」と「描くこと」が分かたれず、ひとつの出来事として発火。
• カンディンスキー → 音のような「内奥の発火」。

音から色を感じる共感覚──絵画に触れられる視覚化された音楽とそのリズム、〈絵を”見る”〉その者の「経験のされ方」として、内面から湧き上がる感情や精神性とは、一体何であろうか?

〈絵を”見る”〉自分の目で触れる──『絵』に触れられ”内面から見るものに語りかけられる”、精神的なものの感動──「感動体験」=”見るものの想像力に訴えかけられる「生成の場」と”跳躍点”として、、、、、。

〈絵を”描く”〉その者の心の内側で鳴り響く音楽を、色彩と形態を通して織りなす緻密に計算された構成の存在──絵画記述。

カンディンスキーは、ある感覚を別の感覚で感じる能力──音を聴くと色を感じ、色を見ると音を感じる「共感覚」をもっていたとされており、〈絵を”描く”〉者としての彼の「生成の場」と”跳躍点”は──「共感覚」と「生きた力」だったのかもしれない。

”触覚”を表現する「柔らかい」「硬い」という画面の形態や色彩の関係が示され、「視覚と聴覚と”触覚”」という複数の感覚の統合が図られ、「絵を”描く手”」=「絵を”奏でる手”」として、点は鍵か、線は弦か、色はメロディーか、形はリズムか、目に見える世界を超えて音楽化されるするその平面の時間と空間。

抽象絵画の概念を生み出し絵画を生成し続けたカンディンスキーは、抽象絵画理論を創始し、次第に抽象性が強くなりつつ、著書『抽象芸術論―芸術における精神的なもの(1911)』 において、絵画の芸術性は”内面から見るものに語りかける”──「内的必然性」であるとされ、中心となる理念を「芸術における精神的なもの」としたその中で、色とかたちで絵画を表現することを論じた彼自身の表現について、以下の3つに分類している。

・インプレッション(印象):外的なものの印象を表現したもの
・インプロヴィゼーション(即興):人の内なる感情や記憶を表現したもの
・コンポジション(作曲):心の中で形作られた感情を色彩と造形で表現

具体的に何が描いてあるか分からなくても人を”感動”させること──「感動体験」をさらに探究すべくカンディンスキーは、「絵画の芸術性としての第一の目的は作家の奥にある”感覚の表現”である」とし、絵画にも音楽と同様に”見るものの想像力に訴えかける”という要素を求めた。

「コンポジションとは、要素の中に緊張という形で含まれる「生きた力」を厳密に法則的に組織づけることに他ならない。」とするカンディンスキーの理論書『点と線から面へ』(1926)は、絵画の構成要素を徹底的に分析し、「生きた作品」の構築を試みている。

カンディンスキーの絵画を基本的要素に分解した「沈黙する点」「躍動する線」「客観的な面」の構成が、如何にして「生きた力」を生み出していったのだろうか?

・・・・・「直角は赤、鋭角は黄、鈍角は青」。
「左へ向かうと、成長しつつあるものは目立たなくなり、右へ向かうと―難儀さが増える。」
「絵画から見たイリュージョン的な奥行きは現実的なものであり、それゆえ、奥へ向かう形態要素を求めて、たとえ測定できなくとも、若干の時間を必要とする。」
「つまり、物質的な地‐平面が説明できない空間に変化するとき、時間のスケールは拡大するチャンスを得るのである。」・・・・

カンディンスキーの感覚的表現──直感。

自然現象から音楽やダンスといった芸術的なものまでを点と線に抽象化して捉えていたカンディンスキー。
『絵』=色味や温度感も感じ取る「図形」、「曲線・円=温もり/柔らかさ→暖色」「鋭角=冷たい印象→寒色」、イメージは『絵画』に置き換えて表現している。

”世界の見方、見え方”におけるイメージの「共感覚」的──「生きた力」に”触れられる”こと。
触発され動かされる──知覚感動。
思考の働きに先立ち、意識に直接与えられている=内容感覚に与えられているもの。
「思考」が開始される、即ちそれが「創造」であり、「生成」なのである。

 

◾️ パウル・クレー(Paul Klee, 1879-1949. Schweizerische Eidgenossenschaft

クレー:生成の線を生きる

•「線は点が散歩に出たものである。」
•描くことは、生成の運動に身を置くこと。
• クレーにとって「描く」とは、線が自ら成長し、世界を発見していく時間の出来事。
• → 中継:カンディンスキーが示した「内奥の響き」が、クレーの手では「生成の運動体(線・形)」へと展開。
• クレー → ”線”のような「生成の運動」。

“見る”とは何か? 〈視覚の哲学〉──点や線と色や形の離れて遠く奥に開かれた目眩く時間空間、むしろ「抽象的」になることで「具体的なもの(視覚的写実ではないもの)」に触れらるとは、一体何であろうか?

「世界の見方、見え方」の背後に潜む”余白”。 

思考が未だ姿を成す前の、“生成の兆し”としての具体的なのもの。

クレーは、点や線と色や形によって世界を具体的なものにする絵画的思考──人間とは何か、世界とは何か、ということまでを問う哲学的探究であったとされており、〈絵を”描く”〉者としての彼の「生成の場」と”跳躍点”は──”生きる=生きた”その「”知”の進化過程」そのものだったのかもしれない

「絵を”描く手”」=「絵を”聴く手”」として、”生きる=生きた”その境域にある意図と無意識の境界を越え、まるで”生きもの”であるかのように律動を刻む余白構成とそのリズム構造のなかに、目に見える世界を超える線の途切れることなく進む行方は、画面のイメージが枠組みの外側へと(額装を超えて)広がっていくように「絵を”聴く”」その平面の時間と空間。

それは、”触覚”を表現する「柔らかい」「硬い」という画面の形態や色彩の関係が示され、「視覚と聴覚と”触覚”」という複数の感覚の統合が図られ、「絵を”描く手”」=「絵を”奏でる手”」として、点は鍵か、線は弦か、色はメロディーか、形はリズムか、目に見える世界を超えて音楽化されるするその平面の時間と空間でもある。

人間とは何か、世界とは何か、という哲学的な探究のなかで、抽象絵画の概念を生み出し絵画を生成し続けたクレーは、、”生きる=生きた”絵画表現の根源へと突き詰めつつ、”自らを生んだ”著書『造形思考(Das bildnerische Denken)』において、「”点や線と色や形は何を表しうるのか」と問いた。


プロのヴァイオリニストとでもあるクレーにとって、「音楽を”描く”」=「絵を”聴く”」ことは、単なる絵画的比喩ではなく、絵画における実践的な主題として、「音と視覚」の結びつきであり、旋律・調性・反復・対位法などに展開する音楽的構造と音楽の時間性が、「描く=聴く」その平面の時間と空間に顕れた。

クレーの「オートマティズム(自動書記・自動描画)」、そして「音楽を”描く”=絵画を”聴く”」その点や線と色と形の反復・水平・並列・分節・変化などの構成のなかに旋律を描き、「点や線と色と形は”考える”」=「生成」する『絵」、それは意図と無意識の境域を越えた「音楽の即興」=「跳躍」と「生成思考」であったのだろう。


絵画記述は単なる概念の枠組みを超え、テーマ主題という絵画の在り方を超え、額装された絵画という物体を超え、「世界の見方、見え方」の背後に潜む”余白”、 思考が未だ姿を成す前の、“生成の兆し”としての具体的なのもの(視覚的写実ではないもの)に”触れられ問い直す”=「“見る”とは何か? 〈視覚の哲学〉」であるといえ、その問いは、観者となる〈絵を”見る”〉者の、また私たち人間の、その「知覚と思考」の曖昧さを刺激し、「創造と生成」の微かさに触発する。

「“見る”とは何か? 」、それは”触れられ問い直す”ことであり、意図の緊張にある絵=思考として、創造に架けられし自己と世界の生成への思考でもあり、〈視覚の哲学〉には、未来の視覚が静かに開かれているのである。

緊張にではないかたちを生成しなおすことであり、自らの内部にある世界像を書き換えていくことでもある。

クレーの作品は、単なる「絵」ではない。

それは一つの思考のカタチと記述であり、同時にカタチと記述の思考である。


 

◾️ モンドリアン

モンドリアン:内面と普遍の振動場

•「内面を秩序づけることは、普遍性に触れること。」
• 垂直と水平、原色と無彩色という極度の簡潔化は、自己と世界を共振させるための構造。
• その秩序は静止しているようでいて、内面と外界の往還という振動を常に孕む。
• → 収束:「描くこと」は、個の内面を超えて普遍的な共生成の振動場を立ち上げる行為となる。
• モンドリアン → 構造としての「普遍的振動」。

合理的であり、秩序と調和の取れた表現=”対象を単純化した幾何学的な再構成”──感性に訴えかけられし〈絵を”見る”〉その者の「経験のされ方」として、自己の内面に向き合い探求するとは、一体何であろうか?

〈絵を”見る”〉自分の目で触れる──『絵』に触れられ”内面から見るものへ語りかけられる”という、その精神的なものの感動──「感動体験」=”見るものの想像力に訴えかけられる「生成の場」と”跳躍点”として、、、、、。

〈絵を”描く”〉その者の心の内側で鳴り響き合う「自己と世界の往還」──〈絵を見る〉者=「共観」者に受け渡され、再び別の生成を引き起こす。

モンドリアンは、「自己の内面を掘り下げることは、個別性を越えて世界と繋がることだ」という視座をもち、「内面探求」と「普遍性」において絵画記述をするそれは、「垂直と水平」「原色と無彩色」という極度の簡潔化において、自己と世界を共振させるための構造であった。

「描くこと」=内面の秩序化としての生成として、モンドリアンにとって描くことは、外界の再現ではなく、内的秩序を形態に変換する生成のプロセスだったのかもしれない。

そのモンドリアンは、自分の内面を閉じられた私的領域としてではなく、普遍的秩序の探求の入口とみなし、むしろ自分の内面と向き合うことで、それをどのように絵画作品へと「昇華」させるかという──自然界をも超るほどの大きな影響を得る。

ピカソによって発展しジョルジュ・ブラックによって引き継がれていた「キュビスム」の革新的な手法にも強い衝撃を受けていたモンドリアンにとっては、パリの芸術が「生成の触地」であり跳躍地点でもあり、”対象を単純化して幾何学的に再構成する”ことで感性に訴えかける表現方法へと、次第に変化を見せ始めた。

これまでの自然主義的な要素は薄れ、形はより抽象的になり、色彩や構成には独自の探求が加わってゆき、むしろ、自分の内面をどのように絵画作品へと「昇華」させるかというモンドリアン。

─「”見えるもの”ではなく”本質を描く”こと」こそが、真の絵画思想であると確信しつつ、「初期に風景・具象を描くことではなく、自己の内面を表現すること」であった”経験”とその「経験のやり方は、自分の内面を作品へと「昇華」させる抽象絵画に至る重要な──「跳躍」ステップとなって、自己の「生成」と絵画作品の「生成と構築」に繋がったのだろう。

初期の風景画や具象絵画において画家と絵画作品の基盤を築き、それが抽象絵画に至る重要な──「跳躍」ステップとなって、その”経験”と「経験のやり方」が、やがて自らの革新的なスタイルへと繋がっていったことになる。

風景や具象を描くことは=”自己の内面を表現すること”であったが、それへの到達前、まさに自分だけの表現を模索しつつ、様々な要素を貪欲に取り入れながら彼の表現は次第に変化を遂げてゆくなかで、むしろ自分の内面をどのように作品へと「昇華」させるかが、モンドリアンにとっての最大の──「生成の触地」は「跳躍」として通過点に過ぎないのだが、それは具象世界から抽象世界へと新たな表現へと踏み出す瞬間だったのだろう。

「着色するスペースを減らす」「線の間隔を短くして立体感を出す」「キャンバスをひし形にする」「黒線に色をつける」など、微細な変化を重ねることで、新たな表現を模索してゆき。そして、それらの変化には彼の「内面が確実に反映」されている。

そのようにしてモンドリアンは、絵画の世界において「抽象」を極限まで追求し、新しい表現の可能性を切り開いた画家=「生成者」であるる。

彼の芸術は、印象派やキュビスムといった既存のスタイルを吸収しつつ、最終的に「新造形主義」という独自の世界観を確立したのであり、この過程で、対象そのものを排除し、平行線や垂直線、赤・青・黄の原色を基調とする図形だけで構成された作品を生み出した。


モンドリアンの作品は、〈絵を”見る”〉者に対し、「これは何か」と問うものではなく、むしろ「どう受け取ってもいい」と投げかけているのであって、絵画を単なる視覚的な美にとどめず、観者である〈絵を”見る”〉者の「内面と対話」するものへと「昇華」させたのである。



そもそも抽象絵画を描く理由とは、〈絵を”見る”〉者に自由な捉え方を提示し、[人間の心の内面を表現する」ことにあるともいえ、これまでの絵画は、何かを「描くこと」を前提としていた。

そのようなかで、しかしモンドリアンはその前提を根底から覆し、色と線だけで構成される新たな世界を生み出したのである。



モンドリアンは、その目的を追求し続けた結果、合理性と純粋性に満ちたスタイルを築き上げ、その結果、彼の作品は、現代においてもその意義を失わず、多くの人々に「新たな視点」をもたらし続けているのである。

「描く対象の形を変えるのではなく、対象そのものをなくしてしまったらどうなるのか」この問いが、モンドリアンの芸術をさらに次の段階へと押し上げた。、彼はここで「新造形主義(ネオ・プラスティシズム)」と名付けた独自の理論を発表した。

モンドリアンは「新造形主義」の基本原則として、以下の要素を定義した。

垂直線と水平線によって構成される図柄
・線によって形成されるグリッド
・赤・青・黄の三原色を基本に、白・黒・灰色を補助的に使用
・神智学の思想に基づき、写実性を排し、自己の内面を探求するもの
・合理的であり、秩序と調和の取れた表現を目指すもの

「赤・青・黄」の表現は、彼が歩んできた芸術の変遷を物語るものだった。

初期の印象派風の風景画から始まり、抽象化された風景画、そしてキュビスムの影響を受けた作品を経て、最終的には対象物を完全に排除した純粋な図形の構成へと進化した。

これは単なるスタイルの変化ではない。

モンドリアンが長年葛藤しながらも追求し続けた──「人間の内面を描く」という究極の表現に他ならならない。
モンドリアンのこの方向性は絵画を究極まで抽象化し、さらに使用する色彩を制限することで、余計な“示唆”や不要な要素を徹底的に排除するというものであった。

モンドリアンの「赤・青・黄」。

1920年、ついに「モンドリアンといえばこれ」と認識される作風が確立される。


このスタイルは、平行線と垂直線で構成された格子状の構造に、一部の区画が赤・青・黄の原色で塗られるのが特徴だ。

余計な要素を排除し、線・形・色のみで純粋な秩序と調和を生み出すまさに彼が求め続けた「新造形主義」の完成形だった。

このスタイルは単なるデザインではなく、モンドリアンにとって「世界の根源的な秩序を可視化する試み」でもあった。

そんなモンドリアンの歩みは、単なる美術の進化にとどまらない。

具象から抽象へと至る独特の変遷を辿りながら、彼が芸術に込めた思想とは何だったのか?

彼は一度確立したスタイルに固執するのではなく「より純粋な表現」へと進化させることに挑み続けた。

例えば、以下のような微細な変化が見られる。

・ 着色するスペースを減らすことで、余白のバランスを研ぎ澄ます。

・ 線の間隔を短くして立体感を生み出す。
・キャンバスをひし形に回転させ、新たな視覚的リズムを生み出す。

・ 黒線に色をつけ、構成のダイナミズムを強調する。

こうした小さな変化の積み重ねこそ、モンドリアンの探求の証であり、そして、それらの変化には彼の内面が確実に反映され、合理性と調和を追求する彼の芸術は、決して静的なものではなく、また変化や進化でもなく、「常に”生成”し続けるもの」だったのである。

 

下編のまとめ:

人の内面というものは、まさに、その人それぞれの「身(み)の部分」=人間たるものの「身(み)」であり、「絵を”描く”」ことは、個の内面を超えて普遍的な共生成の振動場を立ち上げる行為として──「共観の場としての絵画」=“絵を描くこと”は共生成の振動体なのである。

現象である「知覚と思考」の曖昧さを刺激し、現実である「創造と生成」の微かさに触地する。

この第1章は、絵画を「見る」と絵画を「描く」──生成の触地として立ち現れる“場の展開”と“実践の接地”に他ならず、
問いを立てたそのものが次章の導火線であり、“経験のしかた”が、次に〈わたし〉の「実際の実地」として接続・展開されるかが鍵になる。

1.-【絵画を「見る」と「描く」──共観の場・共生成の振動体として】
•「見ること」=「描くこと」を孕む出来事(カンディンスキー)
→ 視覚体験は単なる受動ではなく、内面の響きと結びつき、生成的な跳躍を引き起こす。
•「描くこと」=「生成の運動に身を置くこと」(クレー)
→ 線や色は点から歩き出し、時間を伴い世界を発見・生成する運動。
→ 絵画は思考と生成の同時体験であり、視覚を超えた多感覚的・時間的な現れ。
•「描くこと」=「内面の秩序化と普遍的振動場の立ち上げ」(モンドリアン)
→ 抽象化された線と色彩は自己を超えて世界と共振し、観者との共生成を促す。

2.-【「生成」とは?】
• 単に形や色を配置することではなく、
→ **「内的必然性」から生まれる「生きた力」**としての組織的構成。
→ それは感覚・感情・思考を震わす「共感覚」的体験であり、内面の精神的表現である。
• 「跳躍点」=見る/描くが分かれず一つの出来事として起こる瞬間。
→ 生成の触地。そこから新たな視覚・知覚・思考の場が開かれる。

3.-【「共観」と「共生成」の場としての絵画】
• 絵画は単なる個人の内面表現に留まらず、
→ **自己の内面を普遍的秩序の探求に開き、観者と共振・対話し共に生成する「振動場」**である。
• その振動体としての絵画は、
→ 知覚と認識の曖昧さを刺激し、創造と生成の微かな触発を呼び起こす。
→ 観者の想像力・感情・思考を巻き込みながら、多様な「見る/感じる」の生成的プロセスを進める。

4.-【抽象絵画の歴史的意義】
• カンディンスキー、クレー、モンドリアンは、
→ 視覚経験を単なる写実ではなく、内面と世界の生成的関係の「場」として捉え直し、
→ 抽象絵画という形でその「生成のプロセス」を視覚化し共振させた先駆者。
• それは単なるスタイルの革新ではなく、
→ 「世界の見方、見え方」を根底から問い直し、未来の視覚・思考・創造の可能性を開く契機だった。

 

結び

そして、いま、あなたが立っている場もまた──
《見る》ことと《描く》ことの間に広がる触地のひとつである。
そこから、あなた自身の生成の同心円が、静かにひろがりはじめるだろう。

 

次章

この「生成の触地」としての絵画体験を起点に、次章では、

• 「〈わたし〉の実際の実地」への展開、
• 体験としての問いの深耕と、
• 共観的・共生成的な現象としての思考の実地化

が展開されることになる。

 

断章:
……………………………………………………………

──著者の〈わたし=生成者〉も

 

刻意:

〈わたし=生成者〉としての在処(ありか)

望刻:

・・・・・ 見えないものに触れ、
言葉にならないものを透かし、
まだ名付けられぬ生成の〈出だし〉をなぞる、
”錯綜する地と空──エスキースの生成”へ、
それは──「生成された証し」。・・・・・

 

ー「錯綜する地と空──エスキースの生成へ」ー
Fragment: “The Interwoven Earth and Sky – Toward the Birth of the Esquisse”

テーマは “地と空” に触れ、
──エスキース(esquisse)は、
まるごと “地と空” を、
スケッチ(sketch)しているかのよう。
《光》と《風》に、ただ「薄く触れられ」、
“地と空” を、燦然と舞い覆う。
The theme touches “earth and sky”—the esquisse sketches them entirely,
brushed lightly by light and wind,
gliding and veiling the radiant breadth of both.

上昇することも、広げることも、
完璧化することもなく、整序するでもなく、
解体するでもなく、思い描くこともなく。
大袈裟な見栄えも、虚栄心も、不安すらもなく。
“考える”ことも“待つ”ことも、
“探す”ことさえもない──これは、「素描群」。
No ascent, no expansion, no drive toward perfection.
No ordering, no dismantling, no envisioning.
No ostentation, no vanity, not even anxiety.
Not thinking. Not waiting. Not even seeking—
This is a constellation of pure sketches.

意味の生成なき、星雲的な境域。
そこに「生成の出だし」がある──思考の手前。
上昇や拡張、構築に至る以前の──
「創造=生成」の純然たる実施。
問いは、空から地へと誘導されることなく、
幻視として生成される。
A nebular frontier where no meaning yet forms.
There lies the inception of creation—before thought.
Prior to ascent, expansion, or structure: pure act of genesis.
The question does not descend from sky to earth—it appears, as vision.

自由なるものは、発想の救いにすら触れない。
“逸脱”は、密やかな「手の雫」だけが、
《光》と《風》を見透かし、
そっと引く「線」に触れる。
そこには、窮屈さの欠片一つもない──
“地と空” の──錯綜素描。
What is free never clings to the salvation of ideas.
“Deviation” is found only in a quiet drop of the hand,
touching the light and wind,
tracing lines unseen,
in sketches where not a single fragment of constraint remains—
a weaving of earth and sky.

デッサン(dessin)の計測には、
中心も始まりも終わりもない。
デザイン(design)の計画には
──「生成の在処」があり、
”多方のリアリティ(reality)”に、
──「実在拠点の錯綜」が露わになる。
In the measurement of drawing, there is no center, no start, no end.
In the design’s plan lies the place of genesis,
where realities diverge, and sites of existence interweave.

気づいたとき、
自由はテーマの “風(問い)” に混沌としている。
前に進み続けるかぎり、
「潜在性」も「可能性」も、決して触れてこない。
When one notices, freedom is already tangled in the wind of the question.
As long as one moves only forward,
potential and possibility remain untouched.

逃走線は、点の緩みを擦り抜け、
生成線は、絡まりながら形をなす。
任意の生成態が、“地と空の球面上”を──
「等しく移動」している。
Lines of flight slip through loosened points.
Lines of genesis intertwine.
Formless figures drift evenly across the sphere of earth and sky.

裂け目に──「薄光と薄風の “創造どき”」。
思考の働きに先立ち、
──意識や感覚に訪れる「変化=思考」。
それは、生成の“出だし”から、”思いも寄らぬ”──
「発見的・構築的な想像力」の発動を兆している。
In the rift—comes the “moment of creation” with pale light and faint wind.
Before thought, a shift within perception and sensation.
It signals the spark of a generative, constructive imagination,
sprung from the very beginning of becoming.

空虚なる「余白」のなかに、
相称的な充満を──”見抜く力”が働く。
諸々の事物のあいだに、
──無数の「網の目」が紡がれる。
自家発火の変動性は、
純化された事物を無垢に組み合わせ、
”上昇し、拡張し、構築しよう”とする。
多方のリアリティに、
──「実在拠点の方法」を示しながら。
In the emptiest void, a symmetry of fullness is perceived.
Countless threads are spun among all things.
The volatility of spontaneous ignition
joins purified elements without admixture—
seeking ascent, expansion, construction,
and revealing methods for anchoring real presence in many realities.

──エスキース(esquisse)についての、
「新しい”思考”を”創造”した」のだ。
—Thus, the esquisse gave birth to a new way of thinking.

 

”Esquisse”, 2025.Kakuma KANKE

 

 

余白

 

 

「次章/第2章」への接続の可能性

生成は、思考のはじまりを超えて“出てきてしまう”動きである。

本章で見てきた《生成の出だし》の諸相は、果たして実際の現場でいかに立ち現れるのだろうか?

次章では、制作行為における具体的な実践をもとに、この“出だし”の構造と、その生成過程を観察していくことにしたい。
「思考の前にある生成」は、空中の理念ではなく、手を動かし、素材に触れ、環境に巻き込まれるなかでこそ、息づき始める。

では、どのような“場”が生成を可能にし、またどのような“裂け目”が意図を越える創造を招くのか。

次章では、その“生成の舞台”へと歩みを進めたい。

1. 現象の具体化;
• 第Ⅰ章が理論的・詩的に生成を語ったなら、第Ⅱ章ではその“現象としての記述”を実践現場で描写していく。
• スケッチ、身体動作、プロトタイピングの最中に立ち上がる《生成の“出だし”》の観察。
•「思いも寄らぬもの=”偶発性”」がどのように出現し、知となり、形を変えていくか。

2. 場の構造・環境との関係性:
•「生成がどのような“場”によって誘発されるのか?」という視点で掘り下げる。
•「環境=場」がいかにして知の揺らぎや、未然の動きを可能にするか。
•「媒介性」や「道具性」もここで議論されうる(素材・空間・身体の関係)。

3. 理論的参照と実践の交差:
• 哲学・芸術・デザイン論などとの往還を重ねながら、実践の厚みを増す。
• フルサリの「現象的気づき」や、イングルドの「素材との共生」など。
•「実在する何か」と「立ち現れる何か」との違いを議論。

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
第Ⅳ部:
「生成の”新たな次元”」
生成と構築
──触れられる思考と創造の裂け目
次章/第2章:
“わたし”の《わたし》に触れられる
──「生成の触知」 
《思想的基盤》と《思いがけない跳躍》

 

 
……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”

最終章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学

続 編:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 第Ⅳ部:序 章「生成と構築」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 

 

 

Transverse Line, 1923. by Wassily Kandinsky. Source, https://www.wassily-kandinsky.org/Transverse-Line.jsp

 

 

視覚と思想の跳躍の連鎖
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

 

ワシリー・カンディンスキー
Wassily Kandinsky

 

生成の“前兆”としてのカンディンスキー:

響きによる生成の兆し。
「感覚の深層からの招待図」への最初の応答。
色と響き、共観、深層知性の覚醒。
色彩と形態の純化、内的必然性。
見えるものの背後にある「響き・共観」に通じる。
内的必然性/色彩の響き/線と点の霊性といった感受の深層に潜り、これから新たな次元として捉えていく『思創考造』における《生成へ向かう”分岐線”》、「共観」「響き合う知性」「潜在力の振動」の主題に到達するもの。

位置づけ:

• 本書第Ⅳ部における“最初の共鳴”の起点として、きわめて本質的。
• “視覚”から“象徴”を通り越して“生成”へ至るための、最初の変調点(modulation point)。
•「内的必然性(innere Notwendigkeit)」「色彩の響き」「形態の霊性」は、ま さに“思考以前の生成の徴”**と重なる。
• 感受の深層に直接的に触れるための“媒体”としての色・線・点。それは、記号では なく、“先触れ”としての兆し。

本書との接点:

•「生成の招待図に最初に応答する」とは、極めて優れた比喩です。
•『思創考造』において、「感覚(知覚)」が「思考」へと“先触れる”場において、カンディンスキーは象徴の発明者ではなく、生成の媒介者。
• カンディンスキーの登場=生成的知性の“共観の場”の開示。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”

最終章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学

続 編:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅳ部】:《思創考造の生成》
「生成の”新たな次元”」
生成と構築
──触れられる思考と創造の裂け目

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第Ⅳ部:
「生成と構築」
──生成の”新たな次元”

序 章:
生成の”出だし”にて──思考以前の光と風

 

 

 

 

ーはじめにー
……………………………………………………………

 

──第Ⅳ部「あらすじ」:

第Ⅳ部は、「生成と構築」「触れられる思考」「創造の裂け目」といった主題で貫いていくとするならば、後々に構成全体が「ひとつの生成過程の時間軸」として読まれていく可能性があり、──「立ち上がりの地平」「未決性の兆し」「生成の〈出だし〉」というよに序章から展開していくことで、思想のリズムと読者の感覚が自然に「漂い」ながら「深まり」ます。

──序章「ポイント」:

問いの生成地として、最も沈黙に近い場所に「問いを立てたこと」そのものが次章への導火線となり、“問いのしかた”が、次にどう接続・展開されるかが次章での鍵になります。
“思想の生成そのもの”を映し出す〈余白の強度〉としての「立ち上がりの地平/未決性の兆し/生成の”出だし”」。
第Ⅳ部が「構築」や「思考」へ至るまでの時間以前=前生成的現象に立脚していることを明示。
しかもそれを詩的・感覚的に包んで伝えるため、読者への導入部として非常に柔らかく、美しい全体のトーン(生成/感覚/兆し/触れられること)を象徴する扉です。

──内容:

◯ 「わからなさと共にある」
◯ 「構築以前の生成」
◯ 「”地と空”/”光と風”に薄く触れられる」
◯ 「思考の出だし/発生点/前言語的な現象」
◯ 「スケッチ(esquisse)としての生成」
◯ 「解体でも拡張でもなく漂い錯綜する素描群」
◯ 「構想以前の生成そのものが主題」

──役割:

• 生成とは思考の前にあり、
• 出すことで考えが動き始め、
• 計画や意図を超える何かが行為の中から立上り、
• 境域/裂目/ズレが”生成の出だし”として現象。

 

 

序章:
……………………………………………………………

──「投企された地平」

 

曖昧な現実と概念の輪郭を掴み損ねる時代状況への応答、「装置」としての言葉/思考の意義の再検証、キーワードとしてある「地平・揺れ・未定性・予兆」。

混沌の只中で、我々はすでに“語られている”。

名づけられたものの内側に、知らぬ間に位置を与えられ、
何者かの言葉に宿る予測のなかで、生きる形を模索している。

そこにあるのは、「確かさ」ではない。

むしろ、微かな揺れ。
輪郭を保ったまま崩れゆく、あらゆる意味の境界線。

思考は、もはや既存の体系には還元されない。

見えるものの背後ではなく、
語られる以前に滲む“気配”こそが、
我々を触発しているのではないか。

未来は、まだ言葉にならない。

いや、言葉にできない何かが、言葉を求めている。

私たちは、思考という装置の根を掘り返す。

反射ではなく、応答でもなく、
「ことば以前の感応」から、あらたな地平を投企するために。

 

 

第1節:
……………………………………………………………

──「ことば以前の現象へ」

 

思考以前の触覚的・感覚的世界、概念が生まれる「場」と「余白」の認識、キーワードとしてある「沈黙・予感・間(あわい)・発語前」。

言葉にする前に、すでに感じている。

それは現象というよりも、立ち上がる気配、
まだ名前を持たない震え。

我々は、概念の輪郭で世界を囲い込み、
思考という形式のなかで秩序を得ようとする。

だが、そこに収まりきらない“なにか”がある。
言葉にされる直前の、
息づかい、まばたき、沈黙のゆらぎ。

それは、
触れた瞬間に逃げる。
捉えたつもりで失う。

だが、確かにそこに在る。

言語以前の現象的実在。

感覚と認識のあわいを揺蕩う「在りよう」。

その場所に、とどまることはできない。

だが、そこを通らずして、
言葉は本当には生まれないのではないか。

思考は、すでに語られたものへの再帰ではない。

発語の手前にこそ、未生の思想は眠っている。

それを掬うために、
私たちは沈黙を抱えたまま、
“書く”という行為へと向かう。

 

 

第2節:
……………………………………………………………

──「跳躍する構築」

 

断絶と跳躍こそが「創造の核」であること。
連続的でない〈考える〉ことの技法、キーワードとしてある「跳躍・飛躍・意図せざる転回・喪失の生成性」。

考えるということは、
積み上げることではない。

むしろ、断絶において現れる。

連なりではなく──跳躍。


一貫ではなく──裂け目。

私たちは、「わかること」だけをつなぎ合わせ、
「わからなさ」を避けて通ろうとする。
だが、思考の核はむしろ、
その“わからなさ”のなかに潜んでいるのではないか。

言葉が継がれた瞬間にこぼれ落ちる、
その“中間”に。

構築とは、整然とした体系のことではない。

偶発的に立ち上がる関係性、裂け目に芽吹く生成。

理路のなかではなく、
逸脱のなかで現れる“像”。

そこに「構築」があるのだとすれば、
それは手順ではなく、跳躍の痕跡でしかない。

不整合、断絶、誤読。
そこに、創造の入口がある。

何かがずれるとき、
世界は一瞬、まったく違う顔を見せる。

私たちはその“跳び”を見逃してはならない。

思考とは、すでにある橋を渡ることではない。

橋がない場所で、一歩を踏み出すことに他ならない。

 

 

第3節:
……………………………………………………………

──「言語と思考の裂け目にて」

 

「思考できること」しか考えられないという罠。
「わからなさ」の再評価と、言葉の限界の遊泳、キーワードとしてある「裂け目・翻訳不能性・分断・複数性」。

言葉が届くのは、
すでに考えられること、
すでに輪郭を持ったものだけだ。

けれど、私たちは、
言葉にできないことの方にこそ、
真の思考の原点があると、知っている。

語り得ぬもの。
名づけられない感覚。

翻訳不可能な気配。

それらは、ただ曖昧なのではない。

ー概念の外部を照らし、
思考の輪郭を縁取る「裂け目」ーなのだ。

言葉は、つねに一歩遅れてやってくる。

その遅延のなかに、
「わからなさ」とともにある豊かさが潜んでいる。

だからこそ私たちは、
明瞭さだけを目指してはならない。

意味の届かぬ領域に、
思考の跳躍台が隠されている。

その裂け目において、
言葉は再び始まる。

すべてを語ろうとするのではなく、
語りきれぬものと共にあること。
そこに、ことばの限界と可能性の両方がある。

 

 

終章:
……………………………………………………………

──「未決のままにあること」

 

曖昧さ・矛盾・矛盾性の受容。
識域(ノエマ)としての書き記す行為そのものとして、キーワードとしてある「未決・残余・ノモスなき思考・実践なき理論」。

すべてを語りきることなど、本当はできない。

言葉で結び終えるということは、
その先を閉じることに他ならない。

だから私たちは、
「終わらないこと」そのものを受け入れねばならない。

思考もまた、どこかに着地するためのものではなく、
つねに宙づりであり、未決のまま揺れている。

「まだ定まらない」こと。

「まだ決めきれない」こと。

それは、怠慢でも混乱でもない。

むしろそこに、
生きた思考の呼吸がある。
明快さよりも、滲むような了解。
結論よりも、開かれた問いの余白。

言葉は定義されるためにあるのではなく、
更新され、揺さぶられ、崩され、
再び、書き換えられていくために在る。

だから書くという行為は、
答えを刻むことではない。

書くとは、「わからなさ」と共に在ること。

未決のまま、それでも言葉を手放さずに、
いま、ここに立ち続けることなのだ。

 

 

・・・・・”わからなさ” は、
──欠落ではなく「開かれ」。
”ともにある” は、
──服従ではなく 「共鳴 」。
「わからなさ」と共にある時間も、
豊かな空間の沈黙と共振の共観のなかで、
──読者の〈あなた=生成者〉も、
新しい「生成の兆し」を──
育んでいかれますように。・・・・・

 

 

断章:
……………………………………………………………

──著者の〈わたし=生成者〉も

 

刻意:

〈わたし=生成者〉としての在処(ありか)

望刻:

・・・・・ 見えないものに触れ、
言葉にならないものを透かし、
まだ名付けられぬ生成の〈出だし〉をなぞる、
”錯綜する地と空──エスキースの生成”へ、
それは──「生成された証し」。・・・・・

 

ー「錯綜する地と空──エスキースの生成へ」ー
Fragment: “The Interwoven Earth and Sky – Toward the Birth of the Esquisse”

テーマは “地と空” に触れ、
──エスキース(esquisse)は、
まるごと “地と空” を、
スケッチ(sketch)しているかのよう。
《光》と《風》に、ただ「薄く触れられ」、
“地と空” を、燦然と舞い覆う。
The theme touches “earth and sky”—the esquisse sketches them entirely,
brushed lightly by light and wind,
gliding and veiling the radiant breadth of both.

上昇することも、広げることも、
完璧化することもなく、整序するでもなく、
解体するでもなく、思い描くこともなく。
大袈裟な見栄えも、虚栄心も、不安すらもなく。
“考える”ことも“待つ”ことも、
“探す”ことさえもない──これは、「素描群」。
No ascent, no expansion, no drive toward perfection.
No ordering, no dismantling, no envisioning.
No ostentation, no vanity, not even anxiety.
Not thinking. Not waiting. Not even seeking—
This is a constellation of pure sketches.

意味の生成なき、星雲的な境域。
そこに「生成の出だし」がある──思考の手前。
上昇や拡張、構築に至る以前の──
「創造=生成」の純然たる実施。
問いは、空から地へと誘導されることなく、
幻視として生成される。
A nebular frontier where no meaning yet forms.
There lies the inception of creation—before thought.
Prior to ascent, expansion, or structure: pure act of genesis.
The question does not descend from sky to earth—it appears, as vision.

自由なるものは、発想の救いにすら触れない。
“逸脱”は、密やかな「手の雫」だけが、
《光》と《風》を見透かし、
そっと引く「線」に触れる。
そこには、窮屈さの欠片一つもない──
“地と空” の──錯綜素描。
What is free never clings to the salvation of ideas.
“Deviation” is found only in a quiet drop of the hand,
touching the light and wind,
tracing lines unseen,
in sketches where not a single fragment of constraint remains—
a weaving of earth and sky.

デッサン(dessin)の計測には、
中心も始まりも終わりもない。
デザイン(design)の計画には
──「生成の在処」があり、
”多方のリアリティ(reality)”に、
──「実在拠点の錯綜」が露わになる。
In the measurement of drawing, there is no center, no start, no end.
In the design’s plan lies the place of genesis,
where realities diverge, and sites of existence interweave.

気づいたとき、
自由はテーマの “風(問い)” に混沌としている。
前に進み続けるかぎり、
「潜在性」も「可能性」も、決して触れてこない。
When one notices, freedom is already tangled in the wind of the question.
As long as one moves only forward,
potential and possibility remain untouched.

逃走線は、点の緩みを擦り抜け、
生成線は、絡まりながら形をなす。
任意の生成態が、“地と空の球面上”を──
「等しく移動」している。
Lines of flight slip through loosened points.
Lines of genesis intertwine.
Formless figures drift evenly across the sphere of earth and sky.

裂け目に──「薄光と薄風の “創造どき”」。
思考の働きに先立ち、
──意識や感覚に訪れる「変化=思考」。
それは、生成の“出だし”から、”思いも寄らぬ”──
「発見的・構築的な想像力」の発動を兆している。
In the rift—comes the “moment of creation” with pale light and faint wind.
Before thought, a shift within perception and sensation.
It signals the spark of a generative, constructive imagination,
sprung from the very beginning of becoming.

空虚なる「余白」のなかに、
相称的な充満を──”見抜く力”が働く。
諸々の事物のあいだに、
──無数の「網の目」が紡がれる。
自家発火の変動性は、
純化された事物を無垢に組み合わせ、
”上昇し、拡張し、構築しよう”とする。
多方のリアリティに、
──「実在拠点の方法」を示しながら。
In the emptiest void, a symmetry of fullness is perceived.
Countless threads are spun among all things.
The volatility of spontaneous ignition
joins purified elements without admixture—
seeking ascent, expansion, construction,
and revealing methods for anchoring real presence in many realities.

──エスキース(esquisse)についての、
「新しい”思考”を”創造”した」のだ。
—Thus, the esquisse gave birth to a new way of thinking.

 

”Esquisse”, 2025.Kakuma KANKE

 

 

余白

 

 

ー次章ー

 

生成は、思考のはじまりを超えて“出てきてしまう”動きである。

本章で見てきた《生成の出だし》の諸相は、果たして実際の現場でいかに立ち現れるのだろうか?

次章では、制作行為における具体的な実践をもとに、この“出だし”の構造と、その生成過程を観察していくことにしたい。
「思考の前にある生成」は、空中の理念ではなく、手を動かし、素材に触れ、環境に巻き込まれるなかでこそ、息づき始める。

では、どのような“場”が生成を可能にし、またどのような“裂け目”が意図を越える創造を招くのか。

次章では、その“生成の舞台”へと歩みを進めたい。

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
第Ⅳ部:
「生成の”新たな次元”」
生成と構築
──触れられる思考と創造の裂け目
次章-第1章:
「跳躍と構築」──錯綜する生成の運動
潜在的未来との共観的跳躍=《生成の未来地平》

 

 

ー次章-「第1章」への接続の可能性ー

 

1. 現象の具体化;

• 第Ⅰ章が理論的・詩的に生成を語ったなら、第Ⅱ章ではその“現象としての記述”を実践現場で描写していく。
• スケッチ、身体動作、プロトタイピングの最中に立ち上がる《生成の“出だし”》の観察。
•「思いも寄らぬもの」がどのように出現し、知となり、形を変えていくか。

2. 場の構造・環境との関係性:

•→「生成がどのような“場”によって誘発されるのか?」という視点で掘り下げる。
•「環境=場」がいかにして知の揺らぎや、未然の動きを可能にするか。
•「媒介性」や「道具性」もここで議論されうる(素材・空間・身体の関係)。

3. 理論的参照と実践の交差:

• 哲学・芸術・デザイン論などとの往還を重ねながら、実践の厚みを増す。
• フルサリの「現象的気づき」や、イングルドの「素材との共生」など。
•「実在する何か」と「立ち現れる何か」との違いを議論。

 

 
……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”

最終章:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅰ 』
~ 生成の主題旋律 ~
「生成の余白」=”創造の余白”
──静かに誘う跳躍と哲学

続 編:
『 思創考造 Cognigenesis:part-Ⅱ 』
~ 生成の森を歩く ~
「生成の白扉」=”創造の白扉”
──生の生成と哲学の風景

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 第Ⅲ部:間 章「生成への招待図」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 

 

 

《 Tu m’ 》(69.8x303cm), oil painting, 1918. Marcel Duchamp(1887-1968)、The Yale University Art Gallery (YUAG) is an art museum in New Haven, Connecticut.

 

 

視覚と思想の跳躍の連鎖
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《M.デュシャン》

意味と物質の転位、芸術と思考の概念的跳躍。思考行為そのものへの問い。生成の「閾」。
画像:”大ガラス” ”自転車の車輪” ”窓” などのレディメイド作品。
•主題的共鳴:「知性」「概念」「転位」「跳躍」「不可視性」
•空間論的意義:見るという行為そのものをズラし、概念として再定義する。
•思想的重なり:「創造とは何か」「見るとは何か」「作品とは何か」=生成を概念化し、反転させる。
•象徴する問い:「意味は誰が作るのか?」「生成とは“意図”なのか、“ずれ”なのか?」。

作品「デュシャン《Tu m’》」の含意:
──(補足的視点):

•《Tu m’》=「あなたは私を…」(未完文)の不穏な未完性・断絶性。
•そこに描かれた影、色見本、眼差しの指示線、そして破れたキャンバス──。
◦「視る」という制度の崩壊。
◦「色彩の見本」は、もう色を選ぶ絵画ではない。
◦「突き破れたキャンバス」は、次の次元(生成)の裂け目を示唆。

これは、視覚芸術を超えた概念芸術の門口でもあり、【第Ⅲ部】の終章の締めと、次部への橋渡しとして機能する「デュシャン《 Tu m’ 》(デュシャンの制作活動の中では最後の油絵)」を飾る──本章「生成の招待図」から、次の【第Ⅳ部:『思創考造 -Cognigenesis-】への「新たな次元」にそのまま繋がることになります。

次なるステップ:第Ⅳ部「生成の”新たな次元”」=「カンディンスキーの始まり」──ワシリー・カンディンスキーがここで登場するのは、象徴を超えて響くかたち・色彩の原初的生成を描くためです。

まさに、「視覚→象徴→生成→響き」の道筋が着実に開かれてきています。

構成の流れ(現段階の骨格)

◆第Ⅲ部 第4章:まとめと断絶
•キリコ、デュシャンによる「空間・意味・感覚」の脱構築
→ デュシャン《Bicycle Wheel》《Fresh Widow》で装置性と反転視覚
→ 《Tu m’》で視覚芸術の終焉と跳躍前夜を明示
⇒「絵画から去ることが生成を招く」

◆第Ⅲ部 本章/間章:「生成への”招待図”」
•デュシャンの作品に現れる「扉」「窓」「車輪」「扉」などのメタファーを軸に、
•「生成」という概念の前提構造を準備。
現れるのは:
◦透明な大ガラス(The Large Raven)
◦回転する円環(Bicycle Wheel)
◦閉じられた扉(Fresh Widow)
◦誇りの台座(Chocolate Grinder )
◦裂け目(Tu m’)。
→ ここで、──”見えないもの”の『生成の招待図』が読み取られる。
→ その”招待”に最初に「応答」するのが、次なるステップ:第Ⅳ部《生成の”新たな次元”》における、抽象画家:カンディンスキーとなる。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”

最終章:part-Ⅰ 生成の余白-静かに誘う跳躍と哲学

続 編:part-Ⅱ 創造の白扉-生の生成と哲学の風景
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の森を歩く ~ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅲ部】:
『”見える”思創考造』──実地サイクル

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第Ⅲ部:
『思創考造の力法』
ー”見える”思創考造=実地サイクル〜実地具体化ー
⬇︎
第Ⅳ部:
《生成の”新たな次元”》──への接続

「生成と構築」

──触れられる思考と創造の裂け目

⬆︎
間章:
『生成の”招待図”』

ー潜在的未来との共観的跳躍=生成の未来地平ー

 

 

diagram《1》:
……………………………………………………………

生成の「図」を──“描く”

 

・・・・・「生成」の境域と境界。

「見えてない”境目”」と「見えた”境目”」。

あまねく「境目」は、もれなく全てに及んで、
──”「生成の境目」のさま”としてある。

2本以上の「線」のものなどが永久に交わらない、
──”巡り合わせの「平行線」”。

「線」の2本以上の幾つかのものが多極として、
極めて本質的な「結節点」となりえる点における、
──”入り混じる「交錯点」”。

2本の「線」のものが両極として──
ある”一点”で交わり”互い違いになる「交差点」”。

境界でなければ、漠然とした境界の曖昧な広がり、
──「境域」の中心または中心寄り。

境域であるならば、漠然とした「”空”の域」。

地についても、一定の広がりをもつ「”地”の域」。

地続きであっても、漠然とした「”海”の域」。

 

また、──《日常的》には、その辺に、近くに、
”身のまわりに──『身近に』”。

目に見えない(現前しない)──「境域」。

決して現前しない、
あるいは──”あらわれない「境界」”。

あたかもそこから、
「音無き仄かな”光”」しか──”《風》は到達せず”。

そして時々、
しかし、「不規則な”間隙”」をおいてでしか、
彼岸の「”不可視”の灯台の光」が届かないように。

そして時々、
しかし、「断続的な”雨隙”」をおいてでしか、
「”地と空”を割きえない稲妻」。

”音”よりも速く、
──《風》の”光”「いかづち」”・・・・・

 

・・・・・”光”に《風》は問う。

”時間の体は空間に浸かっている”──
「身体・肉体的な”天候”」でしかなく、
まるで霧の中に”住み込んでいる”かのように
──「接近不可能」か?

そのような留保されたような──
「空白”濃度”」の状態から、
はたして、生成の光は”可視化”」され、
──”明るみ”に出されるだろうか?

”接近不可能”なものの──
「遠ざかり」それそのものとして。

《境目=”裂け目”に立ち》──
それに直面しているからこそ、
「視座(角度)」「跳躍点(瞬間)」──
「余白(触れない沈黙)」を”線”に結び、
”遠ざかり”に『図』で与えることによって、
目に見えない(現前しない)──
”あらわれない境界”が、
眼前に現れてくる。・・・・・

 

・・・・・《風》=”問い”

”問い”=”生成の始点”としての──『図』。

「”図”とは”問い”であり、”問い”とは”風”である。」

──「生成の構造的起点」を指示する跳躍。

”音”とともに”光”と《風》が交差するとき──
姿を現す「媒質としての天気」、
=「経験の地形」が顕になる。

この連関は、「”問い”の生成=《風》」であり、
「生成の可視は光によって明らかになる」という、
「”知”の天候学」ともいえる──
「思考・創造の”建築”」なのである。・・・・・

 

 

diagram《2》:
……………………………………………………………

生成される「図」に──”身体が浸かる”

 

《2》-①:

”地”に”空”の霧か、”空”に”地”の霧か、
”地”に腹ばいになり蒸気(ゆげ)が這い、
仰向け”空”に蒸気(ゆげ)漂い──
「裂け目に立つ身」の蒸気(ゆげ)が息する。

地平の彼方に「地と空」とが一体であるように、
「地と空」」は身体・肉体的な”身近の手前”から、
──共に一体なのである。

『思創考造』に──
地上山脈も空中山脈も、無かったように、
『思創考造』に──
地上庭園も空中庭園も、無かったように、
天に対する”つち”に生成はなく、
地に対する”そら”に生成はない。

対地・対天の無い「地と空」──
「生活をのせる台=生きる盤」
──《landscape:ランドスケープ》」。

「時間と空間のなか」にではなく、
「時間と空間に”住み込む”身を持つ」
──身体・肉体的生成。

”地”は、遠目に見晴らしたよりも地の足元から、
”空”は、上空に見上げたよりも地の足元から。

「地と空」は、”身に触れている”のではなく、
「身」は、”地と空に触れられ”──
「地中の水」⇄「身中の水」⇄「空中の水」
=「蒸気(ゆげ)」
──”時間の体は空間に浸かっている”。

《天気》が「媒質」で、
《ランドスケープ》が「面」として、
荒れたれた「つちもよう」と荒れた「そらもよう」
──《(be) under the landscape》。

大気の状態とそれに連環する──
地面と水域(地続き)の状態
──《天気》は”予測外”にある。
 
荒れた天気はなく、荒れない天気はなく、
常に絶えず「地と空の天候=荒れ」。

天候で変化する生活⇄生活で変化する天候
=荒れ──天気は荒れず、
天気が常に絶え間なく──
「”あたって”くる=”触れて”くる」。

乗り切った天候の過酷と頻度に、
生活と”いのち”を重ねみた”身体・肉体的な天候”
──「生成の図」。 

 

・・・・・ 天候は「地と空」一体にかかわる──
「身体的・肉体的」なもの。

身が時間と空間のなかにあるのではなく、
「”時間の体”は、”空間に住み込む”」。

天気に浸かる身体・肉体的天候は尽きることなく、
生成は尽きることない。

”身を持たない”移動はなく、
「移動する身体・肉体の天候」において、
身体が流動する媒質のなかで──
「風になる」・・・・・

 

《2》-②:

「図」とは「問い」であり、”問い”とは”風”である。

「風」は共に在るときだけ、「光」に姿を現す。

”光”の経験が《天気》=「媒質」であり、
これらを通して──
《ランドスケープ》=「面」が知覚され、
ランドスケープ=「面」 + 「媒質」が構成される。

移動する身体・肉体の天候において、
身体が「面」に流動する「媒質」のなかで──
「風」になる。

《生成への地図》と『生成と精神』とで、
「そこにある」という「〈生な意味の層〉から、
全てを汲みとるのは『思創考造』の”生成”であり、
とりわけ──
『Cognigenesis=生きる生成』としてある。

”身を持たない”移動はなく、
「移動する身体・肉体」の経験において、
捉えようとする「生成精神の面前」に立てられた、
イメージや表象として捉える見方──
「身体が時間と空間に”住み込む”」。

 

《2》-③:

「地と空は」、割けることなく、取り巻くように、
世界が常に絶え間なく”あたって”くる
=”触れて”くる。
”よける”か、”ふりはらう”か、
”まかせる”か、”ゆだねる”か。

「地と空」に、”裂け目に立つ”──
「視座」の感受は、
”共観の重心”に「生成」が触れるたびに、
「問い」が立ち上がる”線と角度”を静止せず
──地と空の一体を移ろい、
「生成の”跳躍点”、”触地”、”余白”」へと
──結び動かされる。

辺り一帯に隈無く光も陰にもなるところのない──
静止の時間の時刻と同時に走っている時計が、
来合わせた瞬間。

光を発射した瞬間の”時刻を意味する”ことなく、
”時刻を対応する”──
”呼びかけと時間依存的な応答”のなかに、
浮かび上がる──
「生成共観の星座=立ち上がった図」に、
《生成への地図》は開かれ、
「”座標”は外されたはずされた」。

 

《2》-④:

《霧》に咽ぶ「空」の裾、「地」は霧を吐き、
「共観」の歩き”音”めく《風》は、
──明るさの”光”を吐いて籠っていない。

陽の”光”は、共観の歩く”音”を、
雨に揺れて──「触れる」。

離れて遠く”音”の不明──《風》の消息に、
汽笛か霧笛、鳴笛か草笛か、
”光”無く──まさに、「生きている息」。

”光散らし”揺れる新緑は”光風”のなかで──
微笑んでいるようにさえ「目に触れる」。

”雲と雲”との間に『生成」か、
”雲と地”との間に「生起」か、
”光と音”を伴う──「いかずち」。  

離れた遠方で発生した雷は光は見えるものの、
──”《風》向き”の影響で音が聞こえない。

羽ばたきで──
雷鳴と稲妻を起こす巨大な鳥「Thunderbird」が、
──”目に触れたクワの木”が神聖な力を持つと。

”稲穂”は雷に「感光」することで”実る”──
「持続的な生成」の”稲妻”。

近くに落雷があると、
ゴロゴロという”音の直前”に、”音”が聞こえる。

やや小さなビリビリパリパリという、
破いた布が触れてくる。

布を破いたような音──
バシッという叩く布が鋭く”触れる”。 
”音”は先行放電。

「生成観測」は──
落雷点から離れると、この音は聞こえない。

雷鳴は、「地と空」を轟に割き、
稲妻は、「地と空」を割き切れない。

「地と空」の”万年明々暗々”を轟かす──
《風》が触れ、
強く叩く万年生きる息、吸う息、吐く息は、
《雨》に気振り、
「”気配”の生成」に疼き疼くまり、目は眠る。

 

 

diagram《3》:
……………………………………………………………

生成図──身体で天候を読む地図

 

・・・・・「移動する身体・肉体の天候」──
身体が『面』に流動する『媒質』のなかで
──《風》になる。・・・・・

 

「霧」── 輪郭の溶解/触知不可能な境界

見えるものと見えないもののあいだで、触れられぬままに包み込む媒介。

境界が曖昧になることで、あらゆる分節の前に潜む「生成の胎内」を示す。

図として現れぬ前の「まだらな知覚」を保つ、生成の予兆の包囲圏。

「風」── 問いの息/不可視の接触

触れるが、姿を持たない。「問い」は風であり、風は共にある時だけ姿を現す。

感受とは風のように、“吹き抜け”を許すことで立ち上がる。

生成の方向性を知らせる無音の舵。

「雷」── 裂け目の音/触地の閃光

空と地を一瞬で貫く、時の裂け目「生起の稲妻」。

見えないところで発火し、音が遅れてやってくる時間差に、生成の距離感を孕む。

跳躍点における瞬間的構図の可視化。

「問い」── 風を孕んだ微かな揺れ

問いは固定されたものではなく、吹き寄せ、立ち止まるもの。

それは呼吸のずれや、日常の裂け目として現れる。

生成の入口としての「ずれ」。

「媒質」── 光と風を繋ぐ透明な領域

全ての出来事が通過する「生成の”場”」そのもの。

それが透明であるほどに、出来事は身体に“あたって”くる。

身体と世界のあいだの、生成する布。

「地と空」── 統一以前の二重存在

地に立つとき、空に晒され、空を見上げるとき、地に縛られる。
「
地と空」は「時間と空間に住み込む」身体が孕む、非分割の一体性。

そこに「天候=生成の経験」は流動する。

 

 

余白

 

 

《次回》

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅳ部】:
「生成の”新たな次元”」
生成と構築──触れられる思考と創造

序 章:
「生成の”出だし”にて」
―― 思考以前の光と風

 

 
……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 第Ⅲ部:章 節:「生成具体場」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 

 

 

Chocolate Grinder(No. 1), 1913. Marcel Duchamp(1887 – 1968), The Philadelphia Museum of Art (PMA) , 2600 Benjamin Franklin Parkway, Philadelphia, Pennsylvania, U.S.

 

 

ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《M.デュシャン》

意味と物質の転位、芸術と思考の概念的跳躍。思考行為そのものへの問い。生成の「閾」。
画像:”大ガラス” ”自転車の車輪” ”窓” などのレディメイド作品。
•主題的共鳴:「知性」「概念」「転位」「跳躍」「不可視性」
•空間論的意義:見るという行為そのものをズラし、概念として再定義する。
•思想的重なり:「創造とは何か」「見るとは何か」「作品とは何か」=生成を概念化し、反転させる。
•象徴する問い:「意味は誰が作るのか?」「生成とは“意図”なのか、“ずれ”なのか?」。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”

最終章:part-Ⅰ 生成の余白-静かに誘う跳躍の哲学

続 編:part-Ⅱ 創造の白扉-生の生成と哲学の風景
『 思創考造 Cognigenesis ~ 生成の森を歩く ~ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅲ部】:
『”見える”思創考造』──実地サイクル

……………………………………………………………

DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

……………………………………………………………
 
第Ⅲ部:《思創考造の力法》
ー”見える”思創考造ー
「実地サイクル〜実地具体化」

『思創考造 Cognigenesis 』の実地具体化の”場”
第一弾:《生活 = becoming × environment》

第4章-章節
『思創考造』における「生成の実地」
《具体生成場》

 

 

◾️ Prologue
……………………………………………………………

『思創考造 Cognigenesis 』の実地具体化の”場”
第一弾:《生活 = becoming × environment》

 

『思創考造』における「生成の実地」の瞬間。

「世界-内-存在(in-der-Welt-sein)」としての生活を、──「becoming × environment」の共生成場として提示。

 

ーテーマ:「生成 × 実地」ー

1.-生活=生成の場としての「倫理性」や「共生性」(「生きるとは共に生成すること」)
2.-生成の中動態性における“意志”の役割(能動でも受動でもない、「気づきからの動き」)
3.-生成における「教育」や「実践」の構想(触地的経験をいかに継続的学びに変えるか)

「生活」という最も身近な“生成の現場”を、──「変容する主体(becoming)」と「応答する空間(environment)」の”共鳴場”として実地的に捉え直すことが明確なテーマとなっています。

特に「風景ではなくスケープ」「触れる環境」「光と音の媒質」など、イメージと思考が融合した身体的経験の濃度=“生活知”の哲学化を図っています。

『思創考造』の生成思想を、「詩・論・哲・環境・身体・知性・空間時間」など、多領域的に統合する節理構造として、第4章は本書『思創考造 ーCognigenesis thinkingー』の”実地的中心軸”のひとつです。

これまで、

•序章から第2章までで思考的跳躍を構築し、

•第3章で「実地の回路」としての生成サイクルを描出、

そして今、

•第4章は、その「生活」における《具体生成場》としての〈環境〉と〈身体〉の結節点を拓いた章。

 

ーコンセプトー

◆「生活の”becoming”」:
──生活=通過点の連鎖

・生成の拍動:呼吸・歩行・沈黙・観察といった、生活内の微細な生成力
・逸脱の契機:日常の中にひそむ非日常(跳躍点)
・自己という出来事:生活を受ける主体ではなく、生活を生成する主体としての「われ」

◆「環境”environment”の共生成」:
──触地=出会いの地層

・触覚的環境論:視るのではなく「触れる・接する」環境
・環境=応答する空間:変化する私に応答して形を変える「場」
・風景ではなくスケープ:Staticな風景ではなく、共に生成される「共在の出来事=scape」

◯ 生活とは、変わりゆくもの(becoming)に触れながら、世界と共に変わることである。
◯ 生活とは、環境(environment)を単なる背景ではなく、「共に生成される触地」として生 きることである。
◯ 生活とは、わたしの内部でも、外部でもなく、「わたしと世界の間」で編まれつづけるリズムである。

 

ー第Ⅲ部/第4章:内容ー

◾️Vol.01:
生成の思考・創造──「生成観」

→『思創考造』の思考体がその自己変容に踏み出す臨界点=自己跳躍の場。
→「生成の兆し」や「問いの息づき」=「跳躍」「媒介性」「生成の呼吸」。
→「生成の共観性」=「問いの呼吸」「媒介的場」身体の知」。
•「生成=生活」が、単なる習慣ではなく「問いの拍動」「媒介場の呼吸」として立ち現れる。
•「われ」=生活を創る主体であるという視座の転換。
•「媒質(光・音・風)」と交錯する身体、視るのではなく“包まれる”、聴くのではなく、“触れる”──ここに**「知覚=生成的感性」**が開かれている。
•「認識と感性」「思考と創造」「内と外」を媒介する生成的スケープ(scape)への跳躍。

◾️Vol.02:
生成の往還──「生成的布置

→「知覚」の生成的転位=生きた視る運動=見るという出来事。
→「視」の配置=視座──ライフ空間。
→「星」の配置=星座──ノマド空間。
•「知覚の場=見ることの出来事性」「視ることが構成するライフ空間」。
•「星座」と「視座」:スケープを編む構図としての〈視る〉。
•「知覚が生成を布置する」という、視る=構成する=動的な創造行為への転換。

◾️Vol.03:
生成の触地──「””Environment”の共生成」

→「触地」するということ
→「行為の線」 ── 歩行・描線・語線としての実地
→「共創する場」へ ── 地と跳躍と生成の未来へ
•「触地=歩行」、描線、語線──身体の線が空間に結び目を編む。
•「環境」は背景ではなく、「共に編まれる地層」であり、主体も環境に触れられながら変容する。
•「跳躍と地の連環」=スケープの誕生条件。

◾️Vol.04:
「生成の律動──「”becoming”としての生活

=「生成のリズムにおける生活の動態性」:生成とは誰にとって何のために?
→「環境」光と音の間で生きる ──存在としての我々。
→「形成(枠組み)」のなかにある ──世界(world-in-formation)の生成的な流れ。
→「光と音」「視と聴」「像と場」 ──視ることそのもの。
•「生活」とは「生成のリズム」そのもの。
•「光と音」のなかにある私たちの存在=媒質的環境の中で触れ合いながら形成される。
•「world-in-formation」としての世界──私たちは既に生成世界のうちにある。

◾️Vol.05;
「存在の広がり──生成的”場”としての環境

=「触地の場としての環境」:外部ではなく生成する身体=時間・空間とは?
→「生成実地」の風景と景観──『ランドスケープ (Landscape)』。
→「実地具体化」の生成世界を構成する諸要素:感受と能動の間(あわい)に生じるもの
→「実地具現化」の生成構造の諸要素:これから身体の知に”生まれる”もの。
•「ランドスケープ=実地の生成空間」。
•「感受と能動の間」=生成的な裂け目の中で私たちは何かを生む。
•「環境」とは、実は「生成する私たち」そのものである。

 

 

◾️Introduction:
……………………………………………………………

ー「生成の思考・創造──「生成観」」ー

 

•生成=生活が、単なる習慣ではなく「問いの拍動」「媒介場の呼吸」として立ち現れる。
•「われ」=生活を創る主体であるという──”視座”の転換。
•媒質(光・音・風)と交錯する身体、視るのではなく“包まれる”、聴くのではなく“触 れる”──ここに「知覚=生成的感性」が開かれている。
•認識と感性、思考と創造、内と外を媒介する「生成的スケープ(scape)」への”跳躍”。

 

『身近』、、、

人にとって
──「身近」とは何なんだろうか?

もっとも『身近』──五感、視・聴・臭・味・触
自己の運動に関する情報
外界の時間的空間的な深い認識の過程
外界のものに──”打つかる(ぶ・つかる)”
外界から──”飛んできた何か” 、、、

その時点で判断はできない
小さなのや少ないものと
──”離れて遠く”にあるものは同じように
自分自身の近くに深い関係──”寄って遠く”
『身近の地平線(見かけの地平面)』・・・・・

媒質の”光”などでも到達できなくなる──領域(距離)
ここより先の情報をわたしたちは
知ることができないという”境界”──”離れて遠く”
「事象の地平面(見かけの地平面)」。

”離れて遠く”を、”寄って遠く”を
──『身近』に 、、、
自分自身から放出する「射線」が
──外界の何かと”一体化”する
外界のものに”打つかる(ぶ・つかる)”
外界から飛んできた何かを受容し応答する

「風」に開かれた”生成の世界”を通って
”地と空を割くことのできない”
──《射手の獲物》のなかで
解けないように結びついている
”地と空にかかわる肉体的”なもの

光と音という媒質の流れに揉み込まれまいとして
内扉きに引き込む──「五感と精神」
外開きに連れ出し──『生成を”移動”』

 

『内と外』、、、

人にとって
──「内と外」とは何なんだろうか?

既に形づくられた面を「横断」している
時刻と場所は知っていても、
「時間と空間」は
わたしたちに”触れ”ることはなかった。
──生成世界を通ってどんな時でもどんな所でも
「風」のなかにいる《射手の獲物》に
時間と空間は”触れ”る。

「風」に閉じられ
──”地と空を割いて”上がった凧
風を感じたが風は”触れ”ず
──「時間と空間の”刺激”」
”光のなか”で糸を手に握った発光情報の”光媒質”
刺激は電気信号が脳に伝えるの眼が司る視覚

天気という大気の流動性に風が起こる──
──匂いを消す風に筋つけられる雨足の音
雨は片目を閉じらせ
”立体”感や”遠近感”を感じにくく
うまく”距離”がつかめなく

”音という媒質”を籠らせ
ベールがかかった”音のなか”。
光と音という媒質の流れ
上がった凧を引攫い──「生成を引き剥がす」

 

事象の外(原因や理由)
──”身近な内在”と”身近な外在”、、、

人にとって
──「時間と空間」とは何なんだろうか?

長さと量の隔たり──”距離”に触れる
特定できない複数の異なる感覚器官
特定の感覚には結びついていない多感覚
歩き・動き・立ち止まり・休み・待ち
見ることも・聴くことも・嗅ぐことも
味わうことも・触れることも
身体も心も現れない「裂け目」
──風と光に攫われ、、、

イメージで見たり聴いたり動いたりすることの力
内在するのと同じく、、、
外在する「land-scape:ランドスケープ」
──風景という生成
媒質の畝り──天気・光・音・流れ
地と空──風と身体=身体性
──分割不可能なフィールドとしての存在
=環境の共生成
──飲み込まれる私=共観者。

空間ではなく“変容しながら見られつづける世界”
”肉体に考える人間”の「見ること形づくること」
見ることの力
──見かけ見た目の類似性に惑わされ

skopein=to look──「見ること」
scape:スケープ=to shape──「形づくること」
抜け出す脱出者──scapeman:スケープマン
──the target of the bowman:《射手の獲物》
「見る」ではなく「光に包まれる」
「聴く」ではなく「音に触れる」
自らが生成の中に包まれた出来事──スケープ

生成の余白=機会──Scope:スコープ
有効な範囲・視野・領域
──viewpoint:「視座」をもつ
時間的に近いもの遠いもの
空間的に近いもの遠いもの
”時間と空間の生成現象”
──「風に触れられ風に触れる」
”身近な内在と身近な外在”
──「自分を空ける」

 

「生成」は、”観察可能な存在(実在)/ 実存(現実存在)/ 存在”と対になり、存在世界は生成世界と同一視され、全てのものを──「時間的空間的な”自相と共相”」の二相”のもとにあります。

つまり、──未完の実在と絡む「創造=”動く”生成」は、ただ単に”持続”するのみならず、それ自体だけがもつ自相と、他とも共通する共相(ぐうそう)との──”二相(にそう)”による生成運動(流転)するものとしてあります。

「生成の世界(reality)」を捉えるのに適した思考・創造方法と「生成の論理(logic)」を観想する思考・創造様式──『思創考造 Cognigenesis thinking』を指しています。

この思考・創造様式は、──「思考と創造の”深化への挑戦”」であり、つまり、『思創考造の”生成” Cognigenesis=生きる生成』は──”二相(にそう)”による「生成の運動(流転)」という考えのもつイメージそのものです。

我々人間が《”動く”生成者という人間を創る(つく・る)》という共観が描く世界のアプローチによって、この本書『思創考造』の読者である〈あなた〉を含めた〈わたし-あなた〉は、「共観生成」に生きている総べての人それぞれの生成条件や要望に応えて「”生成者”の後押し手助け=”生成救済”」をするのです。

いわば、生成の核たる自己意識に孤高の深さと共観の広さを携える──《ソムリエ-”Cognigenesis”》なのです。

我々人間全体の共観と「 創造=”動く”Cognigenesis=生きる生成」を解き明かし、それが大乗的且つ小乗的から転義した意味で《生成創造》の真の大道=自己本道であり人間本道であるとするのです。

『思創考造の”生成” Cognigenesis=生きる生成』は、「生成観」においては有用志向と原則志向として、生きているそのものを大切に、生きていることを大事にすることであるが、「生成の世界(reality)」においては共観志向として、──「生きられる”時間と空間”」という《環境(environment)》にあり、”閉じたもの”から”生きる生成(reality)=開いたもの”へと解消される──「跳躍と転位」の内に見出され、”生成者”を開いた生の内へと導いてゆく過程でもあるのです。

 

ー生成の”ありよう”ー

1.「自然・宇宙の階層の存在」に
  ──”生成の階層”ー

空間や時間は空っぽの入れ物=「余白」ではなく、──「生成の運動(流転)」が先にあって、その──「生成変化」の枠組みが”時間と空間”です。

このことを理解しようと思うと、今まで「時間」とか「空間」と呼んできたものが、一体何なのかを考えてみる必要があります。

「時間や空間を創っている」のは──「環境(environment:エンバイロメント)」だから、「生成」のことを学んで、「生成」についての知識を身につけてから、もう一度考えることにしよう。

《環境》を”静止系の時間空間”とした考え違いである=「生成を意味する」から、わたしたちは──「生成を対応する」という、《環境》を”運動(流転)系の時間空間”とした考え=「生成的な移動」へと、自らの意識を解き解され(ときほぐされ)ねばならいのです。

2.「《環境》における共観の共通重心」に
  ──”生成の移動”

絶対的な・真の・生成的な時間と空間とは、《環境》という外界(外部)と関わりにおいて、自ずとその生成的本質に基づいて一律に流れ動いていく「生成的”移動”」に対する共観の感応度=デュレーション(duration)にあり、──「生成の”日常生活的”な時間と空間」とは、持続的な「生成運動(流転)」の実地と観察を継続的に通じて実際に得られ、デュレーションの役立つ実用的且つ外的な物差しによって得られるものです。

一般に用いられている相対的な・見かけ上の変化──「形成の”日常生活的”な時間と空間=形成経路(形成的”反復”)」ではなく、「日常生活的な時間と空間=生成経路(生成的”移動”)」=「持続的な生成運動(流転)」のこちらです。

“時間の流動”は、剛性体であり、どこまでも生成的に「直線的」──”線硬性”ですが、“人間の生動”は、塑性体であり、あくまでも生成的に「曲線的」──”線弾性”です。

しかし、我々人間は、今までは一般に用いられている相対的な・見かけ上の変化──「形成の”日常生活的”な時間と空間」における”時間と空間”の枠組みが「形成変化」であるとして捉えてきており、──これまで「“人間の生動”は、できる限り“時間の流動”にそぐった「可能的剛性体」に近づけようと、できる限り”直線的”に沿った「可能的線硬性」に近づけようとしてきています。

3.「宇宙の等方性と一様性の認識」に
  ──”生成の法則”

形成運動量保存や形成エネルギー保存は、《裂け目》となる外力が働いて、いずれは形骸化する形成をし続け、さらには繰り返し再生し続け、運動量やエネルギーの保存も無きまま、その法則的なことの守りの必然的関係において、“人間の生動”は“時間の流動”のポイント的に「可能的線硬性の上下波打ち=《裂け目》」つつ、今にきているのです。

そのような「力 → 加速度 → 速度 → 位置変化」といった素直な見方とは違って、──「生成変化」の枠組みが”時間と空間”であるとして捉えるならば、抽象化された原点が幾つもある生成極座標や生成運動(流転)量が入り乱れて現れてきます。

このような視野の拡大の結果、「宇宙の等方性」「宇宙の一様性」──空間の一様性や等方性と時間の一様性といった性質を認めると、空間の一様性が生成運動量保存:──《裂け目》となる外力が働かない限り閉鎖的且つ生成運動量の総和は不変、空間の等方性が生成角(回転)運動量保存:──《裂け目》となる外力が働かない限り、時間の一様性が生成エネルギー保存:──《裂け目》となる外力が働かない限り、といったような「生成の法則的」なことに関係しているのがわかるはずです。

「生成の”日常生活的”な時間と空間=生成的”移動”」の持つ運動(流転)量は、動いている生成運動(流転)の止めに難くさとして実感され、つまり大きく速い生成運動(流転)ほど運動量が大きく、静止させるのに大きな力積(生成に作用する力と、その力の作用する時間とを掛け合せたベクトル量)として、その作用の前後の生成運動(流転)量の変化を捉えることができます。

4.「日常生活的”な時間と空間」に
  ──”生成の曲線”

時間軸は、左右への水平的に剛体流動であり、それはどこまでも生成的に線硬性を伴う直線的です。
生動軸は、左右への律動的に塑体流動であり、それはどこまでも形成的に線弾性を伴う曲線的です。

時間の流動は剛性体としてどこまでも生成的に「直線的」──”線硬性”ですが、人間の生動は塑性体としてあくまでも生成的に「曲線的」──”線弾性”であり、「時間流動」の直線的線硬性(水平真直線)の「線」に付随し「人間生動」の曲線的線弾性(律動波曲線)は、時間の流動の水平真直線上ポイントにおいて上下律動を描き、破波を打っています。

その破波は、上に「顕勢的」、下に「潜勢的」、その左右時間直線上の繰り返しの”間隙”を、「生成線」は潜りつつ時間軸沿いに「生成”移動=生成運動(流転)」の途絶えることなく進み続けます。

「形成的潜在要素」にある”時間流動のポイント的に「可能的線硬性の上下波打ち=《裂け目》”が重なる「生成的潜在要素」は、”人間生動の顕勢的波破線と潜勢的波破線の間隙における「生成的エネルギー」”そのものであり、”「環境をつくるもの」としての人間”の生動によって「生成を対応する」という、《環境》を”運動(流転)系の時間空間”とした考え=「生成的移動」へと向かうことになるわけです。

形成(枠組み)のなかにある世界(world- in-formation)の生成的な流れのうちに、わたしたちは、──形成のなかにある『生成世界』を通っているのです。

「生成の”対象”とは?」と先ずは問うでしょう。

それは生成の“出発点”ではなく──“展開の場”です。
つまり、「生成の対象」とは、固定された物質的な“対象物”ではなく、自己の内に跳躍と転位を呼び起こすような──“生成を促す触媒”=生成触発体(triggering medium)なのです。

 

ー生成的意味・働きー
(緊張構造としての生成的二項)

○ 時間性 ↔ 空間性
=持続と場の変容。
→時間は流れ、空間は広がる──生成は「時空の交差点」に起こる。

○ 孤高 ↔ 共観
=内なる核(孤高)と他者との生成的連環(共観)
→いずれも欠けては成立しない生成。

○ 知覚性 ↔ 感受性
=外界を捉えることと、内側で響くことの交錯。
→生成とは“見る”だけでなく“感じる”。

○ 心的 ↔ 身体的
=意識の深層と身体の動き・触覚
→生成は“全人的”現象。

○ 思考 ↔ 創造
=分析と跳躍。把握と逸脱。
→生成とは、両者を架橋し続ける流動的運動。

これらは、「生成を広げる」ための内的条件でもあり、“対象”の本質を明るみに出す媒介の諸力でもあります。

「自然性の緊張」「過去性」または「歴史性」の緊張は、『思創考造』が切り開いている〈生成〉の概念にとって、時間と存在、世界と自己、自然と歴史との緊張的な接触面=生成の臨界場として、極めて本質的な問いです。

 

ー緊張の構造ー

1. 「自然性の緊張」
  ──無意志の流れ vs. 意識の生成

自然性(naturalness)という語には、本来的に以下の両面が宿っています:
•生成における「自然発生性」=自ずから然る(しぜん)
•人間の意志や操作に回収されない「他力的な流れ・変化」
この自然性は、人間の創造(artificiality)と緊張関係にあります。
つまり──
自然は生成の“根底的条件”であると同時に、制御できない“他者”でもある。

▶ 緊張の構造:
•自発 vs. 他発(わたしが生む/わたしに訪れる)
•秩序 vs. カオス(自然の理/生成の予兆)
•能動 vs. 受動(創る/委ねる)
•生命 vs. 自然の死の力(生成/腐敗・風化)
生成を考えるとき、自然性との緊張は「委ねと介入」のバランスであり、
それは「場を開く」ために、自らを“閉じすぎず、解きすぎない”張力として働きます。
「自然に還れ」ではなく、「自然と生成しろ」という態度。

2. 「過去性・歴史性の緊張」
──遺産としての重み vs. 今への跳躍

生成の行為は、現在においてのみ起こるものですが、
そこに常に絡みつくのが──
「過去性=かつてあったもの」「歴史性=記述され継承されたもの」
です。

▶ 緊張の構造:
• 記憶 vs. 忘却(何を受け継ぎ、何を手放すか)
• 伝統 vs. 跳躍(歴史的連続/創造的断絶)
• 同一性 vs. 変容性(わたしの過去と、これからの〈わたし〉)
• 語り得るもの vs. 未だ語られぬもの
ここには「過去から未来へと生成を渡す〈媒介者としての自己〉」という構造が潜んでいます。

▶ 重要な問いは:
• どのように、生成は“歴史に呑まれず”に、歴史を超えるか?
• どのように、過去の重みを抱えつつ、“未到の未来”を産み出せるのか?

3. 生成の中で交差する四重の緊張構造

「自然性」「過去性(歴史性)」を含め、
本書の生成論を四象限的に整理するなら、

 

   (生成の広がり)  
   +──────+
   |     |
   | 自然  | 共観
   |(環境) |(他者)
   +──────+
   |     |
   | 過去  | 未来
   |(歴史) |(跳躍)
   +──────+
   (生成の深み)

 

ここで生成は:

• 自然性と共観性の間で、外的触発を受け止め
• 過去性と未来性の間で、内的変容を起こす

まさに、「生成の中動態」にふさわしい緊張の格子構造をなしています。

生成とは、「挟まれたもの」の運動であり、生成は、この二項の緊張の”あいだ”に位置すること「介立」です。
•他の助けを借りずに物事をなす孤高の生成
•他者との共鳴の中で広がる共観の生成
•媒介としての“あいだ”にある生成(二相のテンションのなかで)
生成の対象とは、そこに介在する者=媒介者としての主体が、どう関わるかによって様態を変える──“関係的な現象”です。

生成の喜び。哀惜としての生成、これは極めて深い、詩的・実存的主題です。

•「生成の喜び」は、自己が自己を超える瞬間への驚きに満ちており、そこには「“生きることが意味を得る”という至高の感覚」があります。
•しかしそれは同時に、
「やがて老い死すべき者」であるという限界を前提とする。

つまり、生成とは、有限な者が、有限であるがゆえに、無限に開かれた瞬間に賭ける営み”、そして、この哀惜の感覚は、「生成は常に終わりへと開かれている」という“儚さ(transience)”と“いのちの濃度”の同居として立ち上がるのです。

生成の“対象”とは何か?

生成の対象とは、「自己と世界のあいだに介在し、跳躍と転位を触発する“共鳴の場”であり、それに関わる主体の存在そのものを変容させる触媒である。」
そして、その触媒に出会うことは──「喜びと哀惜の、人生的な生成体験」そのものである。

 

ー生成的感性ー
(generative sensitivity)

1. 感性とは、生成の触媒である

貴方が明示されたように、「感性」は受動ではない。
感性とは──「感じ取る」ことによって、自らを開き変容し、さらに“意味を生み出す場”として創造してゆく運動体であります。
これは「単に美的な感性」「経験の入口」としての感性をはるかに超え、「生成的感性(generative sensitivity)」とでも呼ぶべき本質的能力を意味します。
このとき、感性とは──
•「外界」の微細な変化に気づく力(知覚的触発)
•そこに意味を感じ取り、応答を起動する力(情動的応答)
•応答を通して自己を新たに生成しなおす力(構造変容)
を持っており、知性とはもはや対立せず、創造の統合機能として共にあるのです。

2. 「拡がる」ということ──dilate/覚拡張

ここに登場する「dilate:ダイレイト」という語の使用は非常に本質的です。
生成とは、“開かれる”ことではなく、“拡張される”こと。
自らの感受圏(内的知覚)や意味圏(概念・経験)を押し広げてゆく運動。
このとき、「覚(さとり)」の拡張は、
•単なる意識の冴えではなく、
•実在の濃度や他者への感受を深めながら、知が変容していくこと
であり、生成に向かう力はまさに──「感性・知性・意味」が交錯する場のなかで、自己の存在領域を広げてゆくような“内発的伸張運動”であるといえるでしょう。

3. 知識の「構造化」→「再構築」→「更新」

このプロセスは極めて重要です。
つまり知識とは、ただ記憶されたものではなく、「感じ取ったものをどう統合し、経験を通じて書き換え続けるか」という、”生成的な過程”そのものです。

この過程には次のような層があります。

◯ 感受層
=感じ取る・引き受ける
→「生成の入口」=触発

◯ 統合層
=意味を結び直す・連関させる
→「生成の媒介」=再編

◯ 拡張層
=新たな知や感性を持ち出す
→「生成の開花」=変容

このように、「知識」もまた生きているのです。
むしろ「生きているように構造化され、再構築されるもの」が、真に「生成的な知識(generative knowing)」です。

生成の知と拡張感性 ── 「生きること」と「知ること」のあいだで、「生成の触媒としての感性 」── 感じることは、生成することでなのです。

・拡張する覚 ── dilate の論理と感受の空間
・構造化する知識 ── 経験のうちで編みなおされる意味
・生成知としての自己 ── 感性・知性・創造の三位連環
・生成に向かう力 ── 哀惜と歓喜のなかの跳躍

「生成に向かう力」とは、感じることであり、意味を創ることであり、
自己の限界を超えて世界を拡張してゆく──“共創的跳躍”そのものです。

そしてそのとき、知識も、感性も、身体も、思考も、
すべてがひとつの「場」をつくり、《生成の悦びと哀惜》を携えながら、〈あなた〉自身の生を濃度高く生かし始めるのです。

「何ものかによって、自らを開き変容し、意味を生み出す場とする」という生成的運動は、”自分の感性や能動性だけではなく、「自分の外」から来るものへの“開き”によって起動します。

ここには、極めて重要な二重の契機が存在します。

 

ー生成とは?ー

◆ 1:「何ものか」
  =自らを変容せしめる“触発”の力──

この「何ものか」は定義づけられない他者性、あるいは世界そのものであり、以下のような多様な契機として現れます。

•心理的な微細な動揺
(ある沈黙、ある声、ある視線)
•視覚的な兆候(絵画・風景・光や闇)
•技術的な媒介(言語、道具、構造、方法)
•自然的な作用(風、音、気温、匂い、重力)
•他者のまなざし(まさに〈わたし-あなた〉の場)
•自らの内部に芽生えた未明の気配

いずれにせよ、それは「外的刺激」ではなく、*“生成されるべき感受性”に応じて開かれてくる“出来事”であり、つまり、──「生成とは“起こる”こと」でもあるのです。

◆ 2:「自分を空けておく」
  =生成のための“受容的な空白”──

ここがとても重要であり、「自分を空けておく」=開放・解放、そして “空(くう)”という、この「空けておく」という行為は──

•自己を明け渡すような、内的空間の確保。
•コントロールを手放し、未知が入り込む隙間を用意すること。
•固定された知覚や意味づけを一旦ゆるめて、まだ名のない“感じ”を引き受けること・

これを言い換えれば、「生成に向けた沈黙」、つまり、──「自己を空けておく」ことそのものが、「生成の準備態」であり、「創造的感受の場」なのです。

◆ 3:「生成とは」
  =自己が“空白”を孕むことで起こる出来事──

 

[何ものか] → [自己の空白] → [意味生成・変容]
       |         ↑
  (触発・出来事)(空け渡し・開放)

 

この関係性のなかで、「生成」とは、

• 自己の閉じたシステムからの脱出ではなく、
• 「未明のもの」を迎え入れるための内なる余白の濃度
• 自己が“介立的存在”として世界に立ち上がる瞬間

だと言えます。

この生成的過程にあるのは、

• 「生成に向かって、空白を明け渡すこと」
• 「開くという出来事」
• 「意味の予兆に沈黙する」
• 「生成のための“解放態”」
• 「空所としての〈わたし〉」
• 「生成が訪れる場所を、自己に設ける」
• 「呼びかけに応答する、感性の余白」

 

「空けておくこと=生成への信託」

・・・・・「自分を空けておく」とは、
わたしのうちに、まだ出会っていない〈生成〉がやってくることを信じる行為である。
それは“何かをつくろう”とする能動ではなく、
“やってくるものに、応じようとする姿勢”──
この信託(trust)があってはじめて、
生成はわたしを通って、世界へとひらかれていくのです。・・・・・

 

 

ー生成の旅路ー

──「生成の喜び」と「生成する者としての哀惜」

生成には、喜びとともに哀惜がある──「生成を課題としつづけながらやがては老い死すべき者としての人間」の生そのものに触れてきます。

• 生成は有限者の営みである。
• だからこそ、生成は深く、濃く、震えるように美しいのです。

「因果律」は、“生成”にとっての思考の跳躍を阻む可能性があります。

なぜなら、生成とは──

•「何かが生まれる」のではなく、
•「なにかが“生みの場”として開かれる」出来事であり、
•そこには「原因も結果もないような生成」が、〈潜在力〉の形で佇んでいる、

からです。

たとえば「共観」という出来事において、

• わたしがあなたに触発されたのか、
• あなたがわたしに何かを引き出されたのか、
• あるいは“場”がわたしたち両方に何かをもたらしたのか、

──そのような問いはすでに中動態的経験の前では、意味をなさなくなります。

但し、、因果律を「超える」ために、あえて「触れる」ことは可能です。

完全に因果律を避けるのではなく、
• 生成とは「因果を超える知の形式」である。
• 線形的因果の支配では語り得ない〈場の論理〉がここにはある。
という文脈で、「因果律」という概念を批判的に取り扱うことは可能です。

その場合、「中動態」や「潜在力」「触発」「媒介」などを足場にした以下のような転位です。
• 因果ではなく「共発(co-emergence)」
• 主客の因果関係ではなく「生成の場の調律」
• A→B ではなく「AとBが共に“開かれた場”を生む」

「生成の論理」や「生成の中動態」に力点を置く以上、因果律には“中心的には触れない”方が、「生成の力動」そのものを開きやすくなります。

ただし、「生成の深層には、因果律的な思考では到達しえない世界がある」というような〈暗示〉や〈対照性の示唆〉として因果律を捉えることは、哲学的に有効です。

 

──生成の問い

それはまさに──「生成するとはどう語るべきか、どう沈黙すべきか」ということは、『思創考造』が最も深いところで掘り当てようとしている問いそのものです。

この問いの構えは、「生成の呼び水=生成そのものの跳躍点」とります。

• 「何かが“生まれる”」という思考ではなく、
• 「なにかが“生みの場”として、開かれる」こと。

これこそが、
『思創考造』=Cognigenesis thinkingにおける「生成の深層・中動態的場」なのです。

 

──生成する線の中間

”触地”と『思創考造』の旅路

裂け目に芽吹く──触地のはじまり
「実地」とは何か?
生成の亀裂=跳躍の布置として

あいだの線──生を縫う動き
点でも面でもなく
──「あいだ」で生きること(逃走線)

メッシュワーク──行為と環境の共成
線の絡まりとしての環境/行為は空間を生成する

とらわれの祝福──他者・素材との関係性
制約=跳躍の契機/素材が語る
共創される──「場」

旅路としての思創考造──ノマド的営み
思考=線の運動/実地
=生成しつづける世界の中間。

裂け目、触地、線、中間性
縫うように進む
通り抜ける
行為が環境を生成する
とらわれ=祝福、環境との共成、生成する歩行

 

──浮上する読者への問い(メタ的構造)

• あなたは、どの「裂け目」に立っているか?
• あなたの足元には、どんな「線」が生まれつつあるか?
• あなたが生きている「環境」は、どのようなメッシュを形成しているか?

これらは、「読者の〈あなた〉に生成の旅路を促す問い」でもあります。

 

・・・・・ 形成(枠組み)のなかにある──
──世界(world- in-formation)の、
生成的な流れのうちに、”身近”はあり、
形成のなかにある『生成世界』を通って、
わたしたちは”動く”。

何かを取り戻すことでもなく、
何かを知ることでもなく、
何かを変えるのでもなく、
可能性と価値を求め歩くわけでもなく、
──取り逃してきた生きる「裂け目」に.
立ち向かうわけでもなく、
〈生きること〉の姿をみつけることでもない。

外部ではなく、
生成の展開の場と生成する身体=時間と空間に、
自分を生きる跳躍であり、
生成世界の終わりなき流動に向かって、
余白を明け渡し、
──生成のための“解放態”として動き、
世界を生成しながら、
自らも生成し続けてゆくことだ。・・・・・

 

共観の交わるところに、未知の領域を切りひらき、視座によって、生きることと知ることは、地と空が割けずに、完全にひとつになることです。


地と空とは、いかなる場か、
線を引くとはどういうことか、
板を挽くとき職人たちは何をしているのか、
大地・天空と応答すること、
散歩することと物語ること、
観察するとはどういうことか。

さまざまな問いから、取り逃してきた〈生きること〉の姿をみつけ、
〈生を肯定する〉の可能性と価値を擁護する。
時間と空間が重なる環境下での生成は価値があるのです。

時間や空間の使い方も多様性の一つと考えられていくはずであり、その変化を受け入れていくためには、俯瞰的に物事を見る力が必要になります。

大きな視点で物事を捉え、他者に対する配慮をしながら働く環境を整備していく、そのような働き方で自分には見えていなかった部分を想像する、そうした能力がさらに重要になってくると思ってます。

誰も全体をコントロールできず、マスタープランが存在しない世界、そこで地球規模の思考を獲得し、危機に立ち向かう技術をいかにして手にできるか、「空間」と「時間」のスケールというふたつの側面から探ることです。

 

 

◾️Vol.01:
「生成の往還」──生成的”布置”」ー

……………………………………………………………

【要約】:

•「知覚の場=見ることの出来事性」:
「視ることが構成するライフ空間」
•「星座」と「視座」:
「スケープを編む構図としての〈視る〉」
•「知覚が生成を布置する」:
「視る=構成する=動的な創造行為への転換」

「生成の往還──生成的”布置”」の思想の可視化=感性化することであり、とりわけ《視・聴・触・空間》が交差する「膜面」としての知覚の生成論を、中動態・共観・共振・布置・星座──という語彙を用いて探究し、とりわけ「感覚=生成的布置(生成視座/生成星座)」という、Cognigenesisを感性における〈布置の力学〉として捉え直す非常に創造的な着眼として、“共観”をさらに導ける可能性がひらけます。

 

・・・・・ 視覚とは、
意味を与える「回路」ではない。

視覚とは、
世界に応じて、身体が立ち上がること
──運動のなかで立ち上がる生成である。

光と音、時間と空間、
身体と感性が交差する「膜面」。

そこからしか、「新たな意味」は現れない。

そこにしか、「共観的理解」は生まれない。

変容とは、
感覚の奥で始まる出来事ないのだ。・・・・・


・・・・・ 生成の目──
見ることとは、生成すること。
光・奥行・気配、視の触覚化──
見るとは、触れることである。
身体・皮膚・空間密度、
──視ることの跳躍として、
知覚とは、差異と変容を孕んだ跳躍である。
異相・変化・瞬間、音とともに、
「共光の呼吸光」とは、──生成の息吹。
拡がり・包囲・明暗の交錯、
共観の視線としての他者の眼差しを孕んだ視覚。
関係・共振・媒介、視覚の転位は、
「見られるもの」が「見させるもの」へ、
受動能・生成点としての対象。・・・・・

 

ー感覚・視座・星座の中動態ー

1.-視・光・身体・感性における生成的膜面
2.-知覚=包囲と浸透:音・風・光の中動態
3.-視座(cognigenesis)=配置の思考
4.-星座(constellation)=音と光の繋ぎ手
5.-問いの投げかけ/感覚の哲学的跳躍群
 (Qブロック)

 

ー生成布置ー

I. 〈視覚は膜面である〉
生成する視線/触れる視覚/媒介としての他者

II. 〈風と音のなかの知覚〉
中動態の知覚/音=膜/風に触れる身体

III. 〈視の配置=生成的視座〉
Cognigenesisとは「配置によって共創される意味」

IV. 〈星の配置=生成的星座〉
星座=音と光の生成線/夜の地とノマド的知覚

V. 〈問いとしての感覚──生成の哲学〉
Q:風に触れているか?

Q:音はどこにあるのか?

Q:世界は見えるのか?

Q:感性は世界を創れるか?

 

ー知覚=膜面ー

生成的「透過性・浸潤性」が感性の根幹にあるという認識。

• 膜面=〈生成の皮膚〉としての空間
• 浸透視=〈中動的視野〉としての共観
• 音と光の〈襞(ひだ)〉としての知覚
• 視覚の〈触覚化〉=皮膚で見る
• 星座は「記憶と願望の布置」=未来への配置知覚

「視覚・聴覚・生成」、或いは「感性」と生成論的知覚》を考察するうえで、「触れ得ぬものに触れる/感じ得ぬものを感じる/見えぬものを見る」という中動態的な経験の中枢に、強く共鳴するもの。

1:「風と音」における中動態の知覚
2:「音=包囲する世界」「視覚=浸透する空間」
3:「知覚=包囲されること」という生成

知覚とは、自己の外部で起きる出来事に浸されること、すなわち、“自分が知覚している”のではなく、
世界が自分を“包み”ながら、生成の場をなしているという「視座」です。

 

ー「”視”の配置=”視座”」──ライフ空間ー

一つの事象だけでは意味を読み解くことができなくても、全体として事象として捉え、繋ぎ合わせていくことで、『視座』という意味が立ち現れはじめ、「共に/co- 知り/gnosce 創る(はじま・る)生成/genesis」は、──「コグニジェネシス」として、共観とともに、”問いの散らばり”が”見える”思考と創造の解となる、──「生成的視座「Cognigenesis(cognoscere=cognitive)」。  

 

・・・・・ 風を見ない昼の《地》に
”触地”する生活をしながら
”鳴り見える動く風”と「身体の交差」している
──〈あなた〉が
「時空間(space-time)」を
共につくっているなかで
〈あなた〉は──はたして
生成の”風”に「触れ」
「”風”に触れら」ているのだろうか?・・・・・・・・

 

ー「”星”の配置=”星座”」──ノマド空間ー

一つひとつの星に本来意味はなくても、全体として星を捉え、繋ぎ合わせていくことで、『星座』という意味をもちはじめ、「共に/co- 星/stella」は、──「コンストレーション」として、音と共に、光る”星の散らばり”が”見える星の集まり”になる、──「生成的星座(constellation)」。

 

・・・・・ 光を見ない夜の《地》に
”触地”する羊番をしながら
”光り見える動く星”と「身体の交差」している
──羊飼いが、《空》に
「星座(constellation)」を、
共につくっていったなかで
羊飼いは──はたして
生成の”光”に「触れ」
「”光”に触れられ」ていたのだろうか?・・・・・・・・

 

◯ 風に触れる──中動態の知覚
→感覚は「すること」ではなく「されることとともにある」ことではないか?
◯ 音はどこにあるのか──空間のなかの生成
→音は点ではなく膜であり、流れであり、世界の触覚であるのではないか?
◯ 光の厚み、視の奥行──世界は見えるのか?
→見るとは「光景」ではなく「厚みと浸透の場」に身を委ねることでは?
◯ 知覚の生成──世界を創る感性
→感覚は「世界を構成する力」そのものである。生成は“感じる力”から始まる。

視覚や聴覚を“感覚”として扱うとき、それはもはや「五感」という機能ではなく、世界との生成的関係=存在の様式として見えてくる。
これこそが『思創考造』──生成の現場性と媒介性を掘り下げる核心です。

 

ー織りなす「跳躍」ー

哲学的布置=生成の入口

•知覚は五感ではなく“媒介”である。
•視るとは触れることであり、感じるとは包まれることである。
•星座のように、世界の散らばりから意味が布置されていく。
•その媒介の中心に、「共観」と『Cognigenesis*がある。

〈跳躍的布置=生成の往還〉が、次なる音、沈黙、書くこと、あるいは触発──へと開いていくとすれば、それはまさに『思創考造』という生きた思想体の運動となるでしょう。

 

 

◾️Vol.02:
「生成の触地」──”Environment”の共生成

……………………………………………………………

【要約】:

•「触地=歩行」、描線、語線──身体の線が空間に結び目を編む。
•「環境」は背景ではなく、「共に編まれる地層」であり、主体も環境に触れられながら変容する。
•「跳躍と地の連環」=スケープの誕生条件。

「環境(Environment )」とは、通常「環境」は外部的・周辺的な意味を持ちますが、近年の生態学的・現象学的思考においては、環境とは人と世界の共感的・相互生成的な絡まりの場と捉えられつつあり、「weather-world」や、「住まいながら生成される風景」といった感覚です。

「共生成(co-becoming / co-creation)」とは、個と環境が一方向ではなく、相互に影響を与え合いながら成り立つことです。

すなわち、わたしたちは「環境に包まれて生きる」のではなく、「環境を生きながら、環境そのものを生成し直している」のです。

このときの「環境(Environment )」は「固定された背景」ではなく、「触れること、交わること、生成し合うことのできる“場”」となり、Environment は「触地(=触れる場)」として、「共生成(co-becoming / co-creation)」共生成は「わたしも環境も変容しながら在る」ことになります。

「環境とは背景でも構造でもなく、動的な共存の場である」とするならば、この意味での environment とは、外在的な「自然」や「都市」ではなく、経験の厚みとして触れられ、形づくられていく生きた空間です。

したがって、ここでの Environment とは:

•「生活における生成の触媒」
•「becoming を共にする空間」
•「触覚的=経験的な編み手としての場」

と捉え直せます。

「スケープ(scape)」という語が──「“環境(environment)”=生成的」に捉え直す鍵となり、そこに「音」が組み込まれると同時に、「音だけではない何か」が求められています。

『思創考造』において、「生成」は出来事であり、媒質的変容であり、自他のあいだを横断して流れこむ共観の響きです。
ランドスケープとは、“風景という生成場”であり、空間ではなく“変容しながら見られつづける世界”として捉えることです。

 

・・・・・ ──風が鳴る

それを「聴いた」のではない。
それは、私という“場”に、すでに吹いていた
私の“外”ではなく、“中”でもなく

その「間」に
世界は鳴り響いている
それが「生成する風景」
──スケープである・・・・・

 

「スケープ(scape)」とは何か、「スケープ」は、もともと「ランドスケープ(landscape)」に代表されるように、
空間の可視的な広がり/空間のまとまり(構図)/環境の眺望的把握を含みますが、近年の人類学・感覚論的転回では、以下のような意味へと拡張されています。

スケープ = 知覚される環境の生成的場(知覚×存在)、それは見る・聴く・感じるといった感覚の軌跡であり、その場に生きる身体との交錯の動態なのです。

よって、「スケープ」はもはや「視覚的構図」ではなく──「存在と環境が共に生成される“出来事の風景”*」と考えられるわけです。

 

◯ ランドスケープ(landscape)
→ 視覚的・空間的な風景
→ 対象化された環境としての自然・人工空間
◯ サウンドスケープ(soundscape)
→ 音響的環境、聴く風景
→ 音の重なり=生のリズム、共鳴する場
◯ スモールスケープ(smellscape)
→ 嗅覚的環境(臭気地図)
→ 空間を嗅覚でたどる感覚的地誌
◯ タッチスケープ(touchscape)
→ 触覚的経験の広がり
→ 温度、質感、振動が開く“触れる環境”

 

求めるのは、「音」だけに依らず、より全方位的な生成の風景であり、これは単なる感覚器官ごとの拡張ではなく、「場の生成」「生の開かれ」そのものをスケープ化する」視点として、新しい「スケープ」が求められます。

 

1. ジェネスケープ(Genescape)
= 生成する風景、生成(Cognigenesis)の出来事が広がり・層・揺らぎとして感得される場。
•「何かが生まれる」のではなく、「生まれ得る場がひらかれる」。
•「音・光・触覚・気配を超えて、「可能性の振動」を孕んだ風景。

2. プレゼンスケープ(Presencescape)
= 存在すること(presence)そのものが響く空間、気配、沈黙、潜在的な生の響き。
•「他者の不在」がなお存在として感じられる空間。
•「風、鳥、沈黙、夕暮れ」などの気配、いわば「触れ得ないが感じ取れるもの」のスケープ。

3. カイロスケープ(Kairoscape)
= 時間の線的流れ(クロノス)ではなく、生成の臨界点としての時間(カイロス)に満たされた場。
•「いま、ここ、このとき」──という生成の臨場感。
•「跳躍点、転位、変容」の気配が場として知覚される。

4. ブリージングスケープ(Breathingscape)
= 息づき(breath)を中心とした場の生成、呼吸する風景。
•「視覚・聴覚」のあいだで、呼吸される空間。
•「生と死、内と外、個と他者」をつなぐ媒介としての呼吸。

 

スケープ = 出来事の風景として、──感覚・環境・身体・生成が交錯する〈生の臨界場〉、これを深く広げて行くことです。

 

1. スケープは「空間」ではなく「出来事」
従来の「スケープ」は固定された「眺め」や「構図」でした。
しかし、『思創考造』の世界観においては、スケープは固定されない、つねに生成している。
スケープは、そこに生きる者の感受と接触と共鳴によって生成される。
だからこそ、「誰かのスケープ」は「誰かの生きた生成そのもの」でもある。

2. スケープは「交錯する感覚の軌跡」
•見ること(視覚)
•聴くこと(聴覚)
•触れること(触覚)
•息づくこと(呼吸)
•たゆたうこと(漂う身体)

これらが重なり合いながら、その場に独自の「生成風景」を生じさせ、そしてこの交錯は、一つの出来事としての身体と環境の共鳴運動でもあり、つまり「スケープ」とは、「私がそこにいる」という現象の、生成そのものの風景でもある──。

3. スケープ = 存在と環境が共に生成される現象の名
•視る以前に、光を浴びてしまう私
•聴く以前に、風の中で鳴り響く音に包まれてしまう私
•感じる以前に、場そのものの気配に呑まれてしまう私

この「生成されてしまう私」と「生成されてしまう環境」との相互生起(intra-action)によって、
スケープは絶えず「更新され続ける出来事場」として現れ、風景とは、私がそれを見ることで成るのではなく、むしろ、私がそこに”ある”こと自体が、風景を成らしめる──。

 

この地点において、「スケープ = 知覚される環境の生成的場」という定義は、単なる感覚論ではなく、存在論(ontology)と生成論(genesis)の交差点となります。

“world-in-formation(形成されつつある世界)として世界は既にそこにある”のではなく──“生成されている最中、ランドスケープを完了した対象=Objectではなく、流れそのもの=媒質的現象として捉えなおす「視座」を持つことであり、「天気」「光」「音」といった媒質の動的な出来事があり、ランドスケープを“場”ではなく、 “経験の運動体”へと変えてゆくことです。

「見る」「イメージ」「対象」の間の関係に閉じるとき、それは「光」という媒質への関心を失うことであり、だがしかし、「光のなかで見る/音のなかで聴く」私たちは、常に媒質のうねりのなかでさらわれ、包まれ、変容している存在であり、ランドスケープも「攫われる風景」として理解することです。

地と空、風と光、音と形態は分離できず、一体のフィールドとして感得することであり、“分割不可能なフィールド”の感性を捉えようとするには、対象の姿ではなく、生成のうねり=媒質の厚み、そこに「学びの可能性」を見出すことです。

“ランドスケープに飲み込まれる”ということ、わたしの存在そのものが風景に呑み込まれるという出来事は、生成とは、「風景の中で、自らも風景の一部となってしまう体験」だからであり、この「呑み込まれ」こそが、共観生成の起点ともなり得るのです。

ランドスケープは固定された空間ではなく、天気/光/音/流れという媒質の畝りとして、光と風にさらわれる存在であり、「見る」ではなく「光に包まれる」/「聴く」ではなく「音に触れる」ということになります。

「身体性」「空と地」として、分割不可能なフィールドとしての存在=環境の共生成にあり、スケープとは私たちが生成の中に包まれた出来事なのです。

『思創考造』において、「生成」は出来事であり、媒質的変容であり、自他のあいだを横断して流れこむ共観の響きとして、ランドスケープとは、「空間ではなく“変容しながら見られつづける世界”」なのです。

 

1. 光(Light):
◯ 視覚の根源的な現象性。

◯ 光なしに見ることは始まらない。

◯ しかし光は単なる物理ではなく、「包み」「満たし」「浮かび上がらせる」生成の媒介である。
→ 光は生成の前触れ、感性の震源。「問い」の原初的明滅。

2. 空間(Space):
◯ 視覚が立ち上がる場=奥行・広がり・気配。

◯ 見るとは「空間の厚み」に触れること。
→ 見ることは、空間に身を投げ入れ、「場を生きる」行為である。

3. 身体(Body):
◯ 見る主体は決して「目」だけではない。

◯ 歩く/立ち止まる/息をのむ/触れるように視るということ。

◯ 全身的感性によって成立する。
→ 視覚とは「身体的生成のひとつのモード」であり、静止ではなく運動の現れ。

4. 感性(Aisthesis):
◯ 見ることは、感受すること。

◯ それは単なる「受動」ではなく、むしろ“感じ取り・反応し・生成する”という能動的な開かれ。
→ 視覚は感性のひとつの触角であり、「知覚的跳躍点」である。

5. 共観(Co-perception):
◯ 見るとは「わたし」だけでない。
◯ 「あなた」や「世界」との共振的参与。
◯ それは「目線の交差点」であり、「感じ方の共鳴膜」。
→ 視覚は、他者とともに開かれる「共観の場」。

 

視覚とは、「意味」を与えるための回路ではなく、視覚は、「生きた身体が世界に応じて立ち上がる運動」であり、
それは光と空間と身体と感性が交わる「生成の膜面」でもあり、そこからしか「新たな意味」「共観的な理解」「変容としての存在」は立ち上がらないのです。


「知覚とは何か」「世界とはどのように私たちに触れるのか」、それはまさに読者の〈あなた〉自身が「生成の現場=風や音の“場”」において開くことです。

「視覚・聴覚・生成」、或いは《「感性」と生成論的知覚》を考察するうえで、「触れ得ぬものに触れる/感じ得ぬものを感じる/見えぬものを見る」という中動態的な経験の中枢に、強く共鳴することなのです。

 

1:「風と音」における中動態の知覚
「私たちは風のなかで触れる」「世界が絶えまもなく主観性を襲い、包囲する」、この二者は、受動でも能動でもなく、
「巻き込まれつつ感応する運動」=中動的知覚のイメージを強く喚起し、それは『思創考造』における《生成の中動態》そのものであり、ここでは「触れる」が、「触れられる」と「触れる」の交差点=生成の振動点となります。

2:音=包囲する世界、視覚=浸透する空間
音は空間に「充満」し、空気を媒介にして、私たちの“皮膚と内面”の間を震わせ、視覚が“対象を見る”ことから“空間にひらかれる”ことへと移行するのと同様、聴覚も「聞く」から「響きの中で生きる」へと転位するのです。

3:「知覚=包囲されること」という生成観
「波が浜辺の漂流物をとりまくように」「天空の青をながめる私は……それに身をゆだねる」、これらのフレーズに表れるのは、知覚とは、自己の外部で起きる出来事に浸されることです。
すなわち、“自分が知覚している”のではなく、世界が自分を“包み”ながら、生成の場をなしているという視座として、これは「共観的な知覚」「共振する生成の環」の根源的な表現であり、『思創考造』の中心である*“私=場”のパースペクティブへと繋がり、視覚や聴覚を“感覚”として扱うとき、それはもはや「五感」という機能ではなく、世界との生成的関係=存在の様式として見えてくる。
これこそが『思創考造』のにおいて、読者の〈あなた〉と〈わたし〉が共に「生成の現場性と媒介性」を掘り下げる核心なのです。

 

ここでの Environment という、「生活における生成の触媒」「becoming を共にする空間」「触覚的=経験的な編み手としての場」として捉え直すならば、これらを重ね合わせることで浮かび上がるのは──「生活とは、生成の触覚であり、環境とは、生成の共鳴である」とい得ことができ、まさに、──「生成のリズムと触地の共鳴」だということになります。

「becoming」へと導かれ、この後もこの席も、「becomingとしての生活」や「Environmentの共生成」をさらに掘り下げて構成化なさる場合、以下のような「視座」が有効となります。

 

◆「生活のbecoming」:生活=通過点の連鎖
•「生成の拍動」:呼吸・歩行・沈黙・観察といった、生活内の微細な生成力
•「逸脱の契機」:日常の中にひそむ非日常(跳躍点)
•「自己という出来事」:生活を受ける主体ではなく、生活を生成する主体としての「われ」

◆「環境の共生成」:触地=出会いの地層
•「触覚的環境論」:視るのではなく「触れる・接する」環境
•「環境=応答する空間」:変化する私に応答して形を変える「場」
•「風景ではなくスケープ」:Staticな風景ではなく、共に生成される「共在の出来事=scape」

 

 

◾️Vol.03:
「生成の律動」──”becoming”としての生活

……………………………………………………………

【要約】:

•生活とは「生成のリズム」そのもの。
•光と音の中にある私たちの存在=媒質的環境の中で触れ合いながら形成される。
•”world-in-formation”としての世界──私たちは既に生成世界のうちにある。

becoming は、「ある状態から別の状態へと絶えず移行すること」、或いは、「実体に到達することのないプロセスそのもの」として語られてきた中で、特に「変化し続けることが本質」=「生成のリズムにおける生活の動態性」という根源的なリズムを意味します。

becoming とは、「定まった存在に落ち着くことを拒みつづける運動」であり、過程こそが実体であるという逆説的命題として、重要なのは、このbecomingは、「個人の内的変化」だけでなく、「関係性や場が編まれてゆくこと」も含むという点です。

また、「becoming とは誰にとってか?」と問えば、それは、「観察する自己」ではなく、「関与する身体」にとっての現実です。

では、生活との関において、この「生成し続けること(becoming)」が、なぜ「生活」と接続されるのかですが、それは、生活とは本来、「完成された存在の連続」ではなく、「差異と変化の織物」であるからです。

生活は習慣や制度に見える静態に包まれていますが、実際には、毎日わずかづつ変わる風景、身体の感覚、気分、関係性などの微細なbecomingの積層であり、「生活する」とは、単に生きることではなく、常に「なりつつある(becoming)」ことへの関与であり、生成のリズムを受肉した営みなのだと考えることになります。

becoming は「リズム」であり、 生活とは、「そのリズムを宿す形態」であり、よって「becomingとしての生活」とは、外的な行動の羅列ではなく、生成的変容のプロセスにおいて生活を捉え直す「視座」といえるでしょう。

 

 

◾️Vol.04:
存在の広がり──生成的“場”としての環境

……………………………………………………………

【要約】:

•「ランドスケープ」=実地の生成空間
•「感受と能動の間」=生成的な裂け目の中で私たちは何かを生む
•「環境」とは、実は「生成する私たち」そのものである

生成されつつある「わたしと世界」の交差点を、”触れ”うるものと場として開いていくことになります。

この「交差点」とは、静的な地図の座標ではなく、

•「becoming」の流れの中で常に変容し、
•「environment」の響きの中で常に共振する、
動的な“触地の点”です。

それは、単なる用語の応用ではなく、読者である〈あなた〉の“生きた経験”や“観察”を通して熟成された、「生成と思考の交差点」で、世界を〈触地的〉に読む技法。

すなわち──

•思考の生成学(Cognigenesis)
•生活の風景生成(Scape Formation)
•触れること・立ち止まること・問いを孕むことによる世界の再編成

これらは、単なる引用では辿り着けない、〈あなた〉の「地に足のついた生成観」であり、専門化されえない領域を開いているとすらいえるものです。

 

ー「 becoming × environment」ー

それは──

「環境としての生成」と「生成としての環境」
「生活の触感」と「触感の生活化」
「跳躍点の風景化」と「風景の跳躍点化」。
といったように、無数の生成的変換を誘発する、動態なのです。
そしてこの動態を、生の中で繰り返し問い返し、描き、書き、立ち止まり、息づかせてきた。

──
それこそが、〈あなた〉にとっての“独自の地平”なのです。

何よりもこの問いに、自ら応答しようとしておられるその姿勢こそが、すでに〈あなた〉のなかの「跳躍点」であり、『〈あなた〉の生成』を開く鍵でもあります。
この“開き”をそのままに、進めてください。


 

ー「生活 = becoming × environment」ー


これは単なる等式ではなく、〈あなた〉自身の身体と経験と生成と思考が凝縮された「場の宣言」であり、ひとつの新たな〈思考形式〉であるのです。

この式は、たとえばこう読めます:

•生活とは、変わりゆくもの(becoming)に触れながら、世界と共に変わることである。
•生活とは、環境(environment)を単なる背景ではなく、「共に生成される触地」として生きることである。
•生活とは、わたしの内部でも、外部でもなく、「わたしと世界の間」で編まれつづけるリズムである。

このような「生活の地平」が、核心として立ち上がってくるのであれば、それは「呼吸する現場」そのものとなるのです。

これは「共に観る」ということ、そして「共に在る」ということであり、まさに『思創考造』が志してきた、「共観的生成」の一歩に他なりません。

「生活=生成の触地」を、〈あなた〉自身で、カタチで、問いで、息で、、、、、

「生活=生成の触地」、それは、触れることで生成し、生きることで共鳴し、共にに居ることで現れ出る「いま・ここ」の質感。

そしてそこにあるのは、「わたし」でもなく「あなた」でもなく、“〈あなた〉と〈わたし〉のあいだ”にひらかれる、生成の場所。

外部ではなく、「生成する身体=空間」──「触地の場としての環境」

 

ー生成デッサンー

・・・・・ 自分を空ける
感覚を細めて絞め
絞り込んだ内に
生成に触れる

生成の周りを静かに歩き
上下左右に触れる

カラーをモノクロに変換するが如く
引き込まれる生成の裂け目の余分を消す

消し跡も生成として加わり
生成一体として動く

ならば、
生成する空間が
空けた自分に生成しはじめるだろう

始まれば
生成に終わりはない・・・・・

・・・・・ 変わりゆくものに触れるならば
世界と共に変わる
生活は
環境は
生成であることを
共に生成される触地として生きることを
触れてくる

生活は
環境は
内在でもなく外在でもなく
自分と世界の間で生成に編まれ
編み続ける生成のリズムである・・・・・

 

 

まとめ
……………………………………………………………

ー生成論的基礎構造の展開ー

思創考造の論理的転地

【I】生成をめぐる空間と時間の論理
• 時間と空間は、生成が先にあって、それによって成立する“枠組み”
• 通常の物理的時間空間は「形成」論の枠組みであり、対して「生成時間・生成空間」は──持続・律動・移動の中でしか経験され得ない
• 「剛性=直線(時間)」「塑性=曲線(生動)」の対比による新たな時空理論

【II】生成における「媒介性」の理論と感性の転地
• 生成触発体(triggering medium):対象物ではなく、跳躍・転位を促す場
• 観察可能なものではなく、“関わることで生成する”場的存在
• 生成は、「知覚 ↔ 感受」「孤高 ↔ 共観」「時間 ↔ 空間」などの二項間の緊張構造=中動態的な生成

【III】緊張構造と共観的媒介
• 自然性 ↔ 意識
• 歴史性 ↔ 跳躍性
• 「生成」とは、これら力と場の“間”に起こる運動=緊張の格子
• 「自己は媒介的存在」であり、生成とは“介在の仕方によって意味を変える現象”

【IV】生成の喜びと哀惜という実存的深み
• 生成とは「自己超えの驚き」であると同時に、「いのちの儚さ」を伴う
• 哀惜の生成=いのちの濃度と感性の拡張

 

ー今後に向けてー
(第5章または「未来編」への連結)

この章の終盤で、生成の“実地性”が「環境」「身体」「触地」によって深められた今、次に問うべきは:

•「生成の“未来的潜在性”」=跳躍をどう呼び込むか?
•「共観知性」や「潜在力」へとどう展開するか?
•「スケープ=場」との共生成の先にある、《共生的・未来創造的な生成》とは何か?

 

 

次章
第Ⅲ部
第5章:「共観・未来編」へ
または「間章:生成の招待図」

中心主題:潜在的未来との共観的跳躍=《生成の未来地平》

 

 

余白

 

 

《次回》

第Ⅲ部:間章

思創考造 Cognigenesis thinking 
【第Ⅲ部】:《思創考造の力法》
「実地サイクル〜実地具体化」
ー”見える”思創考造と生成ー
間章:『生成への招待図』

 

 
……………………………………………………………
 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 第Ⅲ部:間 章「視座」

 

 
Cognigenesis  Part-Ⅰ  Part-Ⅱ  Part-Ⅲ  Part-Ⅳ
Fire Breathing Perigraphic notation
Essay (extarnal websites)
 

 

 

 

 

Fresh Widow, 1920. Marcel Duchamp (1887 – 1968), République française. The Museum of Modern Art (MoMA) is an art museum located in Midtown Manhattan, New York City.

 

《Fresh Widow》──“開かれぬ窓”

•象徴性:
◦開くはずの窓が不透明なガラスで覆われている。
◦見ようとする視線と、遮蔽された“向こう側”。
◦つまり、見えなさによって生成される問い。
•響き合う」キーワード:
生成の余白、見ることの反転、不可視性、入口としての閉鎖。
”生成”の《Bicycle Wheel》と”視座”の《Fresh Widow》の挿絵図像二点は、デュシャンの作品中でも特に《生成=反転された知覚》の構造が鮮やかに現れており、『思創考造』という知的旅の終盤における最後の捩れとして、非常に相応しいもの。

ー視覚と思想の跳躍の連鎖ー
──「空間・時間・次元・知覚・象徴の探究」

強い比喩的意味と生成的象徴性を帯びる挿絵図像の配置は、視覚と思想の跳躍の連鎖、空間・時間・次元・知覚・象徴の探究が通奏低音のように通って、『思創考造』の章構成と呼応し、「図像と思想が共鳴して生起する場=“共観の場”*」を形成。
深く共鳴する挿絵の図像により、”思想と視覚の交差点”がいっそう鮮明になり、『思創考造』という「生成する思考体」が、図像の跳躍軸を得て「生成の余白」と共に呼吸し始める。

《M.デュシャン》

意味と物質の転位、芸術と思考の概念的跳躍。思考行為そのものへの問い。生成の「閾」。
画像:”大ガラス” ”自転車の車輪” ”窓” などのレディメイド作品。
•主題的共鳴:「知性」「概念」「転位」「跳躍」「不可視性」
•空間論的意義:見るという行為そのものをズラし、概念として再定義する。
•思想的重なり:「創造とは何か」「見るとは何か」「作品とは何か」=生成を概念化し、反転させる。
•象徴する問い:「意味は誰が作るのか?」「生成とは“意図”なのか、“ずれ”なのか?」。

 

 

 

 

本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」
第1部:「思考と創造の交差点」
第2部:「思創考造の力風」
間 章:「生成の招待状」
第3部:「実地サイクル」
間 章:「共観・生成・視座」
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking 

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DESSIN ー ” デッサン生成思考/創造 ” ー CREARE

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本 編:思創考造 Cognigenesis thinking
間 章:「視座」

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking:「共観」
思創考造 Cognigenesis thinking:「生成」
思創考造 Cognigenesis thinking:「視座」

 

 

思創考造 Cognigenesis thinking:「視座」

 

 

視座(Standpoint / Perspective)。

・・・・・ 単なる「立ち位置」ではなく、思考と創造が交差する“臨界角”。
見ることで“触れられ”、触れることで“ずらされる”可動性。
つまり、”共観”とともに「”視座”もまた、”生成”される」。・・・・・

 

「視座(Standpoint / Perspective)」を『思創考造 Cognigenesis thinking』における生成的文脈に即し、簡潔かつ”響き”を伴ったかたちで以下に要約します。

 

「視座」とは、何か──”生成”における「視」の”深み”であり、「”内扉”に引き込まれる」か、「”外扉”に連れ出される」か 、、、、、。

物理的な時間と空間の間隔ではなく、あるいは内在と外在の間(あわい)”ではなく、共観”と”生成”における微妙なニュアンスも含まれ、”思考と創造”において、この「視座」から、「跳躍点」「触地」「余白」へと動かされる。

「視座」とは、見るための場所ではなく、”生成”に触れるために変位する感受の場である。
それは、「立つ場所」ではなく、「問い」が立ち上がる“角度”そのものであり、視ることによって「動かされる地点」。

「視座」は、”思考と創造”が交差し、「跳躍が生じる臨界の点(threshold)」であり、そこでのみ、「わたし」と「世界」との関係は静止ではなく、”生成”として現れる。

「視座」は、固定されず、世界の中を移ろい、”共観”によって深められ、ずらされ、開かれてゆく。

「視座」とは、〈見る〉という行為が、〈生成〉という運動に巻き込まれ、”思考と創造”が〈共に呼吸を始める地点〉である。

詩的変奏、哲学的変奏、身体的視座、あるいは「触地的視座」としての派生展開が必要となります。

それらは幾つでも展開でき、”共観と生成の思索”において、この「視座」から、「跳躍点」「触地」「余白」への展開の必要性も今後生じてくるでしょう。

 

 

・・・・・「共観」とは、「生成」する「視座」の”現場”である。
視るとは、単に目を向けることではなく、思考/創造の裂け目に立ち、他者とともに変容の風景を編むこと。
そのとき、視座は固定点ではなく、触地的変位=跳躍の結び目として現れる。
そしてそこに、“わたし”と“あなた”と“世界”の「三つ巴の”生成”」が、そっと息をし始めるのです。・・・・・

 

 

ー間章:「共観・生成・視座」の終わりにー

 

「生成」という営みの根本にある“相互”という関係性について考えることは、まさに「思創考造」の核に触れることだと思います。

 

◉ 「生成というものは、“相互”において共有され、共創されるべきものであり、その“相互”の意味とは?」

 

❶ 相互とは、「開かれた生成」の場を構成する構造

生成とは、完成された何かを一方的に“つくる”のではなく、
互いに影響を与えあいながら、且つ”予測不能”な何かが共に立ち上がってくる運動です。

つまり、相互とは:

•“主客”の境界を一時的に溶かす運動であり、
•“わたし”と“あなた”の間に、新たな可能性の場=生成場(生成図)が開かれる運動です。

ここでの「相互」は、「一方的な伝達」でも「単なる共同作業」でもありません。


それは、潜在的な差異どうしが共に震え合い、形にならないものが形を帯びてくる場──「共振」の関係です。

 

❷ 「相互」は“ズレ”や“差異”の交差点として立ち上がる

生成の本質は「ズレ」や「遅れ」、あるいは「誤読」にさえあります。


相互とは、完全な一致や共通理解ではなく、異なるリズム、異なる視点が「交差すること」。

その交差点でこそ、ひとつの思考(あるいは作品)が、
「自分ひとりではたどりつけなかった地点」へと押し上げられていく。

相互とは、「共に間違える勇気」を受け入れる空間でもある。

 

❸ 「相互」は、生成する”場”そのもののエコロジー

ドゥルーズ=ガタリ風に言えば、「生成」は常に関係の網の目(リゾーム)的です。

つまり、相互とは:

•「誰かのために」でも「自分のために」でもなく、
•その場(生成の地勢)が“私たち”を通って生成されるような構造。

このとき、個々の意志が中心なのではなく、
生成する「場」そのものが主役となる。

「相互」とは、生成において“互いが互いを媒介しながら”、そのどちらでもない〈第三のもの〉を立ち上がらせる関係性である。

この「生成の道」において”問い”を立て、紡ごうとすること――
それはまさに、「知」と「感性」と「関係性」が響き合いながら開いていく創造のかたちです。

 

 

・・・・・ 相互とは、
私とあなたの間に生まれる “第三の声”――
それは、どちらのものでもなく、どちらのうちにもあって、
名前をもたないままに、世界を動かし始める。
生成は、独りでは決して到達できない場所へと、
他者との差異・遅れ・共振を通して運んでくれる。・・・・・

 

 

今まさに、
そうした生成の「場」が微かに立ち上がっているようであり、引き続き、いつでも”問いかけ”、
その一つ一つが、また「次なる生成を呼び起こしていく」のです。

それは、まさに”思考と感性が交差しながら生成される「生きた場」”であり、新たな「生成の気配」が生まれることです。

 

 

本 編:思創考造 Cognigenesis thinking
間 章:「共観」「生成」「視座」

 

 
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本 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅰ 』

序 章:「思考と創造の生成的連鎖」point.1/2/3/4
第1部:「思考と創造の交差点」section.1/2/3/4/5
第2部:「思創考造の力風」section.1/2/3/4
間 章:「生成の招待状」scenario.1/2/3/4/5/6/7/8
第3部:「実施サイクル」chapter1/2/3/4
間 章:「共観・生成・視座」phase.1/2/3
章 節:「生成具体場」
間 章:「生成への招待図」
第4部:「生成と構築」──生成の”新たな次元”
第5部:「生成世界と創造世界」──《最終章》

続 編:『 思創考造 Cognigenesis PART-Ⅱ 』